続古事談/第二

 
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続古事談 第二
 
 
臣節
 
宇治殿、白河殿にて子日し給ひけるに、義忠朝臣、かなの序書きたりける。殿、御衣をかづけ給ふ。東宮大夫取伝へ給へり。此の日四条中納言祭主輔親、参らざりけり。殿より始めて、口惜しきことに人々思へりけり。各家風を伝へたる人なればなり。

宇治殿、南面の紅梅に、雪の積れるを御覧じて、人を召して折らせ給ふ。

   をられけり紅にほふ梅のはなけさしろたへに雪はふれども

経衡を召して、此御歌をたまはせければ、経衡さわぎて罷立ちにけり。二三日ありて、堀川右大臣、和歌を奉られけり。

   をられける梅の立枝にふりまがふ雪は匂ひて花やさくらん

貞信公、太政大臣になり給ひて宣ひける。我れ忝く人臣の位を極む。此かみ時平大臣を、太政大臣になさるべき由、前皇仰せられけるに、彼の大臣奏して申さく、弟忠平、必ず此官に至るべし。一門に二人ゐるべからずとて、勅命をうけずといひき。是れ僻事なり。但し三善文君が宮内卿霊、託宣して云く、冥途宮中に金籍の銘に、太政大臣従一位と記せりといひて、其時この事を疑ひき。今むなしからず。又故大江玉淵朝臣、我を相して官位を極むべしといひき。果して相叶へりとぞ宣ひける。

神泉南面には、二階の楼門ありけり。小野宮殿の三条大宮の辺におはしける時、藍摺の水干袴きたる男の、折烏帽子なるが、色白く清げなる、さし入りてたゞずみければ、あれは何人ぞと問ひ給ひければ、此の西わたりに侍るものなり。只今外へ罷り向へり。近くおはせば、案内申すなりといひければ、承りぬと宣ひければ、かいけつやうに失せにけり。其後空曇り、髪おどろしくなりて、此楼門をくひやぶオープンアクセス NDLJP:119りてけり。神泉の龍なりけりとぞ宣ひける。其後此門はなくなりける。元果僧都請雨経法行ひける時、此門は破れたりといひ伝へたる、此時にや。

九条殿(〈〉)忍びて北の宮に通ひ給ふ。未だ人もいたく知らざりけるに、正月一日小野宮殿、宇治殿に参りて、九条殿にあひ奉りて、北の宮の拝礼に参らむと思ふに、雨のふりて、おまへのきたなくて、え参り侍らずと宣ひけれは、九条殿顔少し赤めてぞおはしける。閑院太政大臣公季と聞ゆるは、此宮の産み給へる人なり。殊にゆゝしきしなよしなり。此人は幼くて、常に村上の帝の御前にさぶらはれけり。御前にて物くひて、えつゝみくはむといはれければ、帝、我はさるものくはずとぞ仰せられける。えつゝみわろきものにてあるにや。此の人の童名は、宮雄とぞ。

一条摂政(〈伊尹〉)は、みめいみじくよくおはしけり。弘徽殿のほそ殿のつぼにいりて、あさぼらけに冠押入れて出で給ひければ、随身きり声に、さき追ひける、いみじかりけり。此の御子義孝の少将も、みめよかりけり。往生しける人なり。其事ことふりたれば書かず。此大臣と朝成中納言とは、うらみを結びて、怨霊になるとぞ。さて其子孫は、三条西洞院の朝成が家に不入とぞ申す。彼摂政と朝成と、同じく参議を申しける時、朝成、伊尹なるまじき由を、やうに申しけり。其後朝成、摂政の許に向つて、大納言にならむと申しけるを、やゝ久しくありて、日暮れて後に、君に仕うまつる道あり、有興事也。昔参議を望みし時、伊尹、無用の由申されき。大納言の用否、我心にあらずやといはれたりければ、朝成恥ぢて、車に乗るとて、まづ笏を投入れければ、其笏中より折れにけり。さて病つきて失せて、霊になりたりとぞ。此朝成は、あさましく肥えて、みめ人に異なりけるにや、始めて殿上して参りたりけるを、村上の聖主御覧じて、驚き給ひて、彼はたぞと、このかみの朝忠に問ひ給ひければ、朝忠が弟に候と申されければ、能やあると問ひ給ひければ、かたの如く学問し侍れども、ことのさうに及ばずや侍らむ。又笙をぞ仕る。よしあしは知り侍らずと申しければ、帝御笙をたびて、吹かしむるに、其の声雲に通りて、妙に目出たかりければ、夫より恩寵ありて、御遊の折毎に、必らず召されけり。

