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佐柿国吉之城粟屋越中以下籠城次第

 
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佐柿国吉之城粟屋越中以下籠城次第
 

若狭之地侍は古より其在々を領知仕なから武田之幕下に属して罷在候

粟屋越中と籠城至候地侍は佐古村に香川平蔵左衛門同蔵介金山村に粟屋美濃大西加兵衛同弟加右衛門早瀬浦に美作守和多田次郎左衛門江戸(郷市イ)村南部助之丞佐野村に大塩長門守渡部加左衛門野崎備前興道寺に長野喜太郎野末村に戸島角左(右イ)衛門新庄村に山本豊後沼田に麻生半左衛門長沢右馬丞麻生村に沼田三郎兵衛佐柿に津田喜兵衛木野村に上 (大イ)野右京山上​にイ​​村​​ ​山東上野田辺孫左衛門大田村粟屋豊後北田村に山本権之助菅沼村に田辺弥六勝安同長助佐​にイ​​田​​ ​村山本十郎麻生紀伊守我々

永禄六年八月下旬に越前之朝倉左衛門義景若狭国をせむへしとて初手に国吉之城をふみおとし申すへしとて敦賀天筒の城主朝妻太郎左衛門半田又八軍奉行にて大勢急に攻め来るよし風聞いたし申し候

西郷耳之庄山東の地侍は不残国吉の城へ集り評諚とりに至候先佐田せきの山道馬足自由不成様に堀切買(関カ)をすえ暫ふせき其間に籠城の用意可仕とて麻生紀伊守山東十郎我々三人かせ物彼是弐百人山東口之布を集め百本のはたに拵かたくか谷の尾末より坂尻谷の尾迄立ならへ越前口より人数多き様に見せさせ道通り堀切らせ敵押かけ候はゝかさより弓鉄炮大石にてふせき候はんとのたくみにて候扨城には早鐘をつかせ山東耳の庄西郷の百姓共妻子等迄あつめ其中にてすくやか成もの六百人ふせきのために籠城させ女童ともは近所の高き山に小屋を作りのほせ置残るものともは百姓小屋のふせきに付置候六百人の百姓共大石大木多く城へ引上させらる大木を三尺程に切せ多く拵置候同九月二日に越前の大勢金山村よりおしかけ参候故右三人之者共弐百人に弓鉄炮をもたせがさより随分ふせかせ申候道通りに堀切あまたいたし置候故自由に懸入不申候山よりは色々方便をしてふせかせ申候故越前勢とも其日は買金山に徘徊して急に押懸不申候山東の百姓共之万事諸道具共皆々山々の小屋又は佐柿の城へもたせ候日暮に粟屋勝安より使参候は籠城の用意かたの如く致候間いそき城へ登り候てともにふせき候へと申来候此儀如何可有と三人談合至候は越前大勢おしかけ候問是に而勝負いたし人数うたせて小勢になりては国吉の城ふせきかたく存候儘右ののほり三十流尾末の木にくゝり付ふせく体にもてなし弐百人のものとも引連城へ籠り候さて同三日の早天義景勢佐田表へおしかけ候城にはしつとしてふせきかねおとろきたるやうにもてなし居申候義景勢共山上おもてへ大勢おしかけ半時計有てむらとせめのほり候山七分はかり攻登り候とおほしき時城より六百人の百姓共に大石大木のころを時の声をあけて打落二百人の侍共弓鉄炮にておもひに打出す事夥し山上表より攻のほり候敵とも大石大木に押落されて人馬ともにみな谷へ打落しさてかさより右之者共いろにせめ追かけ候ゆへ敵とも佐田表へ引申候敵過半疵をかふむるもの多見へ其時大石大木弓鉄炮にてうたれ候もの弐百六拾余

オープンアクセス NDLJP:151永禄七年九月上旬に越前勢夥敷佐田おもてへおしかけ参候右之通山東耳の庄初郷地侍不残百姓共国吉の城へ籠城至候越前勢共宝春寺の上中山に付城をこしらへ山本郷の畑に出来稲大豆粟大根等に至迄苅取付城又は宝春寺大田村に大勢徘徊して有之候

伏見か岳の下より敵兵山に登り高見より弓鉄炮にて夥敷打かけ申候得共城のまはりには大木多くありて天主よりたかくしけり申候故敵のうちかけ申鉄炮大木の枝に当り候而木はおれ候得とも城へは少もあたり不申候

