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大和軍記

 
オープンアクセス NDLJP:319
 
大和軍記
 
大和国は京都将軍家の末武威衰る頃より天正の頃迄は国侍共互に自立の志有て尽く戦国と成地迫合止時なし其中に筒井順慶弓矢強く殊に一門広き人故大半国侍を討従へ則筒井と言所に城壩を築き居城す扨信長公上方御手に入らるの刻明智光秀を頼み順慶信長公に出仕被致松永久秀を倒し国中を従へ大和の旗頭と成順慶と松永との事は左に記す其後天正十年壬午の六月対信長明智光秀逆心の刻光秀筒井え使を被差越は信長公に怨甚依有之本能寺押よせ御腹めされ夫より二条の屋形え取詰信忠公にも御生害被遊候然者御手前と某事数年の親此時に候条味方に与し給るにおゐては可為本望候於左候には大和紀伊和泉三ヶ国可進之由被申越候順慶も家臣を集評議区々なる所に何も家老共申は兎角明智の味方を被成可然の旨申候得共松倉右近申候は先出馬可有之旨御返答被成八幡山迄御出被成かの地能要害の所に候条暫御在陣候得て様子御見合有へし定て秀吉公中国を引はらひ被打上明智退治可被仕候はゝ秀吉に内通候へて逆徒の裏切をし可給と達て諫め申に付て順慶出馬被仕一万余の人数にて八幡山に在陣の所に案のことく秀吉公中国を扱に被成引払尼ケ崎に至給ふ所へ順慶使者を遣はし裡切可仕之由被申上候秀吉公も御満足に思召候弥御頼候由御返答にて既に於山崎表合戦の刻秀吉公の先手高山右近中川瀬兵衛明智先手を突崩候節筒井順慶も八幡山より人数をくり下し淀河の辺にて敗軍の敵を五六百ほと被討取候尤秀吉公え味方は被仕候得共勝負を見合被申候段秀吉公も無二の志とは被思召す候得共其刻の事なる祝著の由に而信長の時に不相替大和の大将被仰付秀吉公天下御一統の時天正十三年乙酉年四郎殿に伊賀一国を給り被遣候則伊賀守と受領被仕候扨大和へは秀吉公の御舎弟美濃守長秀に紀伊和泉大和三ヶ国を給り御越候秀吉公御さし図にて筒井城を割郡山に新城を築在城可有之由にて郡山に城御取候其時縄張も秀吉公御差図に而秀長御在城に候尤国侍等何も秀長家来に置成候其後従二位大納言に被任候大和大納言殿と申は是也秀長天正十九年辛卯四月死去に而子息秀俊を被任中納言三ケ国無相違被仰付候無程文禄三年甲午秀俊不慮に頓死に而一説には吉野十津川の湯へ御越候へて或時河淵の岸高く候上より下を見給ひ倒(側カ)に居候小児姓に此淵へ飛候様にと被仰付候処に右之者何と存候や秀俊をもいたき候て淵へ飛込申候ゆへ小姓も秀俊も共に相果被申由に候中納言殿子息無之故跡たえ其時国侍共本地に放れ浪人仕候得共箸尾布施十市計を本地少つゝ給はり御置候て郡山えは増田右衛門尉に二十万石給り右三ヶ国の代官を被仰付被参候夫迄は郡山城には外曲輪無之候を太閤え被申上右衛門尉外曲輪を被仕候扨太閤御逝去以後慶長五年庚子関原逆乱之刻右衛門尉殿は西国方故関ケ原為後詰江州水口迄出陣被仕候所に西国方敗軍ゆへかの地に扣居被申候所に権現様御打果可被遊との上意に候得者色々御侘言申上法体被申高野山え登山被仕候右衛門尉大坂より出陣の刻郡山の城大事の所に候と被申自分の馬上千騎持被申内七百騎郡山にのこし家老分の者も大形郡山にのこし関原には馬上三百騎連被出候ケ様に人数多く持被申も大分の代官被仕故と申候さて関原敗北の刻郡山留主にては右衛門尉水口より高野山え被参共又は腹切被申共或オープンアクセス