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雪之丞変化/堕ちよ!魂

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堕(お)ちよ!魂

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雪之丞は、今は、目的の遂行にいそがねばならぬのだった――追ッかけられるような不安が、いつも落ちつきを失わぬ彼の胸をも、いらいらと焦り立たせるのだった。
師匠すじの、先輩たちは、絶えず、狽(あわ)てふためくな、しずかに、しっかりと進んでゆけと、忠告するのだが、闇太郎だけは、そうはいわなかった。おあまり大事に取っているうちには、どんな邪魔がはいらぬものでもないと、いってくれた。彼には、この言葉に、真理があるように思われてならない。
――ほんとうに、ここまで苦労して来て、思わぬことから、たくらみが暴(あら)われてしまったら、それまでだ。敵は強い――敵は多い。一どきに、わしの一身なぞは、粉微塵にされてしまうであろう――こうしてはおられぬ。あのお初とやらのことにしろ、魔が差したのだというてもよろしい。
闇太郎に、お初の始末をたのんでから、あの不思議な友だちが、ああいってくれたものの、どうなったかと、まだ心に悩みも残って、芝居が閉(は)ねると、招宴をことわって、宿に戻り、じつと灯の下に腕を組んでいたのであったが、女中が来て、
「浅草のお知合い――と、申せば、おわかりとのことでございますが、お客さまが――」
雪之丞は、沈思から醒めて、
――おお、では、闇太郎親分が――
と、思い当ったので、
「どうぞ、こちらへ――」
客というのは、案の定、あの江戸名代の怪賊だtった。今日は、いつものみじんの素袷、素足ではない。髪もおとなしやかに、細く結って、万すじの着物、短か羽織――はいって来ると、慇懃(いんぎん)そうに坐って、
「御注文の根付が出来ましたで、持参いたしました――遅く、御迷惑でありましょうが、楽屋より、お宿で、ゆっくり仕上げの御覧を願いたいと存じまして――」
女中の、見ている前で、ふところから、大事そうに取り出した袱紗(ふくさ)づつみ、それをほどいて、小さな、桐の箱を、雪之丞の前に置く。
明るい世界に顔を出すので、用心に用心を重ねている闇太郎の気持を察して、雪之丞も、手際よく受ける。
桐の小箱を取り上げて、中から、精巧な牙彫(けぼり)の根付を出して、じっと、灯にかざして、
「これは、まあ、結構に出来ましたな。上方へ戻ってからの、いい自慢ばなし――ほんに、この鷹のすがたは、生きているようでありますな」
「絵柄は、わたしも、随分と吟味いたしたつもりで――鷹は、百鳥のつわもの――一度見込んだ対手は、のがしっこないといわれてますゆえ――」
して見ると、闇太郎、出入の口実のために、出たら目の細工ものを持参したのではなく、とうから、雪之丞に贈ろうと、この鷹の根付を苦作していたのに相違ない――雪之丞、感謝のおもいを、一そう深めないわけにはいかぬ。
「縁起をかつぐ渡世柄――ありがたいお見立――」
「こないだお訪ねのときも、実は、一生懸命、これを彫っておりましたわけ――」
と、いったが、闇太郎、女中が茶を進めて出て行ってしまうと、
「耳は?」
と、あたりを兼ねるようにして、囁くように訊ねた。


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雪之丞は、あたりを見廻すような闇太郎の目つきに答えて、
「今夜は珍しく、お師匠さんも、鍋島さまのお留守居のお招きで、お出かけ――隣は空間(から)でござります」
闇太郎は、うなずいて、一膝すすめて、
「実はな、あれから、直ぐに、お初のところへ押して行き、一通り理解しようとしたが、知っての気性、ああいえばこう――扭(ね)じまがったことのみいうので、仕方がねえから、一先ず、陣を退き、今夜あらためて策を立てて、あいつを誰も知らねえところに、押し込めてしまったゆえ、当分はまず安心しなせえ」
「まあ、では、どこぞ遠くへでも――」
いくらか、ホッとしたように、しかし眉をひそめるように、雪之丞は目をみはった。
「いんや、つい、近間さ――江戸というところは不思議なところで、お寺の縁の下に窖(あなぐら)が出来ていてことによると、一生日の目の見られねえようなことにもなるんだからね――」
「まあ?怖ろしいことでござんすなあ」
「向うが油断すれば、こっちの餌じき、こっちが脱(ぬ)かれば、向うの食いものになるのが、御府内さ――活馬の目を抜くとはうまく言っているな――だから、みじん、隙は見せられねえ。お初の奴が、片意地を張るにまかせて置きゃあ、あべこべにおめえが、どんなことになるかわかったものじゃあねえから、思い切って洗っぽく出てやったのよ。しかし、何も、いのちを取るわけでもなし、おめえの仕事がすんでしめえば、すぐに引き出してやるつもりさ」
と、いって、闇太郎、雪之丞をじろりと見たが、
「とはいっても、軽業お初だ。あんまり安心していると、鉄檻(てつおり)でも脱けかねねえ奴――おめえの方も、きびきび行(や)らかす心仕度が出来たかな?」
「はい、もう、鈍(なま)ってえはいられませぬ。必ずすぐに、敵のふところに食い入るつもり――」
雪之丞は、伏目になって、うめくように答える。
「十何年のつもる恨み、心の刃に錆はついてねえだろうが、なあ太夫、望みを果したら生きていぬ気で、存分にやるがいいぜ。骨はおいらが拾ってやるからな」
闇太郎の言葉を、たのもしげに聴く雪之丞、
「万一、わたしが、望みの半分をのこして死ぬことがありましても、魂魄(こんぱく)をこの世にとどめて、必ず、生きのこった人達を、呪い殺してやるつもりでござります」
「おお、その覚悟が第一だ――それに、のう、太夫、はたからいらざる差し出だが、この闇太郎とて、いわば一心同体のつもり――もしもおめえが行(や)りそくなったら、必ずおいらが、残る恨みを晴らしてやるから――」
「かたじけない――親分」
と、雪之丞は畳に手を、
「冥土の父親母親が、草葉の蔭から、さぞお前さまのお心持を、ありがたがっておりましょう」
「いやいや何でもねえことだ」
と、闇太郎は、かなしげに微笑して、
「おいらは、五体五倫をそなえてこの世に生れて出ながら、こんな始末、せめておめえの大望を助けるのが、現世にのこす善根――その善根を、おめえなりゃあこそ積ませて呉れるというものだ。礼をいうのは、こっちのことだ」