坂尻浦之上の山へ敵共大勢上り候而鉄炮多くうちかけ色々に方便をかへ攻申候得者城にも昼夜油断不仕候

永禄八年八月中旬まて敵共大勢佐田太田に徘徊して山東郷之田地とも皆々あらし申候同八月下旬越前よりまた夥敷押寄申候故城にも随分やうかいきひしくいたし坂尻浦々上の山に道をつくり敵共大勢耳之庄西郷へ押懸田地とも皆川取候て色々あはれ申候城には小勢にて候故おもふやうにも不成候大勢の敵とも目の下に見おろし居申候様々方便をめくらし城を落し申様々と攻かけ候て田地迄刈​本マヽ​​取迄​​ ​以城にもあくみい(居也下同)申候

同九月下旬に粟屋豊後守山東十郎麻生紀伊守山東上野田辺弥六郎我々致談合候者加様に敵共目前にて我々知行分之田畑共皆あらし敵の自由にさせ申事無念候夜に入油断仕候処へ大勢押寄付城へ火をかけ追散可申と致談合粟屋勝久に此由申候へ者弥可然との儀にて評議究候

同九月廿七日夜半時分に山東上野粟屋豊後に侍三十人百姓共取聚引つれふきたより太田村へまはし申候

山東権之介長沢右馬丞侍分三十人百姓とも二百余引連一の瀬より山崎池のわきへ向候

山東十郎麻生半右衛門田辺弥六我々侍五十人百姓二百人にて万願寺山よりしつと上り瓦筋より付城へ忍ひよせ弥太郎右衛門九郎と申もの二人城へ忍ひ入見候得は敵共大勢臥候てい申候を踏越とおり大かまの下に在之火を取おもふやうに付申候折節あらし吹申候故程なく焼出申候我々引つれ候二百人之もの共時々声をあけ候得者ふきたよりまはり候勢いちの庄より廻候勢とも同く鬨を合候て弓鉄炮をうちかけ申候城にい申候敵共一人も不残谷へ皆逃をち申候油断之処へ俄に攻入申候故敵も周章騒太田表にて懸合おつゝおはれつもみ合戦敵は大勢にて候得共油断いたし候折節付城には火かゝり三方よりのときの声弓鉄炮にておもふまゝに懸合候故敵は周章武具共過半取落し候朝倉太郎左衛門は小はせ谷より打越半田又八は坂尻谷より打越一人も不残逃かへり申候扨耳之庄西郷より押取申候兵粮とも宝春寺に積置候を国吉之城へもたせ申候

今度太田表にてうち取申候敵ともの首五十余味方うたるゝものは侍分には大西加左衛門彼是三人百姓六人其外手負あまた在之候

義景勢山東郷にて焼亡いたし候堂寺山上村に万願寺の薬師堂正福寺佐田村に古き堂寺松本寺常(帝カ)釈寺観音堂北田村之薬師堂是はいにしへ行基菩薩之御建立所也二十八社之鐘オープンアクセス NDLJP:152其外の堂とものつりかねを敵共鉄炮之玉に鋳申候二十八社之馬場に在之大きなる松木とも皆焼払申候

内裏領之領主に本条殿と申御公家中寺村に御入候国吉籠城めされ候近衛殿御舎弟之よし

永禄九年之八月下旬に越前之勢多佐田村へ押寄山東郷之稲共苅取かりくら山に付城を大勢徘徊いたし候

粟屋五右衛門家勝侍百姓共に彼是五百人にて岩出山へ出張敵攻懸り候はゝ大石大大弓鉄炮にて打落し通し申間敷とのたくみをいたされ候然る処に敵大勢山上表へ押懸申候粟屋越中其時天主へ上り見おろし被申候へは敵山上より攻よせ候は腰越坂を押切両方一度にせむへしとの巧と見へたり左様に候はゝ大事にて候間五右衛門にいそき本城へ引取候得と被申遣候五右衛門も功者之侍にて皆々引連本城へ被帰候勝久被申候は敵共間近くよせ候て付入せんとおほゆるそと被申候処如案付入申候味方の勢は城へ入敵は水尾筋の城下に在之候百姓共の小屋なとへ大勢むらとして入腰越坂尾筋より攻懸候処を城より火矢にて射申候得者折節雨の後にてしめり火付不申候勝久手つから火矢を射被申候二の矢に而小屋に火付申候其時敵小屋より出申処を城より突て出申候敵も跡より大勢押懸申候故跡へも不被返難儀いたし候両脇之方は手を立たる如くきらにはき立候て自由ならす城よりは大勢切て出申候故こやの瓦にて暫戦候へは城方は高見より見おろし敵は下より見上て戦候故ほとなく山上表へ引返し申候を弓鉄炮大石なとにて追打にいたし候敵佐田辺へ皆々引退申候其時こやの尾にて討取申候首数三十六城方には手負数多在之候得共太田村の百姓二人ならてはうたれ不申候首ともを山上表にかけならへ申候