NDLJP:320は御打果とも遠流共種々之取沙汰仕則郡山えも関原の御人数押寄申之由に候所に国中の百姓共右の国侍の浪人にて居申を大将にいたし一揆を発し郡山へ押込町口端々放火なと仕り或乱妨を致候留守居申家老共も忘却仕しつめ兼罷在候其前渡辺勘兵衛浪人にて太閤の眠近を望居申を右衛門尉殿被聞時節を見合被召出候様可被取持の間先右衛門尉へ参居申様にと申に付て郡山ね参居客人分にて一万俵の合力を請三の郭の内に居申候夫故仕置等には搆不申候得共其節の事に候故勘兵衛家老共の内へ参りケ様にあくみ候仕形以之外に候急度分別被仕覚悟尤に候と申候得は孰もの返答にはケ様にみたれ家中さへ治り兼候に付増て郷中なとの事は可仕様も無之旨に候其にて勘兵衛申は各支配成難く候は某を物主に被仕差図次第に被仕に於てはしつめ見候半と申候得は此上の事に候間ともかくも差図次第に可仕と申候は定而寄手衆もやかて可被参の間籠城に究め可然右諸士の妻子共人質に出し尤の由にて皆々人質を取かため本丸に入置ぬ人数二三百つゝ用意致し在々え押寄一揆頭のもの共を召取又は首を切郡山の五町目口と申所に獄門に掛候是にて先国中大形しつまり候扨籠城の評議持口の手分に仕候刻各申は兎角外曲輪を揚捨二三の郭にて可抱之旨に候得共勘兵衛不承引外曲輪を一持相抱様子見合其上にて内曲輪へこもり可然之由評議一決之所に郡山えの寄手にて筒井伊賀守殿藤堂和泉守殿其外二三頭被仰付候此衆も郡山より五里北山城の玉水と申所迄被参かの地に扣へ郡山え以使者城可相渡之旨に候所に勘兵衛其外家老共返答は右衛門尉事今度之議御赦免にて高野え登山仕候得とは被仰聞候得共右衛門尉方より留守居の者方へ兎角の事も不申越候間無左右相渡し申事は不罷成候先卒示に領内へ御押入候事御無用之由申遣持口をかため堅固に可相抱の体に候ゆへ筒井殿計策にて家老共の内え返忠致し城を相わたし可然の旨被申越候所に返答も不仕使者を追返し重而ケ様の事被仰越には使者を可打果之由返答仕候大和は元来筒井殿したしみの国衆を以計策又地下人をおこらせ或郡山え押入乱取放火なと可仕体に御坐候を勘兵衛早速聞付人数二三百人にて罷出郷人四五十人も討取或搦取皆々首を切獄門にかけ候その以後は弥堅固持堅候故寄手の衆も無左右押掛被申事も不成して其段も右衛門尉殿へ被申遣候得は右衛門尉殿より高田小左衛門と申出頭のものを郡山へ被差越城無相違可相渡是迄之仕形祝着之旨勘兵衛方迄自筆の墨付越被申に付扨城可相渡に評議相究寄手の衆え以使者城相渡可申候乍去諸道具金銀等おゝく御座候間御請取之刻は番所に御置候御人数諸道具金銀等請取申役人計城に御入候て其上にて以紙面道具金銀等を改め相渡し扨城をも相渡可申候尤此方も役人計のこし置外の人数は皆々城外へ押出し候半由断申入候へは寄衆も尤に候条左様に可被申付之旨御返答にて候右之約束故郡山の諸侍は大安寺と申所の伽藍跡へ出し置候此所は郡山より廿町計丑寅の所にて此伽藍跡に何も諸侍相待城無相違相渡し家老共何も此処へ罷出候迄は何方えも引払間数之由勘兵衛堅く申付右之伽藍跡へ出し置候然共勘兵衛何と存候哉其身の屋敷に鎧武者百計其外足軽二百計も棒を為持かくし置候さて寄衆番口に御ひかへ番所道具請取の人数御越候然処に門々の鑓を相渡し候得は蔵々を開き雑人等多く本丸に押込諸道具金銀等乱取に仕候其体を勘オープンアクセス NDLJP:321兵衛見て沙汰の限り也と申かの屋敷にかくし置候人数を出し門々の鑓をおさへて取かへし皆々払出し門を打さて寄手の大将衆え使を立候は初の約束に御たかへ如此に候此上は城相渡し申事不罷成候と申右大安寺迄退置候人数を呼もとし既に打はたすへき体に候を和泉守殿より扱を御入右の体たらくは大将少しも御存知も無之事に候兎も角も其方よりの望みにまかせ可請取之間相渡し候様にと被申遣候得と不及合点最早取懸申体故色々再三之扱にて其間に南都興福寺の門跡大乗院殿を頼被申大乗院殿御扱にて左候はゝ右之約束の毛頭無相違様に被仰付御請取可有之由にて何も大将衆その通に被申付諸道具金銀等以紙面改受取わたし相済扨城を御受取候其時の勘兵衛始終物主に成一人のサクマヒにて仕候段和泉守殿感心にて和泉守殿知行拾分一之約束にて被抱候其節石田逆乱に付七月晦日に伏見の御城を西国方攻おとし焼失仕候に付郡山の