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坂本龍馬全集/坂本中岡暗殺事件

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今日御話を申上げますのは、昨年でございましたが、何か話をして呉れいと云ふ御相談の時に、御話を申上げる積りであつたが、余程古いことでございますが、之を御話申したいと思ふのは、何より起つたかと申すと、近畿評論と云ふて京都で発行して居ります、明治三十三年の五月の雑誌に、坂本龍馬、中岡慎太郎の両人の殺害せられたことが載つて居る。此雑誌を故片岡健吉氏から廻して来まして、どうも読んで見たが、予て聞いて居る所と大変違ふ様であるので、御前は親しく其際に臨んで居つたことであるから、一つ辯駁をしてはどうであらうかと云ふことで、即ち是は片岡氏が送つて呉れた近畿評論と云ふ雑誌の第十七号であります。読んで見ました所が成る程どうも途方もない間違であるが、併し此話は即ち坂本、中岡両氏を自ら殺害したと云ふ御当人の直話を書いたものであつて、それでどうも生きて居る人が現に私がやつたと云ふのを、それは御前ではないと云ふて辯駁することは甚だむつかしい話であります。併ながら世の中には一種稀代な人があつて、何か一世に自分の履歴を遺したいとか、功名を世に伝へたいとか云ふことで、好んでさう云ふことをする人が無いとも云へない。何しても一向事実と合はないから、時機を見て辯じて置かうと云ふ考を持つて居りましたから、昨年でございましたか、御求めの時に、此御話をしやうと云ふ考を起したのであります。所が折角其依頼を受けた片岡氏も既に故人になりまして、最早余程古ぼけた御話になつて居るが、大学には歴史専門の諸君も沢山御在りなさることでありますから、どうか私が御話申上げる所を御参考となし下されて、事実の真相を御吟味になれば誠に私も大慶に存じます。又死んだ両人に於ても此雑誌に記しある如く、少の抵抗もし得ず如何にもまぬけた斬られかたでは如何にも残念であらうと思ひます。それで此話をする前に少し当時の土佐の景況に就て一通り御話を申上げて置きたいと思ふ。
土佐国は御承知のある方もございませうが、長曽我部元親、前は酋長割拠と云ふ有様で、サツパリ統一をしなかつた。元親が一条家の御威光を借り、始めて統一が出来た。已に其の目的を達すると一条家を逐ふて横領した様な姿であります。それで上古は別と致しまして一条家前は誠に申すべき程のことは無かつた様であります。元親は流石に土佐を一統し遂に四国をも切り従へる丈け力がありましたが、家来も沢山ありました。元親が亡びました後へ即ち山内一豊公が其国を貰つて来ました。此の山内一豊と申人は元々豊太公に引立てられた人で、最初は纔に二三百石に抱へられ段々と立身して、江州長浜で二万石、それより掛川で六万石、それから関ケ原の役に関東へ味方をして、二十四万石の土佐を貰つた。最初土佐へ連れて来た家来は至つて少数で這入つて来た。然るに元親の臣下は多く土着して居て、往々謀叛を企つる者もあります。又小元気ある者は山内に仕ふるを好まず、幹も立つ者は他国へ行て仕へました。伊勢の藤堂、仙台の伊達、肥後の加藤を始め思ひに他国へ出て仕へることになりましたが、元親武士には一領具足と称して具足一領、馬一匹、槍一本を所持する丈けの身代があれば、皆士籍に入れたのでありますから、夥しう武士を拵へられたものであります。それ故に山内が土佐に入り長曽我部は亡びましたが、其の所謂元親浪人と云ふものは国中に散在して沢山ありました。けれども上に申上げる通り直ぐに山内家に仕へることは事情出来もせず、又山内も疑ふて大に遠慮したことがある様であります。それで江州長浜や掛川から来た者が大ひに用ひられ、又岐阜の織田浪人又福島改易後の浪人、それから大阪落城後の浪人始め諸邦の浪人を招いたものと見へます。山内は前に述べました通り六万石より二十四万石に成りました故、長浜、掛川より参りました普代の者は素より、他邦より来りし浪人も多く大禄に有りつき、山内の信用を得たものでありますから、所謂上士々々と称へる馬廻以上の権力は非常なもので、詰り君側を勤める小姓以上それから大目付奉行は素より、家老は固より仕置役大目付物頭は勿論、君側を勤むる小姓以上の役は所謂閥族即ち馬廻の占領に帰し、中士と称へる者小姓組留守居組にさへも、物頭以上の役は容易に与へない、況や下士と云ふものにあつてはなか中士にまでも上がることはむつかしい。それ故にどんな人物でも決して物頭以上などに上がることは出来ない。扨て中士以下下士は多くは純粋の土佐人にて元親浪人にして、二代又は三代の後山内家に奉公したものにて小身にして、且つ新参なれば其の権力の乏しきも亦已を得ぬであります。
