村山富市君の故議員小渕恵三君に対する追悼演説
○議長(伊藤宗一郎君) お諮りいたします。
議員小渕恵三君は、去る十四日逝去されました。まことに哀悼痛惜の至りにたえません。
つきましては、小渕恵三君に対し、弔詞を贈呈いたしたいと存じます。弔詞は議長に一任されたいと存じます。これに御異議ありませんか。
- 〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
○議長(伊藤宗一郎君) 御異議なしと認めます。よって、そのとおり決まりました。
弔詞を朗読いたします。
- 〔総員起立〕
- 前内閣総理大臣自由民主党総裁衆議院議員正二位大勲位小渕恵三君は 多年憲政のために尽力し特に院議をもってその功労を表彰され しばしば国務大臣の任につき 内閣総理大臣の重責をにない変革期の多難な国政を統理されました
- 君は 終始経済の再生に心魂を傾け 世界の平和と安定に力をいたし 国民生活の充実と我が国の国際社会における地位向上に貢献されました その功績はまことに偉大であります
- 衆議院は君の長逝を哀悼しつつしんで弔詞をささげます
この弔詞の贈呈方は議長において取り計らいます。
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- 故議員小渕恵三君に対する追悼演説
○議長(伊藤宗一郎君) この際、弔意を表するため、村山富市君から発言を求められております。これを許します。村山富市君。
- 〔村山富市君登壇〕
○村山富市君 ただいま議長から御報告のありましたとおり、本院議員、前内閣総理大臣小渕恵三君は、去る五月十四日、順天堂大学附属順天堂医院において逝去されました。
君は、去る四月一日、与党党首会談の後、突然体調の不良を訴えられ、そのまま順天堂医院に緊急入院し、御家族を初め医師団一体となった看護もむなしく、全国民の回復への願いもかなわず、六十二歳という若さでその生涯を閉じ、不帰の客となられました。
君を失ったことは、本院にとっても、我が国にとっても惜しみて余りある痛恨のきわみであります。
君の御遺体が御自宅に向かう途中、国会や自由民主党本部、首相官邸前を通り抜けたとき、永田町はにわかに激しい雷雨に襲われました。道半ばにして倒れた君を思うとき、雷鳴は君の悲痛の叫びであり、驟雨は君の無念の涙であったと思えてなりません。君の不運への天の深い慟哭でもあったのでありましょう。
ここに、私は、皆様の御同意をいただき、議員一同を代表し、ありし日の君の面影をしのび、謹んで哀悼の意を表し、追悼の言葉を申し述べたいと存じます。(拍手)
小渕恵三君は、昭和十二年六月、群馬県吾妻郡中之条町において、製糸業を営み、その後衆議院議員となられた父光平氏と母ちよさんの次男として呱々の声を上げられました。地元の中之条の小中学校、そして学習院中等科を経て、都立北高校卒業後、昭和三十三年に早稲田大学文学部英文学科に入学を果たされました。
ちょうどこの年、五月の総選挙で、父光平氏が昭和二十四年以来六年ぶりに返り咲きを果たし、小渕家は当選と入学という二重の喜びに包まれたのであります。
しかし、その喜びもつかの間、父君が卒然と世を去られたのであります。享年五十四歳、再選を果たしてわずか三カ月のことでありました。徒手空拳で身を起こし、政治家としてもまさにこれからというときでありました。
父君の突然の死に直面した悲しみの中から、「この時の父の気持ちを思うと、政治家になって父の無念を晴らし、父を当選させてくれた地元に恩返しをしなければ」と、君は、父君の志を継ぐべく政治家への道を決意したのであります。
大学では、政治を志す者として雄弁会に入り、議員の激務に備えて合気道とボディービルを習い、書や詩吟をたしなみ、多忙な学生生活を送る一方、昭和三十四年には、地元に吾妻青年政治研究会を設立、中之条町の青年を集め、ともに政治を語り、地域とのきずなを深めてまいりました。
