【 NDLJP:5】
解題
室町殿物語 十二巻
本書の概略は、天文中足利十三代将軍義晴執政中の事より筆を起し、当時幕府の命令行はれず、更に乱世となり、弓箭一日も止む事なく、農桑の煩費万民の悲歎言語に尽し難く、豪傑四方に割拠し、これに伴ひ大小の戦争其の数を知らず。十四代将軍義輝の時に至りては、三好長慶専横の余り遂に将軍を弑し、十五代将軍義昭立ちしかど、武威地に墜ち、最早如何ともする能はず、織田信長に拠り、讒に其の命脈を保ちたるに、これ又信長の為に逐はるゝに至れり。信長志を得て将に天下を経営せんとして、明智光秀の弑する所となり、而して豊臣秀吉、光秀を討ち、信長に代りて天下を経営するに至る迄の事蹟に筆を閣き、あるは当時の逸話、あるは雑談等を悉く記したるものなり。
【 NDLJP:6】本書は楢林長教の作にして、序文によれば、室町幕府の京都検断職楢林市右衛門・脇屋惣左衛門尉貞親・公方御領所沙汰人三好日向守長縁等の日記ありしが、永禄年中乱逆に取失ひしに、其の残闕日記の存在せしものと、公方の右筆鳥羽如雪斎の控記及び彼の家に諸所より到着せる書簡小日記ありしに拠り、彼是綴りし由、又此の次を以て文禄年中の説迄をも書加へたりと見えたり。今宝永三年版を以て玆に採収せり。
本書は同人の作なる室町殿日記と比較するに、其の採要に係れるものゝ如し。而して又室町殿日記にも種類あれば、玆に管見をも掲げ弁すべし。
一、室町殿日記 写本七巻 楢林長教著
二、同 同 十三巻 同
三、同 同 二十巻 同
右いづれも同書にして大同小異あり。殊に二十巻本は最も記事多し。又云、本書日記と題名せれども、日記体にあらず。若しくは序文に記せる如く楢林・脇屋・三好等の日記により綴りしものなるより、其の名を存し、室町殿日記と題せしか、猶考ふべし。本編採収せる室町殿物語とある方、内容より見れば穏当なるが如し。
四、異本室町殿日記 写本五巻 作者不知
右は前条の三種本とは全く文体を異にして別本なり。第一巻に、貞治六年四月六日鎌倉左馬頭基氏卒す云々と綱目書に記し、巻五の巻末に、長享二年定正与㆓顕定㆒於㆓武州松山㆒合戦と掲げし記事あり。
此の他類似の名にして、全く別本なるものあり。左の如し。左の如し。
五、室町殿日記 四巻
右は足利季世記の一名にして、史籍集覧に入れる本なり。
六、室町記 六巻
右は花営三代記の一名なり。又武家日記ともいへり。群書類従に入れり。
作者楢林長教、其の伝を詳にせず。恐らくは序文に見えたる京都検断職楢林市右【 NDLJP:7】衛門長高の子孫なるべし。猶後考を竢つことゝす。猶後考を竢つことゝす。
大正三年四月 黑川眞道 識
【 NDLJP:12】
例言
一、「室町殿物語」は原本多くは仮名書にして殊に地名人名等に於て然りとす。依つて本編は出来得る限り此等に漢字を補填し、読誤り易き漢字には、振仮名を施して読誦の平易に努め、且つ時として括弧〔〕を用ひ、当編輯部の註記を加へて字句の難晦なからんを期し、又原本の仮名にして漢字を補箝し能はざるもの、或は其儘となし置くを必要とするものは、字句の左側に縦線を施して之を明にし、又原本中特長と見るべき仮名遣は、殊更訂正せざりしも多かりき。
目次
【 NDLJP:18】
室町殿物語
序
夫古今の述記は、世に周流しければ、綿々と爰に引く事を略す。既に帝政傾きしより
以往、源尊氏公一天の機を掩ひ苦戦を遂げて、終に四海の運を開き、政の廃れたるを旧代に返し、神社仏閣の絶えたるを
発し、仁政直に施し給ひしかば、其徳家門にこたへ、数代武将の位を汚せり。然りと雖、末々には叛逆の人蜂起して、明徳・嘉吉・応仁などに、兵革度々に及べり。されども武運傾かずして、恙なく十余代に及んで、今天文の暦に至つての武将は、万松院義晴公と申奉る。此時に当つて四夷八蛮一同に乱れ、弓箭一日も止む事なし。是に依つて農桑の煩費、万民の悲歎、言語に尽きず。 渡せの職に、海隊を発しけん兆氏の慾も、斯くやられて浅ましかりし
世間なり。于茲楢林市右衛門尉長高・脇屋惣左衛門尉貞親両人、京都の検断職を賜つて、自分の所用を毎に記す。又三好日向守長縁は、公方の御領所の沙汰人たるに依
【 NDLJP:19】つて、是も事を毎日に記せり。されば此日記共、永禄年中の乱逆に取失ひぬ。然る所に不意の方に櫃一つ残れり。此底を取分けて見ければ、少々記したる控あり。
復公方の右筆に、鳥飼如雪斎といふ人の家に、其頃方々より到来しける書簡又小日記これあり。之を或方より一覧ありたき所望に依つて、礫砕しけれども、彼是取合せて鑑るに、句面連続せざれども、なき所は是非に及ばず、且向ふ所を片端に書付け畢んぬ。此次を以て、末に文禄年中の説まで少々書加へて、大意を記し侍る。
于時宝永三年正月吉日
楢林長教撰
【 NDLJP:19】
室町殿物語 巻一
大内義隆九州発向の事
鎮西の国人等、綸命をも恐れず武命をも憚らず、私欲の為に弓箭を業とし、万民を悩乱せしかば、
帝逆鱗安からず、於卿
区々に愈議ある所、普天の下に生を受け、
何地か王地にあらざるや。
御調物をも献ぜず叡慮をも恐れず、恣に弓箭を起し国土を動乱せしむるの条、其罪甚だ軽からず。所詮誅罰、を加へられずばあるべからざる由奏し給へば、軈て武将へ宣旨をぞ下されける。義晴即ち九州誅罰の御教書を、大内多多羅義隆へぞ下されける。
【大内義隆九州進軍】義隆勅命を帯し、彼是三万の軍勢を率ゐて、筑紫へ発向し、筑前国博多の湊に諸勢を押上げ、先づ秋月居城に押懸け、稲麻の如く取囲んで、息をも継がせず攻め給ふ。城にも、爰を先途と防ぎ戦ふと雖、多勢に手痛く攻めら
【 NDLJP:20】れ、耐るべきやうあらざれは、甲を脱ぎて降人となる。軈て人質を出しければ、菊池・原田が両城へ取詰め、息をも継がせず攻めければ、これも降人となりて軍門に
畏る。彼等を初として、筑後・肥後九州の輩、悉く降参しければ、義隆何れも人質をば取固め、
【義隆帰陣】国の制法正しくして、防州に帰陣し給ひ、各休息ありて、賞は時を超えずとて、今度戦功の輩に、それ
〴〵に勧賞行はれける。かくて上洛まし
〳〵、公方へ参り給ひて、九州の首尾、委細に申上げ給へば、相国御感限なく、直に帝へ参内し給ふ。叡感浅からずして、今度の忠賞に、太宰大弐帥に任ぜられ、防長豊筑四ヶ国の安堵を給はり、其上中国筑紫の成敗を、一円に下さるとの宣旨なり。義隆、時に当つて弓箭の面目難有勅諚とて、喜び勇みて御前を立ち給ひける。かくて義隆に、未だ北方もおはしまさゞれば、軈て持明院入道殿一忍軒の姫君、十五にならせ給ひけるを迎へさせ給ひて、御暇申して帰国し給ひにける。
義隆全盛の事
さるほどに大内多々良の義隆は、防州山口・鴻の嶺の御館を普請し、並に新造に、屋形を輝くなかもに磨き立く、北方を移しまゐらせ、築山の御前と
号けて侍き給ひける。されども姫君都を恋しく思召して、事の折に触れては言出ださせ給へば、義隆、
【大内義隆驕奢】さもあらば当所に都を移さんとて、一条より九条までの条里を割り、四ヶ国の大身小身の屋形、薨を並べて造り給へり。京・堺・博多の商人、軒を争ひ建て続けり。領国の諸侍、朝暮に出仕を遂げ、囲繞渇仰記すに遑あらず。加之諸門跡を始の公卿殿上人、又は五山の惟高和尚達を請待し、或時は和歌管絃の遊、又或時は詩聯句の会を旦暮の業とし、其外京都・南都よりも、猿楽の名人を呼下し、能芸を尽させ、扨は茶湯を興行し、和漢の珍器を集めて弄び給ふ程に、国々よりも諸商人山口へ到来して、日毎に京町立ちにけり。されば防州には、時ならぬ春の来て、花の都と唱へけり。此京は中々に廃れ果てゝ、及ぶべくもなかりけり。されば山口一条の辻に、如何なる人かしたりけん、九重の天こゝにありとして、
大内とは目出度名字今知れり裏の字略せし大内裏とは
【 NDLJP:21】
尼子下野守晴久、芸州青野が鼻に於て義隆と合戦の事
雲州の大守尼子下野守晴久は、中国十余ヶ国の権を取つて、威を高く振ふ。寔に武道に賢しく諸侯を撫でしかば、此の家門に親まぬ人はなかりけり。或時諸臣を招きて申されけるは、防州大内義隆は、今度鎮西退治の勧賞に、中国九州の成敗を給はる。さるに依つて西国は、義隆が命に随はずといふ事なし、されども晴久に於ては、大内が下知を用ふまじ。時に義隆憤を抱きて、終には家の敵とならん。所詮近国押寄せて四ヶ国を押領し、某西国の成敗を給はらんと思ふなり。急ぎ領国へ相触れ、軍勢を催すべしとぞ申されける。懸谷丹後守・浮沢将監御下知をうけて、軍勢の着到をぞ付けにける。都合三万七千五百の士卒を打随へ、晴久雲州を立たれける。先陣は南条修理大夫、手勢五千を率して一陣に進む。既に芸州青野が鼻に着きしかば、暫く爰に陣取りけり。さるほどに義隆、諸家老を呼びて宣ひけるは、誠や尼子晴久当家退治の為に、大軍を率して向ふと聞く。某西国の成敗を司ること、全く私にあらず。勅宣を蒙りて政を正せり。然るを斯様に逆心を企ること、一には朝敵、二には家の敵、彼と雌雄を決せんこと、憚る所あるべからず。早く勢揃して打立つべしとぞ下知せられける。陶・山口承りて、四ヶ国へ触状をなし、三万一千の着到を御目に懸くる。義隆宣ひけるは、山口阿波守五千にて先陣すべし。陶尾張守は、一万にて二陣に打て、三陣は冷泉民部少輔、残る一万は旗本に率して、二日路後に出陣すべしとぞ下知し給ひける。各承つて、次第々々に打つ程に、先陣既に青野が鼻に着きしかば、
【尼子晴久大内義隆対陣】敵の備と、其間十五町隔てゝ、陣をぞ取りにける。一日人馬の足を休めて、翌日辰の一天に、山口一戦をぞ進めける。南条之を見て、兵を下知して、暫く時を移して攻め戦ふ。斯くして其の日三度の合戦に、互に勝負はなかりけり。二日は陶尾張守一万騎を進めて、一時に雌雄を決せんとまうだりける。尼子方には岡田弾正忠、諸勢の機を勇まし、少しも撓まず攻め戦ふ。此日も三度の合戦に、手負死人の有様は、算を乱せる如くなり。日も夕陽に傾き給へば、両陣互に引きにける。三日は冷泉
【 NDLJP:22】民部少輔、尼子方には和多利淡路守懸合せ、新手を入替へ
〳〵、無二無三に死を一途にぞ争ひける。此日四度の合戦に、何れも勝負なかりけり。斯くて翌日明方より雨降り出でて、晴間もあらざれば、双方互に陣取りけり。斯る内に下野守、例の持病起りて、中を枕とし伏し給ふが、次第に胸先
痛増されば、気色弱りて見え給ふ。諸家老之を見て申しけるは、抑此程の軍の防戦を積るに、一往二往にて、中々雌雄は決し難く存ずるなり。後日の勝負待ち給ひて、先づ御帰陣ありて然るべしと、勧め申せば、晴久力なく、
左も
右も計らひ給へと宣へば、さらばとて馬にも叶はせ給はねば、とある山寺より乗物を取寄せて打乗せ、雲州へとぞ急ざける。諸勢も次第々々に帰陣したりけり。
【晴久退軍】さる程に義隆は本国を出で給ひ、途中にて之を聞き給ひて、残多く思召せども、後日の一戦たるべしとて、防州へ打入り給ひにけり。
陶尾張守隆房逆心の事
大内義隆の家中より、山中玄蕃之丞といふ士、京都へ上つて、上野民部少輔に対面して申しけるは、某主君義隆の御為に、高野山へ罷上り、夫より言上申さん為に、此迄参り候とて、
【大内義隆滅亡顛末】義隆滅亡の始終を、委細にぞ語りける。抑大内の臣下に、陶尾張守隆房と申すものは、昔時義隆の先祖震旦国の
主淋昌太子、本朝に渡り給ひ、始めて筑前国多々良の浜に上り給ひしにより、即ち多々良氏と号す。陶も山口も同名なり。此時具せられける両臣なり。されば君臣の礼儀、代々恙なく相伝へて、今此義隆迄既に廿八代に及べり。この隆房が養父に、陶道喜といふものあり。陶五郎とて、唯一人の子を持てり。器量骨柄人に超え、文武に長じ、芸才いみじかりければ、父道喜、義隆へ参らせ、己れは同国富田の城へ隠居しけり。さる程に陶五郎、万事に賢しかりければ、義隆なべてならず思召して、恩賞父に越えたり。領国の諸侍も、大内の功
者とて、重くのみ侍きける。或時五郎、富田の城に来つて、道喜に対面し、万の物語をしける
次に、義隆の御行跡、又は国の政、一向猥なる由語つて嘲りければ、父入道つくづくと聞きて思ひけるは、
彼奴は、安からぬ事をいふものかな。入道なからむ後には、一定主君へ謀叛をすべきものなり。さもあらば、先祖に及びて瑕なるべし。所詮
【 NDLJP:23】彼を害して、入道が
冥路の障を免れんと思切つて、窃に家老に言付けて、情なくも討つて棄てたりけり。他国の人々伝へ聞きて、悪逆無道目に見えても、我子といへば眼
昏れ、免すは親の習ぞかし。況や見えたる科もなきものを。行末を鑑みて、唯一人の遺跡を討つて棄てたる道喜は、唐にもなき忠臣と、賞めぬ人はなかりけり。斯くて入道、傍輩の子を養子にして、義隆へ参らせ、今陶尾張守と名乗りて、恣に権を執つて、重恩身に余りて、何の不足かあるべきに、如何なる天魔の入変りけん、義隆公を亡して、一日なりとも、彼の栄華、心の儘に楽みて、未来の思出にせんと思ふ心ぞ付きにける。さるに依つて虚病を構へ、義隆へは、暫く療治を加へ候はんとて、富田の若山へ引籠りて、謀叛の計策をぞ運らしける。さる程に隆房、杉隼人佐・右田将監・
青景・鷲津等を先として、さもある人々をば只管に招いて、珍膳を尽し酒を勧めて、其後申しけるは、某此間不思議の事を聞出し申候。其委細は、相良遠江守武任、義隆へ讒しけるは、各と隆房一味して反逆を企つる由、正しく告げ申す。義隆
実にうけ給ひて、悪き奴原が所存かな。其儀ならば近日に誅罰すべしとて、安芸・備後・備中の者共を召されて、不日に罰せらるべき由
聞あり。さるに依つて宮・三吉・杉原・平賀・天野・古志・木梨等、一万の人数を率し、住国を打立ち石州に着きしかば、
三角・福屋の兵共、三千余騎にて一つになり、近日山口へ着陣すと申す。然れば各某同心して、勢の附かぬ中山口へ押寄せ、義隆をば討ち申し、大友御舎弟義長をば申請けて、主君に備へ奉り、悪き相良が頭を刎ね、欝憤を散ずべしとぞ囁きける。人々之を聞きて、扨も奇代の讒言かな。思設けぬ事なれば、誤なき心底を、一旦は申さばやと思へども、さほど催し急ならば、如何にいふとも叶ふまじと、一往の沙汰にも及ばず同心せり。陶は大きに喜びて、さらば一族他家の人々へ、廻文を認めよとて、国々へぞ遣しける。筑前の国には
加珍源助・同与次太夫、肥後国には安蘇弥五郎・太宰少弐・千寿丸・秋月種実を先として、悉く同意せり。扨又防長の其中には、内藤隆世・三崎監物・弘中三河守をば宗として、雲霞の如く附随ふ。
【陶隆房謀叛】斯る所に陶が家子に深野弾正康澄・宮川左衛門房勝は、隆房が前に来て、畏つて申しけるは、承れば隆房は、主君へ逆心を起し給ふ。扨も口惜しき次第かな。斯る御所存のあるべきとは、露も思ひ寄らざるなり。
【 NDLJP:24】先づ心を鎮めて聞召せ。御養父道喜入道殿、唯一人の義清殿を害し給ふは何故ぞや。主君に弓を引かうず者なりと思召して、失ひ給ふは、君歴然知召す如くなり。只今逆心の名を取り給はゞ、天命争か尽きざるべき。主君の罰、亡父の罰、世間の嘲、旁以て生甲斐は候はじと、涙を流して諫めにけり。隆房聞きて、斯程に思立つ上は、鳥の頭が白くなり、駒に角が生ふるとも、思ひ止まる事あらじと、座敷を立ちて奥へ入り、合の障子を押立てけり。両人は之を見て、比干は胸を裂き、伍子胥は刑を給はるも、斯る事にこそはあれ。此上は万人の人口に懸らんより、いざや冥途に赴き、草の蔭なる入道殿と共に、因果を見果てなんと、座敷を去らず刺違へて死にけるは、類なき忠臣と、聞く人毎に、感ぜぬはなかりけり。さる程に隆房に相随ふ人々は、江良丹後守信俊・狩野弾正忠、弘中三河守守貞・
青景刑部少輔・戸井田正広・鷲津入道を宗として、都合其勢八千余騎、既に山口へ寄すると聞えしかば、義隆聞き給ひ、何隆房が謀叛といふか。相伝の家僕として、主君に弓を放つとも、天命いかでか免るべき。それ防げ者共と宣ひて、軈て六具をぞしめ給ふ。冷泉民部少輔・天野藤内之を見て、面を防ぎ候はゞ、三浦・戸井田・右田・仁保の者共、手合せ仕候へば、奥へ攻入りて、若君御台を生捕り奉らん事疑なし。たゞ滝の法泉寺へ落ち給ひ、快くあれにて一戦し、其後御自害候て、然るべう候はんと諫め申す。義隆力なく、冷泉・天野を先として、相伝の兵を三百
勝つて、法泉寺へとぞ落ち給ふ。程なく着き給ひしかば、一時に堀を掘り、逆茂木を引かせ、蔀遣戸を楯として、寄する敵をぞ待ち給ふ。時刻移れば、其日を延べじと尾張守隆房、八千余の軍兵を率して、法泉寺へ押寄せ、鬨をどつと上ぐ。冷泉隆豊、大方にて至剛の土なはは、萌黄縅の鎧の、三人して持ちけるを、
綿齧摑んで引立て、草摺長に着下して、四尺八寸の赤銅作の太刀を佩き、三尺五寸の白柄の長刀提げて、先に進み給へば、天野藤内・黒川・小幡等、思々心々に出立ち左右に続く。敵には三浦・青景・鷲津等を先陣として、雲霞の如く乱れ入るを、冷泉民部少輔、多勢の中へ切て入り十文字 割立て薙伏す勢は、樊噲が怒れる有様、項王が山を抜く威勢も、斯くやと思ひ知られたり,未だ時節も移らずして、手負死人は算を乱して見えにけり。寄手大に驚き、唯一人に切立てられ、むら
〳〵ばつとぞ引きたりけり。日の中に五
【 NDLJP:25】度の戦に、味方の三百も、廿余人になりにけり。義隆、今は罪作りに何かせん。腹を切らんと宣へば、冷泉隆豊申されけるは、先づ一度は豊後へ落ちさせ給ひ、大友を御頼みありて、筑前・筑後の勢を率して、陶を亡し給ふべしと、人々頻に勧め申せば、さらばとて夫よりも、法泉寺を夜に入りて、主従七騎落ち給ひて、長門国に聞えたるせんざき指してぞ落ちられける。程もなく着き給へば、此よりも小舟に取乗りて、海上遥に抑出しけるに、兎角運の尽きたる義隆の
徴には、俄に悪風吹き出てて、元のせんざきへと吹戻しけり。是ぞ源の義経、四国へ乗らんとて押出せしに、悪風吹きて、元の浦へ吹戻しけるに異ならず。斯くて敵共、浦々関々を固めければ、雑兵の手に懸らんよりは、此よりも当国布川の大寧寺に行きて、自害を心静にせばやとておはしけり。此寺は石屋禅師の開基とて、仏法流布の霊地なり。彼寺に落着き給へば、異雪和尚、涙を流し給ひて、盛者必衰の
理とはいひ乍ら、斯る御有様を見奉るに、夢のやうにこそは存ずれとて、互に涙に咽び給ひける。其後宣ひけるは、
おさあひ者共の事は是非なし。嫡子三位中将をば頼み奉る。いかにも取隠し給ひて、豊後の大友を頼ませ給ひて、隆房を追罰し、某が追善に施し候やうに、偏に和尚を頼み奉る由、懇に契約まし
〳〵ける。扨仏果の種因一箇の吹毛を提撕して、人間是非の間を截断し給ひて後、
【大内義隆自殺】腹十文字に切つて、天野いかにと睨み給へば、藤内涙と共に御介錯仕りける。大内廿八代、天文十二の天、中秋下旬の露と消えさせ給ふぞ哀れなる。斯くて時刻移りければ、陶隆房は、又新手一万余騎を率して、大寧寺へ押寄する。冷泉民部少輔最後の軍を快くして、敵に目を覚させんとて、今度は三尺二寸の太刀、五郎入道正宗がうつたる
乱刃の、抜けば玉散るばかりなるを、軽々と提げて、多勢の中へ打つて入り、活人劒・殺人刀・向上極意の妙劒・十字手裏劒・沓ばう身などいふ兵法の術を尽し、切つて廻り給へば、手先に向ふ兵なかりけり。七人の人々も、今を最後の合戦なれば、戦場を枕にせんと、太刀の金の続くほど、十文字に切り散らせり。隆豊も、今ははやさるべき敵もなし。雑兵原を、
太刀汚しに殺しても何かせんとて、立帰つて、仏前にて鎧を脱ぎ、短冊一枚取り出でて、辞世、
見よや立つけぶりも雲もなか空にさそひし風のあとも残らず
【 NDLJP:26】黄門定家卿の末流とはいひ乍ら、斯る折節、歌詠むべうも覚えず。されども歌道に入魂し給へば、斯く口ずさみ給ふ、心の中こそ優しけれ。斯くて押肌抜き給ひて腹十文字に切りて、返す太刀にて心元へ突立て、夕の露と消え給ふを、惜まぬ人はなかりけり。残る人々も、思ひ〳〵に最後の得道し給ひて、自害して失せにけり。扨嫡子三位中将御父祖一忍軒、ある山寺に忍入り、隠れさせ給ひけるを、陶阿波守之を聞付けて、三百余騎にて馳向ひ、疾々御生害あるべしと勧め奉れば、詮方なく二人共に、御生害おはしける。扨北の方は二人の御公達を、乳母二人が抱きて、或山家に忍び給ひけるを、御父の一忍軒中将殿・義隆公は申すに及ばず、悉く御生害おはしける由、相伝の友若丸来りて告げければ、気も魂もなき心地して、今迄はさりともとこそ思ひしに、こは情なき事共かな。中にも父一忍軒は、十年計相見ぬことを、懐しく思召して、過ぎにし春の頃下らせ給ひ、夏の半に京へ上りなんと頻に仰せられしを、今一日一日と止め奉り、秋になり、斯る憂目に遭うて自害まし〳〵、田舎の露と亡せ給ふ事の悲しさよと、天に仰ぎ地に伏して歎き給ふが、今は何に命の惜しかるべき。早く冥土に赴きて、人々と一つ蓮にて、御目に懸らんと宣ひて、ある淵に行きて、碧湍の底へぞ沈み給ふ。乳母は五歳の姫君を抱きて、之も続いて沈みにけり。哀れといふも常の事、言葉に述ぶべきやうもなし。之を聞く輩、涙に咽せぬはなかりけり。人々之を聞き給ひて、隆房が悪逆無道、とかう申すに及ばずと、悪まぬ人はなかりけり。
毛利元就、陶隆房を罰せらるゝ事
さる程に陶隆房は、大内義隆の貴族、相伝の郎従等、悉くに亡し、四ヶ国を妨なく押領し、さて山口・鴻嶺・築山の御所、金銀珠玉を鏤めたるに、我身は移り変り、富田の若山の城をば、嫡子五郎隆豊に譲りけり。斯くして町人百姓等の仕置を改め、今ははや心に残る所なく、上見ぬ鷲とぞ見えにける。或時山口惣門の前に、跡なしものゝ
所為と見えて、
根を掘りておほちの枝葉枯らすともむくはんすゑが果ぞ恐ろし
【 NDLJP:27】栄華なにはに付けて不足なく、明し暮らしける程に、翌年の仲秋に、郎従等を近付けて、隆房申しけるやうは、亡君四ヶ国をぞ領し給ふとは申せども、各所領の分限をば知らず、打暮らし給へり。然れば来春必らず一見し、某要害のやうをも見んと思ふは如何にといひければ、諸士最も然りなんとぞ同じける。于㆑玆毛利陸奥守元就、其の頃芸州甲立といふ所に、僅千貫ばかり身帯しておはしけり。自然と弓馬の家に化生して、武勇の道に賢しく、文に長じて、智略謀計備はれり。敵を落し国を従へる事。龍の水を得るが如し。然るに此隆房が悪逆無道を案ずるに、上は天帝に反き、下は地神の悪みを得。さて人口の嘲拠なく、遠くは五年、近くは三年が内に、天の責約つて、不慮に亡びん事疑なし。さあらんに付けては、如何にもして此隆房を亡し、当家武運の厚薄を試さばやと思しけれども、隆房が身帯に予を較ぶれば、九牛が一毛なり。如何すべきと明暮肝を砕かれける所に、隆房領国を打廻るべき由聞えければ、軈て陶に朝夕出仕の者共、二三人近付き、折々の御話に聞けば、隆房年越さば、防・長・豊・筑、残らず一見あるべき由風聞候。さもあらば能き幸と厳島へ詣で給ひ、直に芸州をもあらまし見給ふこともやありなん。同じくは御参詣なきやうにとこそ存ずれなど、いひ聞かせ給へば、此の人々、何篇に限らず珍説を聞かせて、陶が気色に入らんと思ふ折なれば、軈て斯くとぞ告げたりける。隆房聞きて怪しく思ひ、さもあらば是非とも詣づべしとぞ申されける。元就悦喜限りなく、一家の親族累代の臣をば集めて、軍の評議相定めて、領分の百姓等悉く狩立て、焼草を用意させ、如何にも静まり返つて、隆房遅しと待受けらるゝ。さる程に陶は、斯る智略ありとは夢にも知らず、屈究の兵をば、五百余人勝つて、様々の献物を認め、厳島へ打越えける。程もなく着きしかば、現世安穏の為とて、数の実を奉納せり。社僧神官各罷り出でて珍重拝舞す。斯くて日も夕陽に傾き給へば、下向の道に赴さ、さるべき宿に休息して、諸勢も疲を晴らしける所へ、元就三方より押巻き、鬨をどつと上ぐる。隆房大きに驚き、こは何事ぞ。誰なるらんといへば、毛利元就謀叛にて候と申す。陶聞きて、何程の事かあるべき。兵共一方を打破つて、駈通れとぞ下知しけり。斯る所に四方より放火しければ、一同に燃え上る。折節浜風烈しく吹きて、狼煙天を掠め、焰【 NDLJP:28】地に吹付けたり。兵共途に迷ひて、東西へ討つて懸れば、矢先を揃へて、鑓衾を作つて、一人も逃さじと、鬨の声を作り懸け〳〵、天地も裂くる計に攻め付けたり。鋒先を免れんとすれば、猛火に焦る。焰を避けんとすれば、矢先を免れず。網に罹れる魚の心地して、洩るべきやうこそなかりけり。隆房無念に思ひて、身に従ふ兵七八人左右に立て、多勢の真中へ割つて入り、さん〴〵に戦ひけるが、痛手を負うて引退き、【毛利元就陶隆房を討つ】今は此迄と思ひて、腹十文字に搔切つて、焰の中へぞ入りにける。之を見て兵共、我も〳〵と自害して、焰を潜きて伏しにけり。元就思のまゝに討ち畢せて、勝鬨を三度上げて帰陣し給ひ、一日休みて、防州富田の若山の城へぞ押寄せ給ふ。二重三重に取巻き攻め給へば、五郎隆重、暫く立籠りて、領国の勢の附くを相待ち、一戦に雌雄を決せんとしける。元就軈て五郎が家老を偽り給へば、仔細なく隆重が首をば刎ねてぞ出しける。此外陶が親族従類尋ね求め、髑を切つて獄門に梟け、義隆の追善と回向し給ひけり。深野・宮川が謀言、鋳も遠はざる所、因果歴然の理、兎角申すに及ばれず。三年が内の栄華は、唯部鄲の枕に伏して、一炊の夢の覚めたるが如し。哀に果敢なき事共なり。
洛中訴訟に依つて徳政を行はるゝ事
諸国悤劇に就いて、分国に新関を立て、往還の旅人安からず。さるに依つて都鄙の売人、自ら途絶しけり。是に付けて京方の工商、家職を空しくせり。日を追つて
糧尽きければ、家財を貯へたるものは、質物を入れて暫く妻子を育む。財宝なきものは、行方なく逐電しけるもの多かりけり。斯く衰ふるに依つて、公方役・地子役嘗て勧むるに能はず、催促厳しと雖、大方質物に払底しければ、詮方なくて上下京一同に、検断所へ訴訟を上ぐる。
近年京都の諸商売、一円に其挊を得ざるを、内証迷惑仕候。さるに付けて家財を質物に入れ、又は治却を致候て、年を経ると雖、猶以て糧尽き、既に飢渇に及び申候。是に依つて御公儀役勤むるに克はず。此度の儀に御坐候条、御慈悲を加へられ、徳政御赦免成下され候はゞ、難㆑有可㆑奉㆑存由言上す。
【 NDLJP:29】即ち考中披見これあり、上問に達せられける。公方つく
〴〵御覧じて、翌日人々を召して仰せられけるは、在地人等、近年家業の利を失ひ、飢渇に及ぶの由尤不便なり。其士農工商は、昼夜心骨を刻みて、上を育み、上は又下の
豊ならん事を、日々に改めて安全を守る。然りと雖、当世は衰乱せしかば、政道も亦なきが如し。それに付けて徳政を望むこと、元より米銭に富みたるものは、利倍の為に質物を取る。取る程の
