成吉思汗実録/巻の十一-2

提供:Wikisource

[307]

§258(11:41:05)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年) Open original book in Wikimedia


三皇子の​ウルゲンチ​​兀兒堅只​攻め

 かくて​チンギス カガン​​成吉思 合罕​は、​バルアン バラ​​巴嚕安 原​より​カヘ​​回​りて、​ヂユチ​​拙赤​ ​チヤアダイ​​察阿歹​ ​オゴダイ​​斡歌歹​ ​ミタリ​​三人​​ミコ​​子​だちを、​ミギテ​​右手​​イクサ​​軍​にて、​アムイ ムレン​​阿梅︀ 木嗹​​ワタ​​渡​りて​ウロンゲチ​​兀嚨格赤​​シロ​​城​​カエイ​​下營​せよとて​ヤ​​遣​りぬ。(巴嚕安 原より回りてと云ふは、叙事の順序 違へり。三皇子の派遣を命ぜられたるは、太祖︀の者︀剌列丁を追ひて南下する前、十五年 庚辰の春 撒馬兒罕を攻め落したる後、その秋 速勒壇 駐夏の地に太祖の駐まりし時の事なり。親征錄は、庚辰を誤りて明年 辛巳とし、「是夏、上駐軍於西域 速里壇 避暑︀之地忽都︀忽 那顏前鋒。秋、分遣大太子二太子三太子、率左軍玉龍傑赤 之城」と云へり。左軍は、右軍の誤なり。集史にも右軍とあり。

​アム ダリヤ​​阿木 荅哩牙​の古名

阿梅︀ 木嗹は、卽 阿木 荅哩牙にて、西游記に阿母 沒輦、劉郁の撰れる常德の西使記に暗木 河、元史に阿母 河 阿木 河などあり。木嗹は河の蒙古語、荅哩牙は河の突︀兒克語なり。額篤哩昔の地誌に哇黑施と云へるは、この河の古名にして、希臘人の斡克速思、漢︀書の嬀水、隋書 唐書の烏滸 水、唐 西域記の縛芻 河は、皆 哇黑施の轉なり。哇黑施の名は、今 阿木 河の上流なる北源の一大河の名に殘れり。阿喇必亞 人は只渾 河と云ひ、突︀兒克 人は阿木 河と云ふ。孛合喇の西南に當り、河の左岸、今の察兒錐の邊に、阿抹勒と云ふ城ありしに由り、阿木 河の名は起れり。阿抹勒を阿木也とも云ひたれば、河をも阿木也 河と云ひたること、中世の抹哈篾惕 敎徒の記錄に見ゆ。阿梅︀は、卽 阿木也の轉なり。

​ウルゲンチ​​兀兒堅只​の所在

兀嚨格赤は、親征錄 元史 本紀にも玉龍傑赤とあれども、正しくは兀兒堅只と云ふべし。耶律 楚材の西游錄に云く「蒲華 之西有大河、西入於海︀。其西有五里犍城、梭里檀 母后所居。富庶又盛於 蒲華。」五里犍は、卽 兀兒堅只の訛略、梭里檀 母后は速勒壇 抹哈篾惕の母 突︀兒罕 合屯なり。曷思麥里の傳に月亦心揭赤とあるは、月戀揭赤の寫し誤りなり。兀兒堅只は、闊喇自姆 國の舊都︀にして、今の希哇 城の西北、鹹海︀の南やゝ西、阿木 河の下流の西 二十七 英里にありき。阿木 河は、古は希哇 城の北にて二派に分れ、一派は今の如く北に流れて鹹海︀に入り、一派は西に流れ、折れて西南に流れ、裏海︀に入りき。兀兒堅只の城は、その西派の兩岸に立ち、橋にて續きたり。西紀 一五七五年の頃より西派は沙 壅がりて流れず、城も久しく廢れて、只 舊址のみ殘り、嚕西亞の地圖には庫尼牙(舊) 兀兒堅只と名づけて、也尼(新) 兀兒堅只に別てり。新 兀兒堅只は、元代 以後に起れる城にして、舊 兀兒堅只の東南 九十 英里ほどにあり、希哇 城の東北に當り、阿木 河の西岸に接し、希哇 國の商都︀なり。淸 一統志に烏爾根齊 城とあるは、卽 新 兀兒堅只なり。

​テルケン カトン​​突︀兒罕 合屯​の事略

多遜に據れば、突︀兒罕 合屯は、康克里の部長の女なるが故に、康克里の將士 從ひて閣喇自姆に入りたるもの多く、抹哈篾惕の征戰 常にその力に倚れり。それが爲に康克里の諸︀將 驕橫 跋扈し、突︀兒罕の權もその子に埓しか[308]りき。抹哈篾惕の撒馬兒罕に遷りて後も、突︀兒罕は兀兒堅只に畱まりしが、蒙古の兵 孛合喇に向へる時、抹哈篾惕は、撒馬兒罕を去り、兀兒堅只に使を出して、母と妻とに馬贊迭㘓に敵を避けよと言ひ遣りたり。太祖︀ 撒馬兒罕を圍める時、人を遣りて突︀兒罕に降を勸めたれども、突︀兒罕 答へずして出で去り、馬贊迭㘓の山中なる亦剌勒の堡に隱れ、後 徹別 速不台の軍に虜︀へられたり。抹哈篾惕は、徹別 速不台の軍に追はれ、裏海︀の小島に入り憂死し、その子 者︀剌列丁 位を嗣ぎ、曼固施剌克より上陸して、兀兒堅只に入りたれども、康克里の將士に忌まれ、一二二一年 二月 十日 兀兒堅只を棄てて南に走れり。者︀剌列丁 去りて後 三日目に拙赤 等の軍は、兀兒堅只に近づきけり。

​トルイ​​拖雷​​コラサン​​闊喇散​ 侵掠

​トルイ​​拖雷​​イル​​亦嚕​ ​イセブル​​亦薛不兒​​ハジメ​​始​とせる​オホ​​多​​シロ​​城​どもに​カエイ​​下營​せよとて​ヤ​​遣​りぬ。(

​ヘラト​​赫喇惕​の舊名

亦嚕も亦薛不兒も、中世 闊喇散 四大城の一なり。(他の二は、巴勒黑 篾兒甫なり。)亦嚕は、親征錄に也里また野里と書き、元史 本紀に也里、烏古孫 仲端の北使記に益離また遺里とあり。卽 今の赫剌惕なり。古は阿哩牙と云ひ、中世は哈哩また赫哩と云ひ、大佐 裕勒の「喀台」(支那の交通)に附錄せる一三七五年の喀塔闌 地圖には額哩と見え、裕勒の作れる捏思脫哩宗の敎正 分擔の地圖にては哈喇と讀まる。明史 西域傳に「哈烈、一名黑魯、在撒馬兒罕 西南三千里、去嘉峪關一萬二千里、西域大國也。元駙馬 帖木兒、旣君撒馬兒罕、又遣其子 沙哈魯哈烈」とあるは、この地なり。

​ニーシャープール​​你沙不兒​の異文〈[#「你沙不兒の異文」は底本では「你沙不兒のの異文」。昭和18年復刻版に倣い修正]〉

亦薛不兒は、正しくは你沙不兒また你沙普兒にして、親征錄に泥沙兀兒また慝察兀兒、元史 本紀に匿察兀兒、地理志に乃沙不耳、巴而朮 阿而忒 的斤の傳に你沙卜里、常德の西使記に納商とあり。曷思麥里の傳に你沙不兒と書けるは音 最 正しく、抹哈篾惕 敎徒の記錄に合ひ、又 地理志の乃沙不耳も、阿不勒弗荅の乃撒不兒に近し。されども阿不勒弗荅は又「珀兒沙 人は你沙兀兒と呼ぶ」と云へれば、諸︀書に兀と書けるも惡しからず。你沙不兒は、阿哩牙と共に古く開けたる所にて、希臘 囉馬の古書に你薛阿と云ひ、祆敎の古經に你賽阿と云へり。阿喇必亞 珀兒沙の記者︀は「薩散 朝の沙玻兒 王これを立てたる故に、王の名を取りて名とせり」と云へれども、附會の說なるべし。本書に亦嚕 亦薛不兒とあるは、蒙古人の頭韻を協はする癖あるより出でたる訛ならん。さて この派遣の事を、親征錄には、辛巳(太祖︀ 十六年)の秋「上進兵過鐵門關」の次に「四太子攻也里 泥沙兀兒 等處城」と云ひ、喇失惕は「蛇の年の秋、撒馬兒罕を發し、拖雷 罕と共に納黑舍卜に往き、帖木兒 合魯噶(鐵門)を過ぎ、拖雷 罕を闊喇散を平げに遣りたり」と云ひて、いづれも辛巳の事としたれども、多遜に據れば、一二二〇年(大祖︀ 十五年 庚辰)の秋なり。

​オトラル​​斡惕喇兒​の城攻め

​チンギス カガン​​成吉思 合罕​は、​ミヅカラ​​自​ ​ウヂラル​​兀的喇兒​​シロ​​城​​カエイ​​下營​せり。(兀的喇兒は、前にも後にも兀都︀喇兒とあり、正しくは斡惕喇兒なり。耶律 楚材の西游錄に訛打剌、また訛荅剌、親征錄に斡脫羅兒、元史 本紀には訛荅剌とも斡脫羅兒ともあり、

​オトラル​​斡惕喇兒​の遺址

地理志には兀提剌兒、賈 塔剌渾の傳には斡脫剌兒とあり。その城 今は廢れたり。列兒楚の「突︀兒其思壇 考古 游歷」に據れば、失兒 荅哩牙の東の潀水なる阿哩思 河の汭の北 北緯 四十三度に近くその遺址ありと云ひ、嚕西亞の突︀兒其思壇 大圖には、阿哩思 河の汭の東北 六 英里ばかりにその遺址を標記せり。列兒楚は、一八六七年より前にその地を探りたり。さて斡惕喇兒の攻圍は、西 亞細亞 征服の手始なれば、太祖︀ 西征の初に書くべき事なるを、本書は誤りてこゝに書けり。喇失[309]惕 多遜の二史に據るに成吉思 汗は、斡惕喇兒に到り、

四軍の分れ戰ひ

全軍を四に分け、察合台 斡歌台の一軍は、斡惕喇兒を攻め、拙赤の一軍は、昔渾 河に沿ひ西北に行き、氈篤 延吉肯篤を攻め、阿剌克 那顏 速客禿 脫該の一軍は、昔渾 河に泝り東南に行き、闊氈篤 別納客惕を攻め、成吉思 汗は、拖雷と共に大軍を將ゐて昔渾 河を渡り、孛合喇に進みて敵の援兵を斷ちたり。洪鈞 曰く「是時、西域王駐撒馬爾干東、布哈爾 在西、其舊都︀ 烏爾韃赤 更在西北。搗其中、則新舊都︀呼應不靈、所以斷其援也。先西破布哈爾、返而東攻撒馬爾干、太祖︀兵法如是。」氈篤は、元史 地理志に氈的とあり、今 闊兒忽惕と云ひ、失兒 河の右岸に在り、鹹海︀に近し。延吉肯篤は、親征錄 元史に養吉干とあり、失兒 河の左、河口より一日路の處にその遺址あり。阿剌克 那顏は、巴阿𡂰の阿剌黑、功臣の第二十六、速客禿は、晃豁壇の速亦客禿 徹兒必、功臣の第三十一、脫該は、速勒都︀思の塔孩 巴阿禿兒、功臣の第二十四なり。闊氈篤は、唐書 西域傳に俱戰提、西游錄に苦蓋、西游記に霍闡、元史 地理志に忽氈、伯顏の傳に忽禪、薛 塔剌海︀の傳に忽纏、西域 水道記に霍占とあり、失兒 河の左岸、大曲の上に在り、別納客惕は、明の世に沙 囉乞牙と云ひ、明史 西域傳に沙 鹿海︀牙とあり、失兒 河の右岸、大曲の下に在りき。

​オゴダイ​​斡歌歹​の節︀制

​ヂユチ​​拙赤​ ​チヤアダイ​​察阿歹​ ​オゴダイ​​斡歌歹​ ​ミタリ​​三人​​ミコ​​子​だち​マウ​​奏​して​ヤ​​遣​るには「​ワレラ​​我等​​イクサ​​軍​ども​ソロ​​揃​へり。​ウロンゲチ​​兀嚨格赤​​シロ​​城​​イタ​​到​れり。​タレ​​誰​​コトバ​​言​​ヨ​​依​​オコナ​​行​はん(誰の命に從ひて事を行はん)、​ワレラ​​我等​」と​マウ​​奏​して​ヤ​​遣​りたれば、​チンギス カガン​​成吉思 合罕​ ​ミコト​​勅​あり「​オゴダイ​​斡歌歹​​コトバ​​言​​ヨ​​依​​オコナ​​行​へ」と​ノリタマ​​宣​ひて​ヤ​​遣​りぬ。(親征錄に、三皇子を玉龍傑赤の城攻に遣りたる續に「以軍集奏聞。上有旨曰「軍旣集、可三太子節︀制也」」とあるは、こゝの文を譯したるなり。

​ウルゲンチ​​兀兒堅只​のなが持ち

喇失惕 曰く「者︀剌列丁 兄弟の兀兒堅只より出奔したる時、城內の兵民は、突︀兒罕 合屯の族なる忽馬兒を主將に戴けり。蒙古の前鋒 到れる時、城兵 出で戰ひ、伏に遇ひ大敗せり。拙赤 等 兄弟 至り、城の形勢を視︀察し、招ぎ降したれども應ぜず。近傍に石なく(礟擊すること能はず)、大木を伐りて濠を塡め、三千人を河道を截ちに遣りたれば、城兵に圍まれ皆 死し、城兵 益 元氣 旺になれり。拙赤 察合台 素より中 惡く、師 和せずして、屢 城兵に敗られ、七月を經たれども城 下らず。成吉思 汗 塔列干に在せる時、三皇子より使もて軍事を吿げ遣りたるに、成吉思 汗その爭の事を聞きて怒り、斡歌台に命じて師を統べさせたり。」斡歌歹の總帥を命ぜられたる事情は、喇失惕に依りて善く分れり。


§259(11:42:09)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年) Open original book in Wikimedia


​オトラル​​斡惕喇兒​の落城

 かくて​チンギス カガン​​成吉思 合罕​は、​ウドラル​​兀都︀喇兒​​シロ​​城​​クダ​​下​して、(この事は、前にも云へる如く、太祖︀ 西征の初に書くべき事なり。喇失惕 曰く「斡惕喇兒の守將は哈亦兒 罕にして、都︀より至りし哈剌札 罕は、二萬人にて助け守れり。五月の間 圍まれて、城民 亂れ、哈剌札 罕は降らんと云ひたれども、哈亦兒 罕は從はず。哈剌札 罕は、夜 城を出で、遁れんとして虜︀へられたれば、察合台 斡歌台は、その不忠を責〈[#「責」は底本の国立国会図書館︀デジタルコレクション画像は白修正液らしき消去で確認できず。昭和18年復刻版に倣い修正]〉めて殺︀して、遂にその城を破れり。哈亦兒 罕は、親兵 三萬を率ゐて內堡を守り、一月の閒 禦ぎ戰ひ、士卒 皆 死して始めて擒となり、庫克 撒唻に送りて殺︀されたり。」

​ガイル カン​​該兒 罕​の死物狂

哈亦兒 罕は、多遜[310]の書に亦納勒主克 該兒 罕と云ひ、突︀兒罕 合屯の弟にして、太祖︀の使者︀を殺︀したる人なり。元史 本紀に「取訛荅剌 城、擒其酋 哈只兒 只蘭禿」とあり。二つの只の字は、蓋 皆 亦の誤にて、哈亦兒は哈亦兒 罕なるべく、亦蘭禿は亦納勒主克の訛なるべし。庫克 撒唻は、太祖︀ 撒馬兒罕を圍める時 御營のありし所なり。斡惕喇兒の城攻は、秋の末より始まりて六月を費やしたれば、落城したるは、翌年の春の末にて、正に太祖︀の撒馬兒罕を圍める時なり。親征錄の紀年は、喇失惕と同じく、一年づつ後れたれば、庚辰(太祖︀ 十五年)の秋「至斡脫羅兒 城、上畱二太子三太子攻守、尋克之」とあるは、城攻の始まりを云へるにて、「尋克之」と云へるは、翌年の事を終言したるなり。

元史 叙事の不都︀合

元史 本紀に十五年 庚辰「駐蹕 也石的石 河。秋、攻斡脫羅兒之」とあるは、親征錄に據りたるなれども、「尋克之」の尋の字を略きたる故に、秋攻めて秋克てることとなれり。又 本紀の叙事は、多くは親征錄に據りながら、又 紀年 正しき他の書に據りて、「帝率師親征」の下に、直に「取訛荅剌 城」と書きたる故に、叙事 重複せるのみならず、六月 師を出して、その月の內に斡惕喇兒を取れることとなり、最 不都︀合なり。

