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昔日北花録

 

昔日北花錄

 
 
オープンアクセス NDLJP:5
 
解題
 
 
昔日北花録 五巻
 
本書内容は、一条天皇御代滝口の候人富樫次郎家国といふ者、加賀介に任ぜられ治績あり。後其の国の住人となり、子孫相続ぎて富樫介泰俊に至る。然るに泰俊、天正二年一揆の為に滅亡され、茲に富樫家永く断絶の悲運に至る事蹟と、能州畠山氏の滅亡、信長加州一揆退治、石動山破却、加越能城跡の事、最終には前田家の事蹟を記し、元和の役に利光上洛云々。寛永十八年には、富山へ淡路君、大聖寺へ飛騨君入城、小松へは微妙公隠居せられ、所々の砦城は廃せられ、それより治世太平無窮と筆をさしおきたり。要するに本書は、富樫家を専ら記し、然して後他家に及び、終に前田家に筆を止めたるなり。

本書作者の名を記さず。又巻首に漢文の序を掲げたれども、年月を記さず。たゞ藤周民識とのみあり。大日本人名辞書に云、『堀田麦水は加賀の俳人なり。希因の門に学び、暮柳舎と号す。天明二年十月十四日歿す。年六十三。慶長中外伝・越の白浪・三州奇談・琉球属和録・昔日北花録の著あり』と見えたり。学友尾佐竹猛氏の談に、堀田麦水は、金沢堅町池田屋与右衛門の二男にして、樗庵と号す。麦水は其の俳名なり。慶長中外伝を著し、徳川幕府時代に於て石田三成を推賞し、家康・秀吉と相並んで三傑と称したる大胆なる著述を敢てし、其の他慶安太平記・南島変乱記・昔日北花録・三州奇談・博伽雑談等、其の他著書多し。又将棊に巧にして、金谷御殿(現今兼六公園なり藩主の別荘)に、藩主の相手に召され、扶持をオープンアクセス NDLJP:6受けたり。天明三年十月十五日、六十三歳にて歿す。但序文の藤周民は、麦水の別号なるや否や、未だ知るによしなし云々』。以上の事蹟を考へ合すれば、また以て作者の事蹟をも知ることを得べし。玆に尾佐竹氏に謝意を表す。

 

  大正四年十二月 黑川眞道 識

 
 
 
目次
 
 
富樫氏略系富樫家国の仁政家近の武勇藤原師高加賀国司となり師経目代となる叡山の衆徒師高を訴ふ平教盛加賀の国守となる富樫泰家加賀の守護職となる義経奥州下向富樫泰家官を解かる承久の乱富樫高家尊氏の幕下となる高家戦死義貞戦死富樫昌家家宗家督が争ふ
 
英田満家戦死富樫昌家満春を養ふ泰高成春共に富樫之介に任ぜらる赤松政則加賀半国の守護となる富樫一族細川勝元に一味す一向宗高田派本願寺派相争ふ政親富樫之介に任ぜらる政親、六角高頼を伐つ富樫政親本願寺派僧侶と戦ふ富樫泰高本願寺派に与す政親戦死高尾城陥る
 
景虎起る信長、三好義継を討つ信長、浅倉義景を討つ富田長秀戦死一向宗の跋扈富樫家滅亡信長越前を平均す謙信増山城を陥る謙信卒去
 
上杉玄蕃戦死能州畠山家断絶佐久間盛政加州一揆征伐柴田勝家北国を支配す信長、景勝を攻む信長弑せらる
 
天平寺破却柳瀬合戦前田利家佐々成政合戦利家凱陣成政信長に降る金沢城を築く利長、家康に与す

 
 
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昔日北花録
 
 
 
史君子、為国観之上古、験之当世、参以人事。誠哉。上古攷以為此国、古昔北方之利浪山・安計呂山・安羅地之越於三嶺赴、曰東国焉。於是乎、号三越路〈前中後分三国

矣。昔在日本武尊東征之時乎、京洛之後兵、経北地東、至利浪山之麓者、武尊帰路而後逢於玆、所以加賀、而名加賀郡〈今河北郡加賀諸邑。〉北越有四大河。貢参之民苦玆、是以庁之遠故也。元正之養老二年、越前国割置能登国、嵯峨之弘仁癸卯之春、又置加賀国也。此国也者、西、滄海漫々、遥隣契丹女真、東、白山聳天、雲常帯廻峯腰。国々中四時節、五穀豊熟、而人情知一已之足事、而無他心。農夫水便宜而末稲積棟、樵夫山近而有便、漁太晴湖邑間湛、婦女以釣竿羅網業。寔国富民豊而可天府国也。干茲上自皇朝使王子国司、以国士政助。其興廃雖人之所能識也、只為幼童之睡之慰、事跡詳審記焉。語拙筆劣、不雕虫之嘲篆刻哢、惟俟後之オープンアクセス NDLJP:108君子点竄是正耳。

 藤周民識

 
 
 
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昔日北花録 巻之一
 
 
富樫氏加賀介に任ぜらるゝ事
 
富樫氏略系抑富樫氏は、天児屋禰尊二十代の孫大織冠鎌足より九世、藤原の利仁より出でゝ、利仁に三子あり。嫡子有家、下野守鎮守府将軍、二男従五位上叙用、三男従五位上有頼なり。嫡子は越前守に任じ、二男は加賀国に任ぜられ、三男は越中に任ぜられ、井口三郎といへり。此次郎叙用の子を、次郎吉信といひ、其子加賀介忠頼・其子次郎吉宗・其子次郎宗助・其子富樫次郎家国なり。富樫家国の仁政然るに人皇六十一代一条の院の御宇、加賀国は親王家の任国たれば、同国の武士も、介に成下さるべしとて、滝口の候人富樫次郎家国といふ者を選み出され、加賀之介に任ぜらる。在位三年に国に在りて、転任の節に至りければ、国民共帝都へ訴へて、再び任を頼みければ、勅許ありて、六年オープンアクセス NDLJP:109を勤めける。国政温和になりて、土民談じ合せ、猶永任をぞ願ひける。忝くも天聴に達し、家国の政道類なき事、偏に都家の慶事なりとて、則ち永任の勅ありて、永く加賀之介とぞなりにけり。則ち富安の庄野々市に館を壮観にし、国家の政道私なく、国民共弥〻悦びける。

鎌倉実記に、凡そ日本を八道に分ちて、国々へ任国司を遣さる。一道に三年宛勤めて、廿五年の後上卿となり、上卿又八省あり。然るに親王家は、任国の下向なし。帝都にありて、国の守に任ぜらる。所謂唐の関内候の如し。故に其国へは、介を一人差下して、政をなさしむ。此任国八箇国あり。所謂周防・加賀・遠江・上総・上野・下野・常陸・出羽是なり。此国々の介に任ぜられ、下向する事、武士の規模とする故に、周防に大内介、加賀に富樫之介、遠江に井伊之介、或は上下野州に狩野之介・三浦之介、秋田に城之介等などとて、永任に処せらる。又是等は、武功に其名残りたる輩なり。然るに京都将軍尊氏の末義満時代より、武家高官になりて、被官の輩等に至るまで、国受領の号を附けければ、彼国々の八介も、嘗て名誉とは思はざりけり。近世は、親王三家になりて、常陸・上野・上総に御任国ある故、今此三介を以て、国守に准ぜらる。

思ふに、富樫次郎家国卒し、一子信家相続して、政道猶更正直に行はれ、国民仁恩を悦びける。其次富樫介家近、家督を続ぎて、狩野氏・布施氏の両家司も叙位に爵す。 家近の武勇此家近といふ者、身の長六尺余、力量普通に越え、胸の厚さ一尺五寸、眼は鷹の如く、髭は金針に似たりければ、飛鳥翅を落し、猛獣伏し隠るゝの威勢あり。常に鬼神と交はりて、能く末龍の気を知れり。平生食するに、一器に三升を盛りて食す。若し余あれば、川へ捨てさせける。或時狩野・布施の両士、其余を乞ひければ、家近曰、汝等、我食を一所に喰はんとならば、我が教ふる如く修行すべしとて、別火を焼き不浄を払ひ、百五十日の間、毎朝垢離をかきて、其法を教へけるに、両人法の如くに修行し終り、卒に三人、一器の肉を食しけるに、家司も能く、天地造化の気を察し、吉凶を言違へず。人皆奇異の思をなせり。

大乗寺の記に曰、寛治三年の春の頃、家近睡眠の夢に、白衣の老人示して云、我はオープンアクセス NDLJP:110是れ当国黒津舟の神なり。此頃庭前の湖水に、神龍顕はれ、社壇へ害をなす。汝勇士の聞えありて、此国の郡司たれば、急ぎ悪龍を退治すべしと、明かに宣ひて、夢覚めにける。家近急ぎ白き馬に乗り、浜道を一駈に、黒津舟の社へ詣で、今夜の示現、謹んで承るといへども、夫れ帝都の検非違使等は、皆堅甲・良刀を所持しけれども、我れ未だ此の如きの悪魔退治の鎧を持たず。又鬼神を制するの宝劒なし。願はくは神力を以て、この両器を与へ下され給へと、深く祈誓して帰りけるが、其夜夢想ありて、白山の末社甲劒宮へ祈るべしとある故、未明に打立ちて、甲劒宮へ詣でければ、社壇に白き台を置き、其上に、一領の宝劒と鎧と載せ置きたり。社司に問へば、夜前の神託に、此二品を今日乞ひ請くる者あらば、与ふべしと、正しく神託に任せ、什物ながら此の如しと、語るに付、此間、黒津舟の神託を咄しけるに、人々奇異の思をなし、二品の什物を与へける。富樫限なく悦び、急ぎ家に帰り、六具をしめ、宝劒を帯し、馬に乗り、早く黒津舟の浜に至り、終夜窺ひ居たるに、半夜の頃、海中より大龍顕はれ、家近に向ひ懸る。無手と組んで龍頭に跨り、劒を以て刺すと雖も、大龍怯まず、既に危く見えし折節、社壇より明神顕はれ給ひ、汝が勇気を試さん為め、倶利伽羅の明王斯く顕れ、四方へ英名を耀し、国中無為の化をなさしめんとするものなり。授くる所の兵具を以て、国民を守護すべしと宣ひて、神龍も明神も、昇天し給ふと云々。

是より家近が名誉四方に聞え、国中の悪徒陰を隠し、百姓無為の楽みをぞなしにける。又堀川院寛治の頃、帝都の傍鳥羽の里に、御所を造られ、城南の離宮と号す。此造営に付、加賀国へも役歩あたりて、富樫之介家近、人夫を引連れ上洛しける。途中にして、怪しき夫婦の者、家近に立寄りて願ひけるは、我々夫婦は、洛外鳥羽の里に、年久しく住む者なるが、此頃離宮造営の地に、愛子を育し居たりけるに、早くも石垣を積みて、取出す事叶はず。露命危き時なり。君此度、造営の役に御上洛なれば、願はくは彼普請の地に於て、愛子が危き命を救ひ給ふに於ては、我等生々世々の高恩、忘るべからず。偏に御助け給はれと、搔口説き歎きければ、家近領掌して、彼所に至り、石垣を取崩しけるに、穴の内より、狐の子三つ出でけり。則ち之を野オープンアクセス NDLJP:111外に放ちける。其後稲荷明神の託宣あつて、此度白狐の命を助けぬる其報として、永く汝が家運を守るべしとなり。家近、神託を信じ国に帰り、稲荷明神の社を建て、永く子孫の家運を祈りける。〈今加賀の大乗寺高安軒に祭る□の稲荷是なり。〉此頃奥州にて、鎮守府将軍清原の武則が子供武衡・家衡といふ者あつて、王化に背く故に、義家をして、之を討たしむと雖も、未だ落去せず。爰に又同国に、清原の清衡といふ者ありて、将軍義家を助けて〔くカ〕、此清衡は、俵藤太秀郷が後胤として、共に藤原の同姓たれば、清衡に加勢せずんばあるべからずと、富樫介家近、羽州へ赴かん事を訴へけれども、朝廷之を許し給はず。奥州の合戦落去せざる故、東北の国静ならざれば、国中を空しくして、加勢する事然るべからず。早く国に帰り守るべしとの勅諚により、家近、加賀の国に帰り、専ら国政を守りける。此富樫介、殊に長寿して、保元元年、百十七歳にて卒す。一子家経は、父に先立ち早世し、孫の家直、今年十一歳にて、家を継ぎけれども、幼少にて、暫く朝参の勤はせざりける。

 
富樫、加賀介を除かるゝ事
 
七十八代の帝二条院は、保元三年、御即位ましけれども、天下の政務は、上皇後白河院御沙汰ましける。中納言信西、君辺に仕へて、院の叡慮に叶ひしをば、中納言右衛門督藤原信頼、之を妬み、源義朝と語らひ、信西を討亡し、猶上皇を脳まし奉る。是に依つて、平清盛、嫡子重盛をして、信頼・義朝を討たしめらる。清盛、源氏の類葉残らず尋ね出し、討取りけるが、漸々義朝の三子ばかり、仔細ありて、死罪を免されける。又信西が長臣にてありし者の、僧となり、西光法師とて、上皇の御側に仕へ奉るが、藤原師高加賀国司となり師経目代となる次第に君寵を得、其子故、藤原師高、加賀の国司となる。故に弟師経を目代として、加州へ差下し在国政道を行ひける。是に依つて、富樫次郎家直、漸々成長に及びぬれば、国司に補せらるべき沙汰もなくて打過ぎけるが、安元二年の七月、加賀国白山の麓なる鵜川湯泉寺の衆従、目代師経と争論の事有之、既に合戦に及ぶ。其故は、師経入国して、検見の為めに、国中を巡見しけるに、此国、昔より此の如く、都オープンアクセス NDLJP:112人を国司に得たる事なければ、土民寺庵に至る迄、其馳走頗る物足らず。依之師経之を憤り、在国の武士を供に召され、巡見してぞ歩き行きける。湯泉寺は、白山の別当として、越前の平泉寺と共に、叡山の末寺故、当時衆徒の威も盛なりしが、国司寺中へ入りて、放埓の体を甚だ怒りて口論に及び、国司の僕を打擲しけるに、師高大に腹を立て、衆徒の坊舎に火を懸け、焼立てしかば、大勢立出で、既に合戦にぞ及びける。其後衆徒大勢語らひ、白山の神輿を振上げて、本寺叡山へ訴へければ、叡山の衆徒師高を訴ふ山門より公庁へ申して、国司師高を流刑し、目代を禁獄せん事を乞ひける。然れども両人が父の西光法師、法皇の御気色に叶ふが故、山門の訴訟は拘はらず、其年も止みにけり。此鵜河合戦の時、国司富樫次郎家直、目代に従ひ巡見しける故、衆徒と戦ひけれども、一旦の事故、早く野々市へ引返しける。

或説に曰、富樫次郎、此時菅生の庄磯部の神社にて、我が乗る所の馬を切つて敵に向ひ、再び帰らざる事を、衆に示す事あり。此地、今敷地の天神といふ。富樫の馬場とて残れり。然るに其地の土俗、伝へていひけるは、家直上洛の帰路、雪大きに降り、難儀の事あり。乗る所の馬飛去りて、糧を含み来りて、主に与ふ。馬は寒馬は寒気に堪へず、其所にて命を落す。家直、塚を築きて今に伝ふると云々。

其後山門の衆徒、弥〻怒り止まず。治承二年の春、衆徒大勢にて、日吉の神輿を振立て、両人が罪を嗷訴しければ、源頼政・平重盛をして、之を防がしむ。山徒神輿を禁門にすゑてぞ帰りける。公卿僉議の上、平大納言時忠を勅使として、衆徒を宥め、只二人を罪し給はんとなり。依之師経は、加州より召返され禁獄し、師高は四国の土佐へ流されける。然りと雖も、法皇、山門の嗷訴を御憤りましける上、西光、君辺にありて、讒奏を構へけるにより、終に此年五月、座主明雲僧正を、伊豆国へ遠流せしめ給ふ。是れ偏に西光の所為なりと、衆徒半途に打向ひ、僧正を奪取りて、叡山へぞ帰りける。此頃安芸守清盛、王威恣にして、悪逆の振舞のみなりしかば、法皇後白河院、潜に憤り給ひ、院の別当新大納言成親等に命じて、平家追討の御企ありしに、多田蔵人心変じて、清盛に此事を告げしより、平氏の輩等大きに怒り、治承二年六月、新大納言成親を捕へて、備前国に流罪し、西光法師并其子師高・師経も、死罪にオープンアクセス NDLJP:113行ひける。成親の子成経・康頼・俊寛僧都は、鬼界が島へ流し、法皇を鳥羽の御所へ押籠め奉る。平教盛加賀の国守となる是より平氏威勢益ゝ募り、清盛の弟参議教盛を、加賀の国守に任ぜられ、其弟は都にありて、家臣桂田右近を郡司として加州へ下し、成敗をなさしむ。然れども諸国の源氏、法皇の院宣を請ひて、蜂起しける故、木曽義仲は信濃に起りて、越後・越中を打従へ、京都へ攻登らんと企つる故、越後の国の資長を、越後守にして、木曽を防がしむ。資長陣中に死し、舎弟長茂、是に代りて防ぎしが、長茂打負け、逃亡しければ、義仲大に威を強くし、越中へ押渡り、射水郡に陣を取り、国中を語らひける。折節炎暑にて、陣中水乏しければ、義仲弓を以て地を刺して、南無や八幡と祈願しければ、忽ち清水涌き出づる。〈今中田の三戸田海道に、弓清水とて古跡あり〉軍勢力を得て、砺波郡へ打越え、植生の八幡宮へ願書を籠め、蓮沼の町より、株莄の森に屯し、終に越中を打従へける。爰に富樫次郎家直早世して、舎弟泰家、相続してありける。兼て法皇よりの院宣ありし故、義仲に随つて、篠原の合戦に高名し、名を顕しける。

木曽義仲は、為義が孫帯刀先生義賢が子、二歳にて父に別れ、久しく信濃に住し、此度京都へ攻上り、平家を攻落し、自分をして朝日将軍と号し、王位を軽んぜらるる故、頼朝、義経をして之を討たしめ、江州粟津が原にて討たる。某妾巴といへるは、後加賀の国にて卒しけるとぞ。〈加州倶利加羅に古墳あり。〉

八十二代後鳥羽院文治元年、源頼朝、平氏を討亡し、四海静謐に治まりしかば、諸国総追捕使を召され、国々に守護を置きて、又庄園には地頭をすゑ、六十余州、皆武家の成敗となる。富樫家も鎌倉へ召され、左衛門尉に叙せられ、御家人とぞなりける。 富樫泰家加賀の守護職となる此時泰家、加賀一国の守護職とぞなりける。