族は、縦ひ其財宝を悉く取らるゝと雖、飢渇に及ぶ程の事はあらじ。有徳のものは、百人に一人二人ならん。然れば小を殺して大を救ふは、是れ法なり。其上に先規もなきにしもあらず。常徳院・法住院の例に任せて、急ぎ徳政を行ひ、貧窮を遍くせよと仰せられければ、人々承つて、評定所にて案文を書かれける。新規にもあらず、大方先法の如し。
徳政城州
一、借銭借米の事
一、武具に於ては 廿四ヶ月
一、絹布の類は 十二ヶ月
一、仏具絵賛の物、家器の類は 十二ヶ月
一、家質縦ひ沽券に仕り、証文正しき言有㆑之、於㆑加㆓利弁㆒者可㆑為㆓借銭同前㆒事
右五箇条本銀の十分一を以て白昼に取り申すべく候。若し違犯の族於㆑有㆑之は曲事たるべきの由仰出され候。仍下知如㆑件。
天文九年三月日 光俊
貞長
長高在判
さる程に質物を入れたる輩、九年の早魃に、大雨を得たる思をなして、悦ぶこと大方ならず。質屋の内外に、人の出入は限りなし。斯る所に洛外に蟄居する一業所感の者共、能き幸と喜びて、五人十人宛押込み、質物に事寄せて財宝を奪ひ取る。異議に及ばゝ、狼藉仕るに依つて、質屋方迷惑し、此旨を訴訟す。諸奉行聞き給ひて、重ねて高札を挙げられける。
【 NDLJP:30】
掟
一、今度徳政を免除せらるゝの所に、在々所々に隠れ住せしむる牢輩等、質屋方へ押込を仕り、資財を奪ひ取るの由其聞え候。向後其近辺の輩、兼て手合を致し、即時に出向ひ、随分打留め申すべく候。生捕るに於ては大切の儀候之条、侍に於ては何にても望を叶へ、平人に至つては、当座の褒美として、料足二百文遣さるべく候。仍下知如㆑件。
月日 在判如㆑前
右の高札洛中を初め、在々所々残らず立てられけるなり。
【 NDLJP:30】
室町殿物語 巻二
義輝公征夷将軍に任ぜらるゝ事
東南西北、年を追つて愈乱れがはしく、弱きは歿落し、小身は大身に従ひ、大身は大敵と、有無の雌雄を争ふ程に、いつ事鎮まるべき世中とも見えざりければ、公方家の人人も、深淵に臨んで薄氷を踏む心地して、安き心もなかりけり。況や万民に於てをや。朝暮修羅の歎を聞く計にて、喜ぶ声は世間に絶えにけり。斯くして天文も十六年に移りければ、
【足利義輝征夷将軍となる】帝に公卿僉議ありて、義晴公の御一男義輝公に、征夷将軍の宣旨をぞ下されける。さるに依つて相国、天下の御家督を譲らせ給ふ。近国遠国となく、思ひ
〳〵に御祝儀の使者を献ぜらるゝ。先づ若州武田殿よりも、三種の御肴・巻樽一荷、筑前守よりも右の如く、甲州武田晴信より、来国光の御太刀一腰、黒栗毛の太
【 NDLJP:31】く逞しきに、金梨地の金具すつたる鞍置き、馬一疋進上ありけり。今川殿右の如し。毛利元就、御太刀一腰・御馬一疋・唐紅二十斤、土佐一条殿・伊予西園寺殿・曽禰・大津、御太刀一腰・御馬一疋、何れも大方斯の如し。斯くて洛中洛外の製法、改めさせ給ふ。累年諸人衰微せしかば、御吟味ありて、少々免宥し給ひける御志の程を感じ奉りて、万民涙悦し奉りける。
義晴公御逝去の事
世間急劇に付きて、諸国の人民古郷を去つて、何の便もあらざれども、京に入渡り、乞食貧人風情にて、往還の巷に彷徨ひけるが、日を経て悉く餓死しける有様、兎角述ぶるに能はず。斯る事を義晴公聞召し付けて、御心搔きくれさせ給ひ、御気色も例に違はせ給ひけるが、程なう腫物出で来させ給ふ。さるに依つて名を得る外科内医参り集ひて、療術をば尽すと雖、日を経て大事に見えさせ給へば、義輝公・慶寿院殿大きに驚き給ひ、仏神三宝への御祈、貴僧高僧に仰付けられて、平安の効験施させ給ふと雖、次第に御気色弱らせ給ふ。或夜の夜半過に、誰かあると召され給ふ。御伽には竹院・巣林庵・宣弁庵など候はれけるが、竹院差寄つて、各是に候とぞ申されける。相国仰せられけるは、少し睡みける中に、俄なる夢を見つることよ。所はいみじき座席に、歌よむ人々あまたありて、各古歌を吟ぜり。
みだれぬる世 憂目をや忘れ草今身の上にいざうゑて見ん
といひて、誰ともなく我によく覚えよと、いふと思へば夢覚めぬ。されば此歌は亡祖慈照院義政の歌なり。此時は一天泰平にして、万人豊饒の化に誇りしかば、前代の乱逆を思し立てゝ、我が世の無事をば較べて詠める歌なる。されば之を能く吟ぜよと告げられけるは、今世中一同に乱れて、当家も滅すべき告にこそと覚ゆれとぞ宣ひける。人々承りて、争でかさる事候べきと申されける。巣林院畏つて申上げられけるは、それは君の日来越方の事共、思召し続けさせ給ふによりてなり。凡て夢は、虚夢とこそ申候へ。必ず気疲れ衰へ候時分は、そこはかとなき事共を、夢現ともなく、我人見るは習にて候。但仏神の御示現霊験などは、格別の事とこそ承り候へ。【 NDLJP:32】其上古の乱世は、或は朝敵、或は公方へ遺恨を含んで、帝都を悩まし奉るにこそ候へ。今度の衰乱は、面々が私欲の為に命を棄てゝ、国を争ふ事に候へば、誰か此都を傾け参らすべき。さり乍ら畿内の逆徒等、武命を背き奉るとは申せども、此は義長承つて、大方退治仕候へば、何の御遠慮か候べきと申されける。相国聞召して、何とやらん此程は、亡父を初として、類親などを度々夢に見ゆれば、いかさまにも此度を限りと、予は思ふなりと宣ひて、義輝公を召して、御遺言ども仰せられにけり。斯くて日日に御気色弱らせ給ひて、【足利義晴逝去】終には天文十九の露と、消えさせ給ふぞ哀なる。義輝公の御愁歎推量るべし。慶寿院の御歎、いまはの別れの悲しさに御傍に寄伏し、年頃の事共搔口説き給ひて、千万行の御涙、袖に余りて見えさせ給ふ。余所の見る目も哀なり。公卿殿上の御弔は、所狭きてぞ見えにけり。斯くて御葬礼は、等持院にてあるべしとて、窃に送り奉りける。僧方は、五山の諸長老を初として、以下の僧綱、残り給ふはなかりけり。時刻移りて、御荼毘の規則整ひける。仏事の次第最も厳重なり。諸宗の諷経は東西に控へて、立替り入変り、暫く時を移して見えにけり。誠に哀れに殊勝なる事、如何なる賤女の心なきも、袖を湿らさぬはなかりけり。
御領分徳政の事
御領所十七ヶ所よりも、徳政を御赦免なされ候やうにと、再三訴訟申上げければ、公方、諸老を召されて、万松院殿御代の写を以て、徳政行はるべき由仰出されける。承つて先年の文言を取出して、板札に写されける。
徳政十七ヶ所
一、借銭借米の事
一、武具に於ては 廿四ヶ月
一、絹布類は 十二ヶ月
一、仏具画讃物器物の類は 十二ヶ月
一、家質の事、縦ひ沽券領状有㆑之と雖、於㆑加㆓利弁㆒者可㆑為㆓借銭同前㆒候事
右五箇条以㆓本銀の十分一㆒白昼取可㆑申之由被㆓仰出㆒候。仍下知如㆑件。
【 NDLJP:33】 永禄三年三月日 三角右衛門尉在判
三好筑前守義長訴訟の事
所々の城主郎従与力に至つて、度々粉骨を尽し、戦功を力むと雖、某に於て何れへも確としたる勧賞行はるゝ事なきに付きて、士卒勇むことなし。所詮人々の述懐は、此義長に残れり。訴訟を申して用ひ給はずば、某抑へて相計るべしと思慮を運らして、君の為に命を軽んじ義を重くし、忠戦を尽す輩に、敵亡失の地を点検なされ候て、近日に之を宛行はるべし。夫に就いて泉州備前入道並に伊勢守が本領は其申請け、諸従等軍功の輩に、扶持申度候由、数々条を挙げて訴訟せり。義輝公聞召して、兎角の御返事もなく、其分にて打過ぎ給ふ。其後松ヶ崎弾正忠が領分、日頃日向守義興望み申し、筑前守を頼みて数度訴訟申すと雖、終に御返事もなくて打過る所に、御所相伝の伊勢加賀守に、一円にぞ下されける。義長・義興之をば聞きて、憤を含んで、累年の忠功を、今更悔ゆる計なり。
筑前守、加持田甚兵衛を追払ふ事
泉州備前入道が領分、一円に公方へ収め給ふ。さるに就いて加持田甚兵衛といふ仁を、
【三好義長背く】京より代官に仰付けられて、近年泉州に罷在りけり。然るを義長、此在々所々へ一札を遣しける。
一、備前入道並伊勢守等が領所の分一切、当年上納あるべからず。仔細共有㆑之の間、心得の為に申遣し候。若し上納する者は、二重に申付くべく候。其為め一札如㆑此候。已上。
十月二日 義長
一和庄并惣中
加持田いつもの如く納むべきと存ずるの所に、百姓中より、此由を申しければ、大きに驚き、筑前守へ使者を以て、如何なる仔細の候て、公方の御領を抑へ給ふ。其意趣を承らんといひければ、義長軈で人数を遣し、甚兵衛を理不尽に捕つて、泉州を追【 NDLJP:34】出しけり。力なく加持田は京に帰りて、公方へ此旨を申上ぐる。義輝公聞召して、諸臣を呼びて、此儀如何すべきと仰出されければ、仁木申されけるは、内々義長、泉州を望み申候へ共、終に御許され候はず。然るに依つて今秋、理不尽に押領せんと存ずるにこそ候へ。日頃の忠賞に、理を枉げて遣され候はんか、如何と申上ぐる時に、畠山申されけるは、強ひて此所を望み候はゞ、再三も五度も七度も、御断を申上ぐべきにこそ候へ。理不尽に公方の御代官を追立て、我意に任せ候事は、偏に公儀を軽んじ奉る所存の程こそ、何とも計らひ難く存ずれと申されける。公方聞召して、所詮彼が心底を、直に聞召し候はでは、仰付けらるべき旨も定まらずとて、汝義長が許へ行きて、事の次第を尋ねて参れと仰付けらるゝ。畏つて其日中島へ打越え、斯くと申されければ、義長奥へ請じて、いかにもしつして、上意のあらまし申されけるは、此年月、某不肖に候と雖、敵中の巷に一城を預り、八方の凶徒等を敵にうけ、昼夜肺肝を砕きて強敵共を退け、此節大方世中も治まるべきと存ずる事は、偏に君の御為に候はずや。我のみならず、所々の城に罷在る勇士共、命を棄てゝ戦功を刻むは、己を立身の為なり。或は親を討たせて子残り、兄を殺して親弟悲しみ、或は相伝の侍諸従等も命を捨つるは、一つは懸命の地を知りて、子孫に譲らん為ぞかし。然るを君は何れもへ、今日迄さしたる忠賞とて行はれし事候はず。日向守数年の忠功に、松ヶ崎三淵が跡を望み候て、某まで頼み、度々申上候へ共、終に御返事も候はず。剰へ伊勢加賀守に遣されしことは、如何なる御事ぞや。数年白刃の前に命を果し、怨敵を防ぎ、都を無事に相守り候て、御所中は豊に御遊興を宗として、打暮らさせ給ふ人々には、松ヶ崎を一円にたび、戦功の輩には、望むと雖、其の恩賞とて印なきこと、遺恨雨山之に過ぎず。就中某泉州入道が跡を望み候事は、全く予が慾心には候はず、軍功の輩に扶持を加へ候はん為に、度々申上候へども、御許されなく、御蔵へ納められ候間、所詮当年より此方へ申請け、諸従等に勇ませ、いよ〳〵戦功を守らせ候はん為に、無骨ながら甚兵衛を取替へ申して候。此等の趣、具に上聞に達せられ候て給ふべしとぞ申されける。雅楽頭委細に聞届け給ひて、其の日中島をぞ立ち給ひける。
【 NDLJP:35】
公方領を義長押ふる事
近年摂河両州にて、亡失の者共が知行の地、過半は公方へ上納せしかば、所々に下代を据ゑさせ給ふ。然るをば筑後守、心変りの
印にや、人数を差遣して、所々の奉行下代等を追立てけり。其後義長よりも事を改め、下代を入れ置きにけり。さるに付けて、百姓方より書付を以て、長高方へ申しける。当秋の貢、義長へ相納むべしとの御事にて、下代衆を改め、筑後守殿よりも据ゑられ候間、御断を申上ぐる由訴訟せり。長高聞き給ひて、軈て公方へ斯くと申上ぐる。下代衆も帰り参りて、此由を申す。
【足利義輝三好義長を討つ】義輝公聞召して、畠山三左衛門に、三百余の人数を相添へて、急ぎ汝は両国に下りて、義長が置換へたる下代共を追立て、貢物納むる中は、汝あれにて守護仕れとぞ仰せられける。三左衛門承つて、天晴大事の奉行かなとは存ずれども、上意なれば力なく、三百余を引具して下りける。扨在々の庄官共を呼びて、急ぎ貢物納め申すべき由下知しけるが、承るとはいひ乍ら、如何あらんと相談して、義長より置きける下代方へ斯くと告げ申しける。下代中より、又筑前守へ、斯様の次第に候とて伺ひければ、義長は聞きて、其儀ならば、上使三左衛門を追払へとて、小造兵衛尉・佐藤角太夫両人に、八百の人数を相添へて、急ぎ畠山を追払へ。異議に及ばゝ、悉く討果せとぞ下知しける。承つて西の村へ馳向ひ、先づ使者を以て三左衛門へ申しけるは、長慶入道の仰を蒙りて、小造兵衛尉と申す者、罷向ひて候。何畠山殿とやらん承候。早早京都へ上り候て然るべく候。否み給はゞ、追立て申せとの仰にて、八百余の人数を給はつて、唯今是へ馳向ひて候といひければ、三左衛門聞きて、御調物上納の内は是に逗留し、狼藉仕る輩これあるに於ては、事鎮めよとの御上意を蒙り下され候。
早々其方退き給ひて然るべしとぞ申されける。小造聞きて、何条退かずば退かせんとて、畠山がありける慈宗庵の東西を、八重一重に取巻きて、鉄炮を三十挺ばかり寺面に進めければ、住持大に迷惑して、畠山にいひけるは、一端の御断は聞え申候。いかに心猛く思召候とも、多勢にて攻め候はんに、此草庵、一耐も耐ふべきとも覚えず。さあらんに付けては、各討死し給はんこと疑なし。とても叶はぬ道ならば、早々京【 NDLJP:36】都へ上らせ給ひて然りなんと、僧侶共数多寄りて、手を捺り詫び悲しみければ、畠山是非なく、さあらば意見に同ずべしと申されければ、僧達喜びて、表に走り出でて、小造に遭うて、断由候へば、承承引候て御逃あるべきしの事に候の間はや〳〵人数を御退き候て給ふべき由申さるれば、兵衛尉は之を聞きて、其儀ならば引取れとて、多勢をこそ引きにける。
畠山帰洛する事
彼方此方に置きける三百余の人数を、引具して京着し、始終の次第を、有の儘に申上ぐる。公方聞召して、人々を集め給ひ、其儀ならば、多勢を催して、義長が要害をば攻めよとの仰なり。
【細川晴元三好義長を攻む】各承つて、軍の評議をして、細川武蔵守晴元を大将として、上山崎・下山崎・西の岡・洛東の郷侍に仰付けられ、都合一千六百を率して、中島へぞ向ひける。城を取巻きて、
鯨波をどつと上ぐれば、義長士卒を集めて、元より斯くあるべしと期したる上は、憚あるべからず。敵の勢は如何程にか見ゆるといへば、一一千には不足に候はんと申す。其儀ならば五百計切つて出で、手痛く当るべし。京勢にもあらず、洛外の郷人原にてあらんずる間、軍は初めての奴原ならん。急ぎ討つて出でよと下知しければ、三好修理大夫・岩成主税助大将にて、五百余人究竟の者共、門を開いて切つて出で、一戦を進めける。城中の者共、武功飽迄長じたる勇士なり、寄手は方々より駈集めたる
寄勢なれば、一致せずして
疎なり。五百余人一同して、一足も退かず戦へば、いかでか怺ふべき。算を乱して敗軍す。修理大夫・主税助東西へ追懸け、此処に追詰め彼処に追詰め、散々に攻めければ、手負死人は
若干路径に満ちて、血は落葉を浸しけり。大将武蔵守も主従二騎二田の畔を経て、
漸々京都へ落来りける、哀なりし有様なり。
中島へ重ねて向ふ事
京都には大きに驚き給ひて、重ねて勢を遣し給ふ。今度は丹州の兵共、其上方々に隠れ住みける浪人、又は武者修行に罷出でて、暫くの間方々に逗留しける武士抔を
【 NDLJP:37】選み集めて、都合千三百。大将には一色兵部大輔・伊駒重斎入道をぞ向けられける。斯くて摂州に着きければ、一日馬の足人の息を継がせて中島へ押寄せ、鬨をどつと上ぐる。長慶、
物頭共を集めて、今度は定めて士卒も将も変るべし。
勢嵩は何程にに見ゆるといへば、二千余りに見え申候。先日の備と、悉く違ひて候へば、武功の者共向ふと見えたり。卒爾の働き候はゞ、皆々討取られ候はんとぞ申しける。義長聞きて、先日の軍、無下に哀なれば今度はさぞあるらん。敵を近く寄すべからず。弓・鉄炮を打たせよ。油断するな者共とて、帳台へつと入りて、黒革緘の鎧に、烏帽子
引込うて、白き練衣の一幅を三つに畳みて、鉢巻に確と締め、三尺二寸の太刀、一尺八寸の打刀差添へて、鎌倉鍛冶の鍛うたる、二尺八寸の長刀杖に突きて、表の櫓に、如何にも静に上りて、敵の陣を見渡しけるに、備の次第
実にも面白し。旗印・笠印、何れとも目慣れぬ武士の向ふかな。いかさまにも義勢は多かるべしと、
暫経つて、其後櫓より下りて、
岩成をば近付けて、先日の人々には、似も似ぬ武士の多く見ゆるぞ。軍に油断
あるべし〔
〈あるべからずカ〉〕。四方に心を
賦つて、弓・鉄炮を切らすなとぞ下知したりける。爰に備後の国の住人に山内飛騨守、五百の勢を引廻して、東西を挊ぎけるが、此の内二百を遣して、土俵を支度させて、在家を打壊して、搦手の堀を、一所埋めさせんと用意しけり。兎角して其日も暮れければ、宵より亥の刻下り迄は、鉄炮を打たすること、百千の
雷鳴渡るやうに、隙透間もなく打続けゝるが、
夜半過ぎければ、さのみは打たざりけり。されば飛騨守、此の隙に土俵を築上げよとて、面に楯を突翳して、堀際近く土手を築立てたり。さて堀へ埋草を投込み
〳〵入るゝを聞きて橋より
続松を立てゝ見越しければ、土手を築きて見えざりけり。城中大きに驚きて、三好修理大夫・十河久馬助・岩成権太夫、いざ切つて出でて敵を
追散らし、土俵を退けさせんといふ。此儀然るべしとて、都合五百三十余の足軽を
追立て、搦手の木戸を開きて、一同に喚いて懸る。山内飛騨守・田中平太夫之を見て、堀より一町計偽り引出し、五百の軍勢を以て、敵陣を取囲み、無二無三に、命も惜まず攻戦ひける。馬人疲るれば、城中の人々、さつと
退いて入りにける。手負死人百余り亡せにけり。寄手も七十余人ぞ討死す。斯くては勝負いつあるべしとも見えざる所に、飯盛の城
【 NDLJP:38】主之を聞きて、十河
一存方へ、飛札をば遣しにける。
昨日未明より、京勢中島を取囲み、今に防戦半に候。拙者後詰に罷出度候へども、敵の寄口に候へば、其儀に克はず候。一足も早く出陣然るべく候恐惶謹言。
八月十一日 伯耆守在判
十河一存老
一存驚き、都合七百の軍勢を率して、中島へぞ馳向ひける。大手の寄口、敵の後に、十町余を隔てゝ陣取りけり。京勢は之を見て、さあらば城を棄てゝ、一存と勝負をば決すべしとて、総軍を立換へ、一存が備と対陣す。二千の人数を、四百計城の
押に置きて、合戦をぞ始めける。
追つ返しつ、先陣二三度
競合ふ刻に、城中より三好修理大夫・岩成主税助五百余人、切先を並べて一面に討つて懸る。四百余の
押勢、開き合せて攻戦ふ、されども寄手は疲れ武者なれば、終には打負けて、西を指して敗軍す。さて又主税助・修理大夫は之に構はず、一存が向うたる敵の後より、切先を並べて喚いて懸れば、京勢陣を二つに分けて攻戦ふ。心は猛く勇めども、京勢は人馬共に疲れければ、
新手に当りて、
若干手負死人
出来にけり。前後よりも揉立てられて、山崎勢より崩れにけり。それより味方弱りて、軍
傾れ懸れば、一存愈力を得て、敵に息を継がすな、懸れや者共と、士卒に気を励まして、乗廻し下知しければ、さのみはいかで耐ふべき、南を指して落行きけり。一存が義勢共、落武者を逃がさじと、算を乱する如くに、八方へ
追懸けしが、功の武士に懸合ひて、討取らるゝ騎馬十六騎ありけり。斯くて軍も破れければ、長慶、一存に対面して、今度其方助勢なくば危く思ひて、一札を遣し候はんと思ふ所に、不思議に後詰せられて、勝利を得るこそ大慶に存ずれと、大きに喜悦しけり。されども一存が人数手負死人、二百三十計ありけり。其中に家老共の子供、一存が甥など討たれ、城中の人数も、百八十余人亡せにけり。さる程に人々京都に帰りて、軍の次第を詳に申上ぐる。両国の城主共、残らず長慶が被官同前に候へば、縦ひ城は落つるとも、近辺の者共即刻に聞付けて、互に馳付き候へば、二万三万の軍勢を以て向ふとも、勝利は得難かるべしと存ずる由を、各言上しければ、公方を初め奉りて、如何してか能からんと、評議昼夜
区々にて、事一定し
【 NDLJP:39】たる事はなかりけり。
【 NDLJP:39】
室町殿物語 巻三
日向守盗賊を捕ふる事
爰に義興家老に十塚次郎兵衛といへる人の甥、八条塩の小路の辺にありけるが、次郎兵衛、母を彼が許に置きて養はせけるが、或時風の心地とて
労りければ、頓て十塚が許へ斯くと告げ来る。老母の事なれば、心元なく、
万差置き来りて見るに、実にも風気と見えてければ、さるべき医師を付けて療治を加ふる程に、四五日滞留しけり。斯る所に急用ありて、日向守より呼びに遣しければ、甥に能々
労るべき由言含めて帰らんとしければ、夜半過ぎし前になりぬ。母の曰く、さなきだに此頃は、日暮れ懸れば人の
通もなく、其上門戸を閉ぢて、
往来容易からず。如何して戻るべき。今宵泊りて、明けなば帰りおはせよと、頻に止むれども、何条何事か候はん。あはれ曲
【 NDLJP:40】者に会はゞやとこそ思ひ候へとて、名残なくぞ出でられける。さて九条の
行別れを通りけるに、木蔭より物の色めきて見ゆる程に、怪しと思ひて、刀の柄に手を懸けて、さらぬ体にて行く所に、大の男の、両方より
筋違につと出でて、差寄り申しけるは、是こそ世に捨てられし餓鬼原にて、既に渇命尽きてん。暫時の命を助かるべき慈悲おはし候へとて、やをら、差寄り、胸板を捕へんとする所を、心得たり。すは取らせんといひざまに、二尺計の打刀を引抜いて、弓手の肩先よりも、右手の脇の下迄水も溜らず切つて落しけり。今一人のもの之を見て、叶はじとや思ひけん、五六反計逃げて、傍なる藪の中へぞ入りにける。十塚之を見て、盗賊をしとめてあり、在々の者共
早々出候へと、高らかに二三度呼びければ、藪の後なる者共、手々に続松遅しと火を立てゝ、我れ先にとぞ出にけり。十塚いひけるは、二人の盗賊を、一人は是に討止めぬ。今一人はこれなる藪の中へ逃入り候へば、急ぎ狩り出し候へとぞ下知しける。畏り入りたるとて、四五十人武具をもて、此処彼処と捜しける程に、盗賊、今はとても遁るゝ道ならずとや思ひけん、刀を抜いて切つて出づる。人々之を見て、曲者こそ此処にはあれ。寄合ひやつといひければ、多勢一所に集り、終には生捕にぞしたりけり。即ち之を引かせて、義興に見せければ、いしくも仕止むるものかなとて、頓て取つて伏せ栲問しければ、筑紫の軍に打洩らされ、上方指して落来り候へども、渇命なきに依つて、恥を顧みず盗賊を仕る由申す。日向守曰く、扨汝等が同類はいか程かある。二三百人も候はん。宿は
何処にあるぞ。此処ぞ彼処ぞと、委細に白状したりけり。義興大きに悦びて、軈て長慶へも此旨知らせて、此処彼処に押寄せ押寄せ、百二十人搦捕り、さて十日計過ぎて、公方へ此旨披露しければ、御感斜ならず。急いで木津川にて誅すべしとの上意なりければ、承つて引出し、悉く首切つて、獄門にぞ梟けられける。夫より洛中洛外、共に諸方の騒は鎮まりけり。
野田安兵衛敵討の事
丹州田辺備後守の家中に、野田安兵衛といふ士ありけり。彼は父弥三右衛門といひけるを、傍輩赤井新之丞といふものと口論して討たれけり。其頃は安兵衛行年十八
【 NDLJP:41】歳にて小姓なれば、主人の前に昼夜宮仕せり。之を新之丞恐れて、
何国ともなく落失せにけり。されば安兵衛、亡父の敵なれば、彼を討たん為、廿三の年、主君に暇を得て、都柳原の
辺に伯父のありけるを頼みて、是に罷在り、赤井が行方を聞きけるに、去年迄は江州にありけるが、当春は長沼下野守といふ人、大宮三条の辺にありけるが、此家にある由を告げけり。安兵衛形を怪しき者に窶して、明暮あたりに立休らひ見けれども、終に見る事なかりけり。神仏に様々の祈誓をかけて、願はくは亡父の敵を、一目見せてたび候へと、祈ること限なし。斯る所に三月十日、賀茂のやすらひとて神事なりしかば、洛中の男女上下袖を連ねて、見物に出づること斜ならず。安兵衛、さあらば斯る方へも、出づる事もありなんとて、怪しき様に窶れて、唯一人行き見れば、神事の筋は、寸尺もなく人立込みけり。此処彼処をば、いかにも心を静めて、見廻りけるに、爰に繁りたる森の木陰に、やんごとなき人の、侍十人計具して幕を引かせ、臂枕してありけるに、此傍に三十四五の男畏り居けるを見れば、赤井新之丞と見えたりけり。胸打騒ぎて嬉しく、すゞろに心浮立ちて、年久しく見ざりければ、自然人違もあるにやと思ひて、能々目を付けゝるに、彼新之丞には、弓手の耳に赤疣ありしかと思ひ出でて、立廻り見ければ、実にも違はず疣ありけり。扨は疑なしと勇みて、傍に立忍び、彼が帰らん道にて討つべし。此所は祭礼の汚ありと思ひて、彼処を離れず、日の暮れ行くをぞ相待ちける。兎角して日も夕陽に傾き給へば、神事も事過ぎぬ。見物の貴賤東西へ帰りければ、此人も立出でけり。十人計の侍共と、赤井は一所に打連れて、引下り行く程に、賀茂川の此方の岸の端に着きて、皆皆渡らんと拵ふる所を、よき時分と思ひて、二尺三寸ありける一物の、ものきれを以て開いて、言葉をかけて丁と打つ。
妻手の肩より、弓手の脇の下まで、水も溜らず切つて落しけり。斯る程に十人計の傍輩共、一同に抜連れて、狼藉者逃がさじと、真中に取籠めけり。安兵衛は之を見て、敵討なれば、逸り過ぎて
過すな。各に遺恨は候はず。即ち此刀を其方へ出し申す。搦捕つて奉行所へ出し給へ。あれにて意趣を述ぶべしと、いと騒がず申しければ、侍共
理に思ひて、主人にいかゞ仕らんと申しければ、あの者のいふ如くに、奉行所へ具して上るべしと申されければ、承つて五六人
【 NDLJP:42】が中に打連れて、検断所へ参りて、此由を申上ぐる。長高即ち出合ひ給ひて、亡父の
敵は如何なる仔細やらんと問ひ給へば、安兵衛申しけるは丹州備後守に、幼少より宮仕の者にて候。然る所に某父弥三右衛門と申しけるを、五六年以前に、傍輩赤井新之丞といふもの、聊の口論に依つて打果し申候。されば某、親の仇なれば、彼を討つて、亡父の追善に備へんと存じ、主君に暇を得て、此一両年尋ね廻る所に、今日賀茂にて見合ひ候に依つて、速に討果し申候。此年月の欝憤を散じ候へば、我身は惜しからじ。此上はいかやうにも仰付けられ候へと申しければ、長高聞き給ひて、言語道断、健気なる侍かな。誠に神妙なる手柄之に過ぎず候。さあらば国元へ、是より送り申候はんとて、侍二人に書状を加へて、丹州へぞ送られける。状に曰く、
御家中の野田安兵衛と申仁、亡父の敵、速に討被㆑申候。寔に神妙なる手柄、各被㆑致㆓感入㆒候。一廉忠賞あるべく候。其為め一札を加へ送り候、恐惶謹言。
三月十一日 楢市右衛門長高
田辺備後守殿
程なく丹州に着きしかば、備後守出合ひ、大きに喜びて、使者を一日馳走し給ひて、録共引かせて、即ち返事ありける。
不㆑寄㆑存候処に預㆓貴札㆒欣悦の至りに候。仍つて野田安兵衛亡親の敵仔細なく討留め候に依つて、此方迄送り被㆑下、一札相添へらるゝの段大慶に存候。追付け扶助せしむべく候。恐惶謹言。
