春日山日記
【 NDLJP:12】春日山日記 巻之一
松下宣近義撰
【長尾為景武勇并先祖の事】 一、伝に曰、長尾六郎平為景入道道七は、北越後州の国主たり。此為景、遠祖をくはしくたづぬれば、鎌倉の権五郎景政五代の後胤、梶原平蔵景時が孫葉なり。代々武勇を以て、越後国に住城す。然るに、為景に至つて、博学秀才にして七道に達す。故に入道して、道七と号すと云へり。就中敷島の道に長じて、しば〳〵褒貶の詠歌を詠作せり。或時、百首の和歌を詠じて、之を禁裡に奉る。其巻頭の歌に云く、【為景詠歌の事】
蒼海のありとは知らで稲苗代の水の底にも蛙鳴くなり
とあり。況んや武道に於ては、其兵を用ふる術、孫・呉にも優るべし。誠に文武兼備したる良将なりと、世以て、之を称歎せずといふ事なし。
【上杉房義撃取の事附管領顕定越後発向并高梨摂津守顕定討死の事】 一、永正三年丙寅、上杉房義、越中にありて、其行跡無道専にして、国政正しからず。玆に因【 NDLJP:13】り、為景、大に之を疎んじ、有道を以て無道を罰し、国民をして安住なさしむるは、文武の弓矢なりとて、軍兵を率し、雨溝といふ所にて大に合戦し、終に房義を撃つて亡せり。彼の房義は管領顕定の舎弟なり。
【為景と信州村上頼平合戦の事】
一、永世六年己巳七月廿八日、上杉民部大輔入道可淳、〈顕定剃髪して、可淳といへり。〉軍兵を率し、上州山内の館を発し、越中に出張せしめ、舎弟房義追善の為めとして、為景と一戦す。為景、一戦利なくして、越中の内、西浜といふ所に引退いて、先づ陣営を結びて、しばらく時節を窺へり。是に於て、顕定国府に入りて、房義が法政を改めて、賞罰を行はるゝと雖も、国人更に順服せず。翌年庚午の歳、国中一揆蜂起せしめ、顕定入道、之を防ぎ止むると雖も、軍術其利に能はず、竟に信越境に退いて、長森原といふ所に陣し、敗兵を集め、重ねて国府に打入らんとす。然る所に、六月廿日、高梨摂津守といふ者、軍兵を率し競ひ来る。顕定大に利を失ひ、高梨が為めに首を獲せしめらる。之に依つて、為景、時を得て大に興り、武威日々に盛にして、飛龍天にあるが如し。是に於て、越中一揆の士大将共、大略討ち従へて、其後、信州に臨む。其兵鋒比類なし。信州の猛将村上頼平としば〳〵戦つて、毎度の一戦、為景、勝利を得ずといふ事なし。彼の村上は、清和源氏の後胤として、代々、信州更科郡葛尾の城に居城して、国中に弓矢の猛威を振ふ。斯くの如き猛将も、為景の鋒先に敵対すること能はず。【為景越中国に於て討死の事】越信の諸将、怖れ
異説に云く、為景の内室不思議の夢を見らる。其夢は、年齢廿歳計りの客僧、内室の枕上に立つて云く、我に暫の間、其方胎内を借されよと、内方、夢中の返答に、如何に客僧の仰に任せ、我等胎内を借し申さん事、いと安き事なりと雖も、夫の下知を受けずしては叶ひ難しと申さるゝ。僧又云く、さあらば、為景に語られよ。為景同心に於ては、重ねて来るべしといひも果てぬに、夢は忽ち覚めたり。夙に起きて、内室、件の夢の様体を、為景に語らる。為景、夢の様を委しく聞し召されて、是只事にあらず、天の加護にて、英雄の男子を授与し給ふと覚えたり。重ねて夢の中に、彼の人来らば、同心せらるべしとて、心祝重々に沙汰せらる。扨其夜、又内室の夢ともなく現ともなく、先夜の僧、来つて枕に立寄り、過ぎし夜、約しける事、為景に語られけるやといひし程に、内室返答に、夫に語り聞かせし所に、いと易き御事なり。扨々御僧は何方より来り給ふと、問はれければ、僧打笑つて、我は伊豆箱根の者なりといひも果てず、内室の左の懐中に入ると感じて、則ち夢は覚めけり。それより程なく懐妊ありて、享禄三年庚子、男子誕生あり。是則ち景虎なり。此事、世間普く隠れなく、世以て箱根大権現の化身なりといひ訇りけるといへり。
【景虎八歳にて越後国米山蟄居せしむ事】 一、天文六年丁酉、景虎八歳にして、弥〻老臣の諫をも用ひられず、強暴にして気随なり。是に因つて大臣等に拒み出されて、関の山に移り居れり。時に先づ米山の虚空蔵を拝して、山上より山下を見おろして曰く、我れ再び国に帰つて、逆臣共討亡すべき時、陣を設くるの地、必ず此山にあらんといへり。相従ふ者、舌を振ひて胆を消すといへり。
一、同七年、景虎九歳にして、大臣等を欺き謀つて、遂に国に帰る事を得たり。
【景虎十三歳本国を出て諸軍修行の事】
一、同十一年壬寅、景虎十三歳、天性発明、勇強人に超越せり。故に父の早く歿して、大臣逆心を
【越前朝倉に於て義景老臣を使とし景虎を旅館に饗応して献酬の礼をなす事】 一、抑〻彼の朝倉は、元来斯波武衛の臣下なり。彼の武衛と号するは、足利尾張守高経の末男治部大輔義将、義詮将軍の執権として、其の家号を斯波といひ、其子孫相続ぎて左右兵衛督を兼任して、室町家柳営三管領の其一なり。越前・尾張を知行して、代々、兵衛督に任ずる故、世人、武衛と号す。然るに、武衛代々の後、家運傾きける時節、斯波長臣甲斐某といふ者、逆心を企て、其主武衛を撃つて越前を領す。朝倉孝景、又義兵を挙げて、逆臣甲斐を討殺す。之より自然と、越前国、朝倉が領国となれり。尾張国をば、織田何某押領す。此織田と朝倉・【 NDLJP:16】甲斐、斯波の三臣なり。異朝の昔、音の三臣、其国を簒ひ主君を追倒し、一国を三つに割つて、三人して守護しけるに異ならず。これより斯波は、先祖の社稷を失ひ、子孫所々に漂泊すといへり。然して孝景、勢ひ強大になり、左衛門督に任じ、剰へ公方の御相伴に加はり、都鄙に威を逞しくす。今の義景は其子なり。相続ぎて越前国を領し、光源院殿義輝公より、御諱を給はつて義景と号し、網代の興に乗る事を免され、其威勢、父に倍せり。然るに、途中に出合ひ、斯の如く景虎を馳走し、其上盃迄望む事、此人の器量如何様、直人にあらず。行末は必ず名将たるべしと思惟せしめて、此儀に及ぶ事、景虎の度量、おして知るべし。朝倉先祖より義景に至るまで、委しき事は、彼の家の日記に見えたり。
【景虎比叡山に住居せしむ事】
一、景虎、越前を出で近江路に赴き、所々の城地共を一覧して、城州に到り、比叡山に登つて
【叡山に於て宇佐美駿河守良勝始めて君臣の約をなす事】
一、景虎、叡山に留足せらるゝ時、高良神の遠苗
【良勝先祖并家伝武経要略神武の大道噂の事】
一、武経要略にいはく、
【越後国群臣威を争ふ事附為景の舎兄愚暗にして国政よからざる事】 一、景虎出国の後、越後国には、大臣弥〻主君を蔑如して、恣に国政を執行ふと雖も、君、愚暗なれば、之を制する事能はず。之に依つて、日に増し月に盛んに、大臣威勢を争ひて、群臣和せずして殆んど危難に及ぱんとす。是に於て、群臣憤を懐き、景虎を奉迎して主君と仰ぎ、国家を治めんと欲する者亦多し。就中、忠義を存する者四五人上洛せしめ、叡山に登り、景虎に謁見し諫言していふ様は、希くば出塵の御発志を留められ、早速本国に帰りて、先祖の国を相継ぎ保たるべし。逆臣共討亡さるゝに於ては、我等共死を顧ず、無二に忠節を尽すべき旨、再三言上に及ぶ。景虎は、出国の初より斯くの如くあるべき事、明鏡に影のうつる如く見察せられしに、其慮智、少しも違ふ事なし。之に依つて、謁見する者共に対して曰く、各〻言ふ所、最も可なり。我れ国を出でしより、再び本国に帰るべき事、思ひも寄らず、釈氏の門にひたすら帰依し、亡親の御菩提を朝夕念じ、今明年の内には、当山を出で、四国・西州へ赴き、霊仏・霊社に参り、亡父の歿後、頓生菩提を回向すべき志の外、他事なき処に、其事となく当山に日数を送る内に、各〻対面し、国の事を聞くに、忽ち右の心を翻し、景正公以来代々の国家を失ひ、先祖の家名を徒に捨つるに忍びず。此上は各〻意見に任せ、我れ再び国に帰るべし。各〻是迄来り、我が帰国を願はるゝ上は、相違あるまじとは思へども、朝に替り夕に変ずるは、当世の人心なり。肉を分けたる親族・譜代相伝の郎従と雖も、頼むに足らず。然る上は、其方達、神文を我に捧げて、我れ国に帰るの後、縦ひ如何様の非義を行ふといふとも、其命に違ふべからず。少しも我がいふ言に違ふまじき旨、霊社の神文を上ぐべしと、此事同心せしむるに於ては、早速本国に帰るべしといへり。【景虎本国帰城の事】参謁の臣共、此事を聞きて、所願成就と大に悦んで、急ぎ神文を認め、事々しく神おろし申して、連判の血書を捧げ奉る。之に依つて、景虎、越後国に帰られたり。未だ十有五の年にもみたず、斯くの如く慮智ある事、後生恐るべしと、孔子の聖言、今更舌を巻くばかりなり。
【景虎十四歳の時逆臣共を誅戮せらる事】
一、天文十二年癸卯、景虎十四歳なり。駿河守を召し告げて曰く、国家を毒乱する者に於て【 NDLJP:18】は、縦ひ兄たりといふとも、追ひ出すべし。況んや一家旧臣の逆心を企つる者に於てをや。暫くも、之を誅罰せずんばあるべからずといへり。則ち前の神文を捧ぐる臣に命じて、戦兵一千余を引率して、米山に登り、虚空蔵堂の辺に陣す。逆臣等、之を聞きて軍兵を帥ゐて米山に押寄すると雖も、一戦に利を失ひて悉く敗北す。景虎の軍兵、勝に乗じて
【 NDLJP:20】【村上義清信州の領地を廃て越後に奔入る事】