八条大将保忠と申す人おはしけり。本院のおとゞの子なり。大に恥ぢられたる人オープンアクセス NDLJP:120なり。内へ参り給ひける道に、時の靱負の佐会ひて、車より下りて立ちたりけり。大将咎めて云く、騎馬の時、此礼あるべし。車にてはあるべからず。靱負の佐陳じて云、車にて下りざる事は、互に其人と知らぬ時の事なり。君随身具し給へり。我れ又火長相従ふ。既に其人と知りぬ。何ぞ礼節をいたさゞらんといひけり。大将理に折れて賞め給ひけり。この大将、大臣の宣旨を蒙りて、程なくして失せ給ひにけり。

西宮左大臣〔〈高明〉〕、日暮れて、内より罷り出で給ひけるに、二条大宮の辻を過ぐるに、神泉の丑寅の角、冷泉院の未申の角の築地の内に、むねついぢの覆に当る程に、たけ高き者三人立ちて、大臣さき追ふ声を、聞きてはうつぶし、追はぬ時はさし出でけり。大臣其心を得て、しきりに先を追はしむ。ついぢを過ぐる程に、大臣の名をよぶ。其後程なく大事出で来て、左遷せられけり。神泉の競馬の時、陰陽識神を掘して埋めるを今に解除せず。其霊ありとなん、いひ伝へたる。今も過ぐべからずとぞ、ありゆきといふ陰陽師は申しける。

此のおとゞ、行幸につかうまつられたりけるを、伴別当廉平と云相人見て、未だ斯る人見ずと賞めけるが、過ぎ給ひて後、うしろを見て、背に吉相なかりけり。恐らくは遷謫の事あらむといひける。果して其詞の如し。

粟田の左大臣在衡、西宮の大臣罪蒙りける時、其所に大臣になれるなり。家人、大臣あきたり。我殿なり給ひなんと喜びければ、大に怒りて追出でけり。延喜御門の御胤にて、西宮かゝる事にあひ給ふとて、大きに歎き給ひけり。右大臣になりて、幾程を経ず、左大臣になる時、右大臣はあとあり、左大臣の事思ひ懸けずといひける、あやしき事なり。

村上の御時、清涼殿にて、法華経の御読経ありけるに、法蔵覚慶自他宗の争あり。覚慶申して云、玄弉三蔵、柳の花鬘を作りて誓ひていはく、若し一分不成仏の者あらば、此の鬘観音の手にかゝるまじとて、投げ給ふに、観音の手にかゝれり。されば定性無性不成仏の義あるべからず。こゝに法相の人いふ事なし。御門在衡を召して、此事を問ひ給ふに、在衡申して云く、岐山魯水猶未能遊、心内教事僧侶知らず、オープンアクセス NDLJP:121いかでか是非を申すべき。但し慈恩伝并に玄弉行状を見るに、是以自身一分不成仏云々願也。時の人感ぜずといふ事なし。此大臣、奉公、人に勝れたりけり。大雨大風の日、左衛門陣の吉上いひける、在衡なりとも、今日は参り難き日なりといふ程に、傘をさし深沓をはきて参れりければ、見る人大に感じけり。

此人六位にて、鞍馬寺に籠りたりけるに、御帳の内より、笏を給ふと夢に見てけり。其笏に、右大臣従二位在衡と書かれたりけり。常に参りてゐる所ありけり。今に在衡の間とぞいふなる。正面の西の間なり。此の人才覚あながちに人に勝れねども、性とくして、御門問ひ給ふ事明かに申すによりて、いみじき者に思召しけり。内へ参るとて、文籍を車に入れて、道にて見けり。此の文の事を、御門必ず問ひ給ふによりて、滞る事なく申しけるなり。