鎌倉実記に、朝廷より国々へ下さるゝ国司を、受領とも号し、一国の政務を司らしめ給ふ。貢物を奉る役なり。其下に介・椽、其次に目・使生・使部・国掌抔いふ下司ありて、国の大小により、椽・介とを略す。又一郡を司るを、郡司といふ。国司の下にありて、一郡を支配するをば、大領といふ。是等の役人ありて、貢物を取立て調進する。国の年貢を、正税といふ。畠の年貢を公廨といふ。正税は御蔵に治め、公廨は諸役人の料に下さるゝ。又調・庸と名付けつゝ、或は金・銀・糸・綿の類を調進オープンアクセス NDLJP:114する、是れ今の浮所務なり。戸数に因つて之を奉る。遥牧の国司とて、都にあり乍ら、其国を司るあり。国司領の米は、所務すれども、公廨の配当なし。此配当は、介に下さるゝなり。さて国々に因つて、公家・武家の家領一庄・一村宛、先祖より伝来の領分あり。又寺社領もあり。其国生立の士ありて、一庄・一国を承知したる者あり。皆々宣命の綸旨を以て、年貢を除くなり。公卿の役料は、太政大臣四十町、左右の大臣三十町なり。位田とは、一位に八十町、夫より段々順下して、正五位に十二町、従五位に八町なり。又封戸は、一位に八百戸、二位に六百戸なり。此の如く、位田と職田とを以て、其官次第にて、其禄知るゝなり。扨其国に悪徒等ありて、国司の成敗に随はざる時は、帝都へ訴へ、弾正尹より之を下知し、検非違使或は将軍に仰せて、追討有之なり。然るに頼朝の時代、検非違使の代りに、諸国へ我家人を下し、守護と名付けて、非常の備になし給へども、いつしか諸事共に、守護職の成敗となり、国司の権威は、空しくなりしなり。夫より大方には、国守に任ぜられても、其国へ至る者なし。故に自ら、守護人の成敗とぞなりける。

文治三年、義経奥州下向九郎判官義経、頼朝と不和にして、勅勘を蒙り、潜に奥州へ下向ありと、聞えしかば、頼朝諸国へ下知して、其の路々を支へらる。加賀国へも下知ありて、安宅の海辺に関をすゑ、彼輩を咎めしむ。然るに其年の三月、義経主従山伏となり、羽黒山へ赴く様にして、加賀国を打通る。船にて能登の国三崎浦を廻り、越中国氷見伏木港へ上り、夫より越後路を経て、卒に奥州秀衡が許へ下りける。頼朝之を聞き給ひ、甚だ怒り、富樫泰家官を解かる富樫が守護を除き、剰へ官を解かしめらる。富樫泰家、是より流浪の身となりし故、入道して、法名をば仏誓と改め、諸国を行脚し、奥州へ行きて、再び義経に見えける。義経、前恩を思ひ、秀衡に頼みて、一箇の地を与へて、富樫を爰に居らしむ。此処にて一子を儲け、前野庄九郎とぞ名乗りけるが、遥に年を経て、其子孫太閤秀吉へ仕へ、今坪内氏と申すは、此人の末なり。仏誓入道、其後本国加賀に帰りけるが、国にある富樫家春、家を継ぎけるが、頃年父子共に大病の事あり。夢想に告ありて、河北郡津幡の太田山に、富士権現を勧請し、諸堂建立して、田地を寄附せしむ。是より先承久三年、鎌倉執権北条義時が振舞を、上皇後鳥羽院御憤あつて、諸オープンアクセス NDLJP:115国の武士に院宣を下され、鎌倉追討の事を企て給ふ。承久の乱之北条家大軍を催し、上洛せしむる由なり。義時が次男朝〔〈時脱カ〉〕は、四万騎の勢を率し、北国より馳登る。兼て院御所より勅定あれば、富樫家春、幼少たりと雖も、越中の井口・桃井等と語らひ合せて、越中・越後の堺川に屯し、防ぎけるが、終に関東の大勢に打負け、逃亡しけるにより、朝時、都へ恙なく登りける。此時諸院・諸皇子、皆遠国に遷し奉る。其後六波羅に探題を置き、諸国の下知をなさしむる故、弥〻武家の代とぞなりにける。富樫泰家入道仏誓卒して、一子の家春家督し、後入道して、定照とぞ号しける。其の子泰明・其子信泰、連綿としてありけれども、終に鎌倉へ召出されず。信泰が子高家相続の頃は、後醍醐帝の御代の中なりけり。

 
富樫、足利家の幕下となる事
 
後醍醐天皇、諱は尊治と申し奉る。御年卅一にて即位まし此帝御幼稚より、文字を好み給ひ、常に諸臣を召して、五経・三史等の論議をなさしむ。又東福寺の師陳・南禅寺の疎石等を召し、禅法に御帰依あり。上皇後宇多院、政務を執行ひ給へ共、鎌倉へ内談ありて、当今に政務を御譲りなされて、大覚寺へ御隠居し給ふ。此時鎌倉の将軍は、守邦親王〈後深草院御子、前将軍久明親王の御子なり〉執権北条相模守高時なり。然るに去る承久の乱以後、鎌倉の威盛にして、王威はありてもなきが如く、帝之を憤り給ひ、終には鎌倉を追討せんと、元弘元年、諸国の武士に命じて、鎌倉追討の事を謀り給ふに、関東へ洩れ聞え、鎌倉の大軍押来り、帝は笠置へ御幸なりしを、捕へ奉りける。其後関東の足利尊氏・新田義貞など義兵を起し、鎌倉を攻亡し、六波羅を追落し、正慶二年五月、再び重祚し給ひけり。此度の恩賞として、尊氏に常陸・下総を賜はり、義貞には、上野播磨、尊氏の弟直義に遠江、義貞の弟義助に駿河国、嫡子義顕に越前国、楠正成には摂津・河内、名和長年に因幡・伯耆を賜はり、猶も余の恩賞も多かりける。凡そ昔は、武家所領を受け領ずる事なかりしが、近年越中国は、名越遠江守時有守護として、放生津に館を構へありけるが、元弘三年、鎌倉の北条高時、没落に及びけると聞き、一族を催し、同国射水の二塚といふ所に陣を張り、越後路より上洛する官軍を防がんオープンアクセス NDLJP:116と、待ち居たる所に、京六波羅も、没落の由聞えければ、国中の一揆起り、終に押寄せ、討亡しけり。舎弟修理亮有公・甥兵庫介一族、何れも船に乗り、切腹してぞ果てにける。此遠江守は、北条時政よりは六代民部公貞の嫡子なり。〈此後放生津海上に、幽霊折々顕はれ候由、大平記に見ゆ。〉

建武元年、公家諸国へ国司を下されけれども、近年京都の乱逆故、公家闕職ある故、五畿七道へ、纔に十六人下向ありて、其外は守護職として武士を遣され、或は目代を置きて、下知をなさしむ。此時加賀国へは、二条大納言師基をして、国司として下さるゝ故、河北郡に館を造り、近国の下知を掌らしむ。〈其館跡を今、御所村といふ。〉足利直義を鎌倉へ遣し、相模守に任ぜしめ、成良親王を供奉して、関東将軍たらしむるなり。爰に西園寺大納言公宗といふ人ありしが、北条高時が弟の恵性と、密謀を企て、高時が子の時行などを語らひ、東国に於て、北条の余類を狩集め、旗を掲ぐる故、尊氏大軍を引率し、鎌倉へ下り、終に恵性・時行等を討亡し給ひける。爰に又名越遠江守が嫡子時兼も、恵性等と謀じ合せ、越後・越中の間に旗を挙げて、道威を振ふ故、楠正成を北国の討手として、下さるべきの所に、近習の支へに依りて、桃井播磨守直常を遣さる。直常は越国の間に於て、名越太郎時兼と数度戦ひて、遂に時兼を討亡しける。富樫高家も、加越の境にて、桃井に加勢の形勢を張ると雖も、名越早く滅亡に依つて、引返しける。

延元元年、尊氏鎌倉に在留し、東国を一円に打随ひ、威を近国に震ひ、剰へ自ら征夷将軍と称す。是より先に恵性等、鎌倉の直家を攻むる時、直義立退きけるが、其頃大塔宮尊雲親王、〈天皇の御子、〉仔細ありて鎌倉に捕はれ、御座ありけるを、恵性等に御一味あるかと疑ひ、窃に害し奉る。此事天皇聞召され、尊氏兄弟が恣の仕方、甚だ逆鱗ましまして、新田義貞に命ぜられ征伐させしむ。義貞、此時一宮尊良親王を供奉して東征するに、参州・相州箱根両度の合戦、官軍大に打負け帰洛せしかば、夫より北国・西国・南国に至る迄、皆尊氏に応ずる者多し。富樫高家尊氏の幕下となる是より富樫次郎高家も尊氏の下知に従ひける。

延元元年、尊氏上洛し、京都に於て、義貞と戦ひけるが、奥州の北畠顕家、官軍を率して上洛してければ、尊氏終に打負け、九州へぞ落行きける。此時富樫高家も上洛オープンアクセス NDLJP:117して、数度の合戦に出でけるが、戦空しうして、尊氏と打連れて、九州へぞ下りける。筑紫の住人菊池武俊、九州の勢を催して、尊氏を討たんと合戦する。四国勢には、尊氏の味方にて、筑前国多々良の浜に於て戦ふ。尊氏運を天に任せて合戦し、菊池に打勝ちければ、夫より西国一統に、又尊氏へぞ属しける。此時富樫次郎高家は、多々良浜にて、高家戦死晴なる手柄を顕し、討死を遂げにける。〈此時の高名七人の内なり。〉建武四年、尊氏都へ帰り、大納言に任ず。義貞戦死新田義貞、越前に於て命を落す。是より又、武家一統の代となりけり。爰に富樫高家が一子、未だ幼少にてありけれども、将軍召出され、御諱字を給ひ、氏春と号し、加賀之介に任じ、守護職を給はりける。是れ父の高家、九州にて討死せし恩賞とぞ聞えし。氏春幼少なれば、高家が兄弟泰信・家明・家善に、各一郡づゝの司を給はり、所領多く配当ありて、氏春が後見をなさしむ。中にも家善は、強剛の兵にて、尊氏の幕下に伺候して、毎度京都に於て高名を顕す。越中の桃井幡磨守直常は、官軍となりて、尊氏と戦を挑む。依つて富樫の一族は加賀にありて、越前・越中の官軍を防がしむ。是より富樫の一族、加賀一国に繁昌し、泰信を山代殿と号し、家明を久安殿と号し、家善を押野殿とぞ号しける。先祖家近が祭る所の稲荷明神を、其館に勧請し、永く氏神と祭りける。 〈富樫氏、稲荷を祭るに、賀慶に小豆飯を供し国民是に傚うて、此国今に至る迄、宇賀神祭及び賀慶ある毎に、小豆飯を焚くとぞ。〉観応二年、将軍尊氏の嫡子義詮を京に置きて、其身は西国征伐に発向せらる。其隙を伺ひて、桃井直常、尊氏の弟直義入道恵源に応じ、都を攻めんと、越中を打立ちける。加賀国富樫の一族は、尊氏恩顧の者なれば、之を防がんと兵を催し、津幡村にして兵を揃へ、軍評議をなしけるに、頃は正月七日計り、北国の習深雪の上に、此頃降積る春の雪、地上に五尺計もありければ、いかにして軍をなすべきやうもなしと、人々いひけるに、直常、かんじきといふものを多く調へさせ、軍兵にはかせぬれば、浮沓をはきたる如くにて、山合・谷合、一丈もありぬる雪の上を、陸地の如くに押上り、直に劒の宮の麓より、吉野山代を指して寄せけれども、富樫一家の者は、其深雪の上に、取分此頃降積る大雪に、よもや桃井も、当分は寄すまじと、油断して居たる折節、逆寄にして追払へば、道の警固の者共、思ひかけず散々になりて、直常は只上洛にのみ心懸けぬれば、打捨てゝ押通る。爰に野々市の氏春がオープンアクセス NDLJP:118弟右近義宗といふ者、手勢五百人を引率し、跡を付けて追懸くる。されども深雪の山道なれば、軍兵共、思ふ様に慕ひ難く、大軍の跡を押すには、如何程の大雪にても、落入らざる者なきに、誠に不思議なりといひければ、道々の郷民共、桃井が軍兵の、かんじきをはきたる事を告げければ、家宗、さらば手の勢にも、残らずかんじきをはかせ、跡を追懸けて越前に至る。爰は斯波高経の国なれば、一支もあるべきなり。其時後陣不意に打入らんと、固唾を呑んで追懸ける。此足利高経、其頃尊氏を恨む事ありて、南方宮方へや叛心せん、九州の直義方へや内意せんと、狐疑一決せざる折節なれば、桃井をば、加賀・越前の間にて、手強き軍せんと思ふに、難なく打上り、直義に会して義詮を攻め、忽ち京を落しける。富樫家宗は、桃井が跡を慕ひ、上京せしかども、此度恵源入道の事に付き、尊氏帰洛の沙汰を聞き、播州に行きて待合せ、則ち此所に於て、度々恵源入道と合戦ありしが、毎度尊氏打負け、家宗手勢悉く討亡し、疵多く蒙りて、富樫昌家家宗家督が争ふ終に加州へ下りける。其後富樫之介氏春卒して、嫡子昌家幼少なり。殊に近国に敵多ければ、加賀の守護心許なしと、国人言募り、氏春の弟家宗を家督にせんと訴へける。将軍義詮も、家宗の武功、且つ先年桃井が跡を追ひて、上洛の功などを、能々知召しありければ、此事沙汰あらんとの評議にて、家督争論に及びけるが、佐々木道誉、偏に嫡子昌家に執奏なしける故に、昌家を、又加賀之介に任ぜられける、此昌家が弟二人あり。第二は英田小次郎満家といひ、第三は右京量家といふ。是は後に、山代家の養子となり、高安となる、貞治五年の秋、斯波義明をして、越中の守護となし、桃井直常を征伐せしむ。合戦難儀の時は、富樫が一族、加賀より加勢すべき旨台命ありければ、義明越中に於て、桃井と度々合戦に及ぶ毎に、勝利を得る故、直常打負け、新川郡松倉城へ引入りける。此時直常が嫡子直和、長沢といふ所に出張して戦ひ、終に討死する。直常が弟修理大夫直信・其弟三郎直弘、其子刑部少輔詮信等、婦負郡より、山内城が端辺へ逃隠れければ、一先づ越中平均に及びける。其後応安四年、直常再び国人を語らひて、石動山天平寺の衆徒と心を合せければ、衆徒二千騎の兵を起し、斯波が本城守山へ押寄する時、直常も、新川郡より発向しける。義明不意に前後に敵を受けて、悉く敗軍し、京都を指して逃登る。依之舎兄左兵衛オープンアクセス NDLJP:119佐氏頼、法体して玉田庵と号しありけるが、此人武勇勝れたりける故、越中へ遣して、義明は京へ登り、氏頼をして桃井と合戦させしむるに、宮方の威勢、段々に弱りけり。武家繁昌の時に向ひぬれば、漸々桃井播磨守は、一年西園寺大納言叛逆の時、名越太郎時兼、北国に旗を挙げて、攻登らんとするに依つて、桃井、越中の守護に任ぜられ、討手を下し給ふ。直常は地侍故、国中の人民を語らひ、遂に時兼を討亡し、其恩賞に、此国を賜はりけるが、長く宮方となりて、忠を尽し侍るなり。

 
昔日北花録巻之一
 
 
オープンアクセス NDLJP:119
 
昔日北花録 巻之二
 
 
富樫、大乗寺造立の事
 
爰に高家の弟富樫刑部左衛門家善、〈押野と号す、〉尊氏将軍の幕下に属し、毎度京都に於て武勇を顕し、恩賞他に異なれば、家栄え名揚り、近国に響きける。老年にして、嫡子家尚に家督を譲り、名を英道居士と申しける。此頃曹洞宗の僧に、明峯和尚といふ人ありけるが、是に帰依し、禅学を好みぬ。卒去の後、家尚発起して、野々市に於て、大乗寺といふ伽籃を建立し、明峯を請じて和尚となし、常住百僧を供養し、安居結制を行ひける。抑曹洞宗の開山は、元亨釈書曰、道元、氏は源、京師の人なり。大納言通忠の子なり。始め建仁寺の栄西に見ゆ。明庵之を奇として、法然なりといふ。貞応二年、宋地に入り、天童太白山如浄禅師に見ゆ。如浄、曹洞宗を以て附与し、帰りオープンアクセス NDLJP:120来りて、法を王城の南深草に開闢せり。平時頼、招請すと雖も、辞して北越に至り、爰に住居す。名付けて永平寺と号す。建長二年八月廿八日、寿五十四にして卒去す。此道元和尚、宋より帰朝し、帝都の辺にして、其宗を弘めんとせしかば、先達つて新宗を建てられし法然・親鸞・吾師の栄西も、皆々叡山の訴訟に依つて、或は遠流せられし。当時上門并南都七大寺の威権、只事ならず、とても弘法の時機にあらずと、北越の方へ蟄居し給ふ。然るに入宋の内、彼国の双林に於て、寺格又は法会の式抔、悉く意従せざるの間、高弟徹通を再び宋へ遣し、諸岳の法式を写さしむ。徹通を再び宋へ遣し、帰朝の時は、はや師の道元遷化し給うて、六年を過ぎたる故に、永平寺は、懐弉住職となりける故に、徹通は、加能両国の間に経巡り、其頃石河郡野々市に、大乗寺といふ真言寺あり、零落して、再建叶ひ難くて、住侶の法印澄海といへる僧、此徹通が、弘法開法演の器たるを知りて、此寺を譲り給ふ。徹通大きに悦び、終に住職し、曹洞の寺となしける。初め徹通入宋の時、師の形見として、道元自作の肖像を負ひて往きけるが、之を爰に安置して、朝夕之を拝す。徹通薨じたる後、瑩山爰に住し、此度明峯に譲りける。明峯は、瑩山の弟子なりしが、終に此寺を発して、伽藍とは做しける。爰に蛍山和尚は、初め後醍醐天皇帰依まして、紫衣を賜はり、曹洞一派の僧禄となし、永平寺を本山とす。然れども永平寺に、開山の木像なし。是に依つて、大乗寺の像を求めて止まず。富樫氏之を肯はず。此時永平寺に伝ふる所の什物、一夜の碧巌の助を得て、一夜に写し得たるものにて、曹洞一派の宝器なれども、之を大乗寺へ与うて、彼木像に代へんといふ。是非なく富樫家、尚肖像を奉護して、越前へ送り、碧巌集は、終に大乗寺の什物となりける。又徹通在宋の内、彼国の諸岳双林の規矩法、或は伽藍の絵図等、悉く写し来りければ、瑩山和尚此書に因つて、曹洞の法式を定めらるゝ故に、此一派、大乗寺を以て、規矩の手本とする事にはなりぬ。此時則ち富樫一家の菩提所となし、次第に諸堂建て備はり、北越無双の精舎となる。昌家を始め、山代・久安などの家々より、田地を寄附し、山林をも持たせて、永く安居の退転なからしめんとす。京都将軍よりも、毎度国家安全の祈祷の為めに、下知文を寄せられぬ。此明峯和尚の後住大智和尚、是れ博識の名僧オープンアクセス NDLJP:121にして、曹洞宗を、西国并奥羽に開演せしむる故、諸国に草創の寺多し。富樫昌家の叔父定照居士、此大智を帰依し、大乗寺へ招き、隠居の砌、我館の吉野にありけるを造立して、祇陀寺と号し居らしむ。西国・東国に開基せる寺院は、皆祇陀寺を以て本寺とせり。故に此寺、又壮観なり。共に富樫一家の檀信故、国民又馳走せり。