一、天文十六年丁未、景虎十八歳八月廿八日、信濃国更科葛尾の城主村上義清、浪落して越後に来る。彼の義清は、村上頼平が子なり。近年甲州守護武田信虎と相戦ひ、互に其領地を削らんとす。然るに、信虎、悪逆無道にして、譜代相伝の郎従も心を放ち、板垣・逸見・一条以下の一門共も、之を恨み果つるに依つて、終に其家嫡大膳大夫晴信が為めに、国を追出されて、駿河今川家へ便り、流客となる。駿・遠・参三箇国の守護今川刑部大輔義元は、信虎が壻なり之に依つて、駿河国に於て、義元扶助して、慇懃にせらると雖も、実は義元も同意にて、内々談合せられ、此儀に及ぶといへり。義元、内心に謀計の術あるに依つてなり。然して晴信、甲斐国を押領して、父の家督を奪ふ。此時、晴信十八歳なりと雖も、其器量、当代稀有の人品なり。深き志あるに依つて、賢慮を外へ少しも出さず。成程うつ気の振に見せ、其作法不行跡にして、近国よりも之を侵し侮る様に、計略をなさしめらる。蜀劉備公、魏曹操と対談の節、当世をはかるに、其愚を示し、且つ亦、雷鳴頻りの節、食を食はれけるに、面色変じ、其持てる箸を落して、暫く迷惑せしめて、其柔弱をあらはし、曹操も大に見侮り、此人怯弱、兼ねて思ふに違へりと爪はじきして、嘲られし様に、晴信も近国の諸将を欺かん為めに、其愚悪、父に倍する形粧をなす。【甲州守護晴信父信虎を追出して家督押領并晴信度量ある事】誠に晴信の慮智深いかな。然るを、隣国の諸将、之を了簡せずして、信虎国を廃す。而して晴信柔弱不行跡、一国を守護する器量にあらず。いざ甲州を切り治めて、其地をわけて領せんとて、信州深志城主小笠原大膳大夫長時・同国木曽左馬頭義昌・同諏訪税部頼茂三人、村上と言談して、右四将、二万余の人数を以て、甲州韮崎といふ所、甲府より三里余あり。【信州小笠原村上諏訪同志して甲州韮崎に於て晴信と合戦の事】此所まで乱入す。晴信、時に六七千の人数を率し、其臣族板垣駿河守信形、次に飯富兵部大輔・甘利備前守・小山田備中守・同左兵衛佐・栗原などいへる武功の侍大将に手賦して、韮崎に於て、日中四度の合戦し、四度ながら晴信大に勝利を得、村上・木曽・諏訪・小笠原の諸将、悉く敗軍す。【右の四将連々打負け社稷を失ふ事】是より晴信の兵威、甲・信に輝き、終に小笠原が城を攻め落して、其所領を合せ、長時は国家を廃して、京都へ赴き、摂州尼ケ崎辺に徘徊墊居し、後年に奥州会津へ行きて、星野三庵といふ者に便り、竟に此所にて、病死せらるゝといひ伝へたり。是より先に、諏訪頼茂は降参しけるを、甲府に於て成敗し、高島城には板垣駿河守在城して、当郡の仕置す。高島は頼茂が居城なり。木曽も、敵対なり難き事を察し、降参しければ、其罪を宥め、信玄の妹を嫁せしめて、本領を安堵し、武田の麾下に属す。此義昌は、伊予守義仲【 NDLJP:21】朝臣の後胤にして、代々、木曽を領し、福島といふ城に居住せりといへり。然して村上義清ばかり、葛尾の城にありて猶屈せず、武田と戦はれしが、当月有無の合戦して、大に切り負け敗軍して、其領知を棄てゝ、今越後に来つて、景虎の鋒先を頼むといへり。【景虎義清対面の事】景虎、義清に対面せらるゝ所に、義清の曰く、我が父祖より以来、景虎公の父祖と、互に武威を争ふ事古し。然るに今、其恥辱を顧みず、当城に来り降参す事、別事にあらず。我れ十箇年以来、武田大膳大夫晴信と合戦を取結び、屢〻戦へども、未だ勝負を決せざるの所に、当月廿四日、上田原といふ所にして、十死一生の合戦を遂ぐる所に、我が家運、傾廃の時節到来するか。一戦勝利を得ず、諸卒悉く戦死せしむる故、居城へ帰る事能はず、直に当国へ落来る。此上は、父祖累年の旧憤を捨て給ひ、自今以後、公の恵慈を頼む。願はくは、公の武威を以て、再び更級に帰住せしめば、一生の厚恩、何事か是に如かざらんやといへり。【景虎義清問答并晴信弓矢噂の事】景虎、之を聞いて曰はく、義清の言を聞くに、憤寃推察せしむるに猶余りあり。言語に絶するのみ、然る故に、予が所存を演述して之を告ぐ。抑〻予が父為景、近国に武威を逞くすると雖、其功業、半ばに至らずして、不慮に越中に於て、流失の為め命を殞す。微運、今更歎くに余りあり。然のみにあらず、其後、逆臣ありて国家を傾けんと欲す。之に依つて、国家危き事、譬を取るに物なし。然れども、天運未だ尽きざるにや、漸く予、長となつて、五年の間に、逆臣を残らず誅戮せしむ。而して国家を保んじたもてり。此上は、亡父孝養の為めに、先づ越中を切り取り、亡魂を安んじ、夫より能登・加賀・越前を収めて、其以後、関東八州、海東七箇国を服従して、京都に上り柳営を拝し、一度、天下の権を執つて、武名を四海に顕さんと欲す。是我が素志なり。然れども、義清の心底を察するに、敢て
一、景虎、義清に向つて曰く、我れ多年、甲州に限らず、諸方に間者を遣し置き、国々の風俗・国政の善悪・軍事の勝劣を聞けり。村上殿は晴信と多年数度戦はれし事なれば、彼が戦術の法、其詳なる事を演説し給へ。委細に之を聞かんとあり。義清答へて曰く、晴信が戦術は、譬へば、漏船に乗つて風波を凌ぐが如し。戒慎んで卒爾に以て、戦を欲せずといふ。景虎、之を聞いて曰く、晴信は正兵なり。吾、是に向はんに、必ず奇兵を以て、倫強にして進み駆て【 NDLJP:22】之を討つに如くはなしといへり。
【武田晴信不義信州四将の不義と越後老臣批判の事】
一、越臣評議するに、村上を始め信州の諸将、各〻愚暗にして、弓矢の正道を知らず。何れも其家を失へり。晴信、父を追出して、不孝・不義を顕すに依つて、之を憎み撃たんと、上部には事を吐くと雖も、其内心、大に〔〈相脱カ〉〕違せり。不義を討つて、有義にて治まるといふにあらず。信州四将の心を校量するに、信虎は老功の大将故、日頃事むつかしく、甲州へ手をさす事は思も寄らず。何とぞ自国を削取られん用心の外、朝暮他事なし。是に依つて、表向は信虎を追出す事、晴信が不義古今に絶えたり。今急々に、彼の国へ討ち入り、晴信が首を斬つて、天下にとなへんといひて、内々には信虎出国を大に悦び、各〻いひ合せて、甲州を切り治めて、彼の国を四分にして、我等が有とせんと欲し、何の弁もなく、弓矢を発する故、不義に不義を重ぬる事、天の照覧に叶はず。各〻自滅して永く国家を失ふ。抑〻晴信、子として父を追出す事、人倫の上にては爪弾すべき事と雖も、不義の内に少し義あり。夫故、一旦家を再興し、弓矢の威光を後世に示さる。其仔細は、信虎、不義重畳して、家老を始め譜代相伝の郎従を自ら刃傷しぬ。其数、百人に及ぶ。しかのみならず、懐胎の女子を捕へて腹を裂き、総じて人を殺す事、恰も蠅よりも猶軽し。其上、百姓に臨時の課役をかけ、非分の事に其所帯を没収し、姪乱放逸是非に及ばず。之に依つて、新羅三郎義光以来の国家を失はんとす。然る故に、父たりと雖も、不義ならば何ぞ之を退けて、国民を安堵なさしめ、永く国家を保たざらんやとこそ、板垣・一条以下の一族、並に飯富・甘利を初め老臣と議して、駿州義元を
【景虎老臣と村上同志し密謀を議せらるゝ事】
一、景虎、群臣を召して曰く、我れ今、村上に頼まるゝ故、弓矢取る身の習、此事黙止し難し。之に依つて、亡親の追孝の為め、越中に出張し、彼の国を征伐する事を、暫く差置き、義清が所望に応ぜんと欲す。是誠に孝の道に違ひて、罪を天に獲ん事を、恐れざるにはあらずと雖も、我れ思量せしむる事あり。それとは、彼の義清事、元来智謀不足の猛将たりと雖も、強勇万人に勝れたり。若し彼をして、更級に帰住せしめ、我が前鋒となし、美濃・尾張・参河・遠江の諸将をして、我が旗本に属するならば、開国の基、爰にあらんのみ。然らば子孫の父祖に孝ある事、是より大なる者あらんやといへり。群臣、之を聞きて、
【景虎信州出陣評定并軍令条目の事】 一、景虎、老臣の面々を召集めて、合戦の評定あり。各〻其議を奉つて後、独り駿河守良勝を召して、軍謀を決定し、令を下して曰く、当十月八日・九日・十日、此三日の内、信州海野平に出陣すべし。家中の将士、其用意あるべしと相触れらる。此時、戦兵八千、雑兵此に応ず。今度始めて軍令を出せる条目に曰く、
一、他邦推行則、雖㆓山野之一宿㆒不㆑可㆑不㆑陣者也。故荷㆑糧負㆑鍋而可㆑専㆓要軍食之不㆑乏、並熟食之設㆒。雖㆑赴㆓帰陣㆒、上下共不㆑可㆑絶㆑之事。
一、入㆓敵地之中㆒、非㆑下㆑令則不㆑可㆓妄放火乱妨㆒。於㆓何地㆒亦可㆑待㆓令下㆒。採新芻牧亦同前之事。
一、行㆓逢嶮難之地㆒則暫止、立㆓前後之備㆒、令㆑作㆑道而後、可㆓推行㆒也。於㆓船渡与_㆑橋者、不㆑可㆓乱㆑列妄渡_㆑之事。
此外の法令は、皆如㆓常定㆒可㆓相守㆒者也。
【景虎出陣并信州所々放火の事附備定の事】 一、既にして十月八日に至つて、先備出陣す。九日、景虎出馬あり。十日、雑兵駄馬発足す。【 NDLJP:24】乃ち信州の境内に入りて、晴信に従服する人の領地をば、悉く放火し乱妨す。未だ武田に従服せざる人の領地は、異議なくして味方とならしめんとす。
