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志津ケ岳合戦事小須賀九兵衛話

 
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志津ケ岳合戦事小須賀九兵衛話
 

明智日向守誅伐以後太閤思召は向後天下は尾張内府信雄の被知召事可然との事也扨信忠の若君をは安土の焼跡へ移し置奉り九月の末何れも安土へ参会して天下の義相談也柴田勝家の了簡は神戸三七信孝の被知召事可然也信雄は已に尾州五郡の主也信孝は勢州神戸五万石を被為領明智を御附四国へ被遣筈に候得共伊予計少御手に入其外は御手に不入其時信孝堺にて明智を御待候内に明智は逆心を起したり兎角天下の義は信孝可然となり是より挨拶及相違て柴田と太閤互に怒をふくむ其時丹羽長秀太閤と一処に寐ころひ有しか長秀そと足にて太閤に心を付太閤被心得其夜大坂へ御かへり勝家は越前へ被帰滝川一益は関東の管領にて有しか北条と取合候内に信長御生害の事聞得たり一益は北条に負て真田を頼み木曽路を登り候此比信孝は岐阜に有太閤は山崎に有越前雪深けれは勝家冬中には出陣有ましと太閤の御積り也

太閤は江州志津ケ嵩の地形一覧有て取手を四ツ被仰付て桑山左衛門佐をして守らしむ

滝川は柴田と一味也勢州亀山は滝川家来佐治新助守る太閤は柴田か事大切に思召故其前に亀山なとをも御覧可被置の心根にて歟亀山へ出馬有て志津ケ嵩へ御かゝり扨山崎へ御帰被成

太閤と柴田和睦為致度との由滝川方より信孝へ申達るにより信孝よりも柴田へ異見也就夫柴田手前の馬廻り両人と太閤へ緑有信長の馬廻り両人とを宝寺へ遣し浅野弥兵衛を以オープンアクセス NDLJP:202て存念を申入太閤四使を被召出直に御聞候口上は用に不立事を申出し無詮議に候間和睦可仕との事也太閤返答は被仰越候通御尤に候諸事御異見に随ふへし使者御心能合点被成大悦に存候左候はゝ墨付を可被下太閤墨付は飛脚を以可遣先各は可被帰此序に大徳寺へ参詣して信長公へ焼香被致よとの事にて使者は大徳寺へ参詣して越前へ帰る其後太閤より五畿衆を被呼寄今度越前よりの口上を被仰聞是は雪中難致出馬に因ての謀也滝川か談合なるへし唐にては張良日本にては楠なとには可被謀か柴田なとにはたまされましきものをとの儀也何れも感入らる

太閤被仰は妙なることを被心付殊の外心うき立面白く成候とて人数二三万御連れ志津ケ嵩へ御越夫より美濃へ御出霜月末に岐阜城御攻二の丸迄御詰故信孝より扱に被成太閤返答は三七殿は柴田と一味被成私を御たをし可被成との御心底恨めしく存候中々柴田なとにたまさるゝ私にては無之候三七殿は主君の筋目なれは助申とてその儘岐阜を被置此時稲葉彦六を始濃州衆不残太閤へ随申候扨又志津ケ岳へ御越仕置等被仰付極月廿六七日頃上京被成筈也しか姫路へ御帰被成候此中何れも苦労仕候三ヶ日の間は御自分にも御休可被成何れも休候へと金銀衣服等諸士に給り元日より上下悉く休足す正月七日御上京高山右近中川瀬兵衛なとを御呼被成大坂城は丹羽長秀に御預被成正月中旬七万五千人にて志津ケ嵩へ御越中川瀬兵衛に郭を為御守四の砦へ人数を被入残勢五万計を引具せられ亀山へ被取掛滝川後詰致事不叶して亀山城守佐渡新助切腹すさて亀山には誰か可被置との儀なれども望人も無之とき堀尾茂助進み出て私を被召置よと云太閤殊之外御感し命か有ましき事無心元と仰らる茂助御心安く思召可被下城を渡す事は有ましと申上る依之堀尾を被召置に極る其刻志津ケ嵩より早飛脚到来早々此方へ御越可然柴田より人数を出し候と云太閤いかにも左様にて有へしとて加藤虎之介に物馴たる者廿人計差添られいそき近江へ罷越候て兵粮飼料等沢山に相調土山辺迄出向ひ諸勢不自由之無之様にと被仰付虎之介如命弁之

