堺事件 (森鷗外)

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本文[編集]

明治元年戊辰(ぼしん)の歳(とし)正月、徳川慶喜(よしのぶ)の軍が伏見(ふしみ)、鳥羽(とば)に敗れて大阪城をも守ることが出来ず、海路を江戸へ遁(のが)れた跡で、大阪、兵庫、堺の諸役人は職を捨てゝ潜み匿れ、此等の都会は一時無政府の状況に陥つた。そこで大阪は薩摩、兵庫は長門、堺は土佐の三藩が、朝命によつて取り締まることになつた。堺へは二月の初に、先づ土佐の六番歩兵隊が這入り、次いで八番歩兵隊が繰り込んだ。陣所になつたのは糸屋町の与力屋敷、同心屋敷である。そのうち土佐藩は堺の民政をも預けられたので、大目附杉紀平太(すぎきへいた)、目附生駒静次(いこませいじ)等が入り込んで大通櫛屋町(おおどほりくしやまち)の元総会所に、軍監府を置いた。軍監府では、河内、大和辺(やまとへん)から、旧幕府の役人の隠れてゐたのを、七十三人捜し出して、先例によつて事務を取り扱はせた。市中は間もなく秩序を恢復して、一旦鎖(とざ)された芝居の木戸も、又開かれるやうになつた。
二月十五日の事である。フランスの兵が大阪から堺へ来ると云ふことを、町年寄が聞き出して軍監府へ訴へ出た。横浜に碇泊してゐた外国軍艦十六艘が、攝津の天保山沖へ来て投錨(とうべう)した中に、イギリス、アメリカと共に、フランスのもあつたのである。杉は六番、八番の両隊長を呼び出して、大和橋へ出張することを命じた。フランスの兵が若し官許を得て通るのなら、前以て外国事務係前宇和島藩主伊達伊予守宗城(だていよのかみむねき)から通知がある筈であるに、それが無い。よしや通知が間に合にしても、内地を旅行するには免状を持つてゐなくてはならない。持つてゐないなら、通すに及ばない。杉は生駒と共に二隊の兵を随へて、大和橋を扼(やく)して待つてゐた。そこへフランスの兵が来掛つた。その連れて来た通弁に免状の有無を問はせると、持つてゐない。フランスの兵は少人数なので、土佐の兵に往手を遮られて、大阪へ引き返した。
同じ後の暮方になつて、大和橋から帰つてゐた歩兵隊の陣所へ、町人が駆け込んで、港からフランスの水兵が上陸したと訴へた。フランスの軍艦は一里ばかり沖に来て、二十艘の端艇(はしけ)に水兵を載せて上陸させたのである。両歩兵の隊長が主張の用意をさせてゐると、軍監府から出張の命令が届いた。すぐに出張して見ると、水兵は別にこれと云ふ廉立(かどた)つた暴行をしてはゐない。併し神社仏閣に不遠慮に立ち入る。人家に上がり込む。女子を捉へて揶揄(からか)ふ。開港場でない堺の町人は、外国人に慣れぬので、驚き懼れて逃げ迷ひ、戸を閉ぢて家に籠るものが多い。両隊長は諭して舟へ返さうと思つたが、通弁がゐない。手真似で帰れと云つても、一人も聴かない。そこで隊長が陣所へ引き立ていと命じた。兵卒が手近にあつた水兵を捉へて縄を掛けようとした。水兵は波止場をさして逃げ出した。中の一人が、町家の戸口に立て掛けてあつた隊旗を奪つて駆けて往つた。
両隊長は兵卒を率ゐて追ひ掛けた。脚の長い、駆歩(かけあし)に慣れたフランス人にはなか及ばない。水兵はもう端艇に乗り移らうとする。此頃土佐の歩兵隊には鳶(とび)の者が附いてゐて、市中の廻番をするにも、それを四五人宛(づつ)連れて行くことにしてあつた。隊旗を持つのも此鳶(このとび)の者の役で、其中に旗持梅吉と云ふ鳶頭(とびがしら)がゐた。江戸で火事があつて出掛けるのに、早足の馬の跡を一間とは後れぬと云ふ駆歩(かけあし)の達者である。此梅吉が隊の士卒を駆け抜けて、隊旗を奪つて行く水兵に追ひ縋つた。手に持つた鳶口は風を切つて、彼水兵の脳天に打ち卸された。水兵は一声叫んで仰向に倒れた。梅吉は隊旗を取り返した。
これを見て端艇に待つてゐいた水兵が、突然短銃で一斉射撃をした。
両隊長が咄嗟の間に決心して「撃て」と号令した。待ち兼ねてゐた兵卒は七十余挺の銃口を並べ、上陸兵を収容して言いいる端艇を目当に発射した。六人ばかりの水兵はばらと倒れた。負傷して水に落ちたものもある。負傷せぬものも、急に水中に飛び込んで、皆片手を端艇の舷(ふなばた)に掛けて足で波を蹴て端艇を操りながら、弾丸(たま)が来れば沈んで避け、又浮き上つて汐を吐いた。端艇は次第に遠くなつた。フランス水兵の死者は総勢十三人で、内一人が下士であつた。
そこへ杉が駆け付けた。そして射撃を止めて陣所へ帰れと命じた。両隊が陣所へ引き上げてゐると、隊長二人を軍監府から呼びに来た。なぜ上司の命令を待たずに射撃したかと杉に問はれて両隊長は火急の場合で命令を待つことが出来なかつたと弁明した。勿論端艇から先(ま)づ射撃したので、これに応戦したのではあるが、土佐の士卒は初(はじめ)からフランス人に対して悪感情を懷いてゐた。それは土佐人が松山藩を討つために錦旗を賜はつて、それを本国へ護送する途中、神戸でフランス人が其一行を遮り留め朝廷と幕府との和親を謀るためだと通弁に云はせ、錦旗を奪はうとしたと云ふ話が伝わつてゐたからである。
杉は両隊長に言つた。兎に角かうなつた上は是非がない。軍艦の襲撃があるかも知れぬから、防戦の準備をせいと云つた。そして報告のために生駒を外国事務係へ、下横目一人を京都の藩邸へ発足させた。
