川中島五箇度合戦之次第
【 NDLJP:222】川中島五箇度合戦之次第 就㆓御尋㆒書上候信州川中島五箇度合戦の次第
一、信州五尋の領主村上左衛門尉義清は、清和の源氏にて、伊予守頼義の舎弟陸奥守頼清の子白河院蔵人顕清、初めて信州に住居。顕清四代の孫蔵人為国、其子村上判官代基国が後胤なり。高梨摂津守政頼も、伊予守頼義が舎弟井上掃部頭頼季三代の孫高梨七郎盛光が後胤なり。井上河内守清政も高梨一流。須田相模守親満も同一家。島津左京進規久は、頼朝右大将家の御子島津忠久が後胤。何れも信州の豪家なり。右の輩、甲州の武田大膳大夫晴信に打負け、皆越後へ落ち来り、長尾景虎を頼み申候。中にも村上義清は、多年武田晴信と取合ひ、遂に打負け、天文廿二年六月に、越府へ落ち来り、景虎を頼み、本領坂本へ帰城、本意の事を望まる。景虎、此年閏二月に、廿四歳にて初めて上洛。是は前年天文廿一年五月に、勅使将軍使ありて、景虎を弾正少弼従五位下に任ぜらる。是に依つて御礼として上洛なり。景虎則ち参内致され候に、昇殿を免され、忝くも玉顔を拝し奉り、天盃を下され、又公方義輝公へ御目見、種々の御懇情ありて、五月に帰国し候所に、六月に、村上義清落ち来り、景虎を頼み候。加旃高梨政清・井上清政・須田親満・島津規久・栗田・清野以下、皆逐々に越後を頼み、加勢合力を乞ふに付、十月十二日、小田浜にて勢揃、信州へ発向。武田に属する輩の領分は、残らず放火。又己が館に引籠り見合ひ居る輩の領分は、構なく推通り、川中島へ、霜月朔日に着陣。晴信も、二万にて出張。同十九日より、其間一里計りにて、日々迫合。同廿七日に、景虎より平賀宗介を使にて、明日有無の合戦仕るべしと申遣し、備配を定め申候て、夜の中より人数を出し候。先手は長尾平八郎・安田掃部頭、続いて長尾包四郎・元井日向守清光・長尾修理進弘景・青川十郎、左右に備へたり。左の横鑓は、諏訪部次郎右衛門尉行朝・水間掃部頭利宣。右の奇兵は長尾七郎景宗・白杵包兵衛・田原左衛門尉盛頼。二の実の左は、小田切治部少輔勝貞・荒川伊豆守義遠・山本寺宮千代丸〈後庄蔵孝長と号す〉・吉江木工助定俊・直江神五郎実綱。後陣は長尾兵衛尉景盛・北条丹後守長国・斎藤八郎利朝・柿崎和泉守景家・宇佐美駿河守定行・大国修理亮等七手にて、【 NDLJP:223】四十九備手の様に組み丸隊に作り、廿八日卯の下刻に、越後方より一戦を始め候。武田方にも、十四段に立備えへ、防戦火を発し、敵味方手負・死人数知らず。
一、武田晴信も、同十五日に、川中島を通り、貝津城へ入り、十六日に人数を押出し、東向に、雁行の陣取なり。先手は高坂弾正・布施大和守・落合伊勢守・小田切刑部日向大蔵助・室賀出羽介・馬場民部各七組、其勢七百余騎。先陣に進み旗を立て申候。二の目は真田弾正忠幸隆・保【 NDLJP:224】科弾正・市川和泉守・清野常陸介、四頭其勢二千。後詰は、海野常陸介・望月石見守・栗田淡路守・矢代安芸守、四頭二千七百余。浮武者は、仁科上野介・須田相模守・根津山城守・井上伯耆守、五頭其勢四千余。二行に立ちて、陣を張り申候。総弓箭奉行は、武田左馬助信繁・小笠原若狭守長詮・板垣駿河守信澄、三