【信州海野平に於て晴信と初て合戦の事】 一、同十九日、海野平に著陣す。諸将を集めて、軍の備立を評議し、然して後、良勝を召して密議をなし、事を決定せしむ。今度の小荷駄奉行は、本城越前守・同嫡子清七郎とに命ぜられて曰く、駄馬の備は、旗本より五六町退いて備を立て、陣気を揚ぐべしといへり。一番備は、長尾義景と土倉なり。此両人に命じて曰く、一手限の合戦は、我が家の法なり。進むとも退くとも、他列の力を借らず、相戦ふは我が家の法なり。二番備は、柿崎和泉守・直江山城守・大関飛騨守・柴田道寿・芋川播磨守・安田上総介なり。此六人に命じて曰く、先備の者共、軍を敗し畢つて後、一同に進み駆せて乱戦すべし。其時、我れ晴信が旗本に駆せ入つて、急に戦撃すべしといへり。三番備は旗本なり。甘糟近江守と上田とに命じて曰く、吾既に進み駆すとも、汝等与に進むべからず。只〻備を堅固にして、敵の進み来るを待つて、急に戦ふべしといへり。四番備は村上義清其手勢と、高梨・清野・窪田等と合せて百五十余騎、其外、梶・色部此等に命じて曰く、敵、若し横合より襲ひ来らば、汝等、奇道より之を撃つべしといへり。今度の後殿は、長尾義景に命ぜらる。義景若し討死せば、柿崎代るべし。和泉守も亦討死せば、柴田、之を勤むべしといへり。是に於て、十月十九日、卯時より人数を繰出して、巳の時に至つて矢軍始まれり。少時あつて後、先備の兵士共、鑓を提げ面も振らず、頭を傾け声を揚げて、一足も退かず、次第々々進駈る。是に因つて、敵軍戦はずして二町半余り引退きぬ。時に義景、勇み進んで大采配を上げ、馬に鞭打つて、既に之を駈破らんとする所に、景虎、之を見て良勝を召して、相伴に早々先陣に駈け行かれ、金を鳴し令を下して、人数を引取り給へり。義景、大に怒りて曰く、勝軍に臨んで引き取り給ふ事何事ぞやといふ。良勝答へて曰く、敵の前備は負色ありと雖も、後陣を見るに、備を堅固に立て固めたり。今日の合戦、黄昏に及ばずんば、勝負を決すべからず。北雲を見るに、雨を粘せり。且つ亦宵闇なり。是を以て、早く引き取つて、陣営を結ばんには如かずといふ。之に依つて、義景怒気を止めて、後殿となりて引き取れり。此合戦、午の下刻に始めて申の上刻に終つて、各〻陣営に入れり。
【晴信軍備観察して良勝諫言并人数引取り越後へ帰らるゝ事】 一、此夜、景虎、諸将を集めて評議す。義景・柿崎進み出でて曰く、明日一戦を遂げらるゝに於ては、必定、勝利を得んといふ。景虎、此事如何と駿河守に問ひ給ふ。良勝対へて曰く、つ【 NDLJP:25】らつら晴信の備立を見るに、公の勇驍にして当る所、必ず破るゝ事を知りて、専ら敗れざるの備をなして、敢て当戦せん事を欲せず。故に一旦、之を撃ち破るといふとも、全勝を得る事あるべからず。只幾度も対陣あつて、彼が守る所を失ひ、其怠る所を見て、急に撃つて、一戦にして、全勝を取るには如かずといふ。景虎、之を聞きて、尤も可なりとして、則ち同月廿三日に帰陣なり。晴信も之を慕はず、程なく甲府へ打入るといへり。
【山本勘助噂の事】 一、此時、甲州の間者来つて語て曰く、〈越後より甲州へ入れ置かるゝ忍の者なり、〉景虎公人数打入らるゝ時、甲兵、頻に之を追討せんと勇みけるを、晴信良将故、山本勘助・小幡山城守などいへる老臣に議せらるゝ処に、勘助・山城守共に、追ひ討たるゝ事然るべからず。如何様深き配立ありて、景虎、人数を引揚げらるゝと見えたり。必ず慕ふ事あるべからずと、中にも勘助、さばかりの古兵弓矢の剛者にて、景虎、奇術を用ひらるゝ事を察して、深く晴信を諫めて、此後とても、景虎と対陣あらば、容易に戦ふべからず。幾度も正兵の備をなし。景虎の備、変ずる機気を察し給ふべしと、以来迄を諫めけるといへり。良勝も、此事を聞き大に感じ、猶以て景虎へ談じける密謀ありといへり。彼の山本は、其先祖は慥に知らず。久しく駿州にありて、今川家に仕へん事を望むと雖も、義元、之を不用の者として、終に扶持し給はず。晴信、此事を聞きて八百貫の知を与へて甲州へ招き、軍術の師範とせらる。本国は参州の住人といひ伝へたり。後に剃髪して、道鬼と号す。信玄と同時に剃髪し、則ち右の法名は、信玄名づけらるゝといふ説もあり。
春日山日記 巻之二 終 【 NDLJP:26】春日山日記 巻之三【越中表発向の事附彼国弓矢評定の事】
一、天文十七年八月廿一日、越中表に発向す。是に於て、越中の諸大将、景虎、国境に入ると聞いて、各〻約盟を結んで、己々の城館に楯籠り、景虎を引入れて、四方より一同に蜂起して、之を引包みて撃たんとす。景虎、群臣を集めて評定あり。各〻申しけるは、越中国に於ては、神保・椎名大敵なり。然れば、先づ此両人が居城に押寄せて攻め取るべし。さある時は、其余は風を聞きて、皆降参を致すべしといふ。景虎の曰く、是甚だ不可なり。縦ひ、小敵なりと雖も、四方より力を合せて起る時は、吾が兵も亦、其手数を分けて、之を抑へ
【近習小士近国間者せしめらるゝ事】 一、同年十月五日、近習の者七人をして間者とす。三人は甲州に往かしめ、四人は能登・加賀に往かしむ。是に因つて、国主の政道群臣の行跡・庶民の風俗に至る迄、其善悪、月々に之を委しく註進す。
【信州出張并海野平晴信対陣の事附越中国発向の事】 一、天文十八年己酉、景虎二十歳、信州表に発向せんとす。軍評定重々あり。
一、同四月廿一日・廿二日・廿三日、段々に出陣す。五月朔日、海野平に著陣す。陣法、去年の備の如し。此事、先達て甲城へ告げ行くに依つて、晴信も甲府を発し、二万余の人数にて、景虎に対して備を設けらるゝ。之に依つて、翌日景虎、軍使を以て晴信にいふて曰く、我れ村上義清の為めに、信州に出張して、屢〻対陣すと雖も、未だ一戦の勝負を決せられず。願くは、他国の諸将に向つて、武威を振はるゝが如く、某に対しても、亦一戦を励まさるべし。我等、武勇といふ共、豈他の諸将に異ならんや。明日は是非、一戦の勝負を期す。若し然らずんば、是より越中に発向すべしといふ。然れども、必ず晴信、会戦すべしとの返答なし。故に四五日対陣ありて、夫より越中に赴けり。六七月の間、越中境に陣し、小戦して佯り【 NDLJP:27】【近国に於て誤て景虎矢弓風儀批判の事】
一、此頃世間、あやまり沙汰しける事あり。夫とは、景虎の弓矢、さしかゝる所の強みを専にし給ひ、後途の勝を構ひなく、一概に強く兵を取らるゝといへり。之れ世愚のいひなり。千法万術、敵を致して、彼に致されず、進むも退くも其時あり。されば、柔剛強弱は、和漢今古の大将、四事一体の密旨と、深く慮智ある用法なり。越中表にて、小敵に小利を与へ、無理の一戦して味方を損させず、自然と軍門に来り、
一、天文十九年庚戌、景虎廿一歳、例年の如く信州表へ進発す。戦兵七千、雑兵是に応ず。
【信州佐久郡発出の事附越中国手遣ひの事】 一、五月朔日、前備出陣す。二日、景虎出馬あり。並に駄馬・雑兵発向す。同十日、同国佐久郡に陣す。翌日挑戦して佯り退き、早々営を結んで、兵を打入れ暫く陣す。
一、同十二日、暁天に陣を払つて越中に赴き、敵の機を伺察して、六月中旬に至つて帰陣なり。
【越中国より間士城に帰て密議言上せしむる事附河田越中へ往く事】 一、同年七月、越中より間者帰り来る。言上して曰く、風聞を承るに、神保・椎名、其外の諸将、小利を得るに驕つて、相共に謂つて曰く、景虎、重ねて此表に出張せば、全く勝利を得ん事、掌を握るが如しといへり。然れども土肥・土屋・遊佐が輩は、相共に謂ふ景虎の智勇、希世の才なり。近年、当国出張の形勢を観察するに、弱に似て弱ならず、強に似て強ならず。柔弱剛強の用、是皆良将の専用とする所なり。然るに、此四事兼備する事、古今稀有の景虎の弓矢なり。早く密事を以て、此人に降参せんには如かずといふといへり。景虎、之を聞いて【 NDLJP:28】川田豊前守に命ぜられて曰く、汝、密かに越中に往きて、諸将の吾が旗下に属せんとする者あらば、堅く其約盟を結んで来るべしといへり。豊前守、命を承つて不日に越中に往きぬ。
【河田豊前守越中国より帰国彼所に様子密事申上ぐる事】 一、天文廿年辛亥、景虎廿二歳、二月中旬、越中の国より川田豊前守帰り来つて言上して曰く、土肥・土屋・遊佐以下の諸将、公の旗下に属して、二心あるべからざるの旨、堅く誓約せり。急ぎ御出馬あるに於ては、神保・椎名等も亦、降参致すべし。若し然らずんば、土肥・土屋・遊佐等に仰付けられて、之を退治あるべしといふ。此外に密事共、多く言上すといへり。
【武田晴信虎巻を秘蔵噂あるの事附宇野軍配問答の事】 一、同年三月上旬、甲斐国より間士帰りて言上して曰く、潜かに聞くに、晴信事、公に対して合戦する事を、一大事とす。故に老臣諸将、並に軍事に狎れたる者共を集めて、日夜、軍の評定ありといふ。又高野山より妙法坊心陽といふ浮屠、甲府に来つて、近習の寵臣市川七郎右衛門といふ者を頼みて、晴信に謁見して、虎の巻といふ軍配書を献ず。晴信、之を伝受して、甚だ之を秘蔵し、彼の心陽に、信州の中に於て、二箇所の領地を寄附せらるゝといふと。景虎、此事を聞いて、笑つて曰く、彼の虎の巻は、劒術の日取、方角の書なり。軍術に於て、用ふるに足らざる者なり。仍つて宇野を召して問うて曰く、汝が天官軍配書の中に、虎の巻ありや、其理は如何ん。宇野答へて曰く、虎の巻は、劒術の用たりと雖も、是亦、愚者を使ふが為めに用ひたり。事に達したる者の信用とするに足らず。総じて、天官の事、軍術に於て無益なり。良将は、時に当りて善く此を用ひ、愚将は常に是に拘はりなやめり。察せずんばあるべからずといへり。景虎、之を聞き給ひて、此理尤も善いかな。誠に蔚綾子が兵書にも、天官時日は唯人事のみといへり。今其方が返答、是同意なりと大に感ぜらるゝ。
【上杉憲政国を廃て春日山へ敗走せられ代々の家系と管領職景虎へ附譲の事】 一、同年、関東の管領上杉民部大輔憲政来つて、景虎に対面して告げて曰く、我れ積年、逆徒北条左京大夫氏康を討亡さんと欲して、屢〻合戦に及べり。然るに、家運衰廃の時至るか。今却つて、彼が為めに一戦、勝利を失ひ敗走し、居城平井を捨てゝ当城に来る。自今以後、我が姓氏と関東管領職を以て、永く貴殿に譲り、某は上野に隠居すべし。速に関東に兵を発し、逆徒氏康を退治せられ、関左八国を平治ならしめ、管領職を相続あるべしといへり。景虎対へて曰く、命ずる趣、尤も他事なし。敢て奉承せざらんや。然らば来春より、相府小田原表に兵を発せしめ、北条氏を討平げて、公の憤襟を保んずべしといへり。是に於て、北城に命じて、汝潜かに上州に往き、平井に暫く止つて、氏康が形勢を聞いて、委細に註進すべしとい【 NDLJP:29】へり。北城、承つて即ち上州に行けり。