城を御割候て伏見に御ひかせ候然共町屋は其儘に御置候へて此時大和は御代官付に罷成候其以後大坂御陣前に筒井子孫は無之哉と権現様御尋に候所順慶甥に主殿と申仁一人牢人にて和州の在郷に被居候を被召出知行一万石給り与力三十六騎御付にて郡山の古城に御置候元和元年乙卯大坂夏御陣の刻四月大坂より大和焼働に打出候其者共は箸尾布施万財細□井上(細井土タ)等にて候此者共牢人仕候以後和州在々居申候か大坂より大野主馬呼入申に付古の譜代催し籠城仕則主馬組に成申候幸案内者故大和えの焼働にこし候其外に主馬手前の人数も少々相加以上二千計も打出大坂より夜越にくらかり越と申険難を越参候其道筋郡山迄七里御座候先手初に郡山を可放火と申から島と申所にて手分を仕二手に作り九条口奈良口と申所より押込町口にてつるへ鉄炮を打時の声を上火の手を上申候其段右之主殿(筒井)殿被聞付取物も取あへす郡山東口高田と申所より東の山中へ落被申候就夫防く者無之候得は郡山に能町屋共多く御座候を不残令放火町人共逃後れしを少々討取其より直に南都を可放火所に其節両御所様京伏見に御著坐故若大坂より大和え打出放火仕候ては如何と思召水野日向守殿堀丹後守殿なと被仰付早速南都迄参候様にと上意にて追付南都に着陣之由風聞候に付て南都への働不成直に郡山の南口五丁目と申所へ打出夫より四里計南に今井と申大所御坐候を可放火と申かの地辺迄在々令放火参候右の今井と申所は元来兵部と申一向坊主取立申所故兵部所のものをもよふし今井の西口と申所迄打立鉄炮なと打申に付此所を放火仕事ならすして夫より戌亥の方へひきかへし法隆寺表を通り関屋と申所にかゝり河内国府と申所ね引取申候其道筋に百済なと申所御座候を放火仕り通り申候其節高取に本多因幡守殿二万七千石五所と申所に桑山伊賀守三万二千石にて在城に候宇和郡二見と申所に松倉豊後守殿一万石にて居候右大坂より大和焼働に打出候由被聞付早速馬上六十余騎にて三里打出五所之西三本松と申処にて具足櫃に腰をかけ兵粮を遣ひ被申候其間に高取五所へ以使者被申入候は大坂より焼払に罷出候由承可討留と存是迄押出候各にも御出候へて可然之旨被申入候得とも両人衆は大坂より打出候人数大軍にて方々放火し高取五所へも押寄る之由聞及はれ候故出不被申候豊後守殿以の外腹立被仕被申候は我等より何も知行かさを取聞おち仕り不出して若後守に討死致させては以後出家可仕やとオープンアクセス NDLJP:322被申候由是迄打出後詰無之とて止へきにあらすはや掛むかひ可討留と馬の足をはやめいそかれ候所にはや関屋の方へ引取の由申間候て直に片岡谷へかゝり関屋へ出合可被申覚語にて一騎かけにいそかれ候得共程をへ申故大坂は国府え引取申候然共国分境迄追掛退おくれ候者其三四人も打取生捕も両人被致其儘伏みね被差上候多分此首大坂御陣の初首にて可有之候豊後守殿在所二見より追とめ国分境迄は八里計も可有之候其節は大坂より大和え打出候人数三万共申或は五万共申大和国中のもの共は皆々東の山ねこと落ちり申候然所に豊後守殿在所より打出手つよき心掛両御所も殊之外御感にて御帰陣以後九州島原へ六万石余にて被遺候扨郡山に被居候筒井主殿は両御所様思召以之外悪敷之由被承南都迄被出候て自害被仕候大坂落城以後兎角郡山に城無之候ては如何と上意にて伏見の御城を御割被為成郡山へ御引せ水野日向守殿に六万石給り被参六年居城にて候城の普請も大形日向守殿在城の内に成就仕候扨日向守は備後へ所替被仰付郡山えは松平下総守殿に十二万石給り被参候さて寛永三年丙寅大樹御上洛之刻南都え御参詣可被為成候は郡山に御一宿可被遊之由にて本丸に御殿等公儀より御作らせ候然共南都御参詣は無之候下総守殿は拾年居城候て寛永十六年己卯播州姫路に所替被仰付候其一両年前に公儀え被申上拾二万石の領知を三万石延高に被仕十五万石に被致今以其儘高十五万石に御座候
 