一、天文廿三年八月十八日の曙、越後の陣所より草刈共二三十人、未明より出でて、懸廻り候所に、甲州の先手高坂陣より、足軽百計り駈出で、彼の草刈を追廻る所に、兼て工みし故、越後方村上義清・高梨政頼が足軽大将小室平九郎・安藤八郎兵衛二三百人、夜の中より、道に伏し居て、高坂が足軽を引包み、洩さず討取り候を見て、高坂弾正・落合伊勢守・布施大和守・室賀出羽介陣より、百騎余乗出し、喚き叫んで、越後方の足軽を追立て〳〵、上杉先手のしこ迄、押寄せ候所を、義清・政頼両家の軍兵、一度に突いて出で、追討に討ち候程に、武田衆百騎の兵共、一騎も残らず討取り申候。高坂・落合・小田切・布施・室賀、一のしこを破られて、元の陣指して引き退き申候。武田方は、先手打負け、追立てられ候を見て、真田幸隆・保科弾正・清野常陸・市川和泉守、二の目より突いて出でつゝ、勝に乗つて、追乱れたる上杉勢を追返し、追打に打立ち、陣の木戸口迄附入にして、義清・政頼も、既に危く見え申候所、二の目より、越後の侍川田対馬守・石川備後守・高梨源五郎三頭、其外浮武者の内より、新発田尾張守・其子因幡守・杉原壱岐守各五頭の侍、其勢二千計りにて、鬨を揚げ駈出で武田勢を追出し追散らし、逃ぐるを追うて、武田が陣後詰のしこ近く、散々に切つて廻り、頭数百討取り、凱を作り、本陣へ引退き候所に、保科・真田・清野・市川取つて返し、上杉勢を追立つれば、川田・石川・本庄・高梨・杉原・新発田・村上義清・高梨政頼・一手になりて追返し押戻し、追捲つて戦ひ申候。甲州・越後の軍兵共、互に名乗り合ひ、火花を散らし戦ひ申候。其中に真田弾正幸隆は、手負ひ引退く所を、上杉方高梨源五郎頼治と名乗り、真田とむずと組んで押伏せ、鎧の脇板の透間を、二刀【 NDLJP:225】刺し申候内に、保科弾正取つて返し、真田討たすな兵共とて、戦ひ申候。真田が家人細屋彦助下合ひて、高梨源五郎が草摺の外、膝の上より討落し、主の敵を取り候。是より保科鑓弾正と申候由。保科も、其時越後方の大将に取籠められ、既に危く見え候を、後詰の侍海野・望月・矢代・須田・井上・根津・河田・仁科、九人の侍之を見て、保科討たすな人々とて、大勢一度に鬨を揚げ追散らし、越後の本陣近き所迄、切つて懸り申候所、越後の後詰の陣所より、斎藤下野守朝信・柿崎和泉守景家・北条安芸守・毛利上総介・大関阿波守三千余、鬨の声にて切つて出で、追返し押戻し戦ひ申候。敵・味方、手負・死人、算を乱して数を知らず候。謙信も、紺地に日の丸・白地に毗の字の旗二本押立て、原の町に備を立てられ候。其合戦時を移し候。其内に、晴信の下知にて、犀川に大綱幾筋も張渡し、武田旗本の大勢、彼の綱に取付き、向の岸に上り、大野の蘆荻の茂りたる中の細道より、旗・指物を伏せ忍び出で、謙信が本陣へ、鬨の声にて切つて入り候故、越後勢謙信旗本、一度に噇と敗軍仕候を、武田方勝に乗つて、追討に仕候。晴信勇み悦びて、旗を進められ候所に、大塚村に備を立て申候、越後勢宇佐見駿河守定行二千計り、横髄に突懸り、晴信旗本を、御幣川へ追入れ候所へ、越後の侍渡部越中守翔五百余駈着け、晴信旗本へ切つて懸り、宇佐美駿河守と揉合ひ、信玄旗本を立挟みて討取り申候。武田人馬、河水に流るゝ輩、又は討たるゝ者数を知らず候。謙信旗本勢も、取つて戻し、晴信旗本を討取り申候。