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――大事を取れと、言うて下さるも、わしを思うておいでなさればこそ、油断なく、いそげと言ってくれるも、わが身の心を推量していればこそ――
雪之丞は、この世に享(う)けたいのちを、呪わしく怨じつづけている身ながら、思いやりの深い、師匠、心友の情を想えば、うれしさに涙ぐまれて来る。
――若し、かかる方たちと、何のかなしみも、怒りもなく、楽しく交際(つきお)うて生きて行ける世の中であれば、どんなにうれしいことであろう――それを叶わずさせたもあの敵(かたき)どものなせる業――よし、とてものことに、現世ながら、魂を地獄に堕し、悪鬼羅刹の権化となり、目に物見せてつかわそう――
「親分、今宵を限りで、雪之丞は、人界の者ではないとお思い下さりませ。明日よりは、鬼のこころとなるつもり――」
闇太郎は、励ますように、
「嚙まれたら、嚙め、斬られたら、斬れ――おめえが、どんなに酷いことをしてやろうと、お父さんお母さんの恨み、おめえ自身の苦しみに比べりゃあ、物のかずではありゃあしねえ、気を弱く持っては駄目だ。敵というかたきの、咽喉笛に食いついてやんねえ。曽我兄弟は十八年――おめえの苦心も、ずい分長いものだったなあ」
雪之丞は、行燈の光をみつめるようにしながら、じっと、唇を嚙んでいた。
闇太郎は、ふと、気がついたように、
「あの女のいきさつを知らせてえし、何だか、気にもかかるので、やって来たのだが、長居は怖れだ。師匠でもはいって来ると工合がわる。じゃあ、けえるぜ」
「何からなにまでお心添、一生、未来、忘れることではありませぬ」
「おいらも、おめえのことは、一刻も忘れねえつもりだ――しがねえからだだが、いつも、いつも、うしろには、田圃の職人がついていると思って、存分にやってくんなよ」
闇太郎は立ち上った。
見送る、雪之丞――女中どもの前では、どこまでも、役者と、牙彫師――
「では、雪之丞親方、いずれそのうち」
「そなたにも御機嫌よろしゅう」
その翌夜。
雪之丞は、魚河岸から、美しい交ぜ魚、上方から持って来ていた京人形、芝居錦絵(にしきえ)、さまざまな品を、とりそろえ、二度目の病気見舞として、三斎屋敷に、例の浪路を音ずれた。
こないだ、盗賊の害を、未然に防いでくれたというので、土部家の歓待は、前にもまして、今は殆んどお、内輪の者も同然の心易さだ。
隠居は、恰度、入浴中とかで、すぐに、浪路の病間――奥まった離れに通される。
実家に戻ったばかりには、恋にやつれて、正真の病人らしく見えるまでに、やつれ衰えても見えた浪路、雪之丞と、かたく誓いをかわしたと信じ切った今は、頰のいろも生き生きと、瞳にはきらめかしい輝きが添わって、唇の艶は、まるで、春の花のようだ。
その目、その口が、雪之丞を見たとき、燃え、喘いだ。
「まあ、いそがしい中を、よう忘れずに――」
と、飛びつくように、彼女は迎える。
「お忘れして、どういたしましょう――」
と、雪之丞は、媚びて、怨じて、
「お言葉が、うらめしゅうござります――わたくしの胸を、どう思召しておいでやら――」


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人を交えぬ、二人だけの、離れ家の静寂――絹張、朱塗の燭の火が、なつかしく輝く下に、美しい、若い男女は、激しい情熱の瞳を見かわしたまま、いつまでも、手を取り合っていた。
浪路の、息ざしは、荒々しく、喘(あえ)ぎもだえる。
「どのようにわたしが、逢いとう思っていたか――とても、にぎわしい日を送るそなたには、推量も出来ぬことだと思います――昼も夜も、現(うつつ)にも、夢路にも、ただもう、そなたのおもかげばかりがうかびつづけて――別れている間がこのように苦しいと知れば、いっそ、逢わずにいた方が、ましであったとさえ怨みました。怨んでならぬことではありますけれど――」
「わたくしとて、百倍のおもいに、わが身でわが身を、どうすることも出来ず、大事な舞台の上ですら、ともすると、御見物衆の中に、あなたさまの顔が見えたような気がしますと、手ぶり、足のはこびも狂い、何度、ハッと胆(きも)を冷やしたかわかりませぬ。さりとて、しげしげと、お見舞に上れる分際ではなし――ひたすら、われとわが素性のいやしさが悔まれて――男のくせに、と、おわらいなさるかも知れませねど、浅草寺の鐘のひびきを聴きあかす宵に、枕がみを涙でぬらしたことでありましょう」
雪之丞は、口の中に、苦い、辛いものが、一めんにひろがるような気持を感じながら、狂言の台詞(せりふ)をいうより、もっと情をこめて、輝きの美しい瞳に、涙をさえ見せて、こんなことを囁くのだった。
浪路の情緒(おもい)は、唆(そそ)り立てられ、煽り立てられ、沸き立たせられる――彼女の全身は、いかなる炎よりも熱く燃えて、殆んど焼け死ぬかと思われるばかりだ。
「まあ、そなたも、ほんとうに、それまでにわたしを思うていておくれでありましたか?」
笑っていいか、泣いていいかわからないもののように、白い匂わしい美女の顔は歪み、紅い唇は、猛烈な呼吸に乾いて来る。
「ほんとうにそうなら――でもわたしには、何となく、まるで夢を見つづけているような気ばかりされて――」
と、彼女が、一そう強く、手を引きしめると、雪之丞は、緊めかえして、
「夢でもござりませぬ――まぼろしでもござりませぬ――わたくしの手を、こうしてつよくつよくお握りになっておいでではござりませぬか?」
「うれしい!」
と、浪路は、歓喜(よろこび)に戦慄して、
「わたしはもう死んでも――」
「又しても、もったい無い」
雪之丞は、あわただしく抑えた。
「わたくしこそ、このことが、御前さまにお気づかれ申して、この場でいのちを召されましょうと、いっかな後悔はいたしませぬ」
「のう、雪之丞どの!」
と、切なる声で、浪路は激しくささやいた。
「わたしには、もう一刻も、そなたとはなれては、生きていられぬような気がします――わたしは、うれしい――苦しい――切ない!雪之丞どの」
「浪路さま!」
雪之丞の、腋下からは、冷たい汗が、しとどに流れ落ちて来る――
――ああ、何という浅間しいいつわりがこの口から出るのであろう!だが、わしはもっと、嘘をつかねばならぬのだ。