大和国侍之事
 
筒井順慶先祖は近衛の家より出候人の由順慶親は順興と申候順慶一度は南都の出家にて被居候然共器量の人にて還俗被致武威を振ひ国中半分過討したかへ添下郡筒井と云所に平城を築居城被仕候自分の領知は只今の知行高六万石程の事に候得共甥或は妹聟多く一門広き故に自分手広く成被申大和大半手に入申され候然る所松永殿筒井を可撃覚悟にて人数を押法隆寺迄被打出候を順慶も筒井より廿町計も西栴檀の森と申所迄被出向候順慶先手は島左近松倉右近両人に国侍等随付候扨並松と申所迄互に掛向ひ軍始り松永先手敗北せしめ候を順慶の先手の者共追討に仕て長追仕候然所に法隆寺の寺内に松永人数をかくし置候故この伏兵筒井人数の跡をさえきり申に付敗軍の松永の人数とりかへし筒井方惣敗軍に及筒井へ取籠り申事不成候て直に宇多郡え落被申候其頃宇多郡には秋山と申仁居候是も順慶の好有之人故にこの人を便りこの地に被居何卒本領へ帰参可被仕と計策専候松永殿も宇多へ相働順慶を可打果覚悟候得共未大和の国侍皆々随付不申其上高取の越智十市の常陸介無二に順慶の味方を仕り居申候此両城は宇多ね参る両方の道脇の山にて候殊宇多は半坂と申切所入口に御座候に付て無左右働入被申事不成して南都東大寺の少北に多門山と申所を取立城に築き行々は大和一遍に手に入へき覚悟にて候尤其刻は国侍も過半は付随候然所に順慶龍か市の井出十郎に心を合十郎松永に対し敵の色を立申故是を可打果覚悟にて松永殿志貴より一万余りの人数にて押出しかの城を取詰被攻候得共十郎堅固に相抱候所に順慶宇多郡より十市越智両人引具し山伝に龍の市の東の山へ被参其上に郡山の城主小泉の城主其外順慶一門の歴々悉く松永殿に対し候て逆心順慶の後詰に相従申故松永も龍の市の城を押へ置旗本オープンアクセス NDLJP:323を以て順慶に掛向ひ合戦被仕所に十郎も城戸をひらき人数をはらひつきて出強く働申ゆへ松永押の人数こたへす南都の方へ敗軍仕候を追拾松永旗本へ横鎗につきかゝり申故久秀人数も惣敗軍に及ひ多門へ可引取と被仕候得共道筋を取切申故本道筋より引取被申事不成して南都の未申の方京はてと申脇道へ掛り町口に火を掛其烟のまきれに漸々多門え引取被申候其時松永歴々の者共討死仕候夫より順慶は多門へ押寄可責詰と被申候得共島左松倉両人申候は只今多門へ御押よせ候共中々即時に落去は仕間敷候左候へは後難も如何に候間先是に城を御取暫く御坐候へて扨信長公に御味方被遊信長公を後詰に被成松永を御打果可有之由にて扨信長公へ取次には明智光秀を頼被申御味方仕り上方筋之義忠勤を可仕之旨被申候御満足之由御返答にて候其内に龍の市の東南都より辰巳の山を城に築き多門への日々に手遺被仕候然共合戦は無之足軽迫合計に候筒井の城に松永番勢を入置候を箸尾十郎越智等大将に而国侍共を相従へ押寄候得はそのまゝ城を明渡し申故箸尾入かはり被申候松永も順慶内謀有て信長公え随身之由被聞及大事と被存候や久秀も信長に随身被仕候其故順慶とも扱に成多門はそのまゝ久秀持分にて志賀へ帰城被仕順慶は筒井の本領に被帰大和三分二ほとの国侍を旗下にして信長公へ軍事被勤候然所に松永対信長公被致逆心志貴の城に取こもり城之助信忠為公大将諸軍勢を御随へ志貴へ被押寄候刻順慶幸と被悦順慶譜代のもの一人順慶浪々のころ松永へ奉公に出居申候を色々まいなひ被致取傾け何卒反忠のよき手段も有之は内通仕様にと被申含候所に松永運のつきにて大坂門跡え加勢をこひに遣ひ申使者に彼者を遣し候かのもの順慶ね其段申故順慶人数二百計大坂より加勢に出たゝせ河内の平野へ夜の間につかひ被置候さて彼は大坂に参り帰り候刻右平野に居候順慶の人数を相したかへ城内へよのまきれに引込候其段を信長公へ順慶被申上故其まゝあくる未明より惣攻被遊候得は右に入置候順慶人数城に火をあけ裡切仕候故松永討負天守へ上り切腹被仕候に息久直は多門に被落多門にて切腹共父子一所に切腹共申候夫より一国中みな順慶の手に入武威盛に成被申候然共不幸にして天正十一年癸未五月十三日に病死被仕候養息四郎殿え大和の旗頭無相違秀吉公より被仰付その以後天下一統の刻伊州え国替被仰付伊州上野に居城被仕候関原御合戦の後三年目に家老中坊左近当出頭人と公事被仕出公儀え被申対決の上伊賀守殿悪事共数多被申上に付て権現様より伊賀守殿は御改易被成其時に筒井家断絶仕候