​ボハラ​​孛合喇​ ​サマルカン​​撒馬兒罕​の戰

​ウドラル​​兀都︀喇兒​​シロ​​城​より​ウゴ​​動​きて、​セミスカブ​​薛米思加卜​​シロ​​城​​カエイ​​下營​せり。​セミスカブ​​薛米思加卜​​シロ​​城​より​ウゴ​​動​きて、​ブカル​​不合兒​​シロ​​城​​カエイ​​下營​せり。(薛米思加卜は、下文に薛米思堅ともあり、撒馬兒罕篤の異名なり。撒馬兒罕篤は、中 亞細亞のいと古き名城にして、希臘の阿歷散迭兒 大王の至りたる馬剌罕荅は、卽この地なりと云ふ。

​サマルカン​​撒馬兒罕​の名稱 地理

漢︀書 西域傳に「大 月氏 國、治監氏 城」とある監氏は、撒馬兒罕篤の罕篤 又は罕荅の訛なるべし。魏書 西域傳に「悉萬斤 國、都︀悉萬斤 城、在迷密 西、其國南有山名伽色那 山」とあるは、撒馬兒罕篤を國の名として記せる始なり。迷密 伽色那は、唐 西域記の弭秣賀 羯霜那なり。唐 西域記に「颯秣建 國、唐曰康國。周千六七百里、東西長、南北狹。國大都︀城、周二十餘里。極堅固、多居人。異方寶貨、多聚此國。土地沃壞、稼穡備植。林樹蓊鬱、花菓滋茂。多出善馬。機巧之技、特工諸︀國。氣序和暢、風俗猛烈。凡諸︀胡國、此爲其中。進止威儀、近遠取則。其王豪勇、鄰國承命。兵馬强盛、多是赭羯」とあり。唐の初は、西突︀厥の屬國となりしかども、その猶 富强なりしを見るべし。隋書 西域傳に曰く「康國者︀、康居之後也。遷徙無常。不故地。然自漢︀以來、相承不絕。其王、本姓 溫、月氏 人也。舊居祁連山北昭武城。因匈奴 所破、西踰蔥嶺、遂有其國、支庶各分王。故康國左右諸︀國、竝以昭武姓、示本也。都︀於 薩寶 水上 阿祿迪 城、城多眾居。名爲强國、而西域諸︀國多歸之。」康國と云へるは、撒馬兒罕篤の罕の音を取りて單名となせるにて、弭秣賀を米國と云ひ、乞史を史國と云ひ、屈霜你迦を何國と云ひ、貨利習穆を穆國と云ひ、漕矩吒を漕國と云へると同例なり。薩寶 水は、今の咱喇甫山 河なり。匈奴に破られ云云は、史記 大宛の傳に「始 月氏 居燉煌祁連閒、及匈奴 所敗、乃遠去、過宛、西擊大夏而臣之、遂都︀嬀水北王庭」とあるを謂へるなり。嬀水(阿木 河)の北 卽 失兒 阿木 兩河の閒は、漢︀の初より月氏に屬したれば、康居の後なりと云へるは、甚 誤れり。月氏の事を叙べたる下文とも自ら矛盾せり。こは、たゞ康の字 同じきに由り附會したるなり。康居の地は大宛(今の弗兒嘎納)の西北にありて、今の乞兒吉思 曠野なり。舊唐書の西戎傳は、隋書に據りて「康國、卽漢︀ 康居 之國也」と誤り、又その「被匈奴所破」を「爲突︀厥所破」と改めて、更に誤を加へたり。蓋 舊唐書の作者︀は、康國は[311]古の康居の國なりと思へるに由り、月氏のそこに遷りたるは近世の事ならんと考へて、匈奴を突︀厥と改め、史記 漢︀書に明記せる月氏 西遷の事を忘れたるなり。新唐書の西域傳は「康者︀、一曰薩末韃、亦曰颯秣建、元魏所謂 悉萬斤 者︀」と云ひて、康居なりとは云はざれども、月氏を破れるものを匈奴とせずして突︀厥としたるは、舊唐書に同じ。「高宗永徽時、以其地康居 都︀督府」とあるを見れば、高宗の朝臣も、貞觀の(隋書を作れる)史官の誤を承けて、康國と康居とを混じ居たるなり。又 新唐書は、史國 卽 羯霜那を康居の小王 蘇薤 城の故地なりとし、何國 卽 屈霜你迦を康居の小王 附墨︀ 城の故地なりとし、安國 卽 捕喝︀を康居の小王 屬城の故地なりとせり。されども屈霜你迦は、貴霜匿とも云ひ、漢︀書に見えたる大月氏の五翕侯の一なる貴霜 翕候の故地にして、康居の故地に非ず。羯霜那 卽 今の舍勒も、捕喝︀ 卽 孛合喇も、皆 兩河の間に在りて、月氏の地なるを、妄に康居の故地としたるは、唐人のでたらめなり。又 唐人は、捕喝︀ 卽 孛合喇を漢︀の安息に當てて、安國と名づけ、何國と安國との間なる喝︀汗(喝︀捍)國を安息の木鹿 卽 篾嚕(今の篾兒甫)に當てて、東安と名づけ、顯慶 三年 遂に安を安息 州とし、東安を木鹿 州としたり。唐人の地理を誤れること かくの如し。然るに東西の史家は、新舊唐書のかく妄なるに心附かず、康居の五小王の故地まで實らしく列記せるを見て、月氏 康居の地を考ふるに迷へるもの多きに由り、序ながらこゝに辨じ置くなり。さて撒馬兒罕篤の篤を略きて呼ぶは、漢︀文の常なるが、馬兒科 保羅も、漢︀人より聞きなれたる爲にや、撒馬兒罕と云ひて、篤の音を略けり。中世の基督敎の傳道師は、この城を薛米思罕惕と云へり。耶律 楚材の庚午 元曆を進むる表に「庚辰、聖駕西征、駐蹕 尋思干 城。」西游錄に「訛打剌 西千餘里、有大城尋思干。尋思干 者︀、西人云肥也。以地土肥饒故以名。甚富庶。環城數十里、皆園林。飛渠走泉、方池圓沼、花木連延、誠爲勝槩。瓜大者如馬首。尋思干、乃 謀速魯蠻 種落、梭里檀 所都︀、蒲華 苦盞 訛荅剌 城皆隸焉。」尋思干の名は、早く遼史の天祚紀に見えたり。湛然居士集に又 尋罳虔と書き「尋罳、肥也。虔、城也」と譯し、元史 郭寶玉の傳には撏思干とあり。尋思も尋罳も撏思も、皆 薛米思にて、親征錄 元史 本紀 察罕 曷思麥里 等の傳に薛迷思干と書き、長春の西游記には、前に尋思干、後に邪米思干と書けり。薛米思は、突︀兒克 語に肥を謂ひ、罕篤は、珀兒沙 語に城を謂へば、楚材の解は善く當れり。西游記に辛巳の年「仲冬十有八日、過大河、至邪米思干 大城之北云云。其城因溝岸之。秋夏常無雨、國人疏二河城、分繞巷陌、比屋得用。方算端 氏之未敗也、城中常十萬餘戶。國破而來、存者︀四之一。其中大率多回紇 人。城中有岡高十餘丈、算端 氏之新宮據爲。」又 壬午の年「二月二日遊郭西。隨處有臺池樓閣、間以蔬圃。望日復遊郭西。園林相接百餘里、雖中原能過、但寂無鳥聲耳。」又 瓜を賞して「味極甘香、中國所無。間有大如斗者︀、十枚可重一擔」と云へり。

​ボハラ​​孛合喇​の異稱

元史 地理志に撒麻耳干、明史 西域傳に撒馬兒罕とあり。不合兒は、卽 孛合喇にして、これもいと古き名城なり。北史 西域傳に忸密とあるは、この地なり。隋唐の人は、安國と名づけ、新唐書 西域傳に「安者︀、一日布豁、一曰捕喝︀、元魏謂忸密、西瀕烏滸 河」とあり。捕喝︀と書きたるは、唐 西域記なり。西游錄は、蒲華と書きて「尋思干 西六七百里、有蒲華 城、土產更饒、城邑稍多」と云へり。親征錄に卜哈兒、元史 地理志に不花剌、察罕の傳に孛哈里、明史 西域傳に卜花兒とあり。今 嚕西亞 人は不哈兒と云ふ。

二古城の沿革

孛合喇 撒馬兒罕の二城は、上古より亦㘓の國に屬し、漢︀の初より大月氏に占據せられ、隋の世に西突︀厥に屬し、唐の高宗の時 暫く唐に屬し、[312]中宗の時 大食の國に屬し、僖宗の時 撒曼 朝 興りて孛合喇に都︀し、宋の眞宗の時 撒曼 朝は西回紇の亦列克 罕に滅され、亦列克 罕の子孫は撒馬兒罕に都︀し、北宋の末に西遼 興りても、その屬國となりて河閒の地を統べ居たりしが、元の太祖︀ 八年、西回紇の末王 斡思曼は、速勒壇 抹哈篾惕に殺︀され、河閒の全土は闊喇自姆 朝に屬したり。

二城の攻め落し

この二城を太祖︀の平げたるは、撒馬兒罕は後にして、孛合喇は前なり。本書の叙事 顚倒せり。喇失惕 曰く「成吉思 汗は、旣に各軍を分け遣り、その子 拖雷を伴れ、沙漠の僻路を行き、翌年の春 孛合喇に至りて圍み攻めたり。守將 庫克 罕 等、眾を率ゐて遁れんとして打ち破られ、城民 降を請ひたれども、內堡は猶 抗禦し、兵民 三萬人 皆 死せり。春の末 撒馬兒罕に向へり。撒馬兒罕は、要害 堅固にして、突︀兒克(卽 康克里)の兵 六萬、塔只克の兵 五萬にて守りたれども、速勒壇 抹哈篾惕は旣に遁れて居らざりき。御營は庫克 撒唻に駐まり、拙赤 等の諸︀軍 皆 至り、五日の間 圍み攻めて、城 壞れ、兵民 多く屠られたり。」親征錄に曰く「辛巳、上與四太子追攻卜哈兒 薛迷思干 等城皆克之、大太子又攻克養吉干 八兒眞 等城。」

右軍の勝利

八兒眞は、元史 地理志に巴耳赤刊とあり。喇失惕は、巴兒合里肯篤と綴りたれども、普剌諾 喀兒闢尼は巴兒沁と云ひ、小 阿兒篾尼亞の君 海︀團の紀行に帕兒沁とあるは、巴兒眞の方に音 近し。その遺址は確ならねども、列兒出の云へる「巴兒眞の名ある古錢」は、その地にて鑄たるものなるべし。喇失惕 曰く

左軍の勝利

「拙赤の一軍は、昔固納克を屠り、斡自肯篤 巴兒合里肯篤を降し、額施納思を破り、氈篤を取り、兵を分けて養吉罕篤を取れり。又 阿剌克 那顏 等の三將は、別納客惕に克ち、闊氈篤に克てり。」昔固納克は、海︀團の紀行に薛固納黑とあり。列兒出の「突︀兒其思壇 考古 游歷」に據れば、その遺址は、失兒 河の濱なる主列克 砲臺の東南 四十二 嚕里、河より十八 嚕里 離れたる處に在り、今 速納克 庫兒干と云ふ。斡自肯篤は、失兒 河の下流にあり、弗兒嘎納の兀自肯篤と異なり。拙赤の氈篤 養吉罕篤を取れるは、察合台 斡歌台の斡惕喇兒を破り、阿剌黑 等の闊氈篤に克ち、太祖︀の孛合喇に向へると大抵 同時にして、三路の軍は、各その使命を畢へたる後、大軍に會して共に撒馬兒罕を圍めり。親征錄 集史は、誤りて此等の戰を太祖︀ 十六年 辛巳の事としたれども、多遜は主吠尼に據り、一二二〇年(十五年 庚辰)の事とせり。

元史の重複

元史は「十五年庚辰春三月、帝克蒲華 城。夏五月、克尋思干 城」と云ひ、又「十六年辛巳春、帝攻卜哈兒 薛迷思干 等城、皇子 朮赤 攻養吉干 八兒眞 等城、竝下之」と云へり。庚辰の蒲華 尋思干は、前年 己卯の訛荅剌と共に、西游錄と譯字 全く同じければ、蓋 西游錄の原本に據りて書けるならん。今の西游錄は、盛如梓の節︀錄したるにて、全本に非ざれば、此等の記事なし。辛巳の卜哈兒 薛迷思干養吉干 八兒眞は、庚辰の也石的石(也兒的石の誤寫)斡脫羅兒と共に、親征錄に據れること甚 明なり。)そこに​チンギス カガン​​成吉思 合罕​は、​バラ​​巴剌​​マ​​待​たんと(この一句は、不都︀合 極まる聱疣なり。撒馬兒罕を取りて避暑︀したるは、十五年 庚辰の夏なり。巴嚕安 原に避暑︀して巴剌を待ちたるは、十七年 壬午の夏なり。

金寨嶺の避暑︀

​コガネ​​金​​トリデ​​寨​​ミネ​​嶺​なる​シヨルタン​​莎勒壇​​ナツヨケドコロ​​避暑︀處​​ナツヨケ​​避暑︀​して、(金の寨は、蒙語​アルタン ゴルカン​​阿勒壇 豁兒罕​土人は何と云ひしか、知らず。親征錄には「是夏、上駐軍於西域 速里壇 避暑︀之地」と云ひて、その秋 三皇子を玉龍傑赤に派遣したることを叙べ、「於是上進兵過鐵門關」と云ひ、喇失惕は「その夏、成吉思 汗は、撒馬兒罕の境內に駐まり、者︀別 速不台 脫噶察[313]兒を速勒壇を追ひに遣り、三皇子を兀兒堅只に遣り、その秋、拖雷 汗と共に納黑舍卜に往き、路路 游牧して帖木兒 合魯噶を過ぎたり」と云ひ、多遜は「撒馬兒罕に駐まれる時、徹別 速不台を派遣し、一二二〇年の夏 皆を撒馬兒罕と納黑舍卜との間に過し、その秋 三皇子を派遣せり」と云へり。謂はゆる金の寨は、納黑舍卜の邊に在りしなるべし。帖木兒 合魯噶は、鐵門關の蒙語なり。元史に「夏四月、駐蹕鐵門關」と云へるは誤れり。

鐵門關の地理

この鐵門關は、撒馬兒罕の南にある峽路にして、撒馬兒罕より往くに路二つあり。南に向ひ喀施を、過ぐるは順路にして、西南に向ひ納黑舍卜に廻れば遠し。太祖︀は、金の寨に避暑︀したる故に、納黑舍卜の路を通れり。

喀施

喀施は、魏書 西域傳の伽色尼 國にして、隋書 西域傳に「史國、都︀獨莫 水南云云。俗同康國。北去康國二百四十里、南去吐火羅五百里、西去那色波 國二百里」唐 西域記に「從颯秣建 國西南行三百餘里、至羯霜那 國、唐曰史國。土宜風俗、同颯秣建 國。」新唐書 西域傳に「史、或曰怯沙、曰獨霜那、居獨莫 水南。西百五十里、距那色波。南四百里、吐火羅 也。隋大業中築乞史 城。」那色波は、卽 納黑舍卜なり。伽色尼 羯霜那 佉沙 乞史は、皆 一音の轉にして、喀施なる名の原なり。亦奔 好喀勒は、北宋の初に始めて喀施の名を記し、西游記には碣石、明史 西域傳には渴石と書けり。元の時、巴嚕剌思 氏 世世この地を領し、駙馬 帖木兒 こゝに生れたり。その山川 淸麗なるが故に、舍里 薛卜思 卽 綠城の名あり。今は略きて舍勒と云ふ。城の傍を流るゝ小河 卽 隋書 新唐書の獨莫 水を今 喀施喀 荅哩牙と云ふは、古名 喀施の遺れるなり。

納黑舍卜

納黑舍卜は、魏書の那識波 國にして、新唐書に「那色波、亦曰小史、蓋爲史所役屬」とあり。亦奔好 喀勒は「納黑沙卜は、喀施の山より二日路 離れたる野に在り」と云へり。元史 地理志に那黑沙不とあり。察合台の五世の孫 客珀克 汗、そこに宮殿 卽 喀兒失を築きたる故に、後世はその地を喀兒失と云ふ。

玄弉の鐵門の記

鐵門關は、喀施の南 五十五 英里にあり。唐 西域記 羯霜那 國の條に曰く「從此西南行二百餘里入山。山路崎嶇、谿徑危險。旣絕人里、又少水草。東南山行三百餘里、入鐵門。鐵門者︀、左右帶山、山極峭峻。雖狹徑、加之險阻。兩傍石壁、其色如鐵。旣設門扉、又以鐵錮。多有鐵鈴、懸諸︀戶扇。因其險固、遂以爲名。出鐵門、至覩貨邏 國。」新唐書 史國の條に「有鐵門山、左右巉峭、石色如鐵。爲關、以限二國、以金錮闔」と云へるは、西域記の文を約めたるなり。阿喇必亞の地理家 牙庫必(唐の末の人)は、鐵門を珀兒沙 語にて荅哩 阿漢︀と云ひ、城市の名とせり。亦奔 好喀勒の納黑沙卜より帖兒蔑惕に至る紀行の中にも鐵門あり。額篤哩昔(南宋の初の人)は、鐵門に一小邑ありと云へり。西游記に、壬午の年、長春は、撒馬兒罕より「三月十有五日啓行、四日(卽 十八日)過碣石 城云云。過鐵門、東南度山。山勢高大、亂石縱橫。眾軍挽車、兩日(卽 二十日)方至前山。沿流南行。五日(卽 二十五日)至小河、亦船渡。七日(卽 二十七日)舟濟大河、卽 阿母 沒輦 也。」一三九八年(明の洪武 三十一年)の春、駙馬 帖木兒、印度より師を班せる行程を