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「のう、太夫――雪どの」
と、浪路は、なおも焼け付くような目で、あからさまに、雪之丞を凝視して、烈情に、身もがきもせんばかりに、
「わたしは、まそッと、そなたにぴったり近よりたい。身も、こころも、魂も、二度とはなれることのないように、ひとつになってしまいたい――」
それが、叶わぬ、この生れた家の一間を、彼女は呪い、憎まざるを得ないのだった。
雪之丞は、ただ、深く、熱い歎息をむくいるだけだ。
「のう、わたしには、もはや、こんなよそよそしげな仲では、いられない――雪どの、たとい、今夜、死なねばならぬとしても、わたしは、そなたと夫婦(みょうと)になりたい――」
「あなたが、この屋敷の御息女であるかぎりは――公方(くぼう)さまの、おん想いものであられるかぎりは、それは存じもよらぬこと――わたくしこそ、お目もじいたさぬ昔が、恋しゅうござります」
雪之丞が、さも、悲哀に充ちた調子で、そう言って、うなだれてしまうと、火のように熱い息が、彼の耳朶(みみ)にふれて、そして、驚くべき囁きが聴かれるのであった。
「では、わたしは、この家を、抜け出しましょう――」
「ま、何ということを!」
と、雪之丞は、びっくりしたように、
「このお家を、お抜け出しになる?」
「いいえ、あとで、そなたに迷惑のかかるようなことはせぬ――お城へ二度とかえる位なら、死んでしまおうとまで決心している身、姿をかくしたとて、何で、情深い父上が、しんからお咎(とが)めになるでしょう――そなたの名はださず、わたしは、町家に身を堕してしまいましょう」
「いいえ、わたしの迷惑なぞ、少しもいといはいたしませぬが、もし、公方さまのおいかりにふれたなら――」
「公方さまとて、同じ人間――女の魂までも、自由になさることは出来ませぬ。いつぞやもこのわたしは、そなたと一緒に棲(す)めようなら、どのような山家をも、いといはせぬというたはずじゃ」
「浪路さま!わたくしを、それほどまでに――」
雪之丞は、ともすれば、相手の至情、至恋に、哀れさを覚えようとするのであったが、浪路の白い和らかい肌の下には、親ゆずりの血が交(かよ)うているのだとおもえば、いい難い汚らわしさが感じられて来るのだ。
――このわしに、人があしい心さえ持たせぬようにしたも、みんな、そなたの父親たちの悪業から――わしを怨むな!父を怨め!
「それほどまでに――なぞ、言われるとは、そなたも、あまりに、女ごころをお知りにならぬ――雪どの、そなたのうつくしい姿に迷うて、身も世も要らぬとまで思い込んだ女子は、かず多くありましょうが、この浪路は、日本六十余州を、おんあずかり申される、将軍家の、限りない御寵愛を、草履のように打ち捨てて、そなた一人と思いかえたのではありませぬか――さらさらそれを誇るではなけれども、今少し、この胸の中を察してたも――」
「冥加とも、かたじけないとも――この雪之丞とても、尽未来、あなたさまのほかに、世上の女性にこころをうごかすようなことはいたしませぬ――」
二人は、抱き合うようにした。美女の、髪の香の、何という悩まさしさ!


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浪路は、雪之丞の胸にすがりつくようにしたまま、昂奮と感動とに、声をわななかせて、誓うように言うのだった。
「雪どの、わたしの言葉が、真実であるか無いか、もうじきに、そなたは思いあたりなされますぞえ――この生家(さと)に、いつまでも日を消していたなれば、御殿から、かえれ、もどれと、申して来るのは知れたこと――現に今日も、重役の老女が見舞に見えられて、今は窶(やつ)れ衰えも見えずなったゆえ、一日も早う、大奥へ上るように――と、くりかえしていってでありました。のッぴきなっらぬお迎いが見えぬうち、わたしは、この屋敷から、屹度屹度、すがたを消(け)して見せまする。そして、しばらくするうちには、慈悲ぶかい父上、かならず御殿を何とかいいこしらえて、晴れて、そなたと共ずみも出来るようにいたして下さるに相違ない――のう、雪どの――早う、その日が来ればようござりますなあ」
「ほんに、たった一度でも、そのような日に生きることが出来ませば、はかないこの身、いかなる科(とが)に逢おうともくやみませぬ」
雪之丞は、ひたむきに、故意に焦れ、ひとすじに、父親の愛情にすがろうとする、浅はかな女の心根が、不憫(ふびん)にも思われる。
――哀れな女性(にょしょう)よ!そなたは、わしの心の中には、いうまでもなく気がつかず、また、あの三斎隠居の、やさしげな顔に、どのような冷たさがかくされているのかも知らぬのだ。あの老人は、なるほど、良いむすめである間は、そなたをいかほども愛(いつ)くしもうが、一度、心に背き、自分の栄華栄達の道具に使えぬとわかったときには、子にもせよ、娘にもせよ、もはや敵として憎むほかはないであろう――
雪之丞の胸は、暗くなり、気弱ささえ出て来たが、そのとき、廊下で、足音がして、衣ずれが近づいた。
浪路は、うらめしそうに、その方へ目をやると、雪之丞から、やっと離れる。
いつもの老女がはいって来て、
「大分、おはなしが、お持てになりますような――」
と、何もかも、のみ込んだように微笑したが、
「太夫どの、御隠居さま、おたずねをおよろこびなされ、お杯を下さるとのこと――お居間まで、おいでなされませ」
「かたじけのうござりまする」
雪之丞は、浪路の許をはなれる機会を得たのをよろこんだ。
じっと、浪路を見上げて、手を突いて、
「それなれば、御隠居さま、お召しでござりますゆえ、これにてお別れをつかまつりまする」
「それなれば、そなたも気をつけて――」
と、だけ言うのが、浪路には、一ぱいのように見えた。
そして、熱にうるんだような目で、
――今の言葉は、かならずともに、おぼえていてたも。屹度屹度誓いを果そうほどに――
――必ず、その日を、まちまする。
と、いうように、雪之丞も、今一度、浪路と目を見合せた。
居間では、三斎隠居、湯上りの顔を、テカテカさせて、上機嫌だ。
「おお、忘れず、ようこそ娘を見舞うてくれたの。今宵は、めずらしく客もなく退屈のところ、ゆるゆる相手をしてくれますよう――」
雪之丞は、かぎりない恭敬さを以て挨拶するのだった。