越後方上条弥五郎義春〈後畠山入庵〉長尾七郎・元井日向守・沼掃部・小田切治部・北条丹後守・山本寺宮千代・青川十郎・安田掃部以下、政虎同前に、御幣川へ乗込み、鎗を合せ、太刀討高名仕候。其外手柄の侍多く、又討死の者も多く御座候。信玄も三十騎計りにて川を渡し、引退き候所を、謙信川中へ乗込み、信玄を二太刀切付け申候。信玄も太刀を合せ、戦ひ申され候を、近習の武田の侍共、謙信を中に取込め候へども、謙信切払ひ、中々近付くべき様無之候。其内に、信玄と謙信と、間切れ致し、押隔てられ候。其刻、謙信へ懸り候武田近習の侍十九人、切付けられ候。謙信は、人間の挙動にてなく、唯鬼神にて候と申候。其砌は、謙信とは知らず、甲州方にては、越後侍荒川伊豆守にて候と、取沙汰仕候。後政虎と承り、討止むべきものを残多しと、皆々申候由。信玄も、御幣川を渡り、
一説に、武田左馬助信繁を討取り候は、村上義清なりと云々。上杉家にては、謙信直に、左馬助を打取り候と申伝へ候。
一、弘治二年丙辰三月、政虎川中島へ出張。晴信も大軍にて出向戦陣。日々に物見を追立て、草刈を追散らし、足軽迫合有之。信玄行には、戸神山中より、信濃勢を忍ばせ、謙信陣所の後へ廻し、夜懸にして、鬨の声を一度に揚げ切懸らば、政虎は勝負によらず、筑摩川を越えて引取るべし。其所を川中島にて待懸け、立狭みて討止むべしと相謀り、保科弾正・市川和泉守・栗田淡路守・清野常陸介・海野常陸介・小田切刑部・布施大和守・川田伊賀守各十一頭、其勢六千余を、戸神山の谷際に付けて押廻し、晴信は、一万八千にて備を立て、先手十一頭六千余は、戸神山の谷際の道を経て、上杉陣所の後へ押廻らんと急ぎけれども、頃は三月廿五日夜の夜半計りの事なり、道は難所なり、殊に春霞深く、目指すとも知らぬ闇夜に、山中に蹈迷ひて、爰彼と行く程に、夜も曙方になり申候。謙信は廿五日の夜に入り、信玄の陣中に兵糧の炊煙・篝火夥しく、人馬の音騒しきを以て、明朝合戦に取懸るべき相色を察し、其夜亥の刻に、政虎物具して、八千余の軍兵にて、筑摩川を越え申され候。先陣は宇佐美駿河守定行・村上義清・高梨摂津守政頼・長尾越前守政景・甘糟備後守清長・金津新兵衛・色部修理・斎藤下野守朝信・長尾遠江守藤景等九頭四千五百、二の手に政虎旗本差続き、廿五〔〈日ノ一字脱カ〉〕夜の寅の刻に、信玄の本陣へ、一文字に切つて入り、無二無三に合戦を始め申候。信玄は、思も寄らぬ折節、先手の合戦の左右を待ち、油断の所なれば、一戦にも及ばず、周章騒ぐ所へ、越後の兵共、射立て打立切懸り候。武田方飯富兵部・内藤修理・武田刑部少輔信賢・小笠原若狭守・一条六郎取合せ防戦ひ申候。然れども越後方斎藤・宇佐美・柿崎・山本寺・甘糟・色部等、一度に噇と突いて懸りければ、信玄本陣破れて敗軍なり。垣板駿河守・飯富兵部・一条六郎等、悉甲百騎取つて返し高梨政頼・長尾遠江守・直江大和守隊を追散らし、逃ぐるを追うて進む所を、村上義清・色部修理・柿崎和泉守、横合に突懸り、垣板・飯富・一条を追捲り、追打に仕候。小笠原若狭守・武田左衛門穴山伊豆守等三百余、味方討たすな兵共とて、鬨を揚げて駈入り、越後方を切立つる所を、杉原壱岐守・片貝式部・中条越前守・宇佐美駿河守・斎藤下野守、左右より引包み、喚き叫んで切立候故、爰にて信玄方大将分板垣駿河守・小笠原若狭守・一条六郎討死す。