松永弾正久秀内河を領し大和の内をも少手に入大和河内の堺志貴と云所に山城を築居城候て大和の国侍を計策を以て取入行々筒井を倒者大和を可取鋪覚悟に而南都東大寺の寺僧をかたらひ東大寺の少北に多門山と申所を城に取立番勢を入置自身其度々此城え参参被申候久秀対三好殿に逆心の刻も是等籠城被仕候を三好殿被押寄東大寺の大仏殿を本陣に被仕着陣被申候夜久秀夜軍に被仕掛候故三好敗北にて歴々数多討死仕候其時不慮に鉄炮の薬に火移大仏殿其外堂塔炎上仕候三好家に而随一の侍鎗中村兄弟も此時討死仕候此大仏殿頼朝公再興の伽藍にて御座候所右の兵火に焼失仕是より東大寺衰微仕候夫より松永殿は志貴と多門と掛持に被仕郡山の城主等も手に被随筒井殿を可打果計策被仕候右志貴と多門の間五オープンアクセス NDLJP:324里半計御坐候其間に小泉郡山龍の市の城御坐候尤味方仕るとは申候得共元来順慶の好み故無心元被存郡山の少北の方にカウの島と申所御坐候此所の山につなきの城をかまへ志貴より多門え被通候刻も先此城迄被参候て様子被見合押通り被申候其心は筒井殿宇多郡に引籠り被居国侍共何も筒井殿に志有之体故若不慮の逆意も候へては如何と被存候由申候其以後於龍の市順慶と合戦の事は前に記申候天正五年丁丑十月対信長公逆心被致志貴に籠城にて滅亡の事は是も前のことし委細は信長公記に有

十市と申所に十市常陸介と申仁居候此人先祖より代々此所に居候城は山城にて候大和の東山際は此人の領知に候此旗下も数多御坐候東の山中伊賀境迄い此人の持分にて候常陸之介は順慶の姪聟にて候故無二に順慶宇多へ牢々の刻も無二心味方被仕候故筒井の本意被達候此人太閤御改易被遊候由申候大納言殿大和え御打入候刻十市一類被召出本領少給はり御座候

高取と申所に越智玄蕃と申仁居申候是も能身上の人にて順慶の姪聟にて候其時分迄は城に石垣等無之かき上体にて候其以後天下御一統の刻本多因幡守二万七千石にて被参城に石垣矢倉等被仕候因幡守殿三代にて跡主人植村出羽守殿を城主に被仰付候

葛下郡片岡と申所に片岡新助と申仁居候此人小身にて候得とも和州にては如形なる武功の人にて候是も順慶の姪聟に候身代は漸々只今の知行高八千石計の事に候得共順慶一度松永に被仕負宇多郡へ牢々の刻何も国侍又い順慶一門の歴々迄皆久秀に随身候得共此人一人不随敵に成被申久秀も両度まて押寄被申候久秀の居城志貴より漸三里計の所に候其間に河合と申砂河御座候常は歩わたりに候得とも水出候得は舟越に仕候此河端迄山つたひに打出松永人数半分も河を越申を被待横合に木立より被働候故松永人数こらへす令敗軍能ものとも此時多く討死仕候其後又被寄候時は新助不被出城下迄敵押寄候時城の西北より人数を押て被突出候得は寄手及敗軍首数多片岡え討取候其後は片岡へ松永寄被申事難成して龍田方に片岡押への城を取番勢入置被申候然所に新助三十五六歳にて被相果子は弥太郎と申候是は若輩と云病気の人に而働も不成して被居候尤武勇も新助ほとには無之候故無程松永片岡へ被寄城を乗取弥太郎殿は落被申在々に牢々にて被居候扨大坂御陣の刻譜代の者共を召れ籠城仕候大坂落去以後法体にて雲巴と申大和に被居近年相果申候