三月十三日 田備後守光利
楢村市右衛門尉殿
藤岡平次郎女を方便り取る事
上京称念寺の辺に、藤岡平次郎といふものありけり。生国は予州の人にて、近き頃浪々して、京にありつきけり。されば妻女を求めむとて、今出川の重吉と申す者の娘を、兎角といひ寄りけるに、聊の節をいひて事破れ、其後藤岡が隣町へ契約して、一両日が中に迎ふといふ。平次郎憤りて、事の様を仔細に聞届けて、日頃伴ひける若【 NDLJP:43】者共を、六七人集めて仔細を語り、其期にならば、追落し取るべきと思ふなり。さもあらば彼の者共、尋常にあるまじければ、たとへば某当座に討果すとも、思切つて取らんずるの間、旁後見してたびなんやといへば、支度して相待ちける。既に其夜にもな諸共に討果すとも、此本意は遂げさすべしと、支度して相待ちける。既に其夜にもなりぬれば、若者共上下いみじく何れも着なして、三町計先へ出で待ち居けるに、案の如く娘女房達四五人、乳母若党など、清らかなるを四五人相添へて出来る。若者共、御迎に出で、待つこと久し。御入り候へと申しもあへず、女房を爰にて請取り参らするといふ儘に、背に確と負ひ取つて、劣らぬ者共五六人前後を囲みて、平次郎が家につと入りて、表の木戸を丁と打つ。供しける女房若党之を見て、何とやらん内の様怪しく思ひて、さて迎へさせ給ふ聟殿は、何処に坐しますやらんといへば、藤岡聞きて、誠は今宵呼迎ふる家にはあらで、某は右に度々申入れつる藤岡平次郎といふ者なり。聊の節を言立てゝ、舅の方に、己をたくらに世間へ流布せるが悪さに、方便つて此方へ入れつるなり。事の実否を糺すべきの間、其程此方に預りし由、帰りて人々に言聞かせよと申しければ、供の者共大に驚き、急ぎ戻りて斯くといふ。父母聞きて、いや〳〵斯る曲者は、下にて兎角いふとも、事の済むべきものとも覚えずとて、軈て検断所へ申上ぐる。猶脇両人仔細を聞き給ひて、平次郎を具して参るべき由、下知し給へば、町中寄合ひて、藤岡を連れて参る。汝は如何なる仕業ありて、女を盗み取るやらん。意趣を申すべしと宣へば、平次郎承つて、さればこそ此女、右より度々申入候て、父母請合申す所に、或者の讒言に依りて、某を散々悪口申散らすにより、実否を親共に知らせん為、暫く女を預り申す。別して仔細も候はずと申しければ、両人聞き給ひて、これは唯男の恥辱を顧みて、奪ひ取りけるものなり。よし〳〵右より兼約数度に及ぶ女ならば、汝に取らするなり。妻女にすべしと下知し給へば、藤岡本意を達して奪ひ済し、長く妻女と用ひける。
岩崎角弥が事
爰に濃州の住人に、岩崎角弥といふ若侍あり。主君は斎藤山城入道にて、多年
膝下【 NDLJP:44】を去らず宮仕しけるに、或は傍輩の嫉に依つて、入道に彼が上を讒言しければ、誠と思ひて、軈て出仕を止めさせける。角弥迷惑して、某、君に誤は何ならん。承らんと、人して申しけれども、兎角の返事もなし。角弥、所詮主君と縁こそ尽くらめ。
縁を尋ねて、摂政殿へ御奉公に参る。此者器量骨柄心ざま、他に越えて優しかりければ、君懇に召仕ひ給ふこと又
双なし。斯くして年を経る程に、
二年御所にありけり。山城入道は此事を聞きて、軈て使者を以て、殿下へ角弥をたぶべき由申上げられければ、摂政殿聞召して、呼返す程欲しきものを、何とて追出しけるやらん。叶ふまじきとの御返事なり。入道に斯くと申せば、重ねて是非とも申請くべき由、申越しけり。
千度百度いふとも、此者に於ては、出すまじき由仰出さるゝ。入道大に立腹して、其儀ならば討手を上すべしとて、山本伝左衛門・須田忠兵衛といふ大剛の者を二人、京にぞ上しける。さる程に角弥をぞ窺ひける。されども終に見当つる事はなかりしが、或時御節会の刻、摂政殿禁中へ渡らせ給ふ御供に参る。此時二人の者共、きつと見付けゝり。角弥も見合せて、互にあつと思ひけれども、殿下は長柄・力者・前駈・随身など、先を警固し、後は五位・六位など固めければ、行懸りたる人は、何れも屈まり通しけり。両人は力なく、其日は空しく帰りて、それより毎日窺ひける。さる程に角弥、一定彼等は、某討手に上りけるに疑なし。此旨を殿下へ申さずしてはいかがとて、或時御気色を見て、斯る由を申上ぐる。殿下聞召して、頓て奉行所へ、斯る曲者京都にあり。急ぎ穿鑿して、洛中を払ふべしと仰付けられければ、長高・貞親承つて、洛中を触れさせて、此者暫時も抱へる輩は、曲事に仰付けらるべき由聞えければ、二人の者共之を聞きて、是非なく東国に帰りて、入道に斯くと申しければ、何ともすべきやうなくして、其分にて白けゝる。
秀吉公高野御参詣の事
秀吉公或夜不思議の夢を御覧ありて、俄に高野参詣の事を思召立ち、既に日限を出させ給へば、諸奉行其用意急に物し給ひける。途中の
辻固は、其処々々の領主に仰付けられける間、道の高下を直し、狭き地は取広げ、橋なき所は橋を架け、道々の
【 NDLJP:45】御休所を作り亭を立て、秣藁屑など宿々に用意して待ち奉りける。
【秀吉高野山参詣】軈て太閤既に高野山に上らせ給へば、木食土人、予て御役の用意、様々珍物綺羅を尽して待受け給ふ。八谷の僧坊、麓まで御迎に出でて、御供仕りて上り給ふ。先づ大塔を始めて、彼方此方を御順礼坐しけり。扨奥院へ詣で給ひ、菩提心深く念じおはしましけり。其後灯籠堂・御廟の橋・大黒殿など、心静に御覧ありけり。寔に殊勝さ骨髄に撤して、無常の機
発るとぞ仰せられければ、上人承りて、これは骨堂にて候。
古普光院殿、此山へ詣でさせ給ひて、此堂へ、予も存命の中に納めんと宣ひて、笄を以て御歯を落し給ひ、此中へ納めさせ給ふとて、
高野山おろす嵐の烈しくて木のはは残れ後の世までも
と仰せられし事共、今の世に伝へて、名歌を遊ばされける由申待るなど、道すがら物語り申されける。其後木食上人にいらせ給ひて、谷々の院主を召され、愈万事に付きて、開山大師の制法、聊か相違なきやうに相勤むべき由仰出されける。斯くて一両日御滞留あるべき由聞ゆ。御
徒然なればとて、観世太夫を召連れられしかば、軈て御能を興行遊ばします時に、坊主各申されけるは、御慰に御能は然るべけれども、当山は開山大師の制法に、笛を戒められし間、如何あらんと申されける。太閤聞召し、こは不思議なる事を聞くものかな。様々の
調の中に、笛を誓ひ給へるは、如何にと仰せられける。坊主承つて、さん候、昨日御覧なされ候柳の少し彼方に、空刧以前より一つの大蛇住めり。然るに大師、彼を是に置きては、凡人の通ひ難かるべしと思召して、大蛇に向つて、我れ此山をば、仏法の霊地となさんと思ふなり。然れば汝是にありては、凡夫の恐あり。急ぎ何方へも、所を去るべしと仰せられければ、大龍申しけるは、我れ此山に住む事、星霜既に無量なり。何ぞ今我れ住所を去らんといひて、聊用ひず。大師さあらばとて、秘密を以て、龍の鱗へ毒虫を蒔き給へば、龍は五体を擲つて、痒きこと堪へ難し。さるに依つて大師へ降して曰く、此の虫の病を
止めてたび候へ。何地へなりとも去るべしと歎きしかば、大師、さほど苦しむに於ては、
止めて取らすべし。疾々去るべしと宣ひて、頓て虫を払ひ
退け給へば、龍は喜びて、夫よりも廿町計後の山元へ
立退きける。夫より此山成就して、斯様に繁昌仕候。
【 NDLJP:46】笛は即ち龍の吟ずる声をひやうしけるものなれば、此音を聞き候ては、己が友かと存候て、大龍動き候に依りて、戒めらるゝ由を申されける。秀吉公聞召して、よしよし笛なくとても苦しからじとて、軈て御能を始め給ふ。既に三番過ぎて、四番目に仰せられけるは、山の制法に任せ、三番は過ぎぬ。今度の能には、笛を大師に詫ぶべしと仰せられて、吹かせ給ふに、案の如く晴天俄に搔曇りけり。人々怪しと見る所に、五段の舞に移りければ、四方よりも黒雲立被ひて、雷八方より鳴渡り、
電光火煙の如く天地に満ちて、風雨頻に下つて枯木を吹折り、山谷動揺して、唯今世界を覆す如くに覚えて、東西も見えず、暗夜となりければ、僧俗共に十方に逃隠れ、人心地もなく、此処彼処に身を抱きて転び伏したり。秀吉公も御
帯刀押取り給ひて、風雨
嶮しき
暗紛れに、麓を指して落ちさせ給ふ。御伽の人々も諸臣も、何地へ何と駈行くやらん、
辺に一人もなかりけり。やう
〳〵道の案内に、坊主一人小姓衆一人にて、麓を指して急ぎ給ふ程に、山より廿町ばかり此方に、桜井といふ所に、賤家十家計あり。先づ暫く是に渡らせ給へとて、事の鎮まるを待ち給ひける。二時ばかりして、漸漸空も晴れ、雷も鳴止みければ、人々生きたる心地して、我身を我とは知り給へり。太閤仰せられけるは、さりとては大師の制法、難有くこそ覚ゆれと、愈信心深くぞ思召しにける。
【 NDLJP:47】
室町殿物語 巻四
佐々木貞頼へ御使者遣さるゝ事
さる程に義輝公、如何せましと、旦暮思慮を運らし給ふが、或時老若の臣等を集め給ひて、仰出されけるは、畿内は大方、義長が手に属する事なれば、容易く誅罰し難し。味方にも、
切て一ヶ国二ヶ国を領する程の武士を、柱として差向けずば、勝利を得る事あるべからず。されば近国にさばかりの大身なし。佐々木貞頼ありと雖、彼は故義晴公の時より、隔心のものなれば、今以て頼み難し。さればとて筑前〔
〈三好義長〉〕を
攻解して捨置かん事は、千里の野に虎を放すに似たるべし。汝等評議して、拵へて見よと仰出されければ、各承つて、杉刑部少輔を江州へぞ遣し給ふ。程なく貞頼が館に着きしかば、家老茨木丹後守出合ひて、奥へ請じける。斯くして刑部少輔申されけるは、内々江州にも、聞及び給はん、三好長慶入道、公方の権威を戴き、畿内逆徒等を属させて、公方へ逆心を含む。さるに依つて誅伐の為、両度まで人数を向けらるゝと雖、義長多勢なれば、其利を失ふ。近国に貞頼大身なれば、御味方に頼みたく思召されて、某を下さるゝ。此度の儀に候へば、領掌申され候はんか、いかゞとぞ申されける。丹後守承つて、畏り候へども、貞頼は此節以外に違例仕り、療治半に候。さり乍ら参りて、御上意の通を申聞け候はんとて奥へ入り、御使者の段をあらまし申す。貞頼聞届けて、此方より御返事申上候はんといふ。丹後守、刑部少輔に斯くと申せば、其儀ならば、御返事待ち参らするといひて、帰京し給ひける。其後貞頼評議して、四ヶ国を打従へ、弓箭日の出る義長をば引うけ、国を動し人数を損じたりとも、一戦二戦にて勝利は思ひも寄らず。たゞ所労に依つて、兎角の儀に能はざる由申すべしと評議して、中三日ありて、此返事をば申上ぐる。凡て貞頼入道に於ては、疎き大将なるに依り、人々の
蔑み給ひけるに聊も還はず、面目もなき所有とぞ。
【 NDLJP:48】
安見直政へ上使を遣さるゝ事
諸老評議し給ひけるは、抑畿内の国人等、公方に反き奉る濫觴を尋ぬるに、義長君の権を帯して、国人等を
蔑に侮り、万事に付けて、恣に我意を振舞ひしかば、何れも之を憤りて起しける逆心なり。公方の国人も、元来述懐はなき上、
此理を言聞かせて、未だ筑前に属せず、勝負を争ふ安見直政が方へ、仰付けられて御覧ずべし。同心仕るに於ては、京勢に彼等を加勢として、弓箭を遂げなば、其利争でかなからんと、各一同に申上げらるゝ。公方実にもと思召して、軈て仁木右京亮を下されける。先づ安見が館へ坐しまして、案内を乞はせ給へば、安見驚きて上下を着して、諸侍を段々に列座させ、迎に出でて請じ、さて座に着き給へば、安見、思設けぬ御尋に候ものかな。如何様の儀に依りて、只今御光臨坐しまし候やと申されければ、仁木は聞き給ひて扇取直し、御上意の旨、始終審に述べ給へば、安見謹んで承り、国人等何れも、公方様へさして遺恨は御座候はねども、筑前に疎み果てゝ、各命を捨て彼を亡さんと、累年国を乱し挙動仕候。さるに依つて義長は、公方様へは、万逆心のやう取成し申すに依つて、我々誅伐の仰を下さるゝ事尤と存候上は、今に至つて毫頭御座なく候。然る所に義長権威を帯し、武命を表に立つるに依つて運強く、年を追うて彼が為に大方亡失仕り、残るは降人になりて、一味致し候はん。されども直政、某未だ雌雄を決せず候。夫に付けて公方様へ逆意を立て、討手を蒙るの所に、其利を達し候はず、両度迄敗軍の段、驚き存ずる折節なり。斯る御上意を蒙る上は、直政等に相談仕りて、御味方を申べく候とぞ申されける。仁木聞き給ひて、御上意に候へば、直政にも某対面申候て、事の次第を聞かせ候はんと申されければ、さあらば是よりも案内をさせ申候はんとて、家老を同心させて、直政が館へぞおはしましける。直政大に驚き、暫く内所を整へて後、罷出で対面す。右京亮、上意の旨委細申聞かせ給へば、直政申しけるは、天晴此仰を、今少し以前に下されなば、父高政をば殺し候はじものを。某義長をは、父の
敵に引うけ候へば、人は
明日いかやうにもあれかし。拙者に於ては、命を限りに、義長と雌雄を決せんと存ずるなれば、兎角の思慮には及び候はず。殊に
【 NDLJP:49】安見御上意に帰服申さるゝ上は、諸共に命を擲つて、勝負を決すべく候とぞ申されける。仁木聞き給ひて、領掌の上は、某帰洛をいたして、公方へ御請の通を申上げ、誅伐の軍勢向けられ候はゞ、兼日各へ案内を申すべく候とて、直政が要害をぞ出で給ひける。
安見直政、与力方へ状を遣す事
安見が家老塩貝与三兵衛を呼びて、与力の方々へ、状を以て知らすべしと申されければ、承つて認めける。
態と令㆓啓上㆒候。仍て一昨日公方様より仁木右京亮を被㆑下候て、筑前が逆心に付、畿内の人々、武命を背き奉る意趣、彼是始終を互に申談じ候て、此上は京勢討手に下さるべし。畿内の輩加勢を仕候て、義長は不日に退治仕るべき由約諾致し、仁木帰洛申され候間、内々其心得尤に候。猶替儀御座候はゞ、重ねて申進ずべく候。
十月四日 安見入道信利
内藤主馬助殿
薬師寺与市殿
両人之を披見して大に喜び、軈て返札をぞせられける。
貴翰令㆓拝見㆒候。然れば珍らしき様子承候て、珍重に奉㆑存候。此上は武命を頂き一戦を遂げ候はんに、心強く相勤め候へば、勝利疑あるまじきかと大慶に奉㆑存候。尚直面の節を期し候。
十月四日 内主馬助
薬師寺与市
塩貝与三兵衛殿
直政与力の人々へ書状。
一昨日公方様より、仁木右京亮殿下され候て、筑前逆心の儀、畿内の人々武命を背き奉る意趣、彼是累年始終互に申談じ、其上を以て京勢を近日向けられ候はんまゝ、各加勢仕候て、義長一時に誅伐すべき由、堅く約諾仕候の条、内々其心得尤【 NDLJP:50】に候。委細は面談の時申述ぶべく候。
十月五日 直政
山中近江守殿
玉巣太郎殿
河口壱岐守殿
人々披見して大に喜び、軈て返翰書きにける。
貴札令㆓拝見㆒候。仍て珍重なる様子あらまし承候て、大慶浅からず候。命長らへ候て、一眼の亀の浮木と存候。委曲面上の時申上べく候。
十月五日 河口壱岐守
玉巣太郎
山中近江守
赤沢大和守殿
江口の要害夜討の事
斯くして仁木右京亮帰洛して、両人相違なく領掌仕候の由、委細に言上申しければ、君を始め奉りて、諸老感悦限りなし。さあらば勢を下さるべしとて、即ち仁木右京亮を大将として、洛外西の岡の勢を合せて、一千二百遣し給ふ。程なく安見が要害に着きしかば、予て用意申されて、菩提所の大寺ありけるに仁木を移しぬ。軍勢は近辺の郷里に入置きける。扨人々軍の評議しけるに、薬師寺・玉巣・内藤・川口・山中等申されけるは、先づ江口の要害へ夜討に寄せ、敵を草臥らかし候て、其後に筑前が中島へ押寄せ候べし。中島の軍には、何時も
一存後詰に出で候へば、此城を疲らして然るべく存ずる由を、一同に申されければ、安見直政此議に同ぜられける。安見代官には塩田与八郎、直政軍代には赤沢大和守、与力の人々には、内藤・川口・神保・玉巣・薬師寺・生田などを宗として、都合二千。仁木右京亮代官に、大脇金弥を大将として、三百余人附けられける。斯くて十月十三日夜半の過方に、江口の城へ押寄せ、
【 NDLJP:51】鬨をどつと上ぐる。
【安見直政十河一存を攻む】城中には、思ひも寄らざるにや、上を下と返す。されども櫓より松明数多出して、寄手の陣を暫く見渡しけり。内藤・主巣は搦手に向ひけるが、予て支度せし
結橋を、足軽共に架けさせて、即時に塀に取寄り、
𨦈を打懸け
〳〵、雲霞の如くに上りけり。城には大手搦手を強く防ぎて、脇々には、さのみ人数もなかりけり。塀を乗越え跳越え、城中へ飛入るを、突落し切落し防ぎけれども、いやが上に乗入りければ、終には破れにけり。塀十間計切つて落し、多勢心易くぞ入りにける。
一存之を見て、叶はじとや思ひけん、二の木戸強く固めて、弓鉄炮此所を先途と打たせにける。兎角時刻移りて、大手搦手より、多勢我れ先にと込入りければ、既に二の木戸も危くぞ見えにける。一存家老に、上崎玄蕃・小造大学助・嶺田善次郎五十余人、門を開きて切つて出で、寄せ来る敵をば、向ふざまに
引懸けて、散々に攻戦ふ。
追うつ返しつ、一時に勝負を決せんと、双方命を惜まず見えけるが、上崎・嶺田は彼に合ひ是に渡して、敵数多討取り、即ち
足下にて討死しける。手負死人算を乱して見えけるが、人疲れければ、一息休めんと、二の曲輪へさつと退いて見ければ、廿人には足らざりけり。寄手も痛手を負うて、引取るもの四十余人、城中よりも、二の木戸を打ちければ、力及ばず引取りけり。赤沢大和守、櫓に火を付け
退きければ、猛火盛に燃え上りて、東西南北白昼の如く赤くして、此光に馬の足を早めて帰陣したりけり。討取る首数百二十余とぞ記しける。軍の
首途よしと、仁木右京亮は悦限りなく、急ぎ京都へ飛札を以て老中へぞ。
去ぬる十月十三日の夜半に、安見阿州直政与力の人々都合六組を以て、江口城へ押寄せ、二の曲輪まで攻込み、散々に戦ひ候て、首三十余討取り申候。此内三つは家老共にて御座候。大手の櫓を焼落し申候。塀なども十四五間取破り、寄手粉骨の働、誠に浅からず候。先づ首途よく御座候へば、一左右記し候て上せ申候。追て吉事申上ぐべく候。
十月十五日 仁右京亮判
上野民部少輔殿
進士美作守殿
【 NDLJP:52】
義長京都へ横目を使ふ事附輝輝公御最期の事
永禄八年、三月上旬の頃、義長相伝の者に、林久太夫といふ、万事に賢しき男ありけり。彼を窃に呼びて、京都へ上り、御所中の様をば委しく窺ふべし。如何にも静ならん折節、此方へ告げ来れとて、旅料を沢山に取らせて上しけり。さる程に久太夫京都に着きて、七条なる朱雀の辺に、親しきものゝありければ、爰に宿を取りて、毎日御所中の様をぞ窺ひける。斯る程に昨日今日と打暮れて、五月上旬になりにける。時来れば五月雨続きて、御所中もいかにも静やかに、
徒然なる折柄なれば、様々の御遊興のみにて暮らさせ給ふ。斯る程に久太夫は、折こそよけれと思ひて、急ぎ中島に下りて、此由具に語りにける。長慶聞きて、音なせそ、一段能し。いかにも包みて、他言構へてすべからずといひて、其の後松永弾正・十河一存入道・三好修理大夫・岩成主税助等を、窃に呼びていひけるは、仁木右京亮諸方の敵を手に附け、今里の城へ打入りて、此入道を窺ふ上は、終には某、彼が為に討たれぬべし。さもあらば御辺達の命、あるべしとも覚えず。累年公方の為に命を捨て、各苦戦を尽して、其恩賞には却て死を給はらん事、誠に口惜しき次第之に過ぎず。さ候へば此節、御所中いかにも静まりて、何の障もなきと聞き候へば、夜討に押寄せ、一時に亡し参らせて、年頃の欝憤を散ぜんと思ふなり。各を始として、松永日向守・同主水正同主殿助、討手に上るべし。某は此城に残りて、跡を堅固に守るべし。各が居城にも、家老共を残して、城中にある勢をば、半分宛具して上り給へ。道のほど、西国大名の東国へ下る風情にいひなして、いかにも
〳〵忍びやかに上るべしとぞ申しける。各承つて、一同に上りなば、人も怪しみ、万民気遣ふ事もありぬべしとて、五十三十宛、次第々々に上りけり。伏見・木幡・淀・鳥羽・竹田・美須・御牧あたりに宿を取りて、暮れ懸りて、京へぞ入りにける。
【松永久秀等足利義輝を襲ふ】五月十九日の夜半計に押寄せけるが、予て評議しければ、窃に御所を緊々とぞ取巻きけり。先づ東の手は、三好修理大夫四百五十にて、三本木東洞院に本陣を立つる。南は烏丸春日面は松永弾正少弼久秀、室町は大門大手口十河一存、五百にて押寄する。西大路は三好笑岸斎三百五十、腹帯の地蔵堂を、後に当てゝ陣取りけり。北は室【 NDLJP:53】町・勘解由小路・烏丸・桜馬場、此は岩成主税助六百にて押寄せたり。御所中には旧臣武功の人々は、方々の宿所に帰りて、一人もなかりけり。外様の侍、さては小性衆同朋ばかりにて、何の用心もなく、静まり返つて見えけるに、四方よりも円をどつと上げにける。此声に御所中驚き、上も下も一同に起合へりけり。され共表の番所に在合ふ人々、櫓に上りて表を見けるに、松明を万灯の如くに立てゝ、堀際近く詰寄せ、我も我もと、堀に附かんと飛入りける。義輝公少しも騒ぎ給はず、夜討は何者なるぞ。定めて長慶入道にてあるらん。誰かある。敵のやうを見て帰れと仰せられければ、沼田上総介承つて、大手の門櫓に走せ上つて、大音上げていふやう、今宵の夜討は何者なるぞ。名乗れ聞かんと呼はりければ、十河一存進み出でて、三好長慶入道、年来の遺恨を散ぜん為に、罷向つて候ぞやとぞ申しける。沼田帰つて御前に参り、義長謀叛にて候。人数は斯の如くに見え申候。大手の門際へ、雲霞の如く詰寄せ候。人人出合ひて防ぎ給へといひ棄てゝ、己が寝所に入りて鎧を取出し、着る間こそ遅かりけり。甲の緒を締め、二人張の弓持ちて走り出づる。敵弥が上に詰寄せて、門を打破り、我れ先にと乱れ入り、畠山・一色・杉原・脇屋・大脇・加持・岡部などの小性方、さては同朋十五六人に過ぎざりけり。我も〳〵と鎧投げ懸け、甲を着るもあり、鉢巻をしけるもあり、思ひ〳〵に六具を締めて、東西南北へ切つて出で、寄せ来る敵を追つ捲つ攻戦ふ。斯る間に義輝公、重代の御着背長、鍬形打つたる五枚甲の緒を締めさせ給ひて、重籐の弓に、廿四さいたる箙を附けさせ給ひ、玄関に出で給ひ、差取り引詰め散々に射給へば、死生は知らず、毛よき武者七八人、矢を負うてぞ伏したりける。御所中の人数、上下二百計なりけるが、四方へ打廻り防ぎければ、何処に人ありとも見えざりけり。寄手新手を入替へ、息をも継がせず攻入りければ、御所方の人々、或は討死、或は痛手薄手を蒙りて、面々に自害し亡せにけり。公方御覧じて、常阿弥・円阿弥・一色などを召して、今ははや自害すべし。重代の宝物抔を取出して火を付けよ。さては母公・北の御方・若君などを、自害勧むべしと仰出されければ、各涙に咽んで、御返事も定かならず。されども敵四方より殿中へ乱れ入れば、如何に思ふとも甲斐あらじと、慶寿院に参りて斯くと申せば、予て心得たり。我身は年老いぬれば、【 NDLJP:54】命惜しからず。公方・北の方、思ひも寄らぬ死をし給はん事こそ悲しけれと、仰せられて、暫く御涙に咽び給ふ。其後西に向はせ給ひて、仏の御名を、稍暫く唱へさせ給ひて、守刀を御胸に突貫き、俯伏に伏させ給ふ。北の御方も、はや御用意し給ひけるにや、白き生絹を召換へさせ給ひて、常に願はせ給ふ釈迦牟尼仏を、懇に拝み給ひて、其後念仏十遍計唱へ給ひて、守刀を心元に押込み、南無とばかりを最期にて、俯伏に伏し給ひ、朝の露とぞ消え給ふ。哀といふも余りあり。御乳母之を見て、涼しくも見えさせ給ふものかな。我々も斯様に、御供申したく候へども、寝怯れ給ふ若君を見れば、目も昏れ心も消えて、黄泉の障となりやせんと、搔抱き奉りて、前後不覚に見えけるが、はや殿中に火懸りて、猛火盛なれば、力なく走り出で、東面の花園に駈入りて、岩井の中へ、若君抱きて入りにけり。無慙なりとも、中々申すも愚なりけり。小宰相・小侍従・にしむき・春日の局・うなゐの局・丹波の上臈・女房三十二人・中居婢に至るまで、八十ばかりの女房達、焰の中へ飛入りて、一人も残らず亡せにけり。斯くて時刻も移りければ、敵、方々の御殿に乱れ入りて、喚き叫びて、手に当る御宝ども、焰の中より奪ひ取つて出でにける。人々之を悪しと、差取り引詰め、さん〴〵に射る程に、矢庭に十四五人、伏し転びてぞ喚きける。さる程に義輝公、人々の、今ははや御自害と聞召し、さては心安しとて、御着背長を脱がせ給ひて、西に向はせ給ひ、御硯を寄せられ、御辞世をぞ遊ばしける。
抛㆑刀空㆓諸有㆒ 又何説㆓鋒鋩㆒ 要㆑知㆓転身路㆒ 火裏得㆓清涼㆒
【足利義輝自尽】筆を捨てゝ、御腹十文字に切り給ひて、永禄八年五月十九天の、朝の露と消えさせ給ふ。御果報の程こそ悲しけれ。君既に御自害おはしませば、日頃御情を蒙りし小性中、又は譜代の同朋中、思ひ〳〵に自害しけり。殿々に火付き、楼閣一時に燃え上りければ、洛中に隠れなく、上下京にありける旧臣、何れも驚き、手過と思ひて、素裸に道具も持たせず、四方より駈付けゝれども、義長が謀叛と聞きてければ、向ふべきやうもなく、御所の近辺には、馬人手負死人共引出して、此処彼処に、算を乱して見えにける。力なく各宿へぞ帰りにける。さる程に夜既に明けゝれば、在家に諸勢押込みて、米穀を奪ひ取り、馬人こそは助かりける。
【 NDLJP:55】
諸卿驚き給ふ事
明くれば廿日、夜前鬨の声、天地覆すやうに止むことなく、馬人馳せ違ひ、狼煙天を霞めければ、諸卿・殿上人大に驚き給ひて、北の方・若君などを面々に、東西南北へ、思ひ
〳〵に落し給ふ。
帝にも、さこそ驚き騒ぎ給はんとて、摂政殿を先として、各内へ詰め給ひて、四方の門を固めて、帝を守護し給ひける。
古木曽義仲、洛中へ乱れ入りて、法住寺殿を攻めけるも、かばかりにこそあらめと思合せ給ひて、安き心もなかりけり。斯る中にも、武士は悪逆無道にして、貪慾深きものなれば、乱暴の為に乱れ入り、狼藉もすべきかと、各汗を流して、門々を能く固めよ。若しも武士寄せ来らば、侍共防ぎ矢射よとぞ下知し給ひける。斯る所に栗毛の馬に、黄なる
総鞦懸けたる武士、三十人計具して門外に控へ、暫くありて叩かせければ、番の人々胸騒ぎて、如何なる者ぞと怪しく思ひ乍ら、誰人にて候と答へければ、馬より下りて。誰ぞ是へ出させ給へといふ程に、蔵人将監小門を開き、何事候と申されければ、さん候。公方義輝公へ、三好長慶入道深き恨候て、夜前押寄せ、御自害を遂げさせ給ふ。向後は何事にても
大内の御用等は、義長承るべく候。其為め御案内に馳せ参ずる由、摂政殿へ仰上げられ候て、給はり候へとぞ申しける。蔵人之を聞きて、安堵して申されけるは、仰の通り申上げ候はん。さて御身は何がし殿にて候。御名を聞きて、披露申さんと申されければ、さん候。某は三好修理大夫と申す者にて御座候とぞ答へける。将監聞き給ひて、重ねて御出候へとて、小門を押閉てゝ内へ入りければ、修理大夫は又馬に打乗つて帰りけり。之を聞召して、帝も雲客も色を直し給ひて、御気色も静まりけり。