足軽大将には、山本勘介・初鹿源五郎討死する。諸角豊後守も討たれ申候。廿五日の夜の寅の刻より、翌廿六日の【 NDLJP:228】卯の刻迄、押返し押戻し、三度の合戦に晴信打負け敗軍、十二備皆追立てられ、追討に討たるる者数を知らず。政虎勝利を得られ候所、戸神山より押廻りたる武田の先手十一頭六千余、川中島の鉄炮の音・鬨を聞き、すはや謙信に出抜かれたるはとて、我一々々と筑摩川を越え、真黒になつて押寄する。晴信是に力を得、取つて戻し、越後勢を立挟み、前後より揉みに揉んで戦ひ候故、越後勢、敵を前後に受け、已に総敗軍に及ばんと見えし所に、越後方新発田尾張守・本庄弥次郎二百余にて、高坂弾正が立固めたる虎口へ、一文字に打つて懸り、四方へ追散らし切崩しければ、上杉の軍勢共、一手に合ひて、犀川指して引退く。武田勢之を見て、越後の総軍、此川を渡る所を、遁さず討取るべしと下知して、晴信の軍勢共、我も〳〵と越後勢を追駈け候所に、上杉の諸軍、退振に持なし、車返といふ行にて、先よりくるりと引廻し、一度に返し合せ、甲州勢保科・河田・布施・落合・小田切を真中に取籠めて、一人も余さじと攻め戦ふ程に、晴信方の大将分河田伊賀守と、布施大和守は討取られ、残勢も過半討取られける所へ、甲州方の後詰栗田淡路守・清野常陸介・根津山城守、各横鑓に突いて懸り、保科・小田切・落合を引取りける。扨又越後の諸軍は、先を先に段々に押立て静々と引取り、犀川を渡す所を、晴信の先手飯富三郎兵衛・内藤修理・七宮将監・阿刀部大炊・下島内匠・小山田主計等、追ひ来りける所を、本庄美作・柿崎和泉・唐崎孫治郎・柏崎弥七郎取つて戻し、押返し追つつ捲つつ攻め戦ひ候処に、新発田尾張守・斎藤下野守・本庄弥次郎・黒川備前・中条越前・竹俣筑後守・其子右衛門等八百余り、柳原の木蔭より廻り来りて、声々に名乗り、某・何某爰にあり、其元を引くなと喚き叫んで、一文字に突いて懸りける間、甲州勢、元の陣指して引退く。越後勢は勝を持つて、其足にて川を越え、向の岸に上りける。甲州方、猶も慕はんと犇きけれども、越後方宇佐美駿河守、千余りにて、市村渡り口に旗打立て、一戦を持つて待ちかけたるに恐れ、其上甲州方は、夜前より難所を凌ぎ、終夜草臥れ、直に其儘にて、四度の合戦に力も落ち、精竭き疲れ果て、重ねて戦はん様ぞなき。甲州本陣の軍兵共入代り、追討たんとせしを、信玄堅く制し給ひ、一人も追ひ来らざれば、越後勢は、心の儘に川を越え、初の陣へ引上げ陣取り候。其日の合戦、未明の中に三度、夜明けて四度、都合七度の戦に、越後方討死三百六十五人・手負千二十余人なり。甲州方討死四百九十一人・手負千二百七十一人と記しける。其中にも、大将分小笠原若狭守・板垣駿河守・一条六郎・諸角豊後・初鹿源五郎・山本勘介を始め、信玄が侍歴々【 NDLJP:229】討死せしかば、翌日廿七日に、信玄も引退き申され候。政虎も手負を纒ひ、相引に引取られ候なり。弘治二年三月廿五夜より廿六日、川中島第三度の合戦是なり。