昭和三十七年、大学卒業後、さらに政治の勉強を続けるため、大学院政治学研究科に進学をされました。そして、大学院在学中、「これからの政治家は世界を知らなくてはだめだ」との思いから、三十八年一月、単身、トランク一つで旅に出たのであります。当時、まだ米国の統治下にあった沖縄を皮切りに、何と三十八カ国を訪れたのであります。
この旅行のハイライトは、ワシントンでロバート・ケネディ司法長官との面会を果たしたことであります。一介の学生に快く会ってくれたことに感激し、「分け隔てなく多くの人に会わなければ」と、生涯を通じた庶民派小渕の原点となったのであります。
待ち望んだ衆議院の解散はその年の十月、総選挙は十一月二十一日と決まり、君は、福田、中曽根元総理、社会党の現職二人という強豪を相手に群馬三区から立候補し、激しい選挙戦を戦い抜いて、二十六歳の最年少で見事に初陣を飾ったのであります。憲政史上にもまれな学生代議士の誕生でもありました。(拍手)
こうして本院に議席を得られた君は、有権者のかたい支持と信頼を得て、当選すること連続十二回、実に在職三十六年九カ月に及び、本院にあっては、大蔵委員長、安全保障特別委員長、予算委員長を歴任し、自由民主党にあっては、青年部長、国会対策副委員長、幹事長、副総裁の要職につかれ、議会や党の政策立案と運営に多大な尽力をされたのであります。
また、内閣にあっては、昭和五十四年十一月には大平内閣の総理府総務長官・沖縄開発庁長官として初入閣を果たされました。時に小渕恵三、四十二歳の若さでありました。
さらに、昭和六十二年十一月、竹下内閣が発足するや官房長官に就任。君は、持ち前の気配りと人柄のよさで、与野党問わず、陳情や要望に耳を傾け、「千客万来」、「開かれた官邸」を目指す総理の期待に見事にこたえたのであります。
竹下内閣に課せられた最大の課題であった税制改革、消費税の導入に尽力するとともに、竹下総理の政治哲学でもあるふるさと創生に腐心され、政府関係機関の地方移転が実現をしたのも大きな功績でありました。
また、昭和と平成の橋渡しという歴史的な大役を果たされました。
昭和天皇の崩御に対する深い悲しみと新しい時代に向けた期待感が混在する中で、官房長官として、「新しい元号は平成であります」と発表されたときの映像は、すべての国民の記憶に深く刻み込まれております。
君は、「平成長官」、「平成のおじさん」と親愛を込めた愛称で、国民から親しまれてきました。この橋渡しが、次代を担う政治家として、小渕恵三君を国民に深くアピールする契機となったのであります。
その後、橋本内閣において外務大臣に就任され、今までの積極的議員外交の集大成として、みずから各国との友好関係の樹立に多大な功績を残されました。
中でも、対人地雷全面禁止条約の締結に当たっては、アメリカなどの強い反対と官僚の抵抗にもかかわらず、外務大臣としてのリーダーシップを発揮され、この条約に敢然と署名をされ、我が国の平和への強い決意を世界に示すことができたのであります。(拍手)
このことは、平和を何よりも愛し、人類愛に燃えた政治家小渕恵三君の特筆すべき決断でありました。
そして、平成十年七月三十日、橋本政権を引き継ぎ、第八十四代内閣総理大臣の重責を担うことになったのであります。
君は、総理としての初の所信表明演説で、「我が国の直面する重大な事態を直視するとき、今日の勇気なくして明日の我が身はないとの感を強くいたしております。全身全霊を打ち込んで国政に取り組んでまいります」と決意を述べられました。
時あたかも、日本経済は深刻な不況に見舞われ、金融システムも不安に覆われ、他方で、多額の累積債務を抱えて、経済の再建か財政の立て直しか、厳しい選択を迫られておりました。
君は、まず、喫緊の課題として経済再生を旗印に掲げ、二兎を追う者は一兎をも得ずと、終始一貫揺るぎない信念を持って、経済再建に心血を注がれたのであります。
また、中央省庁改革、地方分権、情報公開、北方領土問題の解決を含む日ロ平和条約交渉の促進など、内外に山積する政治課題にも果敢に取り組んでこられました。