泰賢民部卿、勧修寺氏の人なり。宇治殿の御後見なり。平等院作りて、いかほどの功徳にてあるらむと被仰ければ、餓鬼道の業などにてや侍るらむとぞ申されける。昔高麗国王、悪瘡を病みて、日本の名医雅忠を給はらんと申したりけり。此事陣の定めに及びて、さまに沙汰ありけるに、帥大納言経信申云、高麗の王悪瘡病みて死なむ、日本の為めに何か苦しといはれたりける一言に、事定まりて、遣すべからずといふ事になりにけり。さて返牒いかゞいふべきといふ定めには、此事え申とほさずといふべしとて、匡房卿其状を書きけるに、申とほさぬ由を書きおほせずして、二度迄返されにけり。第三度に、双魚難鳳池之月、扁鵲何入鶏林之雲といふ秀句書きたりけるたび、めでのゝしりて遣されにけり。後に彼国の商人来りけるが、此句を紳に書かしてこそ来りけれ。人毎に、斯く書きてもたるとなんいひける。

古、野干を神の体となしたる社の辺にて、狐を射たるものありけり。この者咎ありなしの事、陣の定に及びて、諸卿さまに申しける中に、帥大納言経信卿申して云く、白龍之魚勢懸預諸之密網と計り打いひて、ゐられたりけり。いみじき神なりとても、狐の姿にて走り出でたらむを射たらむには、何の咎かあらむといふ心なり。此事は、龍の、魚の姿になりて、浪に戯れて浮び出でたりける程に、預諸といふオープンアクセス NDLJP:122者の網をひきけるに懸りて、悲しき目を見て、大海に返りて、龍王に訴へければ、龍王ことわりて云く、何しにか魚の姿とはなりける。さればこそ網には懸れ。今より後、さる事をすまじきなりといひけり。今斯くいふは此事なり。又或人申して云く、射たりといふとも、其野干正しく死したるを見ず、咎重からずと申し、此日の定文は、宰相中将隆綱ぞ書きける。此人のかたちを書くに、雖飲羽之号、未首丘之実といふ秀句は出で来るなり。後三条院は、此の定文を御覧じて、余りに感ぜさせ給ひて、隆綱が宰相中将を過分に思ひけるは、ゆゝしき僻事なり。伊勢太神宮正八幡宮、いかゞ思召しけんとぞ仰せられける。

隆綱は才智はありけれども、心ばへ少しあとなかりけり。雑色のこはき装束して晴渡るを、世に羨しき事にいひて、宇治の離宮の祭に、雑色の装束を一具儲けて、卿相の床下につきたりけるが、俄に立ちてかたに寄りて、はたと装束して、馬長の供に、歩にてゆゝしくねりて渡りたりければ、元よりみめよき人にてありければ、見物の者共これを見て、ゆゝしき雑色かなといひのゝしれども、凡て見知る人なし。自らぞゆゝしく宰相中将殿に似たる者かなといふ者ありけれども、余りに思寄らぬ事なれば、いく程なくして、事過ぎにけり。このもしきことは悲しく見えてけり。

陣の定文書くといふ事は、極めたる大事なり。大弁の宰相のする事なり。そこらの上達部参り集りて、さまの才学をはき、本文を誦して、劣らじ負けじと定め申す詞を、ぬしにも問はず、文をもひかず、打聞きて書き居たるなり。又ざれ事に、詞をも飾らずいふ人あれば、其心を取りて、我が詞を作りて、いみじく書きなす隆綱の筆の如し。されば其詞の浅きにつけ深きにつけて、かた書きにくきなり。斯る大事をして、当座に是をあぐる、ゆゝしき大事なり。世の常には目録を取りて罷り出で、よく案じ考へなどして後に奉る。是は安きなり。