舍哩弗丁の紀行

舍哩甫 額丁の叙べたるに據れば、帖木兒は、阿木 河を渡りて、帖兒篾惕に二日 駐まり、三日 行きて、科魯噶(卽 鐵門)を過ぎ、巴哩克 河の邊に宿り、又 五日 行きて、喀施に入りたり。速勒壇 巴別兒も、鐵門を科魯噶と云へり。歐囉巴 人にて鐵門の事を記せるは、克剌腓卓より始れり。

克剌腓卓の紀行

一四〇四年(明の永樂 二年)、克剌腓卓は、喀思提勒の王 顯哩 第三の命を奉じて、帖木兒の朝に使せり。西曆 八月 二十二日、帖兒篾惕を發し、二十四日 河の岸に近き野に宿り、二十五日 高山の下に至れり。その山に鐵門と云ふ峽路あり。路傍の石壁は、人工にて削りたるが如く見え、山は兩方ともに甚 高く、路は平にして甚 深し。峽路の半に村あ[314]り、村の後の山 甚 高し。鐵門の外に通路なき故に、この路は、撒馬兒罕の南方の要害なり。印度より來る商人は、皆こゝを通る故に、帖木兒 伯克は、こゝにて關稅を多く收め得るなり。土人 曰く

門なき鐵門

「昔はこの峽路に鐵もて裹める大門ありき」と云へり。それより三日 行き、二十八日に喀施の大城に達したり。明史 西域傳に「渴石 西(南の誤)三百里、大山屹立、中有石峽。行二三里出峡口、有石門、色如鐵、番人號爲鐵門關。」蓋 元明 以來 鐵門は峽路の名となり、眞の關門なくなれるなり。克剌腓卓の後 四百七十一年の閒、歐囉巴 人この地に入らざりしが、

​マエフ​​馬也甫​の記

一八七五年(淸の光緖 元年、我が明治 八年)嚕西亞の陸軍 少佐 馬也甫は、阿木河 上游の右岸の地を探らんが爲に、喀兒失より拜孫に赴ける時、察克察 河の廣き溪を過ぎたれば、名高き鐵門の峽は目の前に現れたり。土人は今 不自果剌 合納(山羊の舍)と呼ぶ。峽の北の口に近き所にて、沙勒撒卜思(喀施)よりの路と喀兒失よりの路と合ふ。一八七八年(明治十一年)嚕西亞の將軍 思脫列脫甫は、阿富噶尼思壇の額米兒に使する路に鐵門を過ぎ、

​ヤボルスキ​​牙佛兒思奇​の紀行

隨行せる軍醫 牙佛兒思奇は、その「阿富噶尼思壇 孛合喇 紀行」に峡路の事を委しく述べたり。嚕西亞の突︀兒其思壇 大圖に據れば、峡路の長は一半 英里にして、西北より東南に向ひ、分水嶺を橫斷せり。畫の如き懸崖は路を挾み、峽の廣 三十步、或る處にてはたゞ五步なり。察克察 河は西北に流れ、北の口を出でて北に曲る。南の口の外に搠喇卜 小河あり。そこにて路 分れ、本道は東に曲り、口より五 英里ばかり離れたる所に迭兒邊篤あり、それより拜孫 希撒兒に至る。險しき細路は、南の方に別れ、失喇巴惕 阿木 河に至る。​トルイ​​拖雷​​トコロ​​處​​ツカヒ​​使​​ヤ​​遣​りぬ。(この事も、前の事と續かず。速勒壇の避暑︀處に避暑︀したるは、拖雷も一處にて、十五年 庚辰の夏なり。

​トルイ​​拖雷​の凱旋

拖雷を召し歸したるは、十六年 辛巳の春 太祖︀の軍 塔列干を圍み居る時なり。)「〈[#直前の「開き鍵括弧」は底本では「開き角括弧」。昭和18年復刻版に倣い修正]〉​トシ​​年​ ​アツ​​熱​くなりぬ。​ホカ​​別​​イクサ​​軍​どもは、​ゲバ​​下馬​するぞ。​ナンヂ​​汝​​ワレラ​​我等​​トコロ​​處​​クワイ​​會​せよ」と​ノリタマ​​宣​ひて​ヤ​​遣​りたれば、​トルイ​​拖雷​は、​イル​​亦嚕​ ​イセブル​​亦薛不兒​ ​ラ​​等​​シロ​​城​どもを​ト​​取​りて、​システン​​昔思田​​シロ​​城​​ヤブ​​破​りて、​チユクチエレン​​出黑扯嗹​​シロ​​城​​ヤブ​​破​​ヲ​​居​​トキ​​時​​ツカヒ​​使​はこの​ミコト​​言​​イタ​​致​したれば、​トルイ​​拖雷​は、​チユクチエレン​​出黑扯嗹​​シロ​​城​​ヤブ​​破​ると、​カヘ​​回​​ゲバ​​下馬​して​キ​​來​て、​チンギス カガン​​成吉思 合罕​​クワイ​​會​しぬ。(

親征錄 ​ラシツド​​喇失惕​ ​ドーソン​​多遜​ 三書の異同

親征錄に曰く「上進兵過鐵門、[遣]四太子、攻也里 泥沙兀兒 等 處城。上親克迭兒密 城、又破班勒紇 城、圍守 塔里[寒]寨。冬、四太子又克馬魯察葉可 馬盧 昔剌思 等城、復進兵。壬午春、又克徒思 慝察兀兒 等城。上以暑︀氣方隆︀、遣使招四太子速還。因經木剌夷 國大掠之、渡搠搠蘭 河、克野里 等城。上方攻塔里[寒]寨、朝覲畢、幷兵攻之。」喇失惕 曰く「蛇の年の秋、成吉思 汗は、帖木兒 合魯噶を過ぎ、拖雷 罕を闊喇散を平げに遣り、自ら帖兒篾似を攻め破り、撒曼に至り、軍を分け遣りて巴荅黑商を收め、只渾 河を渡り、翌年の春、巴勒黑を屠り、塔列干の寨を取り、又 奴思咧惕庫を攻めたれども、七月の間 下らず。拖雷 罕は、篾嚕察克の路を經て、篾嚕を取り、你沙不兒に至り、薛喇黑思 捏撒 禿思 札只㘓 等を取り、你沙不兒を取[315]れり。成吉思 汗は、塔列干より拖雷 罕に大暑︀の前に回れと云ひ遣りぬ。拖雷 罕は庫希思壇より庫姆者︀㘓 河を過ぎ、赫喇惕を取りて、回りて成吉思 汗に見え、兵を合せて、塔列干の堅き寨を攻め下し、この夏 全軍 塔列干に駐まれり。」多遜 曰く「一二二〇年の秋、成吉思 汗は、帖兒篾惕を攻め破り、薛曼に至り、軍を分け遣りて巴荅黑商を收め、拖雷を闊喇散を平げに遣り、一二二一年の春、只渾 河を渡り、巴勒黑を屠り、塔列干の山地に入り、奴思咧惕庫の寨を攻む。この寨は、先に將を遣り攻めさせたれども、六月の閒 下らざりしが、大軍 至りて攻め破れり。その夏は、塔列干に避暑︀せり。拖雷は、脫噶察兒を前鋒として、闊喇散に入りたり。脫噶察兒は、捏撒を屠り、一二二〇年の十一月、你沙不兒を攻めて戰死せり。一二二一年の二月、拖雷は、安篤恢を下し、馬嚕 沙希展を屠り、薛兒主克の速勒壇 散札兒の墓を發き、你沙不兒を砲撃して、その民を屠り、別軍を遣り、禿思に近き合里發 哈㖮 阿勒 喇失惕の墓を毀り、拖雷は、庫希思壇を荒し、赫喇惕を破り、塔列干に往き父に會せり。」

​テルメト​​帖兒篾惕​

錄の迭兒密は、喇失惕の帖兒篾似、多遜の帖兒篾惕にして、漢︀書 西域傳の都︀密、唐 西域記 新唐書 西域傳の呾蜜なり。元史 地理志に忒耳迷、薛 塔剌海︀の傳に帖里麻、通鑑 綱目に帖力迷とあり。帖兒篾惕の名は、費兒都︀昔の詩史に見え、亦思塔黑哩は、孛合喇 撒馬兒罕より(鐵門を經)巴勒黑に往く路にありと云へり。駙馬 帖木兒は、撒馬兒罕より巴勒黑に往く時、常に帖兒篾似にて阿木 河を渡れり。今 鐵門より巴勒黑に往く路の渡津は、それより西に移れり。嚕西亞の地圖に、帖兒篾似の遺址は、阿木 河の北岸にて速兒合卜 河の汭の西北 十一 英里ばかりにあり、巴勒黑の東北に當れり。

​バルク​​巴勒黑​

錄の班勒乾は、西史の巴勒黑にして、西游記に班里、西游錄に班城、元史 地理志に巴里黑、察罕の傳に板勒乾、明史 西域傳に把力黑とあり。速不台の傳なる必里罕、曷思麥里の傳なる阿剌黑も、巴勒黑の訛なるべし。この地は、いと古き名城にして、希臘の史家に據れば、古は巴克惕喇と名づけ、その州を巴克惕哩牙納と云へり。漢︀書の撲挑、後漢︀書の濮達、魏書の薄羅 薄提は、皆 巴克惕喇の訛略、周書の拔底延、新唐書の縛底野は、皆 巴克惕哩牙納の訛略なり。唐 西域記に「縛喝︀ 國、北臨縛芻 河。國大都︀城、周二十餘里、人皆謂之小王舍城也」とある縛喝︀は、卽 巴勒黑にして、巴勒黑の名の物に見えたる始なり。巴勒黑の落城は、喇失惕も多遜も、河閒 征服の年の翌年とすれども、下文に塔列干を落すに六七月かゝれりとあるに據れば、阿木 河を渡り、巴勒黑を取るは、その前年にあらざるべからず。親征錄に「破班勒紇 城、圍守 塔里[寒]寨〈[#返点の「一」と「寒」の括弧は底本では、なし。本節︀前述の同文に倣い修正]〉」を河閒 征服の年(辛巳は庚辰の誤)の秋の內に書きたるは、全く事實なるを、喇失惕は偶 誤りて翌春に移せり。察罕の傳に「察罕、西域 板勒乾 人也。父 伯德那、歲庚辰、國兵下西域、擧族來歸」とあるも、庚辰の年 巴勒黑 落ちたる時 擧族 歸附したるなり。

​タレカン​​塔列干​

錄の塔里寒は、西史の塔列干にして、巴勒黑の東に當れる坤都︀似の東邊にあり。古は泰干とも呼び、亦思塔黑哩の地理書に、巴勒黑の東、巴荅黑商に近く、脫合哩思壇の都︀ 泰干ありと云へり。中世の阿喇必亞 地理家は、巴勒黑の西、巴勒黑と篾嚕 阿勒 嚕篤(篾嚕察克)との間にも塔里干ありて、篾嚕 阿勒 嚕篤に屬せりと云ひ、脫合哩思壇にあるをば塔亦干と云ひたれども、額篤哩昔は、二つともに塔里干と云へり。唐 西域記の呾剌健、元史 地理志 經世 大典の圖にある塔里干は、西にあるものなり。東にある塔里干は、地理志にも見えざれども、馬兒科 保羅は、巴勒黑より東に十二日 行きたる時 泰干と云ふ寨に至れりと云へるは、この寨なり。一八三八年(天保 九年)烏篤そこを尋ねて、さびしき村なりと云へり。喇失惕(別咧津の譯せる)に據れば、塔列干の寨[316]の外に堅き案ありしが如くなれども、多遜に據れば、奴思咧惕庫は卽 塔列干の寨なり。錄に只 塔里寒 寨とあれば、恐らくは別咧津の誤れるならん。

​メルチヤク​​篾嚕察克​

錄の馬魯察葉可は、喇失惕の篾嚕察克にして、古くは篾嚕 阿勒 嚕篤と云へり。阿喇必亞の地理家に據れば、馬嚕 又は篾嚕と云ふ所 二所あり。大なるを篾嚕 沙希展と云ひ、その屬邑を篾嚕 阿勒 嚕篤と云ひ、共に篾嚕 嚕篤(木兒噶卜)河の濱に在りき。今も篾嚕察克と云ひて、篾兒甫の東南 百十 英里、嚕西亞 阿富汗の界に近き所に在り。

​メル​​篾嚕​

錄の馬盧は、西史の篾嚕 卽 馬嚕 沙希展にして、今の篾兒甫なり。篾嚕は古き名城にして、漢︀書 西域傳に「安息東界 木鹿 城、號爲小 安息」とあり。中世は闊喇散 四大城の一となれり。新唐書 大食の傳に呼羅珊 木鹿とあるは、闊喇散の篾嚕なり。

​サラクス​​撒喇黑思​

錄の昔剌思は、西史の薛喇黑思 又は撒喇黑思にして、元史 地理志に撒剌哈西とあり。遺址は、篾兒甫の西南、赫哩 嚕篤 河の東岸に在り、嚕西亞に屬せり。西岸に新 撒喇黑思と云ふ堡あり、珀兒沙に屬せり。

​ネサ​​捏撒​

西史の捏撒は、薛喇黑思の西北、禿思の東北に在り。

​トス​​禿思​

錄の徒思は、西史の禿思にして、元史 地理志に途思とあり。思思は、名高き古城にして、名君 哈㖮 阿勒 喇失惕はこゝに崩じ、詩人 費兒都︀昔 星學の大家 納思咧丁はこゝの人なりき。遺址は、篾舍惕の西北 十七 英里にあり。錄の泥沙兀兒 恩察兀兒は、祕史の亦薛不兒、西史の你沙不兒、前の注に見えたり。祕史の昔思田は、西史の昔思壇 又 薛亦思壇なり。然れども昔思壇に入りたるは、拖雷の兄 斡歌歹 明年 壬午の事なれば、この昔思田は、庫希思壇の誤なるべし。

​ムラヒダ​​木剌希荅​

錄の木剌夷は、元史 太祖︀紀は同じく、太宗紀に木羅夷、憲宗紀に沒里奚、郭侃の傳に木乃兮、常德の西使記に木乃奚とあり。正しくは木剌希荅にして、國の名に非ず、抹哈篾惕 敎徒の一派より成れる部落の名なり。亦思馬額勒を祖︀とするが故に、亦思馬額勒 宗徒とも云ふ。元史 譯文 證補に木剌夷 補傳ありて、その興亡を委しく述べたり。裏海︀の南なる額勒不兒思 連山の城寨に據り、その領土は庫希思壇の地に及べり。故に拖雷の庫希思壇を荒せることを錄に木剌夷を掠むと云へり。

​チユクチエレン​​出黑扯嗹​

出黑扯嗹の城は、喇失惕の札只㘓なり。錄の搠搠蘭 河は、舍哩弗丁の「咱弗兒 納篾」に見えたる卓克卓㘓 河にして、出黑址嗹と音 近ければ、地の名を取りて河に名づけたるものなるべし。咱弗兒 納篾に據れば、この河は、你沙不兒より安篤恢に往く路にて、木兒噶卜 河の西にあり。然らば赫哩 嚕篤 河の異名なるべし。喇失惕の庫姆者︀㘓 河も、赫哩 嚕篤 河の外にはあるまじ。名のわけは知らず。錄の也里 野里は、祕史の亦嚕、西史の赫喇惕、前の注に見えたり。


§260(11:44:03)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年) Open original book in Wikimedia


三皇子の我儘

 ​ヂユチ​​拙赤​ ​チヤアダイ​​察阿歹​ ​オゴダイ​​斡歌歹​ ​ミタリ​​三人​​ミコ​​子​だちは、​オロンゲチ​​斡嚨格赤​​シロ​​城​​クダ​​降​して、​ミタリ​​三人​にて​シロ​​城​​タミ​​民​​ワカ​​分​​ア​​合​ひて、​チンギス カガン​​成吉思 合罕​​ワケマヘ​​分前​​イダ​​出​さざりき。(剌失惕 曰く「斡歌台は、軍を統ぶることを命ぜられ、二人の兄に和解せしめたれば、軍 又 振ひ、力を合せて攻め落し、民を分けて軍士に與へ、一人にて二十四人づつを得たり」とありて、太祖︀に民を分たずとはなし。)この​ミタリ​​三人​​ミコ​​子​だち​ゲバ​​下馬​して​キ​​來​ぬれば、