一、弘治二年八月廿三日に、景虎川中島へ出張。先年の陣所より進みて川を越え、鶴翼に陣を取り申され候。先年両度の大合戦の時の陣跡には、村上義清・高梨政頼を陣取らせ、円月の陣形、二行に張り申候。晴信も、二万五千にて出張なり。此度越後の陣取は、長陣と打見えて、薪を山の如くに積み置き候。甲州の覘牒見届けて註進するを、晴信聞き申され、一両日中に、越後の陣所に、夜中火事あるべしと、其時一人も出でたる者あらば、子孫末類迄、罪科に行ふべしと下知あり。然る所に廿三日の暁方、越後の陣所より、一小荷駄を附出し、人夫に荷持たせ、諸軍旗を押立て、陣払して引除く体に見えたりける。甲州方の軍兵共、すはや謙信が引取るは、遁さず此引足を追打てや者共とて、犇きけるを、晴信は、一の木戸の井楼に上り、遠見して曰、謙信程の者暮暮懸り陣払して、退くべき様なし。之を追はゞ乙度を取るべし、一人も出づべからずと制せられける。案の如く、其夜の丑の刻に越後の陣所に火事出来て、騒がしきこと夥し。然れども晴信堅く下知して、一人も人数を出されず候。程なく天明け越後の陣所を見渡せば、道筋を開け、悉甲の武者、鑓・長刀を持ち、六千計り二行に進みて、寄する敵を待ち居候。朝霞の晴るゝに随ひて見渡せば、二行の隊立、左手先は長尾政景・石川備後守・松本大学・中条越前を隊頭として十隊、右手先の宇佐美駿河守定行・杉原壱岐守・山本寺伊予守・鬼小島弥太郎・安田伯耆を備頭として十二隊、中筋は紺地日の丸の大四半・毗の字の四半の下に、景虎牀机に腰を懸け、其勢一万余り、箕の手なりに進みて、寄する敵を待懸け候。武田の諸軍勢之を見て、此陣前へ押懸けてあるならば、一人も生きて帰り難し。信玄の智才、推量候程、唯名大将は言のみにあらず、権化人なりと感じ申候なり。其翌日、晴信術を出して曰、夜中に、甲州方二万の人数を、両山の木蔭に、密に伏せ置き、扨馬の綱を切つて、越後の陣所へ放しかけ、馬を慕うて人を出すべし。必ず敵陣より、足軽共を討取る体にもてなし、侍百騎計り乗出し、越後の足軽を追立つれば、景虎は嗚呼の者、猛き武士なれば、百騎の甲州勢を遁さじと、追駈けて出づべし。其時足並を払ひ、敗軍の振にて、此谷際へ引入り、両山を引廻し、後陣を突切つて、其外の兵共、両手より下立ちて、目の下に取廻し、矢先を揃へ、筒先を並べて、討取るべしと定めて、兵二万忍ばせ置き、馬二三匹綱を切つて、越後の陣所へ追放【 NDLJP:230】し、足軽五六十人出して、彼馬を爰彼処へ追廻し訇りけれども、越後の陣所よりは、之を察して、一人も出でざりければ、信玄見申され、謙信名人にて、此謀に乗らねば、功者の弓取なり。大河を越して陣を取るは不思議なり。如何様信州侍の内に、謙信へ内通し、心替の者もあるやらん。大事の起らぬ内に、引取るべしと内談し、信玄は夜中に陣払し、上野原迄引取り候を、同廿六日に、謙信総軍にて押詰め、信玄と一戦。卯より未の下刻迄、五箇度の合戦。初は信玄打負け、過半引退き候へども、甲州勢新手駈着け、烈しく攻め戦ひ、越後勢少々押立てられ候を、長尾越前守政景・斎藤下野守朝信、諸手に勝れ切懸り盛返し候。下平弥七郎・大橋弥次郎・宮島参河守等鑓を合せ、信玄衆を突返し申候。上杉方南雲治部左衛門、横合に突懸り、道筋を突崩し申候。宇佐美駿河守定行、手勢を以て、山手より信玄本陣へ切つて懸り候故、甲州方遂に敗軍にて候。翌日信玄も引取り、謙信も馬を入れ申候。甲州方千十三人討死。越後方も八百九十七人討死にて〔〈脱字アルカ〉〕永禄二年四月に、謙信上洛参内、并に公方義輝公へ拝謁、一字を下され、景虎を改めて輝虎と号し、網代の塗興・御紋御免、并に文の裏書迄御許し帰国なり。管領職は辞退。朱柄の傘、屋形の号御免、三管領に準ぜらる。〈永禄五年十二月に、警領職に任ぜらる。〉