道元より、二世懐弉・三世義界・四世瑩山なり。此後醍醐天皇御帰依まし、曹洞一派の総録に補せられ、永平寺を、本山と勅許あり。其後大聖寺等の諸寺に遊び、能登国永光寺を開き、末年同国総持寺にて薨ぜり。永平寺は、峨山といへる高弟住職たり。外に五哲と号する徒あり。所謂大源和尚・徹通和尚・無瑞和尚・大徹和尚・宝峯和尚・此五和尚、総持寺を瑩山の廟として五院を立てゝ相続せり。遥か後年に至り、東照神君治世の頃、此寺も、曹洞一派の本山と定まり、永平・総持相並びて、北越に法灯を輝しける。日本の曹洞、右の五哲に分る故に、五派よりして、総持寺を輪番に看主たり、総持の号、尤も其故あるかな。

 
富樫等一向宗合戦の事
 
富樫加賀之介藤原昌家、京都将軍義満の命に随ひ、国政専ら相務むと雖も、多病にして、軍陣催促の命に応ずる事能はず。依つて舎弟英田小次郎を以て、国勢を相随へさせ、京へ上りけるが、小次郎、元来強勇の武士にて、将軍の旨に叶ひ、諱字を給はりて、満家とぞ号しける。此頃山名時熙・同氏幸両人、将軍家の命に背く事ありしに、同類山名陸奥守氏清・同播磨守満家等に命じて、之を討たしめらる。因つて小次郎も、義満の命に随ひ、氏清・満幸に加はりて発向して、終に時熙・氏幸を追討す。両人中国へ逃下りけるが、再び降参して、本領安堵しける上、又氏清・満幸、恣の振舞ありしを、義満咎められけるにより、旁以て氏清等之を憤り、叛逆を企て、丹波・和泉より兵を起して、将軍家へ敵対する。此英田小次郎は、氏清が指揮にありて、心ならず叛逆の人数に加はり、洛中へ打入りて、所々に於て合戦あり。是れ明徳二年内野合戦なり。氏清并兄弟は、義教等家老の小林弾正、英出小次郎満家は、大内義弘オープンアクセス NDLJP:122と戦ひ、英田満家戦死十二月晦日、内野にて皆討たれぬ。満幸は逃去りけり。管領細川常久并畠山基国・赤松・山名・一色・斯波先陣たり。将軍自ら旗を進めて、終に打勝ちける。此度英田小次郎、京都に於て、将軍家の敵となり、討死したる以後、諸国の武士、今日宮方、明日は武家方と心変へけれども、富樫一族、卒に二心の振舞なし。右の趣を以て、将軍家よりも、殊に称美ありし者共が、此度満家一人、無道の振舞、申訳なき所なり。然れば富樫一族追討の評議、あるまじきにもあらず。急ぎ言訳して、此罪を免されんと、則ち小次郎が弟量家上洛して、細川常久に便り、今度の満家が振舞、一族の知る所に非ず。其上最前時熙等御征伐の砌、御下知に依つて、氏清が指揮に随ひ、間もなく氏清が叛逆の節は、彼が旗下を逃出づる事能はず。終に逆徒に与し候て、満家心外の働により、早や討死致し、郎等共に此事を遺言いたし、国へ帰し候由、逐一に演べければ、将軍家許容ありて、景家を慕下に留置き給ふ。

〈此量家、後に山代の泰信が養子となり、高安と号す。法体して浄清と号し、大乗寺明峯和尚の弟子となり、一室を造立し、高安軒と名付け、明峯を開基とす。〉此の二人、将軍家筑紫菊地退治として発向故、諸国の軍勢を召し給ふ。越中の国司斯波義将も、先陣に随ひ、筑紫へ下るによりて、越中の桃井、宮方の守護として、毎度軍を出す間、狼藉の節は、加州より富樫の一族、越中へ申すべき旨、将軍家より命ぜらる。桃井直常は、此頃射水郡の軍に打勝ちける故、威を越中に振ひけるとなり。直常卒して、孫の直氏、家督相続しけるが、其後応永廿三年、将軍義持の弟新大納言義嗣叛逆して、より将軍家へ恨ある者を語らひ、桃井刑部少輔直氏、是に応じて上洛し、此事を謀りけるが、事顕れて、終に謀計ならず。同廿五年義嗣生害。桃井も捕はれて、幕府へ引かるゝ。将軍家へ降参を乞ふと雖も、うけがはれず。鳥部山に於て自害す。其妻の方へ遣す辞世とて、

   本来夢裏差乾坤  向上撤却一利劒

   うき身世にやがて消えなば尋ねても草の露をや哀れとも見よ

斯くの如くして、桃井生害に及びけれども、其頃鎌倉管領持氏、京都と不快故、寄々桃井が跡を取立て、直氏が一子直弘并叔父も、毎度鎌倉へ出仕して、其指揮に随ひける。其後永享の頃、信濃の小笠原政康、村上頼清と合戦の節も、鎌倉の命として、越オープンアクセス NDLJP:123中勢を催し、村上が加勢に赴きける。夫より鎌倉の持氏、家老の上杉憲実と合戦の節も、直弘并叔父の上野入道直蓮、共に越中の一族大勢を引率し、持氏の味方となる。然れども京都将軍より、持氏退治の命、諸国へ触れ来りければ、京勢を始め関東の大勢、持氏を攻亡し、永享十一年、鎌倉の永安寺にて生害す。足利基氏、観応年中、東国を領したるより、四代九十年にして亡びぬ。是より上杉、押して管領職となる。此時桃井入道直蓮は捕はれ、殺さるゝ。直弘は遁れて、越中へ逃げたりけるとなり。去程に、富樫之介昌家は、多病にして、爾も嗣子なければ、舎弟満家が子の小次郎を養子として、富樫昌家満春を養ふ家督を継がしむ。叔父の量家は、此時山代家の養子となり、京都に伺候しければ、此時山代家の養子執奏し、小次郎上洛の上、将軍諱の一字を給はり、加賀之介満春と号しける。此満春、禅学を好み、館内に一室を建て、勝蓮寺と号す。国満春出家人等、勝蓮寺殿とぞ号しける。其後入道して、常継禅門とぞ申しける。此満春に三子あり。嫡男次郎持春、則ち富樫之介、福巌寺殿と号す。〈法名常永〉。次男右近大夫教家・三法名男小三郎泰高といふ。然るに嫡子次郎、将軍より御諱字を給はり、持春と号し、加賀介に任じけるが、実子なきに依りて、弟の教家を養子となし、加賀介に叙し、義教公より御一字を給ひ、教家とぞ号し、家督を継がしむ。其弟の泰高は、上洛して、将軍の幕下に伺候しける。此頃京都は義将公以来、諸国も泰平にして、干戈の動きなく、依つて諸士高情になり、茶湯・蹴鞠・遊宴専らなり。泰高も都にありて、細川持氏と深く交はる。毎度将軍家の御供に候して、北山・東山の遊宴の席に伴はれける。其後教家卒して、一子成春を、家督相続せしめんと、一族推挙しける所に、細川持之・勝之の親子より、叔父泰高が、久しく在京して、将軍家に功ある事を申募り、泰高をして、加賀介たらしめんといふ。爰に管領畠山持国徳本入道、内々細川家と中よからず。依つて次郎成春を扶けて、終に加賀半国宛の守護となされし。泰高・成春の両人を富樫之介に任ぜられける。泰高成春共に富樫之介に任ぜらる依つて一族断絶してありけるが、此度赤松が郎等共南方の宮方にありし神宝を盗み出し、内裏へ返納せしめ奉りける。其恩賞として絶えたる赤松家を再興し、赤松政則加賀半国の守護となる満祐が弟義則が二男の次郎政則とて、五歳になりける者をして、加賀半国の守護を賜はりける。是れ細川勝元が執奏に依つてなり。然れオープンアクセス NDLJP:124ども此時より、富樫成春は、赤松の旗下に随ひけり。其頃畠山徳本が子の義就は、河内にあり。義就は、能登の国司に補せらるゝ。然るに応仁元年より、山名宗全と細川勝元と威を争ひ、諸大名双方へ方人して、日本中動乱となる。将軍家の威勢衰へて、之を征する事叶はず。富樫一族細川勝元に一味す洛中の合戦止む時なく、此時富樫一族は、細川方へ一味して、京都へ毎度出勢して、能登の畠山義就も、山名へ方人して、北海渡船を止め、細川が兵糧運送を支へけり。因つて将軍家より命ぜられ、義就を細川方へ降参せしめらるゝが故に、北越の兵糧道開けて、細川勝利を得る事にはなりぬ。其後此功により、義就管領に任ぜられけり。文明三年、本願寺の蓮如上人兼寿、華洛より北国へ来りて、越前・加賀・能登・越中・越後迄、経巡りければ、百姓等、本願寺派の一向宗を尊敬して、奔走すれば、宗旨も広まり、国中所々に御堂を建立して、子孫弟子等を住侶となし、爰に一月、彼法義弘通の説法をなし給ふに、渇仰せずといふ事なし。其頃越前にて、朝倉敏景入道英林寺といふ者ありて、主人斯波武衛の跡を、将軍義政公より拝領し、一国を打随へ居けるが、此蓮如上人に帰依して、細呂木の郷吉崎といふ所に、一箇の地を寄附せし故、爰に一宇の御堂を建てゝ、本山となしける。抑此一向宗の開山親鸞上人は、弘長二年遷化せられしを、十一年後文永九年、弟子中評議して、東山大谷に本願寺を建立して、亀山院より勅号を賜はり本山となす。然るに上人在世の後、開基の寺々多しと雖も、就中下野国高田の郷専修寺は、勅号を賜はる故、此寺次第に繁昌し、高弟真仏庵より、代々相続して、中頃伊勢国へ移住す。高田派と号し、一派を立てしが、越前・加賀に、其門葉蔓り、大坊主と号す輩ありて、常に本願寺派と中悪しく、賀州石川郡・河北郡には、本願寺派大坊主数多ある故、江沼郡の者共之を語らひ、一向宗高田派本願寺派相争ふ度々高田派の者と、評論止む時なし。是に依つて、江沼郡・能美郡の高田派の百姓、会津・細呂木の者を語らひて、折々吉崎へ仇をなす。吉崎のたや〈今云長屋〉にある坊主共、之を防ぐと雖も、土民等大勢にて難儀に及ぶ。〈此頃蓮如上人吉崎にて和讃を勤めらる。〉 爰に朝倉の家士に、和田大膳といふ者、蓮如上人へ深く親近して仕へけるが、下間氏を給はり、筑後法橋となり、武勇の者なる故、大将となりて、一揆を防ぎけるが、是より下間が兵威、近国に震ひける。爰に富樫成春が女は、勢州高田専修寺へ嫁娶オープンアクセス NDLJP:125す。此縁を以て、成春、両郡の高田派と本願寺派の百姓等を召集め、争論を止めさせけるに、頗る高田派を荷担し、本願寺派をおとしければ、土民共大きに腹を立て、下郡・石川郡・河北郡の大坊主、木越の広徳寺・磯部の正安寺等を語らひ、国中大に起り、吉崎の下間筑後を招き、大将にせんといふ。蓮如上人、赦し給はず。依つて筑後申す様、一揆の徒党、差止め申すべき旨、御示状を以て、差止めさせ申すべしとの事に付、其通り触文を持たせ遣されける。筑後、加州へ来りて、触文を出させて、上門の御意なりと号し、大将となり、野々市の館へ押寄する。俄の事なれば、富樫成春進退究りて、既に切腹せんとす。石川の守護職同氏泰高、之を扱ひ、一先づ成春は館を退き、山代の辺へ蟄居しければ、下間等の一揆共、国中の高田派の者共を、攻亡さんと犇きけるを、泰高色々に扱ひて、無事になりぬ。是より加賀一国は、本願寺領の如くになる。蓮如上人の次男権僧都兼鎮といふは、越中勝興寺の住職たりしが、我寺を、四男の蓮誓法印に譲りて、此頃加賀の若松に道場を建て、法を弘めらる。此嫡子蓮能僧都、山田の郷に、光教寺を開基しけるに、国中より寄進して、何れも希代の伽藍となりける。されば富樫成春は、山代辺に蟄居してありし内卒去して、一子次郎、幼少たればとも、当国数代の守護職なれば、家督相続あらしめんと、百姓共打寄り談合して出迎し、野々市へ帰館なさしめ、越前朝倉家へ便りて、将軍家へ御礼をなし、富樫之介に任じ、政親と号しける。政親富樫之介に任ぜらる近年応仁の兵乱発りて、毎度合戦ありしが、文明五年、山名宗全・細川勝元両将、一時に病死故、洛中の戦相止み、諸大名は、国々へ帰りける故、また諸国動乱となりける。富樫家の兵威次第に衰へ、本願寺の候人、加賀国一国を下知して、猶越中も、勝興寺・瑞泉寺等の大坊主共、棟梁とはなりぬ。越前の朝倉敏景も、一国を打従へて、近江国へ働かんと志しけるにより、先づ国中の一揆を鎮めんと、高田派・本願寺、共に折々軍勢を出し合戦ある故、蓮如上人、下間筑後を勘当し給ふ。此者大将となり、毎度一揆を勧めける故なり。されども敏景、吉崎を尊敬の体にもあらず、畢竟動乱の初めならんと、文明十一年、吉崎を立退きて、蓮如上人は、近江の山科に一宇を建て、爰に移住せり。

一向宗の本山は、開山七十一歳の時、自ら像を製して、譲状を添へて、孫女覚位オープンアクセス NDLJP:126尼へ与へらる。夫より此像のある所を以て、本山とする定めなり。文永九年、本願寺草創ありしより、寛正年中迄百九十余年、東山大谷にありしが、其頃宗門弥〻繁昌して、後土御門院の時、禁裏にありし日華門を、本願寺へ御免ある。是れ蓮如上人の時なり。此御門の内にある寺なる故に、御堂と一宗の輩等之を唱ふ。山門の衆徒此事を憤りて、大勢軍勢を催し、大谷を焼打にする。僧侶四方へ逃散り、蓮如上人手を負ひ乍ら、彼木像を守護して、江州三井寺の辺近松といふ所に、暫く忍び居る。夫より北国へ経廻りゐる時、彼近松に預け置かれける。文明五年、越前吉崎に一宇建立して、彼像を迎へんとし給へども、江州の門徒、惜しみ奉りて許さず。是に依つて、吉崎には写身の御願といふをかけ、夫より報恩講をば、修行ありけるが、程なく越前も物騒にて、文明十一年、江州の山科に越し給ひ、一宇を建立し、彼木像を安置しける。此時より御廟と本山と分けて、二箇所になる。其以前は、御廟所を以て本山とす。十七年の後明応五年、大坂へ隠居し給ひ、山科の御堂は、実如上人〈是本願寺第九世なり〉に譲らるゝ。夫より〈十世〉証如上人相続し給ふに、天文二年、山門より又山科を焼きしに、此時大坂へ引越し給ふ。〈十一世。〉顕如上人、天正八年、大坂を立退き、信長へ渡し給ひて、紀州鷺の森御坊に住し、同十九年太閤より、京六条通り堀川に、御朱印の地を寄附ありしかば、摂州天満の御堂を引取り、爰に一宇を建立あり。顕如上人の時代、〈是今の西本願寺なり、〉又御嫡教如上人の為めに、慶長十一年、六条烏丸に、家康公より御朱印の地を給ひ、一宇を建立する。

長亨元年八月、江州の佐々木六角大膳大夫高頼、将軍家の命に背き、征伐の事あり。義尚自ら旗を進め、諸国の軍勢を催促ある。政親、六角高頼を伐つ富樫之介政親、加賀の軍勢を引連れ、幕下に伺候す。此次郎政親、身の長六尺に余り、勇壮の兵にて、器量群に秀でたり。若狭の武田と両勢を先陣に手配して、江州へ発向あるに、高頼一戦に打負け、甲賀山へ逃入りける。将軍家は、猶江州釣の里に在陣なり。富樫政親は、近年家督を継ぎて奉公始めに手柄の程を、将軍甚だ感ぜらるゝ。此時政親願ひけるは、近年一国の土民、一向宗に荷担し、国政を専らにす。公貢を遅滞し、やゝもすれば一揆を企て、国中動乱に及ぶ事毎度なり。幕下より、能越両国の士へ御教書を成下され、両オープンアクセス NDLJP:127国より加勢仕るに於ては、早速国中の一揆等を取鎮め申すべきなりと、御暇下され、両国へ加勢の儀をぞ下知ありける。翌長亨二年、雪もやう消えければ、政親、野々市の屋形を立退き、同郡高尾城へぞ籠りける。国中の一揆多き中にも、押野の富樫家信・久安の富樫家元・山城の富樫泰行三軒は、各手勢を具して籠城あり。泰高一人が手は不快の間故、此度籠城はせざりける。国中の土民恐怖して、爰彼所へ会合なし、何となく屋形へ御詫申すには如かじと、家司の山河参河守に附きて、向後御屋形様へ対し、我意を立て申すまじき旨、懇に歎訟しけれども、政親、此度将軍家へ訴へ、富樫政親本願寺派僧侶と戦ふ両国加勢の儀も有之なれば、国中の本願寺派を、僧侶共に攻絶やさんと、兼て思ひける故、中々承引なき故に、土民共是非なく会合し、洲崎の和泉入道慶覚・河合藤左衛門尉宣久を両大将として、加賀四郡の百姓共手分して押寄せける。爰に加賀三山の大坊主達と申すは、木越光法寺・磯部正安寺・鳥越弘願寺・若松の道場山田先教寺等なり。是等寄合ひ評議して、富樫之介泰高へ使者を遣し、此度政親殿の振舞、一国の土民を、残らず殺し尽さんとの結構に見えたり。然れども唇落ちて、歯寒き道理なれば、我々も出陣に及び申すなり。貴殿当国の守護たれば、罪なき百姓を鏖になして、知らぬ顔もなるまじきなれば、一所に出陣あるべきなり。又高尾城へ、一所に御籠なるべき御心中に候や、承りたしと申遣しける。此時三山の坊主達の威勢、富樫泰高本願寺派に与す中々違背に及ばせまじき体なれば、是非なく泰高も出陣せり。 〈三山の大坊主とは、越前にも三門徒といふ大坊主ありて、今いふ巡讃院家の類か。〉大坊主衆は、野々市大乗寺に陣を取り、泰高と一所になり、一揆の後見とぞ聞えける。河北の者共は、浅野大衆辺に陣を取る。石川浜手の百姓は、広岡山王の森に陣を取りて、本陣よりの差図を相待つ所に六月五日、諸方の一揆申合せ、高尾の城を総攻にする。白山の衆徒等も一揆に荷担し、百姓原二千人計引連れて出でける。斯の如く国中の者共、一時に揉立てしかば、高尾城内には、越中・能登の加勢を待てども便なく、宗徒と頼みし士ども多く討死し、或は落行きける故、政親、妻子を越中の方へ遣したき旨頼み遣し、其身は高尾の傍なる岳の城へ籠りける。此所にして、暫く両国の加勢を見合さんと、一族郎等二百騎を勝りて、夜の中に出入をなしければ、寄手初めは知らざりけるが、河合藤左衛門、此事をオープンアクセス NDLJP:128密に聞出して、究竟の若者共六百騎余、慶覚坊を大将として、岳の城の搦手より押上り、無二無三に攻登りけるに、城中不意を打たれて大に騒ぎ、俄に門を開き打つて出で防ぎけれども、一揆等附入にして戦ひける故、終に政親は、水巻新助忠家と、両人馬上に引組んで、政親戦死郭内にある所の深き池へぞ転び落ち、両人共に水底に死したりける。此時宗徒の家来白崎民部・高尾若狭・同九郎右衛門・額八郎・槻橋入道・同内蔵佐・宇佐神八郎右衛門・山川監物・同小次郎等討死して岳の城は落ちたりける。政親始め高尾の城を出でらるゝ時、彼城にて、一首の辞世を残すとぞ。