両隊長は僅か二小隊の兵を以て軍艦を防げと云はれて当惑したが、海岸へは斥候を出し、台場へは両隊から数人宛交代して守備に往くことにした。そこへ此の土地に這入つた時収容して遣つた幕府の敗兵が数十人来て云つた。「若しフランスの軍艦が来るやうなら、どうぞわたくし共をお使下さい。砲台には德川家の時に据ゑ付けた大砲三十六門あつて、今岸和田(きしわだ)藩主岡部筑前守長寛(をかべちくぜんのかみながひろ)の預りとなつてゐます。わたくし共はあれで防ぎます。あなた方は上陸して来る奴を撃つて下さい」と云つた。両隊長はその人達を砲台へ遣つた。そのうち岸和田藩からも砲台へ兵を出して、望遠鏡で兵庫方面見張つてゐてくれた。
夜に入つて港口へフランスの端艇が来たと云ふ知らせがあつた。然し其端艇は、五六艘で、皆上陸せずに帰つた。水兵の死体を捜索したのだらう。実際幾つか死体を捜し得て、載せて帰つたらしいと云ふものもあつた。

十六日の払暁に、外国事務係の沙汰で、土佐藩は堺表取締を免ぜられ、兵隊を引き払ふことになつた。軍監府はそれを取り次いで、両隊長に大阪蔵屋敷へ引き上げることを命じた。両隊長はすぐに支度をして堺を立つた。住吉街道を経て、大阪御池通六丁目の土佐藩なかし商の家に着いたのは、未(ひつじ)の刻頃であつた。
堺の軍監府から外国事務係へ報告に往つた生駒静次は、口上を一通聞き取られただけである。次いで外国事務係は堺にある軍監又は隊長の内一名を出頭するやうにと達した。杉が出頭した、すると大阪の土佐藩邸にゐる石川石之助の出した堺事件の届書を返して、更に精しく書き替へて出せと云ふことである。杉は一応引き取つて、両隊長署名の届書を出し、此上御訊問の筋があるなら、本人に出頭させようと言ひ添へた。
十七日には、前日評議の末、京都の土佐藩邸から、家老山内隼人(やまのうちはいと)、大目附林亀吉(はやしかめきち)、目附谷兎毛(たにとまう)、下横目数人と長尾太郎兵衛の率ゐた京都詰の隊とが大阪へ派遣せられた。此一行は夜に入つて大阪に着いて、すぐに林が命令して、杉、生駒と両歩兵隊長とを長堀の土佐藩邸に徙(うつ)らせた。
十八日には、長尾太郎兵衛を以て、両歩兵隊長に勤事控(きんじひかへ)を命じ、配下一同の出門を禁ぜられた。両隊長は此事件の責を自分二人で負つて、自分達の命令を奉じて働いた配下に煩累(はんるゐ)を及ぼしたくないと、長尾に申(まを)し出た。両隊の兵卒一同は小頭池上弥三吉、大石甚吉を以て、両隊長に勤事控の見舞を言はせた。両隊長は長尾に申し出た趣意を配下に諭した。
そのうち京都から土佐藩の歩兵三小隊が到着して、長堀の藩邸を警固して厳重に人の出入を誰何(すゐか)することになつた。
次いで前土佐藩主山内土佐守豊信(とよしげ)の名代として、家老深尾鼎(ふかをかなへ)が大目附小南(こみなみ)五郎右衛門と共に到着した。これは大阪に碇泊してゐるフランス軍艦Venus(ヱニユス)号から、公使Leon(レオン) Roche(ロツシユ)の外国事務係へ損害要償の交渉をしたためである。公使の要求は直ちに朝議の容(い)るゝ所となつた。土佐藩主が自らヱニユス号に出向いて謝罪することが一つ。堺で土佐藩の隊を指揮した士官二人、フランス人を殺害した隊の兵卒二十人を、交渉文書が京都に着いた後三日以内に、右の殺害を加へた土地に於いて死刑に処すことが二つ。殺害せられたフランス人の家族の扶助料として、土佐藩主が十五万弗(どる)を支払ふことが三つである。此処置のためには、藩主は自ら大阪に来べきであつたが、病気のため家老を名代として派遣したのである。
深尾に附いて来た下横目は六番、八番両歩兵隊の士卒七十三人を、一人宛(づつ)呼び出して堺で射撃したか、射撃しなかつたかと訊問した。此訊問が殆ど士卒の勇怯(いうけふ)を試みると同じ事になつたのは、人の弱点の然らしむる所で、実に已むことを得ない。射撃したと答へたものが二十九人ある。六番隊では隊長箕浦猪之吉(みのうらゐのきち)、小頭池上弥三吉(いけがみやさきち)、兵卒杉本広(すぎもとひろ)五郎(らう)、勝賀瀬(かつがせ)三六、山本哲助(やまもとてつすけ)、森本茂吉(もりもともきち)、北代健助(きたしろけんすけ)、稲田貫之丞(いなだくわんのじやう)、柳瀬常(やなせつね)七、橋詰愛平(はしづめあいへい)、岡崎栄兵衛(をかざきえいべゑ)、川谷銀太郎(かはたにぎんたらう)、岡崎(をかざきた)多四郎(らう)、水野万之助(みづのまんのすけ)、岸田勘平(きしだかんぺい)、門田鷹太郎(たかだたかたらう)、楠瀬保次郎(くすせやすじらう)、八番隊では隊長西村佐平次(にしむらさへいじ)、小頭大石甚吉(おほいしじんきち)、兵卒竹内民(たけうちたみ)五郎(らう)、横田辰(よこたたつ)五郎(らう)、土居徳太郎(どゐとうたらう)、金田時治(かなだときぢ)、武内弥(たけのうちや)三郎(らう)、栄田次右衛門(さかえだじゑもん)、中城惇(なかしろじゆん)五郎(らう)、横田静治郎(よこたせいぢらう)、田丸勇(たまるいう)六郎(らう)である。射撃しなかつたと答へたものは六番隊の兵卒で浜田友太郎(はまだともたらう)以下二十人、八番隊の兵卒で永野峯吉(ながのみねきち)以下二十一人、計四十一人である。
十九日になつて射撃しなかつたと答へたものは、夜に入つて御池六丁目の商家へ移され、用意が出来次第帰国させると言ひ渡された。これに反して射撃したと答へたものは銃器弾薬を返上して、預けの名目の下に、前に大阪に派遣せられた砲兵隊の監視を受けることになり、六番隊は従前の通(とほり)長堀(ながほり)の本邸に、八番隊は西邸(にしやしき)に入れられた。