【 NDLJP:56】
室町殿物語 巻五
鹿苑院殿へ討手を遣す事附平田和泉討たるゝ事
翌日暮方に孫六郎を窃に上して申すやうは、今ははや公方の
縁とて、後日に敵となり給ふべき人は、南都の門跡義昭公・北山鹿苑院殿両人なり。勿論御出家し給ふとはいひ乍ら、二人が中に一人還俗おはしまして、兎角と事を企み給はゞ、後世の煩疑なし。此勢に、北山殿を京へ賺し出し奉りて、窃に討ち奉るべし。扨義昭公は南都におはしませば、最もこれはむづかしゝ。昔より此所の衆徒は、弓箭を取つて台嶺と、弓手右手の法師原なれば、悪う手を見せては、事大事ならん。先づ京都の次第を聞き給はぬ内に、堅く番を附け置きて、何方へも取逃し奉らぬやうに、手遣をせらるべしとぞ申しける。扨北山殿の討手には、誰か然るべしと評議しけるに、
尋常の人は恐あり。平田和泉守に言付け給ひて然りなんと、各申されければ、実にも此人は、武略備はつて智深く、万事に心得たる仁なれば、越度あるべからずとぞ申しける。各一同して、さらばとて間近く呼びて、潜に事を言渡しければ、和泉守聞きて、沙門の御身なり。剃髪染衣にて渡らせ給ふ御境界を、劔にかけて失ひ参らせん事、其罪恐るゝに
足らず〔
〈本ノマヽ〉〕と、深く斟酌に見えけれ共、主命なれば力なく、若党五六人具して、北山殿へぞ参りける。未だ義輝公の御上を聞き給はずして、何心も坐しまさず。軈て御対面ありけり。和泉守申しけるは、君は未だ知食し候はずや。江州方よりも、昨日の暁、夜討を入れて君を討ち参らせ、御所中をば焼払ひぬ。御譜代相伝の人々も、残らず討死し給ふなり。さて承れば、君を討ち参らせんとて、討手の用意仕る由、或人の告げ知らせ給へば、片時も早く此所を遁れ給ひて、若州殿などを頼ませ給ひて、下らせおはしまして然るべし。道の程は、某甲斐々々しくも送り奉らん為に、是まで参りて候と、誠しやかに
偽り申す。鹿苑院聞召して、こは如何にしたる事ぞと、御涙堰きあへ給はず。和泉守見奉りて、片時も早く落ちさせ給へ。御供を仕らんと申せば、取
【 NDLJP:57】る物も取りあへさせ給はずして、亀介といふ小姓一人・同宿二人・下男一人にて
歩跣にならせ給ひ、急がせ給ふ程に、程なく京に入らせ給ひて、三条の
辺恵比須川の町に入ると、二尺五寸の打刀にて、跡より遥に
下りけるが、走り懸りて、情なくも一太刀にぞ討ち参らせける。御供に祗候しける亀介は、行年十六歳なりけるが、此由を見るよりも、こは如何にと驚きけるが、何条主君に差当る
敵なり。助くまじきものをといひもあへず、二尺の打物引抜いて、和泉守細首宙に打落しけり。主の敵を忽に取つたるかなと、見る人賞めぬはなかりけり。和泉が侍共、之を見て逃がさじと、三人一同に抜連れて、真中に取籠めんとしければ、傍なる家の壁に後を当てゝ、三人と切合ひけるが、一番に進みたる若侍走り懸つて、一打と打つ太刀、家の軒に切付け、えいというて引く間に、ほて腹のたゞ中を、彼方へ通れと突抜きければ、二言と継がず死にけり。其後二人と散々に打合ひ、疵数多負うて、即ち
足下にて亡せにけり。此亀介は、上京小川の住人に、美濃屋の小四郎入道して、常哲といふものゝ子なり。先祖より何がしの筋にて、歴々の者の子なるが、学文を望むに依て、鹿苑院殿へ預けしかば、互に志浅からざりしかば、後世までも御供申しける、手柄の程こそ難有けれ。洛中の貴賤上下、其頃賞めぬ人はなかりしが、恵比須川の辻に、翌朝斯く読みて立てにける。
たぎりたる和泉といへどみの亀がたゞ一口に飲干しぞする
さて南都の義昭公へは、何となく番の者共二十人計外様に附置き、先づ何方へも、逃し奉らぬやうに守りける。
恵林院義昭公南都を落ち給ふ事
さる程に長慶入道計略を運らしけるは、他家を迎に参らせたる分にては、推量し給ひて出で給ふまじ。所詮内証方の人を以て、
呼上し奉らんと思ひて、上野民部少輔と長岡兵部大輔藤孝両人を、尋出して申しけるは、数年の遺恨に依つて、公方を亡し奉る。今ははや義昭公一人残らせ給ふ。此人を助け置き奉りなば、誠に仏を作りて、眼を入れざるが如しといへるに等し。某が敵になり給はんこと疑なし。されば人数を遣して、一時に害し奉らんは、いと易くあるべけれども、さもあらば諸方の大
【 NDLJP:58】なる妨となるべし。然れば両人を頼み奉るの間、窃に御迎に参られ候て、京へ
偽り御供してたび候はゞ、是れ又大なる忠節と存候はんとぞ申しける。両人は之を聞き給ひて申されけるは、委細承り届け候。併し乍ら此君は、幼少よりも御出家おはしまして、学文も他に超え才智弘く、験徳いみじき高僧と、世に披露申候へば、争でか再び還俗おはし候べき。今ははや一家亡び給ひて、御連枝もなき境界とならせ給へば、御出家こそ幸なれ。一門の御跡を、他事なく弔ひおはしまし候はんまゝ、貴方の
怨とは、いかでなさせ給ふべきにて候へども、身に取つては、後世気遣はしく思召し候て、事の次に失ひ参らせんとの思慮にこそ候はめ。其上は力なし。参りて賺し奉り、頓て御供申すべしとて立たれける。それよりも両人は、
直に南都に下りて、義昭公に対面を仕り、御座近く差寄りて、窃に申しけるは、長慶入道は、君を失ひ奉らんと、討手を用意仕る由、内証より確に知らせ申す者の候へば、一足も早く、是より落ちさせ給ひて、江州矢島か又は若州武田殿を御頼み候て、暫く憂世の有様を、見合せおはしますべしと、頻に勧め奉れば、大に驚き給ひて、さあらば今宵、遠見の者共寝入りたらん折節、怪しき旅人の姿を学びて、足に任せ落つべしと、支度坐しまして、其夜の寅の一天に、御所をば忍び出で給ひ、道を変へて出行き給ふ、御心の中ぞ哀なる。知らぬ山路を彼方此方と打越え給ひて、辛うじて江州矢島にぞ着き給ひける。さて両人は、
【足利義昭近江に奔る】長慶が方へは、昨日の暮方に、御所を忍び落ち給ふ由を答へ給へば、いと本意なげにて、手延にして、取逃し奉るこそ安からねと、後より人を遣し、方々を尋ねさせけれども、御行方のなかりければ、力なくして、如何せましと案じ暮らしける。
大森伝七郎切死の事
西岡東村に、公方数代の家の子に、大森伝七郎といふ士あり。御所既に御滅亡の後、懸るべき所なくて、此年月抱へ置き、懇を加へけるもの、西岡にありければ、彼が許に暫くと思ひて、隠れ住しけり。然るを今度求め出して、長慶方へ知らせければ、薄武左衛門・磯上甚六郎両人に、上下十人
健なる足軽を差添へて、討手を向けられける。武左衛門・甚六郎行向つて、是に大森殿おはしける由承つて、迎に両人参り候。疾々
【 NDLJP:59】御出で候へと申しければ、大森目早き男なれば、聞くより早く覚悟を据ゑて、立向ひて申されけるは、某を
何処へ召され候ぞといへば、三好長慶尋ね申され候。はやはや出でさせ給へといふ。伝七郎聞きて、某入道へ参りて、何の用も候はず、又いふべき事もなければ、参るまじきにて候といふ。両人聞きて、其方にこそ、さ思召し候はめ。筑前守は尋ね申す事これある由。然らばいざ参らんといふまゝに、二尺三寸の打物を引抜いて、武左衛門がしやくびを押懸けて、弓手の肩先まで切つて離す。甚六郎これを見て、やるまじといひもあへず、抜打に丁と打ちければ、二階の
竹垂木に蓑笠を下げて置きけるに切付けて、あつと思ひ、太刀を引く間に、伝七郎隙さず、高股をずんと切つて落しける。乾を枕に伏しければ、続く郎従等之を見て、逃がさじと切つて懸れども、葛屋の儚さは、天井近くて切損じ、寄る程の奴原、討たれて入替る程に、六人同じ枕に伏したりける。伝七郎今ははや罪作りに、己等を殺しても何かせんとて、出居へと走り上つて、腹十文字に切つて亡せにけり。見る人聞く者、天晴斯る剛強の兵を殺しけるものかな。一人当千とは、之をこそいふべきにと、惜まぬ人はなかりけり。長慶も大に驚き、横手を打つて、暫く物もいはざりけり。
亀松三十郎退く事
同じ村に亀松三十郎、暫く隠れてありけるが、伝七郎自害のやうを聞きて、熟々思ひけるは、所詮片時も是にありて、事を好みて何かせん。濃州に近き親類のありければ、尋ね下りて、如何ならん人をも頼みて、ありつかばやと思ひ、主に暇を乞うて出でければ、亭主哀に思ひて、旅銭三百文合力しければ、此程情の上に、志誠に忘れ難し。何地にもあり付きなば、一廉恩謝すべしとて出でられけり。
義輝公の御追善の事
昨日今日とは思へども、移り易きは光陰にて、光源院義輝公の一周忌にもなりぬれば、武田殿には、山河の殺生を七日が間禁断し、数の御僧達を請じさせ給ひて、一日一夜御経をかゝせ、義輝公並に姫君、出離生死頓証菩提と、回向おはしけるこそ哀
【 NDLJP:60】なれ。等持院には、僧綱数多寄り給ひて、七日が間、様々の御弔ありけり。鹿苑院殿にも、
式の如く営み給ふ。重恩深かりし譜代相伝の
縁共、我も
〳〵と詣でて、香花を備へて回向し奉り、兎にも角にも、尽きぬは涙にぞありける。
仁木右京亮今里城逃るゝ事
長慶入道、家来共を呼びて申されけるは、仁木右京亮は、武命に依つて、当国へ打越え国人等を語らひ、義長を亡さんとの結構ぞかし。然るに公方亡せ給へば、何を楯にして今迄はあるらん。急ぎ勢を差遣し、腹切らせて、城を検めよと下知し給へば、修理大表示りて聴て入数を催しける由、右京亮へ聞えければ、
熟事の思慮を運らされけるに、某一日も此城にありけるは、義昭公、承れば江州に坐しまして、帰洛の催これある由、
仄聞きければ、若し左様の
手遣もあらば、安見直政を味方とし、当城へも入れ奉らんと思ひけるに依りて、今日迄は延引をせしぞかし。所詮事起らぬ以前に、城を潜に
退かんには如くべからずと案を定めて、十月十七日の夜をこめて、今里の城を忍出で給ひでけり。斯くして京着し、宿所に入りて見給へば、五十計なる男、たゞ一人居たり。右京亮、妻子の行方尋ねさせ給へば、さん候。北の方公達、近き頃迄坐しましゝかども、公儀の
検に依りて、都の内には忍び難しとて、乳母の在所へ忍び下り給ふと承る由申しける。仁木聞き給ひて、さては木幡にあるらんと思ひて、それよりも尋ね下り給ひて、彼方此方と問ひ給ふ程に、とある傍にて乳母に行合ひぬ。喜びて家に入り、会はせ給ひて、爰に五六日おはして江州へ下り、義昭公に対面申して、事の様を互に談じ、此年月の事共語り合せ給ふ程に、山とも積みぬべし。斯くして此処にありける相伝の旧臣等、聞けば方々よりも集り、帰洛の計略評議、さまざまし給ひける。
右京亮与力の者共城を退く事
斯くて今里の要害にありける与力の侍共、仁木忍びて落失せ給へば、大に驚き、直政安見方へ斯くと告ぐる。両将聞きて、其儀ならば、各罷退き候べき由下知しければ、
【 NDLJP:61】人々翌日城を罷りて出でにけり。仁木に附随ふ諸勢共、今は頼むべき主なしとて、悉く出でければ、軈て長慶方へ此由をぞ告げにける。最も斯うこそあるべけれ。其儀ならば、岩成に預くるなり。急ぎ入りて、万事を検め給へ。
追付見合せて、普請を急ぎ給へとぞ申しける。主税助承つて、今里の要害へ移りにける。義長内々思ひけるは、今は安見直政を敵に受くる計なり。其外の者共は、人数三四百を、たけ一杯の奴原なれば、さして某、事とも思はず、味方に属せし人々に言付けても、何の造作もあるべからずとぞ思はれける。
安見直政相談の事
安見阿州方へ、直政打越えていひけるは、さても公方の御運尽きさせ給ひて、やみやみと亡び給へば、人間の盛衰誠に顕はれぬ。今義長が、天下の支度する身となる事も、宿世の契ある故ならん。之を思ふに、我々累年意地を張つて、長慶に従はず、今日迄罷過ぐるの所に、今ははや仁木まで落行き給へば、あたら要害を、手も湿らさず、長慶が取る事に候へば、たゞ果報の取附く時分は、招かずとも、窪き方へ水の寄る如くに候とぞ存ずるなり。斯くのみありて貴方我々、たとへば項王の勢を振ふとも、勝利を得んこと、百に一つもあるべからず。さればとて今更長慶に降参せんことも、大きなる弓箭の恥辱なるべし。所詮を案ずるに、後先を顧みず、思切つて中島へ押寄せ、何ヶ度も戦ひ、運尽さなば自害して、憂目の苦み免るゝか、さらずば髻を放ち衣を着して、遁世に罷出づるか、何れ二つの境を出でまじと、思ひ定めて候が、貴方は如何思召し候やらんと申されける。河州聞きて、仰の通り至極せり。某が所存も、御思案同前なり。さり乍ら一つの心当あり。公方の御舎弟義昭公、帰洛の望ましますに依り、東国方の大名を語らひ給ふと承る。但長慶入道、一番に亡さんは必定なり。若し上洛ありと聞きなば、義昭公へ御礼を申上げ、貴方我等御先を給はりて、手強き軍を長慶と仕り、数年の欝懐を散ぜん期を頼み候なり。末を案ずる良将は、命をたばふと申す。死しては何かの詮なし。必らず短慮は、愚案の業に候へば、たとへば明日中島へ寄するとも、又は義長此方へ取懸け候とも、如何にも智略を運らし、味方を設
【 NDLJP:62】けて合戦を遂ぐべし。死するも生ずるも、時節の定まる時なり。能々御思案あるべしとぞ申されける。
堤に付きて喧嘩の事
五月三日、此中打続きて五月雨晴間もなく、朝幕降続くれば、賀茂川・貴布禰川一つになりて、万里小路へ一文字に押懸け、東西の町へ水嵩増りて、洪水込入りければ、洛中河原となりにけり。是に依つて訴訟しければ、検断人伊沢新右衛門同心に、岡部忠兵衛奉行として罷出で、町中へ普請を宛つる。間もなく宛てにける。されば残らず出でて、土俵を築立て井関を組み、雲霞の如く南北に馳せ群がつて相働く所に、爰に齢四十計なる男の、精尽きければ、堤の下なる柳の陰に、暫く東を見渡して伏し居たり。岡部忠兵衛折節廻り来つて、突きたる杖にて、背中を
健に突き、これなる男、彼程我人隙なく相働き、休む間もなき普請に、伏せり居るこそ物臭き曲者なれ。とうとう立上れと睨まへければ、此者申しけるは、今朝より人一倍の働いたし候へば、精尽き候に依つて、休みて汗を入れ候所に、泥杖を以て突かるゝこそ、曲者なれといひければ、岡部、何条汝狼藉をいふものかなとて、重ねて打ちければ、二打目に此の男突入りて、腰に差したる一尺五六寸の打刀を抜取り、弓手の脇腹を、彼方へ通れと刺しければ、二言といはず死にゝけり。此刀を取直し、大肌抜いで土俵の上に腰掛けて、腹十文字に切つて亡せにけり。伊沢へ此由を告げければ、軈て松永へ斯くと申す。日本一の不覚者かな。凡て物頭なればとて、下を侮るもの、必らず斯る怪我をすること、度々ある習なり。一宇の亭主とあるもの、今度は自身に致すに依り、雇人日傭なども、格別なる運尽きて、犬死をしけるものかなとて、散々に立腹して、新右衛門を呼びて、重ねてもある事なれば、同心共能々言付け給へ。彼等が恥は、松永が恥なりとて怒られける。
駒形甚九郎功の事
摂津の住人に駒形甚九郎光親、或時若侍十人計、勢子共数多追立て、鷹野に出でて、【 NDLJP:63】終日遊び暮しける所に、十河一存が嫡子十河孫六郎修理大夫が次男七郎兵衛、上下五十人計にて、勝尾寺より帰りけるに、道にて草深き傍を通りければ、駒形が鷹犬、草の原を嗅ぎ廻りけるに、此犬、人々をきつと見て、見知らぬ者にや、大に吠え懸つて、飛び付き喰ひ付かんとしければ、一存が小性、太刀早なる手利にて、打刀引抜いて、犬の細首を、ずんと切つてぞ伏せたりける。其間半町計ありて、犬引見付けて大に驚き、駒形に斯くと告げたりける。これは如何なる狼藉をしけるぞや。畜生を斯様に切つて棄つる、嗚呼の奴めを遁すべきかとて、たゞ一人追懸け、三町計走りて追付き見ければ、人五六十連れたり。其中へ押入りて、只今鷹犬を殺し給ひける人は、何れにて候といふ。侍共聞きて、いざ知らずと申す。駒形曰く、犬は畜生の事に候へば、死しても苦しからず。若し咬まれ給ひて、痛み給ふかと存じ、此迄参り候といへば、切りたる小性、さてはと思ひ、某と主人へ咬み懸り候に依り、たゞ一打にして候なり。必らず彼のやうなる癖の悪き犬は、飼ふが辟事にて候と、厳しくいひければ、さては彼奴にこそと思うて、己も共に畜生道へ行けといふまゝに細首宙にぞ落しける。十河を始めて、大に騒ぎけるが、傍にありける若侍、逃すまじといひもあへず、打物抜いて向ふ所を、右の腕を切つて落す。其後多勢に打向ひて、切つて廻るに、間近く寄るものなかりける。斯くする中に、駒形が侍勢子の者共三十人計、抜連れて切つて懸れば、勢子共数多切られけり。叶はじとや思ひけん、五十余りの侍共、主を捨てゝぞ逃げたりける。遅れたる奴原七八人切られにけり。後に隣郷へ聞えて、駒形が手柄、修理の孫六郡後を取りけるとて、暫く世間へ出でざりけり。
【 NDLJP:64】
室町殿物語 巻六
義昭公御評議の事
さる程に恵林院義昭公は、矢島におはしまして、御帰洛の事を、旦暮思慮運らさると雖、終に事行かず。或時旧臣を召して宣ひけるは。我れ旦暮帰洛の思に忘ずること、全く身の出世を望むにあらず。遠くは累祖の
敵、近くは嫡男の敵なれば、義長が首を刎ね、亡魂の憤を休めて、追善に備へばやと思ふより外他事なし。さるに依つて年来、武功ある大将を語らはんとするに、あるは甲斐なし、なきは大身にて、身命を捨てゝ味方をせんと、存ずるものなし。大膳大夫も此事を歎き、様々工夫おはしけると雖、案じ出せる説もなし。如何して好からんと、御涙ぐみ給へば、人々も共に涙にぞ咽びける。一色・畠山大膳申されけるは、兎角と申すに、領掌申さずとも、一往は仰せられ候て、何れの胸中も御覧じて然るべく候はんとぞ申されける。さあらば頼みて見んとて、評議一同して、先づ佐々木貞頼方へ、此事を仰せられければ、貞頼申されけるは、御味方の御請を仕り度は候へども、既に義長は五畿内をば切治め、天下の支配をする程の勢に
取上り候へば、某一分にて領掌仕り、容易く彼を退治して、再び御家を相続させ奉らんと存ずる儀は候はず候。若し大身の大将領掌いたして、其上に加勢など仕れとある儀に候はゞ、何時なりとも上意に応じて、相働き申候はんとぞ返事をせられける。さあらば朝倉義景を頼みて見んとて、仰遣はされけれども、これも御請申さず。此上は誰かあるべきとある所に、各申されけるは、尾州の住人に織田上総介信長は、当時弓矢を取つて、其勢他に異なり。此仁に仰せられ候て、相違仕候はゞ、それよりも今川・北条家、時に当つて弓箭に誉ある武田晴信、歴々の将数多候へば、御心長く頼みて御覧あるべき由を、一同に申されければ、さらば打越えて見んとて、
【足利義昭織田信長に頼る】矢島を窃に立ち給ひて、尾州へぞ御下向ありける。
【 NDLJP:65】
信長御請の事
程なう着かせ給ひて、軈て案内を申させ給へば、上総介大に驚き、衣裳を更め、客殿を俄に磨かせ、御迎に出でて請じ奉る。其後存じ寄らぬ御光臨驚入り存候。予て承り候はゞ、御儲をば申付け候はんに、興もなき首尾に候ものかなと、謹んで申されければ、義昭公仰せられけるは、内々も聞及び給ふらん。さても義長逆心の事、とかういふに及ばず。夫に付きて予如何にもして帰京し、先祖の
敵なれば、筑前を討つて、亡祖の欝憤を休めばやと思ふに、語らふべき人なし。然る所に上総介は、当時弓箭を以て、其威都鄙に隠れなし。されば予が本望に応じ、帰洛させ給はゞ、此世ならず大慶に思ふべき由仰せられたり。信長畏つて承り給ひ、内々も此事如何と存ずる折節、斯様に遥々と御歩行の上は、いかでか否み奉るべき。甲斐々々しくは候はねども、
弓箭の面目に候へば、御供を仕り、帰洛を遂げさせ奉るべく候。御心安く思召され候へと、寔に好もしく領掌申されければ、義昭公斜ならず感悦おはしましけり。斯くて爰に御逗留の間、様々饗応し給ふこと限なし。
義昭公帰洛の事
さる程に信長勢揃して、武具馬具いかにも綺羅を磨かせ、都合五千余の軍勢を率して、
【足利義昭入洛】義昭公を御供申して、上洛おはしけり。途中の国人等大に驚き、寄宿の事など申付けて、何の妨もなく、都へぞ入らせ給ひにける。
筑前守評議の事
さる程に長慶入道、諸家老を集めていひけるは、年頃入道がいひつる事、今こそ思当るなり。義昭公は織田信長を語らひ、既に帰洛近しと聞く。さもあらば信長、当家を退治せんとの催なるべし。此君を都に置きて、多勢を是へ引請けては一大事ならん。所詮京都へ討つて上り、信長と雌雄を決せんと思ふなり。急ぎ出陣の用意すべし。方々の城は家老共を残し、大方は上洛すべきなり。兵粮武具を上すべし。役舟
【 NDLJP:66】の外なりとも、此の節一切他の為に出すべからず。夜は篝を焚かせて、何時なりとも、急用を達するやうに言付けよ。又陸は、牛馬旅人の荷物など通すべからず。さもあらば軍勢の妨なるぞかし。片時も早く義勢の着到を付くべしと、事急にぞ催しける。都にては、本国寺を本陣に相定めしかば、竹村甚六郎・萩原伝左衛門を奉行に上して、本国寺在陣の間の用意を下知しければ、僧等驚き、あら浅ましや、只今当寺修羅の巷となりなん。如何に憂目を見んこそ悲しけれと、本尊仏具など、其外資財雑具、東西南北へ、緑類緑の方を尋ねて持て運び、僧等も方々へ逃隠れにけり。是に依つて本家の者共、上を下へぞ返して、思ひ
〳〵に落行きけり。
本国寺にて義長一戦の事
さる程に織田信長京着し給へば、四条本能寺に入らせ給ふ。諸勢は町中に押込み、暫く馬人の息をぞ休めける。長慶が諸勢は、六条より九条城南寺・鳥羽吉祥寺迄陣取りける。
【織田信長三好義長を攻む】斯くて信長、軍の評議相定めて、寺の表三方よりも押寄せ、
鯨波を三度ぞ上げにける。義長が方にも鬨を合せて、互に鉄炮軍を進めける。手負死人双方に出でたれば、二陣入変り、喚き叫んで戦ふ。馬人の馳違ふ其声は、百千の雷、鳴渡るに異ならず。信長の方には柴田修理亮・森右近・佐々内蔵介、乗廻し諸勢を下知して、一足も退かず攻戦ふ。三好が方より日向守義興笑岸斎・岩成主税助・十河一存など、東西へ馳違ひて、爰を先途と、汗水に浸りて戦ひける。斯くては雌雄決し難く見ゆる所に、本国寺の東表なる民屋に放火しければ、俄に風出でて、寺の上へ焔真黒になりて、頻に吹付けゝり。是れ只事にあらず、長慶入道悪逆無道にして、仁政を背きし其天罰にて、神明仏陀の加護に離れたる、其
徴とぞ見えにける。三好が勢共之を見て、斯くては耐るべきやうあらざれば、東の手よりも敗軍して、伏見・竹田・鳥羽を下りに落ちて行き、信長勢は引付きて
追懸くる。返し合せて討死するもあり、此処彼処の
深に馬を乗入れて、其儘自害するもありけり。是を見て諸方の陣崩れければ、義長を始めて、
【三好義長敗走】猛火を遁れん為にや、栗毛の馬に打乗つて、西を指して落行きけり。諸手の大将共、
首を伏せて五騎三騎づつ、親は子を知らず、子は親を見継がず、駒に鞭を進めて
【 NDLJP:67】落ちにけり。哀なりし有様なり。
義昭公参内の事
斯くて信長大利を得給ひて、昨日討取る首共、六条河原に獄門に梟け並べ給ふ。さる程に義昭公、御感は申すばかりもなく、上総介に対面ありて、大慶之に何か過ぐべき。二世の欝懐を遂ぐる事こそ祝着なれと、御礼厚うおはしましけり。其後公方、帝へ参内おはしければ、扨も義長が逆心に依り、京都の騒、武将を一時に亡し奉る。悪逆とかう申すに及ばず。是のみ歎かはしく、宸襟を悩ましく思召されしに、義昭帰路の次第こそ、誠に珍重には思召せとて、叡感は限なし。雲客卿相も御悦ありて、其後御前を立ち給ふ
帰さに、摂政殿へ入らせ給へば、軈て御対面まし
〳〵て、過にし事共仰出されて、装束の袖をぞ絞らせ給ふ。さり乍ら信長戦功に依りて、大敵の長慶をば、一戦の中に打散らすこと、誠に名誉之に過ぎずと、大に悦喜し給ひける。義昭公も、草の陰なる光源院追善の為と存じて、此年月幾干の苦労を仕りて、先づ本懐を達しけるとこそ存候へ。此上は愈信長を頼み入りて、筑前が首を見る計に候とぞ宣ひける。斯く様々の御物語共坐しまして、夜に入りて摂政殿をぞ出でさせ給ひける。
信長摂政殿へ参り給ふ事
関白殿下へ織田上総介参らせ給へば、頓て御対面あつて、誠に諸国弓矢取多しと雖、中にも信長は、公方家を取立て、帰洛させ参らせ、其上大敵の筑前守を、一戦の中に京都を追払ひ、若干の郎従人数を討取らるゝ事、殆ど武功の長じたる所なり。愈力を添へ、公方家を前世に帰らせ候へとぞ宣ひにける。上総介承つて申されけるは、全く私の勇力に候はず、公方様御運強く、義長が天運離れたる所と存ずる由を申させ給ふ。殿下聞召して、猶も奥深く頼もしくぞ思召されける。
洛中より公方へ御礼に預る事
斯くて織田信長御暇申して、尾州に帰陣し給ひける。今度戦功の人々に、忠賞行は
【 NDLJP:68】れけるとぞ沙汰しけり。さる程に上下京の町中、二度公方家の相続こそ珍重なれとて、夫々御礼を申上げ奉りて、千秋万歳を申上ぐれば、珍らかに思召して、御感に預り帰りける。さて洛外の郷村よりも、重代の主君なれとて、我も
〳〵と御礼に上りけり。東西南北の諸寺諸社の神官、碩学広才の活僧を始め奉りて、諸宗の僧綱、各御礼に洩れたる人はなかりけり。
義長塩津入道を攻むる事
さる程に摂州塩津の何がし、人質を出して、去年和睦しけるが、今度筑前守京都にて一戦に打負けしよりも、属せし人々相談して、心変をせしかば、塩津の入道も中違はと思へ共、母親を人質に出しければ、何とも
黙し難くて、如何にもして盗み出さん事を案じ廻らしけるが、人質の奉行を語らひて、盗み出さんと思ひ、より
〳〵に禄物与へて心を取り、今はと思ふ折節、此事をいひければ、弥三兵衛景定、凡て案深きものなれば、倩事の始終を案ずるに、人々の
積に違ふまじく、聞けば相伝の者も、何とやらん危く、心を止めぬやうに、何れも思ふ為体なれば、況して某、当家に長くあるべきとも思はず、所詮此の人質をば逃がして、我身も共に行方なく失せばやと思ひ、或時塩津に言含めて迎を来させ、難なく母を盗ませ、我身も
直に失せにけり。義長大に驚き、四方八方へ討手を遣し尋ねけれども、跡消してなかりけり。さらば人質出しける者の、見懲しの為に、塩津入道を搦めて、嬲殺にすべきとて、岩成主計に八百余人差遣し、塩津が要害を攻めにけり。入道思ひ設けし事なれば、四百余人思切つてさんざんに戦へば、手負共若干出来て引返す。筑前守安からぬ事かなとて、松永右平次に一千二百人差添へて、重ねて攻めにける。押寄せさん