斯く閥族の権力非常なものでありましたが、癸丑、甲寅に亜米利加が来ると云ふことになりまして、何れも次第に文武を励み、又何となく時勢も一変し他藩人の交際も頻繁に成りまして、一番先きに奔走して目を世界の事に注いだのは則ち下士に多かつた。下士の列に居る者は第一に何か事が有つたればやつて遣らうと云ふ奮発心があるものですから、文武共に非常に励んだ。其次に先づ中士であつたが大禄家は多く時勢に頓着をせず、文武に出精する者を見ればあれ等は小身ぢやから文武をする、あれ等は軽格ぢやから文武を励む抔と軽蔑して居つた。それで今申す通り世の中は次第に変遷し、従つて人物は次第に下級に出来た。
嘉永の初年頃までは、幕府の勢ひも強く、所謂武士と称へる者の勢力が酷かつたものでありますから、上士と下士とが軋轢する様なことはありませなかつたが、時勢の変遷に付て次第に上士と下士との軋轢を生ずる様になつた。下級の士は山程あつて多くは元親の旧臣で純粋の土佐人で、山内の連れて来たのは元他国人で多く上士で大身である。皆旧家である。其の上士は美官美職を占領して少しも下級の人物を挙げることをしなかつた。それで毛利や島津やと違つて武士の種も混合して居る。是が全体土佐国の面倒な一つの理由であります。次第に世の中がけわしくなつて勤王論などが起る様になりましても、尊王攘夷などと云ふことを主として唱へる者は何れにあるかと云ふと、詰り下士の方に多い。
扨て、土佐の士族の中に今の党派の如きものが三つ出来て居る。其一は佐幕開国党とでも名づくべく、それの首領は吉田元吉で、是はなか学者で、人物も気魂も余程秀でた者でありますが、此の人は幕府を佐けて大に国を開き、外国へでも船をこしらへてやつて行かうと云ふ。其点に於ては今日から見れば至つて宜いが併ながら幕府の勢力を猶ほ過大に考へた者と見へ、勤王論には反対で佐幕主義であつた。それから一つは佐幕保守党とも云ふべきもので、是は純粋の譜代恩顧と云ふもので、山内入国の時に供をしてきた大禄の者で至つて守旧派と云ふて宜い。此派の首領は小八木五兵衛で極の俗人であるが、なかなか剛毅な男、無学にして多数の武士の上に立つて、殆ど一言も言はせぬ位に権力を持つて居つた。吉田は今申す通り学問も有り才も有る。小八木は才も無し学問も無い、唯一の胆力で多数を制御して行くのであつた。其次に所謂尊王攘夷党と云ふ方の者がある。此首領は平井善之丞、小南五郎右衛門先づ此二人、然るに奈何せむ平井は君子的の人、小南は多少学問も有り精神も人物も好いが、残念ながら斤目が軽い。そこで三党の首領の人物を比較すると残念ながら尊王攘夷党の平井、小南の力が足らぬ。おまけに平井は先に死にました。此人が生きて居ると兎も角も大変都合が宜かつた。此人は博く人を容れる人でありますから、武市半平太と云ふ様な男でも至極心服して居りましたが、是等を能く制御して行くことが出来たと思ひます。故に平井が生きて居る中は、土佐の勤王党の過激論者も皆暴動する様なことはなかつたろふが、所が平井が先きに死に小南は残念ながら斤目が足らず、頑固派からも亦開国派からも阻められるやうになり、そして一方ではその勤王党の過激者を御して行くことは出来ず、此人は二度も咎めを蒙つた事がありました。遂に吉田が配処から再勤してからは、其権力は一層強く成りましたので坂本龍馬、中岡慎太郎等の過激派は到底土佐の国に居り得ぬ様になつて、遂に過激派の者は吉田元吉を文久二年四月八日に殺害した。此殺害者は勤王派の下士のやつたもので、之が為に遂に勤王派の下士の首領たる、武市半ママ太等を初め後日充分働きのされる人物が、或は切腹或は斬罪になりしが、根原を尋ねると容堂公に信用されし吉田が斃されたのが主なる原因と思はれます。土佐国の当時の情況は極めて危険の位置にあつて、一歩を誤ると水戸の様になるのでありますが、水戸の轍を踏まなかつたのは実に土佐国の幸であつた。坂本龍馬は吉田が殺される少し前に土佐の国を脱走した。一時勤王論者は誰れ彼れとなく非常な艱難に陥つて、一時縁組をするにもあれは勤王ではないかと其の詮議から先きにすると云ふ様な実況に陥つたのであります。扨後藤象次郎と云ふ人は、吉田元吉の甥で吉田に大変世話になつた人で、此人は土佐の歴史に大変関係がある。此人は佐幕頑固党の小八木などにも大変嫌はれる。又平井、小南などの勤王派にも非常に嫌はれたる人である。併ながら此人は皆人の知る才子であります。又非常に容堂公の寵を得た。此人が長崎へ行つたのは、樟脳を外国人に売りて蒸汽船を買ふ、全く商法主義で参りました。即ち政府商法の其監督を致すのであります。即ち彼の岩崎弥太郎なども其の下に使はれた人である。此後藤が長崎へ行つたことは大変土佐の党派の間を柔げ、又上士下士の軋轢を柔げる媒介になつた。先是土佐の脱藩壮士は早く攘夷説は棄て、航海術に心掛け、薩摩の小松帯刀氏の世話にて西洋形の帆船などを買ふて乗り廻り、後藤が長崎へ参りますと幸ひだから、後藤をやつて仕舞が宜い杯と云ふ説をしたものもありましたやうでした。坂本は之を止め後藤は君寵を得て居るから之を利用しなければならぬ。