永禄十年迄かりくら山の付城に敵共大勢徘徊して在之候

同十一年八月中旬に大勢重而攻来り坂尻浦の山道より木野村を通り味方にも椿峠より敵攻よせ候はんと評諚いたし候得は左はなくして桑山村へ通り候定て熊谷大膳を可攻かとて色々に談合いたし候

熊谷大膳も籠城内々より支度いたし候近辺の地侍には相田村に山中武辺藤井村に山片下野上野村に熊谷蓮西横渡村に香川半兵衛熊谷甚内気山村に熊谷平右衛門岡村兵作其外地侍共龍城いたし大石大木共引のほせ用意仕候敵も弓鉄炮少々打かけせむるていにもてなし日暮候而敵小浜へよせ武田孫八郎殿に朝倉太郎左衛門半田又八色々にたはかり孫八郎殿を同心して越前へ帰候熊谷大膳粟屋越中両人共に義景に一味同心致し候得と再三御使参候熊谷も越中もたとへ敵に御成候共義景には一味仕事思不寄御事と致返事終に談合不申両人共に孫八郎殿越前へ一味被成候事無念に被存候

武田孫八郎殿越前へ御越候てより若狭之地侍共心々に見へ申候此趣義昭公へ致注進候へは驚給ひて丹羽五郎左衛門を旗頭に御下被成候

永禄六年より同十二年迄七年の間義景勢いろに方便をかへ攻来候ゆへ国吉の城も致退屈候田地に出くる稲共苅取候故兵粮につまり候はんかと存春になれは山々の葛の根をオープンアクセス NDLJP:153堀随分兵粮之用意油断無之候

元亀元年に越前義景を御攻可有之とて信長公従江州熊川通り若狭へ御入候其時熊川へ馳参侍共高浜之逸見西津之内藤鳥羽之香川右衛門大夫三瀉に熊谷大膳藤井に山片下野其外何も々々熊川へ集り候信長公は松宮玄蕃所に御一宿被成翌日佐柿へ御入可在之とて粟屋越中近辺之地侍とも皆々御むかひに参致御供国吉之城へ御入被成候

国吉之城わつかの小勢にて数年籠城いたし候事信長公御感不斜候近辺の地侍我々已下出致御目見候

家康公は其時別所に御陣御取被成候木下藤吉郎殿は佐柿へ御入被成候

信長公佐柿之城に両日御逗留被成候先敦賀天筒之城を御せめ可在之との御評諚に究候時粟屋越中御先手望被申候得者数年籠城之苦労在之候得者今度は先手に丹羽五郎左衛門可被仰付との上意にて粟屋越中より敦賀郡へ触被申候は天筒城朝倉太郎左衛門を御責可在之とて信長公御出陣被成候付天下之諸勢悉馳集候百姓町人によらす御案内仕者は御褒美可被下候朝倉に致組候ものをは一人も不残首を刎らるへきとの仰候間有忠ものは御むかひに可参と申触候丹羽五郎左衛門御先手にて外の鳥居へむかひ候へは百姓町人とも皆々案内に馳集候事夥敷候五郎左衛門案内を先にたて天筒の城へ攻上り被申候天筒の城には侍数人其外町人共気比之宮之社家宇野十郎なとゝ申て昔より名ある侍何も不残致籠城候弓鉄炮夥敷打出す故寄手余多被討候五郎左衛門是を事ともせす一の城戸口まて攻懸即時に城を乗落可申を従信長公之上意には御印之みへぬ先に城を攻落す事有ましく候と被仰付候故よせてとも御印をまちい申候間に城の内櫓より弓鉄炮数多打出候故寄手多被討候得共少も不搆は前なる者うたるれはそれを引かつき御印を待い申候御印外の鳥居へ見へ申候とひとしくよせて一同におしかけ則時に攻おとし申候信長公は敦賀にて妙顕寺に御陣をめされ義景勢のうちもらされ三十騎計歌か谷にしのひい申候を粟屋越中より立使越前へ之案内可仕候はゝ命をたすけ可申と被申候得は命御助候者案内可仕と申候故此由信長公へ申上候得い仔細あらしとの上意候

