反町大膳訴状
武田勝頼に罷在刻持申す覚
三河国島の栄城へ勝頼の内和田兵衛太夫と申に百騎程にて被籠置候処へ相国様御取掛被成酒井左本マヽ兵 衛門尉御先手にて被為向候処城中より罷出候鎗御座候則敵横矢を入跡を押切兵衛太夫七騎にてのき申候兵衛太夫内に長竹対馬と申者敵を慕討死仕り候その時私も一人突落し高名仕り候七ヶ所手負申候兵衛太夫鉄炮にて被打臥申候間私助合兵衛太夫を引立コマシと申所を除申候右の様子兵衛太夫勝頼へ被申上に付て御感の御書拝領于今所持申候事
高天神にて相国様と勝頼御取合の刻横須賀と申城へ取掛申候時御鉄炮頭牛岩主膳と申人を鎗下にて高名仕り候場所大事にて御座候に付勝頼感状被下候今所持仕り候場所の様子最上に罷在候和田左衛門委存候間御不審の儀御座候者御尋可被成事
三枚橋を勝頼被相立候刻氏直は泉頭戸倉と申両城へ松田父子引籠置候処勝頼より伊原宮内と申者を御使にて小山田備中守和田左衛門安井左近太夫我等泉頭へ乗掛欠合の合戦御座候其時宮内河中島へ先に乗入候処敵も大勢にて走合せ伊原を突落し申候故私掛合助申候ゆへ右の敵追廻し伊原手負ひ申候を右等引取せ申候私も高名仕り二ヶ所手負申候得共浅手にて御座候故如此に候其時の武者大将小山田備中和田左衛門両人申様は今日の手柄無比類働と申候其段勝頼へ被申上候に付其以後に乗景囚獄と申者に三十騎吾等三十騎被仰付両人六十【 NDLJP:377】騎の勇者指引仕り候右の武者御預ケ被成候時勝頼より被下候御書今に所持仕候事
信州長尾景勝へ御手替りの刻勝頼より原隼人馬場美濃被遺候此両人信州諏訪へ被罷立候先手高坂弾正に我等相添河中島の内サイ川の渡にて合戦御座候則一番鎗を合高名仕候場所能候故美濃隼人無比類働にて両人墨付出し被申候甲州へ罷帰り候て屋形より御書取候て渡し可被申との墨付御座候是今に所持申甲州へ罷帰り程にて没落候間勝頼の御書は不被下候事
滝川伊予北条氏直にて持の事
上野の内金窪原にて氏直と滝川一戦御座候則一番に馬を入其上に高崎の城迄持参和田兵衛に見せ申候此合戦の様子は書面に不被成候御尋御座候はゝ罷出可申上候場所の儀は今程高崎に罷在候長島因幡真田伊豆殿御内荒井十兵衛と申す者委存候間御尋可被成候事
氏直と佐竹殿一戦の刻佐野甚兵衛と申す者を突落し申候則高名仕り候処に鎗疵二ヶ所手負申すに付て首を取兼罷在候所安中衆に神尾監物と申人掛付申候間彼監物迄為取申候其時氏直より手桃(柄カ)の旨御意にて山上太右衛門と申人を吾等方へ被使被下候御褒美として御腰物并に御書被相添拝領申候其御書も今に所持申候其後卯木左京と申す人を御使にて御薬両度被下候此様子は伊井掃部頭殿に罷在候卵木左京允真田に居申す荒井十兵衛能存候間御尋可被成候事
氏直沼田へ御働の時森下と申城攻被申候所に敵城を開退申候則岩井松山和田兵衛太夫扣掛被申候節横地三河と申鉄炮大将の首を高名仕候場所も能其上三河日比剛の者にて御座候を討申候故氏直より来国末の御脇差に相添御書文の御書拝領仕り今に所持仕り候其上場所の様子旁高崎に罷在候後藤孫左衛門と申者委存候間御尋可被成候
足利長尾信長へ内通被申入氏直別心申候に付氏直出馬被成候得共許容不申候に付其後付城二ツ取立安房守松田尾張両人に被仰下候の刻合戦御座候足利殿内武者大将に浜田と申す者と鎗を合即組討に仕り候故氏直より感状被下今に所持仕候事
伊豆の内三島表へ松平周防守殿相国様の御先手にて御働き被成候氏直常州へ御出馬の刻にて小田原には氏政被成御座候て橋本遠江に相添罷出上島表にて鎗を合せ即高名仕り候氏政の感状被下所持申事常陸の内谷田辺へ氏直御働被成候矢田辺の城のワルシロと申は本マヽ手 の門口にて鎗下の高名仕り候能場所の高名又初首の間氏直より御書被下候此感状は奥平美作守殿内奥平左兵衛と申す人見申度よしにて被取寄候処其晩左兵衛火事に逢失火仕り候間不本マヽ相 違ケ手前には御座なく候御不審の儀候はゝ左兵衛に御尋可被成事