迚も我々浪人でやつて居つて碌なことは出来るものではない、とそれから坂本が後藤に堂々と世界の大勢を説いた。後藤はあの通り敏捷な人であるから直ぐに同意して、それからして後藤自らも上海へも行てガンボート一隻を買つたが後之れを若紫と名づけた。幕府を廃し王政に復し朝廷にて万機を掌握し条約を結ぶと云ふは龍馬等の素論にて、結局は戦争せねばいかぬと云ふ当時の論であつた。彼の脱藩の壮士団は已に蔭に攘夷論は棄て海援隊と称する、坂本其の首領なり。於是土佐の佐幕開国党と在国勤王党と脱藩派と融化する所以の者実に坂本、石川二氏の力でありました。余等も慶応二年の十二月長崎に行き又上海に行き此の時初めて攘夷の不可なるを覚りました。若し長崎へ行つてから私共はまた此決心は出来なかつたかもしれぬ。それから乾(板垣)退助は慶応元年の正月頃江戸へ行つて騎兵の修行をして居りました。後藤も板垣も皆上士の席に居る人で幼年の頃より子供大将で郭中で人望があつた。板垣も今度江戸に来て見ると時勢も余程変なり追々には諸方の浪人も集合して居る。土佐の乾が来たと云ふので、段々尋て来ると云ふ所からとう乾も大に決心を固めて、西では後藤が海援隊などに同意して大運動を初め、東では板垣が浪人と契約して時機に応じて事を挙げると云ふ事に運んだ。其の時に吉井幸助氏が江戸へ来て居て板垣にも会ふた。

貴様は此処に居つてはいかぬから、早く上京するが宜かろうと云ふ忠告がある。で、板垣は慶応三年の五月に江戸を出て西京へ来た。其時に中岡慎太郎と毛利恭助と云ふ者と乾氏を東山に迎へ共に志を談じ此中岡の紹介にて西郷、小松、大久保等の諸氏に面会して時事を快談し、遂に小松の旅宿に西郷、小松、吉井の三人と乾、中岡、毛利及私と都合六人にて密約出来たが、是は政府を離れて全く有志間の極密約であつた。当時有志の目的とする憲法の如きものである。(編者曰く、誓約書は慶応三年詒謀録にあり、故に之を略す)
此時、已に幕府政治を廃し、王政に復古するの主意は定まつてをる。後藤が慶応三年の十月頃に、大政返上の建白を出したが本の様に心得て居る人もありますが、決してさうでない。坂本等の開国家が本で、六月にチヤンと斯う云ふ成文の主旨書が出来て居る。土佐政府即ち山内家は六万石の身より徳川家の蔭によりて、廿四万石の大封を受け、又大禄の上士は、多くは譜代恩顧の者にして、重役は多く此種の人が占むる処なれば、政府の議の時々変化するも、誠に已を得ぬ次第なれば、小松邸の盟約は、土佐政府を離れ一種秘密の盟約なりしが、其の年十月頃には坂本も上京し、中岡と力を合せ、さう云ふ塩梅で多数の士族と云ふものは皆元親浪人であるけれども、少数の上士は大抵皆他国から来た所謂譜代恩顧と云ふ風な者でありますから、何分其軋轢が甚しい。それが即ち此坂本、中岡両人が最初国を見捨て直接に勤王をする積りであつたもので、とう浪人した結果是は迚も浪人では事が出来ない、そうして上士と下士との間を調和し所謂挙国一致でなければならぬと云ふ考から、非常な尽力をして遂に之が成就をして、守旧派の一種を除くの外は先づ土佐の有志と云ふものは、上士下士打混じて国に尽すと云ふことに漸く纒つた。それは坂本、中岡両人の力である。両人が一時に殺害に遭ふたは素より天下の為に不幸でありますが、最も土佐の国の為には非常な不幸である。若し此両人がせめて伏見の戦時分迄生きて居つて呉れると土佐に於てハ尤好都合であつたが、半途に斃れたハ、誠に遺憾至極であります。全体此両人は天下へ出て有志として働いた事は、皆人が知つて居るが、隠微の間故国に尽した忠義ハ、知つた人が少いから、序に此御話を申上げて置くのであります。も一つ頑固党の勤王派に対する軋轢の情態を、証拠を挙げて御話して置きたいと思ふ。ちよいと面倒でありますが、板垣の慶応三年十月に寄越した手紙を読みます。

日益に霜冷に相向候処、於其御表御壮栄に可成御入奉欣喜候。小生義無異儀に罷在候間、乍憚御安意可下候。御発足後御国許之義、委細申上度候得共、此頃御飛脚便等に托し候書簡は間違も有之哉と存候間、時勢之義は何も不申上候。唯京師の模様のみ相待居申候。乍併一事不報事柄御座候。子細ハ過日豊永久左衛門関東より僕が中村への私簡を携来り、榎派に合して姦を為し申候。実に無由事にて今に始めず殆ど姦術に係り申候。然昔書簡等所謂仰天俯地に無恥事明白之義、当時同僚等の示談により候義に付、快然辨断悉く姦計をば脱し申候。御安心可下候。然るに右久左衛門なる者近日又東行仕趣、京師に至ても何等の姦を為し候も難図、関東迄も同断之義ニ付精々御用心可成、其故に申上候間屹度御覚悟被成度奉存候。心事固ヨリ筆頭に難尽候。御推察可下候。恐惶再拝。

十月十八日
退   助