木下藤吉郎殿粟屋に向ひ被仰候n国吉之城わつかの小勢に而候之処に越前より大勢にて数年攻候所少もよは気なく御運ひらかれ今度信長公城へ御成越前御退治被成候に御供いたされ御手柄の程武勇の働勝久にあやかり申度と手を取御いたゝき被成候

天筒の城に而討死の侍多候籠城いたし候侍一人も不残うたれ候其より一乗か谷を御攻可有とて評諚とりに候得者浅井逆心之由申来候故重而御攻可有とて秀吉公疋田に御残置候而信長公若狭路より京へ御上り被成候

朝倉太郎左衛門大勢に而数年若狭へ攻来候信長越前を御攻可有とて佐柿之城に御陣被召候事若狭勢悦いさみ我先にと先懸致候に御印のみへぬ先に城を乗落候事仕間数との兼て御掟​本マヽ​​はゝ​​ ​故味方も多討れ候此上意信長公御一代之御誤と取々沙汰仕候へき信長公天筒を御攻被成候時の御勢都合二万余騎也

オープンアクセス NDLJP:154信長公重而義景御攻被成候時若狭より右之侍共不残致御供候粟屋越中同五右衛門手柄及度々候故信長公より御感状粟屋父子に被下候色々之道具共取参候其内に弘法大師之御筆五百体之愛染あり是は越中より佐柿清蓮寺へ御寄進に而候医書に難経の板は敦賀西福寺へ寄進なり

武田孫八郎殿越前より御帰に付熊谷大膳粟屋越中様々御侘言被致数度候得共義景に一味越前へ御越候​本マヽ​​違​​ ​終に御赦免なく候而熊谷粟屋所に而日数御送候いにしへより代々さかんに国之大将被成候処に加様之風情に御なり候事御痛しく存候と申候得共御ゆるされなく江州海津にて御生害に而候

信長公御隠被成候以後は粟屋越中熊谷大膳を秀吉公より忠ある侍共とて御懇志被成候其折節伏見に而西国より御使者参候其状之内に加様に書て​本ノマヽ​​   ​​ ​具に可申上候御前在之候右筆共諸侍指あつまり評諚いたし候得共よみて無之候秀吉公より粟屋越中によませよと被仰出越中御前へ被召候時越中承是は使者之名にて可有御座候いつたてと可申かと申候へは実にもと思召使者の名を御たつね候得はいつたて(立イ)と名乗申候

粟屋越中老年にて被相果候嫡子五右衛門嫡孫栗屋助大夫親子共に秀吉公へ御奉公被致候大坂落城之時に諸道具とも焼払命計たすかりしのひ居申候其後沢田平大夫肝煎に而藤堂和泉守殿へ粟屋助大夫は奉公に罷出るわつかの体に而罷在候粟屋越中同五右衛門家康公別而御懇志に思召候得ともおもはす御敵に成候故おちふれ申候

永禄八年九月廿七日之夜中の山の付城を焼払追散候時捨置候諸道具のうちに九月二日として朝倉太郎左衛門

 武士のよろひの袖をかたしきて枕にちかきはつかりのこゑ

永禄三年五月十日粟屋越中勝久某所に而一宿候刻折節郭公の声ありけれは

   郭公

 待里に名はふりにけり時鳥              勝久

   同

 おちかへり明さみあらぬ郭公             宗波

 横雲にはなれてあかし郭公              宗游

 声やよのにこりにしまぬ郭公             僧阿

 ほとゝきす年々きくや百千鳥             米忠

   夏月

 秋の月をしめく度​にイ​​そ​​ ​夏の月              米行

 月の色やわか□の枕秋もなし             但阿

永禄四年四月に佐柿の屋形にて

 花も風もおさまれる世におふち哉           勝久

 ふけるめくみやふる梅の雨              喜伸

オープンアクセス NDLJP:155 峯たかみ月は雲まをいてかねて            観伸

 のきはの山のさをしかの声              家勝

馬には時々大豆を水にふさかして可飼野陣なとにてなへかま無之時之用心なり

仁不肖によらす武者を心懸ものは第一うそをつかすうろんなる事なく不断しやうしきをたて物耻を仕かほんにて候犬ともいへ畜生ともいへ勝かほんなり

身体は大小によらすうちのもの又は百姓等にもなさけをかけて置たるはよく候きつくいたし候得は大事の時の用に立不申候常々の心持肝要にて古参新参にかきらす忠功之者の子孫幼少​ならはイ​​にて​​ ​いかにも大切に立たて人となし候様にすへし自然実子なきものには親存生之内に似合たる養子を仕候へと異見を加へあとの絶ぬ様に仕候得は子なきものも安堵のおもひをなし□おもひて身命をかろんするものにてうちのものにはおぢられたるはあしく候いかにもなみたを流しいとおしまれたるかほんにて候