太祖︀の怒り

​チンギス カガン​​成吉思 合罕​は、​ヂユチ​​拙赤​ ​チヤアダイ​​察阿歹​ ​オゴダイ​​斡歌歹​[317] ​ミタリ​​三人​​ミコ​​子​だちを​トガ​​咎​めて​ミカ​​三日​ ​マミ​​見​えさせざりき。(親征錄に「三太子克玉龍傑赤 城、大太子還營所。寨(塔里寒)破後、二太子三太子始歸朝覲」と云ひ、喇失惕も「察合台 斡歌台は、闊喇自姆より來て成吉思汗に見え、拙赤は、闊喇自姆より行李を挈へて去れり」と云ひて、拙赤の去れる所 明ならざるを、多遜は、昔渾 河の北なる地方に殘れりと云へり。然れども拙赤いかに狼戾なりとも、軍に擁して外に駐まり太祖︀に會せざることは、事情に於てあるべからざることなれば、原本 祕史の非にして修正 祕史の是なりとも定め難︀し。)そこに​ボオルチユ​​孛斡兒出​ ​ムカリ​​木合黎​ ​シギ クドク​​失吉 忽都︀忽​この三人の內、失吉 忽禿忽の軍中に居りしことは、論なし。字斡兒出は、外に見えざれども、西游記に、壬午の三月 十五日、長春 邪米思干を出立ちて、十八日 碣石 城を過ぎたる時、「預傳聖旨、令萬戶 播魯只、領蒙古 回乾 軍一千護送、過鐵門」とあり。播魯只は、卽 孛斡兒出なり。只 木合里は、太祖︀ 十二年 八月、太行 以南 經略の命を蒙りてより、十三年には河東に入り、十四年も河東に戰ひ、十五年 河北を定め、十六年 河西に入り、十七年 風翔を攻め、十八年 三月薨じて、西征の師には從はざれば、ここに木合里を加へたるは、誤りなり。

三大臣の諫言

​ミタリ​​三人​ ​マウ​​奏​さく「​マツロ​​服​はざりし​サルタウル​​撒兒塔兀勒​​タミ​​民​​シヨルタン​​莎勒壇​​コトム​​平​けて、​カレ​​彼​​シロ​​城​どもの​タミ​​民​​ト​​取​れり、​ワレラ​​我等​​ワカ​​分​けて取らるゝ​オロンゲチ​​斡權格赤​​シロ​​城​も、​ワ​​分​​ア​​合​ひて​ト​​取​​ミコ​​子​だちも、​スベ​​都︀​​チンギス カガン​​成吉思 合罕​のものなり。​アマツカミ​​皇天​ ​クニツカミ​​后土​​チカラ​​力​​ソ​​添​へられて、​サルタウル​​撒兒塔兀勒​​タミ​​民​をかく​コトム​​平​けたる​トキ​​時​​ワレラ​​我等​​ナガミコト​​爾​のあまたの​ヲトコ​​男​ ​センバ​​騸馬​ ​ヨロコ​​歡​びて​マカイ​​馬孩​動詞なれとも譯する能はず)てあり。​カガン​​合罕​は、​ナン​​何​ぞかく​イカ​​怒​りて​イマ​​在​せる。​ミコ​​子​だちは、​アヤマチ​​過​​サト​​悟​りて​オソ​​畏​れたるぞ。​ノチ​​後​​イマシ​​戒​めよ。[​シカ​​然​らずば]​ミコ​​子​だちは、​セイカウ​​性行​​オコタ​​怠​らん。​オンシ​​恩賜​せば​マミ​​見​えさせば​ヨ​​可​からん」と​マウ​​奏​したれば、​チンギス カガン​​成吉思 合罕​ ​イカ​​怒​ ​ヤ​​息​みて、

太祖︀の訓誡

​ヂユチ​​拙赤​ ​チヤアダイ​​察阿歹​ ​オゴダイ​​斡歌歹​ ​ミタリ​​三人​​ミコ​​子​だちを​マミ​​見​えさせて​コヱ​​聲​​イダ​​出​し、​オキナラ​​翁等​​斡脫古思​​コトバ​​辭​​ヒ​​引​​斡兒乞惕​きて、​フル​​舊​​合兀臣​​コトバ​​辭​​タヅ​​尋​​合荅勒​ねて、​タ​​立​​巴亦黑三​ちたる​トコロ​​地​​タフ​​仆​​巴黑塔阿勒荅​るゝまで、​ヒタヒ​​額​​莽來​​アセ​​汗​​ヌグ​​拭​​阿兒臣​​ア​​敢​へぬまで​ノ​​陳​べて、​ケンセキ​​譴責​により​ケウクン​​敎訓​により​サト​​諭​して​イマ​​在​せる​トキ​​時​[318]

​ゴルチ​​豁兒赤​ 三人の建議

​コンカイ ゴルチ​​晃孩 豁兒赤​​コンタカル ゴルチ​​晃塔合兒 豁兒赤​ ​シユルマカン ゴルチ​​搠兒馬罕 豁兒赤​、この​ミタリ​​三人​​セントウシ​​箭筒士​は、​チンギス カガン​​成吉思 合罕​​マウ​​奏​さく「​ヒナ​​雛​なる​タカ​​鷹​​テウシフ​​調習​にやつと​イ​​入​りたる​ゴト​​如​く、​ミコ​​子​だちはやつとかく征伐を​マナ​​學​​ヲ​​居​​トキ​​時​​ミコ​​子​だちを​シリゾ​​退​くるが​ゴト​​如​くいかんぞかく​シカ​​叱​りませる。​ミコ​​子​だちは​オソ​​懼​れて​コヽロ​​心​​オト​​落​さん。​ヒ​​日​​イ​​沒​​トコロ​​處​より​イ​​出​づる​トコロ​​處​​イタ​​至​るまで​テキ​​敵​​タミ​​民​あり。​ワレラ​​我等​​トボドト​​脫孛都︀惕​​イヌ​​狗​どもを​ケシカ​​嗾​けて​ヤ​​遣​らば、​テキ​​敵​​タミ​​民​を、​ワレラ​​我等​​アマツカミ​​皇天​ ​クニツカミ​​后土​​チカラ​​力​​ソ​​添​へられて、​コガネ​​金​ ​シロカネ​​銀​ ​タンモノ​​段物​ ​タカラ​​財​ ​タミ​​民​ ​ヂウグ​​住具​​ナガミコト​​爾​​モ​​持​​コ​​來​ん。(脫孛都︀惕は、脫孛惕の複稱にして、明譯に西蕃とあり。脫孛惕は、唐書の吐蕃、今の圖伯特 卽 西藏の民なり。

​トベト​​禿別惕​の名稱

吐蕃は、蓋 禿孛篤(篤は惕の濁音)を音譯せるなり。宋 遼 金 元の諸︀史、皆 吐蕃 又は土蕃の字を用ふれども、遼の興宗 重熙 十七年「鐵不得 國遣使來、乞本部軍助攻夏國、不許」と云へること、遼史 本紀 兵衞志 屬國表の三所に見えたり。この鐵不得は、卽 禿孛篤の轉なり。又 道宗紀に見えたる陳王 塗孛特 遊幸表に見えたる圖不得 泉を、殿本は皆 圖伯特と改めたり。國の名を取りて人の名 泉の名としたるにやあらん。經世 大典の圖には土伯特とあり、全く今の音に同じ。嚕卜嚕克 馬兒科 保羅は、帖別惕と云ひ、喇失惕は、禿卜別惕と云へり。亦奔 忽兒荅惕必馬速的を始として阿喇必亞の地理家は大抵 梯別惕と云ひし故に、今もその名にて世に聞ゆ。されどもその國人は、禿孛篤の名を忘れて、今は自ら孛篤の國と云ふ。脫孛都︀惕の狗は、蒙古人の雄雄しく猛きに譬へたるなり。禿別惕の國に驢馬ほど大なる猛き狗ありて、野牛を捕へ、豹と鬭ふことは、大佐 裕勒の馬兒科 保羅 紀行の第四十六章とその證注とに見ゆ。

​バグダド​​巴固荅篤​​ハリフア​​合里發​

その​タミ​​民​​イ​​云​へば、この西に​バクタト​​巴黑塔惕​​タミ​​民​​カリベ シヨルタン​​合里伯 莎勒壇​​イ​​云​へるありと​イ​​云​へり。(巴黑塔惕は、巴固荅篤の訛にして、抹哈篾惕 敎徒の宗主なる合里發の都︀なり。趙汝适の諸︀蕃志に白達、元史 憲宗紀に八哈塔、地理志に八吉打とあり。郭侃の傳 常德の西使記に報達とあるは、馬兒科 保羅の巴兀荅思と呼べるに音近し。合里伯は、合里發の訛にして、西使記に哈里法とあり。憲宗紀に三年 六月「命諸︀王 旭烈兀 及 兀良合台 等、帥師征西域 哈里發 八哈塔 等國、」八年 二月「諸︀王 旭烈兀、討回回 哈里發之、禽其王」とあるは、哈里發を國の名と誤りたるが如く聞ゆ。合里發は、英吉利思語に喀里甫と云ふ。

​スルタン​​速勒壇​の號の濫用

莎勒壇は、卽 速勒壇にて、合里發の册封を受けたる諸︀侯王の號なれば、合里發の下に附けたるは、誤れり。然れどもこの誤りは、祕史のみならず、元史 郭侃の傳にも合里法 筭灘とあり。蒙古人は、速勒壇の號を西域の君長 誰にも附くものと思へりと見えて、郭侃の傳に、木乃兮(木剌希荅)の將 忽[319]都︀荅而 兀朱 筭灘、乞都︀卜(吉兒篤庫)の兀魯兀乃 筭灘(囉克捏丁)、兀里兒の海︀牙 筭灘、阿剌汀(阿剌 額丁の領地)の禡拶荅而 筭灘、乞石迷(喀什米兒)の忽里 筭灘、天房(阿喇必亞)の巴兒筭灘(額只魄惕の將 別伊巴兒か)、密昔兒(米思兒、卽 額只魄惕)の可乃 筭灘(可刀の誤か、速勒壇 屈突︀思)、富浪(富㘓克)の兀都︀ 筭灘、石羅子(發兒思の都︀ 失喇思)の換斯干 阿荅畢 筭灘(西使記 擙〈[#「てへん+奥」は底本では「木+奥」。www.bjdclib.comの古代服飾文献に倣い「てへん+奥」に修正]〉思 阿塔卑、阿塔卑は發兒思の君の爵)。賓︀鐵(國の名に非ず、印度の產物)の加葉 筭灘、兀林の阿必丁 筭灘、乞里彎(彎は蠻の誤、客兒曼)の忽都︀馬丁 筭灘(科惕別丁)などあり。巴固荅篤の興亡の事は、洪鈞の報達 補傳に見ゆ。)それらの​トコロ​​處​​ワレラ​​我等​ ​シユツセイ​​出征​せん」と​マウ​​奏​しければ、​カガン​​合罕​ ​サト​​悟​りて、この​コトバ​​言​​イカリ​​怒​ ​ヤ​​息​みて、​チンギス カガン​​成吉思 合罕​​ヨ​​可​しとして​ミコト​​勅​あり、​コンカイ​​晃孩​ ​コンタカル​​晃塔合兒​ ​シユルマカン​​搠兒馬罕​ ​ミタリ​​三人​​セントウシ​​箭筒士​​オンシヤウ​​恩賞​して、​アダルギン​​阿荅兒斤​​コンカイ​​晃孩​​ドロンギル​​朶龍吉兒​​コンタカル​​晃塔合兒​ ​フタリ​​二人​を「​ワ​​我​​マヘ​​前​​ヲ​​居​れ」[とて​トヾ​​畱​めて]、

​シユルマカン​​搠兒馬罕​の出征

​オテゲダイ​​斡帖格歹​​シユルマカン​​搠兒馬罕​​バクタト​​巴黑塔惕​​タミ​​民​​トコロ​​處​​カリベ シヨルタン​​合里伯 莎勒壇​​トコロ​​處​​シユツセイ​​出征​せしめたり。(朶龍吉兒の姓、始めてこゝに見ゆ。親征錄 元史 十三翼の戰の後に朶郞吉 部 來降の事あり、卽 朶龍吉兒なり。喇失惕は、者︀剌亦兒の分部 朶郞吉と云ひて、者︀剌亦兒 十部の一とし、錄の朶郞吉 札剌兒 部もその意なるを、元史に「若朶郞吉、若札剌兒」と二部に分けたるは非なり。斡帖格歹の姓は、外に見えず。輟耕錄 蒙古 七十二種の中に合忒乞歹とあるは、やゝ似たり。搠兒馬罕は、次の卷に綽兒馬罕とあり多遜は察兒抹昆と云ふ。親征錄 元史 本紀にはこの人 見えざれども、曷思麥里の傳に西域の大師 察罕とあるは、列傳 第七なる唐兀惕の察罕に非ずして、察兒馬罕の中略なり。又 續 通鑑 綱目 宋の理宗 寶祐︀ 六年(憲宗 八年)の條に

​チヤマ ノヤン​​抄馬 那顏​の誤解

「初 蒙古 遣宗王 旭烈西域。至是以抄馬 那顏 郭侃統諸︀軍、前後平西域 乞石迷 十餘國、轉鬭萬里」とある抄馬 那顏を卜咧惕施乃迭兒は察兒抹昆なりと云ひたれども、察兒抹昆は、旭烈兀 西征の前 太宗 十三年に死したれば、旭烈兀の下に働くべき由なし。續綱目は何に據れりやと、郭侃の傳を見れば、「壬子、送兵仗和林、改抄馬 那顏、從宗王 旭烈兀西征」とあり。この抄馬は、人の名に非ず。侃の祖︀父 郭寶玉の傳に、寶玉はもと金の將にて、野狐嶺の大敗の時、軍を率ゐて蒙古に降りて「授抄馬 都︀鎭撫、」太祖︀ 八年「復帥抄馬、從錦州燕、」侃の父 郭德海︀の傳に「大軍至、乃出降、爲抄馬 彈壓、從先鋒 柘柏西征」などありて、抄馬は、降附の軍の名、抄馬 都︀鎭撫 抄馬 彈壓 抄馬 那顏は、皆 官名なり。郭侃は、初 百戶となり、次に千戶に進み、今 改められて抄馬 那顏 卽 抄馬の長官となれり。續綱目の文は、郭侃の上に官名を冠したるなりけり。多遜に據れば、察兒抹昆の西征は、太宗 二年の事なれども、太祖︀の時にも「徹別 速不台の高喀速 山を越えたる後、又 蒙古の軍 三千人 東より來て、闊喇自姆の潰兵の聚れる喇亦の城を破り、撒哇 庫姆 喀山を荒し、西は哈馬丹を焚き、阿在兒拜展に入り、喇亦の逃眾を敗り、その帖卜哩似に逃れたる者︀をば、阿在兒拜展の酋長に命じて縛り送らしめて、東に返れり」と云ひ[320]て、その將の名なし。祕史なる綽兒馬罕の西征は或は卽この軍ならんと洪鈞も云へり。


§261(11:49:01)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年) Open original book in Wikimedia


​ドルベ ドクシン​​朶兒伯 朶黑申​の出征

 ​マタ​​又​ ​ヒンドス​​欣都︀思​​タミ​​民​ ​バクタト​​巴黑塔惕​​タミ​​民​ ​フタ​​二​つの​アヒダ​​閒​なる​アル​​阿嚕​ ​マル​​馬嚕​ ​マダサリ​​馬荅撒哩​​タミ​​民​​アブト​​阿卜禿​​シロ​​城​​ドルベト​​朶兒別惕​​ドルベ ドクシン​​朶兒伯 朶黑申​​シユツセイ​​出征​せしめたり。(

印度の名稱

欣都︀思は、欣都︀の蒙語 複稱なり。古名は信度と云ひ、信度 河より出でたり。後 轉じて欣都︀となり、又 轉じて印度となれり。史記 漢︀書の身毒は卽 信度、高僧︀傳の捐毒 賢豆は卽 欣都︀なり。天竺も、信度の轉訛にして、山海︀經には天毒、漢︀書には天篤ともあり。後漢︀書 以後は、天竺の字 多く用ひられたり。竺も、古音は篤なり。珀兒沙 人の欣都︀思壇と云ふは、欣都︀の國と云ふことなり。歐囉巴 人の因的亞と云ふは、印度の喇甸語なり。親征錄には忻都︀、元史 憲宗紀には身毒とも欣都︀思ともあり。阿嚕は、前文の亦嚕にして、今の赫喇惕は、中世 赫哩とも哈哩とも云ひ、赫哩は額哩とも亦嚕とも訛りたれば、阿嚕は哈哩の訛れるなるべし。馬嚕は、篾嚕 沙希展、今の篾兒甫なり。馬荅撒哩 阿卜禿は、考へ得ず。地は三つにして城一つなるも、異むべし。朶兒伯 朶黑申は、禿馬惕を平げたる人にて、卷十に見えたり。この西征の役には、親征錄にその名 見えざれども、集史には朶兒伯とありて巴剌 那顏と同じく、者︀剌列丁を追ひに印度に入りたりとなせり。又 多遜 曰く「者︀剌列丁の敗れたる後、亦勒赤喀歹は命を受けて、叛きたる赫喇惕を討じ、六月 圍みて、一二二二年(太祖︀ 十七年)の六月 始めて攻め落して、その眾を屠り、この外に篾嚕も再 侵掠せられたり」と云へり。本書に依れば、朶兒伯は、印度に入りたるに非ずして、赫喇惕 篾嚕を攻めたるは、卽 朶兒伯なるに似たり。


§262(11:49:05)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年) Open original book in Wikimedia