是から此両人の殺された実況を御話し申ますが、先づ近畿評論第十七号に掲げたる坂本中岡を殺害した者は我れなりと自称する、今井信郎と云ふ人の言より述べませう。此今井氏は今遠州金谷ケ原と云ふ所に居る様子である。此人の云ふ所に依ると自分は徳川幕府の旗本であり、三河からして権現様ニ附いて来た所謂三河御譜代です。代々軍学家で祖父の時には御師範を勤めた家で、剣術は榊原健吉の門人で可なり人を教ゆる事も出来る位に成りました。時世は騒がしくなり筑波山の騒ぎとなり、自分も斯うして居ては詰まらんと面白半分に飛び出し云々と、上京する迄の経歴を述べて、次に関東に浪士の入り込み百姓や博徒を集めて剣術を教へ、窃に勤王討幕等の事を説法して居る。此は中々油断がならんと考へ、関東郡代に其事を通じ、近在の若者を集めて剣術師範をして暫く滞在し、そろ農兵養成に着手いたした事を述べ、徳川氏の為に忠義を尽す理由が説明してあります。慶応三年天下も益騒しくなり其の年十月上京して、幕府見廻組佐々木只三郎に頼つて組頭に成つて居た。此佐々木と云ふ者はなか強いやつで、即ち彼清川八郎を殺した者でありますが、是れなど此佐々木只三郎が殺したと云つて、まあ自分の経歴から交る人のことを挙げて来た。
それからして云ふてあるに是より少し前に、紀州の光ママ丸と云ふ船と土佐の夕顔と云ふ船とが内海で衝突した其の時に、紀州からして三ママ久太郎が全権で出て、土佐から坂本龍馬が出て来て交渉して、遂に其の結果坂本が向ふをあやまらして償金を取つた。其の時の様子が書いてある。所で此処で先づ一つ誤つて居るが、其誤は大きな誤ではないのでありますが、何しろ当時のことを聞きこすつてからに捏造したものと思はるゝは、此光明丸と衝突した船は決して土佐の夕顔ではない。是は当時誰も知れる明なことで、大洲の加藤家の所有名義になつて居つたいろは丸と称へる船である。其いろは丸と云ふ船と光明丸と衝突してそして遂に色々談判の結果、紀州から償金を取つた(此時が汽船が衝突の嚆矢であつて勝麟太郎氏に坂本等は相談したことが有つた。勝の答に素人と素人の船票は孰れが理か非か判かる歟と云つたと聞けり)のは事実であるが、併ながらいろは丸は決して土佐の船ではない。是れは八ケ間敷論であつたから、当時いろは丸と夕顔と間違ふ筈はない。此も後で捏ね付た誤りではないかと疑ふ。坂本は文久二年に脱走し処々を浪々して勝氏の世話に成り、勝氏は坂本が非凡の器なるを知り容堂に説て帰藩を許されたり。光明丸といろは丸との争も土佐政庁は関係せず実は紀州と坂本との争なり。海援隊は元浪人の集合にて坂本之を率ひ後藤之を助力せり。

そこで其の人の言ふに、自分は佐々木の世話になつて今で言へば警視みた様な役をした。時に、丁度彼の紀州を窘めて償金などを取つた海援隊を率ひて、坂本龍馬がこれに来合はして居る。そこでこいつは「氏又曰く私が参りました時、坂本は春嶽を説て帰て来たところでした。彼れは策士で海援隊を率ひ中々きれたものです。此云ふ奴を生かして置ては御為にならぬと思ひましたから一つやつけて仕舞ふ。向ふも大勢だから此方も同志をつのろうと云ので寄々相談など致しました」何分天下の為にも国家の為にもならぬ、どうしても生かして置かれぬと云ふことを考へ付いた。それでまあ寄り寄り相談して之を殺すと云ふことをした。何処に居るかと云ふた所が河原町蛸薬師の隅のあくら屋の二階に居ると云ふことが知れた。其の名は才谷梅太郎と云ふ、其実坂本龍馬であるから愈々之を殺さうと云ふことになつた。こゝまでは先づどうやら斯うやら筋は合ふので、それから其次にずつと手順が出て居る。こゝに即ち此殺害したと云ふ人の言ふに御承知の如く、当時は一体に気が立つて居る。スワと云へば辻斬にすると云ふ始末であるから御互に充分用意して居つて、なか暇がないからそれは困つたが、私は坂本と云ふ奴は幕府の為にならず、朝廷の御為にもならず、唯事を好んで京都を騒がせる悪漢であるから是非斬つて仕舞はねばならぬと思ひましたが、何れが坂本で何処に居るのか少も解らぬ。幸に不図したことから蛸薬師に居る才谷と云ふが坂本だと言ふことを確めた。そこで十一月の十五日の晩今夜こそ是非と云ふことに決して、桑名藩の渡辺吉太郎と云ふ者とそれから京都の与カニ桂隼之助と云ふ者と外に一人それと自分と都合四人出掛けた。私が一番年が行て居つたからして自分が一番の年上で廿六歳であつた。雑誌記者問に外に一人と云ふは誰であるかと云ふと、其者は未だ生きて居るがどうぞ私が生きて居る中は言ふて呉れるなと云ふて居るから言ふことが出来ない。死んだと云ふ二人を挙げてあとの一人と云ふ者は言はない。而して自分ハ今井信郎と云ふ者であると公然自白して居る。一寸聴くと如何にもまことらしく思はるゝ。当時の事実より推して容易に信用ができぬ。此今井信郎の言ふに、惜しいことは往隼之助も渡辺吉太郎も鳥羽の戦争で両人とも討死をした。斯ふ云ふた。それでどうぞ其一人生きて居る人を聞かせぬかと云ふと、其人は顕官に居るからして此人のことは今日言はぬ約束であるからどう云ふことがあつても言ふに忍びぬと云ふことで決してそれを告げぬ、と云ふことが書いてある。そこで此条に至つて我々も最も信用の出来ないのは坂本、石川を殺したのは四人であると云ふけれども是は甚だ疑はし。