古の通俊・匡房など、当座にえもいはぬことばを連ねて書きけり。是等は又今一きはの事なり。まねぶ人更になし。近頃当座にあげたる人は、俊憲の宰相・長方中納言・実守の中納言、此の中納言の当座に参らせける日の上卿にて、妙音院の入道殿、オープンアクセス NDLJP:123左大臣にておはしけり。久しく此儀なし。いみじき事なりとて、もてなし給ひける気色こそ、かゝる一のかみにあらずば、かくはあらざらましと覚えていみじかりけり。

師頼の中納言参議の時、人に越えられて、籠居久しくして、たま中納言になりて、其の初の出仕に、釈奠に出でられたりけるに、作法進退の間、事に於て不審をなして、傍の人に問ふ事をす。其時成通卿、参議にて座に列りけるが師頼卿に語りけるは、久しく御出仕候はで、公事御廃忘かといひたりけるに、師頼卿返事をばいはずして、独言して云、大廟に入りては、毎事に問ふといはれたりければ、成通は死ぬるやうに覚えて、汗水にぞなられたりける。後に人に語りても、あさましかりし事かな、などさる事をいひけんと、悔しまれけること限りなかりけり。此事本説は、孔子の大廟にて、事を行ひ給ひけるに、よろづの事をおぼめきて、人に問ひ給ひければ、誰謂鄒人之子、知礼入大廟毎事問といひければ、問者礼也と答へ給ひける。此事を思して、乍知被問けるを、浅くいひなして、本文を誦せられて、悲しかりけるなり。晴にて人に物を問ふは、不苦事にてあるなり。失礼をこそ慎しめ。孔子云、不知為知是知也。是も同じ心也。

故少納言入道(〈信西〉)、人にあひて、敦親ばゆゝしき博士かな。物を問へば、不知々々といふといはれけり。其問ひたる人、不知といはむは、何のいみじからんぞといひければ、身に才智ある者は、不知といふ事を不恥也。実才なき者の万の事を知り顔にするなり。都て学問をしては、皆の事を知り明らむる事と、人の知れるは僻事なり。

大小事を弁ふる迄するを、学問の極めとはいふなり。それを知りぬれば、難儀を問はれて、知らずといふを、恥とせぬなりとぞいはれける。入道出家の心付きて後、院にて宇治の左府の未だ若くおはしけるに、参り会せて申して云く、己れは出家の暇申して、已に法師になり侍りなんず。それにいたまし事の一つ侍るなり。才智身に余りぬるものは、遂に不運なりと人の申して、学問を物倦くせんずる事の悲しきなり。君は摂籙の家に生れて、前途たのみおはします。必学問才智を極めて、而も人臣の位を極めさせ給ひて、己れ故人の起したらむ邪執を破りて給へと申されけオープンアクセス NDLJP:124れば、つらと顔を守りて、御目に涙を浮べて詞はなくてうなづかせ給ひけり。其後出家して、両三年を経て後に、左府風の病を煩ひ給ひけるに、入道御訪に参じて、御病重からねば、乍臥文談し給ひける程に、亀のうらと周易のうらと、何れ深しといふ事をいひ出して、左府は、亀のうら深しと仰せられけり。入道は周易深しと申しけり。其論事の外にしあがりて、文を取出し、本文をひくに及びにけり。良久しく論じ固まりて後、入道遂に負け奉りぬ。さて入道申して云く、今は御才智、已に朝に余らせ給ひにけり。御学問いるべからず。若猶せさせ給はゞ、一定御身の祟となるべしと申して出でにけり。此事を自らも、いみじき事におぼして、御日記に書かれたり。其詞に云く、先年院にして、学問すべき由を被誂し事は、予が廿の歳なり。今病席の論廿四歳なり。中僅に四年の間に、才智既に彼が許可を蒙る。都て四年の学問の間、書巻を開く毎、彼一説を忘るゝ事なし。今感涙を拭ひて、此事を記すと云々。

大二条殿の日記にこそ、不思議の事は侍れ。六条壬生に、尼の死したるをひき捨てたりけるを、犬の、腹を一口くひ破りたりければ、腹の中より火出できて、其の屍を焼き失ひてけり。是権者にや。