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五日ばかりが過ぎて、江戸は、いよいよ、真冬らしかった。
芝居小屋の前に立ちならぶ、幟(のぼり)の、紅、藍の、派手派手しい色も、いくらかくすんで来て、中村座の顔見世狂言も、千秋楽の日が、そう遠くないことを思わせる。
その晩、雪之丞は、すばらしい贈りものを受けた。さる贔屓(ひいき)よりという名儀で、彼自身へは、越後屋見立の、名にちなんだ雪に南天の――その南天には正真の珊瑚を用いたかと思うばかり、染いろも美しい衣裳一かさね。外に、金襴(きんらん)の帯――師匠菊之丞へは、黄金彫(きんぼり)の金具、黄金ぎせるの、南蛮更紗の莨入(たばこいれ)――ほかに、幕の内外、座中一たいに、一人残らず目録の祝儀という、豪勢な行き渡りだった。
雪之丞にも、この無名の贈り主に、ちょいと、心当りがなかった。
――大方、どこぞの、大名隠居か、お金持の仕わざであろうが、さすが、江戸の衆は、思い切ったいたずらをなさる。
なぞと、思っていると、楽屋に一通の文が届いて、ひらいて見れば、珍しく、広海屋主人からの招きのたよりだ。
――おお、広海屋!あの人は、いつぞやの、わしの言葉を、どう聴いたであろう!上方持ち米の、江戸廻送を、ほんとうに行(や)ったであろうか?
孤軒老師のおしえで、広海屋と長崎屋を、深刻に嚙み合せるために計った。あの策略が、どんな効を奏したか、もう結果がわかることであった。
雪之丞は、否やなく、閉場(はね)をまちかねて、かごに揺られて、例の根岸の、ひっつそりした鶯春亭(おうしゅんてい)の奥座敷に、広海屋の席へ出た。
広海屋は、今夜、いつもより一そう福々しく、しかも、細い、象のようにまぶたの垂れた目が、生き生きと、きらきらと輝いているようだ。
「さあさあ、これへ――健固で、相変らずの高評、お目出たいな」
と、富豪は迎えて、
「ときに、今夜、楽屋に、思いがけぬものが届いたであろうが――」
雪之丞は、広海屋の、極上の笑顔を見て、――さては、あの贈りものの主、この人だったのだ――
と、思い当った。
「は――」
と、何か、答えようとすると、押っかぶせて、
「いや、つまらぬもので、礼には及ばぬが、実は、あれは、そなたへ、お礼と言い、かつは、心いわいのしるしじゃ。こころより、受納にあずかり度い」
「お礼と、おおせますと?」
雪之丞――例の一件に関してのこととは思ったが、気がつかぬふりで――
「何やらわかりかねまするが――」
広海屋の声は、急に低く低くひそまった。
「おわかりにならぬかな?思い当ることはないかな?のう、太夫、そなたのおかげで、この広海屋、どうやら、江戸指折りの男になれそうじゃが――」
「お言葉、狐につままれおいたしたようで――」
どこまでも、雪之丞は、芸道一すじの、邪気のないふりでいう。
「忘れられたかな?そなた、いつぞや、お重役衆が、わしについて何か仰せられていた話を聴かせてくれたであろうがな――な、思い出したであろ?」
広海屋は、ますます目を細めて、雪之丞をみつめるのだった。


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広海屋の、さも満足げな目つきを、じっと見返した雪之丞、ハッと、思い当った風で、軽く、しなを作って、膝を打って、
「はあ、いかにも、思い出しましてござりまする――江戸表、米穀払底(べいこくふってい)の折柄、上方のお持米をおまわしになりましたら、さぞ世間がよろこぶであろうという――あの、お噂󠄀ばなし――」
「そうそう、その事じゃて――」
と、広海屋は、大きくうなずいて、
「商売のことは、何がきっかけになるかわかるものでない。他人さまのお噂󠄀を、すぐに告げてくれられた、そなたの心入れもうれしいが、それを仇耳に聴き流さず、早速決心、手配した、わしの心持も、まず讃めて貰わにゃならぬ。わしが、上方で買い〆めて置いた米を、東へ、のこらず一どきにまわすといい出すと、店の番頭手代どもも、持ちこられておれば、高う売れるものをと、否やというものもあったが、押し切って、大荷を、船積みさせたほどに、もう二三日で、品川の海から、米船が、ぞくぞくとはいって来るわけ――これで、江戸表の、天井知らずに騰っている米価が、ずうんと下るは必定――その上、施米なぞもいたすつもりで、お上役向、名高い御寺の上人さまにも、御相談申しておれば、おかげで、広海屋の名は、天下にひびきますぞ――」
「それは、また、思い切ったなされ方、――江戸の人々はさぞよろこびましょうが、それにしても、大した御損を見るわけ――わたくしは、よけいなことを申し上げたような気がしてなりませぬ」
雪之丞が懸念そうに、眉を寄せて見せると、相手は、かぶりを振って、
「いやいや、もともと、上方、西国の田舎に手をまわし、貧しい百姓のふところの窮迫を見とおして、立毛のうちに、ごくやすく手に入れて置いた米、なんぼう安く売ろうと、儲けは十分、ことさら、一どに大金がはいるわけゆえ、その利分がまた格別じゃ。世間さまの、評判をいただいた上、大金もうけも出来るというので、このところ、広海屋万々歳――そなたには、どれほど礼をいっても足りませぬ」
雪之丞は、しかし、ため息を吐いて、
「とは申せ、米価騰貴をお見越しになり、商いをなされておいでだとうけたまわる、長崎屋さまにはさぞ、お手きずでござりましょう――わたくしは、あのお方にも、一方ならず肩入れをいただく身、今更、何となく、申しわけない気がいたしまする」
と、わざと、しおれて見せると、広海屋が、きっぱりとした表情になって、
「その辺は、わしも考えて見ましたが、長崎屋が江戸の人々の困難をつけ目に、すわこそと、安く仕込んだ米に十二分の利得をみせて、只今の高売りをいたしておるは、どこまでも、人の道にはずれたはなし――わしもあれとは、仲の良い友達だが、まあ、今度のうめ合せは、あとでいたして上げられもしましょうゆえ、この場合は、世間さまの御便利をはかるが、何よりと思ったでな――ま、そのようなことは、わしにまかして置きなさい――なんの、そなたが、長崎屋一人を贔屓のかずから失おうと、わしがついている限りは、大船に乗った気で、安心していて貰いたい――ときに、今夜こそは、前祝に、これから、吉原へ、是ッ非、一緒にいって貰いたいな」
ポンポンと手を鳴らして、
「末社どもに用談すんだと申してくれ。そしてすぐに吉原(なか)へゆくゆえ、乗物の、支度支度」