一、抑〻上杉殿の先祖を尋ぬるに、勧修寺大納言殿庶流なり。掃部頭頼重初て上杉と号す。等持院贈左大臣殿に所縁ありて、関東に下り、初て足利殿の執権たり。是に依つて、諸人尊敬し、其威勢肩を並ぶる人なく、子孫相継ぎて武名あり。仁木・細川・高・上杉とて、尊氏公同姓の氏族、同事に世人之を貴べり。此頼重の子か孫なるべし。上杉民部大輔憲顕、あくまで武の器に長じ、越後国を領して、左馬頭基氏卿の執事として、関東はいふに及ばず佐渡・信濃・奥の二国迄、悉く此憲顕、政道を執り行へり。基氏卿も行逝し、憲顕も卒去の後、君臣共に子孫相続して、其政道、日々月々に新に盛にして、関左の徳化、京都柳営も恥ぢさせ給ふ程の事なりしに、永享年中、左馬頭持氏公、其志驕奢にして、潜かに京都を謀り叛逆の志望あり。此持氏は、基氏公四代目なり。帝都より将軍義持公御諱を授けられ、剰へ、中絶しける位に叙し、従三品に昇進せしめられ、京都の【 NDLJP:31】【越中国侍降参并彼国発向の事】 一、同年、越中の士に降参の者あり。此と密談ありて、四月三日、越中境に出馬あり。而して六月に帰国あり。
【景虎剃髪して謙信と号す】 一、天文廿一年壬子、景虎廿三歳、正月十五日、群臣を召して、是に告げて曰く、我れ剃髪の志ありといへり。各〻之を聞きて、敢て諫むる事なし。之に是て、剃髪して名を謙信と号せらるゝ。
一、謙信になり給ひて、而して後、春日山の艮に当つて、毘沙門を安置して、朝暮丹誠を抽んでて、此に祈つて曰く、我れ一度、天下の乱逆を撃ち平げて、之を一統に帰せんと欲す。若し此志、遂ぐべからずんば、只病死を給へとなり。是より魚肉を食せず。況んや女色に於ては、若年より之を犯す事なし。和漢古今共に、斯くの如き類あるべからずといへり。
【信州発兵并地蔵峠合戦の事附長尾義景噂世愚批判の事】 一、同年、信州表に発向す。陣法悉く前年の海野平の備に同じ。先備は義景、其手勢一千余、与力の兵二千有余なり。
一、斯くて同じき三月十二日、地蔵峠を越えて、武田勢に向つて以て一戦す。時に謙信、令を下して曰く、義景が勢をして、峠の半腹に退いて、武田勢を誘ひて、峠近く引寄せて、而して後、高所より落し駆るべしと、然るに義景、令を拒んで、肯て退かず。かるが故に、謙信大に怒りて、義景を捨て、峠より五六町退去して、遠く其形勢を
一、義景を捨てゝ、謙信退き給ふに付き、甲兵の評判しけるは、義景事、先年より謙信面倒に思はれ、一戦毎に、あはれ討死もあれかしと、思はるゝに依つて、此度も義景へ軍使を以て、貴方へ合戦して退かれよとて、謙信早々地蔵峠より五六町退かるゝ。義景も兼ねて謙信の胸中を察する折柄、唯今の口上、頗る心外に思ひ、若き大将に勧めらるゝに及ばず、戦にかたき事かといひ捨てゝ、三千を一手になして、無二無三に切り懸る。山本勘助、謙信助け来り給ふまじきを見切つて、信玄に此事をいひて競懸り相戦ふ。初度は義景切勝つと雖も、一概の怒を以ての一戦故、後戦に散々打負け、峠を登りに追撃に打たる。義景、三千を三手に分け、初・中・後の三戦をなさば、是程には負くまじきものをといふといへり。是曽て、愚の謂なり。【 NDLJP:32】謙信、左程義景をうしろめたく疎み用心あらば、何として一日も備を預け、過分の所領を与へ置かるべきや。勿論、謙信幼少の時分、此人の不義重々なりと雖も、元来骨肉同姓の親族なり。しかのみならず、謙信の姉を嫁せしめて、亡父の総領壻なり。旁〻以て、自余に比し難き仁体なり。天性血気盛にして、短慮の猛将たり。曽て智謀なしと雖も、さしかゝる強み、成程、所用となる事多し。此度も、謙信の下知に従はれば、何ぞ之を捨てんや。眼前に勝利なきを見ながら、勝負の是非に迷ひ、義景命を拒ぐ故、彼れ一人を救はんとて、万人をして敗走せしむるは、後途遥なる弓矢なり。百を捨てゝ千を取るは、良将の欲する所なり。縦ひ打負くるといふも、義景が勢、敵をも余多討取るべし。見苦しき負は、すまじき者なりとて、早早引退かるゝ。謙信思量の如く、勝利を失ふとは雖も、敵の者、大将数多討取り、我が従卒はさのみ討たせずして引取りたり。利あるまじき所は、兼ねて謙信積りの通りなれば、驚くに足らず。若し甲兵沙汰する如く、義景悪きとて、捨殺したらんには、其従卒に、何の不義ありて、無理に捨殺さん。義景逆罪あらば、一人の身を殺すに、恐るゝ事あるべからず。後年に、義景逆儀再発の時節、欺き殺して、彼が従卒一人も失はず。義景が子景勝をば、謙信養子となして、家督たらしむるを以て、謙信の邪念なき正法を知るべし。かくはいひつ。畢竟は義景も心底
【東上野出張の事附北城丹後守密事言上并越中国発兵の事】
一、地蔵峠合戦の翌日、亦一戦せんと欲して、駿河守と、群臣と倶に評議して曰く、昨日の合戦は、君臣和せざるが故に、
【永野信濃守太田三楽噂の事】
一、永野信濃守は在原氏にして、其先、在五中将業平朝臣より出でたりといへり。上州簑輪に居城せしめ、当国にて小幡尾張守・永野信濃守とて、随一の大名なり。武勇、人に勝れ、上杉家無二の忠臣なり。憲政不器にして、管領の任に当らず。家蓮、漸く傾きけるを歎きて、屢〻憲政に諫言すと雖も承引なく、先年、当家の侍大将数人申合せ、甲斐国を切り治め、武田晴信を討たんと、信州へ手遣の時節も、様々、諸将を制止すると雖も、愚痴無慙の面々同心なく、終に上州確氷峠にて、晴信が先手大将板垣駿河守信形に切り
一、太田三楽も、上杉殿忠臣にして、近国に名を顕したる侍大将なり。武蔵国五ケ一種領し岩槻に在城し、節々、春日山へも参勤し、流客となれる憲政に再び家を興さしめんと、朝志暮念心に懈る事なし。其忠義を感じて、謙信も甚だ以て、三楽を越後譜代同事に懇志にし給ひ、密事共議せられけるといへり。
【能登守護畠山氏へ謙信使の事】 一、同年九月下旬に、謙信使者を以て、能登国守護畠山氏に告げて曰く、予が父為景世の時は、幕下に属せらるゝ事、歴然なり。今亦、前例の如く従服せらるべきか。然らずんば、越中を退治して後、速に一戦を遂ぐべしといはる。使者帰り来つて、畠山の返答申上ぐる。謙信公の外、之を聞く者なし。
【長尾義景叛逆風説の事】 一、天文廿二年癸丑、謙信廿四歳、長尾義景、逆心を企つるの由、其風聞あり。之を糺明せしめん為めに、暫く他国への出陣を止めらる。先づ春日山の要害を修繕せらる。又奥・越・庄内・佐渡の一揆押の為めに、甘糟・大関・隅田・春日・黒金等に命じて、将たらしめて、士卒を率ゐて、三月十三日に発向す。
【将軍義輝公上使の事附上使謙信に対ひ申達せらるゝ条々の事】
一、同月、京都将軍義輝公より、一色淡路守・杉原兵庫頭両使として来り、将軍家の命を告げて曰く、相模国小田原城主北条左京大夫氏康、近年恣に武威を振ひ、押して北条氏と窃号して、管領上杉憲政を侵伐して、国を失ひて浪落の身とならしむる事、不便の至なり。且又、去る永享年中、関東管領従三位持氏、勅命に背き、然のみならず、京都将軍の下知に従はず、悪逆重畳に及ぶ故、竟に京師より之を誅戮せしむ。然るに其子孫蟄居して、古河辺にある者を取立て、己が女子を嫁せしめて、押して之を関東の公方と潜号して、仰ぎ貴むの由上聞に達す。上を蔑如にして、私意を専らにする事、無道の至、天討〔誅〕の許さゞる所なり。然れども、今之を追討する事、謙信にあらずんば、誰か克くする者あらんや。委細は、両使面上に、之を演述すべしと上意あり。謙信、之を
【謙信将軍家献上物并上使両人へ賜物の事】 一、謙信、大樹公へ献上。
御馬二疋、 越後布三百端、
両使へ贈物、
白銀五十枚、 越後布二十端宛、送与へ給ひけり。
【長尾義景叛逆決定に付き誅せしむる事】 一、同年四月中旬、長尾義景が逆心の事、弥〻発覚す。是に依つて、之を誅せんと欲して、之を召さるれども、義景、之を悟りて、虚病を称して出仕せず。即ち彼が館に押寄せて、誅せんと欲すれども、国中の騒動せん事を恐る。是に於て、謙信、深く謀略を廻らされて、義景が居館平常に好む所を問はしめらるゝに、義景、暑夏の節は、船を池水に泛べて、納涼の興を催す事を好むと、聞き給ひて、密に水練に達したる船頭を召されて、宣ふ様、汝、我が命に背いて出奔するとて、義景が館に行きて、此間、我れ義景を誅せんと欲する事を、告げ知らしめよ。然る時は、彼れ汝が反忠ある事を、大に悦んで、必ず己が船頭となすべし。其時、船底に穴を穿ちて、義景が遊水の時、池水に沈没せしむべしといへり。船頭、委細に其命を承つて、義景が館に行けり。案の如く、義景、之を悦ぶ事、謙信の謀る所の如し。折を得て、船頭、終に義景を池水に没溺して殺せり。兵を用ひ数多の人を殺して、逆臣を撃つ事は、誠になすべき事にして、良将古今共に、大に慎み給ふ所なり。謙信、彼が館に押寄せ、攻殺さるゝに於ては、味方も多く死亡すべき此所を、深く慮智ありて、彼が心を取りて、終に欺き殺して、国乱【 NDLJP:36】を鎮めらるゝ事、良に謙信の智謀深いかな。〈越後守義景溺死の事は、宇佐美駿河守良勝と、謙信謀りて殺すと云々。〉
【近習の小臣三人小田原に往かしむる事】
一、同年五月中旬より、近習の者三人をして、相州小田原に間行せしめて、其形勢を
【小田原の間士帰来り密旨言上の事附松田尾張守噂并鎌倉寺院撞鐘奇特の事】