   五温もと空なりければ何者か借りて来らん借りて返さん  生年卅六

此岳山の池へ、政親馬上ながら沈みし故、鞍が岳と言伝ふともいへり。又倉が岳ともいひて、要害の地とぞ。扨高尾の城には、岳の城落されて、大将討死の由、寄手の中へ聞えければ、城中の者共、今は何をか期すべき。さるにても斯くの如く、大勢取巻きたる中へ、討つて出でたりとも、百姓原を相手に、討死を遂げたりとて、さのみ手柄にもなるまじ。人々は譜代の者なり、切腹して名を後代に残さんと、各評議しける所に、寄手より使を以て、人々必ず自害あるべからず。御大将滅後の上は、寄手引取り申すべき条、勝手次第開城あるべし。中には本郷駿河守は、木越御坊の知音なれば、はや出城あるべしと言越しけり。されども譜代の面々なれば、政親の供せんとて、駿河守を始め、八尾入道覚妙・宮永八郎・勝見与四郎・福益弥三郎・那縁・吉田・小河・白崎・近藤・黒川各自殺して、館に火をぞかけにける。家老参河守は、自害をせんとする所へ、一揆共大勢取付きて、止めける故に、詮方なく、山内祇陀寺まで落行きぬ。高尾城陥る其外一家の人にも、皆出城して、終に高尾は落城しぬ。斯りければ、岳の城には、水底より大将の死骸を引揚げ、菩提所大乗寺へ送り、葬礼を執行ひ、一家の事なれば、富樫之介泰高も、葬礼に加はりて一首の歌を追悼しぬ。

   おもひきや老木の花は残りつゝ若木の桜まづ散らんとは

爰に能登・越中の諸士等、将軍家より、富樫之介政親に加勢すべき由、御教書を以て下知ありければ、打寄り評定に及ぶ。越中砺波郡の人々は、蓮沼に寄合ひ、夫より倶利伽羅山へ押上る。射水郡の者共は、放生沢に勢揃して、各加賀へ打入らんと、五オープンアクセス NDLJP:129月廿八九日、牢人の頭阿曽孫八郎・小杉新八郎先陣として、森下竹橋辺まで打つて来る頃、河北の一揆蜂起し、英田光済寺大将として之を支へ、一戦して打勝ち、倶利伽羅山の麓、黒坂辺迄追討にして引返す。其後能州畠山の家臣共、黒津船宮の腰辺迄、加勢として出張しける。高橋新左衛門・笠間兵衛尉家次、一揆の大将なり。浜手より向つて合戦する所、河北郡の一揆共、湖水を小船に乗越して、跡を乗切らんとぞ押寄せける。能州勢是に恐れて、終に引返す。又越前朝倉貞景の家臣堀江中務景忠は、利仁将軍の後胤にて、富樫とは同家なり。救はずんばあるべからずとて、主人に此事を告げ、手勢二千余騎、江沼郡橘まで出張せしに、はや政親討死の事相知れければ、残念ながら軍を引返し、越前へ帰らんとする所、一揆共大勢附慕ひ、道々合戦してぞ引取りける。斯くの如く、軍何れも一揆共の利運なれば、洲崎入道・河合藤左衛門並に洲崎十郎左衛門正末・安吉源左衛門家長・山本円心入道・高橋左衛門等大将となり、大坊主達へ訴へて、国中にある所の高田派の道場寺々を打毀ち、さて正安寺は大将となり、直に能州へ攻入りける。畠山の一族、此時勢甚だ微々たる故、船に乗りて、越前敦賀迄引退きければ、能州も、一円に本願寺の支配になり、越中勝興寺も加州二俣本泉寺を語らひて、本願寺へぞ捧げける。富樫之介泰高は、守護職の名目たれども、あつてなきが如く、諸事、一向宗の下知に随ひける。泰高卒して、嫡子慈顕多病なる故、孫の植泰、加賀介に任じ、京都将軍義尚始め六角高頼 〈佐々木道誉、京六角通に居住す。故に六角と号す。司氏義貞、京極に居舎す。依つて京極と号す〉を征伐の為めに、江州釣の里に対陣ありしが、陣中にて卒去し給ふ。されども父義政、堅固なりしかば、弟義視の子義村を養ひて子とす。依つて明応元年の秋、義村軍を帥ゐて、六角高頼を攻む。此時北国の勢を催促ありし故、富樫之介植春、五百騎を引率し、先陣に加はる。高頼又甲賀の山中へ逃隠るゝ故、義村帰京し給ふ。翌年三月、義豊が河内の国を征伐ある。〈義豊に義就が子にて、其頃畠山政長管領故斯の如し。〉富樫植春も、将軍家の在陣正覚寺を攻む。畠山政長討死し、義村は捕へらるゝ。富樫植春密に義村を盗出し、其身も共に逃隠る。義村は越中へ赴き、夫より又周防国大内介高へ赴き、年月を送る。富樫植春は国へ帰り、敗軍の士卒を撫育し、京都の様子を窺へば、細川政元一人威を振ひて、将軍義高を取立てければ、畠山義豊も、威勢を振ひしオープンアクセス NDLJP:130ことにはなりぬ。依つて能州へ再び入国なさしめける。是れ能州の守護義豊の次男にて、畠山左衛門義長とぞいひける。始め一向宗の一揆に逃退き給へども、此頃越前朝倉、次第に威勢強し。加州一揆も、毎度取合ありし故に、北国より山科本願寺への通路一円に、絶え果てけるに依つて、本願寺の下間氏、将軍家へ訴訟して、北国の通路滞なきやうにと、朝倉家へ御下知あるが故に、越前と加州と和睦なり。能州へも畠山家入領となる。されども一向宗の威勢盛にして、若松の道場を、石川郡の小立野に移し、尾山と号し、一城の御堂を構へ、山科より下間を呼下し大将とし、三箇国の下知をなさしむ。是れ下間筑後とて、初め朝倉の臣なりしが、蓮如上人へ仕へ、勘当請けしが、上人末期に勘当を許しある故、北国の案内者なりとて、是者を差遣さる。是に二人の子あり。一男筑後法橋・二男下間宮内卿といふ。爰に於て加賀一国、尾山より成敗して、能州半国・越中蠣波郡勝興寺も一郡を領して、次の〈本ノマヽ〉〕此時将軍家の威勢、次第に衰微せり。山門高野、或は又一向宗等の威勢盛にして、本願寺也実如上人逝去し、嫡子光円照如上人も早世。其子の大僧都光融如上人は、父照如より先立つて、大永元年に卒去なる故に、円如なり。〈償如の子なり。〉此家老に、下間上野介真頼・同式部卿法印頼康・同筑後守頼清、此三人威勢を振ひ、諸大名に交はり、公方家の御相伴衆となりて、福祐又類なし。関東・西国・中国・北国に至る迄、国主・領主は、今日ありて、明日早や替る時なれば、漸々と本願寺の領となりて、当時天下の者たる〔〈本ノマヽ〉〕然る所下間上野介が叔父に、下間筑前法橋といふ者、驕に飽く事を知らず。然るに此加賀国の風俗、本願寺派を以て国主とし、近国草の靡くを開くが如くなる事を聞きて、手勢大人数を催し、御国〔御山カ〕の城に馳付け、近国を攻亡し、大功を立てんと謀りけるに、彼下間銃後が子供、是に順随し、既に一揆を催しける。夫より坊主中へ廻文を廻し、此事を告げけるに、三山の大坊主を始め、和田・洲崎・上宮寺・光濂寺の輩、打寄りて評定しけるは、此度下間の企を察するに、全く本寺よりの成敗にあらず。汝等が威勢に募り、大国の守護となり、管領四職に連らんとの自分の奢より出でたる儀なり。これに方人して、天下の敵とならん事、恐しき企なりとて、一人も承引する者なし。筑前・筑後此由を聞くよりも、先づ近所なる若松の隠居へ押寄せ、庵室をオープンアクセス NDLJP:131打毀ち、夫より吉野・波佐谷の道場を破却し、住持達は皆連枝なれば、人を添へて、山科へ差登りて、尚夫より、国中の寺院々々を打破らんといふ。和田超照寺は、終に御山へ降参す。

是より先永正四年、越前の和田超照寺、諸浪人を語らひ、山科実如上人へ申上ぐるは、先年蓮如上人吉崎に御座ありし時、越前一国は随ひ居ける所、朝倉が振舞悪しく、御立退き遊ばされ候当時、拙者共諸浪人を語らひ、朝倉を一時に攻亡すの企を仕置の間、早速当国へ御入下さるゝに於ては、国中一統に、御味方申すべしとぞ申上ぐる。実如上人御承引なし。是に依つて、加賀の江沼郡松住と言合せ、両国の一揆を催し、川より北に陣を取り、朝倉家の小城々々を攻取りしかば、貞景大勢を以て早速討亡し、猶加賀国江沼郡迄来りけるが、夫より超照寺、加賀国へ来り居たりけるが、翌年又玄任と両大将にて、越前へ攻入り、朝倉の舎弟衛門尉教景に戦ひて、一揆大に打負け、玄任は討死し、超照寺は加州へ逃げ帰る。此時越前の国にある本願寺の末寺は、残らず焼立て、坊舎滅亡に及びける。吉崎の道場も、此時破却なり。然るに京都将軍家より、朝倉家へ下知あつて、本願寺派と和談すべき由にて、越前の坊主衆、本所々々に帰りけれども、超照寺は、終に加賀にありけるとなり。

享禄四年、御山の大将下間筑前并同氏筑後法橋・宮内卿・和田超照寺、数万の一揆を催し、猶も旨に順はざる輩を打破らんと、先づ野々市の照台寺へ取懸り、堂塔庫裏、一宇も残らず焼立てける。凡そ能美石川の間には、波佐谷の道場と此照台寺を以て、大坊とぞ唱へけるに、一時に煙とはなりにける。是に依つて、洲崎・和田・河合次郎右衛門等の一類・光徳寺・正安寺も、皆能州へ逃行き、両国の守護へ訟へければ、朝倉教景、数万の軍兵を引率し、金津・細呂木へ来りて合戦する。江沼郡の大坊主・黒瀬の恵教・山田の先教寺は、越前よりの加勢に力を得て進み戦ひし故に、下間氏の一揆共、大聖寺敷地本折辺迄引退き、御幸塚に屯しける。朝倉教景、敷地の天神に本陣を定めける。此時は、加州一国の一揆、攻取らんとぞ催しける。爰に又能州畠山義則は、一族畠山大隅を大将として、遊佐・温井・神保三家老に、能登・越中両国の勢を差オープンアクセス NDLJP:132添へ、正安寺・光徳寺・洲崎等を先陣として数万騎、河北の堺指江・鴈金・黒津舟・宮腰辺まで押寄する。然るに海山〔御山カ〕の城より、一つの謀をなしける。大聖寺辺にて討取りたる敵の首共を、越前朝倉家の大将共の名を書記し、大野八田辺の湖辺にて、梟首したりける。能登勢之を一々見て、扨は上口の戦、越前勢打負けたりと覚ゆるぞ。さあらば勝誇りたる大勢の者共、追付此処へ向ふらんとぞ、路々臆病心になりたる所へ、安宅浦より、軍船数百艘に取乗りて、今浜へ打上り、能州勢の跡を取切る筈なりと、国中へいはせける。其上毎夜猟船数百に、篝火を焚きて、遥かに沖をば往来させける。之を見て畠山が加勢共、後を取切られては難儀なり。一先づ引けといひければ、臆病神の癖として、我先にと崩れ立ち、何仕出したる事もなく、七尾まで引取りける。此時上口には、朝倉左金吾教景・山崎新左衛門尉長家大将にて、御幸塚も攻崩し、安宅・今湊川・本吉迄攻入り、尚も山内・吉野口を、勢を二手に分けて押詰むる所へ、能州口の軍破れて、能越両国の加勢は、残らず引退きける由註進あれば、左金吾も当惑し、今迄は、能州の加勢を頼みにこそ深入せり。いざや越前堺迄引かんと、急に評定せられしが、下間氏の一揆共、此体を見るよりも、村々山々に人夫を置き、鐘・太鼓を打鳴らし、夜は明松星の如くに灯し立て、又安宅辺の浦々へ、猟船に篝火を焚き、数百艘押寄せさせ、国中山々峯々も、あく所なく軍兵の体を見せける故、越前勢、うしろ神の立ちけるにや、我先にと引返へす。兼ては敷地か金津に陣を取りて、大将朝倉教景の出馬を待たんと、約束し置きけれども、大勢の引立ちたる癖なれば、北庄辺迄、我先と引退きける。爰に於て下間の一揆、所々に浪人大将を置き、猶も越前へ攻入らんと、軍用意をぞなしにける。此時富樫介植泰舎弟小次郎晴貞・嫡子次郎植春・二男天易待者并一族の衆中、且又黒瀬藤兵衛尉・福田村竹太夫・能美郡の松永平左衛門・隅田六郎左衛門・湯浅九郎兵衛・金子・小杉・小松の道秀・藤塚の二ッ木・出口の斎藤・安宅の今井藤左衛門・野々市の照庵寺等は、朝倉勢に先立つて、越前へぞ落行きける。河合が嫡子洲崎孫四郎玄任・次郎右衛門・土田・山本・上坂与三兵衛等も、能州口より、越前へ落行きける。朝倉教景、此落人共二千人計に、三千貫の扶持を充行ひ、かくまひ置きける。其後度々此者共、大聖寺橘辺迄討出でけれどオープンアクセス NDLJP:133も、功なくして月日を送り、猶も朝倉家へ、木国に帰り、爰彼こゝかしこを頼みけれども、其頃朝倉家にも、上方辺取合度々にて、空しく月日を送りける。

本願寺の候人下間氏は、源三位頼政の後胤なり。頼政の嫡子伊豆守仲綱、二人の子あり。嫡子弾正左衛門頼義・次男肥後守宗綱なり。承久の頃、頼義は京都にありて、内裏守護となり、鎌倉将軍実朝の時、一門の総領たれば、威勢他に異なり。然るに後鳥羽法皇、頼義が振舞、叡慮に叶はざる事ありしが故、院参伺候の武士を以て、頼義追討の儀仰付けられ、頼義詮方なく、仁寿殿へ駈込み、内裏に火をかけ、殿中にて切腹しぬ。一族皆とらはれとなる。此時次男宗綱が子の蔵人宗信も殺さる。宗信が子に、兵庫頭宗重といふ者あり。未だ幼年なりしが、下野の国へ下りありける内、下間の郷に於て、親鸞上人の弟子となり、蓮位坊阿法といふ。夫より一生、親鸞上人に随ひ居けるなり。其子蓮覚・其子観阿・其子宗務・又其子覚参・其子玄英、蓮如上人の時、丹後法橋といひ、代々本願寺の候人となりて居ける。此玄英に、八人の子あり。一男筑後法橋頼善に二子あり。〈一は丹後法橋頼玄、二は上野法橋頼慶〉二男備前守成頼・三男助緑法師・四男越後守頼長〈源十郎頼包・頼康、其子刑部法印頼康、〉・五男上総法橋慶秀・六男遠江守兼頼・七男周防守頼宗・八男駿河守光宗、〈筑後守頼清・筑後守頼女進法印仲元、〉斯くの如く段々栄えて、富貴となる中にも、一男四男八男の跡、大に栄えて、証如上人の頃、三家老と号し、将軍家の御相伴衆に加はる。是より先に、本願寺の祖像前へ、諸国より上る品々の賽銭は、下間家の収納となる掟なりしを、顕如上人の頃、皆本願寺へ差上げ、夫より諸国の末派へ官職を許し、此官銀を以て、配当する事となり、別けて顕如上人の〔〈脱字アルカ〉〕下間頼龍・同頼廉・同仲之、是等三家老となり、常に乗馬五十疋宛・人数三百人計を扶持し置きけるなり。

 
昔日北花録巻之二
 
 
オープンアクセス NDLJP:134
 
昔日北花録 巻之三
 
 
富樫家滅亡の事
 
天文元年、〈後奈良院の御宇、将軍義時公治世、〉京都繁昌して、毎月二箇寺三箇寺宛出来し、京都大方題目の庵となれり。爰に山門の衆徒此事を憤り、近江の佐々木義賢と示し合せ、軍勢多く催して、日蓮宗の寺々を破却せしむ。是に依つて上の京より、賀茂川に於て大合戦あり。日蓮宗の徒大に打負けて、山徒京中へ攻入り、寺々を焼きける時、四条通より上の方残らず焼失して、内裏も炎焼す、此時三好海雲といふ者、京都に威を振ひ、管領細川晴元も、将軍義晴も、皆三好が計らひなりければ、之を征する力なし。依つて内裏より、山科へ下知ありて、此乱を鎮めんと任ぜける。本願寺の候人等、下間を大将として、上の京の火を救はんとする事を、山門の衆徒また之を憤り、佐々木へ下知して、山科を攻めさす。義賢、山科へ発向して、堂塔に火をかけ攻討ちければ、不意に打負け、本願寺の一族は、大坂へ退きける。下間等も京を捨て、大坂へ馳登りけるが、元来此宗旨、河内・紀伊辺に、多く門徒ありし故、早速大坂に城を築き、影堂・弥陀堂・庫裡・玄関等、善尽し美尽して、区々に建立す。尤も渡海の便よき故、諸国の貢米、貴賤の参詣、今迄より八十倍して、繁昌此時より大なるはなし。爰に加賀の国御山の城には、下間氏の一国を打随へて、猶も越前へ攻入らんと企てける所に、山科の御堂焼失して、本願寺の一族等、何方へか落行きけん、いざ知らずといふ事を聞きて、追々告げ来りければ、何れも肝を消し、下間銃前は、先づ宮腰浦より船に乗り、大坂指して逃行きける。残る者共抜けに、いづくともなく落失せければ、土民共、越前・能州へ早速案内して、三山の坊主達、其外或は富樫介が一族、鏑木・石黒・山田・洲崎等の人々を迎へけるにより、人々早速入国して、何の造作もなく、旧里に在付きけるこそ不思議なれ。御山の城には、近辺の坊主達在番して、浪人・郷士を多く奪ひて、大坂へ通路をなさしむ。元の如く一国の貢米を以て、本願寺へぞ捧げオープンアクセス NDLJP:135ける。是より国中静謐にして、一向宗の繁昌となる中にも、洲崎和泉は、亡父慶覚坊が、越前より来りし時、蓮如上人へ聖作の小仏を給はりしに、夫を甲の立物として、富樫氏を亡せし故、此御仏を崇敬し、慶覚寺を建てゝ安置す。〈今金沢城下にある慶覚寺是なり。〉天文十七年、越前の国主朝倉孝景、波着寺へ参詣して、俄に逝去しければ、〈孝景は若狭の大守、武田光信が婿なり、〉