​カングリン​​康鄰​ 卽ち康克里

 ​マタ​​又​ ​スベエタイ バアトル​​速別額台 巴阿禿兒​​キタ​​北​なる​カングリン​​康鄰​康鄰は、漢︀代の康居の遺種にして、抹哈篾惕 敎徒の記錄には、康喀里 又は康克里と呼び、第十三 世紀の初には、牙亦克(兀喇勒) 河の東、闊喇自姆の湖(鹹海︀)の北なる廣き荒野に住めりと云ひ、阿不勒噶資に據れば、成吉思 汗の卽位の頃、康克里の領地は、逸︀昔 郭勒の湖 楚 河 塔剌施(塔喇思) 河まで東に及べり。第十三 世紀の中ごろに、歐囉巴の高僧︀ 二人、その地を過ぎて、紀行に載せ、その民の名を普剌諾 喀兒闢尼は康吉台と云ひ、嚕卜嚕克は康勒と云へり。嚕西亞の史に珀徹捏固と云へるは、卽 康克里なりと信ぜらる。元史には康里と云ふ。康里の名は、已に金史に見え、忠義 傳 粘割 韓奴の條に、大定 年中 康里の部長 孛古 內附の事あり。康克里 人は、武勇 勝れし故に、蒙古に事へて名臣となれる人 甚多く、元史に專傳ある者︀十三人あり。

​キブチヤウト​​乞卜察兀惕​ 卽ち​キプチヤク​​乞魄察克​

​キブチヤウト​​乞卜察兀惕​乞卜察兀惕は、乞卜察克の複稱にして、卷八に欽察兀惕とあり、元史には欽察と云へり。黑海︀ 高喀速山 裏海︀の北、今の嚕西亞の南部なる荒野に住める部族にして、抹哈篾惕 敎徒の史家 地理家は、乞魄察克 又は迭施惕 乞魄察克と云へり。迭施惕も乞魄察克も、荒野の義なりと云ふ。額篤哩昔は、第十二 世紀の中ごろ(南宋の初)に、突︀兒克 諸︀部を數へ擧げて、その一を乞甫察克と云へり。西游錄に「印度 西北、有可弗又 國、數千里皆平川、無復丘垤、不城邑。民多羊馬、以蜜爲釀」と云へるも、この國を云へるなるべし。嚕西亞 人は、玻羅物次と云ひ、第十一 世紀の半(北宋の中頃)よりその記錄に見ゆ。嚕西亞の史家は、玻羅物次を平野[321]の義と解せり。他の歐囉巴 人は、庫曼 又は科曼と云へり。卜咧惕施乃迭兒 曰く「この名は、喀思闢の海︀に流れ入る庫馬 河より出でたりと見ゆ。」普剌諾 喀兒闢尼 嚕卜嚕克 小 阿兒篾尼亞の海︀團 馬兒科 保羅みな科曼と呼び、その國を科馬尼亞と云へり。欽察の人にて元史 列傳に列したる者︀は、名將 土土哈 以下 專傳 七人 附傳 三人あり。

​バヂギト​​巴只吉惕​ 卽ち​バシケルド​​巴施客兒篤​

​バヂギト​​巴只吉惕​巴只吉惕は、巴施客兒篤の訛にして、康克里の北 佛勒噶 河の東に住みたる部族なり。今も巴施乞兒と云ひ、その地方に猶 住めり。卜咧惕施乃迭兒は、乞卜察兀惕 巴只吉惕を乞卜察 兀巴只吉と讀みて、「兀巴只は、高喀速の西部 黑海︀の東濱に今も住める斡別資 阿巴資 又は阿卜合資ならん」と云へり。〈[#直前の句点は底本では、なし]〉蓋 祕史の帕剌的兀思 本には、乞卜察兀 巴只吉の下なる細字 旁書の惕の字 脫ちたる故に、卜咧惕施乃迭兒は、乞卜察兀の兀の字を巴只吉の上に附けて、兀巴只吉と誤りたるなり。巴只吉の上に兀の字なしとすれば、斡別資には似ずして、巴施客兒篤に近し。巴施客兒篤は、又 巴施庫兒篤とも云ふ。九二一年(梁帝 友貞 龍德 元年)合里發 木克帖的兒の命を奉じて、佛勒噶 河の畔に居る不勒噶兒を敎化せんが爲に派出したる亦奔 拂自闌の紀行に巴施庫兒篤の名 始めて見えたり。中世 歐囉巴 西亞細亞の史家は、みな巴施客兒篤は、突︀兒克 種の分部にして、歐囉巴の洪噶兒 人はそれより出でたりと云へり。普剌諾 喀兒闢尼は巴思喀兒惕と云ひ、嚕卜嚕克は帕思喀提兒と云へり。

​オルスト​​斡嚕速惕​ 卽ち​ロシア​​嚕西亞​

​オルスト​​斡魯速惕​斡魯速惕は、嚕思の蒙語 兀嚕思 又は斡囉思の複稱にして、我等の嚕西亞なり。蒙古人は、嚕囉を正しくびて、魯羅と混るゝこと無ければ、斡魯速惕の魯は、もと嚕とありたるを筆寫の際に誤れるならん。又 蒙古語は、我が國の古語の如く、Rの音にて始まる詞なきが故に、嚕囉の上に母音 一つを加へて呼びたるなり。嚕思の名は、柳哩克の創業の時(八六二年、唐の懿宗 咸通 三年)より始まれりと見えて、東 囉馬の記錄に八六七年(咸通 八年)皇帝 米海︀勒 第三の時、囉思と云へる異敎の民、船 二百艘にて、京城を侵せることあり。その後 敎主 拂丑思は、傳道師を囉思の國に送れり。抹哈篾惕 敎徒にて始めて嚕思の名を書きたるは、八九〇年(唐の昭宗 大順 元年)ごろに地理書を著︀したる牙庫必なり。九二一年 不勒噶兒の國に派遣せられたる亦奔 拂自闌は、屢 嚕思の民に遇ひ、その民に關する珍しき記事を遺せり。第十 世紀より第十四 世紀までの閒、阿喇必亞 珀兒沙の史家は、皆 嚕思の事を云へり。元史 憲宗紀 睿宗の傳 曷思麥里の傳に斡羅思、成宗紀 一に兀魯思、速不台の傳には斡羅思とも兀魯思とも、地理志には阿羅思とあり。淸人の書には、鄂羅斯 厄羅斯 兀魯斯など書きしが、今は俄羅斯と書くことに定れり。いづれも蒙古語の斡囉思 兀嚕思を音譯したるなり。康熙 乾隆︀ 時代の書に羅刹とあるは、佛書の羅刹に引附けたる惡口なり。

​マヂヤラ​​馬札喇​ 卽ち​ハンガリア​​洪噶哩亞​

​マヂヤラ​​馬札喇​次の卷には馬札兒とあり、卽 今の洪噶哩亞なり。洪噶兒 人は、もと巴施客兒篤より出でたりと一般に信ぜられたる故に、主吠尼 喇失惕 等の史家は、洪噶兒 人をも巴施客兒篤と呼べり。阿不勒弗荅の引きたる亦奔 賽篤(第十三 世紀の人)は、珀徹捏固の北に住める異敎の民として巴施客兒篤を記したる後に、都︀納 河(荅紐卜 河)の畔 阿列曼也(獨逸︀ 人)の近處に住み亦思藍 敎に從へる突︀兒克 種の巴施客兒篤と云ひ、又 都︀納 河の畔に住める鴻固嚕思(洪噶兒 人)は、巴施客兒篤の同族にして阿列曼也より基督 敎を受けたりと云へり。普剌諾 喀兒闢尼は、今の如く洪噶哩亞の名を用ひ、かつ大 不勒噶哩亞に近き巴思咯兒惕は大 洪噶哩亞なりと云ひ、嚕卜嚕克も、帕思喀提兒の方言は洪噶哩亞のそれに同じと云ひ、大 洪噶哩亞と呼べり。嚕西亞[322]の史に據れば、佛勒噶 不勒噶兒の東北 兀喇勒 山に近く、兀固喇 又は余固喇と云ふ所ありて、芬種の民 住めり。一四九九年(明の弘治 十二年)嚕西亞の大公 約安 伐昔列威赤は、兀固喇を打破りて、兀固喇の君の稱を兼ねたり。抹思科の克咧姆鄰 宮の門にその時に關せる喇甸 文の銘ありて、この君を翁噶哩 大公と稱せり。然らば兀固喇は、喇甸 語にて翁噶哩と云ひ、洪噶兒の名は、それより出でたるなり。洪噶兒 人は、第九 世紀に歐囉巴に入り、自らは馬札兒と稱したれども、嚕西亞の史家 捏思脫兒は、兀固哩と名づけ、艾 約瑟の職方 外紀には翁牙里とありて、舊土の同族と名 同じ。阿不勒弗荅は馬只噶兒と云ひたれども、そは亞細亞の巴施乞兒を指せるなり。馬札兒の名は、喇失惕の史にも見え、元史 速不台の傳には馬札兒とも馬茶ともあり。

​アスト​​阿速惕​卽ち​アラン​​阿闌​

​アスト​​阿速惕​阿速惕は、阿速の複稱なり。阿速の名は、元史に屢 見え、西史には阿闌 又は阿思と云ひ、その國を阿剌尼亞と云へり。元史 地理志に阿蘭 阿思とあるは、二名 倂せ擧げたるなり。阿闌は、古くより高喀速 山の北の麓に住みたる部族にして、西紀の初頃より希臘 囉馬の書に見え、その後には東囉馬 阿喇必亞の書に見えたり。嚕西亞の史には、阿闌を牙失と云へり。九二六年(普の高祖︀ 天福︀ 元年)思威阿脫思剌甫は、董河の畔にある合咱兒の屬城を取り、遂に牙失 喀鎖吉と戰ひたりと云へり。第十三 世紀の嚕西亞の史家は、牙昔を帖咧古 河の後(南)、高喀速 山に近く住める民なりと記せり。蒙古の西征を述べたる抹哈錢惕 敎徒の史家は、この民を阿闌 又は阿昔と呼べり。普剌諾 喀兒闢尼は阿剌尼また阿昔と云ひ、嚕卜嚕克は阿剌尼また阿思と云ひ、基督 敎徒なりと云へり。阿不勒弗荅の引ける亦奔 賽篤は、阿闌と阿思とを二種に分けたれども、阿思は、阿闌の隣に住み、同じく突︀兒克 種に屬し、同じく基督敎を奉じたりと云へり。高喀速 山に今も居る斡思薛提 人は、阿昔の苗裔 又は同族なり。

​エンサイ​​奄蔡​ 卽ち闔蘇

史記 大宛の傳に「奄蔡、在康居 西北、可二千里。行國、與康居大同俗、控弦者︀十餘萬。臨大澤崖、蓋乃北海︀云。」漢︀書 西域傳も同じ。漢︀書 陳湯の傳に「郅支 單于 遣使責闔蘇 大宛諸︀國產遺」とあるに、顏師古 注して「胡廣曰「康居 北可一千里、有國名奄蔡、一名闔蘇。」然卽 闔蘇、卽 奄蔡 也」と云ひ、史記 正義にも漢︀書 解話を引きて「奄蔡、卽 闔蘇 也」と云へり。奄蔡の音は嚕西亞の舊史なる牙失に近く、闔蘇は卽 阿速にして、位置 名稱ほゞ合へり。謂はゆる大澤は裏海︀なるべきを、北海︀に當てたるは、張騫の想像の誤ならん。又 三國志 東夷傳の注に魚豢の魏略の西戎傳を引きて「又有柳國、又有巖國、又有奄蔡 國、一名阿蘭、皆與康居俗云云。故時羈屬 康居、今不屬也」と云へるは、阿闌の名を正しく著︀はせり。後漢︀書 西域傳に「奄蔡 國、改名 阿蘭 聊國」と云へるは、魚豢の魏略に據りて、阿蘭 國と柳 國とを誤りて一國に合せたるなり。然らばこの部族は、希臘 囉馬の人に早く知られたるのみならず、支那人にも早く聞えたるなり。阿速 人は蒙古に征服せられた後、蒙古の朝に仕へての名將となれる人 多く、元史 列傳に專傳あるもの九人あり。

​サスト​​撒速惕​ 卽ち​サクシン​​撒克新​

​サスト​​撒速惕​撒速惕の單稱は撤速にて、嚕西亞の史には撤克新とあり。撒克新は、亦提勒(佛勒噶)河の下流にありし城の名にて、その民をもしか呼べり。抹哈篾惕 敎徒の書には、旣に第十二 世紀にその名 見え、主吠尼は、撒喀新と云へり。普剌諾 喀兒闢尼の撒克昔も、それなるべし。

​セルケスト​​薛兒客速惕​ 卽ち​チエルケス​​徹兒客思​

​セルケスト​​薛兒客速惕​阿闌の南 高喀速 山の東に居たる部族にして、嚕西亞の古史には徹兒喀失、阿不勒弗荅は者︀兒客思、普剌諾 喀兒闢尼は客兒乞思 又は乞兒喀昔、嚕卜嚕克は徹兒乞思、喇失惕は徹兒客思、元史 地理志には撒耳柯思とあり。嚕西亞の史に、蒙[323]古人の高喀速 山を踰えたる時 征服せる部族の中に喀思瑣吉の名あるにつきて、克剌普囉惕は「徹兒客思の古名は、喀思撒黑なりき。今も斡思薛惕 人 明咧勒 人は、徹兒客思を喀思撒黑と呼ぶ」と云へり。

​ケシミル​​客失米兒​ 卽ち​カシミール​​喀施米兒​

​ケシミル​​客失米兒​客失米兒は、漢︀書 以下 歷代の史と高僧︀傳 等の佛書とに見えたる罽賓︀ 國 卽 今の喀施米兒にして、唐 西域記に「迦溼彌邏、舊曰罽賓︀、訛也」と云へり。後漢︀の初に健馱邏の迦膩色迦 王、五百の阿羅漢︀を集めて三藏を結集したる所は、卽この國なり。

​ケイヒン​​罽賓︀​の誤認

哩惕帖兒は、罽賓︀を希臘 史家の科弗捏 卽 今の喀不勒に當て、咧繆咱は堪答哈兒に當てたるは、いづれも隋書 西域傳に「漕國、在蔥嶺之北(南の誤)、漢︀時 罽賓︀ 國也、」新唐書 西域傳に「罽賓︀、隋漕國也、居蔥嶺南」とあるに誤られたるなり。新唐書の罽賓︀の傳は、全く舊唐書の罽賓︀の傳に據り、迦溼彌邏の事を述べたるに、「隋漕國也」を加へたるは、蛇足なり。隋の場帝の時、西域 諸︀國を招ぎたれども、罽賓︀ 天竺は至らざりし故に、隋書には罽賓︀ 天竺の傳なし。隋書の漕國は、唐 西域記の漕矩吒 國にて鶴︀悉那(卽 噶自納)を都︀とし、弗栗恃薩儻那 國(今の喀不勒)の南に在り、罽賓︀ 卽 迦溼彌邏と異なり。隋書に「漢︀時 罽賓︀ 國也」と云へるは、唐の史臣の臆度の誤なり。新唐書は、旣に罽賓︀の傳に「隋 漕 國也」と斷りながら、その下に更に漕國の傳ありて「謝䫻、居吐火羅 西南、本曰漕矩吒、或曰漕矩云云。東距罽賓︀云云。其王居鶴︀悉那 城」と云ひ、又その次に更に罽賓︀の傳ありて「箇失蜜、或曰迦溼彌邏云云」と云へり。新唐書の疏謬 複沓は、元史にも讓らず。元史 憲宗紀に怯失迷兒、經世 大典の圖に乞失迷耳、郭侃の傳 常德の西使記に乞石迷、普剌諾 喀兒闢尼は喀思米兒、馬兒科 保羅は喀失木兒、喇失惕は今の如く喀施米兒と云へり。

​ボラル​​孛剌兒​ 卽ち​ボルガル​​孛勒噶兒​

​ボラル​​孛剌兒​孛剌兒は、次の卷に不剌兒ともあり、元史 地理志には不里阿耳とあり、卽 佛勒噶 河の東に居りし不勒噶兒 又は孛勒噶兒なり。大典の圖に不思阿耳とあるは、里を思と書き誤れるなり。抹哈篾惕 敎徒の記者︀は、不剌兒とも孛剌兒とも云へるは、正に祕史に同じ。不勒噶兒は、早くより東西 二部に分れ、東部は卽 佛勒噶 不勒噶兒にして、普剌諾 喀兒闢尼 嚕卜嚕克は、その國を大 不勒噶哩亞と云へり。こゝなる孛剌兒は、この東 不勒噶兒なり。西部は、東部より分れて、第五 世紀の末に荅紐卜 河を渡りて今の不勒噶哩亞 國を立てたり。佛勒噶 不勒噶兒に對して、荅紐卜の不勒噶兒とも云へり。喀塔闌 地圖には、荅紐卜 河の下流の南に不勒噶哩亞、その河の北に不兒噶哩亞、額的勒(佛勒噶)河の東に孛兒噶兒と記せり。東 不勒噶兒の事を委しく述ベたる舊記は、第十 世紀の初にその國に到れる亦奔 拂自闌なり。その地は、佛勒噶 河の東岸と喀馬 河の濱とに廣がり、その都︀をも不勒噶兒と云へり。蒙古に取られてより、不勒噶兒の國は亡びたれども、不勒噶兒 城は、商業 學術の要地たることを失はずして、金 斡兒朶の諸︀汗の宮所とさへなりしが、第十五 世紀の初に、その城 廢れて喀散 城 代り興れり。遺址は、佛勒噶 河の東 四 英里、喀散より八十三 英里ほどなる喀散 州 思帕思克 郡にありて、今 兀思片思科頁また孛勒噶兒思科頁と云ふ村となれり。