二十日には、射撃しなかつたと答へたものが、長堀藩邸の前から舟に乗つた。後に此人達は丸亀を経て、北山道を土佐に帰り着いた。そして数日間遠足留を命ぜられてゐたが、終(つひ)には平常の通心得べしと云ふことになった。射撃したと答へたものの所へは、砲隊組兵卒に下横目が附いて来て、佩刀(はいたう)を取り上げた。此人達の耳にも、死刑になると云ふ話がもう聞えたので、中には手を束(つか)ねて刃を受けるよりは、寧(むしろ)フランス軍艦に切り込んで死なうと云つたものがある。これは八番隊の土井八之助が無謀だと云つて留めた。それから一同刺し違へて死なうと云つたものがある。丁度そこへ佩刀を取り上げに来たので、今死なずにしまつたら、もう死ぬることが出来まいと、中の数人は手を下さうとさへした。矢張八番隊の竹内民五郎がそれを留めて、思ふ旨があるから、指図通りにするが好いと云ひながら「我に持つの中に短刀二本あり」と、畳に指で書いて見せた。一同遂に佩刀を渡してしまつた。
二十二日、大目附小南が来て、六番、八番両隊の兵卒一同に、御隠居様から仰せ渡されることがあるからすぐに、大広間に出るやうにと達した。御隠居様とは山内豊信(やまのうちとよしげ)が家督を土佐守豊範(とよのり)に讓つて容堂(ようだう)と名告つた時からの称呼である。隊長、小頭の四人を除いて、二十五人が大広間に居並んだ。そこへ小南以下の役人が出て席に着いた。それから正面の金襖を開くと、深尾が出た。一同平伏した。
深尾は云つた。「これは御隠居様がお直(ぢき)に仰せ渡される筈であるが、御所労のため拙者が御名代として申し渡す。此度の堺事件に付、フランス人が朝廷へ逼(せま)り申すにより、下手人二十人差し出すやう仰せ付けられた。御隠居様に於いては甚だ御心痛あらせられる。いづれも穏に性命を差し上げるやうとの仰せである。」と言い畢(をは)つて、深尾は起つて内に這入つた。
次に小南が藩主豊範の命を伝へた。「此度差し出す二十人には、誰を取り誰を除いて好いか分からぬ。一同稲荷社に詣つて神を拝し、籤引によつて生死を定めるが好い。白籤に当つたものは差し除かれる。上裁を受ける籤に当つたものは死刑に処せられる。これから神前へ参れ」と云ふのである。
二十五人は御殿から下がつて稲荷社に往つた。社壇の鈴の下に、小南が籤を持つてすわる。右手に眼附が一人控へる。階前には下横目が二人名簿を持つて立つ。社壇の前数十歩の所には、京都から来た砲兵隊と歩兵隊とが整列しいてゐる。小南が指図すると、下横目が名簿を開いて、二十五人の姓名を一人宛読む。そこで一人宛出て籤を引いて、披(ひら)いて見て、それを下横目に渡す。下横目が点検する。此時参詣に来合せたものは、初(はじめ)何事かと恠(あやし)み、やう籤引の意味を知つて、皆ひどく感動し、中には泣いてゐるものもある。
上裁を受ける籤を引いたものは、六番隊の杉本、勝賀瀬、山本、森本、北代、稲田、柳瀬、岡崎栄兵衛、川谷の十人、八番隊の竹内、横田辰五郎、土居、垣内、金田、武内の六人、計十六人でこれに隊長、小頭各二人を加へると、二十人になる。白籤を引いたものは六番隊で岡崎多四郎以下五人、八番隊で栄田次右衛門以下四人である。
籤引きが済んで一同御殿に引き取ると、白籤組の内、八番隊の栄田次右衛門以下四人、則ち栄田、中城、横田静次郎、田丸が連署の願書を書いて出した。自分等は籤引によつて生死の二組に分れたが、初より同腹一心の者だから、一同上裁を受ける籤に当つたと同様の処置を仰せ付けられたいと云ふのである。願書は人数が定まつてゐるからと云ふので、其儘脚下せられた。
所謂上裁籤の組十六人は箕浦、西村両隊長、池上、大石両小頭と共に、引き纏めて本邸に留め置かれることになつた。白籤組はすぐに隊籍を除かれて、土佐藩兵隊中に預けられ、別室に置かれた。数日の後に、白籤組には堺表より船牢を以て国元へ差し下だすと云ふ沙汰があつて、下横目が附いて帰国し、各親類預けとなつたが、間もなく以後別儀なく申し付けると達せられた。
夜に入つて上裁籤の組は、皆国元の父母兄弟其他親戚故旧に当てた遺書を作つて、髻(もとどり)を切つてそれに巻き籠め、下横目に差し出した。
そこへ藩邸を警固してゐる五小隊の士官が、酒肴を持たせて暇乞に来た。隊長、小頭、兵卒十六人とは、別々に馳走になつた。十六人は皆酔ひ臥してしまつた。
中に八番隊の土地八之助が一人酒を控へてゐたが、一同鼾(いびき)をかき出したのを見て、忽ち大声で叫んだ。「こら。大切な日があすぢやぞ。皆どうして死なせて貰ふ積ぢや。打首になっても好いのか。」
誰やら一人腹立たしげに答へた。「黙つてをれ。大切な日があすぢやから寐る。」此男はまだ詞の切れぬうちに、又鼾をかき出した。
土居は六番隊の杉本の肩を摑まへて揺り起した。「こら。どいつも分からんでも、君には分かるだらう。あすはどうして死ぬる。打首になつても好いのか。」
杉本は跳ね起きた。「うん。よく気が附いた。大切な事ぢや。皆を起して遣らう。」
二人は一同を呼び起した。どうしても起きぬものは、肩を摑まへてこづき廻した。一同目を醒まして二人の意見を聞いた。誰一人成程と承服せぬものはない。死ぬるのは構はぬ。それは兵卒になつて国を立つた日から覚悟してゐる。併し耻辱(ちじよく)を受けて死んではならぬ。そこで是非切腹させて貰はうと云ふことに、衆議一決した。
十六人は袴を穿き、羽織を着た。そして取次役の詰所へ出掛けて、急用があるっから、奉行衆に御面会を申し入れて貰ひたいと云つた。
取次役は奥の間へ出入りして相談する様子であつたが、暫くして答へた。「折角の申出(まをしいで)ではあるが、それは相成らぬ。おのはお構(かまひ)の身分ぢや。夜中に推参して、奉行衆に逢ひたいと云ふのは宜しくない」と云ふのである。