一、同九月下旬に、小田原の間士帰りて、言上して曰く、北条家の群臣、武功ある者多しと雖も、就中、松田尾張守は、智計深遠にして、軍用の具、常に貯へて懈る事なし。其上、常に士卒を練調へて、勇進の志を励ます。故に氏康も、軍事に於ては、尾張守と諸事評議せらるゝといふ。此頃も、松田、諸方の寺より撞鐘を取寄せて、毎日、之を鋳鎔して鉄炮の玉とす。然るに、鎌倉の或小寺より、鐘を取らんと欲す。其住僧、甚だ之を歎惜すれども力及ばず。彼の僧、別を悲み、鐘を抱き涙を流して曰く、我れ年来二六時中、手を触れずといふ事なし。自今以後は、再び手を触るべからず。我れ此鐘に於ては、残念尽きずといひて、声を揚げて泣く泣く立別る。奇なるかな。此鐘、既に小田原に至つて、之を
【信州川中島表発兵乱妨放火の事附東上野出張并越中に於て椎名神保対陣迫合の事】 一、天文廿三年甲寅、謙信廿五歳、群臣を召して相議して曰く、数年信州表に発向すと雖も、未だ焼働き乱妨をせず。之を以て、信州先方の侍大将共、敢て難儀に及ばず。今度は多勢を以て、四方に分れて乱妨焼働きすべし。之をして難儀に及ばしめん。斯くの如く相謀る時は、反忠の輩出来らんか。是に於て、戦兵一万三千余、雑兵是に応ず。即ち五月廿七日、先備出陣。廿八日謙信出馬あり。廿九日、後勢雑兵発足す。六月十日、河中島清野に著陣ありて、諸勢を分散して、在々所々に放火乱妨して、同十二日、虚空蔵山に登りて、鼠宿・布下・和田を【 NDLJP:37】放火す。案の如く、先方の侍共難儀して、謙信へ心を通ずる者出で来りぬ。五日逗留ありて、同十八日に、東上野表へ出張す。又是より七月三日、越中に行きて、椎名・神保等と対陣して、少々挑戦して、八月二日に帰国せり。此度、謙信、信州表に於ては、色々密計秘術を尽さるるといへり。
【謙信重て川中島出勢并関東発馬氏康対陣の事】 一、天文廿四年乙卯、謙信廿六歳、四月五日、信州河中島に出張して、五日逗留ありて、同十日、関東表に発向して、氏康領内に入りて、数月足軽戦して、又是より越中表に出で、九月十日に帰国せらる。此年十一月に、改元あつて弘治と号す。
一、弘治二年丙辰、謙信廿七歳、四月十日、信州表に発向ありて、其より六月より三日、関東表に発向ありて、氏康と対陣して、同月十日に帰国せらる。
【謙信太田三楽先鋒とし再び関東発兵の事】 一、同年十月三日、謙信、太田三楽を先鋒として、上州表に出馬す。北条氏康、亦、出張して時時対戦す。時既に寒天に向ふ。越路の雪を恐れて、越後勢引き去れり。
【謙信信州発向の事附信玄より軍使を以て和睦の儀申越さるゝ事】
一、同三年丁巳、謙信廿八歳、四月三日、信州表に出陣あり。十二日、河中島に著陣す。六月十九日対陣す。時に信玄より、両使を以て和睦あるべき旨、告げ来る。謙信答へて曰く、我れ村上義清が為めに、累年、信州に出張すと雖も、未だ勝負を決せず、徒らに民を苦しめ兵を発するのみ。是義清が為めにする所なり。近年又、上杉憲政が為めに小田原表に出張して、北条氏康と一戦の勝負を決せんと欲す。且つ亦、亡父旧敵たるに依つて、越中表に出馬して、椎名・神保を撃つて亡さんと欲す。之を以て、用兵の疲労、
【 NDLJP:38】【謙信信州表出勢水難に依り帰国并重て同地発向信玄と百余日対陣せし事附越中に於て椎名神保和睦の事】 一、永禄元年戊午、謙信廿九歳、三月中旬、信州表に出馬あり。時に西川の渡、雪水大に漲り来つて、雑兵百六七十溺死す。是に依つて早々帰国あり。
一、同年四月二日、信州表に出張す。今回は武田信玄と和睦あるべしとの風聞あり。人民、之を聞きて甚だ大悦す。然るに其儀もなく、筑摩川の辺に、百余日陣を結んで、七月旬に及〔脱アラム〕んで帰国あり。
一、同二年己未、謙信三十歳、三月十一日、信州に出馬あつて、同廿一日に、河中島に著陣す。既にして、四月三日、直に越中表に出張ありて、椎名・神保と和睦せらる。六月九日に帰国あり。是北条氏康を退治すべきが為めなり。北条は大敵なり。大敵前にあり。小敵を事とすべからずと、思はるゝが故なり。
【関東の間牒の者帰城して彼表諸将の様子言上せしむる事】 一、同年七月上旬に、関東より間者帰り来つて、言上して曰く、関八州の諸将、大小となく、公の出馬を待つて、北条を退治すべしといはるゝ由、風聞ありといへり。謙信、聞き給ひて曰く、時至れり。来春は早々小田原表に発向して、氏康を退治すべしといへり。
【客星出づる事附謙信宇野問答の事】 一、此頃客星現ぜり。謙信、宇野を召して之を問はる。宇野対へて曰く、凡そ客星変気は、出生の方に就いて、其吉凶を占へりと、今此客星は、越国に出でゝ、相州に当れり。是北条氏の凶悪なりといふ。謙信聞き給ひて曰く、大概占家は、我が吉といふ事を好みて、我が凶をいふを悪めり。天時不㆑如㆓地利㆒。地利不㆑如㆓人和㆒といふと言へり。必竟は我が胸中にあるべしと、機嫌快然として、奥に入り給へば、宇野も退去すといへり。
春日山日記 巻之四 終 【 NDLJP:39】春日山日記 巻之五【謙信小田原発向并氏康籠城の事】 一、永禄三年庚申、謙信三十一歳、三月中旬、相州小田原表に発向す。戦兵八千、雑兵是に応ず。其外、関八州の侍共、謙信の武威に懾服して、草の風に偃すが如し。且つ八州の外と雖、管領憲政へ、志を通ずる諸国の侍共、馳来る由、是三箭〔本ノマヽ〕を発せず、一刃を接へずして随順する軍兵八九万に及べり。先備既に大磯の辺に陣すれば、後備は藤沢・田村・大〔〈神カ脱〉〕八幡の間に陣せり。謙信は高麗山の麓に陣す。先手の一番備太田三楽は、小磯に陣す。時に謙信、常に操れる所の采配を捨て、大根の折懸け験も操つて、諸陣を馳廻つて令して曰く、諸軍一同に鬨声を揚げて、先づ敵の気を簒ひて、後に螺の音を聞いて進み駈くべしと、是に於て、諸軍一同に、鬨声を揚げて、既に駈向はんとする時、小田原の軍兵共、一戦に及ばずして、皆敗走す。先手の軍兵共、小田原の城下、蓮池の辺迄追迫つて之を撃てり。此時、謙信の武威の雄盛なる事、日本の諸大将を合せたりとも、謙信一人の鋒にあたるべからざるが如し。【京都より近衛殿下向関東公方と称す謙信押て管領職と号す事附鶴岡八幡宮参詣の事】是に於て、近衛関白殿の公達を迎下し奉りて、関東の公方と号し、謙信則ち鎌倉山の内に在館して、管領と号し、唯今に至つて、初て当職に住居せり。
一、同四月十五日、鶴ヶ岡八幡宮に社参あり。其時、前管領憲政の老臣大石・白倉・長尾・小幡等奉従して、八箇国の諸士を率ゐて、神前に祗候せり。越後譜代の諸士は、皆甲冑を帯して、辻小路を警固し、非常を禁むる事厳重なり。
【成田長康警固武士と神前に於て口論并長康己が居城へ】
一、然る所に、武蔵国忍の城主成田下総守長康、神前に於て、警固の武士と
【謙信上州平井退出の事附長康口論に付き相甲に於て妄説并氏康信玄批判の事】
一、成田長康口論の事に付き、甲・相にて汰沙しけるは、八幡宮神前にて、成田事、自余の諸将【 NDLJP:40】より、少し頭高きを、謙信忿怒して、扇を以て、長康が頭を打たしめらる。成田、大に面目を失ひ憤りて、其座より、直に武州の城所に引退くと。又一説に、右の如くにはあらず、八幡宮に於て、巍々堂々としたる形勢、さながら謙信の武威、たとへを取るに物なき故、成田、感心の余り、心ならず頭を上げて、管領を仰ぎ見る。之を謙信怒りて、扇にて打擲せらる。是より諸将、心々になりて、漸く越後勢を引纏め、小荷駄を切り取られ、這々の仕合にて、上州厩橋迄引退き、夫より帰国に及ぶといへり。是大きなる虚説なり。優るを嫉むためし、誠に美女は、悪女の仇といへるに異ならず。抑〻武将として、何ぞ軽々しく、人の頭面を手づから打つ事あるべしや。縦令、成田、重々無礼を顕すとも、当座に於て、謙信、虚説の如き放埓の儀あるべからず。若し亦、甲・相にて批判する如く、謙信敗軍ならば、如何ぞ小田原より出撃せざるか。少々後備に引遅れたる小荷駄を切崩したるか。北条家の手柄にはあるべからず。最初より関東の諸士、謙信へ帰降し、越後勢都べて合せて十万に及ぶ大敵なれば、是に馳合せ、田頭にして一戦なり難き故、氏康は、ひたすら籠城せらるゝ体なりと雖も、実は左様にばかりあるべからず。勿論、謙信大軍と雖も、越後を出発して、小田原迄来る、客敵なり。北条は無勢なりと申せども、自国なれば主戦にして、地形案内なり、然のみならず、謙信は、越後譜代計り一万七千余、其外は時の威権に任せて従ひたる関東勢なれば、先は集勢にして、事に臨んで心を両端に懸けて、一片に相働くべからず。氏康に従ふ二万余の城兵は、早雲以来、重代の郎従金鉄の士なり。相・豆二国は、民百姓迄、氏康の恩顧深し。旁〻以て、何十万騎にて押寄するとも、強ち驚くべからず。只城に籠りて、柔弱の用を敵に示し、其変を見て、電光の激する如く、城より打出づべしと、氏康、重々了簡して、籠城せられける事なれば、あしくにて、譜代の越後勢さへ
【謙信近衛殿具足し上洛の事】 一、同年六月十日、管領謙信、越後春日山を発して上洛せらる。是は近衛殿を伴ひ、上京せらるゝと雖も、畢竟謙信、大望重々之あるに依つてなり。此時、越後を始め、所領境々目、人数手配して、留守堅固に沙汰し、上洛の人数五千余といへり。同廿八日、京都に到つて上著す。
【義輝公へ拝礼の事附諱の字賜并管領職に補し網代輿免許の事】 一、同七月七日、公方義輝公へ参謁す。奏者細川兵部大輔藤孝なり。
一、将軍家へ進物、
御太刀一腰、吉光、 御馬一匹、馬代黄金三十枚、
一、母公慶樹院殿へ、
有明蠟燭五百挺、 緯白三百端、 白銀千両、
一、一乗院殿・鹿苑院殿へ進物、右同前なり。此両院主は、大樹御連枝なり。