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雪之丞も、つねづねならば、仲の町のお供なぞは、平に辞退するのであるが、今宵は、自分の差し金で、広海屋が、上方米を回漕し、やがて、長崎屋と一戦を、開始することにもなろうと言うことを、ハッキリと聴いたので、一種、異様な満足を覚え、なおもとくと、この大商人の有頂天なありさまを見聞し、やがて打って変った大打撃をあたえた場合、喜悲両様の表情を思い比べて見たいというような、意地の悪い好奇心にさそわれ、ともども北廓への乗ものをつらねたのであった。
花こそなけれ、菊こそすぎたれ、不夜城のにぎわしさ!明るさ!引手茶屋に着くと、いつか、先乗りが触れ込んでいたと見えて、芸者、太鼓持が、かごを下りる姿を見かけて、ずらりと顔を揃えて迎える。
「よう、お大尽の御来駕!」
「名古屋山三の御着到!」
錆びごえを、ふりしぼるのもあれば、金切ごえを振り上げる女もあり、すぐに、かつぎ上げるようにして、一行を、二階に押し上げる。
百日蠟燭を、ともしつらねた灯光(ひかげ)が、金屏風に、度強く照り映えるのも、この土地なれば、浅間しからずふさわしく見える。
琉球朱(りゅうきゅうしゅ)のしっぽく台に、料理がはこばれ、めぐる杯と一緒に、お座つきは、太鼓がはいって、「執着」のひとふし――
それが、済むと、浮いた浮いたと、太鼓持が、結城つむぎのじんじんばしょり、甲斐絹(かいき)のパッチの辷りもよく、手ぶみ足ぶみおもしろく、踊り抜いて、歓笑湧くがごときところへ、広海屋の馴染の、玉葉太夫というのが、たいまいの笄(こうがい)、蒔絵の櫛も重そうに、孔雀の尾のうちかけを羽織って、しずかに現れる。
「イヨ、弁才天女の御来迎!」
何やかやと、あり来りの掛ごえがあって、酒興はいよいよたけなわになるのであった。
明日は、大切な舞台を控えている雪之丞、いい程にして、戻ろうと、杯の水を切って、
「逆にて御無礼では厶りますが――」
と、広海屋に献(さ)した。そのときだった。
階下で、何やら女たちのかしましい歓迎のこえが聴えたが、その中に、フッと、
「これは、まあ、ようこそ!あちらさまは、もうとうにおいでになっております。さあ、どうぞ――」
と、いうような言葉がまじるのを聴くと、広海屋は、屹と、鋭い目つきをして、眉根をぐっと引き寄せた。
そして、雪之丞にちらと目まぜをして、
「ほう!長崎屋が見えたらしいぞ。いつも、わしと一緒じゃて、此家(ここ)では今夜も伴れと思うている」
雪之丞は、胸が躍るような気持がした。自分の、ほんのちょいとした暗示から、百年の親友が、一朝にして仇敵と変じるのだと思うと、二人の顔を、見比べてやることの、どんなに痛快なことであるか!
「そうそうその広海屋さんが、今宵、大方、こっ家(ち)へこられたように聴いたので、来ましたが――そうか、やはりおいでなされたか――」
そんな声が、階段の方で聴えたと思うと、女房が入口に手をついて、
「日本橋河岸(がし)さまがお見えなされました」
「蛇の道だな――さすがに――」
と、広海屋が、わざとらしく笑って、
「さあ、長崎屋さん、おはいりなされ」
雪之丞も、かたちをあらためた。


一〇

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長崎屋三郎兵衛は、茶無地の羽織に、細かい縞物、みじん隙のない大商人風だが、今夜の顔色は、いつに似ず、青黒く、目が吊って、表情にあからさまな不機嫌さが、漲っていた。
その長崎屋、座中の男女が、かまびすしく、喋々しく歓迎の叫びを揚げるのにも、広海屋の笑顔にも、殆んど無関心に――と、言うよりも、むしろ煩さげに、座にはいったが、
「御酒宴中を、迷惑とは思ったが、広海屋さん――こなたから、是非、伺いたいことがあって、行先きをたずねたずね、まいりましたが――」
長崎屋の、沈痛な顔いろに、側に寄って行った芸者も、太鼓持も、盃をすすめることも出来なくなったようであった。
「訊きたいこととは?更まって――そなたと、わしの間で――」
広海屋は、持ち合せた盃を献(さ)そうとしたが、長崎屋は、それを、押しのけるようにして、
「いや、まず、お預けにいたそう――実はそこどころではなく、わしの店でも騒いでいるので――」
と、いって、屹ッと、相手をみつめて、
「こんな場所で、どうかと思うが、いそぐゆえ、伺いますが、こなたの上方の持ち米が船積みされ、今ごろは、もう、伊豆の岬にも、さしかかっているであろう――とのこと、実証でありますかな?」
「おお、おお、そのはなしでしたか!」
と、広海屋はさも、つまらないことのように、軽くうけて、
「いかにも、さるお方のおすすめで、江戸はかように、米穀払底、今にも、米屋こわしでも、はじまるばかりになっている折柄、そういっては何だが、裕福な、物穀商人、さては、扶持(ふち)取り禄高(ろく)とりのお武家衆のみが、遊蕩の、遊楽のと、のんきでいるのは、天地に済まないこと――広海屋は、幸い、豊作の上方、西国に、たんまり米を持っているとのことゆえ、この場合、思い切って、持ち米を東にまわし、損を覚悟で売ったら、江戸の人々への恩返しになろう――第一、その方は、西の果てに生れ、江戸で商人の仲間にはいっていること、こんなときこそ、――人肌ぬがねばすむまいが、――そんな風に申されたので、のッぴきならず、大損を見こしての回漕――いや、もう、長崎屋さん、お互のことだが、他国者(よそもの)はつろうござんすな」
ひどく、気軽に、しかも、不平だらだらのように、広海屋はいって、吸いつけた莨を、輪に吹いた。
長崎屋は、腕組をして、そのはなしを、じっと聴いて、上目づかいに相手をじろりと見て、
「なるほど、それで、おはなしの筋は呑みこめました。では、町奉行所にお願いを立て、貧民への施米、破格の廉売(れんばい)というのも、まことのことでござりますな?」
「さ、それも、こちらから申し出したわけではなく、お役向からの、ねんごろな談合、わしとて、爪に火もともしたい商人、すすんでのことではありませぬが、この際、おえらい方々に憎まれては、広海屋の見世の立つ瀬がないと思われたでな――はい」
広海屋は、恬然(てんぜん)として、いって、
「実は、そなたにも、おめにかかって、施米、廉売の、片棒をかついで貰いたいと思っていたところじゃ」
長崎屋は、下唇を、ぐっと嚙み締めるようにして、目を伏せて聴いていた。