扨て今井氏の言によれば十一月十五日の夜先斗町で酒を呑で十時余程過ぎに才谷の旅宿の河原町蛸薬師油屋へ参り、私共は信州松代藩のこれと云ふものです、坂本さんに火急に御目にかゝりたい、と申しました処、取次のものがはいと云つて立つて行きましたから、こいつ締めた居るに違ひない、居さへすれば何様でもして斬つて仕舞うと思つて居ますと、其中に取次が此方へと云ひますので跡へついて二階へ来りました。すると松代ですか、あの真田の藩です、坂本とは前から通じて居つたのです。四人ともいゝ加減の名を拵へて言つたのですから今でも覚へて居ません。兎に角此方らへと云ひますから行つて見ますと、二階は八畳と六畳の二間になつて居ました。六畳の方には書生が三人居て八畳の方には坂本と中岡が机を中へ挾んで坐つて居りました。中岡は当時改名して石川清之助と云つて居りましたけれども、私は初めての事でありどれが坂本だか少も存じませず外の三人も勿論知りませんので、早速機転をきかしてやあ坂本さん暫くと云ひますと、入口へ坐つて居た方の人がどなたでしたねへと答へたのです。そこでそれと云ひざま手早く抜いて斬りつけました。最初鬢を一つたゝいて置いて体をすくめる拍子に横に左の腹を斬つて、それから踏み込んで右から又一つ腹を斬りました。此の二太刀で流石の坂本もうんと云つて仆れて仕舞ひましたから私はもういきついた事だと思ひましたが、後で聞きますと、明日の朝まで生きて居たさうです。(此処坐敷の図を挾む)それから中岡の方です、これは私共も中岡とは知らず坂本さへ知らなかつたのですから無理はありません。坂本をやつてから手早く脳天を三つほど続けて叩きましたら、そのまゝ仆れて仕舞ひました。御話しますれば長いのですが、此の間はほんとに電光石火で、一瞬間にやつて仕舞つたのです。然し室へ這入ります前に私のすぐ後へ渡辺がついて参りましたが、それが腰の鞘を立てゝ梯子を上りましたので、六畳に居る書生が怪しいと見てそれと声を掛けましたから少し手順が狂つたのです。それで四人とも坂本の室へ這入り込む処でしたが書生が声をかけたゝめ、渡辺と桂は早速に抜いて六畳で書生と斬り合ひ、其間に私共は八畳の方へやつつけたのです。書生は渡辺と桂とに斬り立てられて窓から屋根伝ひに逃げて仕舞ひました。其の夜は佐々木只三郎の処で泊りまして、翌日市中の噂を聞くと仲々大変な騒ぎです。何でも皆是れは新選組の仕業だらう、多分は紀州の三浦休太郎(安)が新選組と合体してやつたのだらうと云ふ風評です。それに其の晩渡辺が六畳へ鞘を置て返つて来ましたが、その鞘が能く紀州の士の差した高鞘に似て居りましたから、愈々是れは三浦の仕業に違ひないと云ふ事でした。暫くたつと果して土佐の若い者が三浦の家を襲ひました。すると其の時丁度近藤(勇)が其処に居合せて一所になつて追ひ帰しましたので、愈斬つたのは三浦と近藤だと云ふ風説が高くなりました。決して四人でない、何故私がそれを四人でないと云ふことを断言するかと云ふと、石川清之助と云ふ者は、十五日の夜に斬られて十六日の午後今の一時過ぎまで生きて居つて誠に確であつた。それで其の賊の這入って来た挙動から何から一切詳に話した。それとどうもまるで違ふ。石川の言ふに賊は二人であつた。今の今井の言ふには四人であると斯う云ふてある。
 尤も蛸薬師あくら屋と云ふのは間違ひはない。此あくら屋は近江屋新助と云ふて、本年私が京都へ行つた場合に未だ生きて居ると云ふことであるから、それに会ふて話を段々聞いて見たけれども、何しろ彼奴等はどん上に上がつて来て、坂本の僕が斬倒されて大きな声で叫ぶと云ふ訳で、何もかもない周章て逃出したものであるから、後のことはさつぱり分らない。其の近江屋なる者は小僧一人居りましたとか何とか言ひましたけれども、決して家には居らざつたに相違ない。所が此今の自称殺害者と云ふものは、書生三人居つたと言ふ。二階の階子段を上に上り詰めて、そしてずつと見詰めると向ふに書生が三人居つたと云ふことがちやんと書いてある。所が、其処に居つだ者は、坂本龍馬の僕が一人である。それから即ち斬られて居つた者だけは斬られた。然るに今の今井先生の全体其時の挙動と云ふものが如何にも面白い。どうも丁度芝居の讐討でも見る様な景況で、どうしても事実とは考へられぬ。あとから作つたものと思はれる。其時に四人の人がどう云ふ様にして行つたかと云ふと、十五日夜の十時過ぎ時分に今の蛸薬師三条下ル所のアクラ屋へ参つた。そして家来に対して言ふに、私共は信州松代藩の某と云ふ者である、坂本さんに火急に御目に掛りたいと、斯う云ふて行つた。さうすると取次の者がはいと云つて立つて行つて上に上がつた。こいつは占めた家に居るに違ひない、居りさへすれば何でも斬つて仕舞ふぞ、斯う云ふ積りで構込んだ。