一、永禄三年九月より、謙信関東発向。上州平井・厩橋・名和・沼田等、諸城を攻め落す。其年は、厩橋にて越年。
一、永禄四年辛酉、此春輝虎は、小田原表発向の定にて、正月、古河御城足利義氏を攻められ、三月に、小田原発向。初めて上杉氏を名乗らる。同八月、謙信、信州川中島へ発向、西条山に陣取りて、下米宮海道と貝津城へ通路を取切り、西条山の後より、赤坂山の下へ出で候水の流を堰上げ、堀の如くに致し、西条山を攻め候時、防ぐ便に仕候。八月廿六日に、信玄は川中島へ着。下米宮に陣取り、西条山の下迄陣取り候故、越後方は前後に敵を受け申候。謙信は、夜軍の心懸にて、色々手段致され候。廿九日に、信玄は、下米宮より、貝津城へ入り申候。九月九日夜、信玄は、総軍を引纒ひ、潜に貝津城を出で、筑摩川を越えて、川中島へ出で、備を立て申候。越後方夜盗組の物聞共、見付けて告げ来り候故、謙信は、直江大和守実綱・宇佐美駿河守定行・斎藤下野守朝信と相談し、其夜子の刻に、謙信其人数を連れ、潜に川中島へ出で申候。西条山陣下赤坂には、村上義清・高梨摂津守政頼・井上兵庫介清政・須田相模守親満・島津左京進入道月下斎、五手を残し置き候。川中島備場にては、本庄越前守繁長・新発田尾張【 NDLJP:231】守長敦・色部修理亮長実・鮎川摂津守・下条薩摩守・大川駿河守、五手二千余にて、筑摩川の端に立ち、貝津城より、若し武田勢新手懸り来り、横合あるべきかとの
一、明くれば十日の朝、未だ明離れぬ時、謙信方より、螺・太鼓を進めて、信玄の陣へ取懸り信玄の陣へ取懸り候。武田方は、思も寄らざる方より仕懸けられ、驚きて見候へば、謙信旗本の幟紺地日の丸と毗の字書きたる大四半二本、近々と押懸り候故、備を立直し申す間も無㆑之、取合ひ兼ね候へども、武辺第一の武田勢故、弓・鉄炮を打立て懸合ひ候。越後の先手柿崎和泉備は、信玄先手飯富三郎兵衛備に突立てられ、筑摩川の方へ引立て候を、色部修理亮長実は、兼ねて存ずる所にて候故、横合を入れ、飯富が備を突返し申候。斎藤下野守朝信は、信玄方内藤修理・今福浄閑手を追立て進め申候。長尾政景・本庄美作守慶秀・長尾遠江守藤景・山吉孫次郎・北条丹後守五備、何れも先を競ひて働き出で、大声を揚げて、信玄方を切崩し、追討仕候。謙信は、八箇年前に、信玄と太刀討仕り討漏らし、口惜しく存じ、此度は信玄を是非と心懸け、旗本の人数を以て押上り、信玄旗本へ懸り働き候て、追崩し候。武田方十二隊、皆々敗軍し、筑摩川広瀬の渡迄、追討に討たれ、手負・死人、数を知らず候。信玄は犀川の方へ敗軍候を、越後勢追懸け候所を、越後勢の跡より、武田太郎義信二千計りにて、謙信の跡を慕ひ、懸り申され候。是により越後方後備の中条梅坡斎備にて、取つて返し、義信へ懸り、防戦ひ候へども梅坡斎が備、相色悪しく見え候所を、遊兵の宇佐美駿河守備助け来り、中条と一手になりて、武田義信備を追【 NDLJP:232】返し、勝利を得、数十人討取り申候。