〴〵に戦ふ所に、薬師寺・生田源三郎之を聞きて、八百余にて後詰に出で、半時計戦ひけるが、城内より、塩津が嫡子二百五十騎にて、木戸を開き切つて出で、前後よりも揉立てければ、右平次散々に打なされ、空しく陣をぞ引きにける。長慶大に驚き、呆れ果て居たりけるが、愈腹を居ゑかねて、今度は三好修理大夫をぞ向けられける。一千五百を引出でて、稲麻竹葦の如く打囲み、一刻に攻め落さんと、昼夜の隙なく攻めたりけり。入道は予
【 NDLJP:69】てより、人々手合せしければ、安見が方より、山中遠江守を与力に差添へて、都合二千騎、後詰にこそ遣しけり。修理大夫備を立直して、散々に戦ふと雖、これも前後より揉付けられて、大勢討たせて引返しける。筑前守聞きて暫く物もいはず、是れ只事にはなし。当家の運傾きて、滅却すべき基ならん。よし
〳〵暫く差置くべし。長慶が向つて、一時に勝利を見すべしとて、
攻解してぞ置きにける。
諸大名より御礼に使者上る事
さる程に義昭公、上総介信長の勇力に依つて御帰洛なされ、三好筑前守を、京都に於て一戦に追払ひ給ふ。斯る間義長は、漸々と国許へ取籠る由、東西の国々へ、其聞え隠れなかりければ、諸国の大名小名、誠に珍重にこそ思はれける。斯くて帝には公卿僉議ありて、義昭公不思議に帰洛仕られ、其上悪逆無道の義長を、京都をば追払ひ、大功を立てらるゝ事、尤も上総介武威に拠るとはいひ乍ら、彼是朝家泰平の始とこそ存じ候へ。急ぎ前代の例を引かれて、武将の家督に備へさせ給ふべき由、僉議既に事終りて、頓て宣旨を下されける。されば方々より之を聞伝へて、先づ御礼に使者をぞ上されける。中国にては毛利輝元・大友義鎮・秋月種実島津肥後守・千寿丸など迄、御祝儀を申上げらる。四国には土佐一条殿、予州には四園寺殿、中州武田信玄入道、北条氏政、今川氏実、越後の長尾輝虎、何れも進上大方同じ。
進上
御太刀 附康吉 一腰
御馬 附栗毛 一疋
已上
月 日 長尾謙信入道輝虎
上野民部少輔殿
浅井備前守長政は、何れも進上大方等しく、勢州国司の進上は、呉服ありけるなり。
織田上総介へ使札の事
【 NDLJP:70】
義昭公京都に移らせ給ひて、武将の家督に備はらせ給ふとは申せども、尊氏公よりも、代々積置き給ひし和漢の珍器武具の類、三好長慶が為に、一時に炎滅せしかば、万事に付けて調はざる事いふ計なし。御領分は僅なり。其処々々の奉行役人抱へ給ふ。人は日々に重なり、御道具は乏しく、斯くてある甲斐もなき身の上かなと、万に思ひ乱れさせ給ひける。或る時旧臣等を集め給ひて、御談合の事ありて、信長へ使札を遣さる。これは万の道具に付きて、少しづつ合力あるべき由を、条数を上げて、杉原をば御使者にて、尾州へぞ下させ給ふ。軈て之を差上ぐる。上総介は委細に見給ひて、是より御返事申すべきにて候とて、対面に能はず、御使者をば返されける。其後数月を待ち給へども、遂に御返事もなくて過ぎにけり。如何なる所存を挟むにやと、都にも怪しくのみぞ思しにける。
和州四手井御普請の事
さる程に四手井大和守は、長慶と和談し、向後入魂あるべき由、互に契約固くせしかども、義昭公都に移らせ給ひて、京都の合戦に、筑前守打負けしかば、近辺の弓取、又は和睦せし輩、義長を疎み、いつとなく引退きにけり。されば四手井も倩案ずるに、長慶京都を打洩らされしより、数度の戦をせしかども、一度も其利を遂げず。敵に向へば鋒先曲る事、是れ既に武運傾き、軈て亡ぶべき瑞相なり。斯る者に悪しく組しては、後むづかしかるべし。所詮今日よりは参会を止めて、公方へ近付き奉りなばやと思ひて、或時、飛脚を以て、京都へ御使者をぞ参らせける。
謹而致㆓言上㆒候。先以て公方様御無為に被㆑成㆓御座㆒候哉。定めて相替る儀有間敷と奉㆑存候。拙者事も仲春より今に至つて、所労に付きて聢と御座なく候故、乍㆑存無音の至本意に背き奉㆑存候。将又些少に候と雖、白糸一丸進㆓上之㆒仕候。御見廻の印計に候。此等の趣然るべき様に御披露奉㆑仰候。恐惶謹言。
五月十三日 四井手大和守氏重
畠山九郎左衛門殿
大館雅楽頭殿
【 NDLJP:71】公方御返書。
被㆑寄㆑存御見舞の為め白糸一丸進上せらるゝの段。御祝着不㆑浅被㆓思召㆒候。其に就て永々所労の由笑止に被㆓思召㆒候。随分医療専一に候 猶後音の時を期し候。
五月十五日 大館真則
四手井大和守殿
丹州并風・赤井使札の事
丹波の住人に
并風下野守・赤井入道見舞の為め、公方へ使者を上すことの次を以て御気色を窺ひ、訴訟など仕るべき事共あり。
謹んで言上いたし候。抑上様御無事に御座なされ候や。定めて相易る儀御座有間敷と推察仕候。御珍らしからず候へ共、鹿皮三十枚進上候。上聞に達せられ候はゞ、欣悦浅からず可㆑奉㆑存候。何れも頓て罷上り、御見舞申上べく候。
七月五日 并風下野守在判
大館雅楽頭殿
畠山九郎左衛門殿
赤井入道も、右同前なれば之を略す。
芸州より年始の御使者の事
毛利輝元より御使者を上し給ふ。石州の南鐐百枚献ぜらるゝ。
改年の御慶何方も珍重々々申納候。御祝儀の御為め銀子百枚進上いたし候。此等の趣宜しく上聞に達せられ候はゞ、本望たるべく候。猶永春申伸ぶべく候。
正月十一日 毛利右馬頭輝元
大館雅楽頭殿
畠山九郎左衛門殿
公方へ織田上総介使札の事
【 NDLJP:72】
さる程に織田信長、尾州より義兵を揚げて、近国を切広げ、其余威を以て、七道へ鋒を振ふに、其利を得ずといふ事なく、日往き月来つて、既に十五六ヶ国の太守となれり。されば江州安土といふ所に、威陽宮を欺く計の城郭を拵へて、諸国の大名小名を引付けて、朝暮に出仕をうけ、囲繞渇仰せられ給ふ。粧はたゞ四海の権将に等し。さるに依つて此頃は、公方を公方ともし給はず、己が被官の会釈に取成し給ふに付きて、日頃思召す恩謝を忽に翻して、悪を結ばん事をぞ思召しける。或時上総介、義昭公へ使札を献ぜらるゝ其中に、恵林院殿数年浪々まし〳〵けるを、信長力を以て、京都に移らせ給ひ、大敵の筑前守を、一戦の中に追詰め、累祖の家督に備はり給ふ上は、位官に不足はましまさず、公卿の交も、禁中の御政など、能々取行はせ給はずして、何ぞ諸国の大名小名を近付け、馬具武具等を御所望し給ひ、貯へ置かせ給ふこと、更に心得難し。向後あるまじき事にこそといへり。然れども甲州武田信玄と、信長中悪しくして、既に甲信勢上洛すと風聞しければ、上総介、義昭公へ、両将が間を御籌策まし〳〵て、無事なさせ給ふやうにと望み給ふ。されども公方御立腹の折節なれば、嘗て取上げ給はず、兎角の御返事なかりける。
公方御謀叛の事
義昭公思召しけるは、所詮此上総分を亡さずんば、公方の家は保ち難しと思召立ち給ひて、江州佐々木承禎入道・浅井備前守などを語らひ給ふと、即時に用心して、何時なりとも御出陣に於ては、此方予て御内意仰聞けられ候べき由申されける。されば両人加勢の催、昼夜隙なかりける。
【足利義昭織田信長を討たんとす】是に依つて義昭公、御心強くならせ給ひて、愈一戦の事を催させ給ふ。さる程に御領分の人数并に京勢を加へて、四千騎計にて、都を立たせ給ひ、山田・矢橋・志賀・唐崎・比良・小松・わに・堅田などの猟船を奪ひ取り、数百艘に打乗り、既に安土へ発向と聞ゆ。信長驚き給ひ、忠が不忠とはこれならんかし。今日此頃公方の御身として、此信長を倒し給はん事は、蟷螂が斧ならん。しかはいへども、佐々木・浅井が手合を仕りなば、山法師共も加はる事ありなん。多勢附きては叶ふまじ。さらば打立ち追散らさんとて、三万余にて馳上り給ひ、散々に蹴
【 NDLJP:73】散らし、舟共此方へ悉く取繋がせ、義昭公をも都へ移し、先づ警固を数多附置き給ふ。
【義昭敗軍】上総介帰陣して倩案ずるに、兎角此君を都に置きなば、予が出世の妨ならんと思ひ給ひて、堺へ下し給はりて、或寺に押籠め奉り、番を固く附けて置かれける。義昭公の御果報の程こそ、思ひやられて哀なり。
公方遠流を宥めらるゝ事
さる程に義昭公、堺におはしましけるを、信長公左遷の沙汰聞ゆ。土佐の
端か、隠岐の島へ移し給ふべき由聞えければ、帝、哀に思召して、摂政殿へ相止むべき由勅諚ありければ、軈て信長公へ、相変らず東辺に置き参らすべき由、御理を尽し給へば、信長公、宣旨を背くもいかゞとて、左遷は思ひ止まり給ふ。其後一所に扶持あるべき由、仰せらけけれども御請は
獣止し難くむかけれども遂に言付き給まて、打過ぎ給ひにける。斯くて義昭公御徒然の余りに、預りの奉行所へ御断仰せられて、天満の方へ、折々御遊に出させ給ふ。
過来し方の事共思召し出でて、何事も夢となり行く世中かな。人間の盛衰、斯くあるものと知り乍ら、御身の上に差当りては心悲しく、無常変易の憂を見る事かなと、甲斐なき御身の上をば、観じ暮らせ給ひにける。折節仁木右京亮は、公方、堺へ移らせ給ひし時、淀まで送り奉りて、其よりも播州に、親しき者のゝありければ、尋ねて見んとて下りける。爰に暫くありて、医師を流布しける程に、田舎なれば、大切なるに依つて、斯る人こそ所の調法なれとて、方々より聞伝へて、彼方此方と隙なかりけり。様々の病人を受取りて、明暮療治し侍る程に、爰にて入道して、仁木了任とぞ号しける。或時思ひけるは、良久しく義昭公へも、御音信も申さず、心もとなし。又旧里の方も床しければ、思立つて此度上らばやと思ひて、人々に暇を乞うて、播州を出で上りけるが、先づ義昭公へ尋ね参りければ、公方は折節
徒然にて、暮し難き折柄に、珍らしくも尋ぬるものかなと仰せられて、互に涙催し、昔今の御物語どもありけり。御机を見奉れば、白氏文集・山谷など御覧あると見えて、唐土の昔、賢き人々の上にも、盛衰会者定離の理は、免れ難き事共を、旧詩の言葉を引きて、御物語どもおはしけり。其後世の中の有様移り変りて、誠
【 NDLJP:74】に手の裏を返すが如くに、千秋万歳も尽きまじく覚えける大将ども、一夜が中に変る昨日の淵ぞ今日の瀬になるとは、能く詠みけるものかなと、
独言ちて過せるぞやとて、世に儚き事共仰付けられて、御身は田舎にありければ、上方の事共委細には聞かじとて、互に御物語ども様々おはしけり。
信長御夢の事
或時信長公、不思議の夢を見給ひければ、心元なく思召して、誰か判ずべきと、彼是案じ煩ひ給ふが、
急度思召し出でて、翌日乗慶僧都を召されて、仰せられけるは、ち御所に
勘へさせ給ふべき事候て、扨こそ招き候へと仰せければ、乗慶は、承つて見候はん。如何やうの御事に候かと申されければ、今宵何とも心得ざる夢を見しかば、御房の了簡を聞かばやとの事にて候。たとへば広々たる山野に、たゞ一人辿り出でて、東より西へ行くと思ひしが、道の中程と思しき所に、向へ半段計と見渡せる大河あり。岸打つ浪荒く、水の面もすさまじく珍らかにして、之を渡らんと立休ふ所に、此河水俄に紅血に変じて、腥きこと限なし。斯る所に、三十計に見えける劔一振流れけり。夢心に之を取らばやと思ふが、容易く取られぬ所、如何せんと種々に案を砕くと思へば、其儘汗して夢覚めぬ。僧都聞き給ひて、これは誠にめでたき御夢にて候。近き中に河内の国御手に入るべし。又其劒は、即ち敵の魂なり。其精魂抜け出でて、水に流れ失するといふ御告ぞかしと、判じられければ、信長公大に感じ給ひ、御手を丁と打ち給ひて、さても
〳〵、めでたく判じ給ふものかな。さては年頃の本意を達せん事こそ、喜悦の眉なれと喜び給ひて、それ
〴〵と宣へば、当座の引出物に料足五貫文・白布二反給はりける。律師は難有しとて拝領し、御前を立たれにける。
【 NDLJP:75】
室町殿物語 巻七
織田信長座興深き事
正月五日節振舞あるべしとて、佳例に任せ諸侯を集め給ふ。扨種々の饗応あつて後、夜に入りぬれば、大盃にて、上戸も下戸も、押傚しに給ふべき由仰せらるゝ。扨御肴には順の舞あるべしとて、面々嗜みける芸共を取出でて、舞うつ謡うつ入乱れて、各前後も知らぬ計の大酒宴なり。斯る所に柴田修理亮が飲まれたる大体の盃を、今一つ明智光秀にさゝれ候へと仰せらるゝ。畏つて候とて、一息に飲干し、軈て日向守にさゝれける。光秀申されけるは、これこそ迷惑仕候へ。只今漸々其盃を飲干して、其方へ参り候を、又其にて給はらん事、いかで給はられ候はん。平に御免を蒙らんとて、頭を畳につけ、辞し申されける。修理亮申されけるは、某もさ存ずれども、御意に依りてさし申す。否応あるべからずと申されければ、何程御意にても、せき詰り申候。御宥免蒙らんと申されて、座敷の透間を考へ、次の間へ逃げられければ、其時信長公、座敷を立ち給ひて、光秀が俯様に平伏してありけるを、首を取つて押付けさせ給ひ、御脇指をば引抜いて、いかに
金柑頭、飲まふか飲むまいか、一口返事をせよ。飲まじといはゞ、此脇指の切先を、後より咽喉まで飲ますべし。光秀いかにいかにと仰せられければ、日向守心も乱れけるが、此
為体になりて、酒の酔も俄に醒めて、あゝ殿様、切先が冷々と身に覚え候。さりとては御脇指、御許し候へ。死に申すことは、今少しにて候と申す。信長公、其儀ならば、仰を背かず飲むべきか。さらずば脇指を飲ますべきか、何れをか飲むぞ。はや
〳〵返事をせよ。いかに金柑頭とて、脇指の峯にて、彼方此方へ撫廻し給ふ。光秀気も魂も消ゆる心地して、御許し候へ。起上りて、御意の如く御酒たぶべくにて候と申せば、上総介、必定それならば、立退くべし。若したべずば、今度は脇指を、確と飲まするぞと仰せられて、立退き給へば、光秀顔の色青く、目の色相好も変りて起上り、件の鉢を取りて、戴き請けられける。
【 NDLJP:76】漸くに九分に及びぬれば、信長公御覧ありて、一段よし金柑殿、約束の如く飲み給へと宣ひければ、日向守又もや取つて懸られんと思ひて、すは
〳〵とたゞ一息に飲干されける。信長公見給ひて、あれ見よ人々、何程詰りても、酒は自由なるものにて、飲まるゝぞ。餅飯などは、詰るというては、かたきつて食せられず。某亭主役に罷立つて、飲ませけるこそ面白けれと仰せられければ、座中一同にどつとぞ興ぜられける。斯くて夜もはや
東の、
雲路白み渡りければ、信長公簾中へ入らせ給ふ。之を見て諸侍、我れ先にとぞ帰られける。日向守は宿所に帰りて、倩案じ申されけるは、あら勿体なや、
危き命まうけたり。諸侍数多ある中に、某独り斯る目に合はせ給へる事、今度かけて両三度に及ぶ。これは平生某を倒さばやと、折待ち給ふ故に、酒といふものは、必らず心底を打明くるものなれば、斯くの如し。思内にあれば、色外に顕はるといふ本文これなり。重ねては能く心得べき事にこそと、是よりして日向守も、事を思ひ絶たれけるとかや。
信長・秀吉噂の事
羽柴筑前守秀吉、累年中国にありて、所々の城ども攻められけるが、此節は高田・上田の城を取囲み、息をも継がせず攻むるの由、毛利芸州へ聞えければ諸臣会合して評議ありけるは、所詮多勢を率して打つて出で、羽柴秀吉をば、一時に討取つて、其後畿内を攻取り、織田信長と弓箭を遂げ、天下の動乱を鎮めんとて、数万の軍兵を率し、毛利の両大将吉川・小早川、近日馳上ると聞えしかば、秀吉叶はじとや思はれけん、信長へ、近日に発向し給ふべし。さらずば、何れなりとも、御曹子一人大将として、三万か四万の人数を給はるべし。片時も御急ぎなくては、悉く討詰に相なる由、雨の脚ほど飛脚到来せしに依つて、織田三七殿を大将とし、明智日向守光秀侍大将を承つて、都合一万三千騎の人数にて、六月二日の未明に、丹州よりも京着し、御暇乞に事寄せて、
【織田信長弑せらる】信長公四条本能寺に有合ひ給ふに押寄せ、一刻に焼攻にして亡せり。又室町二条の御所に、城之助信忠おはしけるを、
直に押懸け、これも刹那が間に腹切
【 NDLJP:77】らせり。斯くして光秀、都の支配をあらまし執行ひて、其後中国へ発向し、羽柴秀吉を、毛利家と某と中に押狭み、一時に討たんと、既に打立つ所に、思ひの外秀吉京都へ打つて上り、山崎淀にて合戦をせしに、運強き秀吉にて、両度ながら勝利を得る。明智は力なく坂本の城へ取籠らんと、主従六騎にて、山科越に暁かけて打つ所に、郷人岸の上よりも、鑓にて突きければ、光秀内甲へ突込まるゝ。大事の手なれば、
【明智光秀討たる】馬より落つる所を味蔵惣兵衛飛で懸りて、泣々頸を取りて直垂に包み、日向守肌に附け給へる黄金一枚相添へ、東山一心院とかへ行きて、これは名あるものゝ頸なれば、能々孝養し給へとて渡しけり。然る所に筑前守、光秀を討洩らしけりとて、在々所々を、落人隠し置く輩これあるに於ては、早々告げ来るべき由、在家諸寺諸社触れ渡しければ、軈て一心院よりも、秀吉公へ持参せり。即ち
与同類共に、獄門にぞ梟けられける。之を倩思ふに、信長昨日迄は人の慾を知らず、諸寺諸社まで攻破り、幾千万といふ限なき
人種を亡し、己が栄華飽迄誇り給ひしが、今日は又引換へて、明智が為に父子一時に攻殺され、威陽宮と自慢せし、安土の居城も灰となりて、今日はたゞ夢の如く、明智は又信長を亡して、僅十一日ありて、羽柴筑前守秀吉の為に悉く殺され、獄門に懸る。盛者必滅、手の裏を返すより早く、眼前に見すること、善きも悪きも頼みなき、此の世中の習ぞと思ひ取りて、今は世をも人をも、怨み託つ事なしとぞ、宣ひ合はれける。
秀吉公治世の事
仁木了任、倩々御物語共承りて申されけるは、其頃某は、書写山の長吏の房に罷在りて、療治の為に永々候ひて、其節の様子毎日聞き申候。上方にては、説いかゞ候も存候はず。されば毛利家大軍して、海陸より襲ひ来りしかば、秀吉討取られ給はんこと、疑なしと風聞申候。然る所に秀吉俄に
噯を入れて、両川へ頻に和睦を乞ひ給へば、毛利方には、当家の領分聊も妨なきに於ては、別に仔細なしとある儀に付きて、程なう事調ひ、人質互に取交しける。其上に筑前守七枚起請を書きて、両川へ渡し給ふ。扨其翌日世に沙汰しけるは、信長父子を、明智が謀叛して、一時に打果せりと真平沙
【 NDLJP:78】汰せり。実にも思合ひける事のありけるは、上方よりも、飛脚毛利方へ下るを、運の強き秀吉にて、備中の内にて、此飛脚を捉へ、筑前守に参らすれば、明智が飛脚なり。其状の表は、あらましを承るに、去六月二日の未明に、信長父子、京都本能寺に於て、一時に打果し申候。然れば其表に、羽柴筑前罷在りて、御領城を取囲み候由申来候。信長悪逆無道にして、仏法神道を選ばず破却せられ、人数を干し、いつを限りとなく、天下の
挙動万民の歎、挙げて申すに及ばず。其上某を、秀吉加勢に向けらるゝ事候に依つて、軍勢を催し、日頃の述懐様々候へば、能き折節と存候て、主君乍ら是非を顧みず討果し畢ぬ。某近日其表へ、諸勢を率して馳下りて、其許両川と一同に挟み立てゝ、討取り申すべく候。斯くの上は秀吉に、抜足させ申すまじく候の間、其元相違なきやうに、御手合これあるべき由書きたる状なり。之を見給ひて、天の与ふる所と感涙して、窃に飛脚を殺し、さて毛利家と俄に和談を乞ひけるなり。後に両川聞付けて、千悔せられけるとかや。さる程に秀吉、大方京都を取鎮め給ひて、天下一同に治せんと、九州に発向し給ふ。方角なればとて、毛利家へ先陣を頼み給へば、輝元公より、凡そ十万に近き軍兵を率して打立ち給へば、中国の催、在々所々に及んで、騒動斜ならずとぞ申されける。斯くて秀吉公、筑紫へ進発ありけるに、寔に天の許せる大将にて、国々の附随ふこと、草葉の風に靡くが如し。九州悉く人質を出し、幕下に属しければ、平均寔に珍重なりと、万民喜ぶ事限りなし。夫より四国未だ属せざるに付きて、これは芸州一分にて、御誅伐頼み申すの由仰せられければ、畏り入候とて、又四国へぞ出陣ある。秀吉公の軍代には、三好治兵衛秀次を差越し給ふ。斯くて中国へ押渡りて、所々の城共攻めらるゝに、大方ならぬ強敵にて、要害よく人数を率し、命を軽んじて攻戦ふ程に、日数経て、既に三年目に落着しけるなり。四国一同せしかば、世の人風聞しけるには、毛利の大身、大国十余ヶ国の太守を、味方に確と控へて、事を企つるに依り、勝利の空しき事なきは道理といふ。是れ尤と存ずるなり。さらずば斯様に、四国・九国一時には、治め難からんとぞ申されける。斯くて了任三日逗留して、年頃積る欝懐を互に述べ給ひて、又軈て御
見廻を仕らんとて、御暇を給はりて、堺をぞ立たれける。
【 NDLJP:79】
秀吉公・柴田合戦の事
さる程に柴田修理亮勝家は、羽柴筑前、主君の弔合戦をして、日向守光秀を討取るに於ては、信長公の御曹子数多おはしませば、御遺跡に取立て申す談合をも、信長公へ忠節の人々に申すかと存ずれば、さはあらずして、中国の太守安芸の毛利、西国半分の大名を語らひ、筑紫九ヶ国・四国まで、手を湿らさず平均に治めて、旁へ近付き奉り、位官恣に望み、主君の御跡目を、諸傍輩をも憚らず、天下の主とならんと企つる事、胆の太き藤吉郎奴かな。昨日今日まで、我等が馬の草を飼はん事を願ひて、御前に頼み奉るとて、追従せし猿わつぱが、奢る事こそ安からねと、嘲笑ひてぞ居られける。誠に此勝家は、家の子として、権六といひし時より、度々の鑓に誉を取る。戦場に当ることは数を知らず。故に朝倉義景が領国、一所も残らず給はり、信長家中にても、鬼柴田と、天下の児童まで呼びけるが、是れ無双の勇士なるが故なり。今此羽柴は、年半に下使に参りて、斯様に取上る事、前世の善果の報ならんかしとぞ申されける。尤いふ所
理なり。此秀吉公は、当る所首尾して、心に思ふ如くに事を済し、人の歎き随ふ事、主君信長公とは格別なり。上総介は、今日随ひても、明日は手返しをし、人質を出しても、背くもの多かりけり。二度三度攻めても、落城せざる勇士は、和睦して礼をいはせ、
帰さに人に言付て、袴の上を心易く討つて捨て、国を奪ふ大将なれば、後には人々能く知りて、和睦を余所のやうにて入れらるれども、又例の籠鳥を絞め食ふ行にこそとて、曽て取合はず。立籠りて、明暮手柄を尽して後、討死しける事なれば、国を一国と治むる事は、中々五年七年にて、なり難かりしなり。此秀吉公、常に之を能く見置き給ひて、其風を影もなく捨て、和睦一度せしよりは、一代の間何の仔細もなく、累代の主君のやうに侍きける。此仕置を、国人等能々見置きて、仔細なく降参しけるなり。去程に秀吉公、柴田方へ度々使者の通ひありて、京都に上るべき由仰せられければ、勝家大に怒つて、使に能くいへ、藤吉郎に、推参を申越すものかな。汝これへ参りて、勝家に用所あらば、申すべしといへとて返されける。使者帰りて、此由を申しければ、今は左様に悪口を吐くも、押詰められん其時は後悔すべし。其
【 NDLJP:80】儀ならば押寄せ、柴田を討果さんとて、打立ち給ふ。先陣は高山右近・中川瀬兵衛承る。打立つ人々には、丹羽五郎左衛門・羽柴美濃守・蜂須賀阿波守・堀左衛門督・木村隼人佐・大鐘藤八郎等なり。
【秀吉勝家対軍】秀吉公の本陣は賤が岳なり。柴田修理亮は山陣を取る。柳瀬に人数五千騎控へにけり。
毛受庄助を大将とす。佐久間玄蕃先陣にて、
余湖の海の汀に、打上つて陣取りけり。中川・高山と、両を頭に当てゝ備へけり。頃は天正十年四月廿一日に、一戦を始めらる。凡そ此の余湖の汀は沼なりければ、馬足立ち難し。双方下り立ちて、鑓を合す。寔に無双の荒勝負なり。地形は狭し、足場は悪し。敵味方一所に挙りて、一刻に決すべき一戦とぞ見えにける。秀吉公の方よりは、福島市松一番に進んで、首を上げて入る。二番の鑓は加藤虎之助、首取つて入る。三番に加藤孫六、首上げて入る。四番に槽屋内膳、首取つて入る。五番に平野権平、首取つて入る。六番に脇坂甚内、首取つて入る。七番に片桐助作、首上げて入る。右の高名をば、世に余湖の海七本鑓とて、名誉にはいひ振るなり。此外金森右衛門尉・伊木半七両人なり。桜井佐吉・石河兵助二人は、爰にて討死せり。是より双方の侍、何れも勇武の誉ある人々なれば、命惜まず攻戦ひて、大方討死したりけり。
【柴田勝家敗軍】斯くて柴田玄蕃軍破れて、退かん事を思ひけれども、地面は狭し、余湖の海の汀なる細道を、一騎打に遥々出張したる勢なれば、落つべき道も迫り、腹を切るべき隙もなくして、おめ
〳〵と爰にて生捕られけり。されば物の香ばしきは老武者なり。修理亮軍配には、余湖の細道を越えさせて、これにて軍をすべし。其の仔細は、敵敗軍の刻は、一騎打にせかれて、崩れ懸れば、悉く海へ入るより外はなし。味方其処にて敗軍せば、沼と細道、地形は狭し、一人も残らず、討取らるゝなり。早く其の場を引取れと、押返し跳返し、三度の使を立てけれども、玄蕃は勝家が甥なりければ、用ひず。其方の
積は昔やうにて、当世の軍法には合ひ難し。いかにもあれ今度の軍は、我に任せ給へとて、終に聞かずして、果して生捕られけるこそ口惜しけれ。秀吉公の仰には、勝家をば、時刻を移さず討取るべし。透さず押付けよと仰せらるれば、人々承つて馳向ふ。修理亮は、玄蕃散々に打負け、剰へ生捕られけると聞くより早く、本城へ退かんと議しけれども、いや
〳〵透間算への秀吉なれば、多勢にて追懸けられ、途中
【 NDLJP:81】にて備もなく、此処彼処にて、ちり
〴〵に討死せんより、唯是へ引うけて、勝負を決せんといふ
輩多かりけり。されども勝家、いかゞ思はれけん、本城へ赴きければ、柳瀬にありける毛受庄助申しけるは、其儀ならば、五千の人数を三千給はつて、某是に残り、大軍を妨ぐべし。其間に心易く落行き給へと申せしに依つて、三千騎庄助に渡して、さて勝家は、駒に鞭打つて落ちられけり。さる程に秀吉公の諸勢、我れ先にと押付けて、雲霞の如く勢ひ懸る。毛受庄助は踏止まつて多勢を引うけ、無二無三に命を惜まず、散々に攻戦つて、
足下にて悉く討死をぞ遂げにける。庄助此処にて支へずば、勝家も討死疑あるまじと風聞せり。さる程に秀吉公、佐久間玄蕃丞をば京都へ上して勢揃し給ひ、直に勝家本城へ取詰め給ふ。元より修理亮、予て用意せし事なれば、要害を固く検め、兵糧を込め、弓鉄炮を揃へて防ぎ戦ふ。寄衆新手を入替へ
〳〵揉立て、息をもくれず攻めければ、城中よりも、一人当千の兵共打つて出で、多勢へ割込み、散々に討破り、蜘手十文字駈散らし、敵を退け、城内へ引取り
〳〵、日をこめて働きける。されども寄手猛勢なれば少しも怯まず、昼夜戦ひける程に、勝家、とても叶ふべき軍ならず、士卒を疲らし、罪作りに殺しても何かせんとて、上下の仕置夫々に進めて、
【柴田勝家自尽】腹切つてぞ亡せにける。其後城に火をかけて、一時に空の霞となしてけり。秀吉公、年頃案じ煩ひ給ひし強敵なりと雖、運尽きぬれば、須㬰に滅亡したりけり。
室町殿中国へ御下向の事