十六人はおこつた。「それは怪しからん。お構の身とは何事ぢや。我々は皇国のために明日(みやうにち)一命を棄てる者共ぢや。取次をせぬなら、頼まぬ。そこを退け。我々はぢきに通る。」一同は畳を蹴り立てゝ奥の間へ進まうとした。
奥の間から声がした。「いづれも暫く控へてをれ。重役が面会する」と云ふのである。襖をあけて出たのは、小南、林と下横目(したよこめ)数人とである。
一同礼をした上で、竹内が発言した。「我々は朝命を重んじて一命を差し上げるものでございます。併し堺表に於いて致した事は、上官の命令を奉じて致しました。あれを犯罪とは認めませぬ。就いては死刑と云ふ名目には承服が出来兼ねます。果して死刑に相違ないなら、死刑に処せられる罪名が承りたうございます。」
聞いてゐるうちに、小南の額には皺が寄つて来た。小南は土居の詞の畢(をは)るのを待つて、一同を睨み付けた。「黙れ。罪科のないものを、なんでお上で死刑に処せられるものか。隊長が非理の指揮をしてお前方は非理の挙動に及んだのぢや。」
竹内は少しも屈しない。「いや。それは大目付のお詞(ことば)とも覚えませぬ。兵卒が隊長の命令に依つて働らくには、理も非理もござりませぬ。隊長が撃てと号令せられたから、我々は撃ちました。命令のある度に、一人々々理非を考へたら、戦争は出来ますまい。」
竹内の背後から一人二人膝を進めたものがある。「堺での我々の挙動には、功はあつて罪はないと、一同確信してをります。どう云ふ罪に当ると云ふ思召か。今少し委曲に御示下さい。」
「我々も領解いたし兼ねます。」「我々も。」一同の気色は凄じくなつて来た。
小南は色を和げた。「いや。先の詞は失言であつた。一応評議した上で返事をいたすから、暫く控へてをれ。」かう云つて起つて、奥に這入つた。
一同奥の間を睨んで待つてゐたが、小南はなかで出て来ない。「どうしたのだらう。」「油断するな。」こんなさゝやきが座中に聞える。
良(やゝ)暫(しばら)くして小南が又出た。そして頗る荘重な態度で云つた。
「只今のおのの申条を御名代に申し上げた。それに就いて御沙汰があるから承れ。抑々此度の事件では、お上御両所共非常な御心痛である。太守様は御不例の所を、押して長髪の儘大阪へお越になり、直ちにフランス軍艦へ御挨拶にお出になつて、其儘帰国なされた。君辱しめらるれば臣死すとも申すではないか。おの御沙汰を承つた上で、仰せ付けられた通(とほり)、穏かに振舞つたら宜しからう。これから御沙汰ぢや。此度堺表の事件に就いては、外国との交際を御一新あらせられる折柄、公法に拠つて御処置あらせられる次第である。即ち明日堺表に於て切腹仰せ付けられる。いづれも皇国のためを存じ、難有(ありがた)くお受けをいたせ。又歴々のお役人、外国公使も臨場せられる事であるから、皇国の士気を顕すやう覚悟いたせ。」小南は沙汰書を取り出して見ながら、かう演説した。太守様と云つたのは、当主土佐守豊範を斥(さ)したのである。
十六人は互に顔を見合せて、微笑を禁じ得なかつた。竹内は一同に代つて答へた。「恩命難有(ありがた)くお受いたします。それに就いて今一箇条お願申し上げたい事がございます。これは手順を以て下横目へ申し立つべき筋ではございますが、御重役御出席中の事ゆゑ、今生の思出にお直(ぢき)に申し上げます。只今の御沙汰によれば、お上に置かせられても、我々の微衷をお酌取下されたものと存じます。然らば我々一同には今後士分のお取扱ひがあるやう、遺言同様の儀なれば、是非共お聞済下さるやうにお願ひいたします。」
小南は暫く考へて云つた。「切腹を仰せ付けられたからは、一応尤もな申分のやうに存ずる。詮議の上で沙汰をいたすから、暫時控へてをれ。」かう云つて再び座を起つた。
又良暫くしてから、今度は下横目が出て行つた。「出格の御詮議を以て、一同士分のお取扱ひを仰せ付けられる。依つて絹服一重宛下し置かれる。」
一同目録を受け取つて下がりしなに、隊長、小頭の所に今夜の首尾を届けに立ち寄つた。隊長等も警固隊の士官に馳走せられて、快く酔つて寐てゐたが、配下の者共が打ち揃つて来たので、すぐに起きて面会した。十六人は隊長、小頭と引き分けられてから、今夜まで一度も逢ふ機会がなかつたが、大目付との対談の甲斐があつて、切腹を許され、士分に取り立てられ、今は誰も行往動作に喙(くちばし)を容(い)れるものがないので、公然立ち寄ることが出来たのである。
隊長、小頭は配下一同の話を聞いて、喜び且悲んだ。悲んだのは、四人が自分達の死を覚悟してゐながら、二十人の死をフランス公使に要求せられたと云ふことを聞せられずにゐたので、十六人の運命を始めて知つて悲んだのである。喜んだのは、十六人が切腹を許され、士分に取り立てられたのを喜んだのである。隊長、小頭の四人と配下の十六人とは、まだ夜の明けるに間があるから、一寐入して起きようと云ふので、快よく別れて寝床に這入つた。

二十三日は晴天であつた。堺へ往く二十人の護送を命ぜられた細川越中守慶順(よしゆき)の熊本藩、浅野安藝守茂長の広島藩から、歩兵三百余人が派遣せられて、未明に長堀土佐藩邸の門前に到着した。邸内では二十人に酒肴を賜はつた。両隊長、小頭は大抵新調した衣袴(いこ)を着け、爾余の十六人は前夜頂戴した絹服(けんぷ)を纏(まと)つた。佩刀(はいたう)は邸内では渡されない。切腹の場所で渡される筈であつた。