一、将軍家の上意に曰く、今度、北条氏康退治の為め、粉骨を尽さるゝ所に、未だ其休息の間もなく、早速上洛ある事、感悦の至りに堪へず。自今以後、関東管領たるべし。奥両国も、執政に及ぶべし。則ち御諱の字を下し給ひ、向後輝虎と称すべし。且つ亦、網代の輿に乗る事をを免許せられ、管領上杉輝虎と号す。輝虎、謹んで上意を奉じて曰く、某一生の中に、無道の国を追討して、天下の諸候をして京師に参勤せしめ、尊氏公御治世の時の如く四海を一統して、武将掌握の中にあらしめんと欲す。是我が素懐なりといへり。大樹、之を聞召して、御感斜ならず、此段智計を巡らさるべしと上意あり。
【謙信密に三好松永を撃亡言上の事附将軍家御許容に就き謙信帰国の事】
一、斯くて、大樹、命ぜられて曰く、当時乱世たる上、謙信本国、氏康・信玄といへる大敵、隣国にあり。早速帰国あるべしと、則ち御暇を下し給はれり。時に輝虎、細川兵部大輔藤孝を【 NDLJP:42】以て、密に言上せらるゝは、唯今、三好修理大夫、並に其陪臣松永弾正少弼主従の形粧を見るに、内心に逆心ある事、明鏡に向つて影を映すより、猶明かに見えたり。両葉の時、刈らずんば、まさに斧鉞を用ひんとすといへり。今、彼を討ち亡さずんば、禍必ず大樹の御身に及ぶべし。当時輝虎、今上洛、事の幸といひつべし。願くは、厳命を蒙つて、速に三好・松永を撃ち亡さんといへり。大樹、之を聞召して、仰に曰く、三好が逆心、其証跡未だ顕はれず、事の発覚するに及んで、重ねて之を命ぜらるべし。罪の疑しきは、暫く之をなだむる事、倭漢古今の流例なりと仰出さる。輝虎も、此上、
【謙信在京の中越後に於て太田三楽憲政を押立て小田原表発向の事】
一、謙信上京の間、越後にては、三楽斎智略を以て、上州の諸将、安房の里見・上総の万喜少弼・佐竹常陸介、奥州・出羽迄、上杉に旧功の人々を語らひ、上杉憲政を大将として、相州へ相働き、氏康、屢〻是と戦はると雖も、毎年一戦利なく、下総の千葉介も、無二の北条一味なりしかども、里見左馬頭に打負け、其外、小田原同志の面々、所々に於て勝利なく、亦々氏康、籠城に及ばんとす。三薬を始め、留守に残し置かるゝ諸将、越後を打出づるを幸と、甲府より信玄、越後へ打入らんとて、先づ高坂弾正といへる信玄先手の侍大将、河中島の人数七千余を率し、越後国へ押入る。是に依つて、関東出勢の越後勢、太田・北城以下、皆々帰国して、甲州勢の襲来るを防がんと、手配に及ぶ。然る故に小田原別事なく、氏康も安堵せられたり。信玄も如何思量ありしか、出勢を止めて、高坂も、程なく居城河中島海津城へ引退く。最前、謙信上洛の刻、信玄と約諾ありて、留守中越後へ手遣あるまじくと、堅く信玄も諾せらるゝ故、三楽も関東の兵将を催して、右の儀に及べり。然れども、氏康迷惑重畳故、再三甲府へ頼み遣さるゝ故、信玄辞し難く、高坂弾正に命じて、越後へ手遣せらる。然れども、北条への働き計りなるを以て、越後勢引取るや否や、高坂も引退き、謙信へ約諾相違なき心緒を示さるゝといへり。抑〻彼の弾正は、元来甲斐国伊沢といへる在所の庄官、百姓春日何某といへる者の子なり。幼少より信玄小性に召仕はれ、武の器量之あるに付き、次第に登庸せられ、一万貫の所領を与へ、信州河中島に在城して、信州半国を旗下として、武勇を顕せり。博学大才にして、智謀、世人に超過したる者なり。甲府老臣の内、彼の弾正少弼を以て、随一とせり。【 NDLJP:43】【輝虎群臣と軍評定の事】 一、永禄四年辛酉、輝虎三十二歳、正月十五日、諸臣を召して曰く、我れ累年、信濃表に出陣せしむと雖も、信玄、某と戦はん事を欲せず。故に、其陣形を固め、常に只守つて変ずる事なし。如何にして彼と戦つて勝利を得ん。例年の如く、各〻其謀議を紙面に記して、追日捧げ奉るべしといへり。諸臣、皆命を奉じ退出す。
【信州川中島合戦の事】
一、同年七月中旬に、甲府より間者帰り来つて言上して曰く、信州先方侍の中、信玄に逆意を含む者あり。故に之を糺明せんと欲して、河中島に至つて、竟に悉く之を誅す。是に依つて、先方の士共、狐疑を生じて、二心を懐く者多く、信州の中不和なりと聞けり。又去る六月信玄、和利ケ獄に臨んで小城を攻むるに、多く士卒を亡して、力を竭して城を抜くの由、風聞ありといへり。謙信、之を聞き給ひて、空然としていはず。其翌日、群臣を召して曰く、三軍の禍は、人の狐疑するに過ぐるはなし、是一つなり。兵法に、云㆓乗労㆒といへり。是二つなり。急に信州表に発向すべし。諸臣各〻謀議を献ず。輝虎一覧ありて、宇佐神駿河守良勝に命じて、謀策の上中下を分たしむ。而して後、謙信三等を見て曰く、吾れ今、下等の策を用ひて発向すべしといへり。諸臣之を疑ふ。謙信の曰く、上等の策は、信玄既に之を知りて、備を設けで待つ所なり。既に知つて相待つに出でて、何ぞ勝利を得んや。中等の謀は、累年の手段なり。下等の策は、信玄が不意に出でて、十死一生の合戦なり。今我れ之を用ひて、勝負を決せんのみ。然らば、先づ海津の城を蹈越えて、西条山に陣して、彼を囲むが如くにして、之を攻めず、信玄が後詰を待つべし。深く敵地に入る時は、縦ひ我が軍破るとも、散乱すべからず。越後へ引取ると雖、敗北するとはいふべからず。兵法に云、帰㆑師勿㆑遏といへり。又信玄、西条山へ押寄せて攻むる時は、彼が陣形、常々の守を失ふべし。其時吾れ無二の一戦を遂げて、勝負も決すべし。又信玄、直に海津の城へ入る時は、我れ急に攻めて、無二無三に乗取るべし。又信玄、河中島に陣して、越後の通路を遮る時は、吾れ雨の宮の渡を越さず、直に西条山より海津城へ取懸け、一時攻にして、海津の城へ入り、信玄が寄せ来るを待つて、勝負を決せん。兎角此
一、明くる十日卯の上刻、謙信の察し給ふ如く、信玄、海津を出で筑摩西川の辺に陣して、善光寺の道筋を遮り、越後の往還を塞げり。然るに、謙信の諸軍、不意に出でたり。信玄、備を立直して、直に両陣の先備、戦を接へて、迭に勝負を争ふ所に、鎌信、大根の折懸け験を伏せて、密に脇備より信玄の旗本へ駈入り、左右七八町の間を突崩し、屈強の侍大将共、数多討取れり。所謂、武田左馬頭信繁・〈信玄の弟なり、〉諸角豊後守・初鹿源五郎・山本勘助入道々鬼等なり。此道鬼は、前にも記す如く、弓矢習練の名士にて、既に信玄軍術の師範たり。斯かる所に、西条山に向ひたる甲州の諸将、之を聞きて、追々に馳せ来る。其兵勢に力を得て、又信玄の旗本勢、暫く蹈止まれり。是謙信の予め、初めより信玄に会ひて、一度太刀打の勝負を決して、駈通るべき陣法なり。故に甘糟近江守が備を以て、大将の本陣とし、謙信は後陣を先陣となして、敵の不意に出づるの兵術なり。合戦の以後、謙信、諸将に語つて曰く、笠の如くなる鍪を著し、手に団扇を持つて、床几に腰かけたる武者あり。是必ず信玄なりと見て、馬上より三刀続け打てり。時に床几より立上らんとする所を、又二刀続けて之を打つ。即ち笠甲の端に当りて、床几の上に落つ。時に我が打つ所の太刀音に駭いて、乗る所の馬駈出でたり。其時、後を顧みれば、信玄の旗本勢、甘糟・直江に相向つて、入乱れて相戦うて、広瀬川へ引退けりといへり。後に、彼の床几に腰かけたる武者を問へば、是信玄なりといふ。信玄、初は越後の通路を遮り塞ぎて、越後勢を討取らんと謀ると雖も、返つて甲州の歴々の士、過半討たれて、越後勢は、名ある士一人も討たれず。唯途に迷ひたる雑兵、少々討たるゝ計りなり。
【甘糟越後勢引取り帰国の事】 一、此時、甘糟近江守、西川の辺に三日陣を張つて、雑兵を集め勢を揃へて帰国するなり。
【川中島味方備図の事】 一、或説に河中島の備図を、斯くの如く記せり。此日記、壁中に年を積みし内、紙面多く損【 NDLJP:45】失して、闕くる事のみ多し。右合戦の備も、切れて見え難き故、或説に任せて後に附す。
図に云
黒川 隅田 中条 安田 遠藤 カンドウ
右脇備 図 図 図 図 図 図
謙信旗本 近習士 同 同 同 同 同
左脇備 図 図 図 図 図 図
河田 本城 西藤 保田 アロウ 長尾
右の備を、世に車掛ともいふ。〈片車・諸車といふ事、当家の秘事なり。口伝云々。〉此備、一手ぎりの備なり。此旗本備より二町計り先立ちて、柿崎和泉守二千余丸備なり。柿崎一備も其手配して、段々次第を分つと雖も、柿崎験を揚げて幾きり目に、二千の戦兵一列して、真図になりて、一度に勝負を決するなり。当家の秘事口伝。
春日山日記 巻之五 終 【 NDLJP:45】春日山日記 巻之六【川中島合戦以後再び一戦を遂くべき由謙信より信玄へ使者并信玄許容なく帰国の事】
一、河中島合戦の後、謙信も、三日善光寺に逗留ありて、使者を以て、信玄に告げて曰く、今度の合戦に於ては、有無の勝負を決せんと欲する所に、其志を果さず、鬱心晴れ難し。是に依つて猶、此地に逗留せしめ、未だ国元に帰らず。近日亦再会して、無二の一戦を決せしむべしといへり。信玄答へて曰く、先づ今度は、
【川中島合戦評判色々の事】 一、凡そ今度の合戦は、信玄の負にして、謙信の勝なり。其如何となれば、謙信の計る所、百にして皆相違する事なし。信玄の思慮せらるゝ儀、其手段悉く皆相違して、謙信の謀図の中に落ちられたり。法に曰、智先㆓於人㆒者勝、後㆓於人㆒者負といへり。謙信は、智先㆓於人㆒能致㆓於人㆒者乎。信玄は、智後㆓於人㆒被㆑致㆓於人㆒者乎。且つ信玄、太刀創を被つて危に及び、【 NDLJP:46】一族歴々の侍大将共に討死し、殊に舎弟武田左馬助信繁戦死せり。越後勢は、雑兵少々討たるゝのみ。是弁察せずんばあるべからず。