義昭公都におはします頃ほひは、照高院殿法橋紹巴、別けて御懇志浅からず、詩聯句和歌の御伽し給ひ、旦暮御前を離れ給はざりしが、今は紹巴も、秀吉公の御前に詰めて、和歌の指南仕ふまつりしかば、心に義昭公の御事如何々々と折々思出でけれども、公儀に暇なくて、自ら呉越を隔てたり。さるに依つて御気色を窺ひ、公方の御事を哀に取成し奉りて、度々申させ給へば、秀吉公も、如何にせばやと思召しけれども、流石天下の大将軍とし、数代相続の的流なれば、並々の武士に申付けなん事も恐ありと、思慮おはしまして、兎角の御計らひもなかりしが、或時紹巴を召して仰せられけるは、義昭公を、誰にか馳走させんと案じ続くれども、尋常の大名には憚あるべし。
【 NDLJP:82】所詮毛利輝元こそ名誉累代にして、当時無双の大身なれば、之へ預け参らすべしと仰せられければ、紹巴斜ならず喜びて、それこそ大慶に思召し候はんと申されければ、軈て芸州中納言へ御使札を添へられて、
【足利義昭備後に移る】公方を移し参らせ給へば、輝元卿畏つて請待し給ひ、様々饗応おはしまして、備後の国深津と申す所に御館を造り、五千石の知行を附けさせ給ふ。秀吉公聞召して、大に御感あつて、寔に今こそ、身上の安堵はし給ふらめ。さり乍ら田舎にて事淋しく、徒然にて暮し難からんとて、秘蔵に思召しける御局を、義昭公へ参らせ給ふ。公方、秀吉の御志の程、此世ならず忘れ難くぞ思しける。斯くて芸州の仰に依つて、御領国の御帰依寺、済家の諸長老西堂、公方の御伽に替る
〳〵参らせ給ふ。是に依つて朝暮の御遊には、詩聯句の会を逸遊し給ひて、光陰を送らせ給ひける。
秀吉公、北条氏政征伐の為め出陣の事
さる程に秀吉公、関東北条家未だ御手に属せざるに付きて、御使者を遣し給ひ、氏政父子上洛せられ、御礼申上ぐべきの旨仰遣はされければ、氏政畏り入候。さり乍ら当年は氏直を差上し、御礼を遂げさせ申すべし。某は来春早々上洛仕るべきの由、御返事を申さるゝ。是に依つて秀吉公力なく、氏直の上洛を待ち給へども、兎角と月日移りて、上り給はざりしかば、重ねて御使者を遣され、遅参のやうこそ心得ね。此上は父子共に年内に上洛あるべし。先日の返札に、来春氏政は上洛早々申すべし。氏直は追付け罷上るべき由、御請を申し乍ら、日限も申さず遅参するこそ公儀を軽んじ奉る所なれと、御気色荒かに仰遣さるれば、氏政返札に、
殿下様より重ねての御使書頂戴いたし候。尤氏直年内に御礼申上ぐべきと御請を申候へ共、此節所労に付きて、医薬半に御座候故、遅参仕候の処、御気色悪しきやうに承候て、何共迷惑仕候。先づ当年は、家老北条美濃守を上洛させ、御礼を申上ぐべく候。来春は父子罷上申すべく候の間、御前然るべき様に仰上げられ候はば、本望たるべく候。恐惶謹言。
十一月二日 氏政
【 NDLJP:83】 増田右衛門尉殿
長束大蔵大輔殿
其後氏政家老を以て、徳川殿へ申されけるは、氏直年内に上洛の事、遅参に付きて、殿下様御機嫌悪しく、重ねて御書を下され候間、当年は北条美濃守を御礼申上ぐべきの由申候。先づ是にて御堪忍あるやうに、御取扱頼み存ずるの由申させ給へば、即ち京都へ御断申させ給ふ。秀吉公、徳川殿御噯に依つて堪忍なされ、さあらば来正月中には、氏政父子上洛させらるべし。当年は美濃守にて、堪忍すべしとの御返事なりければ、大慶に思召して、即ち北条へ斯くと仰せられける、氏政喜悦し給ひて、早早美濃守をぞ上されける。秀吉公病気の様子御尋ありて、中三日滞留させ、御返事出して、帰し遣されける。
諸国百姓等御仕置の事
さる程に秀吉公、今ははや六十余州に滞る国なし。されども諸国の百姓等、一戦の刻は、動もすれば一揆を起し、事を妨げ申すの間、堅く之を停止すべしと仰出されて、即ち在々所々に法度書を出させ給ふ。
条々
一、諸国の百姓等、刀脇差并弓鉄炮、其外武具の類所持仕候事、堅く御停止。其委細は、いらざる道具を相蓄へ、年貫諸道を雛渋せしめて候て、良ともすれば一揆を企て、給人に対し非義の働を仕候族、勿論御成敗あるべし。然れば其所の田畠不作し、知行費になり申候の間、其国主絡人代官として、右の武具取聚め候て、悉く進上致すべく候事。
一、右取置かるべき刀脇差、弊にせらるべき儀にあらず候。今度大仏殿建立の釘今度大仏殿建立の釘鉸に仰付けらるべし。百姓等相助かるべき儀に候事。
一、百姓等は、農具さへ持ち、耕作を専に仕候へば、子々孫々まで長久に候。夫に依つて百姓御憐みを以て、此の如く仰出され候。寔に国土安全万民快楽の基なり。異朝にては唐尭の昔時、天下を撫で護り給ひ、宝劒利を農器に用ふるとな【 NDLJP:84】り。此旨を守り、各其趣を存候て、百姓等は、農業を精に入れらるべく候事。
天正六年七月日 御朱印
稲葉三位法印へ
此写を以て諸国へ相触れ、百姓等の刀脇差を初め、一切の武具取集め、秀吉公へ進上仕候。
【 NDLJP:75】
室町殿物語 巻八
秀吉公京都の開基御尋の事
六十扶桑悉く属し、一同の御代、四海静謐に治りしかば、或時法橋紹巴・玄以法印を召して、潜に洛中洛外の境を御覧ぜらるゝに、東は高倉より、彼方は鴨川なり。遥に見渡し給へば、平々と東山に取続きて、耕作の地なり。西は大宮なり、彼方嵯峨・太秦へ押通して田畠なり。南北の際も、何れとも堺もなく、唯田舎の在郷の如し。
熟と御目に止められて、其後幽斎を召して御尋ありけるは、花洛とは、昔より言伝へぬれども、京都の今の有様は、言語道断、衰落至極して覚ゆる。洛中洛外とは、何れより何方といふ堺なし。其上内野の上北野に、右近の馬場といふ森は、興ある面白き所なり。右近もあらば、左近もあるべき事なるに、何とてなきやらん。北は何方より、南は此迄
【 NDLJP:85】といふ洛中洛外の境を、末代迄相定むべし。都の旧起を聞かばやと仰出されければ、幽斎畏つて候とて、あらまし釈せられける。抑桓武天皇延暦三年十月二日、奈良京春日の里よりも、長岡の京へ遷り給ひて、十年にして正月中旬に、大納言藤原小里暦紀古佐美、大僧都立珍を遣し給ひて、当国葛野郡宇多村をば見せ給ふ。
熟と景相を見るに、四神相応の地なりと申すに依つて、愛宕郡にまします。同十三年十一月廿一日に、皇帝奈良より、長岡の京へ遷らせ給ふ。されば四神相応とは、文武龍虎守護せり。油小路を中に立てゝ、条里を割り給ふ。東は京極迄、西は朱雀まで、北は賀茂口、南は九条まで。但北は一条よりも九条迄を、九重の都と号せり。油小路より東をば左近、西は右近と申す。右京は長安、左京は洛陽と名付けり。されば禁殿代々に、所は少しづつ変るとは申せども、右定め置かるゝ堺目は、聊も違ふ事なしと見え申候。此京へ諸国より一切の貴賤集りて事を調へ、又は帝を守護し奉る。然るを尊氏卿の御末、常徳院・法住院の時代より、此京いつとなく衰へ申す。其謂は内野の御所、山名奥州が謀叛よりも、動もすれば修羅の巷となるに付きて、一切の売人、都鄙の到来なきに依つて、自ら零落すとぞ聞え申候。都衰へ政道も廃れさせ給へば、田舎は猶しも恣に我意を振舞うて、近代国土穏ならず聞え候とぞ申されける。秀吉公つく
〴〵聞召して、さもこそあらんずらめと、事の始終、能々御工夫おはしける。さあらば先づ洛中洛外の堺を定むべしと仰出されて、諸大名に仰付けられ、東西に土手を築かせ給ふ。さて洛中在家に相交る一切の寺共、所々に
充満て立並びければ、徳善院に仰付けられて、諸寺共は、京極より一町計東へ押出し、北は賀茂口より、下は六条まで、
片並に屋敷を渡されける。さて賀茂川・堀川所々に橋を架け給ひて、往還の旅人煩ひなし。其後禁裏を磨き立て、王法の政、廃れたるを起し、元より洛中の地子米・公方役など、悉く御赦免あり。御身は伏見・大坂にかんこく関よりも、堅く城郭を拵へ給うて、諸国の大名小名を詰めさせ、都を守護し給ひける。万民豊饒の下に住み、七徳の化を得るとは、今此御代にこそはあれと、あやしの賤女山賤まで、
起臥拝み奉らぬはなかりけり。
【 NDLJP:86】
秀吉公北野大茶湯の事
或時徳善院を召して仰出されけるは、世中静にして、諸大名も徒然ならん。末世の物語に、右近の馬場は爽なる景気、面白き所なれば、爰にて一日に百座の茶湯を興行すべし。大身小身共に相触れよと、治部少輔・右衛門尉に仰付けられける。徳善院、誠に
偉なる御会、前後に例なき御慰にこそ御座候へと申されける。さる程に両人承つて人々を選び、茶湯を心懸けたる方へぞ触れられける。大名小名之を承り給ひて、こは珍らしく面白き御興行かな。如何にとしてか殿下様へ、御茶をば申すべき。望みても叱ふべき事ならず。斯る御意こそ難有けれと、右近の馬場の東西南北に、各屋敷割を請取つて、数寄屋を立てられける。さて和漢の珍器、古今の名匠の墨跡、家々の重宝共、此時に合はずば、何時をば期すべきと、我も
〳〵と底を点じて出されける。さる程に時移りて、已に明日にもなりしかば、秀吉公仰せられけるは一日に百座の会なれば、天明けてはいかゞとて、寅の一天よりも、渡らせ給ふべき由仰出されける。御相伴には、玄以法印・法橋紹巴を召されける。斯る所に、爰堺南北の住人に、別寛といふ数寄者ありける。茶湯を好むこと
尋常ならず、都鄙に沙汰しける一流風の変りたるものなりしが、此事を聞きて思ひけるは、夫れ茶湯の根元は、禅宗よりも事起りて、東山殿殊の外好かせ給ふ。鵜鷹道遥には失多し。茶湯には得多しと仰せられて、此道を逸遊とし給ひしより、今此殿下のやうに、一日に百座の茶湯にあひ給ふとある、大なる興行はなかりしなり。夫に付きて某、人数ならぬものなれども、茶湯に心を窶す事、大方都鄙に知れり。天晴此御会の傍に萱藁を結びて、せめて秀吉公の御目に懸りて、自然何者ぞと御尋もあるならば、現世の名聞なるべしと思ひて、日頃玄以法印目を懸けらるれば、傍に屋敷を申請けて、萱藁を造りける。竹柱にして、真柴垣を外に少し囲ひて、土間をいかにも
〳〵美しく
傚させ、無双の葦屋釜を自在に懸け、雲脚をば拵へて、茶碗水差等をば、いかにも下直なる荒焼をぞ求めける。其外何にても新しきを本意とせり。我身は粗き布帷子を、渋染に返したるをば着、細縄を帯にして、馬場先の傍に待ち居たり。さる程に秀吉公、寅の一天より、いかに
【 NDLJP:87】も窃に入らせ給ひて、始めさせ給ふ。大名小名の
囲の前なる蠟蠋は、たゞ万灯に異ならず。百座の会なれば、いかにも短座に見えにけり。斯くて時刻も移りければ、やう
〳〵百座成就し給ひて、還御に及び給ふ。秀吉公、西を御覧ありければ、少し引退きて、萱の庵見えにけり。玄以を近付け給ひて、あれは何ならんと尋ねさせ給へば、さん候。あれは一興ある茶湯者にて候。堺南北の住人にて候が、殿下様百座の大数寄承り候て、誠に前代未聞の儀なれば、せめて囲の装を、余所ながら拝み奉らんとて、南北より遥々上り候て、昨日藁屋を結び候と申上げらる。秀吉公聞召して、さても一興あるものかな。心優しき奴なれば、
次に行つて見んと仰せけり。玄以さあらば入らせらるべしとて、御供せられ、案内を乞ひ給へば、別寛罷出でて、何事にやと申す時、殿下様これへ入らせ給ふぞ。用意はあるかと宣へば、畏つて候とて、庵の外へ罷出で、頭を地に付けて謹んで居たり。秀吉公御覧ありて、亭主は汝かと仰せらるれば、玄以、さん候と申さるゝ。秀吉公、はや
〳〵罷立てと仰せらるれば、別寛畏つて中へ入りぬ。秀吉公、囲の様を御覧ありて、実にも作意の働きたる、面白きものかな。手前にてたてよ。一服所望をなさるゝとあれば、別寛承りて、頓て雲脚をたてゝ参らせ上ぐる。殿下聞食して、さても汝は心の付きたるものかな。百座の茶に会ひぬれば、腹中に所なし。軽々と香煎を出すこと、言語道断いふ計なし。一段気味よし。今一服と仰せられける。其後紹巴・玄以両人飲み給ふに、匂異にして味又常ならず。誠に一物の作意仕りて候。斯様なるこそは、数寄とは申すべけれと挨拶申されて、殊の外興じ給ふ。さて立たせ給ひて後、十日計ありて、別寛を伏見の城へ召されけり。頓て御茶を下され、其上様々の御道具共拝見させ給へば、誠に難有き次第かな。我れ茶湯に好かずば、いかにして殿下の御目を給はるべき。今生の名聞之に過ぎじと、喜ぶこと限りなし。茶湯を好く程の人々は之を聞きて、数寄の灌頂をうつたる別寛かなと、羨まざるはなかりけり。
秀吉公京都の様子御尋の事
卯月下旬の頃、秀吉公、玄以法印を、伏見へ召して仰出されけるは、何と京都の町人
【 NDLJP:88】は、渡世を豊に送るといふか、又は朝夕すき佗びて、歎く族もありけるか、いかんと御尋ありければ、法印承つて申されけるは、さればこそ御本意の如く、京の有様、殊の外当年繁昌仕ると見えて候。其仔細は、いつに変りて此春は、東西南北へ花見遊山の人達は、野も山も所せきて見え渡り候。女童僧侶をばいはず、袖を連ね裳を並べて、当春の賑は、終になき様子にて御座候由申上げらるゝ。秀吉公聞召して、されば是よりも言付けて、横目を出し見するに、唯今玄以申す如くにいふ。京都は此春いつに変りて、遊山見物人込なる由、さては疑なし。如何にも法印、心を鎮めて聞き候へ。それは繁昌するにはあらず、大きなる衰微の基なり。其仔細は、諸国の大名小名に、此処彼処の大きなる普請共宛行ひ、昼夜に急がせ事隙なく、諸方より上下おりのぼりして立込む時は、さま
〴〵異形異類の調物をば、京都にて拵ふるに依り、諸商売人等聊も隙なく、夜を日に継ぎて上下挊ぐ。しかの時は遊山見物に出づべき隙なし。今ははや諸方の願ども大方成就して、当年は大名小名、日頃の苦を休めん為に暇を出して、面々当年在国せり。さるに依つて京方の諸商売、相手なくして手を束ぬるに依り、隙なる儘に、彼方此方を駈廻るにぞあらん。此分ならば、愈京都衰微すべし。何をか興起せんと思ふに、差当りて大なる望なし。兎角思ふに、来春は醍醐の花見を張行して、平生城中ばかりに籠り居る局共を具して、醍醐の山にて、欝気を晴らさすべし。夫に付きて大名小名、大阪・伏見より醍醐迄の警固、又は道の程、固めさせ候はん、此役に出づる程の者は、上下を選まず、着服其外の入用共、新らしく一様に、綺羅専に言付くべし。六月中に事を計らひて、来春の用意を触れよと仰出されける。治部少輔・長束大蔵右衛門尉・大谷刑部少輔など、談合数日あつて、誰がしは其処々々と警固の割符して、方々へ廻し給ふ。案の如く、承る程の人々は、之に過ぎたる晴あらじとて、多人数の衣類其外入用の物共、方々より支へなば、俄には出来まじとて、八月の初より支度せしかば、京方の忙がしさいふ計なし。されば醍醐の花見とて、女房・局・婢に至る迄、華麗なること言語に尽きず。諸大名の警固の装、綺羅を尽せること、何れ
劣優は見えざりけり。里々宿々に充満しけり、此者共、易く見物しけるやうに御制法あつて、都鄙の僧俗男女、悉く無事にぞ見物したりける。誠
【 NDLJP:89】に前代未聞の見物、何か是に如かん。之をつく
〴〵案ずるに、いかさま世を治め民を撫育する大将は、思慮格別と見えにけり。京都はさて置き、幾内の賑万民の助、推量られて、難有かりし事共なり。
義昭公御逝去の事
或時安芸の中納言、老臣を召して仰せられけるは、公方義昭公徒然にて、光陰暮し難からん。さればとて武家在家の人等、席近く臨みて、安らかに伽すべきにあらず。所詮予が領国の禅宗役に、三人宛一年代りに伽申すべし。此公方は、詩聯句の詠、秀才なる由聞及びければ、相応の相手なるべしと仰付けられければ、承つて、御領国に五山の門派あまたあり。寺領或は千石二千石乃至三千石など寄附せられける。菩提所の長老西堂以下に及びて、秀才の僧侶達を、義昭公に詰めさせ給ふ。公方御喜悦限りなく、いつしか此人々に慰み給ひて、明し暮らさせ給ひける。斯くして星霜を経る程に、或年鑑首座と申す禅律僧、一歳深津へ坐しけり。此首座は、天龍寺妙智院の会下にて、仏法を罷め参じ給ひて、悟道発明の僧にてまします故に、公方、仏法を此首座に聴聞し給ひて、聊も御前を離し給はず。春秋に至つては、山野の叢樹、紅錦の林を飾る風情など御覧ずるにも、此首座を同道おはしまして、終日暮らさせ給ひける。さる程に義昭公、持病に積聚坐します、以の外に起り給ひて、
尋常ならず苦しげに見えさせ給ふ。されば御内の人々も、昼夜御前にあつて、兎角と労り奉りける。御伽の僧中より、芸州へ斯くと告げ申されければ、頓て名医を来させ給ひける。医術を尽して療ずると雖、定業限りおはしけるにや、日々に御気色衰へ給ふ。人々斯くては如何あらんと、今更驚き給ひける。斯る程に義昭公、首座を御枕近く召して仰せられけるは、我れ自然に武将の家門に生を禀くと雖、戒力薄くして其徳備はらず。されば織田信長に一度は救はれ、厚恩謝し難く思ひしかども、己身有世の為に忽ち我を捨つ。然るを秀吉情を以て劬り、数々光陰を送る所に、輝元大分の扶持を加へ参らせ、其上種々懇志の段、此世ならず、後世迄も忘れ難し。此旨心得給へなど仰渡されければ、首座涙に咽び、稍あつて、上意の通り具に畏り候ひぬ。さり乍ら心細
【 NDLJP:90】くな思召されそ。御気色未だ常なれば、程なく御快気ましますべし。今度は御持病の甚しきに依つて、
何方よりも弱らせ給ふにこそ候へと、慰め奉られたる。其後義昭公采女を召して、御料紙箱に色紙二枚あるべし。これへ持ちて参れと宣ひける。首座いつぞやより色紙望み給へども、遂に兎角して打過ぎぬ。今は此世の名残なれば、これ取りて筐に見給へと仰せられて、首座に下されにける。首座頂戴し給ひ、涙を流して見給へば、古歌にてありける。
いづくにも心とまらば住かへよながらへばまたもとの故郷
朝露は消え残りてもありぬべし誰かこの世に残りはつべき
斯くて二三日あつて、愈弱らせ給ひけるが、暁方に監物・入道と采女を召して、窃に仰せらるゝ事やゝ暫くあつて、其後は仏号を窃に唱へさせ給ひしが、
【足利義昭逝去】明方に眠るが如く終らせ給ひける。紅顔忽ち変じて、青色の肌とかじけさせ給ひ、浮世の俤もなくならせ給ふ。無常の習ぞ、哀に儚くは覚えける。御遺言に任せて煙となし奉りて、御骨を拾ひ上げ、高野山に納め参らせける。御戒名は入道なされし刻、霊陽院昌山道休大居士とぞ申奉りける。斯くて御跡の営、
式の如くに執行ひ給ひける。斯くして御中陰過ぎければ、御局は京へぞ送り参らせける。万御遺言に任せてぞげる。
【 NDLJP:91】
室町殿物語 巻九
茨組盗賊の事
諸方浪々の溢れ者共京都に徘徊し、此処彼処に隠れ住せしめ、徒党を組み、茨組と号して喧嘩を専とし、夜は夜討強盗を業として、往復の輩を悩まし、世間物急なる事限なし。さる程に頃は六月廿四日、此者共愛宕参詣すべしとて、一様に出立ちける。赤裸に茜染の下帯、小玉打の上帯を、幾重にも廻して確としめ、三尺八寸の朱鞘の刀、柄は一尺八寸にし、細きつばにて巻かせたり。鐺は白銀にて八寸計そぎつぎにはがせたり。二尺一寸の打刀、同じやうに拵へたり。頭は髪を摑み乱して、荒縄を以て鉢巻にむずとしめたり。黒皮の脚袢をし、跣にて廿人、熊手鉄などを担せて前後を固め、諸国よりも参詣の貴賤群集之を見、あれこそ当時世に聞ゆる茨組なれ。あたりほとりへ寄るな物言ふなと怯ぢ恐れて、中を明けてぞ通しにける。斯くて此者共、清滝川にて垢離を取り、程なく御前に向ひて下向に及び、嵯峨に宿を取り旅籠をさせ、終夜更行く空まで舞うつ謡うつ、酒宴にて夜を明しける。斯様に溢れ遊びて、詣づること月次なれば、旅籠料募りて迷惑すと雖、返済に能はず。之のみならず所々にて、斯様に溢れ暮らしける程に、彼奴原に行遭ひたる者共は、迷惑する事限なし。或時大将星影左衛門といふもの、人々を集めていふやうは、此頃は何れもさしたる働なきに依つて、台所も事寂びぬ。いざ今宵は、伏見木幡の辺に徘徊して、さるべき者の通りなば、押へて酒手を取るべし。用意せよと下知しければ、承るとて方々に持ぎ廻る。手下の者共二百計集めて、日も暮れ懸れば、小倉堤の東西に徘徊して、さるべき人の通るを遅しと相待ちにける。斯る所に西国方より聚楽へ廻る使者の、上下六七十召連れけるが、夜深に堤を通られける。すは、これぞ然るべき人なれとて、後先よりも多勢にて打囲み申しけるは、これは此間主君に離れ参らせて、既に渇命を失ひ、乞食同前の忰共にて候。其許に有合せ候ものども、暫くの助にたぶべき
【 NDLJP:92】由をぞ申しける。此使者、馬上より前後を見廻し給へるに、二三百もあるらん。斯る盗賊に出合ひて、空しく討果さん事も、犬死たるべし。所詮用意したる路銭をば取らせて、爰を遁れ、明日はいかやうにもなるべき品々ぞ多からめと思ひければ、あら笑止や。侍といふものは、互に明日を知らぬものぞかし。鄙の長路を越しぬれば、路金も漸く尽きて、是といふ程の儀はあるまじき。されども望み懸け給へるを、否とはいかでいふべき。夫々路銭をある程取出でて、合力せよと宣へば、承るとて二つの塗櫃より、料足十五貫取出してたびにけり。忝く候へども、御覧候如く多勢にて候へば、此分にては、僅一日の養も不足に候。金銀にても候はん、今少し御芳志に預からんといふ。是非なしといはゞ、一定事出来ぬべしと思はれければ、其中にある程の物は、取出して渡せよと仰せければ、畏り候とて、羽織小袖抔を取出でて、此迄に候といへば、忝しといひて、肩に打懸け前に抱へ抔して、南北へ散りにける。斯くて京に入り給へば、五条の屋敷に落着きて、それより聚楽へ登城を遂げ、御用を相調へ、さて徳善院へおはして、斯る次第を訴訟申されければ、玄以聞き給ひて、尤も彼奴原がこと、諸方より迷惑仕るの由、訴訟多しと雖、其行方を何処とも、定かに知るものあらねば、思ひ乍ら許し置きぬ。さあらば茨組の徒党共、駈捜せと仰せられて、洛中洛外を先として、十方を触れ給ひ、告げ来る輩には、大分御褒美あるべし。たとひ同類たりとも、其科は許さるべき由聞えければ、程なく此処に候彼処にこそあれと、我れ先にと告げ参れり。軈て押寄せ
〳〵、搦取つて出でにけり。棟梁の左門・筑右衛門は、賀茂口に宿ありて、此頃忍び隠るゝ由聞えしかば、究竟の取手五人と、五十余人差添へて遣し給ふ。討手の人々忍びやかに、夜中に入りて聞きければ、遥奥に
取退けて立ちたる座敷に、傍輩五六人遊女二人をば真中に置きて、酒宴半と見ゆ。左門は何心もなく、三味線をひきて遊び居りけるを、人して表へ呼び立てけり。左門もさるものなれば、己に会はんといふは、誰人なるぞや。先づ汝行きて見て参れとて、傍輩の若者を出しける。何心もなく表へ出でけるを取つて伏せ、縄かけて片端に置きて犇くに、其者共怪しく思ひて、いかさま表へは、討手の向ふと見えてあり。早く退けといふ程こそあれ。左門は刀押取つて、裏よりも屋の上に上り、隣の屋根を越
【 NDLJP:93】す所を、矢を取つて番ひ、ひやうと射ければ、向脛にはしと止る。引かなぐりて、立上らんとしけれども、筋を射切られけるにや、立つこと叶はねば、力なく、是迄ぞ人々とて、腹掻切つて亡せにけり。扨筑右衛門は、今は逃ぐるとも叶はじとや思ひけん、六七人の者共にも、死なば一所と、日頃契りし中なれば、脇を詰めよといふ儘に、三尺八寸を
引抜いて切つて出づる。討手の人々、或は鑓或は捻・琴柱などにて間近く差詰め、生捕にせんと進みければ、思切つて戦へば、散々に柄を切折られ、又は手を負ひ、算を乱して見えにけり。されども荒手を入替へ
〳〵攻込みければ、奥へ入りて腹切らんと、一同に引く所を、透さず追詰めて自害をもさせず、手捕にせんと押寄せて、四人生捕りけり。筑右衛門も生捕られけれども、数ヶ所手を負ひければ、程なく息絶えにける。玄以此等を始として、茨組の徒党等、此処彼処にて捕へ来れば、一同に揃へて三十二人、六条河原にて首切つて、鳥羽の入口に、獄門にぞ梟けられける。彼等失せて後世間も静まり、諸人も大に喜びて、道広き心地せり。
盗賊討手の事
土右衛門・槌之介といふ盗賊の棟梁、南北より京へ逃げ上る由、申来りしかば、玄以方方を穿鑿し給ひけるに、小関といふ所にある由聞えければ、軈て討手を遣し給ふ。究竟の兵五十
勝つて、急ぎ小関に向ふ所に、二人乍ら方々へ出でて、内にはなかりけり。同類を七八人偽て生捕り、さて二人が行方を尋ね給ふに、他国へは行き候まじ。定めて此暮には戻り候はんと申す。さあらばとて、人々は
辺に忍び宿を取つて、今や今やと待ちければ、程もなく黄昏時に、何心地なく帰りけり。捕手の平河源右衛門・岩佐権六郎、世に沙汰したる功者なれば、商人に様を変へ、太刀刀も宿に置き、
皮籠を背負うて、さらぬ体にて休み居りければ、土右衛門も槌之介も、討手とは露知らず、心
忽にして表より、奥へ通らんとしける所を、後より犇と取つて伏せんとする所を、何れも太りせめたる力強なれば、心得たるとて前へ潜きて、負投にせんとしける所を、権之丞・里見の次郎、つと走り寄つて、頭を摑んで前へ引寄せ、二人乍ら搦めてけ
【 NDLJP:94】り。以上九人生捕りて、其夜は篝を焚き、終夜番をして、明くれば京へぞ引かれける。玄以此者共を見給ひて、京にて成敗すべけれ共、南北へ送れとて、直に下し給ひける。奉行中大に喜び給ひて、軈て曲事に行はれける。彼是死罪に及びければ、暫く世間は静なり。然る所に又小原の里より告げ来りけるは、昨日の暮方に、或寺中へ、盗賊四五人入りて立籠り申候。在郷の者共出向ひ、二三百人今宵は篝を焚き、番を仕候の条、急ぎ討手を下さるべき由告げ来る。玄以さあらばとて、頭二人に上下五十人差添へ、小原へぞ遣し給ふ。扨此寺の表の門は押開けて、中門を能く固め置きければ、差入りて、外よりも荒気なく叩きければ、内より何者ぞといふ。御辺達は如何なる人なれば、斯様に寺中へ押込み、狼藉を振舞ふらん。意趣を申さるべし。聞届けて、理非に依つて計らふべしとぞ申されける。内よりも答へて曰く、さん候、仰にて候へば申すべし。我等は若州守護の者共にて候ひしが、三十日計以前に、主君に離れ候に就いて、年来の厚恩を謝せん為に、髪を放ち墨染に罷成りて、主君の菩提を弔はん為に、国方を罷出で、此寺に尋ね当り、住持に向うて、法師になさしめ給ふべき由望み待りしかば、如何思はれけん、盗賊こそ入りたれ、出向候へと表へ走り出でて、大に罵りしかば、在々より百姓等起りて、乱れ入り候に依り、卒爾なる者共にてはなきぞとの断を、面々に申聞かすべき其間は、疎忽に人を入れじと存候て、表裏の木戸を堅くしめ申候由を答ふ。討手の人々は、案に相違して曰く、其儀必定に於ては、故郷へ人を遣し候て、実否を急度糺し候べし。先様の人々を委細に申されよと宣へば、畏つて候とて、様子を内より書記して投出せり。即ち之を以て守護へ尋ね下り、事の様を聞きければ、歴々の侍共なり。五人の内三人は妻女あり。斯る有様を聞きて大に悲しみ、従類眷族共数多打連れて来り、奉行所の人々に向つて、始終の様を申開き、軈て門を開きて、五人ながら出でられける。人々申されけるは、天晴物は先づ鳴を鎮めて、事の心を糺明せよといふ事あり。住持百姓等のいひけるを卒爾にうけて、焼討などに仕りなば、互に大なる誤にてあるべきぞや。畢竟が住持の愚鈍より事起れりとて、討手の人々と打連れて京へ上り、即ち玄以法印へ参りて、事の次第を申述べ、忝き由申されければ、法印も殊の外驚き給ひて、さもあれ一寺の住持とあるもの