一一

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「広海屋さん、おぬし、まだ、物忘れをなさるお年とも、思われませぬがな――」
突然、モソリとした口調で、長崎屋が言いかけた。
明らかに、反感と憤怒(ふんぬ)とがふくめられているその言葉を聴いたとき、雪之丞以外の一座の男女も、はじめて、この二人の間に、いつもとは全く反対な、暗い、怖るべき空気が流れているのに気がついた風で、ぴたりと、囁きごえさえ止ってしまった。
「は、は、は、わしも、もう六十――少し耄(ぼ)けているかも知れぬが、まだまだ、大事なことは、そう度忘れもせぬようじゃ。は、は、は」
広海屋は、歯牙にもかけぬように笑って、杯に注がせて、口に運んだ。
「はて、それにしては、いぶかしい――おぬしは、わしという人間がそなたの友達の一人でいるのをすっかり、忘れておしまいになっていると思いましたよ」
長崎屋は、広海屋とは、言わば振り出しの分際が違っていた。長崎屋は、雪之丞の故家、松浦屋を奸計(かんけい)に、陥いれて破滅せしめたころは、まだその店の番頭にすぎなかったし、広海屋は当時すでに、長崎表で、海産問屋の相当なのれんの主であったのだ。年も違う。
それゆえ、二人とも、浅間しい慾望の一部を成し遂げて、ともども、江戸にまで進出して来て、世間から、認められるようになったのちも、長崎屋は、広海屋を、どこまでも、先輩、上座として、表面に立てていたのだ。腹の中では、いつか雪之丞に打ち明けた通り、広海屋を、乗り越そう乗り越そうと計っているのではあったが――
されば、呼びかけの名にしても――
――広海屋さん――とか、
――お前さま――とか、
――こなた――とか、いうような言葉を使って、ついぞ、長崎屋の口から、
――おぬし――なぞという、ぞんざいな言葉が洩れたことはなかったのである。
――この人達には、何か、わだかまりがあるな?
と、心利いた太鼓持、年増芸者なぞは、思い当りもしたであろう。そして、座をはずした方が、よくはないかと、考えたであろう――
しかし、彼等は、途方に暮れた風で、そこに、そのまま、居すくんでいる外はないのだった。
――弱ったな!どっちも、しくじっては困る客だし――
ひそひそと、彼等は目と目を見かわしていた。
「どうしてまた、長年懇意にしている友だちを、忘れるようなことがありますものか――そなたは、何か、勘違いをしてなさるようじゃ」
広海屋は、相変らず、落ついた調子で言って、
「一たい、なぜに、そのようなことをお言いなさるのか?わしには、見当もつかない」
「広海屋さん、この長崎屋は、今、手一ぱいな商いをしていますのだが、それは、よう知っていなさると思うので――」
長崎屋は、食い入るような目つきで、呻いた。
「その商いを、おぬしは、片はしからこわそうとたくらんでいなさる――それが友達か?」


一二

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「長崎屋さん、そなた、少し食べ酔ってでもいなさらぬか――わしが、そなたの商いを、片はしからたたきこわす!そのようなことを、思うても見なされ、あろうことではない。わしとそなた、二十年の仲じゃ――そなたの仕合せをこそいのれ――」
広海屋が、長崎屋の憎悪に充ちた言葉を聴いて、こう答えて、猫なで声になって、
「それに、この座で、其のような話はちと不似合――商売のことなれば、あとでゆっくり談合いたすことにして、そなたも、まず、機嫌よく、一ぱいすごしなさいよ。福の神は、渋面(じゅうめん)づくっていると、とかく、向うを向くと、言うによってな――」
「いやいや、わしは、そんな心の閑(ひま)はない――場所柄も何も、言っていられぬ破目なのじゃ」
と、長崎屋は、あたかも嘲りでも浴びせられたかのように、却て、ますますいきり立ったが、ふと、心を持ち変えたように、急に、両手を膝に置いて、
「これは、広海屋さん、わしが、すうこし、からんだ物の言い方を、しすぎたかも知れませぬ――そなたに、折り入っての頼みがありますので、それを、肯(き)いていただきたいのでござりますが――」
「え?頼み?何なりと――身に叶うことなら」
何でもなげに広海屋は答える。
「有ようは、広海屋さん、折角そなたが、上方から、江戸表まで回漕なされた、五艘の米船――それを、大阪に引ッ返させなさるか、それとも、例の廉売(やすうり)、投げ売りを思いとまって、わし達の手に渡してはいただけないか?」
長崎屋は皺枯(しわが)れた声で、思い入った調子で、こう言い切った。
広海屋は、あからめもせず、相手の顔を眺めた――むしろ、呆れたという表情で――
「長崎屋さん、少しばかり、それは無理な御注文だの」
「いかにも、無理は、よう知っています。そこを、何とか、御勘考なされて――」
長崎屋は、頭を下げて見せた。
広海屋は、首を振って、
「どうも、ほかのことなら、そなたとわしの仲、何ともしようが、今度のことばかりは、この広海屋も、損得を捨て、ただ人さまの為めになろうとして、思い切っての大仕事――すでに、お上すじとのお約束もあり、こればかりは堪忍して貰いたい」
「では、おぬしは、年来の交誼(よしみ)を捨て、この長崎屋の、咽喉(のど)をおしめになるつもりだの?」
「何の、そんな、馬鹿らしいことが――」
と、広海屋はカラカラ笑って、
「長崎屋さん、お互に、米穀のあきないにまで、手は出してはおれど、そなたも物産海産の方で、立派なのれんを持っていなさるお方――思惑(おもわく)の米商いが少しばかり痛手を負うたとて、世帯に何のかかわりがあるではなし――それに、今度の米の値上りでは、これまでに、たんまり儲けてしまわれている癖に――は、は、は、は、は」
長崎屋は、ぐっと、広海屋を睨(ね)めつづけた。
今まで、辛抱して、妙な座敷に坐りつづけていた芸者、末社は、いつかコソコソはずして、広海屋買なじみの太夫と、雪之丞とがいのこっただけだった。
広海屋の皮肉な笑がおと、長崎屋の憤りに充ちた顔とが、向け合わされたままでいた。