​ケラル​​客喇勒​ 卽ち客剌兒

​ララル​​喇喇勒​次の卷に二たび この十一部の名を擧げたる時、この喇喇勒の代りに客喇勒とあれば、上の喇は、客の誤なるべし。客喇勒は、洪噶兒 語にて王の義なる乞喇兒に似たり。蓋 蒙古人は、誤解して國の名に取りたるならん。喇失惕は、客剌兒に作りて、巴施吉兒篤の王とし、又 時としては祕史の如く誤りて國の名ともせり。客喇勒は、王號を國の名としたりとすれば、前の馬札兒と重複せり。喇失惕も、この重複を犯して、屢 客剌兒 巴施庫兒惕を竝べ擧げたり。然れども亦奔 賽篤は、[324]亦思藍 敎に從へる者︀を巴施客兒篤、基督 敎に入りたる者︀を 鴻固囉思(洪噶兒 人)と分けたれば、馬札兒 巴施庫兒惕の外に客喇勒 客剌兒(卽 洪噶兒 人)を擧げても、重複にあらざるにや。

​イヂル​​亦的勒​ 河 卽ち​ブルガ​​佛勒噶​

この​ジフイチブラク​​十一部落​なる​トツクニ​​外國​​タミ​​民​​トコロ​​處​​イタ​​到​るまで、​イヂル​​亦的勒​亦的勒 河は、今の佛勒噶 河なり。突︀兒克 語に河を亦的勒 又は阿帖勒と云ふ。突︀兒克 人は、それを以て佛勒噶 河に名づけて、東方の人 皆その名を用ふ。思剌物 人の佛勒噶と名づけたるは、その河の畔にありし孛勒噶兒 城に本づけりと云ふ。西紀 五六九年(周の武帝 天和 四年)東 囉馬 帝の命を受けて突︀兒克(西 突︀厥)の汗に使したる在馬兒忽思は、その歸路に歹克(兀喇勒)河と阿提里亞 河とを渡れり。第十 世紀に、亦思塔黑哩は、阿帖勒 河は合咱兒の國を通ると云ひ、亦奔 忽兒荅惕必は、阿帖勒 城あることを云へり。その城は、蓋 今の阿思惕喇干なり。普剌諾 喀兒闢尼は額提勒と云ひ、嚕卜嚕克は額提里亞と云ひ、喀塔闌 地圖には額的勒とあり、朔方 備乘には額集爾また額濟勒と書けり。

​ヂヤヤク​​札牙黑​ 河 卽ち​ウラル​​兀喇勒​

​ヂヤヤク​​札牙黑​札牙黑 河は、今の兀喇勒 河なり。突︀兒克語の原の名は牙亦克 又は札亦克なり。在馬兒忽思は歹克、普剌諾 喀兒闢尼は牙額克。嚕卜嚕克は牙噶克と云ひ、喀塔闌 地圖には牙也黑とあり、一五五八年 氈勤遜の孛合喇 旅行の記には、牙克 大河とあり。

​キワ​​乞瓦​ ​メン ケルメン​​綿 客兒緜​ 卽ち​キエフ​​乞額甫​ 大城

​ミヅ​​水​ある​カハ​​河​​ワタ​​渡​り、​キワ​​乞瓦​ ​メン ケルメン​​綿 客兒綿​​シロ​​城​​トコロ​​處​​イタ​​到​るまで(乞瓦は、次の卷には客亦別ともあり、嚕西亞の古き都︀なる乞額甫を云へるなり。綿 客兒綿は、次の卷に蠻 客兒蠻ともあり。突︀兒克 語に、蠻は大、客兒蠻は城市にて乞瓦 綿客兒綿は、乞額甫 大城なり。舎哩甫 額丁の「咱弗兒納篾」に、一三九五年、帖木兒の嚕西亞を征することを叙べたる所に「乞魄察克の君 必恰囉克 阿固連は、兀資 河の畔なる蠻 客兒綿の城に都せり」とあり。兀資 河は、阿不勒弗荅の阿租 河に同じく、今の篤聶珀兒 河 卽 尼珀兒 河なり。嚕西亞の舊史には蠻 客兒蠻の名 見えざれども、斡迭思撒の敎授 卜㖮は、一八七四年「乞額甫の第三 考古會の記事」に乞額甫の古名を述べて「この古城は、中世 蠻 客兒蠻の名にて聞えたり」と云へり。喇失惕は、一二四〇年 巴禿の南 嚕西亞を征することを叙べて「嚕西亞の大城 民格兒堪は、九日の攻圍の後に落ちたり」と云へり。民格兒堪は、多遜の音譯にて、別咧津は、蠻客兒蕃と音譯せり。これも乞額甫にて、正しくは蠻 客兒蠻なるべし。吠捏失亞の公使 寬塔哩尼は、一四七五年ごろ珀兒沙の往復に嚕西亞を通りて、乞鄂(乞額甫)は馬固囉蠻とも呼ばると云へり。

​ヂエベ​​者︀別​ ​スベエタイ​​速別額台​ 二將の遠征

​スベエタイ バアトル​​速別額台 巴阿禿兒​​シユツセイ​​出征​せさせたり。(この遠征の主將は、速別額台 一人に非ず、者︀別 那顏と二人にて往きたるなり。さきに撒馬兒罕にて速勒壇 抹哈篾惕の追擊を命ぜられたる時は、者︀別 速別額台 脫忽察兒 三人なりしが、脫忽察兒 軍令に違ひ、降將 罕篾里克の地を侵して、軍を管することを罷められて後、者︀別 速別額台 二將は、闊喇散を經て、馬贊迭㘓に入りき。

​ラシツド​​喇失惕​の史

喇失惕は、二將の急追 速勒壇の窮死 者︀剌列丁の南奔を叙べたる後、二將の遠征を叙べたり。その略に曰く「徹別 速不台は、成吉思 汗に使を遣り、速勒壇 死し者︀剌列丁 遁れたることを吿げ、これより後は、さきに受けたる命令に遵ひ、乞魄察克の地を繞り、抹古里思壇に回らんと奏し、軍を進めて亦喇克に入り、喇亦 庫姆 哈馬丹 箋展 喀自微音 諸︀城を取り、阿在兒拜展に入り、帖卜哩自を降し、篾喇噶を破り、哈馬丹の叛民を討じて回り、阿兒㘓に[325]入り、古兒只の兵を破り、失兒彎に入り、迭兒邊篤の關門を破り、阿闌の地に入りき。」多遜に據れば、篾喇噶を破れるは、一二二一年(太祖︀ 十六年)、迭兒邊篤を破れるは、一二二二年(太祖︀ 十七年)なり。迭兒邊篤は、高喀速 山の東端に在りて、亞細亞 歐囉巴の界を爲せり。者︀別 速別額台の歐囉巴に入りたることは、喇失惕の史には委しからざる故に、

​ドーソン​​多遜​の史

多遜は、亦奔 阿勒 阿提兒の「喀米勒 兀惕 帖哇哩克」(全き歷史)に據りて記せり。その略に曰く「蒙古 人は、高喀速 山を踰えたれば、阿闌 列思吉 徹兒客思 乞魄察克 兵を連ねて禦ぎ戰ひ、勝敗 決せず。蒙古 人は、甘言を用ひて乞魄察克 人を誘ひ、その同盟を棄てさせ、然る後に阿闌 等の眾を破り、帖兒乞の城を取り、遂に乞魄察克の地を襲ひて、その眾を追ひ散らし、大なる曠野を過ぎて、速荅克まで進みたり。乞魄察克の大眾は、嚕西亞に遁げ入りたれば、嚕西亞 人は、それらと同盟して敵に當らんとす。一二二三年(太祖︀ 十八年)、蒙古 人は、嚕西亞に攻め入らんとして、嚕西亞 乞魄察克 連合の兵に遇ひ、佯り負けて遁げ走り、十二日の閒 敵に逐はれて、伏を設けて遽に起り、七日 烈しく戰ひて遂に勝を決し、嚕西亞 乞魄察克は全く敗れたり。それより蒙古 人は、嚕西亞に入りて焚掠を逞せり。一二二三年の末に、蒙古 人は、嚕西亞を去りて不勒噶兒の地を侵し、その兵を破り、撒喀新を過ぎて、大軍に會せり。」

​カラムジン​​喀喇姆津​の嚕西亞 史

喀喇姆津の嚕西亞 史に曰く「その時 嚕西亞はあまたの小國に分れ、その中に速思荅勒(兀剌的米兒)は、重要なる國にて、その大公は列國の宗主の如く見られたり。大公の宮所は、もと乞額甫にありしが、一一六九年に兀剌的米兒に遷れり。嚕西亞に遁げ入りたる玻羅物次(乞魄察克 人)の內に、噶里赤の君 姆思提思剌甫の妻の父なる部長 科提安(洪噶兒の史には庫壇)と云ふ人あり、塔塔兒(蒙古 人)を禦ぐ手段を取ることの必要なるをその壻 姆思提思剌甫に說き勸めたれば、姆思提思剌甫は、南 嚕西亞の諸︀侯と乞額甫に會して、玻羅物次を援けて塔塔兒に當らんことを議決せり。乞額甫 徹兒尼郭甫 噶里赤の三君(名は皆 姆思提思剌甫)とその他の諸︀侯と篤聶珀兒(尼珀兒)河の濱に軍を聚めたる所に、塔塔兒の使 十人 至りたれば、それらを皆 殺︀して、然る後に軍を進め、闊兒提擦 河(額喀帖哩諾思剌甫の南 五十 英里ばかりにある尼珀兒 河の潀水)に近く塔塔兒の軍に遇へり。勝を得たれば、嚕西亞人は、篤晶珀兒 河を渡りて、塔塔兒を九日 逐ひて喀勒喀 河に至れり。噶里赤の姆思提思剌甫は、北軍に居り、玻羅物次と共に河を渡りて塔塔兒の中軍を衝かんとして、打破られ、塔塔兒 人は、勢に乘じて河を渡り、嚕西亞の南軍を襲ひて、その眾を殲滅せり。これは、名高き喀勒喀 河の戰なり。」喀勒喀 河は、他の書には喀剌克 河ともあり。喀喇姆津は、馬柳玻勒の傍にて阿索甫の海︀に入る喀勒繆思 河の潀水なる喀列租 河に當てたり。

​スブタイ​​速不台​の傳

元史 速不台の傳に、只別(者︀別)と共に回回 國主を追ひたる事を叙べたる後に、「癸未、速不台 上奏請欽察、許之。遂引兵繞寬定吉思 海︀、展轉至太和 嶺、鑿石開道、出其不意。至則遇其 酋長 玉里吉 及 塔塔哈兒 方聚於 不租 河、縱兵奮擊、其眾潰走云云。遂收其境。又至阿里吉 河、與斡羅思 部 大小 密赤思老遇、一戰降之、略阿速 部而還」とあり。癸末は、太祖︀ 十八年にして、喀勒喀 河の大戰の年なり。二將の歐囉巴に入りたるは、その前年 壬午なれば、癸末の書き所やゝ違へり。寬 定吉思 海︀は、後文に寬 田吉思 海︀ともあり、裏海︀を云へるなり。突︀兒克語に、顚吉思は海︀の義にして、それより裏海︀ 巴勒喀施の如き大湖の名となれり。寬 卽 庫安は、委古兒語に湖なり。顚吉思は名となれる故に、その上に湖を冠らせたるなり。太和 嶺は、高喀速 山を指せるなり。玉里吉 塔塔哈兒は、洪鈞の哲別 補傳の自注に、西域書[326]に玉兒格 塔伊兒とありと云へり。卜咧惕施乃迭兒 曰く「嚕西亞の史に據れば、玻羅物次(乞魄察克)の汗の一人、名は玉哩 晃察喀威赤と云へるもの、一二二三年 蒙古 人に殺︀されたり。」阿里吉 河は、喀勒喀 河の訛なるべし。大小 密赤思老は、乞額甫の君と徹兒尼郭甫の君となり。

​フス メリク​​曷思麥里​の傳

又 曷思麥里の傳に「帝遣使趣哲伯、疾馳以討欽察、云云。進圍斡羅思於 鐵兒山之、獲其國主 密只思臘。哲伯 命曷思麥里、獻諸︀ 尤赤 太子之。尋征康里、至孛子八里 城、與其主 霍脫思 罕戰、又 敗其軍。進至欽察、亦平之。軍還、哲伯 卒」とあり。鐵兒山は、哲別 補傳に孩耳桑と書き、嚕西亞の北軍 大敗の地とし、その自注に「鐵兒山、乃地名、非山名」と云へり。この密只思臘は、徹兒尼郭甫の君なり。康里を征したるは、不勒噶兒より回れる時の事なるべければ、「進至欽察」とあるは非なり。

十一部の內 八部の征伏

さて本書に列ねたる十一部落、馬札兒と客喇勒とは同國なりとして十部落の內、乞卜察兀惕 卽 乞魄察克 玻羅物次、斡嚕速惕 卽 嚕西亞、阿速惕 卽 阿闌、撒速惕 卽 撒喀新、薛兒客速惕 卽 徹兒客思、孛剌兒 卽 不勒噶兒の六部の名は、珀兒沙 嚕西亞の舊史なる二將 西征の條に見え、巴只吉惕 卽 巴施客兒篤の名はそこに見えざれども、不勒噶兒と康克里との間にあれば、不勒噶兒より回れる時 從へたるならん。康鄰 卽 康里を征したることは、上に引ける曷思麥里の傳に見えたり。唯 馬札兒の國 卽 洪噶哩亞は、二將の至らざるのみならず、出征の目的の中に加へられたりとも思はれざれば、太宗 八年の西征の時の事と混じて誤り加へたるに似たり。又 客失米兒 卽 喀施米兒は、二將 出征の路とは遙に隔たれゝば、これも誤りならん。


§263(11:50:02)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年) Open original book in Wikimedia


​ダルガチ​​荅嚕合赤​の設け

 ​マタ​​又​ ​サルタウル​​撒兒塔兀勒​​タミ​​民​​ト​​取​​ヲ​​畢​へて、​チンギス カガン​​成吉思 合罕​ ​ミコト​​勅​あり、​シロジロ​​城城​​ダルガチン​​荅嚕合臣​​オ​​置​きて、(親征錄 癸未の夏 八魯彎 川 避暑︀の處に「時上旣定西域、置達魯花赤 於各城、監治之〈[#返点の「一」は底本では、なし。昭和18年復刻版に倣い修正]〉」と云ひ、元史も同じ。荅嚕合臣は、荅嚕合赤とも云ひ、元史は常に達魯花赤と書き、明譯には鎭守官とあり、蒙語 荅嚕忽は、壓ふる 鎭むるの義あるより、その語尾を變へて、一州一局を統ぶる官の名とせり。趙翼の二十二史 劄記に曰く「達魯花赤、掌印辨事之官。不職之文武大小、或路府或州縣、皆設此官。太祖︀時、授札八兒 黃河以北鐵門以南天下都︀ 達魯花赤、木華黎 以谷里夾打元帥 達魯花赤。又 帖木兒補化 爲鞏昌都︀總帥 達魯花赤。世祖︀以別的因屯田府 達魯花赤、唵木海︀ 爲隨路砲手 達魯花赤。多 蒙古 人 爲之、漢︀人亦有此者︀。劉好禮爲永熙路 達魯花赤、張炤爲鎭江路 達魯花赤、張君佐爲黃州 達魯花赤、張賁亨爲處州 達魯花赤。」珀兒沙にては荅魯合赤の赤を略きて呼びたりと見えて、喇失惕の史には荅兒噶とあり。珀兒沙の亦勒罕すら自ら荅嚕噶と稱し、その頃 鑄たる貨幣に大汗 卽 元帝の名を書きて、その下に荅嚕噶の稱を加へたりと(多遜)云ふ。​ウロンゲチ​​兀嚨格赤​​シロ​​城​より

​クルムシ​​忽嚕姆石​ 姓の父子

​ヤラワチ​​牙剌哇赤​ ​マスクト​​馬思忽惕​​イ​​云​​オヤコ​​父子​ ​フタリ​​二人​​クルムシ​​忽嚕木石​​ウヂ​​姓​ある​サルタウル​​撒兒塔兀勒​ ​キ​​來​て、​シロ​​城​​エンコ​​緣故​ ​タイレイ​​體例​​チンギス カガン​​成吉思 合罕​​マウ​​奏​して、「​コトノモト​​緣故​​シタガ​​遵​​シ​​知​らせ」と​イ​​云​はれて、その​コ​​子​​マスクト クルムシ​​馬思忽惕 忽嚕木石​を、​ワレラ​​我等​​ダルガス​​荅嚕合思​荅嚕合赤の複稱[327]​トモ​​共​​ブカル​​不合兒​ ​セミスゲン​​薛米思堅​ ​ウロンゲチ​​兀嚨格赤​ ​ウダン​​兀丹​