江州佐々木氏綱の末子孫次郎を養子として、遺跡を継がしむ。左衛門督義景と号し、細川勝元の婿となる。此時祖父貞景の弟教景入道宗滴存命して、一国の政務の後見をなしけるが、宗滴先年加州へ打入り、一揆の加勢せられける時、軍利あらず。其上加州の浪人坊主等を、久しく扶持し置きけるに、一礼もなく、何れも入国して、結句土民共に一味して、越前へは今以て不通の仕方、言語道断なり。我れ存命の内に、今一度加州へ打入り、本願寺派の者共を切随へんと、此事を義景に内談し、天文二十年の秋、再び大軍を催して、加州へ押寄せ、南郷・津柴・千足の三城を攻落しける。此時加州の大将分黒瀬兵庫等討死す。夫より大聖寺の城へ押寄せ、爰をも終に攻落し、数山に宗滴陣を取る。此時大坂に於て、本願寺の〈十世〉証如上人、遷化の由聞えければ、一揆力を落して、江沼郡の内にて、度々加州勢敗北す。宗滴年を越えて在陣しける内、陣中にて卒去ある。是に依つて、大聖寺・敷地辺より、越前勢は一先づ引取りけれども、加州勢、さのみ慕ふ事なくて、軍は止みぬ。弘治元年の春、公方義輝公より御教書来りて、越前・加賀和睦すべきの由なり。是に依つて、加州の総代として、窪田肥前守といふ者越前へ来りて、礼を勤めて、夫より両国和平となり、軍は止みける。此頃越中安養寺村に、勝興寺といふ大坊あり。蓮如上人の次男蓮乗、相続せしより以来、当国に威を振ひ、実如上人より、北国七州総録に補せられ、一国の坊主を、与力に定めらる。爰に越後より長尾為景、近年越中を窺ひて、大軍を催し攻入りける。新川郡には、桃井直和が氏族、所々の城を攻落し、神尾播磨守長光が籠り居ける滝山の城を取囲む。長光終に自殺して、落城に及びぬれば、婦負郡・新川の二郡は、風を望んで為景に随ひ降りて、夫より射水郡増山の城神保越中守を攻むる。越中守、五箇山へ逃隠る。此為景の兵威大に振ひて、栴檀野に陣を取りてありける所に、砺波郡木船の石黒左近・安養寺村の勝興寺・中田村の得成寺等、砺波郡・射水郡の軍勢、オープンアクセス NDLJP:136三戸田より安養坊山へ打つて出で、不意を攻めて、終に為景討死す。猶残兵を討つて、越後の境に至りて引帰す。〈為景の塚、今に午滑村にある。〉此時為景の為に、桃井の氏族断絶せり。直和が孫長市丸出家しける。是れ直常より六代の孫なり。 〈後に日蓮宗の日降上人とて、京都本願寺・尼ケ崎本興寺・越中国浅井の本興寺等の開基なり。〉為景討死の後、神保越中守、富山の城へ移り、新川・婦負郡に威を振ふ。其後為景の家督を、景虎継ぎてより、景虎起る越中は父の仇国なりと、度々越中へ打つて出で、合戦止む時なし。然れども景虎、甲州・相州等に大敵ありて、深く越中へ働く事能はず。故に飛州の国司姉小路家の家老も、能州の国司畠山家の家老も、并国士には椎名・井口・興恩寺の輩、婦貞・新川両郡を争ひける。砺波は石黒左近・勝興寺・得成寺・瑞泉寺・善徳寺抔、折々合戦止む事なし。永禄二年、長尾景虎上京して、将軍義輝に謁し、名をば輝虎と改む。〈此時輝虎、紙子の道服を着て編笠を冠り、脇差一腰一僕にて上洛すと云々。〉此時大坂の本願寺〈十一世〉顕如上人、二品親王の勅許を蒙り、永く門跡となる。〈是れ正親町院の御宇なり。〉是より先に後桃園院の時、久しく御即位の大礼行はれず。本願寺証如上人より、数百金を捧げて、大礼の料とす。其恩賜として、勅許なるとぞ。今年毛利元就、当今御即位の料金を捧げ奉る。其恩賜として、其家を永々清華に准ぜられ、菊桐の紋を賜はり、将また本願寺門跡の勅許ありし故、六院家を免許ありて、参内の儀式等行はるゝにより、国々の大坊主上洛す。加賀・越中の坊主衆も、残らず上洛あれば、越中には神尾・石黒、砺波郡へ打つて入り、大に威を振ひ、終に石黒・椎名をば、神尾が幕下として、越中守光氏頃日越中にして大に勢あり。婦負郡滝山には、神尾が家臣寺島丑之助・同甚助居城たり。其近所なる城生の城には、斎藤次郎左衛門が養父常陸入道浄永あり。此浄永、長尾家に縁ありて、輝虎の幕下となる故、毎度合戦あり。後に斎藤、長尾家を叛きけるとなり。永禄八年、将軍義輝は、三好義継・松永久秀・同久道等に殺され給ふ。新将軍義昭、京都を落ちて、佐々木・浅井・朝倉を頼み給へども、皆三好が威に怖れ、早く合戦を催しもせず。信長、三好義継を討つ是に依つて、織田信長を頼み給ひければ、早速に領掌し上洛して、終に三好・松永等を降参させ、義昭を京都に居ゑ置き、羽柴筑前守秀吉を以て守護せしむ。其頃甲州の武田信玄上洛し、将軍家へ功を立てんと伺ひて、義昭を語らひ、信長を攻めんと企てらるゝに付、近江の浅井長政・越前の朝倉義景をも語らひける。信オープンアクセス NDLJP:137長之を聞き、早速越前へ出馬して、朝倉と合戦あり。信長、浅倉義景を討つ元亀元年より同四年にして、終に朝倉を攻亡す。義景、一乗が谷にて切腹す。一族の景鏡等、信長へ荷担しける故、早く落城す。此時信長より、前波九郎兵衛尉吉継を、一条が谷に置く。〈一乗は、朝倉家の代々居城なり。〉 越前一国の政道をなさしむ。津田九郎兵衛・木下助左衛門・明智十兵衛を、北庄に奉行とせり。其後前波九郎兵衛、桂田播磨守長俊と改名し、信長の一字を拝領す。爰に又富田弥八郎長秀といふ地士あり。生国は雲州佐々木の末葉にて、近年朝倉家へ随ひ、武名専ら高き人なり。中々播磨守が指揮に随はず、一揆を催し、終に長俊を討亡し、猶も北庄三奉行を攻亡さんといひけるを、朝倉家の一族衆扱ひて、三奉行は北庄を退き、終に濃州へ帰りける。是より富田長秀、一国の主となり、威勢を振ひけるに、一向宗の徒は、是に随はず、却つて富田を亡さんと、土民共打寄り相談して、早く加州の御山へ使を遣し、大将一人給はるべし。抑朝倉義景は、細川家の婿として、当時大坂の上人とは相婿なり。此因縁を以て、越前を一円に、本願寺領となすべしとぞいひ遣しける。爰に於て、加州より下間筑後守・同じく和泉守・杉浦壱岐守・七里参河守等、大勢を率し馳向ひ、七里参河守を先陣として、国中の勢を集め、長秀と戦ひける。天正二年十一月、長泉寺山に於て、小林吉隆が放つ所の鉄炮に当りて、富田長秀戦死長秀終に空しくなりける故、一族離散して、軍止みにければ、 〈長秀が一子勝右衛門といふ者、山崎氏親類にて、仕へ居けるが、後加州利常公に仕ふ、〉夫より下間・杉浦・七里等手分して、越前一国を打随へける。就中高田派の門徒共、并に府中の町も焼立て、乱暴に及びける。扨朝倉家の一族衆も、最初信長入国の節反心して、本家義景を見放したる敵なれば、一々攻潰さんと、景鏡を一番に攻落し、平泉寺も焼立てける。景鏡は早く逐電しけるなり。猶北一国の他宗をば残らず改宗させ、一向宗の跋扈神社を破却し、国中一向宗のみにして、恣にぞ威を振ひける。いつしか昨日まで、郡主地頭と呼ばれし人々、土百姓の家来となり、浅ましき有様なり。爰に去々年、信長越前へ攻入る時、加州の富樫の一族衆は、将軍家の御教書黙止し難く、信長に応じ、出陣せんといひける。爰に於て国中の土民、野々市へ押寄せ、館を焼立て、一時攻にして揉立てける。〈近年信長、大坂に於て、顕如上人と、毎年合戦ありける故、加州一国は、本願寺領なる故なり。〉 富樫介泰俊并子息両人は、金津の城溝口、大炊之介方へ引退き、泰俊の舎弟晴貞は、オープンアクセス NDLJP:138長屋谷伝灯寺へ落ちける。此頃大乗寺無住故、伝灯寺より来りて看主たり。然るに百姓共、大乗寺にも火をかけて焼立てける故、看主と共に落行きけるが、一揆共、猶も慕ひ来りて、終に伝灯寺へ押寄せ、火をかけて攻立てける故、晴貞、詮方なく生害なり。〈此人画を能くす。好んで馬を画き、世に藤原晴貞とは此人なり。今伝灯寺に富樫の石塚あるは、晴久の墓なり。〉此晴久に三子あり。嫡子宮内晴友は、越中へ落行き、二男彦次郎輝上・三男豊弘。侍者両人は、野々市にて討死す。是れ則ち元亀元年五月なり。〈此時松任に、蕪木右衛門といふ者、富樫が一味にて、一揆の為に討たれぬ。〉越前国金津の城主は、溝口宗天入道が子息大炊之介長逸とて、去々年信長公の召に応じ京都へ出陣し、六条合戦に大功を顕し、五千石を加増し、一族厳重に城を守りけるが、天正二年の春、爰へも一揆押寄せける。大将杉浦壱岐守扱ひして、和交に及ばんとするに、城中に叛心の者ありて、内より火をかけ、同士討する故に、是非なく溝口一族、残らず自害して、落城にぞ及びける。〈長逸が子は逃れて後、大炊之介長氏といふ。〉富樫泰俊父子三人并一族小泉藤左衛門、近年爰に客となりてありしが、此時城中にて討死して、三人共に相果てらる。泰俊六十四歳、法名宗広と諡す。嫡子植春二十七歳、法名宗珍と諡す。二男天易侍者廿五歳。富樫家滅亡此時永く富樫の家は亡びける。然れども一族数家の事なれば、土民となり、加賀一国に散在せる。其後胤、あげて数へ難しと雖も、慥に其正統を知れる者なし。 〈富樫氏族、今金沢・小松・野々市・松任にて、高家となり散在せり〉大乗・押野・本折等の家名は、其末流と云々。斯りける後は、越前一国本願寺の領となる。是に依つて、下間・七里等の大将、国政を行ひ、所々に道場を建て、百姓を芥の如くに使ひける故、土民等案に相違し、始めの武士に使はれける時よりも、課役多くかゝりて、難儀に及ぶ事を憤り、また叛逆を企て、坊主衆と百姓と二派になりて、同士軍始りて、国中大乱となる。天正三年の春より、夏へかけて打入り、越前一国を征伐せんと、柴田修理亮勝家・丹羽五郎左衛門尉長秀・明智日向守光秀・羽柴筑前守秀吉・稲葉伊予入道一徹以下の大将にて、三万人は中海道より、鳥羽の要害を攻破り、船橋・森田・長崎・金津迄押通り、一揆の大将分并坊主共、悉く打取り、滝川左近将監一益・前田又左衛門尉利家卿・佐々内蔵介成政・武藤宗右衛門以下三万人は、三保河内より、土橋迄乱入す。佐久間信盛が嫡子甚九郎 〈此時信盛は、大坂天王寺にありて、顕如上人を防ぐ。天正八年、顕如上人和平の時、数年盛信が大坂にありて、功なき事を怒り、改易せられ、浪人となり、行方知らず。〉不破河内守・伊賀伊賀守・原田オープンアクセス NDLJP:139備中守・篠岡兵庫介以下一万人は、西潟・越智・織田・山家・三田浜等の在々に打入り乱暴す。金森五郎八長近・原彦次郎等は、徳山より北口に打入り、大野郡にて在陣す。三国吉崎に楯籠りたる一揆共は、加賀国へ逃げける。信長越前を平均す其外の大将分・坊主分、残らず此時討死し、纔に一月許にて、一国平均となり、豊原寺は、此度七里・下間等が在陣たる間、敵に一味なりとて、数百の坊を、悉く焼払ひける。足羽郡にある高田派の坊主達一揆、本願寺敵なる故、此度早速罷出で、信長公の加勢する故、悉く坊舎を助け置かれける。是に依つて、越前一国の守護を、柴田勝家に申付け、五十万石を宛行はれ、北庄に在城す。大野郡三万石は、金森五郎八へ、二万石原彦次郎、敦賀元の如く武藤宗右衛門代官たり。府中辺にて、五万石を佐々成政、三万石前田利家卿、二万石不破河内守。〈之を三奉行とす。〉斯くの如く夫々政道ありて、府中に信長在陣の内、羽柴秀吉・丹羽・柴田・稲葉等は、直に加州へ攻入り、大聖寺・敷地・山中等を攻落し、能美郡半分も、追靡けけれども、信長より、早速帰るべき旨、下知あるにより引返す。能美郡の一揆、後を慕ひければ、江沼郡の者共、所々より打出で、退口難儀の所、秀吉後陣にありて、漸々引取りける。未だ加賀の国は、年貢等手に入るまじけれども、頓て征伐すべしとて、江沼郡・能美郡二郡の内にて、阿閇淡路守貞秀・堀中務丞景忠両人に、十万石を給はる。扨大聖寺・津葉二箇所に城を構へ、戸次右近を大将として、鳥弥右衛門・佐々権左衛門・堀江中務・溝口大炊介を籠め置きて、信長は岐阜へ帰城し給ふ。

信長、此時正二位下大納言に任じ、息信忠従四位左中将となる。江州安土に城を築き、〈八幡より一里北の方にて、湖水の彼方なる小山なり、〉其身は安土に居し、信忠を岐阜に置き、天下の執事となる。未だ将軍の宣下はなしと雖も、過半信長の下知を用ひ、是より先将軍義昭を取立て、故将軍義輝の敵三好・松永を征伐して、二条に館を造立し、義昭を居ゑ置き、猶将軍に随はざる輩を征せんとす。義昭は、信長の恩大なるに、其頃武田信玄、京都に旗を挙げん事を望む故に、義昭をそゝのかし、信長を討たんとす。山門并に佐々木・浅井・朝倉を語らひしに、信玄早く病死しけるにより、信長先づ叡山を攻亡し、佐々木承禎を陣参させ、浅井を潰し、朝倉を平らげ、猶も将軍義昭を捕へて、河内若江の城へ蟄居せしむ。〈義昭剃髪して、昌山と号す。〉是より京都五畿内辺に横行し、オープンアクセス NDLJP:140天下の政事を執行ひけり。

天正四年、信長の幕下戸次右近、〈初め簗田左衛門大郎といふなり〉加賀の大聖寺に楯籠り、一揆の押としてありける故、加州全く本願寺領主たりと雖も、通路一円に叶はず、只商家の類のみにて、大坂へ行通ひける。是も加賀者と見えて、越前の通路なり難し。 〈此時大坂に、顕如上人・教如上人ありて、元亀元年以来、信長と合戦止まざるなり。〉土民此事を憤りて、能美・江沼両郡一統し、大聖寺・津葉両城を攻取らんと、いぶり橋に陣を取り評議す。戸次右近、敷地の天神山へ出張し戦ひけるが、初めの程は、加州方打負けしに、山内・白山・麓・別宮・吉野辺の一揆悉く起り、富樫の一族残党并に家人共大勢加勢して、終に天神山を追落し、大聖寺へ攻寄せ、息をも継がず攻めたりける。村々里々、残らず敵中なれば、津葉の城代堀江中務・佐々権左衛門、之を救ふ事能はず、急ぎ信長へ註進す。依つて早速佐久間玄蕃允盛政を加勢として差下し、柴田勝家馳向つて、指揮すべき由なり。両人大勢を引率し、大聖寺の後として、寄手を払ひ退け、敷地の陣を取返しける。此時一揆討富樫六郎左衛門尉家貞〈押野〉・舟田又吉・小里黒源太・林新六等討死す。然れども御幸塚〈今井村なり〉に楯籠りて、猶越前勢を待ちけるに、徳山五兵衛計略をなし、城中の内山四郎左衛門・林七介を味方へ招きて、内応させければ、終に落城にぞ及びける。是より柴田は越前へ引返し、佐久間は大聖寺御幸塚辺にありて、猶も能美郡の山内・別宮辺を攻平げんと、毎日其支度をぞなしにける。永々打つて出でんとすれば、足下の山中・山代・橋・熊坂辺より、一揆起り出でゝ、跡を取切らんとする故、兎角大聖寺・いぶり橋辺に対陣してぞ日を送りける。〈此時盛政、加州の一揆を攻平らぐるに於ては、一国を給はるべしとの事なりとぞ。〉

 
越中国士争戦の事
 
越中砺波郡は、本願寺派の大坊瑞泉寺・勝興寺・得成寺・善徳寺等の所領として、追年射水郡も打随へる中にも、勝興寺住職は、蓮如上人より五世大僧都顕栄とて、細川晴元の婿たり。本願寺顕如上人も、晴元の婿たりしかば、此頃顕如上人、織田信長と不快にて、大坂に於て、毎度合戦に及ぶこと、顕栄一身に拘はりたる事と思ひて、遠く北陸より、大坂の懸見たる如く思ひて、費糧を助けて、猶又加勢の事を計ると雖オープンアクセス NDLJP:141も、遠境心に任せず。然るに此年、信長、朝倉義景を討ちて、越前治りけるが故、北陸道の路絶え果てたり。朝倉義景滅亡の時、二女あり。一女は、勝興寺の嫡子顕幸へ約束あれば、家臣豊島藤兵衛を添へて、越中へ送る。二女は、家臣福岡石見守之を携へ、顕如上人の嫡子教如上人へ送る。是れ何れも兼約に依りて、陣中より遣す時に、勝興寺へ朝倉家穢藤四郎といふ名劒と、渡天の仏像とを送る。