そこで其内取次の者が此方へ御通りなされと言つて来たから、二階へ行つたが寄附きに居る人が松代藩ですか、あなたは真田の藩ですか、坂本とは前から通じて居つたのですか、斯う云ふ問を掛けた。さうすると四人とも宜い加減な名を拵へて行つたものであるから、今では其名は覚へて居らぬけれども、兎も角も此方へと言ふから、直ぐ二階へ上つて見ると、八畳の座敷と六畳と二間に居つた。そこで六畳の所にどう云ふ人が居つたかと云ふと、上り口の六畳に書生が三人居つた。八畳の方に坂本と中岡が机を中へ挾んで坐して居つた。是も間違つて居る。成る程京都では能く机を置て話をし飯を食ふことをやつて居るが、そんなものはなかつた。行燈を前に置いて、そして二人が話し居つた。そこで三人の書生が居つたと云ふのは是がいかぬ。それから其人の言ふに、坂本は一向自分も会ふたこともない、それ故に少しも三人とも勿論石川も坂本も知らざつたが、早速気転を利かして、はゝ坂本さん暫くと言ふと、どつちが坂本か知らふが為に声を掛けた。さうすると入口に坐して居つた人がどなたですかと答へたので、それでこいつが坂本ぢやなと斯う思ふて、矢庭に抜いて斬付けた。それから其横鬢を一つたゝいて置いて体を竦める所をなぐつた。一つなぐつて体を竦める所を横に腹を斬つた。そこで踏込んで右から又腹を斬つた。此二太刀でからに確に坂本はうんと云つて倒れて仕舞つた。そこで私はもう宜いと思ふて居りましたが、あとで聞けば翌朝まで生きて居つたと云ふことでありました。斯う云ふことが書いてある。所が能く御考になつたらば分るが、人を斬りに行くにさう云う間鈍いことで人が斬れるものでない。又両人とも随分武辺場数の士で、殊に坂本は剣術は無逸の達人で、平生付けねらはれて居るのを承知のことなれば、少しも油断しない。それが顔と顔とを見合せて話をしてそれから斬られる様な鈍い男でない。是等が最も嘘の甚しい事柄で、決して斯う云ふ訳のものでない。
そこで此坂本の斬られたと云ふ報知のあつた場合に直ぐに駈付て行つた者が、私と毛利恭助と云ふ者である。是は京都三条上る所の高瀬川より左に入る横町の大森と云ふ家がある。毛利両人は其大森の家に宿をして居つた。それで先づ速い中であつた。土佐の屋敷と坂本の宿とは僅に一丁計りしか隔て居らぬから、直に知れる筈なれども、宿屋の者等は二階でどさくさやるものだから、驚て何処へ逃げたか知れぬ。暫くして山内の屋敷へ言つて来たものも、余程後れ私が行つた時も最早疾うの後になつて居る。それで行つて見た所が、丁度階子の上り付けた所に坂本は斬倒されて居る。夫からして階子を上つて右ニ行き詰めた所が、即ち京都の方に窓がある。御承知の通り京都では、町に向いた窓は大きな閂を置いて其へ泥を塗つてある。なか押しても突いても破れべきものでない。其下に龍馬の僕が斬倒されて居る。そこで右手の方の座敷には即ち中岡が斬られて居る。もう坂本は非常な大傷で額の所を横に五寸程やられて居るから此一刀で倒れねばならんのであるが、後ろからやられて背中に袈裟に行つて居る。坂本の傷ハさう云ふ次第で、それからして中岡の傷はどう云ふものかと云ふと、後ろから頭へ掛けて後ろへ斬られ、それから又左右の手を斬られて居る。そして足を両方ともになぐられたものぢやから、両方斬られて居る。其内倒れたやつを又二太刀やつたものであるから、其後からやつた太刀と思ふのは、殆ど骨に達する程深く行つて居る。けれども脳に遠いものであるからして、なか元気な石川でありますから、気分は至てたしかである。どうかと云ふと誠に遺憾千万であるが、併し此通りである。速くやらなければ君方もやられるぞ、速くやらなければいかぬと云ふのが、石川の論であつた。(註、省略)
そこでまあ一体どう云ふ始末であつたかと聞いて見ると、実は今夜ハお前の方へ行つたが、お前が留守であつたから、坂本の所へ来て二人が話して居る中に、十津川の者でござる。どうぞ御目に掛りたいと云ふて来た。そこで取次の僕が(坂本の僕)手札を持って上つて来る。中岡は手前に居つて坂本は丁度床を後にして前に居つた。それで二人で行燈へ頭を出して、其受取つた手札を見居る、読む暇はありませぬ。見居る所へ僕が上つて来るに附いてずつと上がつて来た。そして置いて矢庭にコナクソと云つて斬つた。それで手前に居つたのが中岡である。行つて見ると居つた位置も違ひ、机などを列べて居つたと云ふけれども、そんな訳でなかつた。矢庭に二人が手札を見やうとする所へ斬込んで来た。中岡を先きにやつた。其言葉は所謂コナクソと云ふ一声、そして斬られた其時はつと思ふた時に、坂本は後ろの床に刀があるから、向いて刀を取らうとする様だけは覚へて居る。自分も直ぐ短刀を取つたけれども、奈何せむそれを取つたなりで抜くことは出来ぬから、振廻し向ふは後へ退りなぐられた。そこでもう手はきかぬ様になつたから、唯向ふに武者振り附かうとする両足をなぐられて仕舞つた。それで足が立たぬ様になつて、仕方がないから、其儘に倒れて斬らせて置くより仕様がない。其儘倒れて居つた。さうするともう宜い、もう宜いと云ふて、出て行つた。