伊豆駿河の境黄瀬川表釜の段と申処にて合戦御座候刻敵八騎にて取こもり八騎の内二騎突落し高名仕り候処を萩原新右衛門と申者馳付六騎の内一騎討留高名仕候両人にて三騎討留是も場前能御座候間小田原へ罷帰り候以後氏直より褒美として蘆毛の馬拝領仕候此様子は阿部備中守殿萩原新右衛門存候間御尋可被成事
慶長三戌歳迄に首数三十三此内手柄の首拾此内九御感状所持申候就夫戌年三十三の首供養【 NDLJP:378】仕候其刻牢人にて佐野に罷在候故古しへ入魂仕り候者岩崎神谷抔申者一両人呼候本 マ ヽ之扨林 にて供養仕候羽林寺の長情(老カ)に頼首供養の儀可有之候御不審の事候はゝ御尋可被成事
其後天下の御弓矢出来候時分奥に罷立候幽なる身上にて景勝に罷在候刻古と差違上泉主水組下被仰付候所身不肖なる浪人にて御座候得は不及是非組下に罷成景勝の領分の内カチ田川俣両所立々の一揆起り相馬殿を引入候はん様子候也所の者共籠り居申を上泉に被仰付候故吾等式も罷出本マヽ立 の者候には申候得共手きひしき様子にて御座候其時分も首三取申候是はさして高名と申程の儀無之候得共首供養以後に候処如此に候事
最上表え直江山城守働申す刻最上の内畑屋と申す城御取請被成候時私四番に塀を乗即高名仕り候も一番にて御座候直江も上泉も手柄の旨被申候得共是も身不肖成者の働にて御座候得は御褒美とても幽なる義に御座候き其時分は景勝に罷在候て最上表へ参り候諸浪人只今世上方々罷在候間存候者の多く可有御座候事
最上の内長谷堂と申す城を取詰申候処に□□□治部少輔三成軍に負被申候由内通御座候に付直江跡へ引取可申内談にて道作に人数差引候趣被申候右之様子承候哉らん初瀬堂より敗軍と心得敵より歩武者二千計馬上五六騎にて押掛申候処に谷場入道竹田舎人吾等四人一先に罷出楯子を上下敵を追返し申し候得は直江所より御文に只今の様子一段残る所も無之義に付然る上は其許早々引取申様にと被申越候我等返事には仮被申付共引取申儀有之間敷と申すに付月岡八右衛門と申者に鉄炮に相添越被申候に付て即ち敵引被申候此場所の義は右月岡八右衛門土屋民部少輔殿に罷在候御尋可被成候其後直江陣を引申され候所を敵慕ひ初瀬堂にても罷出方々よりよせ合せ申候刻直江返合せ被申候時も山城より一町計先に罷在候其後其場を曳山城一所に罷在候箇様の義証拠も無之事に候得共其時分山城に付申人二十計りも可有御座候間可存候直江山城杉原常陸存生候へは首尾合せ可申候得共両人共に相果墨付無御座義に候間証拠無御座候得共直江高名し被申候時常陸身に付申す人十七八人も御座候其中に罷在候者今に可有御座候事
最上帰陣之後諸浪人景勝より御暇被申候刻吾等義は可被召置と直江被申候得とも其時分越前の三河守様より関東諸浪人の内跡々手柄仕り候者共長記に被成可□至之由其内吾等義も御座候付て早々罷登り候得は可被召抱の由両度御飛脚被下候に付て即ち直江可暇申請取上り申候景勝に罷在候時も幽なる身上蔵米五百石被下候其後越前へ罷越二千石鉄炮二百挺被仰付候御知行被下候然処吾等世悴不慮の喧嘩仕出し相手を討退申候に付浪人仕り古郷にて御座候故高崎へ罷越忍ひ罷在候の処酒井左衛門殿より御扶持被下候との由様々被仰候得とも拙者世忰浪人以後病死仕り候て身を落老後の出世不入義と存候て世外の仕合に可能在候得は餓死仕候体に御座候間右の儀共申立五人三人の御扶持成共可申請為に箇様に申上候事老後の義にて御扶持被下候とても何の用にも可相立様無御座候得とも身の迷惑の終不取申儀ともくり集如此候御感状共今に所持仕候間尤とも被思召候はゝ可入御披見に昔の劔今の口刀と申義に少も違ひ申さぬ身体にて御座候此上の儀も御慮を奉仰給事にて御座候以上
【 NDLJP:379】 御披露
私共高崎城下に浪人にて居住申候時分は慶長九辰之年より元和三年巳迄の中也此節酒井家次高崎の城主也
明治三十五年一月再校了 近藤圭造
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