丹羽長秀は江州坂本に陣取て居たり志津ケ嵩の様子可見とて小舟に乗して来るとて鉄炮の音厳敷を聞て家来共を呼に遣して扨郷人共を呼て様子を被尋郷人何かは不存桑山殿は只今御退と云故に長秀人を走らし桑山殿に何とて退れ候や瀬兵衛はいかゝと被尋桑山氏より瀬兵衛は其儘被居と被申越長秀それはと驚ふづくまれけれとも人数は未来無詮なから其儘滞留

佐久間玄蕃允先手鉄炮せり合有て後に合戦に成瀬兵衛は城内に有しか桑山氏は退候時付入に逢て無是非突て出て無比類働にて討死す是より勝家か勢弥きほひかゝり子息権六并玄蕃允両人は少備を立替て勝家の旗本とは切所をこせは四里余也直路は間に山有て一里計をへたつ権六方より勝軍の注進有勝家より騎兵を以権六玄蕃に勝軍にて有間早々引取と申道す玄番允この様なる勝軍には引取事は罷成まし少しも先へは出たしと答勝家よりは是非引取候へと有しかとも玄蕃允一向不致承引して使数六人に及へり

オープンアクセス NDLJP:203六度めの玄蕃返事に世上にて鬼柴田といはれ給ふは美濃尾張近江抔の間にて小迫合の節の事也是は大合戦なれは夫とは違可申也と云勝家か聞て無是非事を申越候もの哉此上は勝家切腹よと被申かゝる処に太閤七万五千人を十七備に分玄蕃備の前二里計に被押詰白昼の事なり玄蕃方より太閤へ使を遣し是まて御出尤之事に候合戦は明朝と云太閤より使給り満足せしめ候合戦の義得其意候との返事也玄蕃手段は案内者三十人計すくりて夜討せんと也大閤是を察し玄蕃か青い事を申越たるとて御笑被成先手を一里引とらせ被成柴田勢と三里ほとへたてたり一里半ほとの中途に篝をたかせらる玄蕃案に相違して無了簡あくる朝合戦に及太閤様子よきや観察して御ゆるさるゝそ小性とも心次第に働けと被仰此せつ七本鎗有之

玄蕃允権六生捕に成たるとの由勝家聞て不合点ものさこそ有へき由夫も家運也是非なし旗本にて立派なる合戦をすへしと云毛受勝助申はケ様の場にてむたと大将の御屍をさらされん事口をしき事也私に御馬印の金の御幣と御人数を御渡被成は生々世々難有事也去に於ては柴田修理亮と名乗て討死可仕其内に小勢にて越前へ御帰着有て心静に御城中にて御腹めされ可然様にと云柴田同心して越前へ被引取毛受は討死す金の御幣は蒲生飛騨守内永原孫右衛門取之後に浅野紀伊守につかへ永原越後守と云三百石領知す

中村文荷斎か事中村由己か撰ニ見ユ勝家越前へ引取時毛受定而最早討死すへし筑前守は早き者なれは追付したひ来るへしと被申其言のことく金の瓢簞かすかに見ゆると云勝家城へ入心静に自害す此時勝家家来法師武者裁判よかりしと云々

堀久太郎長谷川藤五郎に越前半国つゝ被下候以来此方角の先手をせよと被仰付

太閤越前を引取の時中川勘右衛門に被仰付信孝を尾州野間の内海にて切腹させらる其時信孝の歌に むかしより主をうつみの野間なれはやかてむくはん羽柴筑前

権六玄蕃允は京都を引わたし首を獄門に被掛

滝川一益へ太閤より使者を以て今度の義残念に可被存候乍去武士の習無是非義に候向後は心静に御一生を被暮よとて近江にて茶の湯料とて知行五千石被遣金銀なと入用の事あれはいか程も可承とて結搆のあしらひにて寛々閑居被致し由

  以上

    以所載武功雑記比校了               伴信友


 明治三十五年一月再校                  近藤圭造

 
 

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