【 NDLJP:95】が、斯様に心
胡乱にては、後世迄も思ひやらるゝぞや。現在よりも迷ふ事の哀れさよ。急ぎ住持を隠居させ、さるべき僧を据うるべしと仰付けられけり。さる程に五人の侍は、之より比叡山の麓、小野といふ所に詣でて、或聖に会うて、何の仔細もなくして、出家遂げられける。
喧嘩を好む徒党の事
爰に南北近辺の有徳なる者共の子供、さるべき剛の者などを語らひて、或は四五十人、或は百人百五十人など打連れて、様々の道具を担がせ、堺大小路天満を初めとして、方々賑ひ、異なる人立多き方を
選つて、異形異類の出立にて、喧嘩買はう
〳〵と、五人三人宛触れて廻りける。誰ありて斯る溢れ者共に出合ひ、喧嘩せんと思ふ人なかりければ、愈よしと心得て、明暮斯くいひ廻りける。少しき量の能き人、衣裳両腰を物数寄に拵えへたる人を見ては、差寄つて空賞をし、又は悪口などいひて、機を立たせんと、種々に嬲り侮りて通りけり。され共如何にと咎むる人、終になかりけり。爰に高橋作右衛門光範といふ人あり。器量骨柄
厳しく力ありて、一心の至剛なる事、凡そ世に類なし。兵法は、我朝にある程の家々の奥儀を伝へ、取手は竹内の極意を極め、此外十文字・長刀・鎌・琴柱など、家々の秘奥をかうぜり。大の男と雖、大なる両腰を帯し乍ら、八尺の築土を、彼方此方へ自由に飛越ゆる。水の底には、定まつて半日は
耐へたり。相撲に於ては大坂・堺・伏見・京都にも、其隠れなかりけり。殊に一道の達者万事に渡るとは、此人にあるべきと、羨まざるはなかりけり。さる程に此節浪人して、大坂に宿取りてありけるに、世に隠れなき士なれば、彼方此方より、許容せらるべき由ありけれども、兎角いひて、未だ何方へも出でざりけり。斯くある中に、大身小身の子息達聞及びて、各兵法の弟子になり給へり。さる程に此頃、斯る溢れ者共、大坂南北を廻る由、方々にて此説のみいひ散らして、恐れぬはなかりけり。若殿原達は、うか
〳〵して町中へ出給ふべからず。様々の
寄言悪口などいひ懸けて、喧嘩の相手に慾しがる由を、人毎に申しければ、さても悪き奴原かな。何者ぞ。会つて思ふさま塩付けて、重ねて頭の上らぬやうに、止めさせける人のあれかし抔、宣ひ
【 NDLJP:96】合へりけり。斯る所に水野六十郎殿、其外若き人々、高橋に宣ひけるは、此中斯る珍らしき僻者共、方々歩く由、逢ひ給はぬか如何と宣ひば、光範さればこそ何方にも、左様には雑談候へども、終に某逢ふ事候はずと申さる。天晴彼奴原に
後を取らせて、重ねて出でぬやうに、こみ付けたきものにこそあれ。世には人もなきやうに、恐もなく矜る事こそ悪けれと仰せければ、高橋聞きて申されけるは、縦ひ人五十百連れたりとも、相手に依つて、用に立たぬ事多きものにて候。さり乍らさばかりの狼藉者にて、誰ありて相手になるべき。構ふ者の候はずば、軈て己れと引込み申すべきにて候とぞ申されける。人々聞き給ひて、何と高橋殿、彼奴原共を
一威し給はぬかと宣へば、光範曰く、自然何者ぞ出向ひ、何某殿ぞ、何れの御家中におはします抔申して、名乗り候へなどといはん時、我れ此節主なき身なれば、誰の家中に何某といふものと、名乗るべきやうなしと申さる。人々聞き給ひて、此座敷にての人々、誰なりとも心易く思ひて名乗り給へ。さもあらば我々も、他用により通り懸りける風情にて、見物申度候と宣へば、高橋思ひけるは、一つは諸人彼等に恐れ戦き、女童に至る迄も、小路を恐るといへば、万民の妨なり。さあらば明日、彼等が歩かん方を聞立て候て、当つイ見申候はんと、約諾しめて帰られける。さる程に高橋は、我が打太刀に、山内新六小者二人、以上三人召連れ、道具には、十文字筋金渡したる八尺の棒などを持たせけり。さて弟子衆も二三人、供廻り、或は五十人百人ほど、能き者共を召連れて、遥後より、いかにも静におはしけり。自然仕落もあらば、折合ふやうに、何れも心得て連れられけり。斯て高橋、三人の者共を召連れて、天満橋筋をいかにも心静に、左右の店など見廻して通りける。案の如く喧嘩買共、今日は、人百ばかりを、五所に中を仕切つて歩ませ、天満橋の方へ、喧嘩を買はんと触れて通りける。高橋、彼奴原にこそと思ひて、軈て尻をいかにも高く菜げ、両膜の反をかけ、喧嘩買の主人と覚しき者に、十文字に行違ひ、立戻つてつと差寄り、胸がらみに緊と摑み、さて御辺に、某喧嘩売るべきが、一定買ふべきかといふ。此者相好青くなりて、中々買はんといふ所を、さらばこれ買へといふ儘に、取付くより早く取つて伏せ、引仰けて眉間を砕けよと打つ程に、眼昏み、鼻よりも血流れ出でて絶入せり。扨備前兼光の三尺一寸、抜
【 NDLJP:97】けば玉散る計なるを、持つて開いて丁と打ち、
鏈着籠を着たる大の男を、茶白切といふものか、腰の
番を一文字に切つて伏せたり。其働手早き事、言語道断類なし。之を見て百計りの徒党等、東西へ算を乱して逃げたりけり。高橋逃がさじと、隙をあらせず追懸る。其中にても器量能き男を目蒐けて、返せ戻せと二一一度四五度言葉を懸くれども、答もせず逃げて行く。急に追詰められて取つて返し、高橋に渡し合ふを見ければ、大の男の
面付眼差
厳しきが、彼等は
半頭にして、頬髭上髭飽迄むくつけく、色黒うして不束なるが、三尺七八寸の打物を閃して、丁と打つて懸るを、高橋は物ともせず、切先にて受流し、逆手に取つて、えいやというて突いたりけり。前より後へ貫かれて、二言とつがず、北枕にぞ伏しにける。之を見る者共、なじかは耐るべき。四方八面へ逃散らして、人一人もなかりけり。時に在地の人等各出合ひ、扨々無双の御手柄、とかう申すに及ばれず。何某殿にて渡らせ給ふ。御名乗り候へと申しければ、水野六十郎家中に、高橋作右衛門光範といふ者なり。此頃彼奴原、方々を立廻りて狼藉を仕り、諸人を悩乱せしむるの由、聞及ぶに依つて、後日の
懲として、手並を見せけるなりと申されければ、此中彼奴原に万人迷惑仕り、卒爾に何地へ出づる事をいたさず、大なる妨にて歎き候所に、斯様の痛き目を御見せ候こそ、誠に難有く、諸人の助に候と大に悦喜せり。さる程に大名小名聞召して、斯る至剛の手柄者もあるものかなとて、見聞く人感じ給はぬはなかりけり。夫よりも喧嘩買等、何地へか引込みけるやらん、一人も重ねて出でざりけり。
【 NDLJP:98】
室町殿物語 巻十
変化の者の事
小栗栖といふ所に、忠太夫某とて、所に於て双なき有徳の者ありけり。田畠山林を数多持ちて、眷族を打随へ、家豊にして春秋を送りけり。されば所の一和庄として、何に不足もなかりけれども、齢五十に及ぶ迄、子といふもの一人もなかりければ、之を深く歎きて、常に神仏に祈り奉りけり。或時忠太夫用の事ありて、京へ上りけるが、其帰さに山科の辺に、年の釈十一二に見えける娘の、
容なべてならず美しき其さま、世の常のものには見えず、愛嬌ありて優しくらうたき事限りなし。田の畔に唯一人、打萎れて泣き居たり。忠太夫は通りざまに熟と見て、あな不思議や、かばかり優しき娘は、在郷にては今迄見ず。怪しさよと思ひて立寄つて、御身は如何なる人の娘にて候へば、斯る煩き所へ、只一人迷ひ給ふらん、怪しくこそといひければ、此娘聞きて、人多き方は寔に恥かし。何をか包み候はん。我は都にても、殿上人の子なりと雖、継母継子の中なれば、父に我身も知らぬ悪事共いひ出でて、裏を搔き給ふ儘、明暮涙に沈む計なり。所詮何方へも迷ひ出でて、如何ならん人にも宮仕ふか、さらずば淵川へも沈まばやと思切つて、此暁京を泣々出でて、何処を指すともなく足に任せて、漸々此所に来りぬとて、袖を顔に当てゝ泣き居たり。忠太夫見るよりも、何とやらん痛はしくて、さもあらば先づ身が許へ来り給へ。御供を申さんとて、手を取りて先に立ちて行く程に、程なく家に帰りぬ。さて女房に向ひて申すやう、斯る容姿の娘なれば、幸と存ずる。御身に取らせ候はんまゝ能々憐れみて、子にし給へとぞ申されける。女房聞くよりも嬉しくて、急ぎ立出でて見れば、世に類なき姫にてぞ侍りける。先づ手を取りて内へ呼入れ、様々もてなし劬りて、扨三日も過ぎければ、女房娘にいふやうは、此の夫婦には此年に及ぶ迄、子といふ者の候はねば、常に願ふ折柄なり。幸の事に侍れば、今日よりも御身をば我子にすべし。然れば何
【 NDLJP:99】なりとも、御身の望あるならば好み給へ。整へて参らせんといひければ、娘聞きて、難有き御情に侍る。子迄は恐あり、何なりとも宮仕申すべしといふ。夫婦猶もいとほしくて、喜ぶ事限なし。此年月の神仏に祈り奉りける、其利生にこそと、万心に違はぬやうに、劬り養ひける。凡て賤屋の習にて、女は布機を第一の所作とするなれば、麻そより綿を延べ、昼はひねもす夜は夜もすがら松を明して女の手業とす。家に事ふる下女、聊か絶間なく物しけるを、娘見て申すやう、年頃人の物語を聞けば、余所のやうに聞侍りしが、身の上になりぬるこそ不思議なれ。我身も斯る手業を習ひて、親達の助にせばやと、母が片手に立並びて物しける程に、母いひけるは、さて御身は世にありし時、何事をか手ずさびにはし給ふらんと問へば、朝夕の弄に歌・草紙・琵琶・琴抔を、明暮手慣れしより外は、別なる事嘗て名を知らず候といふ。夫婦は之を聞きて、尤もさこそ坐すらめ。さり乍ら上臈の弄は、賤屋には仮に入り侍らず。物読み手書くことは、第一の重宝にて、能き人の能き業にて候。さもあらば急ぎ
読書し給ふべしとありければ、娘喜びて、硯料紙机など整へさせ、明暮窓の下に心を鎮めて古き書共学びける。斯くして其年も立ちて、十四といふ弥生の頃、横川に住める僧に、貞心僧都とて、いと尊き貴僧のおはしけるが、他郷へ行くとて雨に会ふ。村雨を止めん為、此忠太夫が家に入りて、暫し晴間を待たれけるに、窓の中を差覗き見給へば、容めでたき娘の、古き書共まさぐりけるを見て、怪しく思ひ躪り寄りて、娘が書きける手を見給ふに、中々おとなしく、世に類あるべしとも見えず。大に驚きて能能見給ふに、更に此世にあるべき人とは見えず。さて父母に、奇特なる子を持ち給ふものかなと宣へば、夫婦は承りて、何をか包み候はんとて、始終を語り侍りける。僧都聞きて、御祈祷の為め徳善院へおはしけるが、万物語の次に、此娘が事を語り給へば、何れの人の娘にてかあるらん、不思議さよと仰せければ、北の方聞召し、あらば帰り給ひて、娘が手跡を、何にても一目見せてたび候へとぞ宣ひける。僧都承りて候とて、夫より軈て帰さに、忠太夫が家に立寄りて、斯る仰を蒙り候へば、何にても一筆御目に懸けられ候へと仰せける。娘聞きて、斯る田夫の子として、賤しき身の手など、貴人高家の御目に懸くべき。思も寄らぬ仰にて候。僧都、不思議の
【 NDLJP:100】事を聞ゆるものかな。学文手など書きしは、人倫の中にて最上の人とす。聖賢の所作ぞかし。三国に聞ゆる祖師前聖、元は何れも田夫より出で給ひて後、世間の灯となれるぞかし。未だ年の数行かねば、物の道理を知り給はぬものかな。早々御目に懸けられよと宣へば、娘聞きて、見せ奉らぬ悪みに依りて、只今追失ひ給ふとも、御目には懸くまじ。是非々々と宣はゞ、又来ん春の頃、必ず手など書上げ侍りて、御目に懸け参らせ候はんと、穴勝に辞しければ、僧都力なく、此由申入れられければ、北の方愈不思議に思召しけり。さるにても如何やうの容にて、如何程か手書くらん、御身行きて、見て帰れと仰せられて、千代殿と申す
手書の女房を遣し給ふ。夫婦は亭へ請じ参らせて、様々もてなし侍き奉り、其後娘を出して見参に入れければ、千代殿見給ふに、寔に
容類なき容儀かな。相好あてに美しく、髪は飽迄長うして、ひとえの絶間に
溢れ懸り、物いふ仮粧いと優しく、思入る由、遥に優りてこそは見給ひけり。さて何にても筆ずさびを見せさせ給へと宣へば、畏り候。人の見参に入るべき手には侍らねども、是にて御覧候はゞとて、古歌を四五首書きけるを、取出でて見せ
侍り。千代殿
熟見給ふに、言語道断女の筆勢なれば、弱きやうにて強く、墨付文字うつり、何れに後れたる所もなく、心の利きたる手跡いはん方なし。千代殿宣ひけるは、さても御身は、如何なる人の胎内より出で給ふぞ。なべての人にはあらじ。夫婦も斯る子を設くる事、誠に神仏の御計らひに会はずば争で得べき。愚に育て給ふな。親の光になるべき娘にこそと宣へば、夫婦もそゞろに嬉しくて、喜ぶ事限りなし。後千代殿仰せられけるは、あはれ此方を、我主君に一目御目に懸け参らせたく候。叶ふまじきかと宣へば、娘聞きて、我等如きの、而も幼びれたる由もなき手習すさびを、いかで御目に懸くべき。如何に仰せられ候とも、それは御許を蒙らん。いつぞやも僧都に申参らせ候如く、来ん春は必ず御目に懸け候べし。凡て君一人ならず、方々より仰せられ侍れども、何れも許し給ふなりとて、見せ参らせし物共取集めて、奥へぞ入りにける。力なくして、斯程に
理申すを、色なく所望したりと数かせんも、筋なき事にこそとて、夫より帰り給ひける。斯くて月を経る程に、春夏も漸く立ちて、秋もはや半更け行き、山々の景色、峯吹下す嵐木枯もいとけはしく、松吹く風に暁の、
【 NDLJP:101】夢打覚むる枕の下に、虫の声も早枯々にて、物哀なる空の景色、初霜の身に泌々と、辛く当るもいと堪へ難くて、
草むらの涼しき方を尋ねてし身のほどもなくあへる初霜
斯く詠めて短冊に書付けて、我が枕のもとに立てける屏風の端に押したりけるが、斯くして月を経ければ、彼方此方に、此娘珍らしきものなりとて、聞及び給ふ方々より、やんごとなき人々、時ならず来り給ひて、之を見給ふに、驚き給はぬはなかりけり。さる程に此年も打暮れて、明くる春にもなりしかばとり〴〵に好み給ひて、美しく拵へたる料紙など、山に積みて見えにけり。夫婦申すやうは、此春は、方々より望み給ふ書物抔、書き給はずば叶ふまじ。固く契りし事なれば、今日よりも始めて、手すさびを差置き、書かせ給へなど勇むれば、娘聞きて微笑み、畏り入候。過にし年迄は、文字うつり墨付、いかに人々の賞め給ひても、我心に叶はぬ所多かめれば、之を書き得てと思ひ侍りて、人の兎角仰せらるれども、書かざりしなり。今は能々心をうけて候へば、如何やうにも書き参らせ候はんとぞ答へにける。夫婦聞き嬉しくも聞ゆるものかなと、何事も心に違はじと、朝夕娘が気色をぞ取りにける。斯くして月も移りて、卯月の初つ方、鳥の初声聞くもいと珍らかに覚えて、心ある人々は、枕を峙てゝ、今一声と忍ぶ折節に、父も母も事へる下女も田草取りに、皆々はや田に急ぎけり。娘只一人を留守に止めて出でければ、終日徒然なりとて、卓に凭掛りて眠り居たる折節、齢八十にも及びぬらんと見ゆる乳母の一人来りて、稍久しく物語抔しけるが、娘も万搔集め、いひ続けて泣きにけり。既に時移りて、昼つ方にもなりぬらんと見ゆる頃しも、隣の男、用の事ありて忠太夫が家に行き、此者を見て怪しみ、いかにや人々はといひければ、娘朝まだきよりはや田へと答ふ。男聞きて、留守能くおはしませ抔いひて帰りける。其後娘、我が住みし室に差入りて、万取認め、隔の障子押立てゝ、此乳母を打具して家を出でにけり。さる程に黄昏時にもなりぬれば、夫婦帰りて見けるに、娘居ざりけり。家の内外あたりほとりと尋ぬれども、見えざりければ、こは如何なる事ぞと泣焦れ、日頃彼が住みし所を見つれば、取認めて、何地へも行くべき所へとなん見えにけり。隣の人訪ひ来て、斯々ある由告げければ、さては親【 NDLJP:102】の許より之にあるを能く知りて、迎に来しけるものなるべし。何地を其処とも知らざれば、跡を求めて尋ぬべき頼もなし。詮方なくて伏転び悲しみける。娘が日頃書きたるもの抔を取りて見ければ、文字の姿は悉く消えて、其跡は所々薄墨の残れる方もあり、又地より消えてなきもありけり。余り不思議に覚えて、彼方此方よりも書かせよと仰せられし方様へ、之を見せ侍れば、見る人毎に興をさましてぞ見え給ふ。玄以法印の北の方之を御覧じて、何と所望しても見せぬこそ理なれ。誠の文字にあらざれば、斯様に消え失するを、うたてしく存じてなん。此は狸か狐の類が化けたるものにこそ。彼が術の上るに依りて、文字も即ち上るなるべし。さるに依りて、方々へ召さるれ共参らず、手を書かすれども、一字も書かざるは此故ならんと、奇妙に思はぬ人はなかりけり。父母も、彼が失せて此三年の事共も、夢の覚めたる心地しけり。今は恋しとも床しとも、思はざりけりといへりけり。
天狗変じ来る事
仏法盛れば魔盛るといふ事、誠なるかな。此頃玄以法印の内方に付けて、いと尊き僧おはしけり。若年よりも曹洞宗にて、方々遍散し給ひけるが、東西を修行して、此頃は中国芸州にありけるが、私用に依つて京へ上り、徳善院へ坐して、様々物語どもありける次に、過にし年、奇妙の事ありしを、語りて聞かせ申さん。芸州西条の和尚は、大悟大徹の長老にて、世の人尊み奉ること類なし。或時和尚仏前に坐禅をして坐しける所へ、年の程十六七に見えける、いかにも美目よき小僧、何処ともなく来りて、東堂の前に畏り居けり。禅師御覧じて、小僧は如何なる人にて、何処より来れるぞ、怪しさよと仰せければ、小僧の曰く、此辺に罷在る若僧にて候。和尚へ尋ね申したき事共候ひて、是まで参り候と申す。東堂聞召して、優しくも申すものかな。何事なるらんと宣へば、小僧軈て一間置きて、和尚と稍暫く截断せり。事終りて、又明日参り候はんとて帰りけり。斯くして毎日来つて法問せし程に、和尚もいかさま稀有の者なりとて、覚束なくぞ思しにける。さる程に六月七日にもなりければ、早天に此小僧来つて申すやうは、東堂は都の祇園会御覧候やと申す。和尚聞召して、
【 NDLJP:103】我れ既に六十に余り、今日明日と思ふ程の境界なれども、終に見物したる
例は侍らずとぞ宣ひける。小僧承りて、事夥しき神事にて候。御望に候はゞ、只今御供して見物させ申さんといふ。東堂可笑しき事をいふものかなとて、暫し返事もなかりけり。重ねて申しけるは、遠路いかでと思しけるも理なり。さらばとて小僧鳶の羽を一枚取出でて、此に乗らせ給へと勧めければ、和尚怪しみ乍ら乗り給ふと等しく、雲の原へぞ上りける。遥の下を見給へば、蒼海漫々として魂を冷せり。我にもあらぬ心地にて、何と成行くやらんと思しにける。斯くて着きぬと思ふ時に、目を開きて見給へば、程なく大山に立てりける、杉の上にぞ落着きける。和尚、此処は何処の国、如何なる所ぞと宣へば、是こそ都の西、愛宕山と申す所にて候。祇園会も未だ初まらず候間、今暫く爰に坐しまして、御休息あるべし。さり乍ら何にても食事の望候はん儘、是に暫し待たせ給へ。整へて来り給はんとて、つい立ちけると思へば、くれに見えざりけり。兎角する中に、小僧はや帰りて、是々和尚参り候へとて、如何にもきらびやかなる器物に、好味を尽しける美膳をぞ据ゑにける。東堂御覧じて、之は早速に整ふものかなとて、形の如く食し給ひける。其後珍酒を振廻ひ候はんとて、所々の名酒あまた寄せて勧めにける。兎角して時も移る程に、はや祇園会も初まる時分にて候。いざ
〳〵御供仕らんとて、又件の鳶の羽に打乗りて、虚空を指して飛びけるが、刹那が中に、祇園の廊門の上にぞ落着きける。誠神事の最中なれば、都鄙の貴賤上下、東西南北に充満して、人の立込むこと、家々に限なくぞ見えにけり。小僧申されけるは、向へ来る武士共を見給へ。身丈に及ぶ太刀刀を指し、張肱に大路狭しと、多勢歩く事の面憎さよ。和尚も徒然におはしまさんに、ちと喧嘩をさせて、賑かにひらめかせ見物せんとて、棟の上に生ひたる苔を、少しづつ摑み、ばら
〳〵と投げければ、御辺は卒爾を人にいひ懸くるものかなといふ中に、又
礫を雨の如く打ちければ、総見物共入乱れて、此中に馬鹿者こそあれ、逃がすまじとて、太刀刀引抜きて、爰に一群彼方に一結び、五人三人宛に渡し合ひて鎬を削り、打物よりも火焰を出す。女童之を見て、四方へばつと逃惑ふ。あれ
〳〵和尚御覧ぜよ。何よりも面白き慰にて候はぬかといひければ、東堂宣ひけるは、さのみは人を苦めて、罪作りに何
【 NDLJP:104】かせん。早々やめ候へと宣へば、さあらば喧嘩をやむべしと申す。西の方を二三度招きければ、見物の人々も、喧嘩をいたす輩も、只今徳善院こそおはしまし候へとて、八方へむら
〳〵とぞ逃げたりけり。其後見ければ、玄以法印は、上下三百計にて、馬上にありて狼藉仕り、万民の妨をなす輩、悉く捕へて籠者させよと下知し給へば、あたりに人一人もなかりけり。斯くて時刻も移りて、祇園会の山鋒、囃し立て渡しけり。小僧、此処は所
合遠にて面白からず。能き所にて見せ参らせ候はんとて、四条の町の、一二にさしたる華麗なる家に、東堂と我れ二人ありて、さて何処より取りて来りけん、杉重・角折・洲浜の台など、数多和尚に勧めけり。山鋒も悉く通り過ぎければ、今は見るべきものもなければ、いざ
〳〵故郷へ帰らんとて、又鳶の羽に打乗せて、其日の六の初に、西条にぞ帰りける。帰寺して後にぞ、和尚は、夢の覚めたる心地はしつれとぞ、宣ひけると語り給へば、玄以法印を初めて座中の人々、唇を返して、稀有にぞ思ひ給ひける。
【 NDLJP:104】
室町殿物語 巻十一
扇の絵の事
或時玄旨、刑部少輔へ用の事ありておはしまし、終日遊び暮し給ふ所へ、御城の女中方より、扇を二本こし給ひて、此絵は土佐とやらんいふ画工の書きたる絵に侍る。されば玄旨、伊勢物語など引合せて見侍るに、一本の扇の面に書ける様は、袖をかたしきて伏しける女、又傍に磯打つ浪の荒き方を書けり。又一本は黒装束に笏持てる公卿の、少し面の色赤く黒み勝なるが一人、又廿ばかりになん見ゆる女房の、あてに艶かしくらうたきが、柳の五つ衣に、千入の袴を側高く着なして、
鬚籠に何とも見えず果物など積上げたる風情を、いかにも気高く書けり。屋造は母屋の御簾遥に見えて、聊か巻り上げ、屏風几帳をかいつくらふ粧、誠に筆を尽して見えにけり。幽斎倩
【 NDLJP:105】見給ひて、只今申すべき事にあらず、明日詳に記して、此方より参らせ候はんと宣ひて、使を戻されにけり。其後刑部少輔取りて見給ひ、さもあれ此絵は、終に見慣れぬ体なり。何たる心にか侍るやらんと宣へば、幽斎申させ給ふやう、袖をかたしきて伏したる人は、古歌の心を書きたり。定めて各も聞及ばせ給ふべし。
さむしろに衣かたしき今宵かな我を待つらん宇治のはしひめ
此歌は衆議し給ふに神詠と云々。橋姫の物語に曰く、昔宇治橋の辺に、夫婦の人住めり。男の習なれば、又傍のさる女房と語らひて、二道かけて思へり。斯くして日数経る程に、本妻或時男に申すやうは、我れつはりを病めり。七色の若布を望むこと切に思へり。如何にしても求めてんといひければ、男安かるべしとて、海中へ取りに行きければ、此男龍宮へ取られけり。本妻悲しむこと限なし。さるにても、若しも会ふ事ありやせんと焦れて、夜毎に磯辺に出でて袖をかたしき、其方の方を見遣りて、夜もすがら泣伏しければ、夜半過ぎて、此男海上より来るとて詠める歌なり。此を限なく口号みて、さて本妻に相語らひ、暁は帰りけり。此由を後の女房聞付けて、あら腹立ちや。我は彼に捨てられし事こそ恨めしけれ。会うて焰を冷しなんとて、之も磯辺に袖をかたしきて、小夜更くる迄待ち居たりければ、案の如く男、件の歌を詠じて、海上より来れり。程なく上りければ、女怒れる眼差にて摑み懸れば、男聞きて、くれに見えざりけり。其後所の者共寄りて、此男を神に斎ひて離宮大明神、本妻をば橋姫明神と斎ひて、今に崇めりと云々。今一本は、権中納言定家卿、或時内より召されしかば、疾参りて、母屋の此方の障子の下に、黙然として只一人控へ給ふ。良あつて後の宮より、籠に果子を包みて、女房三位を御使にて、御慰におはしませとて、差置かれける時に、定家卿折節あたりに人もなかりければ、軈て女房の手を取りて、座興をいひ懸け給へば、此女房、恥かしげに打そばみて、何と仰せられ候ても、御色の黒くおはしまし候てと申されければ、定家卿笏取直して、斯く仰せられける。
かづらきの神は夜こそ契りけれみめにはよらじ人は心を
上臈は姿は美しく龍たしと雖、無学におはしませば、心はえびすにこそ候へと仰せられければ、女房恥しめられて、顔も擡げず走り入りにけり。凡て定家卿は痘顔に【 NDLJP:106】て、而も相好黒くおはしませば、奥深くは思しにける。
狂歌物語の事
善浄坊の曰く、宗祇法師、或時私用の事ありて、津の国へ罷りけるに、殊の外草臥出でければ、暫く休息せんと思ひて、或酒屋へ立寄りて、酒を飲まんと思ひて、中の板間に腰を懸けて懐を見れども、銭を忘れて入れざりければ、力落して、如何すべきと案じければ、亭主気色を見て、何ぞ落し給ふか、いかゞといひければ、宗祇、価を宿に忘れて、此処に一銭もあらねば、夫故草臥の出で侍るとて、軈て狂歌を詠めり。
壺の中匂ふと見れば梅の花さけがな一つ春のきどくに
とすんじければ、亭主聞きて、心あるものにや、さても仰せられける御坊かなとて、返し、
壺の中匂ひし花も散り果てゝ霞ぞ残る春のきどくに
となんいひて、軈て酒を出して、心の儘に振舞ひける。立さまに宗祇と聞きて、天晴無念なる事かな。疾にも斯くと悟らば、是非共に望む事共ありけるものをとて、後悔しけるとなん。
或時秀吉公、御能御興行の折節、樋口といふ太鼓打、自然居士のさゞなみを、面白く流しければ、簾も凡帳も諸大名も、さゞめき渡りて興ぜられけり。時に秀吉公、御感の余りに、幽斎を召して、只今の皷はいかにと御諚ありければ、幽斎承り候とて、
わすれても質には置かじ大皷ひつたながしに流すひのくち
桑山法師の曰く、蜷川新右衛門、年頃深く思ふ女房の方へ文遣しける。其の端書に歌詠みけるに、使取違ひて、本妻の方へ届けゝれば、女房詠みて京へ返しける。
蜷川の底のこゝろのあさければこひし〳〵の数ぞ見えける
其後新右衛門、又故郷へ使ある次に返し、
思ふ方あまたありその浜千鳥ふみたがへする足もとを見よ
或時昌純、鯉を近衛殿へ進上仕るとて、斯く詠みて奉りける。
折あらば申させ給へ二つもじ牛のつのもじたてまつるなり
【 NDLJP:107】又勢州たけの御所、御病気に依つて、医術を尽し給へども、確と元気も見え給はざりければ、貴僧高僧を請じて、御祈祷いみじくおはしければ、其の験にや、本懐し給ひける。上下喜ぶ事限なし。長島の某といふ人、御喜の状を参らするとて、斯く聞えにける。