一同が藩邸の玄関から高足駄(たかあしだ)を踏み鳴らして出ると、細川、浅野両家で用意させた駕籠二十挺を舁(か)き据ゑた。一礼して下役人数人で、次に兵卒数人が続く。次は細川藩の留守居馬場彦右衛門(ばゞひこうゑもん)、同藩の隊長山川亀太郎(やまかはかめたらう)、浅野藩の重役渡辺競(わたなべきそふ)の三人である。陣笠小袴で馬に跨り、持鑓(もちやり)を竪(た)てさせてゐる。次秘兵卒数人が行く。次に大砲二門を挽かせて行く。次が二十挺の駕籠である。駕籠一挺毎に、装剣の銃を持つた兵が百二十人で囲んでいる。後押(あとおさへ)は銃を負つた騎兵二騎である。次に両藩の高張提灯各二十挺が行く。次に両藩士卒百数十人が行く。以上の行列の背後(うしろ)に少し距離を取つて、土佐藩の重臣始め数百人が続く。長径凡そ五丁である。
長堀を出発して暫く進んでから、山川亀太郎が駕籠に就いて一人々々に挨拶して、箕浦の駕籠に戻つてかう云つた。「狭い駕籠で、定めて窮屈でありませう。其上長途の事ゆゑ、簾(すだれ)を垂れた儘では、鬱陶しく思はれるでありませう。簾を捲かせませうか」と云つた。「御厚意忝(かたじけな)う存じます。差構(さしかまひ)ない事なら、さやう願ひませう」と、箕浦が答へた。そこで駕籠の簾は総て捲き上げられた。
又暫く進むと、山川が一人々々の駕籠に就いて、「茶菓の用意をしてゐますから、お望みの方に差し上げたい」と云つた。両藩の二十人に対する取扱ひは、万事非常に鄭重なものである。
住吉新慶町辺に来ると、兼て六番、八番の両隊が舎営してゐたことがあるので、路傍に待ち受けて別を惜むものがある。堺の町に入れば、道の両側に人山を築いて、其中から往々欷歔(すすりなき)の声が聞える。群集を離れて駕籠に駆け寄つて、警固の兵卒に叱られるものもある。
切腹の場所と定められたのは妙国寺である。山門には菊御紋の幕を張り、寺内には総て細川、浅野両家の紋を染めた幕を引き繞らし、切腹の場所は山内家の紋を染めた幕で囲んである。門内に張つた天幕の内には、新しい筵が敷き詰めてある。
行列が妙国寺門前に着くと、駕籠は門内天幕の中に舁(か)き入れて、筵の上に立て並べた。次いで両藩士が案内して、駕籠は内庭に舁き入れられ、本堂の縁に横付にせられた。
二十人は駕籠を出て、本堂に居並んだ。座の周囲には、両藩の士卒が数百人詰めてゐて、二十人の中一人が座を起てば、四人が取り巻いて行く。二十人は皆平常のやうに談笑して、時刻の来るのを待つてゐた。
此の時両藩の士の中に筆紙墨を用意してゐたものがある。それが二十人の首席にゐる箕浦の前に来て、後日の記念に何か一筆願ひたいといつた。
元六番歩兵隊隊長箕浦猪之吉(みのうらゐのきち)は、源姓(げんせい)、名は元章(げんしょう)、仙山(せんざん)と号してゐる。土佐国土佐郡潮江村(ごほりうしほえむら)に住んで五人扶持(ふち)、十五石を受ける扈従格(こじゆうかく)の家に、弘化元年十一月十一日に生れた。当年二十五歳である。祖父を忠平、父を万次郎と云ふ。母は依田氏(よだし)、名は梅である。安政四年に江戸に遊学し、万延顏年には江戸で容堂侯の侍読(じどく)になり、同じ年に帰国して文館の助教に任ぜられた。次いで容堂侯の扈従を勤めて、七八年経過ひ、馬廻格に進んだ。それが潘の歩兵小隊司令を命ぜられたのは、慶応三年十一月で僅か三箇月勤めてゐるうちに、境の事件が起つた。さう云ふ履歴の人だから、箕浦は詩歌の嗜(たしなみ)もあり、書は草書を立派に書いた。
文房具を前に置かれた時、箕浦は「甚だ見苦しうはございまするが」と挨拶して、腹稾(ふくこう)の七絶(ぜつ)を書いた。「除却妖氛答国恩(えうふんをぢよきやくしてこくおんにこたふ)。決然豈可省人言(けつぜんあにじんげんをかへりみるべけんや)。唯教大義伝千載(たゞたいぎをしてせんざいにつたへしめば)。一死元来不足論(いつしぐわんらいろんずるにたらず)。」攘夷はまだ此男の本領であつたのである。
二十人が暫く待つてゐると、細川藩士がまだなか時刻が来さうにないと云つた。そこで寺内を見物しようと云ふことになつた。庭へ出て見ると、寺の内外は非常な雑沓である。堺の市中は勿論、大阪、住吉、河内在等から見物人が入り込んで、いかに制しても立ち去らない。鐘撞堂(かねつきだう)には寺の僧侶が数人登つて、此群集を見てゐる。八番隊の垣内がそれに目を着けて、つと堂の上に登つて、僧侶に言つた。「坊様達、少し退いて下されい。拙者は今日切腹して相果てる一人ぢや。我々の中間には辞世の詩歌などを作るものもあるが、さやうな巧者な事は拙者には出来ぬ。就いては此世の暇乞(いとまごひ)に、其大鐘を撞いて見たい。どりや。」と云ひさま、腕まくりをして撞木(しゆもく)を摑んだ。僧侶は驚いて左右から取り縋つた。「まあ、お待ち下さりませ。此混雑の中で鐘が鳴つてはどんな騒動にならうも知れません。どうぞそれだけは御免下さりません。「いや。国家のために忠死する武士の記念ぢや。留めるな。」垣内と僧侶とは揉み合つてゐる。それを見て垣内の所へ、中間の二三人が駆け付けた。「大切な事を目前に控へてゐながら、それは余り大人気ない。鐘を鳴らして人を驚かしてなんになる。好く考えて見給へ」と云つて留めた。「さうか。つひ興に乗じて無益の争をした。罷(や)める」と垣内は云うて、撞木から手を引いた。垣内を留めた中間の一人が懷を探つて、「こゝに少し金がある、最早用のない物ぢや、死んで跡にお世話になるお前様方に献じませう」と云つて、僧侶に金をわたした。垣内と僧侶との争論を聞き付けて、次第に集つて来た中間が「ここにもある」、「ここにも」と云ひながら、持つてゐた丈の金銭を出して、皆僧侶の前に置いた。中には「拙者は冥福を願ふのではないが」と、条件を附けて置くものもあった。僧侶は鐘を取けて鐘撞堂を下つた。
人々は鐘撞堂を降りて、「さあ、これから切腹の場所を拝見して置かうか」と、幔幕(まんまく)で囲んだ中へ這入り掛けた。細川藩の番士が「それはお越にならぬ方が宜しうございませう」と云つて留めた。「いや、御心配御無用、決して御迷惑は掛けません」と言ひ放つて、一同幕の中に這入つた。