宇治の左府、内覧臣にておはしける時、入道大納言光頼卿、職事にて、院より御使に参りて、物を申されけるに、余りに題目多く重なりければ、左府仰せられけり。事繁くなりぬ。目六やありぬべきとて、御簾の内より、硯紙を取出でて給ひたりければ、紙押折りて、少しも打案ぜず書かれけるが、余りに安かりけるを御覧じて、召して之を見給ひけるに、かき様誠にめでたかりければ、しきりに御感ありて返し給ひつ。光頼座を立ちて後、仰せられけるは、あはれ職事や、又世に斯る者出できなむや。ゆゝしき君の御たからかなと仰せられて、但し一の人などの御前にて、御硯給ひてつかうやうぞ、未だ習はざりけると仰せられけり。それ程の きことなり。

孝謙天皇、西大寺を建立の時、塔婆におきては、八角七重に造らんと思召して、長手大臣に仰合され給ふに、五層の塔をつゞめて、三層に組みなせり。此罪によりて、オープンアクセス NDLJP:125後生地獄に落ちて、銅柱を抱く報を得たり。子息家頼宰相、自らの病の為めに僧を請じて、修法せしめけるに、その煙、熱銅の柱を隔てゝ、苦患暫く休む事を得たりと、夢の告ありけり。父子の契、誠に浅からず。自の祈父に答ふる事、深く思ふべし。

史記といふ文に、君臣父子の礼を定むる文云、父惧子三諫不聴者随之可事、君惧臣三諫不聞者義以可去云々。

少納言入道、鳥羽院の御供にて、或所に唐人のありけるに、通事もなくてあひしらひければ、院怪しみて、いかにして斯ると仰せられければ、若し唐へ御使に遣はさるゝ事もぞ侍るとて、彼国の詞を習ひて侍るなりと申されけり。遣唐大使の用意、いとこちたし。此頃の人は、当時いる事をだに習はぬものを。

四条大納言隆季、或人に問云、行幸の幸の字、是を用ふる何の故ぞ。其人え答へざりけり。そばにて梅小路中納言長方、それは本文なり。天子行処必有幸といへり。故に幸の字を用ふるなり。御幸には、たゞ行の字を用ふる。小野宮の水心抄なんどいふ古き日記には、皆御行と書きたるなり。但し世の末ざまには、上皇の御ゆき、皆勧賞あり。されば幸の字用ふるも、義違はざる事なり。仙院の渡御をば御行といふ。帝王の御出をば、行幸といふなり。御行もとよりみゆきなり。行幸も又みゆきとよむなり。

或人云、諸国の地頭といふ名心得ず。いかに付けたるやらんと、年来思ひし程に、或唐書の中にいはく、世に俄に謀叛の者出で来るを討たんとて、卒爾に兵を集むる時、兵糧米の為めに、国王郡々を責めて集めたるを、地頭銭といふといふ文あり。是れ今の地頭の義に叶へり。此文を見たりける人、附けそめたるか。又星などの童謡していひ出でたるか、ふしぎの事なり。

妙音院大相国禅門曰く、舞を見歌を聴きて、国の治乱を知るは、漢家の常の習なり。然るを世間に、白拍子といふ舞あり。其曲をきけば、五音の中には、これ商の音なり。此音は亡国の音なり。舞の姿を見れば、立廻りて空を仰ぎて立てり。其姿甚だ物思ふ姿なり。詠曲身体共に不快の舞なりとぞ宣ひける。