​ウダン​​兀丹​ 卽ち​ホータン​​和闐​

兀丹は、史記の于𥧑、漢︀書 以來 歷代 史志の于闐、今の和闐なり。唐 西域記は、その梵語の名を擧げて「瞿薩旦那 國、唐言地乳、卽其俗之雅言也。俗語謂之 渙那 國、匈奴 謂之 于遁、諸︀胡謂之 豁旦、印度 謂之 屈丹。舊曰于闐、譌也」と云ひ、耶律 楚材の西游錄には「高昌西三四千里、有五端 城、卽唐之 于闐 國、河出烏白玉」と云へり。于闐の玉を產することは、歷代の史に詳なり。元史には屢 斡端と書かれ、只 地理志に忽炭とあり。西域記の豁旦、地理志の忽炭は、皆 突︀兒克 語の闊壇を音譯せるなり。闊壇の名は、珀兒沙の古史に屢 見え、馬兒科 保羅は科壇と呼べり。この國は、西 亞細亞には玉のみならず麝香の爲に名高し。​キスガル​​乞思合兒​

​キスガル​​乞思合兒​ 卽ち​カシユガル​​喀什噶爾​

乞思合兒は、漢︀書 以來の疏勒、今の喀什噶爾なり。唐 西域記は、佉沙 國と書きて、「舊謂〈[#返点の「二」は底本では、なし。昭和18年復刻版に倣い修正]〉 疏勒者︀、乃稱其城號也。正音宜室利訖栗多底。疏勒 之言、猶爲譌也」と云ひ、新唐書 疏勒の傳には又「王居迦師 城」と云へり。元史 世祖︀紀 至元 十一年に合失合兒、二十五年に可失合兒、地理志に可失哈耳、曷思麥里の傳に可失哈兒、耶律 希亮の傳に可失哈里とあり。珀兒沙 阿喇必亞の史家は、古くより喀什噶兒と云ひ、馬兒科 保羅は喀思噶兒と云ひ、捏思說理 宗の敎正 分擔の圖には喀深噶兒と綴れり。​ウリヤン​​兀哩羊​

​ウリカン​​兀哩罕​ 卽ち​ヤルカンド​​葉爾羌​

羊は、恐らくは罕の誤ならん。兀哩罕は、漢︀書 以來の莎車、今の葉爾羌なり。元史 世祖︀紀 至元 十一年の條に鴉兒看、曷思麥里の傳に押兒看、耶律 希亮の傳に也里虔とあり。突︀兒克 語には牙兒堪篤と云ひ、馬兒科 保羅は牙兒牽と云へり。​グセン ダリル​​古先 荅哩勒​

​グセン ダリル​​古先 荅哩勒​ 卽ち曲先 荅林

明史 西域傳に曰く「曲先 衞、東接安定、在肅州西南。古西戎、漢︀西羌、唐 吐蕃、元設曲先 荅林 元帥府。」曲先 荅林は、卽この古先 荅哩勒なり。安定 衞は、甘州の西南 千五百里に在りて、廣袤 千里なりとありて、曲先はその西に在りと云へば、その地は、肅州の西南、于闐の東南に當り、今の靑海︀の西邊 西藏の北邊に在りしなり。)などの​シロ​​城​どもを​シ​​知​らしめに​コトヨサ​​任​して、その​チヽ​​父​​ヤラワチ​​牙剌哇赤​​ツ​​伴​​キ​​來​て、

​キタト​​乞塔惕​​ダルガチ​​荅嚕合赤​

​キタト​​乞塔惕​​チウト​​中都︀​​シロ​​城​​シ​​知​らしめに​ツ​​伴​​キ​​來​たり。​サルタク​​撒兒塔黑​​ヒト​​人​より​ヤラワチ​​牙剌哇赤​〈[#「牙剌哇赤」は底本では「牙剌哇亦(ヤラワイ)」。「元朝秘史」§263(11:51:03)の漢︀字音訳に倣い修正]〉 ​マスクト​​馬思忽惕​ ​フタリ​​二人​の、​シロ​​城​​タイレイ​​體例​ ​コトノモト​​緣故​​ツウ​​通​じたるの​ユヱ​​故​に、​キタト​​乞塔惕​​タミ​​民​を知らしめに、​ダルガス​​荅嚕合思​​トモ​​共​​コトヨサ​​任​したり。(牙剌哇赤 は、喇失惕の史(多遜)に馬呵木惕 也勒縛只と呼び、抹哈篾惕 敎徒にして、太祖︀ 以下 四朝の閒 蒙古の大官を勤めたりと云ひ、馬思忽惕は、馬思速惕 閉と呼ばれ、突︀兒其思壇 只渾 河 地方の牧長となれりと云へり。親征錄 己丑(太宗 元年)八月 太宗 卽位の所に「河北先附漢︀民賦調、命兀都︀ 撒罕主之、西域賦調、命牙魯瓦赤之、」また辛丑(太宗 十三年)に至り

史錄の​ヤラワチ マスト​​牙老瓦赤 麻速忽​

「冬十月、命牙老瓦赤管漢︀民、」と見え、元史 太宗紀 元年 己丑 八月 卽位の所に「命河北漢︀民戶計出賦調、耶律 楚材 主之、西域人以丁計出賦調、麻合沒的 滑剌西迷 主之、」また十三年 辛丑「冬十月、命牙老瓦赤管漢︀民公事、」憲宗紀 元年 辛亥 六月 卽位の續に「以牙剌瓦赤 不只兒 斡魯不 覩荅兒 等燕京等處行尙書省事、以訥懷 塔剌海︀ 麻速忽 等別失八里 等處行尙書省事、」世祖︀紀に[328]「歲壬子(憲宗 二年)、帝駐桓撫閒。憲宗令斷事官 牙魯瓦赤、與不只兒 等、總天下財賦 于燕云云」と見えたり。牙魯瓦赤 牙老瓦赤は、卽 牙剌哇赤なり。麻合沒的 滑剌西迷は、牙剌哇赤の全名 馬呵木惕 牙剌哇赤にして、西迷は瓦赤の誤なり。麻速忽は、卽 馬思忽惕なり。

​ウルト サハル​​兀兒禿 撒哈勒​

兀都︀ 撒罕は正しくは兀兒禿 撒哈勒、長髯の蒙古語にて、耶律 楚材の稱號なり。元史 楚材の傳に「楚材 身長八尺、美髯宏聲。帝偉之云云。遂呼楚材吾圖 撒合里而不名。吾圖 撒合里、蓋國語長髯人也」とあり。睿宗の傳に楚材を吾圖 撒合里と書き、食貨志 歲賜の篇に「曳剌 中書 兀圖 撒罕里」とあるも、楚材にして、金人(隨て蒙古 人)は耶律を曳剌 又 移剌と呼べり。親征錄に牙剌哇赤の漢︀民を管する事を太宗 十三年 卽 本書(祕史續集)の成りたる翌年の所に記したれども、こゝに明に「中都︀の城を知らしめに伴れ來たり」とあれば、太祖︀の時より燕京の財政に與り居たるならん。


§264(11:51:09)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年) Open original book in Wikimedia


七年の遠征

 ​サルタウル​​撒兒塔兀兒​​タミ​​民​​トコロ​​處​​ナヽトセ​​七年​ ​ユ​​行​きて、そこに​ヂヤライル​​札剌亦兒​​バラ​​巴剌​​マ​​待​ちて​ヲ​​居​​トキ​​時​に、(太祖︀の西征は、十四年 己卯より二十年 乙酉まで七年かゝれり、されども巴剌を待ちたるは、その七年目にはあらず、四年目なる十七年 壬午の夏 巴嚕安 原にて避暑︀して居たる時なり。親征錄 集史は、誤りてその翌年 癸未の夏とせり。

​バラ​​巴剌​の印度 侵掠

​バラ​​巴剌​は、​シン ムレン​​申 木嗹​​ワタ​​渡​りて、​ヂヤラルヂン シヨルタン​​札剌勒丁 莎勒壇​ ​カンメリク​​罕篾里克​ ​フタリ​​二人​​ヒンドス​​欣都︀思​​チ​​地​​イタ​​到​るまで​オ​​追​ひて、​ヂヤラルヂン シヨルタン​​札剌勒丁 莎勒壇​ ​カンメリク​​罕篾里克​ ​フタリ​​二人​​ウシナ​​失​ひて、​ヒンドス​​欣都︀思​​ナカ​​中​​イタ​​到​るまで​タヅ​​尋​ねて、[​エ​​得​]かねて​カヘ​​回​りて、​ヒンドス​​欣都︀思​​カタホトリ​​傍邊​​タミ​​民​​トラ​​虜︀​へて、​オホ​​多​​ラクダ​​駱駝​ ​オホ​​多​​セルケス​​薛兒客思​勢を去りたる山羊)を​ト​​取​りて​キ​​來​ぬ。(親征錄に曰く「遂遣八剌 那顏兵急追之、不獲、因大携忻都︀ 人民之半而還。」集史に曰く「者︀剌亦兒の別剌 那顏は、朶兒伯と共に、者︀剌列丁を追ひて印度に入りたれども、ゆくへ知れず、必亞の城を取り、木勒壇まで進みたり。その地に石なく、筏を作り石を運び來て、攻具 備はりたれども、暑︀さ烈しきが爲に捨てて去り、剌和兒 珀沙兀兒 篾里克普兒を侵掠して回り、羊の年の夏 成吉思 汗 別嚕安に避暑︀し居る時、別剌 等 至れり。」

​ビア​​必亞​

必亞は、必亞思 河の畔にありし城なるべし。

​ムルタン​​木勒壇​

木勒壇は、唐 西域記の茂羅三部盧にして徹納卜 河の左邊にあり。印度のいと古き名城にして、阿歷散迭兒 東征の頃は、馬里 國の都︀となり、希臘 人のそれを攻め落す時、阿歷散迭兒は重傷を受けたりき。城內に莊嚴なる日天の祠ありて、西域記に「其日天像、鑄以黃金、飾以奇寶、靈鑑幽通、神︀功潛被、五 印度 國諸︀王豪族、莫此捨施珍寶、建立福︀舍」とありしが、その祠堂は、木噶勒 帝 奧郞在卜に廢せられたり。

​ラホル​​剌和兒​

剌和兒は、喇毘 河の左邊にあり。西域記にその名 見えざれども、玄奘の、磔迦 國より至那僕底 國に往く時、磔迦の東界なる大城に一月 畱まれりと、慈恩 三藏 法師 傳に見えたるは、その城ならんと、堪寧哈姆 云へり。剌和兒の壯麗なる都︀となれるは、木噶勒 朝の時なり。

​ペシヤウル​​珀沙兀兒​

珀沙兀兒は、健駄羅の迦膩色迦 王の故都︀なる布路沙布邏にて、喀不勒の東 孩巴兒 山口の東麓に[329]あり、今の英領 印度の西北の隅なり。篾里克普兒は、知らず。

印度の奴隷 王朝

印度は、西紀 千一年 噶自尼 朝の侵略を被りてより、一一八六年 誥兒の沙哈卜 兀丁は、噶自尼 朝を滅し、遂に 邊噶勒までも平げたれば、印度の過半は、抹哈篾惕 敎の國となれり。一二〇六年 沙哈卜 兀丁 死し、その將 庫塔卜 兀丁 自立して印度の王となり、迭勒希 卽 今の迭里に都︀せり。庫塔卜は、突︀兒克 人にして、もと奴隷なりし故に、この朝を世に奴隷 王朝と云ふ。者︀剌列丁の迭勒希に遁げ入りたるは、奴隷 王朝の第三世 阿勒塔姆施(庫塔卜の壻)の時なりき。

太祖︀の凱旋

そこに​チンギス カガン​​成吉思 合罕​ ​カヘ​​回​りて、(親征錄に「甲申班師」とあるは、八魯彎川 避暑︀の翌年にして、太祖︀ 十九年、西紀 一二二三年なり。喇失惕もそれに同じく、別嚕安 駐夏の後、「信度河の上游に駐冬し、欣都︀思壇より唐古惕の路に出でて還らんと思ひしが、山 深く 路 險しく行き難︀しと聞きて、回りて珀沙兀兒に至り、來る時 經たる路に循ひて還れり。猴の年、巴米安の山路を踰え、巴喀闌に畱め置きたりし輜重を取り、秋 只渾 河を渡り、冬 撒馬兒罕に至れり」とあり。親征錄 集史は、己卯より壬午まで四年の閒の事を一年づゝ後れさせて庚辰より癸未までとしたれば、こゝの甲申も、癸未の誤りと見ざるべからず。然らば太祖︀の師を班して撒馬兒罕に至れるは、癸未の年なりやと云ふに、また然らず。實は壬午の年に師を班して、その年の內に撒馬兒罕に至れるなり。

西游記なる壬午の回駕

西游記に、長春は、壬午の四月、欣都︀庫施 山中の行在所より還り、五月 五日 邪米思干に達し、八月 八日 二たび往き、十五日 阿沒 河を濟り、二十二日 行宮に至り、上に見え、二十七日 車駕 北に回り、九月 朔 河橋(阿沒 河)を渡り、十五日 十九日 二十三日、途に在り幄を設けて道を說き、それより扈從して行き、時時 道化を敷奏し、又 數日にして邪米思干 大城の西南 三十里に至り、十月 朔 奏して舊居に還り、上は大城の東 二十里に駐まれり。六日 上に見えて「自此或在先、或在後、任意而行」を許され、十一月 二十六日 卽 行き、十二月 二十三日 雪 寒く、又 三日 霍闡 河を過ぎ、二十八日 行在に至り、震雷の問に對へたりとあり。この記に據れば、太祖︀は、壬午の八月 二十七日 山中の行宮を發し、九月の末に撒馬兒罕に至れり。太祖︀の撒馬兒罕を發したる日は確ならねども、長春の失兒 河を過ぎて後に行在に至れるを見れば、太祖︀は蓋 長春より先に發し、その年の內に失兒 河の東に至りたること明なり。又 元史 太祖︀紀 十九年 甲申の條に

角端の奇談

「是歲、帝至東 印度 國、角端見、班師」と云ひ、耶律 楚材の傳に「甲申、帝至東 印度、駐鐵門關。有一角獸、形如鹿而馬尾、其色綠。作人言、謂侍衞者︀曰「汝主宜早還。」帝以問楚材。對曰「此瑞獸也。其名角端、能言四方語、好生惡殺︀。此天降符、以吿陛下。陛下、天之元子。天下之人、皆陛下之子。願承天心、以全民命。」帝卽日班師」とあるにつきて、程同文 曰く「蓋本於宋子貞所作神︀道碑、極以歸美文正、然非實錄也。唐書「東天竺際海︀、與扶南林邑接。」太祖︀西征、無彼。角端能言、書契所無、晉卿何自知之。讀湛然集、晉卿在西域七年、惟及尋思干止耳、未嘗出鐵門也。今讀此(西游)記、則太祖︀追算端、惟過大雪山數程、其地應北 印度。晉卿實未征、無顧問。且頒師、爲壬午之春、非甲申也」と云へり。この角端の事は、楚材の孫なる宣慰 柳溪の詩集(庶齋 老學 叢談に引ける)に「角端呈瑞移御營、塧亢問罪西域平」とありて、その自注に「角端日行萬八千里、能言、曉四夷之語。昔我聖祖︀皇帝出師問罪西域、辛巳歲夏、駐蹕鐵門關。先祖︀中書令奏曰「五月二十日晩、近侍人登山、見異獸、二目如矩、麟身五色、頂有一角、能人言。此角端也。當見所禮祭之。」仍依所言、□□則吉」とありて、宋子貞の耶律[330]公 神︀道碑(元 文類︀ 卷 五十七)の文とは稍 異なり。又 輟耕錄にも「太祖︀皇帝、駐師西印度、忽有大獸、其高數十丈、一角如犀牛然。能作人語、云「此非帝世界、宜速還。」左右皆震懾。耶律 文正王進曰「此名角端、乃施星之精︀也。聖人在位、則斯獸奉書而至。且能日馳萬八千里、靈異如鬼神︀、不犯也。」帝卽回馭」と云ひて、至正 庚寅 江浙の鄕試に角端を賦の題とせることを載せ、又 白淇淵 先生の續演雅 十詩の發揮を引きて、「「西狩獲白麟、至死意不吐。代北有角端、能通諸︀國語」者︀、角端、北地異獸也。能人言、其高如浮圖」と云へり然らば角端の奇談は、元人の評判となれることにて、宋子貞の碑文に始れるに非ず、たゞ西印度を東印度としたるは、宋子貞の誤れるなり。角端は、司馬 相如の上林の賦に角𧤗とありて、郭璞の說に「角𧤗、音端、角在鼻上」と云へるに據れば、角端と名づけられたる一角獸は、印度の犀牛なるに似たり。又 浮圖の如く高しとあるに據れば、西 亞細亞の駝豹を指せるにも似たり。いづれにしても、蒙古人の見慣れざる獸にして、洪鈞の曰へる如く「或者︀當日軍行見此、詫爲異獸、其後展轉傳訛、遂至張符瑞」に過ぎざるなり。又 多遜の史は、一二一九年(己卯)より一二二二年(壬午)までの紀年は正しけれども、別嚕安 駐夏の後は、喇失惕に本づきてやゝその文を易へ、