〈仏像とは、天皇より、大塔宮へ下されし仏にて、今彼寺にあり。名劒は、勝興寺より利家卿へ上らるゝ故、今国司にあり。〉然るに信長には、重々の仇ありければ、越後の長尾の謙信、近年都に旗を揚げんとの志、度々通達しけるが故、上洛に於ては、驥尾に附かんと申合せける。謙信も、未だ越中の仇を報ぜざる故、大軍を率し発向す。父の為景とは事替り、文武の勇将として、関八州の管領ともいはるゝ器量たれば、越中の国士、風を臨んで参じける。神保一族は、父の敵なればとて、合戦に及びけるに、安芸守氏春は、富山の城を明けて、森山の麓へ楯籠り、四方へ海水を堰入れて之を守る。石黒左近、砺波郡にありて加勢たり。叔父の神保兵庫氏信、増山の根城を守りけるが、謙信、此城は父の仇なり、自身に攻めんと戦ひけるが、終に氏信切腹して、謙信増山城を陥る増山落城に及びける。夫より砺波の一向宗、味方の事なれば、直に加州へ打渡り、御山の城下に屯しける時、信長の幕下より、加賀の国を犯す由にて、松任・野々市へ陣を出し、佐久間盛政と戦はんとす。是に依つて、佐久間、信長へ急を告ぐるに依つて、柴田勝家指揮して、丹波五郎左衛門・佐々成政・前田利家卿・金森五郎八等の数輩、早速加州へ来りけれども、謙信の威勢、左右なく戦を交へん様もなく、互に見合せ居たりける内、北条氏政、越後の国へ攻入る由、告あるにより、謙信は、手取川より、越後川へ引返す。〈此時、松任の蕪木右衛門を、謙信討取るといふ事、別書にあれども、蕪木は先達つて一揆の為に討たる。〉是に依つて、柴田・丹波等の諸将も、濃州へ引返しける。是れ天正五年七月なり。此時越中は、皆謙信の幕下となりけれども、独り神保安芸守・同清十郎父子、信長に荷担し、謙信に随はずして、石黒左近と召し合せ、砺波郡の一向宗と戦ひ争うて、騒動に及びける。謙信卒去翌天正六年六月、謙信、越後に於て卒去しける。始め姉の子喜平次景勝を養ひ、子として置きける上に、北条家より、又養子としけるに、此三郎と喜平次と、跡式を争ひ、大に合戦しける。依之越中の国士、又越後を背き、一向宗と合戦しける。然るに甲州武田勝頼オープンアクセス NDLJP:142も、信長に恨あれば、加越両州の一向宗と牒じ合せ、濃州へ越さんとの事故、飛騨国錦山の城主鍋山休庵を語らひ、越中へ働出で、井波・瑞泉寺等を先手として、国士神保・椎名を亡し、越前の国へ登らんと企てける故、休庵が家臣白尾筑前、一向宗に一味なり。且又国中を横行する。此頃越中の国士には、神保安芸守氏春・同清十郎、富山の城国府の城に任ず。祖父神保播磨守長光は、畠山義綱の家臣、自然と能州より来りて、越中の成敗を取行ひける。新川郡布市に住し、射水郡増山と富山に城を拵へ、子息越中守光氏・孫の氏春に至りて、爰に住す。斎藤次郎左衛門一鶴は、城生の城に居住す。椎名小四郎道三は、松倉に住す。〈此城は、越後の堺にあり。普門蔵人が籠る所、後桃井二代爰に蟄居す。〉井上肥後守は、新庄にあり。白鳥の城には、神保八郎左衛門尉楯籠り、興田備前守は大村にあり。〈東岩瀬の近郷なり。〉今泉の城には、越後の家臣河田豊前守在住たりしが、此頃越後へ退きける。砺波郡木船には、石黒左近在住なり。斯くの如くの国士、少々宛の所領を争ひ、本願寺の坊主衆と、合戦止む時なかりしが、越後の国に於ては、喜平次景勝打勝ちて、早く謙信の後を蹈へ、一国を并呑し、速に越中へ打入り、城々を攻めける。 〈謙信の時は、越中・能登・佐渡・上野・信州の内等の国々、皆旗本たりしに、景勝になりて従はず。然れとも越中の一向宗は一味故、先づ越中へ来る。〉此時飛州の白尾筑前は、景勝へ降参して、先手となり合戦する。是に依つて、斎藤次郎左衛門は、城を明けて本国常州へ逃行きける。椎名は、射水郡三戸田辺へ隠るゝ。興田豊前は、切腹して落城す。新庄の井上も、逃亡して行方なし。唯富山の神保一人楯を突きて、景勝に降らざりける。木舟の石黒と砺波の一向宗を〔〈脱字アルカ〉〕なり。景勝も深入無用と、魚津の城を普請して、河田豊前守・吉江織江を残して、一先づ越後へ引返しける。〈此頃大坂の顕如上人、信長と合戦度々に及ぶ故、越中加賀の一向宗、加勢の心ありと雖も、当時越前は、信長領となる故、上方の通路一円絶えたり。甲州武田勝頼、越後の長尾景勝に荷担し、両人の内上洛あらば、加勢すべしと、兼約ありしと雖も、信長々第に威勢強くなる故、越中の神保・能登の長氏も、皆織田家へ心を通じ、加勢を給はらば先手となりて、越前へ攻入らんと約す。〉神保安芸守父子、婦負郡射水の間に威を振ひ、金谷河原に砦を築きて、一族八郎左衛門を籠め置きて、井波等の一向宗を防ぎける。射水郡阿尾の城主菊地伊豆守も、砺波郡赤丸村木田・木舟村の石黒はいふに及ばず、皆神保に心を通じける。此頃神保より、度々信長へ人を馳せて、加越の間へ御下向あらば、先陣して早速越後へ攻入らんと約しける。

 
昔日北花録巻之三
 
 
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昔日北花録 巻之四
 
 
能州畠山滅亡の事
 
能登国は、応永の頃、畠山義統、将軍より国司として下向ありしかば、代々畠山相続して、近年義則の子息三人ありしが、末子は、越後の謙信へ養子に遣し、嫡子と次男は早世し、暫く家督相続なかりしに、河内国畠山主膳正照専てるあつの弟に、修理大夫則高を招きて、国守として敬す。国士には、長谷部の長里・滝野・長・温井・三宅・太田・建部・伊丹、之を八臣と称して与力なり。家老には遊佐備前守〈是は河内より来る〉神保安芸守、

〈是は三代以前京都より来る、〉之を補佐す。神保は、先年越中の国司斯波家微勢なる故、加勢の為めに越中へ渡り、夫より彼国の指揮する事にはなると雖も、一向宗、次第に権威盛なりしかば、畠山の国司は、名のみとなり、越後の謙信の旗本となりて、日を送りける。此八臣の内、長対馬守主連は、長谷部信連より十九代長連が一子なり。当時重連の代となり、威勢肩を並ぶるものなく、能州半国を領しける。是に六男あり。嫡子は左兵衛・次男右兵衛・三男四郎五郎長松といふ。近年織田信長、五畿内に威勢あれば、重連由々しく思ひ、度々人を遣して、懇意に礼儀を述べければ、信長公も、近年の内、越後発向の志あれば、其節神保と申合せ、先達あるべしと、約束ありければ、猶も信長に附入りて、此頃末子長松が出家にならんと、観音寺へ行きけるを還俗させ、長九郎左衛門と名乗らせて、家老の伊久留伊予を添へて、信長へ人質に遣しける。〈則ち連龍といふ。〉 爰に遊佐備前守、或時に黒滝の長与市景連を招き、近年対馬守が行跡、信長へ附入り、頓て我々をも、被官にすべき形勢なり。何卒之を謀らんといへば、景連大に喜び、三宅・喜田を語らひ、其謀計を拵へける。備前守が一子孫六は、対馬守が婿なれば、温井方へ、対馬守并子息五人を呼迎へ、饗応をなし酒を勧め、扨沈酔の頃、長・三宅・喜田三家の人数押懸け、暫時に六人を討取り、家来共は、皆々扶けて追払ひ、夫より一揆の如く打連立ちて、畠山殿の館穴水へ押寄せければ、修理大夫詮方なく、道下のオープンアクセス NDLJP:144浦より船に乗り、妻子を引連れ、越前敦賀迄落延び、夫より東坂下へ蟄居せらる。又遊佐・温井・三宅・黒滝の人々は、国中を押廻り、我に随はんといふ者は赦し置き、違背の輩は、片端より打潰しける間、忽も国中鎮り、此者共、郡々を分取わけとりにし、対馬父子が首を、大理浜の端に梟首し、此につき信長攻来るべし。征伐あらば、越後の謙信へ加勢を頼まんと、謙信へ礼をして幕下となるに、此後より目代として、上杉玄蕃を遣し、穴水の館に置かしむ。此時暫く、能州一国は、謙信の成敗となりける。然るに対馬守が六男、能州の事を聞きて、信長に暇を乞ひ、家来伊久留を能登へ遣し、其身は越前の三国に泊り、能登の便を相待ちけるに、旧臣追々三国に来り、九郎左衛門に対し、追付入国の事を謀る。伊久留了意も頓て帰り、国中の百姓・町人、何れも味方の旨を語る中にも、芝峠の庄屋刀禰が方まで着船の約束、穴水の栄斎が働の様子などを語りければ、九郎左衛門大に悦び、旧臣百人計に、信長より二百人乞ひ得て、越前より船に乗り、能州の芝峠の湊に着きける。是れ天正三年八月なり。 〈九郎左衛門連龍、天文廿二年十二歳にて、信長へ人質に行く。〉庄屋、兼て兵糧を多く貯へ置き馳走し、近たか村へ告げしかば、旧臣方々に隠れある者共、先達つて了意・栄斎が語らひにて、軍用意して待ちける故に、急に寄集りし軍勢、三十人計なれば、九郎左衛門、時刻を移さず、穴水へ押寄せける。上杉玄蕃は、思も寄らぬ事なれども、先づ防ぎ戦ひける。一日の内に、手勢皆討取られければ、上杉玄蕃戦死自殺して相果てける。夫より直に、黒滝の長与市景連が館の、棚本へ押寄せける。此時遊佐・温井・三宅・喜田の人々も、何れも棚木へ打寄り、相談半なる所へ、早や長九郎左衛門連龍押寄せけるに、国中の百姓共、馳寄り馳寄り五千人計、棚木を追取巻き、温井備中守は、城外へ出でゝ備へける。長与市・遊佐備前は、城中を守り防ぎける。然るに温井景隆・三宅長盛が手勢、過半叛心して、連龍へ加はる。猶も残勢心元なしとて、偕支度なれば、向ひ進む者一人もなし。景隆・長盛詮方なく、乱軍に紛れて落行きける、城中にも、過半叛心の者あれば、防ぐに力なく、城戸を開きて打つて出でける。先に対馬が家老に、小林平左衛門は、武勇第一の者故、景連方へ招き置きたり。此度連龍入国と聞きて、景連に暇乞ひて、昨日此城立退きたり。今日先陣に進んで、終に与市景連を討取り、彼が差添の丈木の刀オープンアクセス NDLJP:145を添へて、連龍奉る。遊佐備前守は落失せける。是に依つて、九郎左衛門、一国を打随へ、館の浜〈今田鶴浜といふ〉に城を築き、扨信長へ註進して、目代を下さるべき旨、申遣しける故、管屋九右衛門・福富平左衛門下向して、九郎左衛門へは、鹿島半郡を下され、一国は信長の領となる。其後連龍、人をして、畠山殿を尋ねければ、修理大夫は病死あり、後室と娘一人を引取りけるが、家来其の相談に依つて、〈畠山の娘は、利家卿の臣河岸掃部に嫁す。連龍の嫡子十左衛門、二女あり。一は利家卿の臣前田美作に嫁す今一人は、浅加作左衛門に嫁ぐといふ、〉是より連龍は、信長の幕下に属して、再び長谷部の家を起しける。能州畠山家断絶能州畠山の家は、此時断絶して、先主義則の三男弥五郎、越後にありけれども、謙信死去の後、養子北条三郎と、甥の喜平次と、跡式を争ひ合戦する。終に喜平次打勝ちて、一国を治むる時、弥五郎、越後は、京都へ立退き、剃髪して入庵と号しける。慶長年中、徳川家へ召出され、畠山入庵と名乗る。其後胤、今旗下にありて、高家となる。

戦国には、和睦或は幕下に属せし印として、人質を家来として召仕ひ、または高貴の子族を、養子と号し置きける故、実に子ありても、養子の名目数多あり。故に謙信、始め甥の喜平次養子として、又北条家より養子を貰ひ、畠山家より養子をする。皆人質の覚悟なり。男子なきは、女子を以て婚姻し、或は妾となす。

 
加州一揆退治の事
 
天正八年壬三月、重ねて信長命として、加州へ打入り、一揆の類、残らず追討すべしとて、柴田勝家・同三左衛門・徳山五兵衛・拝郷五左衛門、佐久間盛政加州一揆征伐中にも佐久間玄蕃允をば、先陣の大将として一万五千人、江沼郡へ押寄せらる。去々年勝家越前に於て、農民共所持する所の兵器を、残らず取集め、農具にして渡しける時、加州江沼・能美郡へも、其旨触れ遣しけれども、一円に承引せず。爰に於て、此度一揆原、残らず攻取るべしとの評議なり。勝家は御幸塚にありて、三左衛門と玄蕃等と二手に分れ、佐久間は吉野・劒・鞍ヶ岳と、四十万しゞま・若松より長谷伝灯寺辺へ打向ひ、所々の小城・坊舎を焼払ひける。三左衛門は、安宅・本吉より、宮の腰浦へ出でゝ、河北郡へ打入らんとす。爰に於て、長九郎左衛門連龍が方へ、加勢の事を言遣し、連龍が出陣をば待合オープンアクセス NDLJP:146せ居ける内、佐久間は、車〈地名〉の山越を押して、竹の橋へ打出で、末森の砦を攻崩しける。此頃三河国土呂崎の一向宗、国主家康公と不和になり、徳川家の家士衆、一向宗に荷担して、多く暇を乞ひて浪人しける内、成瀬宇右衛門・岡部弥次郎・西郷新太郎・本多彦次郎・同三弥〈左衛門正重〉・同弥八郎、〈佐渡守正信〉等の人々、加州本願寺派の方人として、此国に留り居けるが、此末森にも、本多三弥と西郷新太郎籠り居ける故、合戦日数を経けれども、終に浅間なる砦なれば、退散して、鳥越へ行きけるに、佐久間押付鳥越へ向ひける。弘願寺此所を立退きて、能州の方へ落ちければ、越中へ浪人は退ぞきける。爰に大湖の辺に、木越広法寺といへる大坊あり。湖水をば、屋形の四方へ堰入れ、中々敵を寄付けず。河北郡の郷士共寄集り居けるが上に、森下の城には、亀田小三郎といふ者あり。畠山義則の親族故、近年能州より彼家の諸浪人、多く爰に便り居けるが、木越の後詰を待ち居たり。然る所に能州より、長九郎左衛門連龍、黒津舟浜迄打出でければ、柴田三左衛門は、宮の腰より大手に向ひ、佐久間は、中条辺より押寄せらる連龍が、近郷の漁船を多く集めて、是に取乗りて、湖水の口を切開きぬれば、木越近辺の溜水、一時に流れて堅田となる。諸勢是に気を得て、双方より攻懸る。猶も佐久間は、森下並に御山より、後詰やあらんと、中条・今町辺に勢を残して戦ひしが、広法寺遂に打負けて、長九郎左衛門に降参し、能州の方へ退きける。夫より諸将評議して、先づ御山の城を攻落さんと、柴田三左衛門は、宮の腰口より、広岡の森に陣を取り、拝郷・徳山は、犀川を隔てゝ陣を取りける。佐久間盛政は、南良瀬越の山道より、小立野の山上へ出でゝ、城の後より攻懸る。此御山の城には、初め本願寺の候人、楯籠りしが、先年宗徒の大将分は、越前へ打つて出で、信長の為に大方討死して、是よりは、朝倉家の浪人大将となりて、籠り居ける故、外の一揆原とは大様にて、能々持ち怺へ防ぎ戦ひけるに、大手柴田三左衛門手にして、一揆原の大将分松永丹波守・鈴木右京親子・黒瀬左近・平野甚右衛門・窪田大炊等討死したりける。

松永丹波は、越中松永道林寺が弟にて、蓮如上人に随身して、松永隼人といふ者の子なり。下間筑後、越前に討死の後は、此松永を以て、尾山の城主とす。平野甚オープンアクセス NDLJP:147右衛門は、河内の浪人にて、武勇の者なり。此人討死の跡を、今に甚石衛門坂といふ。

山の手小立野口にて、坪坂新吾・得田小次郎討死しければ、本願寺・本誓寺・広済寺・恵林房・善照坊評議し、終に城を明けて、佐久間に渡し、何れも退散にぞ及びける。是より佐久間盛政は、御山の城に縄張し、東の方の堀を搔上げ、爰に居住して、猶も一国を平均せんと、柴田・徳山・拝郷など評議して、松任と野々市には、若林長門并同氏雅楽之助・同甚八、楯籠りたり。是れ朝倉家の武士なれば、百姓同前にはなるべからずとて、柴田三左衛門は上口へ向ひ、佐久間は下口より向ひける。若林、鉄炮の士六百計にて、手取川の際に打出でゝ、能々防ぎける。柴田衆評議しけるは、斯る所に数日戦ひなば、又諸方の一揆蜂起すべし。はや埓を明くるに如かずと、使を以て和談を言遣し、唯今押領の地、其儘与へ申すべき由故、若林早速領掌し、長門并子供両人召され、御礼として本陣へ来る。長門は坊主あたまにへんてつきて、一尺五寸計の脇差計にて、一礼する所、兼て仕組みたる事なれば、大勢懸りて打殺しける。此長門は、如何なる身体にや、人々切物きれものにて懸りたるに、一円切れず。大勢にて擲殺しける。子供も其場にて討たれける。此時御供、田村に土屋隼人、安吉村に大窪大炊抔いふ地侍あり。此事を聞きて、降参すれば殺さるゝ間、今は覚悟を極めんと、若林が家来共と同じく、我が家形々々を焼払ひ、那谷の奥山中の温泉壺の左の山、常徳寺が籠りたる城へ、各楯籠りけるが、扱を入れて、常法寺を始め一揆の大将分浪人共、皆々爰を立退きて、上方道へ赴きける。

参河浪人本多弥八郎も、爰に近年籠り居けるが、娘一人出生して之を携へ、若州へ赴き、同じく十年、家康公へ帰参す。此頃上方に於て、本願寺顕如上人、大坂の城を明けて、信長へ渡さるゝ故、一向宗微勢になる。

河北郡森下の亀田小三郎は、剛勢の古兵なれば、中々降参せず。故に柴田勝家より、さま扱を入れて、溝口千熊といふ者を人質に遣し、終に亀田は、北の庄へ行きて降参す。夫より佐久間盛政に与力し、金沢の城へ来り奉公しけるが、病死して其跡絶えたり。存命の内、此溝口千熊に、亀田の氏を取らせんと、約し置きける由にオープンアクセス NDLJP:148て、千熊、後に浅野家へ仕へける時、亀田大隅と名乗りける。