一三

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「おぬしは、いろいろ言うてくれるがなあ、広海屋さん――」
長崎屋は、青ざめた泥焔(でいえん)を吐くように、呻めくように言うのだ――限りない怨みをこめた目で、睨め上げながら、
「なるほど、わしは物産問屋のはしくれ、米が主なあきないではないけれど、商人は、ひともわれも同じこと、大がねを儲けるには、時には、思い切ったばくちを張らねばならぬ――折も折、関東一帯の大不作、これが三年もつづけば、飢饉(ききん)も来ようかといわれている昨日今日、ここらで、一つ度胸をきめねばと、手一ぱいに、米の買い〆め――どこまで、わしが乗り込んでいるかは、おぬしも知っていてくれると思ったがなあ――」
広海屋は答えず、煙管を取り上げて、たばこを詰める。
「その手一ぱいの買い〆めが、これまでは図星に当って、たとえ世の中から、何といわれようと、この分で、あきないが続くことには、長崎屋の世帯も、その中には、倍にはなる――と考えていたところへ、おぬしの今度の采配――関東の凶作に引きかえて、九州、中国にだぶついている米が、どうッと潮のように流れ込んで来たならば、わしの思わくは丸はずれ――これまでの儲けを吐き出すはおろか、長崎屋の、財産(しんだい)の半分にしてしまっても、まだ帳尻はうまるまい――なあ、広海屋さん、おぬしだとて、このわしと、まるまる赤の他人でもない筈だ。昔のよしみで、ここのところを、何とか一思案して貰われまいか――」
と、長崎屋はきつくいつて、また悄(しお)れて、
「もう、こうなっては、恥じも、外聞もない――長崎屋、こうして、この色ざとで、そなたの前に手をつくゆえ、どうぞひとつこのわしを、助けてはくださらぬか?」
必死のいろをうかべて、畳に、手を下そうとするのを、広海屋は押し止めて、
「何をなさる長崎屋さん、そなたは、何か思いつめて、考え違いをなすっているようだ――そなたとわしとは、同格、同業、そのように頭なぞ下げられては、罰が当る。さ、どうぞ、手を上げて下さい」
「それなら、広海屋さん、わしの願いを聴き入れて――」
「そなたと、わしの仲、そこまで申されるのを、押し切って否むのは、何とも心苦しいが、さっきにもいうとおり、上方米の、東まわしは、わし一存のことではなく、実は、さる筋からの耳うちがあって、このまま、米の値を上げてゆくときは、世間が騒々しくなり、貧しい人達が、一揆(き)さわぎを起さぬとも限らぬ――広海屋、そちは、幸い、上に持ち米多きよし、思い切って御奉公せよ――とのお言葉――わしも、辛いが、よんどころなしの仕事――長崎屋さんに、今度のことで、ほんの僅か損をかけようとも、又の日で、何かうめ合せもいたしましょう。この話だけは、まず打ち切りに願いますよ」
長崎屋の、嚙み〆た下唇からは、血がにじんで来るかと思われた。
「ううむ」
と、唸って、
「そんなら、おぬしはどうあっても!」
ギリギリと、奥歯が鳴った。
「商売は、いわば戦(いく)さ、親子兄弟、敵になることもあるによッてな――」
広海屋は、平気で答えた。長崎屋は嚙みつくような表情になって、
「広海屋さん、おぬしは、長崎以来のkとおを忘れたかな?」
その一語は、広海屋よりも、まず雪之丞の胸を激しく突き動かしたに相違なかった。


一四

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「広海屋さん、おぬしは長崎以来のことを忘れたかな?」
と、毒と呪いをふくませて、長崎屋が言いかけたとき、雪之丞こそ、ハッとしたが、案外広海屋は平気だった。
「ナニ、長崎以来のこと?それはもう、そなたもくりかえし申されたとおり、古い馴染じゃ。さまざまなことがあろうなあ――」
「わしは、そのようなことをいうているではない――」
と、長崎屋は血走った目で、
「そもそもおぬしが、今にも傾きかけた広海屋の店を、急に何倍にももり返すには、わしの力が加わっておらなかったろうか?そなたは忘れてしまったかなれど、わしにはまだ昨日のようじゃ――あの人の好い松浦屋さんを、いい加減な噓八百でたらし込んで――」
と、いいかけて、さすが絶句して、荒々しく喘(あえ)いだ。
雪之丞は、顔いろが変るのを、感づかせまいとしてうつむいた。
――ああ、みんな、父御(ててご)のお引き合せ、御亡魂の御念力じゃ――このわしの前で、二人が二人べらべらと、昔の悪事をしゃべり出そうとは――
彼はガクガクと、身ぶるいがして来るのを、一生懸命に押えながら、耳をすます。
「なあ、あの、悪いことというたら、夢にも見たことのないような松浦屋の旦那を、魔道に落し、骨をしゃぶり、血を啜(すす)って、一家退散させ、気ちがいにまでしたのは、どこのどなたじゃ」
と、長崎屋は、一度はためらったものの広海屋の悠々とした表情を見ると、煽られ、唆られるように、べらべらとそんなことをしゃべり出す。
広海屋は、軽く、冷たく笑った。
「ふん、そう言うと、わしばかりが悪人のようなれど、その松浦屋に、子飼から奉公して、人がましくして貰うた癖に、主人に煮湯をのませたのはどなただったかといいとうなる――が、のう、長崎屋さん――」
肥満した大商人は、迫らない調子で、むしろ、逆におびやかすかの如く、
「まず、あまり、そういうことには触れない方、お互のためであろうが――長崎の昔ばなしには、かかわりのあるお方が、外にもたんとあることだ。そのようなことを口外したら、そなたのためにもなりますまいぞ」
長崎屋は、一そう焦ら立たずにはいられないのだ。
「いやいや、もう、こうなれば、どんなお方も怖うはない――わしは、大ごえで、今どき世にはばかり、えらい権威を持たれた人も、昔はこれこれの悪事に一味して、罪ない町人を、浅間しい目にあわせた――今の栄華も、不義の宝ゆえこそじゃ――と、世間一帯に触れてまわるわ」
「ほ、ほ、ほ、ほ!」
と、広海屋は、口をすぼめるようにして、笑殺して、
「たわけたことを――そなたが、そのようなことを、どんなにしゃべりまわったとて、世の中で、信用するものもなければ、つまらぬことで捨て鉢になり、馬鹿なことをいいふらすのが、耳ざわりと思召せば、あの方々は、そなたを二日とは、この世に生かしてはお置きあそばすまい。まあ、悪しいことはいわぬ。気をしずめたがよかろうに――」
長崎屋は今は憤怒に堪えかねたように、相手の袖をぐっとつかんで、
「広海屋、では、わしを殺す気だな?」
と、唸るようにいいかけた。