六波羅の太政入道、福原の京たてゝ、皆渡りゐて後、殊の外に程経て、古京と新京と、オープンアクセス NDLJP:126何れかまされるといふ定めをせんとて、古京に残り居たるさもある人共、皆呼び下しけるに、人皆入道の心を恐れて、思ふ計もいひ開かざりけり。長方卿独り少しも所を置かず、此京を誹りて、詞も惜まず散々にいひけり。さて元の京のよきやうをいひて、遂に其日の事、彼人の定めによりて、古京へ帰るべき議になりにけり。後に其座にありける上達部の、長方卿に会ひて、さても浅ましかりし事かな。さ計りの悪人の、いみじと思ひてたてる京を、さ程にはいかにいはれしぞ。いひおもむけて、帰京の儀あればこそあれ、いふ甲斐なく腹立ちなば、いかゞし給はましといひければ、此事、我思にはさる儀あり。入道の心に叶はむとてこそ、さはいひしか。其故は、広く漢家本朝を考ふるに、よからぬ新儀行ひたるもの、始に思立つ折は、中々人に言合する事なし。其仕業少し悔む心ある時、人には問ふなり。是も彼京殊の外に居づきて後、両京の定めを行ひしかば、はや此事悔しうなりにけりといふ事を知りにき。さればなじかは詞を惜むべきとぞいはれける。誠に其後に、人に超えられむとしける時も、此入道よきやうに申して、長方卿は殊の外に物覚えたる人なり。たやすく人に超越せしむべからずとて、後迄も方人をせられけるなり。梅小梅小路中納言の両京の定めとて、其時の人の口にありけり。

在衡・維時、同じ時の蔵人にて、藤内記・江式部とてぞありける。此維時は聡敏不思議なりけり。遷都より後の人の家、始より今に至る迄、其主の名うりかふ年月、皆これを覚え、又人の忌日皆知りたりけり。此蔵人の時、於御前前栽の名を書きたりける一草を、読む人なかりけり。

高内侍といふは、中関白の室、成忠二位の女なり。円融院の御時、典侍しけれども、台盤所許されざりければ、内侍所に屛風をたてゝさぶらひて、いふ事ある時には、かみを上げて女官を多く具して参りて、石灰の壇にぞ候ひける。御門其心ありけれども、とげ給はで止みにけり。

小野宮、右のおとゞの思人に、すみ殿といふ人ありけり。極めたる賢女なり。彼家にめでたきたまのおひありけり。おとゞ失せて後、宇治殿かのおひ見むと仰せられければ、敢て惜まず、使に付けて奉れり。代りをたばむと仰せられければ、更にオープンアクセス NDLJP:127給ふべからずと申しけり。おひの事をばとかく申さず。宇治殿思煩ひて返されにけり。かしこき女とぞ宣ひける。

公任・斉信中納言、左右衛門督にて、公に仕うまつるに、斉信神社の行幸の行事を承りて、其賞にて加階して、公任を超えてけり。公任其憂を休め難くして、中納言の辞表を奉りつ。御門、経通朝臣を勅使として、表を返して宣はく、思ふ所ありて奉る表なり。一階を許し給ふ。元の如く仕うまつるべしとありけり。時の人いひける、未だ昔もあらざることなり。超えらるゝ恥を雪ぐのみにあらず、却りて光をなむ増すといひけり。採用人に勝れたるによりて、君も惜しみ給ふなるべし。さらば超されてあれかし。

土御門右大臣〔〈師房〉〕生れて二歳の時、後中書王〔〈具平〉〕宣ひける、此ちご将軍の相あり。必ず大将になるべし。入道此事をきゝ給ひけり。果してかなへり。

堀川左大臣、始めて舞人せられける時、閑院春宮大夫能信、父の大納言に告げられける、此人やむごとなき相あり。必ず大臣に至るべしとぞ。古き人々いふ所、皆空しからぬ事なり。

法成寺焼けたりけるに、時の人、省試題に、偶燭施明といだしたる文の徴なりといひけり。土御門の大臣これを聞きて、偶字訓二とよむ。二火の徴なりとありけるに、打続き豊楽院焼けにけり。才ある人の詞、空しからぬ事なり。

大宮右大臣(〈俊家〉)納言の時、大二条殿関白の宣旨を承りてくだされけり。彼殿宣ひける、此宣旨を奉行する人、多く大臣に至れり。計り知んぬ、汝も大臣に至るべしと宣ひけり。此事肝に染みにき。果して大臣になりたりとぞいはれける。此おとゞの孫宗忠右大臣、殿上人の時、夢に六条右大臣、汝我が如く大位に上るべき人なりといはれければ、不肖の身、いかでか至るべきと申されければ、偏に天恩を蒙りて、必ず至るべしとありけり。思はざるに大臣になれる人なり。

 
続古事談第二
 
 

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