跡にて合戦始まり候を、謙信聞きて、心元なく存じ、返して義信を防がんと仕候内に、義信は、宇佐美駿河守に切崩され候て、引き申され候を、直江大和守・甘糟近江守・安田治部丞三手にて、義信人数を、倉品迄追討に仕候。謙信総軍は、前後の敵を切崩し、川中島・原の町にて休み居、腰兵糧遣ひ、油断仕候処に、何方に隠れ居られ候や、武田義信八百計り悉甲にて、腰差なども取隠して、謙信勢の油断の所へ、俄に取懸り候て、謙信の日の丸の旗を目にかけ、急に駈入り候。越後方、今朝よりの合戦に草臥れ、殊に油断故、取合ひ兼ね、少々先手にて防戦ひ候へども、隊も四途路なり、多くは馬に乗遅れ、敗軍仕候。越後勢討死、数を知らず候。志田源四郎義時も、爰にて討死仕候。謙信は、当家の重宝五挺鑓と申す内の第三番目の鍔鑓と申す鑓にて、自身手を砕き働き、後は重代の波平行安の長刀にて、散々に働き、戦ひ候処へ、貝津口圧の六備の内本庄越前守繁長・大川駿河守駈着けて、謙信方、義信を追返し候時、本庄繁長自身働き太刀討、大川駿河守は討死なり。長尾遠江守藤景手と、宇佐美駿河守手と、差合せて鑓を入れ、義信を突崩し候。是にて合戦は始まり申候。謙信は犀川を脊に当て、其夜は陣取り候を、山吉孫次郎申候は、今夜貝津の敵、心元なく候間、犀川を御渡り、人数を御打入れ候へと諫め候へども、謙信は引入れ申さず。十一日の朝、謙信は下米宮の渡り口に備を立て、直江大和守実綱・甘糟近江守景持・宇佐美駿河守定行に、堀江隼人と申す者を差添へ、西条山へ越し、陣小屋を焼払ひ申候。其後謙信は、善光寺に三日逗留して、長沼迄打入り、又長沼に二三日逗留して、越国へ帰陣にて候。初め謙信出張致し、西条山に陣取り、八月廿六日に、信玄下米宮の渡に着陣候て、九月十日の川中島大合戦迄の間に、小迫合八度有之候へども、少しの事書附くるに及び申さず候。
一、先年より五箇度の大合戦、天文廿三年霜月より、永禄七年迄十二年。其中毎年に、輝虎川中島へ出張、晴信と対陣に、度々秣刈・刈田などの折節に、野際の物端にて、三百・四百・五百・七百出合ひて、討つつ討たれつ、勝負ある事数十度なり。されども信玄は、輝虎の勇才を憚り、謙信は、信玄の智謀を恐れ、互に大事と思慮を運らし、謀を工み、種々挑まれけれども、何れも劣らぬ名大将故、行策に乗り申されず候。永禄七年七月に、信濃口の押野尻城に置かれ候宇佐美駿河守定行生害し、長尾政景も果て申候故、信濃堺仕置として、輝虎出張。直に川中島へ出でられ候。晴信も出馬対陣なり。十日計り対陣なりと雖も、例の事なれば、日々迫合計【 NDLJP:233】りにて勝負なし。武田家の一門家老共、信玄へ意見申候は、川中島上郡・下郡四郡を争ひ、十二年の間、毎年の合戦止む事なく候。両虎の勢にて、遂に勝負無之、毎度士卒の疲労申尽し難く候間、貝津城付の領分計り御治め、川中島四郡は、輝虎へ遣され、扨駿河表・関東筋・美濃口へ御出張候て、御手の広くなり候様に、なさるべく候。川中島四郡に御係はり、剛強なる輝虎と取合ひ、空しく年月を送られ候事、如何あるべしと諫め申候。八月十日の朝、晴信申され候は、互の運のためしなり。安馬彦六を召出し、組討をさせ、互の勝負を見て、其勝利次第に、川中島を何方へも納むべしとて、安馬彦六を使として、此者を輝虎の陣所へ申遣さる。