一五

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「そなたを殺す?殺したとて、わしに何の役に立とう――まず、気を鎮めたがよいと申すに――」
と、広海屋は、長崎屋がつかみ〆めた袖を、振りはらって、
「そなたは、ちと、気がどうかしたそうな!」
「気も狂おう!二十年の、苦労、艱難、おぬしたのめに滅茶苦茶じゃ――覚えておれ――どうするか!」
長崎屋は、ズイと立って、荒々しい足どりで、広間を出て、そのまま、階下(した)に下りてしまったが、荒れすさんだ気色を見て、茶屋を出てゆくのを、引き止めるものもないらしかった。
「は、は、は、は、人間も下ると怖いものだのう――同業切っての凄腕(すごうで)と言われた長崎屋、あの血迷い方は何としたものじゃ」
雪之丞は、わが身の科(とが)がおそろしいというように――
「こうしたことになると知りましたら、いつぞやのようなこと、申し上げはしませなんだに――」
「いやいや、そなたに何のかかわりもない。みんな商売道の戦いじゃ」
広海屋は、得意満面で、
「もう決して気に病まぬがよい。一たいに、あの長崎屋、功をあせって、一の力で二の働きをしようとのみもがき、おとなしく本業をいとなむことを忘れ、米あきないなぞという、大きな資本(もと)がなければ叶わぬことに手を出したが、あやまりじゃ。その上、今度の、米価の釣り上げでは、お上はもとより、御府内の人々のいかりを買っておるゆえ、今夜にも明日にも、店をこわされ、むごい目に逢うかも知れぬ――そんなこんなで、あのように、気も狂わんばかりあがきおるが、それも身から出た錆――せん方もあるまい」
雪之丞は、その時、不思議な衝動に駆られて、じつと、広海屋をみつめて、しかし、さり気なく――
「それにしても、何やら、長崎以来のことを、とやこうと、あのお人はおいいなされましたが、あなたさまに、御迷惑のかかるようなことがありましては――」
広海屋の目つきが、キラリ不安そうにきらめいたが、
「は、は、なるほど、そんなこともいうていたの?なに、何でもないはなし――お互に長崎にいたとき、わしの商売がたきに、ある老舗(しにせ)があったのを、あの男と、力を合せ、あきないの競(せ)り合いに、競りまかして、のれんを下させたのだが、そんなことは、商人道の恒――罪も、とがもあろうはずがないのじゃ」
――悪虐非道な、罠(わな)にかけ、父御を破滅させ、母御まで死なせて置いて、罪も科もない――商人の恒だとは!
雪之丞の、腸(はらわた)は、煮えくりかえる。が、彼は冷たく誓う――
――まず、しばしの間、存分なことを言うておるがよい。長崎の殷鑑(いんかん)は、見る間にそなたの身の上であろう――
「又しても、興ざめのことばかり――さ、にぎやかに一はしゃぎしようのう。これ芸者たちはどこへ行った?今夜は、小粒かくしをして遊ぼう。わしが隠す銭(ぜに)、探しあてた者は、いくらでもにぎわそうぞ」
酒興は、狂ほしく起った。雪之丞は、もとより廓内(くるわない)に足ぶみを、公けに出来ぬ役者の身、それを口実に、いい頃合いを見はからって、姿を消したのだった。


一六

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仲之町の引手茶屋から、複雑な気持で、かごを走らして宿に戻った雪之丞は、真夜中にもかかわらず、そこに、一人の男が待ち兼ねていることを、召使から告げ知らされた。
雪之丞は、寒そうな顔をして、小部屋で、小鉢をかかえていた、その男から、一通の封じぶみを渡された。
開いてみると、匿(かく)し名んはなっているが、それが浪路からの密書であるのは、すぐにわかった。
浪路は、美しい水茎のあとで、こう書いている。
おめもじいたしてより、胸もこころも、ただただ焦れたかぶるのみにて御座候、されば、若き身をとじこめ候檻より、今日ようやくのがれいだし、古き乳母のもとをたより、その者の手にて、小石川伝通院裏の、小さき家にしのびかくれ申し候。椎の大木のそばたちたる蔭の、ささやかなる宿をおたずね下され候わば、そなたさまのみ恋明し申しおり候、あわれなる女のすがたをこそ、お見いだしなさるべく候。更け渡り候えども、こよい、お越したまわることをのみ念じ上げまいらせ候。かしく。
――さては、浪路どのも、とうとう、屋敷を抜けでられたのじゃな?
苦がい、鋭どい微笑が、美しい女形の口元をよぎった。
――家は愚か、父兄(ててあに)は愚か、公方の威光までも、恋のために土足にかけようとするとは、あのお人も、思い詰められたものと見える――
ともすれば、哀憐の情が、湧いて来そうになるのを、彼は圧し伏せて、
――ともかくも、返じだけは書かずばなるまい――もう、二度と、逢う要のないお人ではあるが――
と、思ったが、その返じを書くことさえ、この場合、つつしまねばならぬと、すぐに反省するのだった。
――いやいや、どこまでも、今後は、かかわりをつけてはならぬ――恨まれ、呪われるのは、はじめから覚悟の上じゃ。
雪之丞は、使の男の前で、文を読んでしまうと、巻きおさめながら、いぶかしげな表情をうかべて見せて、
「これは、どなたよりのお文かは、存じませねど、わたくしには、のみこめぬことばかりでござります。どうやら、ゆきちがいがありますような――」
「はて、わたくしは、雪之丞さまにこのお文をおわたし申し、なるべくは、御一緒に、おともない申すようにとの、おたのみをうけてまいったものでござりますが――わたくしは、あのお方の、乳母の倅にあたるものでござりまして――」
実直そうな男は、もぞもぞと、そんなことをいったが、雪之丞は、首をふるようにして、
「さ、それが、わたくしには、何が何やらわかりかねますので――このお文は、どうぞこのまま、お持ちかえりを――今宵はひどくくたびれておりますほどに、失礼をいたします――これは、おかご代」
白紙に包んだものを、使いの男の前に置くと、彼は、そのまま、つと立って、わが部屋にはいってしまった。
男は、どうしようもなく、戻って行くのだった。

この著作物は、1939年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)50年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。


この著作物は、アメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。