場所は本堂の前の広庭である。山内家の紋を染めた幕を引き廻した中に、四本の竹竿を竪てゝ、上に苫が葺いてある。地面には荒筵二枚の上に、新しい畳二枚を裏がへしに敷き、それを白木錦で覆ひ、更に毛氈一枚を襲ねてある。傍(そば)に毛氈が畳んだ儘に積み上げてあるのは、一人々々取り替へるためであらう。入口の側に卓(つくゑ)があつて、大小が幾組も載せてある。近づいて見れば、長堀の邸で取り上げられた大小である。
人々は切腹の場所を出て、序に宝珠院の墓穴も見て置かうと、揃つて出掛けた。ここには二列に穴が掘つてある。穴の前には高さ六尺余の大瓶が並べてある。しかもそれに一々名が書いて貼つてある。それを読んで行くうちに、横田が土居に言つた。「君と僕とは生前にも寝食を倶にしてゐたが、見れば瓶も並べてある。死んでからも隣同士話が出来さうぢや」と云つた。土居は忽ち身を跳らせて瓶の中に這入つて叫んだ。「横田君々々々。なか好(い)い工合ぢや。」竹内が云つた。「気の早い男ぢや。さう急がんでも、ぢきに人が入れてくれる。早く出て来い。」土井は瓶から出ようとするが、這入時とは違つて、瓶の縁は高ひ、内面はすべるので、なか出られない。横田と竹内とで、瓶を横に倒して土居を出した。
二十人は本堂へ帰つた。そこには細川、浅野両藩で用意した酒肴が置き並べてある。給仕には町から手伝人が数十人来てゐる。一同挨拶をして杯(さかづき)を挙げた。前に箕浦に詩を貰つた人を羨んで、両藩の士卒が爭つて詩歌を求め、或は記念として見に附いた品を所望する。人々はかはる筆を把つた。又記念に遣る物がないので、襟や袖を切り取つた。

切腹はいよ午(うま)の刻からと定められた。
幕の内へは先ふ介錯人が詰めた。これは前晩大阪長堀の藩邸で、警固の士卒が二十人のものに馳走をした時、各(おの)相談して取り極めたのである。介錯人の姓名は、元六番隊の方で箕浦のが馬淵桃太郎(まぶちもゝたらう)、池上のが北川礼平(きたがはれいへい)、杉本のが池(いけ)七助(すけ)、勝賀瀬のが吉村材吉(よしむらざいきち)、山本のが森常馬(もりつねま)、森本のが野口喜久馬(のぐちきくま)、北代のが武市助吾(たけいちすけご)、稲田のが江原源之助、柳瀬のが近藤茂之助(こんどうしげのすけ)、橋詰のが山田安之助(やまだやすのすけ)、岡崎のが土方要(ひぢかたえう)五郎(らう)、川谷のが竹本謙之助(たけもとけんのすけ)、元八番隊の方で、西村のが小坂乾(こさかぬゐ)、大石のが落合源六(おちあひげんろく)、竹内のが楠瀬柳平(くすせりうへい)、横田のが松田(まつだ)八平次(へいじ)、土居のが池(いけ)七助(すけ)、垣内のが公文左平(くもんさへい)、金田のが谷川新次(たにがはしんじ)、武内のが北森貫之助(きたもりくわんのすけ)である。中で池七助は杉本と土井との二人を介錯する筈である。いづれも刀の下緒を襷にして、切腹の座の背後(うしろ)に控へた。
幕の外には別に駕籠が二十挺据ゑてある。これは死骸を載せて宝珠院に運ぶためである。埋葬の前に、死骸は駕籠から大瓶に移されることになつてゐる。
臨検の席には外国事務総裁山階宮(やましなのみや)を始(はじめ)として、外国事務係伊達少将、同東久世少将、細川、浅野両藩の重役等が、南から北へ向いて床几(しやうぎ)に掛かる。土佐藩の深尾は北から東南に向いてすわる。大目附小南以下目附等は西北から東に向いて並ぶ。フランス公使は銃を持つた兵卒二十余人を随へて、正面の西から東に向いてすわる。其他薩摩、長門、因幡、備前等の諸潘からも役人が列席してゐる。
用意の整つたことを、細川、浅野の藩士が二十人のものに告げる。二十人のものは本堂の縁から駕籠に乗り移る。駕籠の両側には途中と同じ護衛が附く。駕籠は幕の外に立てられる。呼出の役人が名簿を繰り開いて、今首席のものの名を読み上げようとする。
此時天が俄に曇つて、大雨が降つて来た。寺の内外に満ちてゐた人民は騒ぎ立つて、檐下(のきした)木蔭に走り寄らうとする。非常な雑沓である。
切腹は一時見合せとなつて、総裁宮始、一同屋内に雨を避けた。雨は未(ひつじ)の刻に歇んだ。再度の用意は申(さる)の刻に整つた。
呼出の役人が「箕浦猪之吉」と読み上げた。寺の内外は水を打つたやうに鎮つた。箕浦は黒羅紗(くろらしや)の羽織に小袴を着して、切腹の座に着いた。介錯人馬場は三尺隔てて背後(うしろ)に立つた。総裁宮以下の諸官に一礼した箕浦は、世話役の出す白木の四方を引き寄せて、短刀を右手(めて)に取つた。忽ち雷のやうな声が響き渡つた。「フランス人共聴け。己は汝等(さぬら)のためには死なぬ。皇国のために死ぬる。日本男子の切腹を好く見て置け」と云つたのである。
箕浦は衣服をくつろげ、短刀を逆手に取つて、左の脇腹へ深く突き立て、三寸切り下げ、右へ引き廻して、又三寸切り上げた。刃が深く入つたので、創口(きずぐち)は広く開いた。箕浦は短刀を棄てゝ、右手(めて)を創に挿し込んで、大網(だいまう)を摑んで引き出しつつ、フランス人を睨み付けた。
馬場が刀を抜いて項(うなじ)を一刀切つたが、浅かつた。
「馬場君。どうした。靜かに遣れ」と、箕浦が叫んだ。
馬場の二の太刀は頸椎を断つて、かつと音がした。
箕浦は又大声を放つて、「まだ死なんぞ、もつと切れ」と叫んだ。此声は今までより大きく、三丁位響いたのである。