賊の言ふた言葉はコナクソと云ふ言葉と、もう宜いと云ふ言葉より外聞きはしない。そこで坂本はどうしたであらうかどうも分らない、分らないが坂本も素より斬られた。今の中岡が斬られて倒れて暫くして居る中に、坂本が倒れて居たが、すつと起上つて行燈を提げて階子段の傍まで行つた。そして其処で倒れて、石川刀はないか、刀はないかと、二声三声言ふて、それでもう音が無い様になつた。斬られて居つた所は八畳の間であつたけれども、兎もあれ立上つた儘、階子段の傍まで行燈を持つて行つて倒れたと云ふのが是が、即ち石川の話。それで石川の言ふには、なか実にどうも鋭いやり方で自分等も随分従来油断はせぬが、何しろ非常な所謂武辺場数の奴に相違ない。此くらい自分等二人居つて不覚を取ることはせぬ筈だが、どうする間もない。たつたコナクソと言ふ一声でやられた。斯う云ふ話であつた。それからして今の傷から云ひましても此人の言ふ所に依ると、先づ其横鬢を一つたゝいた。是は何か話にでも聞いたものでないか、此額をやられたのは、五ほんくらいやられた。それから是は稍々似て居るが、横腹を斬つた。又踏込んで両腹を斬つた。それが深い傷と云ふのは横に眉の上をやられて居る、それから後ろから袈裟にやられた。此二つが先づ致命傷。そこで坂本はどう云ふことをしたかと云ふと、どうも分らぬ。けれども是も想像が出来る。自分は刀を確に取つたに相違ない、刀を取つたがもう抜く間もないから、鞘越しで受けた。それで後ろから袈裟にやられて、又重ねて斬つて来たから、太刀折の所が六寸程鞘越しに切られて居る。身は三寸程刃が削れて鉛を切つた様に削れて居る。それは受けたが受流した様な理窟になつて、そして其時横になぐられたのが額の傷であらうかと想像される。傷の所から云ふても此人の言ふて居る所とは全く違ふ。それから又疑ふべきことは、お前ハ松代の人であるかとか、何とか云ふことは、そんなことを応接するどころの騒ぎでない。僕の後に附いて来て矢庭にコナクソと云ふてやつた。実に速にやつた。
そこで私共が行つてから、さて是は何者の所業であらうか、誰にやられたかと云ふことに付ては、未だ今に心に掛けて詮議中である。石川の判断では之はどうしても人を散々斬つて居る新選組の者だらう。それでコナクソと云ふ言葉に付て判断した。石川の云ふにどうも四国人であらふ。コナクソと云ふことは四国人が能う言ふが、土佐の者ではなからう。土佐の者は其の時分石川を斬る者ハ無い。皆殆ど有志は一致合体して居る時であつた。そこで一つの証拠が残つて居るのは刀の鞘がある。刀の鞘と云ふものを一つの証拠にそれから吟味してコナクソと云ふ言葉ともう宜いと云ふ言葉の外に、賊の残して行つたものは刀の鞘だけである。それで石川は誠に遺憾千万である、甚だ不覚を取つた。片時もやらなければ皆有志の徒はやられるから、速く事を挙げいといふことを頻に言ふた。そこで石川は今申す通り十六日の午後一時か二時頃、昔で云ふと八ツ時と云ふくらゐに、とう死んだが、其の死なぬ前に傍に居たのは、即ち今の宮内大臣田中光顕、是も土佐の白川屋敷に囲つてあつた浪人組で、即ち自分の大将がさう云ふ災難に遭ふたものであるから、田中が取敢ずやつて来た。それから田中が石川を慰めて、是は貴様の傷は余程浅い。井上を見よ、聞多はあの通り酷い傷だが癒つた。貴様は充分に癒るぞ、と云ふて、力を附けた。併ながら後から斬つたのが脳へ幾分か掛つたものと見えて、次第に嘔気を催し吐出して、とう翌日の八ツ前くらゐに斃れた。けれども死ぬ前に懇々として話した。それは速くやらぬと此様にやられる、実に遺憾であると云ふて斃れて仕舞つた。其のあとでさあ此下手人を調べることになつた。先づ新選組と鑑定を附けたものでありますから、此方の手掛りを探さなければならぬといふもので、石川が斬られたのが十五日、それからして新選組に元居つて意見が分れて、高台寺といふ寺へ行つて居つた者が十四五人あつた。伊東甲子太郎といふのが頭で、其の甲子太郎が十八日の夜新選組の者に殺された。甲子太郎を殺して置いてサア伊東が災難に遭ふたから、片時もママつと云ふてやつたので、居合した者が七人程皆行つたが、新選組は待伏して皆殺された。七条少し脇の方で其斬残されのが其中に伏見の方へ出て行て、家に居らざつたのが二三人あつた。其斬残されたのは初め白川の土佐屋敷へ来た。白川の土佐屋敷はあの時分は野原であつて、浪人が大変居るが、危険であるからもう不用心故、薩摩の屋敷の方へ頼んだ所がこゝも危いと云ふので、伏見の薩摩屋敷へ囲つて居つた。そこで彼の斬残されの者等は、元々新選組に這入つて居つたものであるからして、刀に見覚えがあらうと云ふので、私と毛利とそれから彼の薩摩の中村半次郎と三人で、伏見の薩摩屋敷へ行つて、彼の甲子太郎の一類の者に会ふて、其の刀の鞘を見せた。所が此の二三人が評議して見て、是は原田佐之助の刀と思ふと……言出した。成程……此原田左之助といふのは腕前の男だ。