軍奉行仕ものは諸勢の先にたちたるかほんにて候其故あるいはふんとり或は手負たる者にみせんとて旗本へ悉あつまり心々故こくちの人数うすくなり候故敵こみかゝりかならすおくれを取大勢諸勢にふみおとさるゝ体見苦敷候

召出す風情又はいさゝかのものたへさせ候とも一人二人取分たるやうにはすへからす

うちのものにあなとらるゝと心​持出来候ハヽイ​​得てはや​​ ​我心狂乱した​よ​​る​​ ​と悟へし其故いてきにさへあなとらるましき身を何とてうちの者にあなとられ候はんや物事に油断してはかならす我身体あやうきものと心得へし

​本ノマヽ​​唐上​​ ​日本まて武士は弓とりとて第一に弓の稽古を嗜さて鑓鉄炮万事油断あるましく候

一主におちよ 一病におちよ 一火におちよ 一分別なき人におちよ 一我心におちよ 一知行財宝におちよ 一夜る伏処におちよ 一なきめにおちよ 一船におちよ 一公事におちよ

   い上

一欲をされ 一無 のイをイ​​用事され​​ ​ 一人をいやしむ をイ​​事去​​ ​ 一大酒する をイ​​事され​​ ​ 一女に心ゆるす事去 一ものあらそい事去 一雑談すくす事され 一我​かすくイ​​すく​​ ​事を去 一手に不合道 をイ​​具され​​ ​ 一油断する事され

   い上

武田大膳大夫元光御申候は(由イ)承候は其身のなり見にくゝ共けなけならんものには情有へし又臆病なれとも用便おし立能は供使のやうに立申候両方かけたらんには所領とう何にか

無奉公者と奉公之族同事にあいしらいにては奉公人いかてかいさみあるへきか(可有候イ)

さのみ事かけ候はすは他国の牢人なとに右筆さすへからす候

僧俗ともに能芸一手あらんは他国へ被越間敷候但身之よき(能イ)をもとゝして無奉公ならオープンアクセス NDLJP:156ん輩はならひ(並イ)なく候

可勝合戦可取城責之時吉日をえらひ方角をしらへ時日をのはす事口惜候いかにもよき日成其大風に船を出し大勢にひとり向は其再(並イ)有間数候悪日悪方なりとも見合により諸神諸仏八幡摩利支天別而情誠をいたし候信心を以戦はれ候はゝ可被得勝利候

年中に三か度はかり器用正直ならん人を申付国をめくらせ土民百姓之となへを聞其沙汰を「敗られつかし」(可被致候イ)少々は形をかへ自身も可然候

伽藍仏客(閣カ)并町屋に通られん時は馬をとゝめ見にくきをは見にくきと云よきをはよきといはれ○(候ハイ)ていたらぬものなとは御言葉かゝりたると申あしきをなをしよきをはなをたしなむへし造作をいれられす国を見事にもちなすもこゝろひとつによるへく候惣別物事にあしきをは退治しよきをは誉理非○(善イ)悪敷をたゝすを慈悲の殺生とは申候賢人聖人の語を学ひ諸文を学したりとも心へんくつにては不可然候論語なとにも君子不重則不威なとゝあるを見て偏におもきなとゝ心得るはあしかるへしかろかるへきも時宜時趣(題イ)によつてその振舞肝要候国をたもつ○(者イ)は昼夜めをはなさす工夫いたし諸国の名人を集め其語を耳に挿仁義礼智信を第一に行は子々孫々まても家門久しかるへし云々

右覚書若狭州織田村半大夫祖父記之云々

 右宇佐美本を以比校畢 文政元年九月九日

〈佐柿町奉行宇佐美庸助重行此記録ヲ写シテ奥書ニ山東郷佐田村田辺半太夫家之日記也本書者 空山公御覧戦国ニ委シク記置且ハ恙ナク戦国ヲ経目出度モノヽ自筆御所望之由被仰出差上候其節写被仰付被下置半太夫家ニ所持ス粟屋氏於彼宅連歌ノ短冊モトモニ所持シテ于今有リ〉

〈享和三亥正月〉

  佐柿にも此戦の首尾書たる文書あり聊文飾ありて此書より事実疎し

                               伴信友


  右以武辺叢書本再校了

   明治三十五年一月                    近藤圭造

 
 

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