初から箕浦の挙動を見てゐたフランス公使は、次第に驚駭(きやうがひ)と畏怖とに襲はれた。そして座席に安んぜなくなつてゐたのに、この意外に大きい声を、意外な時に聞いた公使は、とう立ち上がつて、手足の措所(おきどころ)に迷つた。
馬場は三度目にやう箕浦の首を墜した。
次に呼び出された西村は温厚な人である。源姓、名は氏同(うじあつ)。土佐郡江の口村に住んでゐた。家禄四十石の馬廻である。弘化二年七月に生れて、当年二十四歳になる。歩兵小隊司令には慶応三年八月になった。西村は軍服を着て切腹の座に着いたが、服の釦鈕(ぼたん)を一つ一つ丁寧にはづした。さて短刀を取つて左に突き立て、少し右に引き掛けて、浅過ぎると思つたらしk、更に深く突き立てて、緩やかに右へ引いた。介錯人小坂は少し慌てたらしく、西村がまだ右へ引いてゐるうちに、背後(うしろ)から切つた。首は三間ばかり飛んだ。
次は池上で、北川が介錯した。次の大石は際立つた大男である。先づ両手で腹を二三度撫でた。それから刀を取つて、右手(めて)で左の脇腹へ突き刺し、左手(ゆんで)で刀背を押して切り下げ、右手(めて)に左手(ゆんで)を添へて、刀を右へ引き廻し、右の脇腹に至つた時、更に左手(ゆんで)で刀背を押して切り上げた。それから刀を坐右に置いて、両手を張つて「介錯頼む」と叫んだ。介錯人落合は為損じて、七太刀目に首を墜した。切腹の刀の運びがすると渋滞なく、手際の最も立派であつたのは、此大石である。
これから杉本、勝賀瀬、山本、森本、北城ママ、稲田、柳瀬の順序に切腹した。中にも柳瀬は一旦左から右へ引き廻した刀を、再び右から左へ引き戻したので、腸(はらわた)が創口から溢れて出た。
次は十二人目の橋詰である。橋詰が出て座に着く頃は、もう四辺(あたり)が昏くなつて、本堂には燈明が附いた。
フランス公使はこれまで不安に堪へぬ様子で、起つたり居たりしてゐた。此不安は銃を執つて立つてゐる兵卒に波及した。姿勢は悉く崩れ、手を振り動かして何事かささやき合ふやうになつた。丁度橋詰が切腹の座に着いた時、公使が何か一言云ふと、兵卒一同は公使を中に囲んで臨検の席を離れ、我皇族並(ならび)諸役人に会釈をもせず、あたふたと幕の外に出た。さて庭を横切つて、寺の門を出るや否や、公使を抱擁した兵卒は駆歩(かけあし)に移つて港口へ走つた。

切腹の座では橋詰が衣服をくつろげて、短刀を腹に立てようとした。そこへ役人が駆け付けて、「暫く」と叫んだ。驚いて手を停めた橋詰に、役人はフランス公使退席の事を話して、兎も角も一時切腹を差し控へられたいと云つた。橋詰は跡い残つた八人の所へ帰つて、仔細を話した。
とても死ぬるものなら、一思(おもひ)に死んでしまひたいと云ふ情(じやう)に、九人が皆支配せられてゐる。留(と)められてもどかしいと感ずると共に、其の留めた人に打(ぶ)つ附かつて何か言ひたい。理由を問うて見たい。一同小南の控所に往つて、橋詰が口を開いた。「我々が朝命によつて切腹いたすのを、何故(なにゆゑ)お差留になりましたか。それを承(うけたまは)りに出ました。」
小南は答へた。「その疑(うたがひ)は一応尤もであるが、切腹にはフランス人が立ち会ふ筈である。それが退席したから、中止せんではならぬ。只今薩摩、長門、土佐、因幡、備前、肥後、安藝七藩の家老方がフランス軍艦に出向かはれた。姑(しばら)く元の席に帰つて、吉左右(きつさう)を待たれい。」
九人は是非なく本堂に引き取つた。細川、浅野両藩の士が夕食の膳を出して、食事をする気にはなられぬと云ふ人々に、強いて箸を取らせ、次いで寝具を出して枕に就かせた。
子(ね)の刻頃になつて、両藩の士(さむらひ)が来て、只今七藩の家老方がこれへ出席になると知らせた。九人は跳ね起きて迎接した。七家老の中三人が膝を進めて、かはる云ふのを聞けば、概ねかうである。我々はフランス軍艦に往つて退席の理由を質した。然るにフランス公使は、土佐の人々が身命を軽んじて公に奉ぜられるには感服したが、何分したが、何分その惨澹たる状況を目撃するに忍びないから、残る人々の助命の事を日本政府に申し立てると云つた。明朝は伊達少将の手を経て朝旨を伺ふことになるだらう。いづれも軽挙妄動することなく、何分の御沙汰を待たれいと云ふのである。九人は謹んで承服した。
中一日置いて二十五日に、両藩の士(さむらひ)が来て、九人が大阪表へ引き上げることになつたこと、それから六番隊の橋詰、岡崎、川谷は安藝藩へ、八番隊の竹内、横田、土居、垣内、金田、武内は肥後藩へ預けられたこおを伝へた。九挺の駕籠は寺の広庭に舁き据ゑられた。一同駕籠に乗らうとする時、橋詰が自ら舌を咬み切つて、口角から血を流して倒れた。同僚の潔く死んだ後に、自分の番になつて故障の起つたのを遺憾だと思つたのである。幸(さいはひ)に舌の創(きず)は生命を危くする程のものではなかつたが、浅野家のものは再び変事の起らぬうちに、早く大阪まで引き上げようと思つて、橋詰以下三人の乗つた駕籠を、早追の如くに急がせた。細川家のものが声を掛けて、歩度(ほど)を緩めさせようとしたが、浅野家のものは耳にも掛けない。とう細川家のものも駆足になつた。
大阪に着くと、九挺の駕籠が一旦長堀の土佐藩邸の前に停められた。小南が門前に出て、橋詰に説諭した。そこから両藩のものが引き分れて、各(おの)預けられた人達を連れて帰つた。橋詰には医者が附けられ、又土佐藩から看護人が差し添へられた。