一、又曰く、初の合戦は、謙信の勝、後途の一戦、西条山の武田勢駈著けての合戦は、信玄の勝なり。然れば、牛角の勝負なりといへり。是当らぬ評議なり。西条山の武田勢馳来る故に、信玄討死なし。若し然らずば、信玄、戦場に埋没疑ひなし。然らば彼の勢馳来るを以て、信玄父子亡命なく、武田家侍大将も、さまで討たれず、甲信の雑兵迄存命して、旧里に帰る事を得たりといふべし。畢竟の勝負得失は、前後を勘へて沙汰すべし。
【川中島合戦に於て敵の首切捨と兼て謙信定置るゝ事】
一、又曰く、甲州家、負腹を立てゝ沙汰する由は、左馬助信繁・諸角・山本・初鹿以下多く戦死すと雖も、首を敵方へ渡さず、皆々
【和田喜兵衛自害に付き世間妄説の事】 一、此合戦以後、世間虚説あり。輝虎敗軍して、和田喜兵衛といふ近習の士、唯一人召連れ、春日山へ帰城あり。途中に於て、喜兵衛を手づから殺害せらるゝと、是大きなる妄説なり。右にも記す如く、三日善光寺に逗留ありて、重ねて一戦を遂ぐべしと、軍使を以て、武田家へ申遣さるゝと雖も、信玄、承引なき故、時の無事を作り、信玄甲府へ引入る。謙信も、越後へ帰陣するを以て見つべし。和田喜兵衛は、後年逆義あり。さのみ謙信、咎め給はずと雖も、自業自得〔〈因脱カ〉〕果遁れ難く、喜兵衛は自害に及べり。兎にも角にも、近国・他国の諸将、輝虎の弓矢を僻執して、色々の事を訇り、妄語を吐くと見えたり。良に真士の恥づべき事共なり。
【謙信信越の境出張の事】 一、同年十月、謙信、近習の士百四五十騎にして、信越の境に出馬あつて、道橋・田畠等の修造を仰付けられ、一日逗留して帰り給へり。
【武州松山後詰として謙信出馬并松山落城の事附上州山の根城暫時攻落さるゝ事】 一、永禄五年壬戌、輝虎三十二歳、三月上旬に、武蔵国松山城代上杉友貞、北条・武田両将の為めに攻囲まるゝの由、太田三楽方より註進して、輝虎の後詰を乞へり。是に依つて、輝虎、戦兵八千を引率し、越後を発す。上野厩橋に著陣する其二日以前に、友貞は、松山の城を開きて遁れ去れり。輝虎大いに怒りて、三楽を召して、之を攻む。三楽、予ねてより輝虎の怒ら【 NDLJP:47】るべき事を慮りて、友貞が人質を相具し、城に籠め置く所の用器共、悉く記註して、之を持参して、輝虎へ言上す。友貞が怯弱、いふに足らざる者なり。斯くの如くなる者を知らずして城代とする事、是偏に三楽が罪なりといへり。輝虎怒りて、即ち友貞が人質を殺害せられ、三楽も亦、既に罪に及ばんとす。少時あつて、輝虎、怒を止めて三楽を召して問うて曰く、氏康が持分山の根の城へ、行程是より何程かあると、三楽答へて曰く、一日に往来する地なりといふ。輝虎、之を聞き給ひて、然らば、之を攻め取るべしといひて、乃ち利根川二本木の渡を越し、船橋に到つて、先づ使者を以て、北条・武田の両将に告げて曰く、今度、松山後詰の為めに出張せしむと雖も、未だ前橋に到らざる以前に、武田・北条両旗本、大軍を以て既に之を攻め取らるゝの由、残念の至りなり。玆に因つて、明日、北条殿御持の山の根の城を攻め取つて、松山の鬱憤を散ぜんと欲す。恐らくは、北条・武田の両旗本の大軍を以ても、我を支留する事能はざらんかと、斯くの如く、事々しく言遣して、明卯の刻に、利根川二本木の船橋を切流して、渡りを断ちぬ。是韓信が背水の術なり。是に於て、北条・武田の陣前近く蹈越えて、山の根の城に押寄せ、一日半夜に攻め崩して、老若男女共に、三千余を屠殺す。又軍使を以て、告げて曰く、今明日中に凱還すべし。遺恨に思はるれば、一戦を遂げらるべきやといへり。時に信玄、押太鼓を打つて進み懸る。越後勢、之を見て、物具を固めて駈向はんとす。輝虎令して曰く、是信玄が進み来るにはあらず。必ず退き去る者なり。躁動すべからず。宜しく甲冑を脱ぎ、馬鞍を卸して休息すべしといへり。果して其言の如し。五六町程進み来て、終に又退き行けり。其時群臣感服して曰く、神なるかな奇なるかな。良将の敵を料る事、其情はづるゝ事なしといへり。輝虎の曰く、是別に神奇ある謂にあらず。眼前に山の根の城を攻め取らるゝを見て、信玄之が後詰をする事能はず。然るに、今何ぞ進み駈けんや。是退口の懸色といふ兵家の一術なり。諸将斯くの如き事を知らずんばあるべからず。各〻此以後、斯様の所、勘察あるべし。天地玄遠と雖も、深く視、観察を以て知る時は、あたらぬ迄もはづるべからずと宣へり。宜なるかなと、各〻感心の外他事なし。
一、此後、厩橋の城代長尾弾正入道謙忠を誅戮せしめ、北城丹後守をして、厩橋の城代たらしめ、関東の鎮とす。彼の入道謙忠は、謙信同姓の親族なりと雖も、此度腹黒なる様子、不義重々たるに依つて、此儀に及ぶといへり。【 NDLJP:48】【山之根に於て謙信死間を以て武田北条両城の間を隔てらるゝ事】
一、当家秘密の風説には、今度松山後詰を待たずして、友貞いひ甲斐なく開城せしむ。是に依つて、謙信の出馬詮なきに似たり。山の根の城を、無理攻に攻め落さるべしと雖も、武田・北条、六万に及ぶ大軍にて、堅固に陣をなす。流石に、信玄・氏康も、武功当代に抜出せる人々なれば、縦ひ戦に切り勝つといふとも、味方の諸勢、大勢討死すべし。さあれば、味方多く討たせては、敵将を討取るとも、詮なき事なり。爰は孫武が秘せし所の用間の時節なりとて、死間を用ひ、近習の士をして、敵方へ差遣す。此者、晴信が陣所に往きて、空
一、斯くて謙信、越後へ人勢を打入れ給へば、晴信・氏康益〻不和になりて、両将も我が城々へ帰りけるといへり。
【謙信群臣と領国政事談合の事】 一、永禄六年癸亥、輝虎三十四歳、正月十五日、諸老臣を召して曰く、今明年は、先づ他国の出陣を止めて、士卒を休息せしめ、政道を修して、国を富ましめて、軍国の用をして乏しからしむる事なからんといへり。老臣、其命を奉承し、感心して各〻退去せしむといへり。
【宇佐美駿河守病死の事】
一、
【謙信諸将の功を選み賞禄の事】 一、永禄七年甲子、輝虎三十五歳、今年専ら戦功を論じ、其甲乙を定め賞を行うて、諸士を練習し給へり。
【三好松永将軍家御生害の由細川藤孝飛檄到来の事】 一、同八年乙丑、輝虎三十六歳、細川兵部大輔藤孝より、五月廿二日の飛檄到来して、其辞に曰く、三好叛逆して、将軍義輝公を弑し奉る。是に依つて、京師大に騒動して兵革止まず。故に以て急を告ぐるといふ。輝虎、是左右を聞き給ひて、涙を流さるゝ事、良〻久しうして宣ひけるは、某、先年上洛せしめ、大樹に謁見し奉る時、三好が胸中に逆心ありて、畢竟、公方の御身に、災あらん事を、予め観察するに依つて、密に言上して、渠が悪逆露顕せぬ以前に、討亡すべしと、再三申上ぐると雖も、吾が言を用ひ給はずして、此害に遇ひ給へりといひて、悲歎【 NDLJP:50】せり。而して後、諸臣に謂つて曰く、今の世中、誰か逆臣三好氏を追討すべけんや。願はくは汝等が所存を聞かんと宣へり。諸臣以て答ふる事なし。輝虎の曰く、思ふに、我と武田晴信入道信玄とにあり。然りと雖も、某も信玄も、遠国辺土にありて、其勢、及ばざる事あり。只是京師に近き者、之を追討すべしといへり。
【三好家先祖噂の事】
一、逆臣三好が先祖を尋ぬるに、其先、新羅三郎義光の後胤、小笠原信濃守長清の末流なり。小笠原家の家嫡は、代々信濃国に在城して、信州三つにして、其一箇所を食邑とす。長時に至つて、信玄の為めに国家を失つて流浪す。信州伊奈近所に住するあり。小笠原掃部頭と号し、武田幕下に属し、其家を相続す。小笠原備前守・同民部大輔とて、代々京都にありて、之を京小笠原と号す。長清の後何某といふ人、阿州へ下りて、当国に領住し、阿波の小笠原と号す。則ち当国三好といふ所に在住する故、後には其家を三好と称す。四国は建武以来、細川の領国なる故に、三好も細川の旗本に従ひて、其下知を重んず。然るに室町家公方の御威勢も衰へ、細川氏、大に威望を失ひ、細川右京大夫晴元、僅に其家号管領の名を存すと雖も、ありてなきが如く、暁の灯、将に消えんとするに異ならず。斯かる時節を得て、三好修理大夫長慶、度量ありて、終に細川氏を押し除けて、天下の執権し、是より公方も名のみにして、京畿近き国々、皆三好が有となりて、其威に伏せずといふ事なし。其臣松永弾正少弼といふ者佞悪にして大志あり。其威、修理大夫に異ならず。然して長慶嫡子を左京大夫義長といふ。器量父に勝れ、仁義を専とし、臣たるの道を弁へ、大樹への忠節、言語に吐述し難し。義輝公も度々、義長の亭に渡御あり。此頃、長慶は老するに依つて、国政、専ら義長執行へり。然るに、松永つく〴〵と、義長の威望ある故に、己、恣に権を執る事能はざるを、事むつかしく思ひ、密に鴆毒を勧めて、終に義長を弑せり。さありて、長慶の舎弟に、十河一存といふ人の子を、長慶の養子として、左京大夫義継と号し、是より松永威勢、三好に十倍せり。兎角する程に、長慶も病死ありて、義継に家督相続せしめ、弥〻益〻松永威を振ひて、左京大夫を勧め、終に義輝公を弑し奉れり。精霊の余然、近きにあるべしと、世以て
【謙信上州和田城攻の事附 長尾帯刀逆心に付き帰国の事】 一、永禄九年丙寅、輝虎三十七歳、七月下旬に、上野国に発向して、和田の城を攻め取らんと欲す。既に之を攻めんとする所に、越後より飛脚到来して、告げて曰く、長尾帯刀、逆心を企【 NDLJP:51】つるの由、告げ来れり。是に依つて、謙信早々帰国あり。此長尾帯刀も、輝虎同氏の一族なり。如何なる事を恨みて、斯かる逆義を企つるやといへり。