さらには、二十一世紀の日本のあるべき姿を見据えつつ、輝ける未来の人材を育てるための教育立国、科学技術分野で日本が重要な位置を占めるための科学技術立国の実現に心を砕かれました。
さらに、業績の中で特筆すべきは、我が国でサミットを開くに当たって、開催地を沖縄に決めたことであります。
サミットを無難にこなすためなら、開催地は東京でも大阪、京都でもよかった。むしろ、東京から遠く離れ、今なお生活・産業基盤の整備がおくれている沖縄は避けるべきだという意見も当然あったはずです。ところが、君は毅然として、サミットの開催地を酷暑の沖縄に決断したのであります。
思えば、この沖縄サミットに、君の政治家としての誠実さが象徴的にあらわれています。君は、学生時代から何度も沖縄に足を運び、本土防衛のために二十三万人が犠牲となり、戦後は、アメリカの施政権のもとに、本土から切り離され、苦しい中で本土復帰を訴えた姿を目の当たりにして、沖縄への思いを心に刻みつけたと聞いています。
革新が、日米安保反対、沖縄の本土復帰を訴えて大規模なデモを組織した一九六〇年前後、君は保守の側で沖縄文化協会をつくり、沖縄問題への取り組みを始めていたのであります。
サミット開催に当たって無難を大事にするなら、若いころからの思いに目をつぶることでした。だが、やすきにつくため信念をあいまいにし沖縄の人々の痛みを無視することは、君には到底できない相談でした。だから、困難を承知で、あえて沖縄サミットに踏み切ったのです。その熱い思いが沖縄の人々をどれほど勇気づけているかは、立場こそ違え、長年沖縄問題に取り組んできた私には痛いほどわかります。(拍手)
七月二十一日から二十三日にかけて沖縄を訪れる先進国の首脳たちは、亜熱帯の美しい海、高い空、濃い緑、それに豊かな文化と人々の優しい人情に目をみはることでしょう。多くのマスコミが沖縄を全世界に報道することで、工業国の印象が強い日本が実は多様な歴史と文化を持った国であることを、改めて認識し直すに違いありません。そして、あの美しい沖縄で苛烈な戦いがあった歴史に思いをはせるとき、世界の平和に重要な責任を有している先進国の首脳たちは、平和のたっとさを改めて心に刻むはずです。
君は、早稲田大学雄弁会に属していたが、決して多弁ではなかった。でも、朴訥な語りは、人々の心にしみ込む独特な説得力があった。もしも君が沖縄サミットを主催していたら、ホスト国の首相にもかかわらず、かなり控え目に沖縄を語ったことでありましょう。だが、君ならそれで十分だった。君の含羞を帯びた語りは、何物にも増して説得力を持ち、君は存在そのものが雄弁だった。そんな君の姿を見ながら、多くの国民は沖縄の痛みを改めて自分の痛みと感じたに違いない。
今となってはかなわぬ夢となってしまいましたが、沖縄に集まる首脳たちの輪の真ん中に、どうしても君にいてほしかった。この沖縄サミットだけは君の手で完結させてほしかった。それが、悔やんでも悔やみ切れない思いとなって、私の心に大きなひっかかりとなっているのです。(拍手)
今日、二十一世紀を目前に控え、我が国は、急速な少子高齢化、情報化、国際化が進展する中で、大きな変革期に直面しています。君は、「この国のあるべき姿として、経済的な繁栄にとどまらず、国際社会の中で信頼されるような国、いわば富国有徳国家を目指すべきものと考えており、その先頭に立って死力を尽くしてまいりたい」と、その理念を熱っぽく語っておられました。政府・与党の最高指導者として、全身全霊を込めて国内外の重要課題の解決に当たってこられたことは、私ども同僚議員はもとより、全国民のひとしく認めるところであります。(拍手)
思えば、この一年八カ月、座右の銘とした「一日一生涯」をそのままに、国家国民に対する旺盛な責任感、厳しい自制と献身の姿を貫き続けてこられたのでありました。
君は、若いころから人一倍の読書家で、ある雑誌の対談の中で、政治家になっていなかったら太宰治の研究家になっていたかもしれないと語っていました。
また、休日には、御家族とともに音楽に耳を傾け、時には美術館にも足を運ばれたようでございます。政治家小渕恵三という人間の持つ味わいや深さは、こうした文化、芸術に対する深い造詣があったからだと思います。