九人のものは細川、浅野両家で非常に優待された。中にも細川家では、元禄年中に赤穂浪人を預り、万延元年に井伊掃部頭(ゐいかもんのかみ)を刺した水戸浪人を預り、今度で三度目の名誉ある御用を勤めるのだと云つて、鄭重の上にも鄭重にした。新調した縞の袷(あはせ)を寝衣(ねまき)として渡す。夜具は三枚布団で、足軽が敷畳(しきたゝみ)をする。隔日に据風呂が立つ。手拭と白紙を渡す。三度の食事に必ず焼物付の料理が出て、隊長が毒見をする。午後に重詰の菓子で茶を出す。果物が折々出る。便用には徒士(かち)二三人が縁側に出張(でば)る。手水(てうず)の柄杓(ひしやく)は徒士が取る。夜には不寝(ねず)番が附く。挨拶に来るものは縁板に頭を付ける。書物を貸して読ませる。病気の時は医者を出して、目前で調合し、目前で煎じさせる。凡そかう云ふ扱振である。
三月二日に、死刑を免じて国元へ指し返すと云ふ達しがあつた。三日に、土佐藩の隊長が兵卒を連れて、細川、浅野両藩にゐる九人のものを受け取りに遡つた。両藩共七菜二の膳附の饗応をして別(わかれ)を惜んだ。十四日に、九人のものは下横目一人宰領二人を附けられて、木津川口から舟に乗り込み、十五日に、千本松を出帆し、十六日の夜なかに浦戸の港に着いた。十七日に、南会所をさして行くに、松が鼻から西、帯屋町までの道筋は、堺事件の人達を見に出た群集で一ぱいになつてゐる。支配方は受け取つて各自の親族に預けた。九人のものは此時一旦遺書遺髪を送つて遣つた父母妻子に、久し振りの面会をした。
五月二十日に、南会所から九人のものに呼出状が来た。本人は巳(み)の刻、実父又は実子のあるものは、其実父、実子も巳(み)の刻半に出頭すべしと云ふのである。南会所では目附の出座があつて、下横目が三箇条の達しをした。扶持切米(ふちきりまい)召し放され、渡川限西(わたりがはかぎりにし)へ流罪仰せ付けられる。袴刀(はかまかたな)の儘にて罷り越して好いと云ふのが一つ。実子あるものは実子を兵卒に召し抱へ、二人扶持切米四石を下し置かれると云ふのが二つ。実子のないものは配処に於いて介捕として二人扶持を下し置かれ、幡多(はた)中村の蔵から渡し遣はされると云ふのが三つである。九人のものは相談の上、橋詰を以て申し立てた。我々はフランス人の要求によつて、国家のために死なうとしたものである。それゆゑ切腹を許され、士分(さむらひぶん)の取扱を受けた。次いでフランス人が助命申し出たので、死を宥(なだ)められた。然れば無罪にして士分(さむらひぶん)の取扱をも受くべき筈である。それを何故に流刑に処せられるか。其理由を承らぬうちは、軛(たやす)くお請(うけ)が出来難いと云ふのである。目附は当惑の体で云つた。不審は最(もつとも)である。併し此度の流刑は自殺した十一人の苦痛に準ずる御処分であらう。枉(ま)げてお請をせられたいと云つた。九人のものは苦笑して云つた。十一人の死は、我々も日夜心苦しく存ずる所である。其苦痛に準ずると云はれては、論弁すべき詞(ことば)がない。一同お請いたすと云つた。
九人のものは流人として先例のない袴着帯刀の姿で出立したが、久しく蟄居して体が疲れてゐたので、土佐郡朝倉村に着いてから、一同足痛を申し立てて駕籠に乗つた。配所は幡多郡入田村である。庄屋宇賀祐之進の取計で、初は九人を一人宛(づつ)農家に分けて入れたが、数日の後一軒の空家に八人を合宿された。横田一人は西へ三里隔だつた有岡村の法華宗真静寺の住職が、俗縁があるので引き取つた。
九人のものは妙国寺で死んだ同僚十一人のために、真静寺で法会を行つて、次の日から村民に文武の教育を施しはじめた。竹内は四書の素読を授け、土居、武内は撃剣(げつけん)を教へ、其他の人々も思ひに諸藝の指南をした。
入田村は夏から秋に掛けて時疫の流行する土地でる。八月になつて川谷、横田、土居の三人が発熱した。土井の妻は香美郡夜須村(かみごほりやすむら)から、昼夜兼行で看病に来た。横田の子常次郎は、母が病気なので、僅かに九歳の童子でありながら、単身三十里の道を歩いて来て、父を介抱した。此二人は次第に恢復に向つたのに、川谷一人は九月四日に二十六歳を一期(ご)として病死した。
十一月十七日に、目附方は橋詰以下九人のものに御用召を発した。生き残つた八人は、川谷の墓に別を告げて入田村を出立し、二十七日には高知に着いた。即時に目附役場に出ると、各通の書面を以て、「御即位御祝式(ごそくゐおんいはひしき)に被当(あたられ)、思召帰任御免之上(おぼしめしきぢゆうごめんのうへ)、兵士某父(へいしなにがしちゝ)に被仰付(おほせつけられ)、以前之年数被継遣之(いぜんのねんすうこれをつぎつかはさる)と云ふ申渡(まをしわたし)があつた。これは八月二十七日にあつた明治天皇の即位のために、八人のものが特赦を受けたので、兵士とは並の兵卒である。士分取扱の沙汰は終に無かつた。

妙国寺で死んだ十一人のためには、土佐藩では宝珠院に十一基の石碑を建てた。箕浦を頭に柳瀬までの碑が一列に並んでゐる。宝珠院本堂の背後(うしろ)の縁下には、九つの大瓶が切石の上に伏せてある。これは其中に入るべくして入らなかつた九人の異物でる。堺では十一基の石碑を「御残念様」と云ひ九箇の瓶を「生運様」と云つて参詣するものが迹を絶たない。
十一人のうち箕浦は男子がなかつたので、一時家が断絶したが、明治三年三月八日に、同姓箕浦幸蔵の二男楠吉に家名を立てさせ、三等下席に列し、七石三斗を給し、次いで幸蔵の願に従つて、猪之吉の娘を楠吉に配することになつた。
西村は父清左衛門が早く亡くなつて、祖父克平が生存してゐたので、家督を祖父に復せられた。後には親族筧氏(かけひうぢ)から養子が来た。
小頭以下兵卒の子は、幼少でも大抵兵卒に抱へられて、成長した上で勤務した。

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