新選組の中で先づ実行委員と云ふ理窟で人を斬りに行くには何時にても先に立つて行く。そこで私などがハア成程どうも其挙動と云ひ、如何にも武辺場数の者であらう。何しろ敏捷なやり方である。どうしてもそれに相違ないと云ふので最早一人は原田左之助其他、斬つた者ハ新選組の者に相違ないと云ふことにまあ決定して居る。所で豈図らんや此三十三年五月の近畿評論と云ふ雑誌を見ると、坂本、石川両人を殺害した者は拙者なりと明白に言つて居る。そこで其挙動はどうかと云ふて見ると、如何にもおかしい。恰も芝居の讐討でもやりさうな間鈍るいやり方で、尤も其中に斯く云へば長い様でありますけれども、実は電光石火であつたと断りはしてある。けれども第一に書生はどうしたかと云ふと、窓から出て逃げたと云ふ。けれども逃出やうと云ふ所は、実は大きな柱があつて泥を塗つてあるから、押しても突いても動くものでない。逃げやうとしても逃げることは出来ない。唯二階へ上がる行詰の所に明り取りがあるが、それは高うて唯明りを取る為めのもので、決して逃出るも、どうすることも出来ない。若し逃出るならば石川、坂本の斬られる其処へ行かなければならぬ。其処ハ低い敷居があつて其下に坂本が机を置いて書見して居る。其処ハ出らるゝが、其処ハ両人が居つてドサバサやり居るから、逃げやうとしても逃げることは出来ない。所が此先生は書生が三人居つたが二人は逃げて一人は斬止めた、斯うある。どうも途方もない間違つて居る。それでまあ全体そう云ふやうな有様で、此時のことは矢張り私等の国の者等の考も、元紀州の光明丸といろは丸と衝突の時に、坂本等が非常な激烈な談判をして、償金を取つたから其恨みに、紀州人が新選組を遣してやつたのであらう。そこで紀州の巨魁は今の三浦安——三浦久太郎に相違ない、あれが即ち新選組を煽動して斬らせたのであらうといふから、誠に詰らぬ壮士等が三浦安の所へ斬込んだ所、向ふがドッコイさうはいかぬと云ふので、新選組に言ふてやつて準備をして居つたから、此方から行つたのがやられた。それで斬つたと云ふ今井は、松代藩の者であると言ふて行つたと云ふが、松代藩の者だなどといふてもウツカリ会ひはせぬ。皆用心して居る、殊に坂本は才谷梅太郎と云つて名を変へて居つて、殊に新選組から狙らはるゝので、薩摩の方からも危いに依て、どうぞ私の方へ参るやうにと云ふたが、屋敷の中へ這入ると出入りに窮屈だから這入らうと云はない。それ故平生警戒を加へて居るから、松代藩など云ふて来ても会ひはせぬのでありますが、十津川の者は始終出入して居りました。勤王論者が十津川に多かつた。それで十津川と云ふて来たから取次も安心した。そこで十津川と云ふことをかたられたといふので、十津川人が大変怒つて即ち三浦久太郎を斬に行つた場合にも、十津川人が出掛けて行つた。十津川人の中井承五郎と云ふは大分人を斬つた様子ぢやが、それから行つたが、とうとう斬られて仕舞つた。

それから龍馬に話に来た書生は、遺憾ぢやと云ふので三浦の所へ斬りに行つたが、構へて居つて散々失敗を取つた。さう云ふことで此人は松代藩ぢやと云つて行つたと云ふが、決してそうでない。十津川と云ふて行つたは余程巧なるやり方である。取次の僕も十津川人と云から取次をした。さう云ふ次第で其鞘は原田左之助が差して居つた刀の鞘である。
斯う云ふことに私共に一斉に極めて居る。所が此人の云ふに鞘を落して来たと云ふ。是もあとで聞いたらうと思ふ。其鞘は紀州の人の刀の装へである。紀州人の鞘であるといふのでサア三浦ぢやと云ふて、三浦の所へ復讐に行つて返討ちにあつた。さうでない紀州人は紀州であるが、紀州人が新選組を唆かして新選組の者が斬りに来た。鞘は全く原田左之助の鞘と、斯う云ふことになつて居る。それで随分妙な物好であるけれども、推測して見ると徳川の旗下で譜代恩顧の者であるから、両英雄を倒したと云ふと事実となつて後世に伝へらるゝことゝなつて、成る程斯うであつたか知らぬと、どうしても事実と認めらるゝに相違ない。
それで御話を申上げる通り、片岡がどうぞ調べて呉れいといふことであつたから、請負ふて置いた。是も故人になり又私が死んで仕舞へば遂に事実を明にすることが出来ない。段々古いことを御知りの方もございませうし、又歴史を御取調べになる方も段々ございますから、どうぞ充分御研究を願いたいと思ふ。果して今井と云ふ人が手を下して斬つたものとすれば、此書いたものに言ふたことは間違つて居るに相違ない。何れにしても今井が斬つたといふ事は、此証拠の上では認められぬと思ふ。どうぞ尚ほ御記臆の上で御研究を願ひたいと思ふ。随分誰がやつた彼がやつたと云ふことには、大変間違がある。且つ又何ぞあの時分の書いたものでも押へぬと、随分あの時分は斬自慢をする世の中であつたから、誰がやつた彼がやつたと云ふことは、実に当てにならぬと思ふ。どうぞ御参考に供しますが、尚ほ御取調を願いたいと思ひます。(谷干城遺稿、編者曰、明治三十三年頃歟)