溝口千熊は、溝口金右衛門が弟半左衛門とて、家老の子なり。後に亀田大隅と名乗り、浅野家を立退き、浪人せり。其後権兵衛、加州利常公に仕ふ。

斯くて河北郡にも、木越・森下落着しければ、割出村の高桑備後、熊吉村の戸田左近・田中藤兵衛・松田次郎左衛門〈道場となり今にあり〉・富田村の左近・木目谷村の高橋藤九郎父子、是等の一揆、皆々降参し、或は髪を剃り、一向坊主となる。士を止めて百姓になる。加州一国平均すれば、早速安土に註進しける。重ねて青山与三を以て、此度の軍功を謝し、佐久間玄蕃に、石川郡・河北郡両郡を給はり、御山の城に居らしむ。同国御幸塚に徳山五兵衛、大聖寺には拝郷五左衛門、其外越前丸岡等に、柴田三左衛門・同伊賀守抔を差置かれ、柴田勝家北国を支配す都て北国は、勝家が成敗に属しける。同年五月、一向の本山大坂顕如上人、勅命に依りて、信長と和睦ある。去ぬる元亀元年より合戦始り、信長の威勢、日々に増長し、五畿内・南国・北国、過半打随へ給ひけれども、大坂の城攻には、度々後れを取りて、勝つことなし。十一年の争更に止んで、都鄙の貴賤、悦をなしける。顕如上人より、諸国へ其旨を触れられ、勅諚の上は、氏家に対し、野心あるべからずとの制止なりし故、越中能登両国の一向宗、神保氏治と長連龍に付いて、此旨を演べられしかば、信長より、能州は菅屋・福富並に越中へ、佐々成政を遣し、一国の諸坊主を追落されける。面々にて、残らず旧地を与へて、和睦ありける。同九月、 〈天正八年、〉前田利家卿に、能登一国を給はる。子息利長卿を、信長の婿となし給ふ。 〈此姫君、後に玉泉院殿と申す。〉又神保安芸守氏春へも、姫君を遣され婿となし、越中の国司とし、佐々成政を守護職とす。此時神保は、守山の城より、古国府に移り、佐々成政、富山の城に居住す。〈今の高山より、一里計南の方なり。〉前田氏は元の如く、越前府中に在城し、子息利長卿に、叔父五郎兵衛安勝・孫左衛門良継を添へて、能登に在国なさしむ。

菅屋九右衛門・福富平左衛門は、能州の検地を済し、今年より加州へ来る。検地して、翌年四月、安土へ帰りける。同十一年、信長生害の時迄、越中新川手に入らず。依つて検地なし。今に至りて加賀・能登は、田一反の歩数、三百歩なり。越中は古制の如し。今に至りて、三百六十歩を以て、一反とす。前田氏の仁心大なるかな。

オープンアクセス NDLJP:149天正九年二月、信長、京都に於て馬揃あるべしと、諸国の大名を召す。是に依つて、北国の諸将も上洛なり。此折を得て、上杉景勝の臣河田豊前守、新川郡松の城より打つて出で、小出の城を攻動かす故に、京都へ註進すれば、早速佐々・神保・前田・金森・不破・徳山・原の面々馳下り、河田豊前守を追退けける。佐々成政、軍功あるに依つて、是より越中一国の成敗をなさしめける。此時砺波郡木舟の城主石黒左近亮・家老石黒与右衛門・伊藤次右衛門・水巻采女以下の一族三十二人、信長公より召に依つて上国す。此者共上杉に一味の上、安養寺の寺院を焼失せし科に依つて、丹波五郎左衛門長秀に仰せて、道中長浜の旅宿に於て、残らず切腹仰付けられける。

石黒左近が家来水巻采女が伝に曰、水巻次郎は、加藤の麁流、文明の初め、加州石川郡倉満より、越中の水巻の邑に住す。〈彼が墓、砺波郷安居村にあり。〉其子忠家加州へ来り、一揆の大将河合藤左衛門が婿となり、洲崎和泉入道慶覚坊が旦那となる。長亨二年、富樫介政親と組みて、岳山の池へ落ちて、共に落命す。其子忠元・孫の忠鑑は、加州にありて、慶覚坊・河合藤左衛門と一所に、本願寺の候人となる。忠家が弟、越中にて、石黒左近が家老となる。采女忠国、長浜にて自殺する。忠国が二男伝次郎忠弘、加州へ来りて、卯辰福寿院に住す。先祖の縁に因つて、米泉村にして、慶覚坊一院を建立し、元祖慶覚坊が、蓮如上人より給はりし行基の作阿弥陀如来、長一寸八分なるを本尊とし、北陸真宗中興の弥陀と号す。忠弘、天正年中、利家卿に謁し奉り、住吉村に於て、一箇の地を給はり、其子助左衛門忠経・其子助左衛門忠直、終に加州の土民となる。

天正十年春、信長、家康公の加勢として、甲州武田勝頼を攻亡し、甲州・信州・駿州・上州一円に徳川・織田両家の領国となる故、信長の旗本森勝蔵・滝川左近将監を、信州に置きける故に、信長、景勝を攻む北国の諸将と示し合せ、双方より越後の景勝を、攻むべしとの事にて、北国衆は、柴田勝家・同勝豊・佐久間盛政・佐々成政・前田利家卿・徳山五兵衛・神保氏春・同清十郎・椎名孫六入道以下、四万八千余人、越中に発向ある。此時景勝の臣河田豊前は、越中魚津城に楯籠る故、之を攻めんと押寄する。景勝後詰の為に越中へ来り、天神山に陣を取りて居ける内、信州より、滝川・森打つて出づる由、註進ありけオープンアクセス NDLJP:150れば、魚津の城を打捨て、在所春日山へ引返す。是に依つて、諸将魚津へ押寄せ、河田豊前守・吉江織部正を討取り、早速信長へ註進して、猶越後へ打入らんと評定して勇みける。爰に信長は、数年の大敵武田家を討亡し安堵し、父子洛陽へ出で、徳川家を招き、遊覧せんとあるに、信長弑せらる明智光秀逆心を企て、六月二日、信長・信忠父子、本能寺に於て生害ありし由、同五日、越中の陣所へ告げ来る。諸将大きに驚き評定しけるは、近年我々が大敵とするは、中国の毛利・越後の上杉なり。此弊に乗りて、打つて出でんとは必定なりといふべし。中国は、羽柴・丹羽の面々向ひたれば心安し。我々も一先づ、領地々々へ引籠り、越後勢を防ぐべしと、其上にして、光秀は計るに安しと、各分国へ引返さる。成政は富山の城、神保は守山の城、盛政は尾山の城、其外徳田・柴田も、夫々の居城へ引籠りける。

評に曰、此時勝頼より、景勝に使者を以て申遣しけるは、信長横死により、弔合戦の為に帰るなり。落着の上、対陣に及ばんといへば、景勝は義士なり、忽ち和睦あるべしと。此時北国の諸将、残らず上洛せば、光秀安土に逗留の内、馳着くべく、然らば其功、太閤の上にあるべきものか。主将たる柴田が浅智と知るべし。

此時前田利家卿は、能州におはせしが、信長公、華洛遊覧の為め、夫婦一所に上洛あるべしと誘ひ来る故に、夫婦上洛の所、江州勢田に於て、信長の変を告げ来る。士卒共抜々落行きければ、内室を尾州の荒子へ遣し、其身は安土に籠らんとし給へども、加勢一人もなく、江州の甲賀左衛門も長秀も、一先づ本国へ帰り、重ねて北国の諸将と一所に登らんと、終に越前の府中へ帰り給ふ故、北の方も、尾州より府中へ帰り給ふ。

此時、利長公に附添へける家士吉田長蔵・三輪作蔵・姉崎勘兵衛・山森橘平・恒川才次・奥村次右衛門・金岩与次之助なり。彼家にて、瀬田帰り七人衆といふ

 
昔日北花録巻之四
 
 
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昔日北花録 巻之五
 
 
石動山破却加越能城跡の事
 
抑能登国石動山天平寺は、往昔法道仙人爰に住んで、大宝年中空に登りしと、其後霊亀二年、越中国を割きて能登国とす。是れ法道、能く登るの所以なり。養老元年、泰〔〈澄脱カ〉〕登山して、孝謙天皇より大宮坊を始め、諸堂を建立あつて、坊舎三千に及ぶ。都て北陸七州の産神と崇め、座主正一和尚の永宣を蒙り、守護地頭の不入の地なれば、一山の大衆富貴にして、近国を軽んじ、忍辱の法衣を脱ぎ、討仇の堅甲を着して、沙門の姿を私兵となし、嶮岨を頼んで国制を用ひず、甚だ武家を蔑にせり。此度京都に於て、信長横死の由を聞きて、早く越後へ内通して、先年落行きし温井・三宅が輩を語らひ、当守護前田家を計らんと、一山の大衆評定しければ、遊佐が子の孫六、景勝へ訴へ、旧国能州へ打入らんと乞ふ。依つて景勝より加勢として、井津木弾正浄定に、三千の兵を添へて、能州安部屋浦へ廻らしむ。温井・三宅等は、越中妻良の浦より登り、名知山へ打入る。天平寺の般若院快存、火の宮坊立玄寺等と評定し、先づ越中口荒山の要害に、砦を築かんと急ぎ、普請をぞ始めける。此事、前田利家卿、早速に聞き給ひ、嫡子利長卿は越前にあり、加賀の佐久間へ、加勢の事を言遣されける。盛政早速に軍勢を催し、越中口へ向ひけるに、温井・三宅・遊佐が、何心なく普請し居たる所へ馳着き、一戦に打勝ち、三大将並に火の坊を討取り、残党を追払うて往きける所に、利家卿の軍勢と行違ひたり。夫より利家卿は、直に山上へ攻登り、先陣長九郎左衛門連龍・高昌石見守・村井又兵衛・奥村助右衛門が輩、勇を震ひ戦ひしが、連龍は案内者故、人知らぬ嶮岨より駈登り、寺院に火をかけしかば、魔風烈しく、堂塔残らず一片の煙と燃え上る。天平寺破却爰に於て、阿弥陀院の律師俊慶・大宮坊の飛騨・栗原の飛周防以下の大将分、残らず討死しければ、残党の老僧・児僧・喝食、仏像・経巻を抱へて、深山幽谷に逃げ迷ふ時に、利家卿士卒を制し給ひ、寺僧等を殺すべからずとオープンアクセス NDLJP:152て之を制し、大将分梟首して、帰陣し給ふ。佐久間も尾山の城へ引返す。

此時佐久間、前田家に対し、野心を企つる由、七国志に見えたり。

般若院快存は、越中へ落行き、五社の内将軍地蔵の愛宕権現を、鎮座なさしむ。葭原村に住居す。是よりして今石動とぞ号しける。是より先、石動山の大衆、加州へ人を遣し、本領寺派の一揆浪人を語らひける故、佐久間が能州加勢に行きける御山を攻めんと、二曲村の次郎兵衛といふ者大将となり、能美・江沼二郡の勢を集めけるに、佐久間、早速能州より引返し、直に二丸へ押寄せ、一揆を追散らし、夫より山中を攻落して、一先づ城へ返りける。越後の加勢伊津木弾正も、石動山落去の由を聞きて、安部屋より漕ぎ来る。〈𮎰山軍記に詳しく見ゆ。〉是れ天正十年七月なり。爰に羽柴秀吉、明智光秀を、一戦に討亡しける大功を以て、天下の執柄、一人あるが如き故、柴田勝家之を妬み、終に合戦に及び、天正十一年二月より、江州に於て、羽柴と取合始まりけるが、前田利家卿は、佐久間盛政と両人、柴田が先陣となりし。佐久間は、長浜より甲水村辺へ焼働き、前田公は、濃州関ヶ原辺迄放火して、引返し給ふ。同三月、勝家三隊の軍勢を催し、柳瀬合戦佐久間を先陣として、抑ヶ瀬辺へ出張しけるに、一戦に打負け、越前へ引返す。此時利家卿は、府中にいます。

評に曰、七国志に、利家卿・利長卿父子出陣とあり。追つて考ふべし。或は利家卿の姫君、太閤の養女となると云々。或は嫁すともいふ。後加賀殿とて寵愛なり。故に利家卿は、他の疑を退けん為め、此時出陣なしと云々。

子息利長卿加勢の為め、別に松山迄出陣ありて、蜂須賀彦右衛門・大金藤八等押として、堂木山に居給ひける所に、味方悉く打負け、前後に敵充満してければ、利長卿自ら旄を取りて、静々と引返し給ふ。小塚藤右衛門・木村三蔵・富田与五郎、先に進んで討死す。長九郎左衛門・村井又兵衛殿しんがりして、数度取つて返し引退く。横山山城守・半記入道旗奉行たりしが、抑ヶ瀬の辺にて討死す。長・村井が家臣も、長壱岐・神保八郎右衛門・小林図書・太田内蔵介・国分尉右衛門・河岸主計・村井左京等を始め、十八人討死す。されども敵を切払ひ終り、府中へ引返す。其後府中の城へ入りて、利家卿と和睦ありて、太閤は、北の庄へ取懸り給ふ故、越中より、佐々成政加勢すべきかと、利オープンアクセス NDLJP:153長卿、船橋の川岸に備へて守り給ふ。太閤北の庄を早速攻亡し、城中の烟上るを見て、最早勝家が首を見る迄もなし。佐々成政又備へざる先に向はんと、加州の城へ打入り、佐久間が家来共を追散らしける。成政早速使者を以て、娘を人質に入れて、降参を乞ひける故、之を領掌し、則ち加州の内石川郡・河北郡を、利家卿へ給はり、能美郡・江沼の両郡と、越前・若狭両国、都て百万石を、丹羽長秀に給はりて、北の庄に居て、北国の鎮となさしむ。

此時村上義清が一子次郎左衛門義明、長秀に仕へけるを、直参として六万石を給はり、大野に在城せり。後所替して小松に住す。溝口金右衛門若州に居けるを、六万石給はり、大聖寺に居て、長秀が与力たらしむ。天正十四年より、長秀乱心となりて死去す。子息幼少たる故、丹波の跡を、其儘堀久太郎秀政に給はり、慶長二年、堀久太郎を、越後の国上杉景勝の跡へ国替の時、村上周防守も、溝口伯耆守も、越後へ移り、大聖寺へは山口玄蓄允、小松は羽柴長重に給はる。

前田利家卿は、加州へ移り、尾山の城を普請し、府名を金沢と改めて、能州並に越前府中より、家中を残らず引寄せ、堅固に守り給ふ。此時長九郎左衛門・不破河内・徳山五兵衛三人、与力となりける。能州七尾には、御一族前田五郎兵衛・同孫左衛門・同修理・高昌織部を差置き、松任の城には、御嫡子利長卿を置き給ふ。前田右近・同又次郎は津幡の城、奥村助右衛門・土肥千秋等は、能州越中の城・末森の城に差置かるゝ。

此時家中の諸士は、二三丸新丸に屋敷を建て、是に置かるゝとなり。

此頃尾州の織田信雄と秀吉と、不和なる故、越中の佐々成政、立山のさら越といふ所を越えて、尾州に至り、味方すべき由を約束し、夫より加州へ打入りて越前へ攻上らんと、軍用意をなし、謀計の為に、利家卿の次男を、婿にせんと企てける。此事顕れて合戦となり、前田方には、加能の堺鳥越に砦を築き、目賀田五右衛門・丹波源十郎を入れ置かる。前田利家佐々成政合戦能州七尾へも、中川清六光重をば、加州に遣して、長九郎左衛門は、徳丸の城を守り、加越の堺朝日山にも砦を築き、村井又兵衛・高昌九蔵・原田又右衛門を入れ置くべしと、三将千五百の人数にて朝日山に塀を懸け堀を拵へ、オープンアクセス NDLJP:154普請最早半の所へ、越中勢佐々平左衛門・前野小兵衛、五千人の人数にて、朝日山に砦を築かんと来りて、合戦に及ばんとする。利家卿、金沢より後詰として出馬ある故、佐々・前野は、早く富山へ引入りける。是れ天正十二年八月廿八日なり。此時越中には、倶利加羅の城に、佐々平左衛門・野々村主水、井波の城には前野小兵衛、阿尾には始めより菊地十六郎、守山には神保安芸守、〈此城跡、今守山の麓古国府にあり。〉境の城には、丹羽権平を守らせける。同九月、成政密に勢を出して、加越能の堺なる末森を攻取らんと一万の人数を以て、今石動の後より、末森の近所なる壺井山に陣を取る。神保安芸守父子、三千の人数をして、金沢の後詰を防がんと、加能の堺川尻に陣を取る。佐々平左衛門・前野小兵衛先陣として、末森の紺屋町を焼払ひ、喚き叫んで戦ひける。城主奥村助右衛門等、纔に六百の人数を以て之を防ぐ。此事金沢へ註進しければ、利家卿聞き給ふや否や、馬に打乗り駈出し給へば、家中の面々追付き、森下の町にして、漸々千計になり、夫より揉みに捫んで馳せ着き給ふ。其日の暮程に、津幡甚直といふ者の方へ入り給ふ。亭主大釜に粥を焚かせ、追々来る人々に振舞ひける。此時津幡には家数もなく、総勢過半、甚直が宅へ宿る。爰に於て利家卿、道先へ人を遣し、先陣を呼返し、今夜は津幡に一宿し、評定の上に後詰あるべしと、触れさせ給ふ故に、指口・狩鹿野辺迄行きける人々、皆津幡へ着き給へば、津幡の城主前田右近父子罷出で、評定ありけるは、末森未だ半作事の城なり。其上纔の勢にて、楯籠る事なれば、落さるゝ事もやあるべく、此度の戦に利を失ふ時は、成政、金沢迄も附入るべし。此所に於て、御待合あれと宣へば、諸将尤と同じける故、利家卿も領掌あり。是に依つて諸軍、草鞋を解きて休みける。爰に神保が物見の者共、道々にありけるが、先に呼返したる勢と、津幡の体を窺ひて、とても利家卿、後詰はあらじと告げける故、其夜は浜辺の兵共、陣屋へ入りて休みける。然るに利家卿、丑の刻時分、風与ふと亭主を起し給ひ、夜中末森迄の道案内をすべしと、物具し給ひければ、諸卒大に驚きて、俄に軍粧して立出づる。爰に山伏一人、宿に在合せ、兵糧など手伝して居けるを召して、今日の吉凶を、占ふべしとあれば、山伏早速に手占して申しけるは、今朝の御出陣、大吉なりと申上ぐる。大将大きに歓び給ひて、都合三千五百人、津幡甚直を先にオープンアクセス NDLJP:155立て、九月十二日寅の刻、一陣村井又兵衛・不破彦三、二陣原隠岐守・前田又次郎・片山内膳、三陣多野村三郎四郎・青山与三・前田慶次郎、旗下利家卿御父子、宮川但馬・山崎庄兵衛武者奉行として、列伍を調へ、揉みに揉んで押寄する。川尻の辺神保が陣屋の前を、未だ夜の内に打通り、今浜の砂山に馳着きける。未だ十二日の東雲にて、末森の体を窺へば、城攻にも取懸らず、金沢勢の後詰はなし。今日先手の勢を以て、城を攻落し、直に金沢へ入らんと、越中勢まだ油断して居ける所へ、村井長頼申しけるは、城攻の先陣を差置き、壺井山の本陣に取懸り、攻入るならば、自然と城攻の先手は敗すべしといふ。利家卿は、いや先づ城攻の者共を、双方より攻破り、はやはや城兵に安堵させ申すべしとて、一陣・二陣・三陣は大手へ向ひ、油断して居ける越中勢に打つて懸れば、大に驚き防ぎ戦ふ。城中よりも、奥村切つて出で、一時計に、越中勢を多く討取り、残兵を追懸け、利家卿城中へ入りて、此度奥村が、城を能く守りし事感心あり。越中勢の先手佐々与右衛門、搦手口にては野々村主水・桜井勘助・本庄市兵衛・堀田次郎左衛門・斎藤半右衛門等、宗徒の士討死す。金沢方には野村伝兵衛・山崎彦右衛門・半田惣兵衛高名して、感状を給はる。其外富田六左衛門・篠原勘六、皆大病にて駕籠に乗り、宮の腰浜通りより来り、今浜にて、大将に見参せり。村井源六・木村久三郎・北村作内・小泉弥市・阿波賀藤八・江見藤十郎・岡本七助・吉川平太・井口茂兵衛等、悉く勇を振ひ手柄を顕す。不破彦三・村井又兵衛が家臣、多く手柄を顕す旨感賞あり。扨越中勢は、本陣へ崩れ懸りけるに、成政初めて驚き、大きに怒り、隊伍を調へ、待ち居たれども、加州勢は、末森の城に入りて、敗軍を追ひ来らず。爰に於て、成政如何思ひけん、末森へは懸らず、揉引にして備を散らさず引返し、竹の橋の近所吉倉山に陣を取る。爰に中条半右衛門といふ百姓、今晩利家卿、末森へ出陣の後に、津幡近所の郷民数万人を語らひ、紙旗多く拵へて、津幡辺の山に登り、太鼓を鳴らし、鬨の声を揚げて、森々に旗を結付け備へ居たりしを、成政、竹橋より斥候を遣し、此体を聞き、津幡へは懸らず、竹橋近所なる鳥越の城へ押寄する。爰には金沢より、目賀田・丹羽等籠りたるが、佐々、一万に及ぶ勢にて、押寄せ来る事を聞き、城を明けて落失せける故、成政より、久世但馬守を入れ置きて、総勢富山へ引オープンアクセス NDLJP:156返しける。先に神保氏治は、川尻に出張しありける所、いつの間にか、加勢は遥か海際を打通りて、唯今末森にて、軍最中の事を聞き、大きに驚き、後より来る加州勢を少々討取り、壺井山へ来りけれども、加州勢を通しける事を恥ぢて居けるが、是も成政に随ひ、鳥越山に赴き、夫より居城守山へぞ引入りける。利家卿は末森の城に於て、奥村が此度の忠戦を賞し給ふに、助右衛門が曰、九日より敵勢攻懸り、味方の小勢、終日兵糧を使ふ間なく、昼夜入替る人なければ、殊の外労れける故、与力の士上原藤左衛門、〈甲州信玄が軍奉行上原随応軒が子なり、〉一時の計略にて持ち怺へる故、又宝達山の麓沢河村に、田畠兵衛といふ百姓ありて、先に成政押寄せ候節、教導して、あらぬ道へ教へける故、越中勢を脳し侍ふ段、逐一と語りければ、夫々恩賞ありて、扨今宵は津幡の方気遣しければ、助右衛門は、此所を能々守るべしとて、其夜津幡へ引返し給ふ。爰に於て、中条の半右衛門が働を恩賞あり。又甚直が方に御泊り、鳥越の様子心元なしとて、小林喜衛門を斥候として遣さるゝ所に、早や落失せて、敵入替りたり。依つて思慮やありけん、利家凱陣翌十三日、又末森へ取返し、其日浜辺より宮腰を経て、金沢へ入城あり。此時城下にて、常に御目見仕りたる町人共、町端へ御迎に出でて、帰陣を賀しければ、大将大きに喜悦し給ひける。