君は、寅さん映画が大好きで、ファンクラブ第一号を自慢し、最愛の千鶴子夫人と一緒によく見に行かれたと聞いております。若いころ、世界を旅しながら、四百通にも達するラブレターで結ばれた君の愛妻ぶりは広く知られ、昨年四月、総理就任後初めての結婚記念日には、公務の合間を縫って、御夫妻で食事と映画鑑賞を楽しまれたとのことであります。
また、イラストレーターとして活躍されている長女暁子さんの晴れの個展では、作品を忘れて、娘は大変かわいい、掌中の玉だよと目を細め、また、外遊の際には、次女の優子さんを常に傍らに置いていました。
各界のすてきなお父さんに贈られるベスト・ファーザー賞を受賞したのも、そうした家族を大事にする姿が評価されたものだと思います。
このような君の人間味あふれる一面を知るにつけ、改めて強い感銘を覚えるのであります。(拍手)
人は君を、「人柄の小渕」、「気配りの小渕」と呼びましたが、私が総理在任中も、家内の体の弱いことを心配され、奥様がお見立てのカーディガンをわざわざお持ちくださったことがありました。そのときのさりげないお心遣いは、そのカーディガンの暖かい手ざわりとともに、今でも私と妻の心に感動として残っております。(拍手)
人の立場に立って、人の苦労や気持ちを思いやることのできる、まさに配慮の人でありました。
昭和三十八年の初当選以来、福田、中曽根元総理らと議席を争った厳しい選挙区環境がつくり出した庶民的な「人柄の小渕」は、総理になってからも何ら変わることはありませんでした。
昨年、ブッチホンという流行語大賞に選ばれたほど、常に市井の声に耳を傾け、国民と同じ目線で物事を見る屈託のない姿勢は、国民の共感するところでございました。
君がよく愛唱した高村光太郎の
- 牛は随分強情だ
- けれどもむやみとは争はない
- 争はなければならない時しか争はない
- ふだんはすべてをただ聞いてゐる
- そして自分の仕事をしてゐる
- 生命をくだいて力を出す
君の人生はまさにこの詩のごとくでありました。
君の人柄について語るとき、いつも謙虚であろうとした君の姿勢について触れないわけにはいきません。
みずからが凡人であることを片時も忘れないよう心がけておられました。それは、口に出せば簡単ですが、凡人にはなかなかできないことであります。いかなる地位にあっても偉ぶらず、常に謙虚で目線を低く生きる、そして凡人だから懸命に努力する、そうした姿勢が凡庸に見えて非凡という境地を開かれたのであります。(拍手)
その牛にも似た、地道で人知れぬ努力があったからこそ、一国の指導者にまで上り詰めたのでありましょう。
もはやこの議場に君の温容を目にすることはできません。耳を澄ませば、今も、力強い中にも優しさのこもった声が聞こえてくるではありませんか。
小渕君、君に課せられた宰相という厳しい重責は、君に一刻の休息も許しませんでした。本当に御苦労さまでした。
激動の時代に当たり、日本の進路について新たな選択と対応が迫られているこのとき、君のような、将来を見据え、信念を持って進む政治家がこの世を去られたことに、私は今言葉では言い尽くせない深い深い悲しさと寂しさを覚えるものであります。
また、何とか意識を取り戻してほしいと、かわるがわる声をかけ、手足をさすりながら懸命に励まし続けた御家族の心情をお察しするとき、一層の痛惜の念を禁じ得ないのであります。
小渕君、願わくは、この国の未来に明るさと希望を与え、世界の将来に平和と繁栄を築かんがために呻吟しながら努力する我々を、そして最愛の御家族を、温かく励まし、見守ってください。
ここに、ありし日の小渕恵三君の面影をしのぶとともに、その御功績をたたえ、心から御冥福をお祈りいたしまして、追悼の言葉といたします。(拍手)
外部リンク
[編集]- 平成12年5月30日 衆議院本会議 会議録 - 国会会議録検索システム
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