春日山日記 巻之六 終 【 NDLJP:51】春日山日記 巻之七【厩橋城に於て武田北条相戦ふ事】
一、永禄十年丁卯、輝虎三十八歳、暫く上州厩橋の城に居れり。時に北条相模守氏康・其子左京大夫氏政三万六千余、武田信玄二万余、両旗合せて六万に及ぶ人数を引率して、
一、此度も信玄事、当表加力の事、固辞せらるゝと雖も、氏康父子より、再三憑み給ふ故に依つて、いなみ難く出馬ありて、厩橋辺へも押寄せらるゝと雖も、去る山の根の一戦の時より、【 NDLJP:52】疑心、胸中に絶えず身にしみて、合戦の手配なく、只北条家の様子見合せらるゝといへり。
【輝虎氏康と和睦并北条三郎越後へ来る事】 一、同十一年戊辰、輝虎三十九歳、輝虎、数国を平治せしめんと欲し、先づ北条氏康と和睦あり。是に依つて、氏康の七男三郎殿とて、十七歳なりしを、輝虎の養子として、越後に来る。遠山左衛門尉・山中民部少輔、輔翼となりて相副ひて来れり。養子とは雖も、実は北条家よりの人質なり。後に此三郎殿を、景虎と称し申すなり。
【能登守護畠山氏末子越後へ来る事】 一、同年、能登国畠山の末子、八歳にして越後に来る。畠山氏の人質なり。是亦、謙信、養つて子とせらる。此人、後に上杉喜平次景勝の姉壻となれり。
【北条父子より謙信加勢頼越さる并謙信同意なき事】 一、同十二年己巳、輝虎四十歳、七月中旬に、北条氏康・氏政父子より、両使を以て告げて曰く、武田信玄、小田原表に寄来るの由、其風聞あり。公、出馬あつて、上州厩橋に屯あるべきか。然らずんば、信州表に発向ありて、信玄が出軍を妨げ給ふべしといへり。謙信、之を聞きて曰く、未だ北条・武田の武略の勝劣を知らず、一戦の勝負を見ずんば加勢すべからず。且つは加勢たりと雖も、公の指揮に従はゞ、信玄が思ふ所も、無念なりと宣へり。此時、北条、武威を関東に振へる故に、斯くの如きの返答に及ばるゝといへり。
【重て北条家援兵を乞ふ事附謙信出馬の事】 一、同十三年庚午、輝虎四十一歳、六月中旬、北条相模守・同左京大夫より両使来り告げて曰く、去年、武田信玄、小田原表に発向せしめ小利を得たり。玆に因つて、今年も亦、上州箕輪へ出張せしむる由、其聞えあり。今度は是非、御加勢を頼み入る由をいへり。謙信、今般は辞し能はずして、出馬ありと雖も、一戦するに及ばずして、早々帰国あり。今年十一月、改元あつて元亀と号す。
【義昭公より上使の事】 一、元亀二年辛未、輝虎四十二歳、九月上旬、公方義昭公より、松原道有・尼子兵庫頭上使として来り告げて曰く、近年織田弾正忠信長、己が武威に誇つて、公方の命を恐れず、放肆の行跡前代未聞の事なり。輝虎にあらずんば、誰か能く之を路圧せん。速かに信長を追討せらるゝに於ては、本懐に相愜ふ者なりといへり。輝虎、即ち上使に対面して曰く、逆臣織田信長を追討いたすべきの厳命を蒙る。謹んで之を奉承す。委細は、両使宜しく執達せらるべし。此事深く隠密なるが故に、翌日、両使は帰国せらるゝといへり。
【織田信長祖先并信長弓矢噂の事】
一、抑〻信長の由来を委しく聞くに、織田家は、元斯波武衛の三臣の其一なり。前に朝倉噂の所に記す如く、武衛は、代々、尾張・越前を領し、将軍家三管領の随一なり。三臣といふは、【 NDLJP:53】甲斐・朝倉・織田なり。武衛零落の後、越前を甲斐某押領しけるを、朝倉、義兵を挙げて甲斐を誅戮し、終に越前の国主となる事、前に記すが如し。織田は、代々、尾張国にありて当国を執政す。然る所に、武衛衰ふる頃ほひ、尾張国、織田家の有となれり。織田も数多に分れて、尾州を割り保てり。其中、弾正忠信秀、器量ありて尾州を過半打従へ、今川刑部大輔義元と弓矢を争ふ最中、信秀は病死せり。是乃ち信長の父なり。其時分、信長若輩なりと雖も、父の家督を相続し、清洲といふ所に在城し、父の業を嗣ぎて弓矢を取り、駿州義元と屢〻合戦す。然る所に、義元三箇国の人数三万余を引率し、参州へ発向し、夫より尾州へ打入り、此度無二無三に信長を切滅さんとて、武威を振ひ、桶狭間といふ所に、竹葉〔束カ〕つかひ居られし所へ、信長僅かに八百余の人数にて、義元の不意へ押懸り、何の造作もなく、義元を討つて首を取る。是より武威、出づる日の如く輝き、其年中に、本国尾張を切り治め、夫より美濃守護斎藤右兵衛大夫龍興と年々合戦して、是又、斎藤を追出して、美濃一国を平治せしめ、尾州より濃州岐阜の城に移つて居城し、其兵勢、近国に肩を
【北条氏康逝去の事附三郎景虎小田原へ往かるゝ事】 一、同年、北条氏政より使者来りて、告げて曰く、十月三日、父氏康卒去すといへり。是に依つて、三郎景虎、小田原に行き日を歴ずして、越国へ帰国あり。
【参州守護源家康使札并音物の事】 一、元亀三年壬申、輝虎四十三歳、参州の守護徳川参河守家康より、使者を以て、自今以後、深く入魂あるべきの趣、誓紙を以て告げ来る。其進物、太刀一腰・馬一匹・馬代黄金十枚・唐頭三頭なり。輝虎、使者に対面ありて曰く、向後互に固く入魂すべき旨、返答せらる。
【謙信川中島辺発兵の事】 一、同年十月、信州河中島に出陣す。信玄、早速出張あるに依つて、即ち帰陣なり。
【重て謙信長沼辺出勢の事】
一、又同年に、長沼表に出陣す。時に武田四郎勝頼、勇進して一戦を遂げんと欲す。輝虎之を見給ひ、其志を
【信玄死去の事附謙信哀愁深き事】 一、天正元年癸酉、輝虎四十四歳、甲府より間者帰来りて言上して曰く、信玄、四月十二日に病死せらる。然れども、深く隠密するに依つて、甲州の中、上下共に静謐なりといふ。時に輝虎、膳食に当れり。之を聞き給ひて、箸を捨てゝ落涙し、暫く愁歎の色あり。
一、同月下旬に、輝虎、諸臣に謂つて曰く。今年は他国の出陣を止めて、兵士を休息せしめんと欲すといへり。
【柿崎誅さるゝ事】 一、此年、柿崎和泉守誅せらる。人其罪を知る事なし。
【謙信武田勝頼へ申含まるゝ条々并勝頼思慮なき事】
一、天正二年甲戌、輝虎四十五歳、正月下旬に両使を以て、武田大膳大夫勝頼に告げて曰く、我れ信玄と十五六年の間、屢〻対陣して、雌雄を争ふと雖も、終に勝負を決せざる所に、信玄、去年死去ありと聞けり。誠に惜むべきかな。自今以後は、我に対して勇武を争ふ者なし。故に甲冑を脱ぎ弓矢を
【能州畠山逆臣の為め討るゝ事】
一、同年、能州の畠山家臣の叛逆に依つて、危難に及べり。是に因つて、急を越後に告げて、其援兵を乞へり。輝虎、即ち畠山の末子越後にある者をして、大将たらしめ、戦兵一千余を率ゐて、兵船に取乗りて、能州に往かしむ。不幸にして、悪風に
【謙信群臣と軍評議の事附勝頼領分へ暫く相働らかざる事】
一、天正三年乙亥、輝虎四十六歳、正月五日諸軍を召して出軍の評議あり。諸将
【飛騨国江馬氏退治の事】 一、天正四年丙子、輝虎四十七歳、武田の幕下飛騨国江馬常陸介を退治すべき由を以て、白屋越〔筑イ〕前方より、軍兵を乞へり。輝虎聞き給ひて曰く、信玄が死去の後、武田が領地を取らんと欲せば、甲府たりといふとも、豈是難き事あらんや。然るに、我れ敢て馬を向けざる事は、弱きに乗じて勝頼を侮るに似たり。我れ之を恥づるに依つてなり。今、江馬常陸介は、我に従服せざる時は、必ず信長に属すべし。此時を失ふべからずといひて、即ち柴田・色部両人に命じて、大将として戦兵三千余を率ゐて、江馬を退治して、飛州を守らしむ。白屋も飛騨国【 NDLJP:56】先方侍大将にて、最初より謙信の幕下なり。
【越中国退治并河田当国守護代の事】 一、同年越中表に出馬ありて、椎名・神保を退治して、川田豊前守に命じて、国政を修めて之を守らしむ。是より又直ちに、加賀国に発向ありて、尾山に到り、少々一揆共を討取つて帰国せり。
一、天正五年丁丑、輝虎四十八歳、三月下旬に、加賀の松任表に発向あつて、長野〔氏歟〕が城を攻む。時に信長、四五万余の兵を率ゐて後詰す。然れども、信長未だ到らざる以前に、城を攻取つて、長野が首を撃ち取れり。其翌日、信長後詰の兵到る。其兵を追ひ散らして、引取らんと欲すれども、後詰の軍兵、之を遮り留むる事能はず、一戦にさへ及ばずして、其夜の中に、右往左往に遁れ去れり。輝虎の武威、近年弥〻益〻盛にして、当時日本国中、肩を
【来春領国の軍勢催促号令の事】
一、同年九月中旬、輝虎使者を以て、織田信長に告げて曰く、来春三月中旬、越後を発して、越前表に於て、一戦の勝負を以て、一時に其雌雄を決せん事を期すといへり。信長の返答、相敵する事を欲せず、唯降和の由、其意趣を
一、同年十月中旬、諸将を召して、軍の評議ありて陣法の定あり。凡そ越後・佐渡・飛騨・越中・加賀・能登・庄内・上野の軍兵共残らず、来春三月中旬、各〻一左右に従つて出陣すべし。予越前路より相向つて、信長を退治あるべき旨、諸国へ号令せらる。
【春日山城下怪異の事】
一、
【謙信病死并辞世之事】 一、天正六年戊寅、輝虎四十九歳、三月九日、厠に行きて初て頭痛を患ふ。終にやまずして、同十二日に薨去し給ふ。群臣悲泣し、幕下の諸士、貴賤上下に至る迄、歎惜して、感涙を流さずといふ事なし。其辞世に曰く、
四十九年夢中酔 一生栄耀一盃酒
と書き給へり。即ち春日山の艮維に之を葬れり。
春日山日記 巻之七 大尾この著作物は、1925年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)70年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。
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