今に吉例として、国主他国へ出入の時、町端へ出迎送をするなり。

能州七尾の城主前田五郎兵衛安勝・同孫左衛門良継・高昌織部・中川清六等は成政大軍を以て、末森を攻むる由に付、長九郎左衛門をも呼寄せ、評定しけるは、千にも足らぬ奥村の勢にて、普請も半なる末森の城に、中々二日とは持堅むる事覚束なし。然に後詰して、勝誇りたる越中勢に、当城迄乗取られては、能州一国、成政が所領となるべし。我々利家卿へ対し、仮令切腹したりとも、後難は遁るべからず。只我々持つ所の城を丈夫に、持堅めんには如かじと、評議一決しぬれば、九郎左衛門は詮方なく、手勢を引具して、末森へと馳せ向ふ。此時利家卿、越中勢を追払ひ、末森の城へ入り給ふ所に、能州の浜手に、一手の軍勢見えたる故、早速脇田善左衛門・野村七兵衛をして見せしめらる。二人白子浜に至り、窺ひ見ければ、長連龍なり。末森の様子を聞きて、甚だ残念がり、我れ速に馳せ来らんといひし所に、七尾の大将衆、オープンアクセス NDLJP:157留められし故に、本意を遂げざる事の口惜しさよ。利家卿への申訳とて、髪を切つて謝しける。利家卿大きに感賞して、猶能州の事、諸事気を付け給ふ様にと、懇に挨拶ありしとなり。連龍は、徳丸へ引返して、家臣鈴木因幡をして、窪田の館を相守らす。然るに神保安芸守は、守山へ引返して、此度の末森にての恥辱を雪がんと、守山より、氷見の庄荒山辺迄出張し、百姓を悩まし、勝山といふ所に、要害を構へて、袋井隼人を残し置き、其身は守山へ帰りける。此由七尾の諸将聞伝へ、前田孫左衛門・高昌織部・中川清六、各手勢を引具し、勝山へ押寄せ攻立てけるに、越中勢多く討たれけれども、大将袋井武功の者にてよく防ぎ、師源七郎・山崎喜左衛門・石黒采女など、持ち怺へて戦ひけるが、終に能州勢は、七尾へぞ引返しける。兄の五兵衛等大きに怒り、纔なる勝山の砦一つに、各歴々方馳せ向ひ、其儘に帰らるゝ事、後代の恥辱なりと、又々勢揃し押寄せけるに、此度は越中勢労れ果て、戦ふ気色もあらで、一戦にも及ばず、守山へ逃げ帰りける。されば五郎兵衛殿の一言にて、先頃の恥を雪ぎたり。早速金沢へ註進に及びける。此年十月に、利家卿下知して、津幡の前田右近父子をして、鳥越・倶利加羅辺を放火なさしむ。金沢よりも加勢として、岡島喜三郎を遣され、度々鳥越を攻むと雖も、城主久世但馬守、堅く守りて取合はず。深雪になりける故、加勢も引返す。此頃京都に於て、佐々成政より、秀吉公へ遣し置きける。人質の娘を殺されし由、成政仄に聞きて、大きに怒りて、十一月廿三日、富山に出でて、立山の道さら越といふ所より尾州へ至り、又遠州へ立越え、信雄・家康公に対面し、太閤越中へ押寄せ給はゞ、両公御加勢給はるべしと、約束して帰りける。

此さら越といふ所立山にありしを、後手加州利常公、此道を埋め、平均になりたる時、かんじきをかけて通りけるならんか。其外に間道なし。深雪の時、各尋ね給ふに、山を越えて、信州下の諏訪へ出づる。

天正十二年二月、加州勢法坂といふ山道より、越中蟹谷へ出づる。深夜に、蓮沼の町を焼払ひける。此所は道林寺正満寺などいふ。大坊主并砺波一郡の商家の集りたる所にて、家数二千軒計ありしを、一時の煙となしぬ。先陣村井又兵衛・二陣山崎庄兵衛・三陣岡島喜三郎等、利家卿御父子も、後陣に打立ち給ふ。爰に井波より、前野小オープンアクセス NDLJP:158兵衛二千計にて打つて出で、大に戦ひけれども、加州勢、深く敵地へ入りし事なれば、終に引返しける。利家卿も、山上に控へ給うて打連れ、金沢へ入り給ふに、同三月、佐々成政、城ヶ端井波を打通り、二俣山より鷹栖辺へ打入り、近郷を放火する。金沢より、三四里の道なれば、村井又兵衛・不破彦三・利家卿も、早速出陣ありけれども、成政早く富山へ入城す。利家卿、夫より直に取つて返し、鳥越の城を攻め、三日戦ひて、城兵を討取りけれども、要害故に落城せず、又金沢へ帰り給ふ。阿尾城主菊地右衛門入道・子息十六郎、利家卿へ内通して、越中発向あらば、内応すべしとなり。其仔細は、成政、富山の桜馬場にて花見の折節、酒宴の上口論ありて、菊地入道大きに腹立し、斯くの如きの事に及びける。成政平生大志ありて、人数をも多く召抱ふるに、所領不足なれば、諸士の知行を二つめ三つめにして渡しけり。家中並に遠国より招き来りたる士共、常に腹立してぞありける。利家卿は、津幡の後山より、倶利加羅を以て右に見て、越中へ打入り、阿尾の城に至り、菊地父子に対面し、前田宗兵衛・片山内膳・高昌九蔵・小塚藤十郎・長田権右衛門を籠置かれたり。菊地父子、利家卿の疑を避けん為めに城を出でゝ、其傍に住す。是に依つて、利家卿、金沢へ引返し給ふ。去年以来、成政加州と戦ひて、利あらずして越中へ引入り、守山・富山・井波等より、急に打つて出で戦ふべしとて、倶利伽羅より、鳥越の城兵を引取り、佐々平左衛門は、木船に入置きける。また蟹谷の勝興寺も、射水郡へ移住あるべしとて、神保安芸守が古館の古国府に敷地を構へ、成政・氏治両人より、国中へ下知して、伽藍忽ち建立しければ、税地二百石を寄附する。植生八幡の神主上田石見守に、神領加増して、若し加賀勢来りなば、早く註進すべしとなり。此時守山の神保氏治、阿尾の城を攻むる。然るに村井又兵衛、越中へ打入り、所々巡見して歩みけるが、此事を聞き、早速後詰として、神保を打殺す。扨倶利伽羅と今石動に砦を築き、倶利伽羅へは近藤善右衛門・岡島喜三郎・原田又右衛門を籠めらるゝ。今石動へは、前田右近子息又次郎なり。こゝに木船の佐々平左衛門、今石動へ押寄せ、小矢部川を渡りて大に戦ひ、井波より前野小兵衛、加勢として打つて出でけるが、右近父子打勝ちて、越中勢引退く。然るに秀吉公には、去年織田信雄と、尾州小牧にて合戦ありけるが、此春オープンアクセス NDLJP:159和睦ありけれども、佐々成政、未だ越中にして、顔の色を立てける故、密に越中勝興寺を招き、越中の形勢をぞ尋ねらるゝ。成政越後の景勝と一味したるや否や、また信雄は、徳川家等の加勢もあらんやと、委しく聞き給へど、只成政身の働きたる由を相述べらる。是に依つて、天正十三年正月廿三日、京を打立ち、直に越中の安養坊山に在陣なり。成政信長に降る此時信雄より扱ひ給ひて、成政降参し、御詫申上ぐる。神保・前野等は、富山へ引越し、新川一郡を成政へ下され、且つ勝興寺にも、朱印の地を給ひ、石田三成・木下半助制札を建て、夫々越中の仕置改め、伏見へ引返し給ふ。此時金沢の城に於て、越中砺波・射水・婦負の三郡を、利家卿へ進らせらるゝ故、貴船城に、前田右近秀継を入れ置き給ひ、守山の城には、利長卿居給はんとの事にて、城普請ありて、翌十四年に入城ありける。然るに此年十一月廿三日地震して、貴船の城を揺り崩すに依つて、右近秀継此時逝去なり。兄蔵人利久も、一所に逝去なり。翌十五年、此城を今石動の山上に引移して、右近の子息又次郎、利長卿より、四万石給はりて爰に住す。天正十五年、太閤、九州発向の時、利家卿は、京都を守り給ひ、利長卿は、九州従軍ありける。此時金沢には五郎兵衛尉安勝、能州七尾には、孫左衛門良継・高昌織部・中川清六、越中守山には前田対馬守父子、松任に、徳山五兵衛等在城なり。同年佐々成政に、肥後一国四十五万石を下されし故、成政再び本懐を遂げ、神保父子の越中士も、残らず引具し、九州へ入国しければ、新川一郡は、太閤の分領となる。天正十六年、孫四郎利政卿へ、能登国一円を配分あり。則ち七尾に在城して、長九郎左衛門を与力となして、孫左衛門城代となる。村井左馬介・不破源六

此源六は、濃州竹ヶ鼻の城主二万石の身代なりしが、太閤と信孝と合戦の時、源六、信孝公に一味する。此時に長九郎左衛門連龍、竹ヶ鼻を攻落しければ、源六、連龍に降参す。夫より利長卿に仕へ奉るなり。

両人の家老半田半兵衛・次太夫・山崎彦右衛門・北村三右衛門・奥村与平等を附けらるる。天正十八年、太閤小田原攻の時、利家卿御父子随軍あり。金沢御留守居五郎兵衛尉能州七尾、長九郎左衛門越中守山、前田対馬守今石動、前田又次郎病死故、家老笹島織部、新川郡にはまだ御拝領にあらざれども、越後景勝、太閤の味方にあらず。オープンアクセス NDLJP:160是に依つて去年中、太閤より御下知にて、富山城に前田対馬守・長男美作、魚津に村井又兵衛、増山の城に山崎庄兵衛、白鳥の城に岡島備中・拝郷伊賀を籠め置き給ふ。文禄元年、利家卿、上方へ参観あり。此時に朝鮮征伐の評議ある故なり。二月より、金沢の城普請始まる。利家卿、守山より金沢へ来り、堀石垣を築かせらる。是までは山屋敷の地形なり。此時小立野の間を、深く掘切り水を湛へ、東の丸を高石垣に築き立て、金沢城を築く笹原出羽も、上方より奉行として来り、此城を経営して、此時より金沢城といふ。今年越中守山海道岩が淵にて、向弥八郎と斎藤平四郎・山口庄九郎喧嘩する。双方の朋友出合ひて、大喧嘩となる。吉田三左衛門・萩原八兵衛を始め、下人等大勢当座に死す。宇野平八は、後日京都大徳寺に於て切腹する。太閤朝鮮陣始まり、利家卿、肥前の名護屋に在陣年久しき故に、金沢の人数は交代す。其節は、利長卿在国、利政卿には御供たり。留守居の在城、金沢に五郎兵衛尉安勝・村井又兵衛、守山に利家卿、魚津に青山与三、富山には前田対馬守父子、山崎庄兵衛は増山を明けて、放生沢へ来る。此頃阿尾の菊地伊豆守病死す。子息十六郎金沢へ来り、築岩へ御供する。前田対馬守は、守山の城代となりて、利長卿上京の節は、毎も守山に在城あり。文禄二年、利家卿、従三位中納言に昇進し給ひ、村井豊後守・笹原出羽守、従五位下に叙す。同三年正月、金沢大城下となり、始めて年始の御礼等儀式あり。同年、新川郡を御拝領ある。是に依つて、利長卿富山の城に入り給ひ、守山に、前田対馬守父子在城なり。慶長四年、利長卿御家督御相続に依つて、富山より金沢御入城なり。今年金沢城総構の堀藪出来する。近年、加・越・能三州一円に治まり、利長卿城城を守らせ給ひ、また小松の城には、丹波五郎左衛門長秀・息男長重成人の上秀頼公の近習人奉公し、加賀守に任じて、十二万石を領して在城なり。同国大聖寺は、戸次右近病死なり。子供なうして、上り知となりたる所へ、山口玄蕃允に六万石給はり、直参として太閤より遣さる。〈山口は、筑前大和中納言秀秋が臣なり。〉然る所に、慶長五年の秋、石田治部少輔三成叛逆して、日本国中動乱となる。利長、家康に与す利長卿、徳川家へ荷担し給ふに、小松の丹波長重と、大聖寺の山口は、石田治部少輔に一味する。是に依つて、また国中に合戦始まる。同年八月、利長卿金沢を立ちて、人数二万騎にて着到し、上方発向あり。オープンアクセス NDLJP:161小松の城下を打通りて、大聖寺へ来り給へば、山口城より打つて出で大に戦ひ、終に打負け、父子一所に自殺する。八月六日、只一日の内に落城する事、希代の強戦なり。

此城跡大聖寺、今の関所よりは、上口西の手上少なり大手は海道の方。

夫より越前金沢迄、発向ありと雖も、仔細ありて、また金沢へ引返し給ふ。同八日に、小松の城下鬼場潟の辺を引取る頃、小松の城より打つて出で、殿しんがり長九郎左衛門の勢と戦ひ、浅井縄手に於て、長氏の家士多く討死す。九郎左衛門父子士卒を纒ひ引取りける時、猶小松勢附従ひ、山代橋の上にして、金沢勢も蹈止りて、金沢方より、松平久兵衛・水越縫殿・岩田伝左衛門・井上勘左衛門、此五人晴なる鑓を合せて高名あり。爰にて双方物分れして、利長卿は、金沢へ帰陣し給ひ、頓て関ヶ原の軍破れて、丹波は改易となり、小松領・大聖寺領、都て利長卿領し給ふ。右出陣の折は、金沢城代奥村助右衛門、越中守山は前田対馬守、魚津に青山佐渡、劒に〈今鶴来に作る〉砦を構へ、高昌石見、三堂山に岡島備中・不破彦三、其近辺千代には、不破丹波瀬原・寺西治右衛門を置き給ふ。追々上方発向の時は、浜の手二口村に砦を構へ、山崎長門守を置き給ふ。慶長六年、土方勘右衛門尉に、利長卿より一万石給はり、新川郡布市村にて知行す。其後秀忠公より、奥州にて一万石給はりて、直参となる。加増して四万五千石になり、奥州に在城す。

此土方、後河内守に任じ、新川郡を知行せしを、国主江戸往来の節に、放鷹の障なりとて、能登国にて替地あり。越中は上め、能登は下めたる故能登にて一万石余、替りに給はるといふ。其頃土方氏仔細あつて、国を除かるゝ故に、七千石は公領となる。三千石は土方氏知行今にあり。

源峯大聖寺は近藤善右衛門、能州は利政卿居給ひけるが、上方へ御退隠故、其跡へ大井久兵衛・三輪藤兵衛、富山へは、津田刑部を入置かれ、今石動は前々より、笹島豊前在城なり。此後三箇国、終に闘戦の災なく、静謐に治まりしは、偏に大守の厚思に依る物なりと、四民安堵の思をなせし。慶長十一年、利長公御隠居あつて、富山城造営ありて入らせ給ふ。同十四年、類焼回禄して、翌年関野に新城を築き、高岡と号しオープンアクセス NDLJP:162入城あり。同十九年元和の役、利光卿上洛の時は、金沢御留守居奥村快心入道、小松は前田源峯入道、大聖寺は津田道勺入道・近藤大和、魚津は青山佐渡、今石動は笹原〔島カ〕豊前、能州七尾は大井久兵衛・三輪藤兵衛之を守る。此外鶴来守山・末森境阿尾等の砦々を明けられて、金沢へ籠り給ふ。寛永十八年より、富山へ淡路君、大聖寺へ飛騨君御入城。小松は、微妙公御隠居ありて、所々の砦城は、皆々廃せられ、治世太平無窮のしるしを知らしめ給ひ、目出度かりける御代とかや。

 
昔日北花録巻之五大尾
 
 

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