彦六は、上杉陣所一の木戸口に行く所に、輝虎陣より、直江大和守出向ひ、彦六は馬より下り、晴信申され候は、天文廿三年より此方、十二年の間、昼夜の戦有之と雖も、勝利の鋒同前にて、今に勝負無之候間、明日は互に勇士を出し、組打の勝利次第に、川中島を納め取り、向後輝虎・晴信、弓箭を止め申すべく候との断にて候。夫により即ち安馬彦六と申す者、明日の組打の役に申付けられ、是迄参り候間、器量の人を出され、明日組打仕るべしと、晴信申され候由申入候。直江大和守取次にて、輝虎返事あり。信玄の仰尤に候間、此方よりも出し申すべく候。明日午の刻に、組打仕るべしとの趣なり。永禄七年八月十一日午の刻に、晴信方より安馬彦六、唯一騎、物具爽に出立ちて、白月毛の馬に乗りて、謙信、陣所指して乗向ふ。越後の陣所より、小男鎧武者一騎、小たけなる馬に乗りて出向ひ、則ち馬上にて大音揚げ、是人、罷出で候兵は、輝虎の家老斎藤下野守朝信が家来長谷川与五左衛門基連と申す者なり。小兵なれども、彦六と晴の組打御覧ぜよ。何方に勝利得候とも、加勢・助太刀打ち候はゞ、永く弓矢の疵にて候べしと呼びて、彦六と馬を乗違へ、むずと組み、両馬が間に落重り候に、彦六上になり、与五左衛門を組敷き候時、甲州方は、声を揚げ勇み悦ぶ所に、組ほぐれ、与五左衛門打勝ちて、安馬を組臥せ、上に乗上り、彦六首を取りて立上り、高く差上げ、是れ御覧候へ。長谷川与五左衛門組打の勝利此の如くと呼ばはり候。越後方にては、覚えずして、長谷川仕候と、一同に感じどよみ申候。甲州方は無念に思ひ、千騎計り木戸を開き、切つて出でんと犇き候を、晴信見られ、鬼神の如くなる彦六が、あれ程の小男に、容易く組取られ候仕合は、味方の不運なり。兼ねてより組討の勝利次第と約束の上は、川中島相渡し候。違変は侍の永き名折なり。川中島四郡は、輝虎次第と、今日より致すべく候とて、翌日信玄、人数を打入れら【 NDLJP:234】れ候。是により中郡・下郡、越後の領となり候事、長谷川手柄の印なり。即ち村上義清・高梨政頼、川中島へ帰住、本意にて候。是より武田・上杉の弓箭取合止み申候。右の趣、信玄家来須崎五平治・堀内権之進、書止め候。此両人、後に浪人致し、越後へ罷越し、上杉家に罷在候。尤も吟味を遂げ候て、書記し候者なり。此一冊は、須崎・堀内書止め候書と、信玄子孫武田主馬頭信光家伝の書と、村上義清が子息源五郎国清書置き候書と、併せて吟味穿鑿を致し、書記し候者なり。
清野助次郎
慶長二十年三月十三日 井上隼人正
右一冊は、当家中古人共、書置き申候所にて御座候。此度就㆓御尋㆒写し申候て差上申候以上。
寛文九年五月七日
右は先年弘文院春斎に被㆓仰付㆒日本通鑑御清選被㆑遊候刻、酒井雅楽頭忠清奉にて上杉家より被㆓差上㆒候一冊なり。
この著作物は、1925年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)70年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。
この著作物は、アメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつ、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。