かぢりきに病はいでてまかるしやれそはたやうんの強き君哉
狂歌所望の事
或時紹巴、玄以へおはしまして、終日御振舞の中休に、小性衆と雑談共ありけるに、
鹿馬三介と申す人、新しき扇を一本取出でて、硯取添へ、紹巴に向ひて、此扇に、憚り乍ら狂歌一首遊ばし給はるべき由申されければ、扇取り押開げ、筆を取りて、
腰もとにさしつかはれて骨折に主人の気にもあふぎなりけり
秀次公の御小性衆、玄以法印の出仕ありて、広間にて、人々と暫く物語共おはしけるに、或小性衆、美事に絵を書きたる扇を差出して、一首当座をと所望せられければ、
山椒のあさくらよりも夜詰させ辛き目を見る小性達かな
五条あたりに住みける漆屋、又酒を作らせて売り侍りければ、斯くいひて黄昏時に遣はしける。読人知らず、
銭にてはいくら計にうるしざけまけてたべとぞ夕暮の空ら
或侍衆、謡俳諧をして、玄旨法印点を頼み給へば、奥に狂歌を書き給へり。
皷にはのせねどさても出来たりと手をもち賞むる謡俳諧
年の初に鶯の軒端に来りて啼きければ、
昨日より今朝かけて啼く鶯ぞ尊かりけるほけきやうの声
或時玄旨を初としてさるべき各、野駈に出で給ひて、芝居を定め座に着かれければ、客人先づ酒を出され候へと申されける。幽斎聞き給ひて取敢ず、
いざさけの菅相丞といふまゝになべをぞかくる自在天神
又鶯の初音を聞き給ひて詠み給ひける。
衣より今朝きて啼くは鶯のこゑもたふとしほほう法華経
【 NDLJP:108】或人の若菜を所望し侍れば、
筒井筒出づらん月は雪消えて別れも野辺に老にけるかな
えのこ草を詠みて扇に書けりける。
えのこ草はえかゝるこそ道理なれあたりに近き狐らん菊
春駒の勇む方を書きたる扇になん詠めりける。
むらさめの頃しも急ぐ花見には道もあしげに乗れる春駒
沢辺に燕子花の咲き乱れける風情を書きたる絵に狂歌を、
人ならば花もや恥を燕子花ひつたとにほふ沢辺なりけり
梅に鶯の止りて啼きけるを聞きて詠めりける。
ほそかきは危なかりけりさやもなき梅のほだちに止る鶯
雨中の徒然なる頃、何れも参りて御気色を伺ふ人に、よしゆきといへる人来りて、会ふ甲斐もなき恋といふ心を、所望し侍れば、
かたぢくに取集めたる蛤やあふかひもなき今宵なりけり
或時幽斎中間を召されて、庭前の雪掃くべき由仰せられければ、畏り候とて、箒を持ちて、稍寒さうにて縁の端へ差寄るを御覧ずれば、古き布子のさも見苦しげなるを一つ着きて、掃きけるを見給ひ、
あるかひに情なく見えし古布子暁ばかりうきものはなし
或時近衛殿、「山みちの奥にけはしき不動坂」と仰せられし句に、紹巴、「火焰が燃えて出づる早蕨」。又「上の空なる恋もするかな」と打戯れさせ給へば、「陸奥の忍ぶ其夜のよばひ星」。八月十五日雨降りて月もなければ、斯く聞え給ふ。
天の原たゞも食ふべき望月につけてくやしき夜の雨かな
梅の木にて沙汰ある事
西山の傍に空世といへる人、世を退いて菩提心を起して、星霜を経けるが、子三人持てり。嫡子は今年十三になれり。継母の腹に、十歳に及ぶ男子と、七歳になる娘ありけり。然るに空世行年既に七十に及びけるが、聊か煩ひて重げに労りければ、養
【 NDLJP:109】生を加ふると雖、老後なれば、頼少く見えけり。日を経て身まかりぬべく覚えければ、
縁の人来りて、亡跡の事など、いかにも確にいひ置き給へと、度々いひけれども、終に兎角をいはざりけるが、今ははや限りと見えければ、継母を始として、数多の子供なり、家財山畠誰にか譲り置き給ふなど、頻に勧めければ、空世、縁の者共、又はあたりに親しむ人々を呼びて、我れ死しなば、年頃秘蔵せし庭前の梅の木を、惣領に取らするなり。家財以下の事は、梅に付きて廻るべきぞやといひ棄てゝ伏しければ、人々、こは何事を宣ふぞや。心乱れて、斯る筋なき事をいへるにこそと、種々に賺せども、其後は嘗て物をもいはずして、食事をも絶え伏しけるが、終には儚なくなりにけり。さる程に継母は十歳になる男子あり。是に父が跡を知らせたく思ひて、種々に謀を運らせども、惣領が緑出でて、嘗て同心せず。斯くして後三年も過ぎければ、後家詮方なくして訴訟に申上ぐる。玄以召寄せ給ひて、聞かせ給ふに、惣領には秘蔵の梅の木一本を取らするなり。家財は之に付きて廻るべき由、申置きしこと疑なし。田畠以下は下二人の子供に、取らすると申す事に候。兎角夫妻の遺言に仰付けられ候やうにと申しければ、玄以聞き給ひて、双方の親類並に他家の者まで召寄せ給ひて、委細に御尋ありけれども、只今後家が申すに聊も違はずと申す。徳善院其儀ならば、家財は申すに及ばず、空世が持ちける物共、一毛も残らず、惣領に取らするなり。弟二人は汝親類になつて、夫々にあり付き申すべし。後家は勿論育み暮すべき由、御下知なされけり。惣領が縁も継母の親族も、大に驚きけり。継母重ねて申しけるは、夫妻の申置き候やうに、是非共仰付けらるゝやうにと、度々歎き申しければ、汝等は愚痴なる者共かな。夫妻が遺言の如くに言付くるを、
強て申すこと曲事なれ。汝等能く聞け。夫れ梅といふ木は、年の初に花咲き実るものなり。一切草木の頭なれば、梅を花の兄とは申すなり。さるに依つて惣領を梅にたとへて、頭とすれば是れ親なり。此空世といふ法師は、なべての者にあらず、広才の仁と見えたり。早々罷立てと仰せられければ、人々承つて、さては凡下の思ふ事にあらず、学者の上の沙汰なるぞや。難有しとて帰りける。恙なく遺跡、いひし如くに立ちけるこそ不思議なれ。
【 NDLJP:110】
室町殿物語 巻十二
光範手柄なる捕者の事
或時生駒雅楽頭抱へ置き給ふ相撲取三十人の内、勝れたる相撲取に、浮雲・ひらぎ・かけはしとて三人は、何れも劣らぬ大力にて、其名を取りし者共なり。されども此者共己が勇力を頼みて、人を何とも思はず、動もすれば喧嘩口論など悪事を起し、沙汰に及ぶこと多かりければ、雅楽頭安からぬ事に思して、或時家中を窃に召して、彼等を如何にもして生捕り、懲らしめの為に、成敗をすべきの由仰付けらるゝ。各承りて申されけるは、三人の者共を、容易く生捕に仰付けらるゝ事は、何ともむづかしき御意にて候。さり乍ら急度案じ申すに、御家中の若き衆、何れも兵法稽古致され候其師に、高橋作右衛門と申す士御座候。此仁を御頼み候て取らせ給はゞ、何の煩も御座あるまじき由を申されける。雅楽頭聞召し、其仁は方々にて聞及びたる覚の者なり。幸ひ家中の者共指南を受くるならば、追付け呼寄せ候へ。近付になりなんと仰せければ、承つて光範に斯くと申されける。さあらば今日は私用御入候間、明昼参り候はんとぞ申されける。斯く約せし上なれば、翌日生駒殿へ参られける。
厳しく美事なる異体かなとぞ覚えけり。其の後様々の御物語どもおはして、終日饗応し給ひける。斯くして一儀を頼む由窃に仰出されける。高橋承りて、安き事に候。追付明日捕り申すべく候。一人として、三人
仕畢せ候はん事なれば、其首尾あるべし。私好み候はんとて罷立たれける。翌日参りて家老を呼び、窃に申されけるは、殿の御尋なさるゝ事ありとて、一人づつ中間を入れさせ給へ。其中戸の陰に罷在つて、捕り申すべき由申されければ、委細心得候とて、中門の内にも、覚えの人々を数多入置かれけり。自然の用意なり、雅楽殿見物すべしとて、疾より出でさせ給へば、御前の老若の侍衆、其数伺候せられけり。さる程に高橋は中門の陰に、革袴の裾高く取りて確と挟み、一尺二寸の小脇差を唯一腰差して、様ありげなる気色して、椽の
【 NDLJP:111】端に腰掛け、遅しと待ち居たり。三人の者共参りける由を申す。殿より御尋なさるる事あり、一人宛参らるべき由申付けられければ、畏つて刀などを小者に持たせ、大脇差計りにて、中門を入りにける。何心もなく高橋に罷通り候と、礼をいふ所を、つと寄つて
俯さに取つて伏せ、右手の膝にて、七のづを必死と詰めて、軈て早縄懸けたりけり。大力とは雖、少とも働かせず、手早き事いふ計なし。頓て引起して夫々といひければ、松の下に引据ゑたり。後二人の者共右の如く、聊も仔細なく取済して、三人引据ゑたり。雅楽頭殿御覧じて、扨も
〳〵思ふよりも手軽き無造作なる事かな。大の男の逞しく、力飽迄盛なる者共を引伏せ
〳〵、捕固めらるゝ。其功言語述ぶるに能はずと、悦喜限りなし。御前に有合ふ人々、此首尾を見給ひて、光範に会うては、力も器量も用に立たず。健気にも捕らるゝものかなと、唇を返されける。斯くて此褒美として、赤鑓・呉服・銀子并に三人の者共が、金銀にて作りたる両腰まで給はりけり。又或時天王寺の辺に、至剛の狼藉者主従二人取籠りて、何者にても剛強の侍あらば、寄つて仕止めて高名にせよといひて、立籠りたる程に、生駒殿の奉行柳村源次兵衛・松本忠左衛門、百五十余の人数にて四方を囲み、夜昼三日が間は、様々
偽り、いろいろ智略を運らすと雖敢て用ひず。たゞ切死をして、真途の思出にすべしというて、寄する者を相待ちける程に、此上はすべき道なし。たゞ家に火を放ちて、焼討にせんより外はなしと、各
倦みて見えにけり。さる程に老中雅楽頭殿へ、如何仕るべきと申されければ、大事の仕者を、重ね
〳〵如何なれども、高橋を頼みては何とあるべきと宣へば、さん候。光範は此程咳気を仕損じて、今程養生半なる由を承り候。さり乍り人を遣して見せ候はんと申されければ、生駒殿、人迄もあるまじ。其方行きて見よかしと仰せられければ、畏り候とて、軈て高橋へぞおはしける。折節作右衛門、昨日今日は心地少し押直して、食事など調へしかば、気色軽げにて、珍らしく尋ね給ふものかなとて、座に着きしかば、万物語などし、酒など勧めて後、此事如何候はんと申されければ、高橋聞きて、某咳病ならずば行向うて、いかにも仕るべき事なれども、何とやらん頭重く、身の皮肉痺るゝやうにて心むづかし。されども三日四日さゝへ給ふ事、他国の聞えも、人なきやうにて然らず。人の一人二人籠りたれ
【 NDLJP:112】ばとて、何程の事かあるべき。焼討に仰付られん事も、余り事々しく、近隣の煩あり。先づ某罷りて見候べしと申されければ、さもあらば雅楽頭も、大慶に思し候はんとて、悦入して帰られける。其後高橋二人召具して、天王寺へ行向ひて、柳村・松本を見ければ、青息をつきて呆れ切つたる風情なり。さて如何に此中永々の苦労、さこそと推量いたせり。某も此間咳病に冐されて、散々伏し居申す所へ、殿より老中給はり候まゝ、先づ見舞の為に罷りて候と申されければ、両人、さればこそ此者共は、切死せんと思切つて、主従能き相手を好む事にこそ候へ。斯る曲物を、安らかにすべき
方便などは候はぬか。何とも気の毒なる事にこそ候へと申されければ作右衛門。さ候はゞ、某先づ中へ入つて見候べし。四方の人数を一町余り押退けて防ぎ給へ。凡て此辺に人数無用の由申されければ、畏り候とて、どつというて退きにける。扨高橋は、両腰共に人に持たせ、我身は丸腰にて裏へ廻りて、戸を叩きければ、内よりも何者ぞといふ。苦しからぬ者なり。奉行所より使に罷れり。先づ開け給へと、心静に、いかにも押鎮めていひければ、内よりいふやう、夫は何の為め越され候やらん。いふ事あらば、それにて申され候へ。承らんといふ。光範曰く、何の気遣もなき使者にて候。御覧候へ。丸腰にて、扇だにさゝず候へば、用心迄もあるまじといふ。打寄り差覗きて、
辺を見廻しければ、四方に人影もなく、此人只一人、誠に扇もさゝず候。さては心安し。若し怪しき者ならば、一打に打つて捨つべきものをと思ひて、それ
〳〵開けよといひければ、小者共出でて、さらりと開けにけり。高橋いかにも心静にはいりて、亭に腰を掛けゝれば、二人の者は上に畏り居て、さて何事の御使にて候。承らんといひければ、高橋曰く、昨日今日天王寺の執行惣房、たつて訴訟申されけるは、当山八町四方は、殺生禁断の地にて候へば、たとひ重罪の者なりとも、他国より来る科人ならば、惣房として、此地は是非共申請け候はん。其外はいかやう も御計らひあるべし。但当所の人を、あやまりたる者共にや候。実否を委細に御聞届け候て、仰付けらるゝやうにと申さるゝに付きて、さあらば仔細を具に問ふべしとて、某を遣し給ふ。如何なる意趣にて、斯様には取籠り給ふらん。早々語り給へと長々しげに申されければ、実にもやと思ひけん、始終を具に語りける。高橋聞
【 NDLJP:113】きて、其儀ならば別に仔細なし、夕さりの紛れに、何地へも失せ給へ。某只今御前へ参りて、よきやうに申候はんといひて立ちければ、此上は兎も角も、御身の計らひに任せ候はんと、少し寛ぎ顔にて申しければ、高橋肯きて、其処をさらぬ体にて出でにけり。さて奉行所より会うて、此首尾を委細に語りて、夕さり窃に落し遣るべし。主人は某捕らん。先にて従類を取逃し給ふなと、固く約せり。斯くて其日の暮るゝを待つ程に、程なく黄昏時にもなりぬれば、高橋聞きて、右のやうを申上ぐる所に、其儀ならば何地へなりとも、落し候へとの仰にて候まゝ、思し寄る方へ落ち給へ先づ主従一同には無益ならん。主人は後より心静におはせよ。某も送れと思ひ給はゞ、一町も二町も送り候はんと、隔なきやうにいひければ、難有き仰にて候。さり乍ら行先程に待伏はあるまじく候かいかゞ。覚束なく候由申されければ、当山よりの詫言、様々に依つてなれば、気遣少しも候まじ。若しも違の候ひて、待伏に会ひ給はゞ、爰にても切死、又行先も切先、それは其方私意の如しと思召して、思切つて出で給へと打笑ひていひければ、尤も
〳〵とうけて、油断なく歩みけるが、はや世間も静まり空しも暗うして、人しも見分くべきやうもなかりければ、従類東の方を指して、落ちて行きけり。さて主人は、夫よりも遥後に、両腰を帯して、西の方へ落行きけり。高橋は折節五月半なれば、麦の刈積みける陰に隠れ居けるが、出づると見るより、後より取つて伏せ、早縄を懸けたり。やゝと二声呼びければ、続松立てゝ奉行衆各来て、喜び勇みて引かれにける。さて従類も仔細なく搦捕つて来り、一所に置かれにけり。即ち大小路へ遣して後、禁獄せられにけり。雅楽頭殿を始めとして聞く程の人々、二人ありける囚人を、只一人して妨なく捕畢せ給ふ
方便の程、至剛の手柄度々に於て、大慶に存ずるとて、様々の引物を給はりけり。
兵法奇妙の事
筑紫よりも、兵法修行に上れる片山重斎といふ人ありけり。卜伝が一流を伝へて、二つなき兵法の極意を指南しける程に、五条坊門にさるべき宿を取つて武家、在家を選ばず、弟子共数多附けて、朝暮に指南せり。取分けて兵法の道理面白しとて、徳
【 NDLJP:114】善院の家中、大方残りなく弟子になりて稽古せり。或時玄以法印の家中に、深沢兵部少輔といふ人の許へ、六月の半に、終日重斎を呼びて、遊び暮らせり。夜に入りければ、庭前に水まかせて、傍輩衆七八人打寄りて涼みけるに、稽古の為とて、木刀数多組みて、出し使ひける所に、年の頃十六七にもあるらんと見ゆる小人の、相好容器類なく美しきが、白き帷子の麗しきを着、一尺余りの脇差に、扇取添へて差したるが、忽然として庭前に畏り、兵法をば見物せり。兵部少輔見給ひて、あれに見え給ふ小人は、誰人にておはしけると問ひ給へば、此若衆、差寄りて申されけるは、此御館近き所に住むものにて候が、兵法を某も少しづつ心懸けて、明暮此方彼方と仕候。承れば今日重斎とやらんの、此方へ御来駕の由、承及び候に依つて、御太刀筋をも一覧仕度存候て、案内をも申さず、御庭まで伺候仕るの条御許されを蒙り候はんと申されける。兵部丞聞き給ひて、扨は優しき御志にて候ものかな。此辺にては何れの御子息にておはしますぞと、申させ給へば、さもなきものゝ忰にて候へば、歴々の参会にて、夫と名乗らん事も如何に候。何様此近辺に罷在るものにて候へば、其隠はあるまじき由を申されけり。扨重斎は、未だ若年にて、兵法の御執心深くおはしませば、定めて御器用にこそ候はめ。誰か候。打太刀を下し給ひて、若衆の太刀筋を御覧候へとありければ、有合ふ人々最も然りなんと、各珍らしく勇しげにて、片膝を押立て、見物し給ひける。爰に竹村七之助とて、重斎弟子にて、二番通りの器量ある兵法なるが、之を呼びて、打つて見よと宣へば、此小人申されけるは、初心者の儀に候へば、先づ仰に任せて、打つて見候べしとて、二尺五寸の木刀を取つて構へりけり。七之助も一尺八寸の木刀を取つて、打つて懸るを待ち受けゝる。時に小人申されけるは、其構にては、太刀入り申すべく候。直し給はでも苦しかるまじきかと申さる。七之助、扨はとて構へ直す。夫にても入り候はんといへば、七之助、ともあれ打たせ給へと申す。答ふるより早く、弓手の肩先を、確と覚ゆる程にぞ打つたりける。人人は大に驚き、さても小人は器用なる兵法かな。中々太刀筋、余程の巧者と見え申候。誰かあるべきと、人々呆れて居給ふ所に、重斎、さあらば小人打つて見給へとて、一尺八寸の木刀を以て、一流の極意を構へて待たれける所に、此若衆立つより早く、
【 NDLJP:115】鳥の飛ぶが如くにつと寄つて、腕したゝかに打ちければ、木刀を落されけり。之を見て連座の人々大に驚き、唇をぞ返されける。其後小人申されけるは、是は自然の事にて候べし。いかさま明夜参りて、御指南を蒙るべしとてつい立ち、中門の下へ寄ると見ければ、跡消して見えざりけり。夜明けて人々、扨は重斎の兵法に、天狗の携りて妨げたる事と見えたり。向後能々心得給へとて、恐れ慄きけり。
相撲の事
八月十五日秀次公は、人々を召して、今宵は相撲を取らせ見物すべし。其用意仕るべき由仰出されければ、承つて、相撲奉行の丹州を召されて、申付けられければ、即ち方々を触れられける。さる程に洛中洛外、淀・鳥羽・桂坂・鞍馬・白川・山科・醍醐辺よりも、名ある程の取手共、我も
〳〵と集りける。秀次公の取手共、百人計出でて、東の片屋に畏る。諸方の寄手は、南西の方に、二三百も並び居たり。斯くて日も暮れ、月もはや山の端に出でさせ給へば、秀次公の御前なる纐纈の幕巻り上げ、蠟燭 多立てさせ、大身小身を選ばず、御前の右に伺候せり。兎角時刻移りければ、御相撲始まりける。関白殿の取手共、随分名を得し者共なり。又寄相撲も、世の常になき取手なれば、三十番も過ぎけれども、大方取分にぞ見えたりける。爰に立石・伏石・おきがね・井関・岩手などいふ相撲は、百人の内にても上相撲なり。彼等も一番二番宛打つて入りにけり。其中に岩根は、関に出でて畏る。行事申されけるは、誰にても、御望の方あらば出させ給へと、二三度触れて廻る所に、爰に西岡の住人に、突臼といふ相撲あり。隠なき相撲とは申せども、さるべき相手なきに依つて、宵より一番も取らざりければ、人々出でて、関を取れとぞ勧めける。行事聞きて、急ぎ出でられ候へ。遅参は御前への恐ありと申さるれば、是非なく出でにけり。男振身の丈僅四尺計にて、丸く肥え、宍付骨組大なる酒甕を見るに似たり。腕は、世の常の人の太股には勝りて見ゆ。年廿四五にて、面大に頭太く、眼黒く速なり。白布を三重に廻して、いかにも強く締めたりける。さて岩根之助は、背六尺豊にして、宍付骨組健に逞しく、作り付けたる二王を見るが如し。茜の下帯二重に廻して、大手を広げつい立
【 NDLJP:116】ちける有様は、人とは更に見えざりけり。秀次公、急ぎ合せよとの御諚なれば、行事軈て取らせける。一方は背極めて高く、一方は低かりければ、若干に事違ひて見ゆ。岩根思ひけるは、一定彼は下手の相撲なれば、内へ入れじと立廻る。突曰は是非とも入りて、反返さんと立廻る。稍暫く組みつ離れつ、かけつはづしつ、互に手を砕きて見えにけり。何れも相撲は名人なれば、勝負知り難し。斯くして半時計捻合ひけるが、如何しつらん突臼つと入りて、岩根之助を場中にて反つたりけり。秀次公御覧じて、扨も取つたりな。心の利いたる相撲かなと仰せられければ、御前に伺候し給ふ各も、あつと感ぜられける。今度は岩根之助、突臼を引寄せて、かけ投か負抛か、二つの内を取るべしと立廻る。突臼は丈なければ、只一手に反を望みて外し廻る時に、岩根之助、突曰が素首を攫んで引寄せ、かけ投にせんとしけるを、突臼、岩根が右手の太股を取つて、えいやと押上げ、つと入りて、頭にて一間ばかり岩根を片屋へ押込み、止る所を引担ぎて、又右の如くに反り投げたり。御前より大に笑はせ給ひて、各さゞめき給へば、相撲の傍輩百人計の者共驚きて、興をさましけり。之を御覧じて、さて秀次公入らせ給へば、御幕下りにけり。双方の相撲も退散せり。
撞鐘破る事
或時秀次公の女中方より、四条坊門の辺にありける鏡作りを召寄せ給ひて、古鏡の曇を磨がせらるゝに、渡り八寸五分ありける姿見を取出し給ひて、砺がせ給ふ。鏡師裏を見ければ、木瀬といふ鏡作りの作なり。いかにも念を入れ砺ぐべき由仰出されけり。去程に当番の侍達、数多打寄りて見物せられけるに、
鏡磨申しけるは、此作者は上手にて、上々の御用を達し、家も豊に繁昌して、時めきける鏡師なりしか共、不思議の事候ひて、忽ち家絶え果て申す由語りける。人々聞き給ひて、夫は如何なる仔細に依つて、一時に絶えけるやらんと宣へば、されば或時田舎の古寺にありける撞鐘、余程大きなるを、京へ沽却に上り、売らんといへる時、木瀬之を買取つて、鏡の下金とすべしとて、能き鉄を以て、荒男共に、之を割れと言付くる。二三人立代つて、力量を出して打砕かんとするに、曽て学も行かず。こは不思議なる事かなとて、様
【 NDLJP:117】様の道具を寄せて打つと雖、割るべき事思も寄らず。木瀬、力なく暫く打捨てゝ置きけり。其後或方へ行きて終日遊び、様々の物語共互にしける次に、木瀬申しけるは、目の前の不思議あり。身が許に此程撞鐘を買取り、何とも迷惑する由を語りにける。各聞きて、夫はたゞ古鐘なれば、雪霜に地金能く鍛うて堅きにより、割れざるものにこそあらめといへり。其中に故実の人進み寄つていふやう、其鐘是非共砕きたく思ひ給はゞ、易き事あり。教へ候はんといへりければ、急ぎ教へてたぶべき由を申す。さあらば女の朝夕肌を離さぬ脚布を取つて、龍頭の頭より打着せて、何にても打たせ給へ。即時に微塵となる由を語りて、是れ大なる呪なれども、伝ふるなりといふ。木瀬なべてならず喜び、急ぎ帰りて、下に召仕ふ女を呼びていふやう、汝にいふべき無心あり、聞くべきかといひければ、女打笑ひて、こは
厳しき仰を聞くものかな。其為に御奉公いたす身なれば、我身に応じたる儀は、何の御用捨か候べき。疾々仰せられ候へと申しければ、木瀬其儀面白し。別なる事にもあらず、汝が知る如く、此程買取りし撞鐘、色々にしけれども、嘗て豊も入らず。さるに就いて或人の物語せしかば、女の朝夕しける脚布を巻きて割り給へ。即時に砕くる由教へけるなり。されば汝が脚布を借し候へ。代には新しきを取らすべしと申しければ、下女の曰く、脚布の御用ならば、御内方のを、など取つて使はせ給はぬといふ。木瀬聞きて、夫は汝がいふ迄もなし。我女房のしけるにては叶はず。兎角の辞退なく、早く借すべき由をいひければ、此女申すやう、いとゞさへ女は罪深く、仏になる事さへ堪へ難しと、様々戒ある身と承る。其上昔より撞鐘の辺へは、女は寄らぬ習と申伝へ候に、況や汚不浄至極のものを御用に立てゝ、其罪を蒙らんこと、主命とても叶ひ難し。此儀は御許あるべしと、只管に辞しければ、木瀬、是非共借るべき由申すに依つて、其儀ならば、罪をば何と遁れ候はん。道もなき仰かなといへば木瀬罪は悉く我れ負ふべし。心易く思へとて仏神を証に立て誓事しければ、女、此上は力なしとて貸しにけり。軈て之を龍頭に押巻き、大なる斧を以て打たせければ、不思議なるかな、六つに割れてぞ開きける。之を見るもの共、奇代の思をなせりけり。斯くして思ふほどこはいに砕きて、鏡にぞ作りける。さる程に三月計過ぎて、主の女房何となう
【 NDLJP:118】風気を病めり。木瀬驚き、様々療すれども、聊も験見えずして、八日といふに空しくなる。三つになる男子、七つになる娘二人を、此世の形見に残して、卅一にて亡せければ、木瀬を始めて、一族共歎く事限りなし。されども詮方なく、亡跡の営など懇にし侍り、昨日今日と打暮れて、はや三十日も立ちければ、三つになる男子も、はや草といふもの出でて、三日と申すに果敢なくなる。父は夢とも弁へずして、呆れ果てて歎きけり。之のみ思となつて、明暮食事を断え悩みけるが、思や積りけん、女房の一周忌も過ぎざるに、朝の露とぞなりにけり。今ははや養育して、今少しおとなしくなるならば、さるべき聟を取迎へて、木瀬が遺跡を立てんと劬り育てけるに、十といふ秋の末に、之も空しく亡せ侍りぬ。眼前にて斯る恐しき仏罰はなしと、見る人聞く人、恐れぬはなかりけり。之を聞く人、各奇代の思をなして、寔にあるべき物語にこそと感ぜられける。
負局が事
谷口義之丞といふ士あり。折節爰に有合ひて、万雑談共せられけるが、諸事に心賢しく、何かに付きても疎からず。物の道理を能く分てる人なりしが、此鏡を磨きけるを、倩見物して、種々の加へ物など、彼是見廻して申されけるは、何と此曇り銹びたるを、磨くといふ事のなきものならば、如何に鏡は皆々見捨てになるべきものにこそ。斯様の賢き事も、唐土より伝へ来る事か、但此国にて始まれる事にやと申されければ、鏡作りの曰く、如何にも
〳〵、唐土にも鏡を磨くと見えて、其古事共数多御入り候。先づ異朝に負局といふ仙人ありき。此仙人は希代の術ども施して、人の喜ぶ事を専に好めり。或時天下の人民疾病に冐されて、或は死し或は苦しむ事、おしなべて見えたり。医工を施すと雖、験を得ず。唯頼む方は天道に心を入れて、各祈誓申す計なり。斯く万民の歎き悲しみけるを、負局こそ深く哀に思ひ、深谷へ行いて、岩の間に滴る水を、八功徳水なればとて、心の儘に湧出しけり。其水の色は如何にも鮮にして白し。此功徳水を酌みて瓢簞に入れ、杖に懸けて国々を廻りて、疾病に冐さるゝ人を見ては、其者の持ちける鏡を取つて、彼功徳水を以て、磨き更めて、
【 NDLJP:119】疾人に見せければ、立所に病療じるのみならず、肌も美しく齢も長しと云々。病人は喜びに堪へで、賂を引きけれども、敢て銭もうけ侍らず。斯くして四百余州を廻りて、人民を助け侍る。されば一切の仙人の長といへり。年月を経て亡せければ、人人彼が恩を謝せん為に、彼の八功徳水の上に祠を立てゝ、神に祀りて敬へりと云々。之を学びて、古鏡の銹びけるをば、磨き伝へ侍りとぞ申されける。各聞き給ひて、由なき所作と思へども、万物に、其出生ある事に侍るものかなと、耳を傾けぬ人はなかりけり。