広瀬郡箸尾と申所に箸尾宮内少輔と申仁被居候是も先祖より代々此処に被居候右の宮内少輔は順慶妹聟にて候此人も能身上にて旗下も多く御座候其旗下は布施万財南郷東院なとゝ申にて候其身の領地は只今の知行高二万石計の事に候得は旗下多く候故他働の刻も人数かさにて候筒井殿伊州へ国替の刻其まゝ跡に罷在大納言殿家来分にて居被申候秀長秀俊御果候以後も此仁は其儘本領を給はり居被申候処に石田逆乱之刻増田右衛門尉殿以下西国方被仕候故直に御改易にて本知を放れ被申候此宮内少之子息一人幼少にて御座候を松倉豊後守殿好有之人故養育被仕置候処に大坂御陣の刻古の普代の者共すゝめて豊後守殿を立のき大坂え籠城被仕卯の五月六日道明寺表合戦の時後藤又兵衛なと打出候刻随身被仕能こゝろはオープンアクセス NDLJP:325せも御坐候大坂落去之刻和州の在郷へ落候へて被参夫より終に主取も不被仕此六七年以前迄存生にて相果被申候

今井村と申所は兵部と申一向坊主の取立申新地にて候此兵部器量のものにて四町四方に堀を堀廻し土手を築き内に町割をいたし方々より人をあつめ家をつくらせ国中へ商等をいたさせ又は牢人をはひあつめ置申候然る処に大坂一向の門跡に光佐と申仁被居候て対信長公逆意の刻右の兵部も於今井一揆を発し近辺を放火し相働候を信長公より筒井順慶と明智日向守殿を被仰付御攻させ候両将仕寄にて半年計も被攻候得とも終に落去不仕剰へ明智殿手先なと処へ夜討等仕強き働き共仕候然共大坂扱に成申故今井も扱に成矢倉等をおろさせ兵部は其まゝ信長公御赦免に御立置候弥先規に不相替今井の支配仕宗門相続仕候様にと信長公御朱印を給り其以後秀吉公御代にも右之通の御朱印給り候今其子孫兵部と申候へて右の処支配仕居住いたし候

多武峯と申所は淡海公の廟所にて天□山の末寺にて候大和乱国に成候故僧徒逆意をふるひ近辺を相はたらき多武峰の後に龍門郷と申て廿一ヶ村の所御さ候を切取申候又吉野蔵王付十八ヶ村御座候是は八庄司と申者を立置右十八ヶ村の仕置いたし居申候処へ多武峰より取掛切々迫合御座候尤国の中筋へも相働十市筒井なとゝ切々迫合仕勝負互に御坐候所に信長公え順慶出仕の以後は和平に罷成今以多武峰は大所に候

楢原と申所に楢原と申仁居候是も国侍の内にては能身上の仁に候尤旗下も多く持候其旗下ハクシラサヒ長良五所なとゝ申者に候

葛下郡逢坂と申所に岡野周防守と申仁居候是も能身上之者にて片岡楢原を左右に敵に請切々迫合仕候

郡山には小田切と申仁居候其節はかき上体の城にて候是も順慶の好みの人にて旗下に候

小泉と申所に小泉と申仁居候是は順慶の好の人にて旗下に候

龍の市と由所に井上十郎と申仁居候是は只今御旗本に居被申候井上三十郎殿の先祖にて候是も順慶の旗下に候

宇多郡には字秋山と申仁居候是も順慶の縁者にて順慶に志深人ゆへ一度順慶筒井を落去の刻此人を頼み宇多え引込終に運を開き候故大和の国侍大形右之通に候大和信長公御手に入候迄は在々所々に屋敷構を仕り殊之外地迫合仕候右之分は大和にて能身上のもの計に候此外小身の者数多御座候得共何も右之者共手寄に旗下に成候て居申候然所に筒井殿信長公え出仕被致候て大和の旗頭に成被申ゆへ其節漸治り申候以上


  明治三十五年一月以大学本再校了         近藤圭造

 
 

この著作物は、1901年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)80年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。


この著作物は、アメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。