​トベト​​禿別惕​の方に進みたりと云ふ說

「蒙古人は、信度 河の上游なる不牙 客惕沃兒に駐冬し、一二二三年(癸未)の春、成吉思 汗は、印度 禿別惕を經て蒙古に還らんと欲し、實にその方に進みたれども、路 險しくして行き難︀く、珀沙兀兒に回れり」と云ひ、餘は集史に同じく、只 途上の日數は、集史より一年長く、西游記より一年 短し。禿別惕 通過は、多遜の臆度に出でたりと見ゆるが故に、洪鈞 曰く「考其自注、未何人、但引元史、謂成吉思 汗 至東 印度、角端見、乃班師。玩其詞意、蓋爲元史所誤。而二十年正月還宮、則 拉施特 與他書所紀年分相同。在途歲月過多、無事可叙。乃牽引元史、以意附會、不元史此說、固不憑也。多桑著︀書時、元史已有譯本、西游記時尙未譯、故有此誤」と云へり。

​エルチシ​​額兒的失​の駐夏

​ミチ​​途​​エルチシ​​額兒的失​​チウカ​​駐夏​して、(太祖︀の歸路に額兒的失に駐夏したることは、他の書に見えず。こは、必ず出征の初 十四年 己卯の事を誤りたるなり。

長春の歸路

西游記に據れば、十八年 癸未の正月 元日には、長春 行在に畱まりて、將帥 醫卜 等官の賀を受け、十一日 大軍に先だちて發し、二十一日「至一大川、東北去賽藍約三程」とあるは、塔什肯篤に近き赤兒赤克 河の邊なるべし。「水草豐茂、可牛馬」に因りて、そこに盤桓したる間に、太祖︀も至りたれば、二月七日 長春 入りて見えたり。その時 太祖︀は「朕已東矣。同途可乎」と云へるに、長春 固く辭みたれば太祖︀ 曰く「少俟。三五日太子來。前來道話所解者︀、朕悟卽行」と云へり。八日 太祖︀ 東山の下に獵して馬より墜ちたりと聞き、長春 入りて 獵を諫めたれば、太祖︀は「我 蒙古 人、騎射少所習、未遽已。雖然神︀仙之言在衷焉」と云ひて、それより兩月は獵に出でざりき。かくて二十四日 再朝を辭し、三月 七日 又 辭し、十日 遂に辭し去り、その年 七月 雲中に至れり。太祖︀は猶 畱まりていつ出發したるかは記に見えず。親征錄には、たゞ「甲申班師、住冬避暑︀、且止且行」とあり。多遜の史はやゝ委しく、「一二二四年(甲申)の春、大軍 再 動き、昔渾 河を渡れり。察合台 斡歌台は、字合喇の邊に獵して來て、あまたの獲物を上れり。拙赤は、呼べども至らず、たゞ昔渾 河の北より獸を驅りて行在に向はしめ、圍獵の便に供へたり。

​チルチク​​赤兒赤克​ 河 癸未の駐夏

その夏 成吉思 汗は、喀闌 塔失の地に駐まりて、遊獵を以て日を送れり」とあり。「大軍 再 動き、昔渾 河を渡る」は、西游記に據れば、壬午の冬なり。察合台 斡歌台の獲物を上れるは、「三五日[331]太子來」と云へる時にて、癸未の二月なり。喀闌 塔失は、卽 塔什肯篤にして、謂はゆる「水草 豐茂」の地は、その近郊なり。太祖︀は、諫を容れて、兩月 獵を罷めたれども、蒙古人の習は遽に已め難︀く、癸未の夏は遊獵を以て送りたるなり。さて癸未の駐冬は、いづこなりしか知るべからず。湛然居士集に從容菴錄の序あり、「甲申中元、序於西域阿里馬 城」と云へり。

​アルマリク​​阿勒馬里克​ 甲申の駐夏

阿里馬は、卽 阿勒馬里克なれば、耶律 楚材は太祖︀に從ひ、十九年 甲申 七月 十五日、阿勒馬里克に居たるなり。また丁亥 九月 望日に作れる過夏國 新安縣の詩ありて「昔年今日度松關」の句あり、その原注に「西域陰山有松關」と云へり。陰山は、卽 天山なり。松關は、喇喇姆 諾兒の西南に在り、西游記に「左右峰巒峭拔、松樺陰森、高踰百尺、自巓及麓、何啻萬株」と云へる所なり。西域 水道記に「賽喇木 淖爾、當惠遠城正北二百里、在松樹頭嶺下」、また「果子溝、谷長七十里、北有峻嶺之、嶺上多松、名曰松樹頭嶺」とありて、松樹頭嶺は、山にして關に非ざれども、その險隘なるに由り、詩には松關と云へるなり。「昔年今日」とは、丁亥の三年前なる甲申の九月 十五日を云へるなり。阿勒馬里克より松樹頭嶺までは、二日路に過ぎざれば、楚材 等の阿勒馬里克を發したるは、早くとも九月 望日の三四日 前にして、九月 上旬までは阿勒馬里克に畱まれるならん。然らば阿勒馬里克は、卽 甲申の駐夏の地なるべし。

​エミル​​額米勒​ 河 甲申の駐冬

又 多遜の史に「皇孫 二人、十一歲なる忽必來、九歲なる忽剌古は、額米勒 河まで迎へに出で、忽必來は兔を殺︀し、忽剌古は鹿を殺︀して上れり」とあり。額米勒 河は、今の塔兒巴哈台 城の南にあり、西に流れて阿剌克 庫勒の湖に入る。その溪は、牧場として名高し。元史 憲宗紀の葉密立 地、耶律 希亮の傳なる葉密里 城は、額米勒 河の邊なり。西域 水道記は、額敏︀ 河と書き、「額敏︀ 者︀、回語淸淨平安之謂。音轉爲額密爾」と云へり。忽必來は、卽 世祖︀にて、太祖︀ 十年 乙亥に生れたれば、十一歲なる時は、二十年 乙酉なり。松樹頭嶺より額米勒の地までは、十數日の路程なるに、甲申の九月 十五日 松樹頭嶺を踰えて、翌年 猶 額米勒に畱れるは、蓋 甲申の冬 額米勒に駐冬して、翌年の春 未だ出發せざるに二皇孫の至れるならん。

​ヂエベ​​者︀別​ ​スブタイ​​速不台​の大軍に追ひ附き

又 者︀別 速不台の軍は、乞魄察克 康克里の地より還り、いづこにて大軍に會せしか、東西の諸︀史に明文なし。者︀別は、多遜の史に途にて死にたりと云ひ、曷思麥里の傳にも「軍還、哲伯 卒」とあれば、大軍に會して まもなく歿したるなり。速不台の傳に、西征より還りて後「略也迷里 霍只 部、獲馬萬匹以獻」とあれば、二將は、甲申の額米勒 駐冬の前に大軍に會したるにて、庚辰の夏 速勒壇 追討の命を受けたる時「抹古里思壇に會せん」と宣へる勅旨に適合せり。但 三年の期限は後れたり。かくて太祖︀は、壬午の冬 失兒 河を渡りてより甲辰の冬 額米勒 河に駐まるまで二年の間 徐行したるは、何故ぞ。洪鈞 曰く「太祖︀東歸之時、正 哲別 速不台 入欽察俄羅斯之時。豈因二將暴師於遠、故遲行以俟軍信耶」と云へるは、さもあるべし。

乙酉の歸國

​ナヽトセ​​七年​​アタ​​當​​ニハトリ​​雞​​トシ​​年​​アキ​​秋​​トラ ガハ​​禿剌 河​​カラトン​​合喇屯​​オルド​​斡兒朶​​トコロ​​處​​ゲバ​​下馬​せり。(雞の年は、後堀河 天皇 嘉祿 元年 乙酉、宋の理宗 寶慶 元年、金の哀宗 正大 二年 元の太祖︀ 二十年、西紀 一二二五年、太祖︀ 六十四歲の時なり。親征錄に「乙西春、上歸國、自師至此、凡七年。」元史に「二十年乙酉春正月、還行宮。」喇失惕は、雞の年の春と云ひ、親征錄に同じ。多遜は、一二二五年二月と云ふ。西暦の二月は、卽 東曆の正月なり。この春 額米勒を發したりとすれば、元史の正月は早きに過ぎ、祕史の秋は遲きに過ぎたり。親征錄の春に從ふべし、合喇[332]屯 卽 黑林の斡兒朶は、王罕の舊營なり。

四皇子の分封

多遜は、この處に四皇子 分封の事を叙べて、「成吉思 汗 東に歸り、四子の分地を定め、喀喇科嚕姆の山と斡難︀ 河の源との閒を拖雷に與へ、額米勒 河の邊を斡歌台に與へ、昔渾 河の東を察合台に與へ、喀思闢の海︀の北 闊喇自姆の湖(阿喇勒 海︀)の周圍を拙赤に與へたり」と云ひ、額兒篤曼は、斡歌台の分地を亦米勒 孫噶哩亞の地とし、察合台の分地を委古兒の境より孛合哩亞までの地とし、拙赤またその諸︀子の分地を喀牙里克 貨咧自姆より不勒噶兒 撒克新まで蒙古の馬の蹄の蹂みたる限りとし、拖雷は、蒙古の本國を領する外に、帳殿 家族 國の記錄の保管を任せられたりと云へり。今これを短く言ひ換ふれば、拖雷は蒙古の地を得、斡歌台は乃蠻の故地を得、察合台は西遼の故地を得、拙赤は闊喇自姆 康克里 乞卜察克の地を得たり。祕史の太祖︀ 西征の條は、親征錄 元史より委しけれども、叙事の顚倒 錯亂 多きは惜むべし。今 尙書の「今考定武成」の例に倣ひ、試にその次序を左の如く考へ正せり。


〈[#訳注者 那珂通世 本人が考訂した]〉§257(11:36:09)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年) Open original book in Wikimedia


今考定西征之役

 ​ウサギ​​兔​​トシ​​年​​サルタウル​​撒兒塔兀勒​​タミ​​民​​トコロ​​處​​アライ​​阿喇亦​​ヨ​​依​​コ​​越​​シユツバ​​出馬​するに、​チンギス カガン​​成吉思 合罕​は、​カトン​​合屯​より​クラン カトン​​忽闌 合屯​​ツ​​伴​​スヽ​​進​み、​オトヽ​​弟​だちより​オツチギン ノヤン​​斡惕赤斤 那顏​​タイ ラウエイ​​大 老營​​ルス​​畱守​せしめて​シユツバ​​出馬​せり。​ミチ​​途​​エルチシ​​額兒的失​​チウカ​​駐夏​して、​チンギス カガン​​成吉思 合罕​は、​ミヅカラ​​自​ ​ウヂラル​​兀的喇兒​​シロ​​城​​カエイ​​下營​せり。

戰の始まり

かくて​チンギス カガン​​成吉思 合罕​は、[​タツ​​龍​​トシ​​年​​ハル​​春​]​ウドラル​​兀都︀喇兒​​シロ​​城​​クダ​​下​して、​ウドラル​​兀都︀喇兒​​シロ​​城​より​ウゴ​​動​きて、​ブカル​​不合兒​​シロ​​城​​カエイ​​下營​せり。[その​ナツ​​夏​]​ブカル​​不合兒​〈[#ルビの「ブカル」は底本では「ブカ」。昭和18年復刻版に倣い修正]〉​シロ​​城​より​ウゴ​​動​きて、​セミスカブ​​薛米思加卜​​シロ​​城​​カエイ​​下營​せり。そこに​チンギス カガン​​成吉思 合罕​は、巴剌を待たんと​コガネ​​金​​トリデ​​寨​​ミネ​​嶺​なる​シヨルタン​​莎勒壇​​ナツヨケドコロ​​避暑︀處​​ナツヨケ​​避暑︀​して、

三將の​スルタン​​速勒壇​ 追擊

​ヂエベ​​者︀別​​センポウ​​先鋒​​ヤ​​遣​りぬ。​ヂエベ​​者︀別​​ゴヱン​​後援​​スベエタイ​​速別額台​​ヤ​​遣​りぬ。​スベエタイ​​速別額台​​ゴヱン​​後援​​トクチヤル​​脫忽察兒​​ヤ​​遣​りぬ。この​ミタリ​​三人​​ヤ​​遣​るに、「​ソトモ​​外面​​ユ​​往​きて、​スルタン​​速勒壇​​カナタ​​彼方​​イ​​出​でて、​ワレラ​​我等​​イタ​​到​らしめて​ハサミセ​​夾攻​めん」と​ノリタマ​​宣​ひて​ヤ​​遣​りぬ。​ヂエベ​​者︀別​は、かく​ユ​​往​きて、​カンメリク​​罕篾里克​[333]​シロ​​城​どもを​ヘ​​經​​ウゴカ​​動​さず、​ソトモ​​外面​​ス​​過​ぎけり。その​ウシロ​​後​より​スベエタイ​​速別額台​も、その​リイウ​​理由​​ヨ​​依​​ウゴカ​​動​さず​ス​​過​ぎけり。その​ウシロ​​後​より​トクチヤル​​脫忽察兒​は、​カンメリク​​罕篾里克​​カタハラ​​傍​​シロ​​城​どもを​オカ​​侵​して、​カレ​​彼​​タナツモノ​​田禾​​カス​​掠​めき。​カンメリク​​罕篾里克​は、​シロ​​城​どもを​オカ​​侵​されたりとて、​ソム​​背​​ウゴ​​動​きて、[その​ノチ​​後​]​ヂヤラルヂン シヨルタン​​札剌勒丁 莎勒壇​​ア​​合​ひけり。

三將の賞罰

[​チンギス カガン​​成吉思 合罕​は、]​ヂエベ​​者︀別​ ​スベエタイ​​速別額台​ ​フタリ​​二人​​イタ​​甚​​オンシヤウ​​恩賞​して、「​ヂエベ​​者︀別​ ​ナンヂ​​汝​は、​ヂルゴアダイ​​只兒豁阿歹​​イ​​云​​ナ​​名​なりき。​タイチウト​​台赤兀惕​より​キ​​來​て、​ヂエベ​​者︀別​となりたるぞ、​ナンヂ​​汝​​トクチヤル​​脫忽察兒​は、​カンメリク​​罕篾里克​​カタハラ​​傍​​シロ​​城​どもを​オノ​​己​​コヽロ​​心​​ヨ​​依​​オカ​​侵​して、​カンメリク​​罕篾里克​​ソム​​叛​かせたり。​ハフ​​法​​ア​​當​​キ​​斬​らしめん」と​イ​​云​​ヲ​​畢​へて、​カヘツ​​却​​キ​​斬​らしめず、​イタ​​甚​​セ​​責​めて、​カレ​​彼​​イクサ​​軍​​シ​​知​ることより​ツミナ​​罰​ひて​クダ​​下​せり。


〈[#訳注者 那珂通世 本人が考訂した]〉§258(11:41:05)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年) Open original book in Wikimedia


三皇子の​ウロンゲチ​​兀嚨格赤​ぜめ

 かくて​チンギス カガン​​成吉思 合罕​は、[その​トシ​​年​​アキ​​秋​]​ヂユチ​​拙赤​ ​チヤアダイ​​察阿歹​ ​オゴダイ​​斡歌歹​ ​ミタリ​​三人​​ミコ​​子​だちを、​ミギテ​​右手​​イクサ​​軍​にて、​アムイ ムレン​​阿梅︀ 木嗹​​ワタ​​渡​りて、​ウロンゲチ​​兀嚨格赤​​シロ​​城​​カエイ​​下營​せよとて​ヤ​​遣​りぬ。​トルイ​​拖雷​をば、​イル​​亦嚕​ ​イセブル​​亦薛不兒​​ハジ​​始​とせる​オホ​​多​​シロ​​城​どもに​カエイ​​下營​せよとて​ヤ​​遣​りぬ。[​ヘビ​​蛇​​トシ​​年​​ハル​​春​]​ヂユチ​​拙赤​ ​チヤアダイ​​察阿歹​ ​オゴダイ​​斡歌歹​ ​ミタリ​​三人​​ミコ​​子​だち​マウ​​奏​して​ヤ​​遣​るには「​ワレラ​​我等​​イクサ​​軍​ども​ソロ​​揃​へり。​ウロンゲチ​​兀嚨格赤​​シロ​​城​​イタ​​到​れり。​タレ​​誰​​イ​​言​​ヨ​​依​​ユ​​行​はん、​ワレラ​​我等​」と​マウ​​奏​して​ヤ​​遣​りたれば、​チンギス カガン​​成吉思 合罕​ ​ミコト​​勅​あり「​オゴダイ​​斡歌歹​​コトバ​​言​​ヨ​​依​[334]​オコナ​​行​へ」と​ノリタマ​​宣​いて​ヤ​​遣​りぬ。


〈[#訳注者 那珂通世 本人が考訂した]〉§259(11:42:09)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年) Open original book in Wikimedia


​トルイ​​拖雷​の凱旋

 [​マタ​​又​その​ハル​​春​​チンギス カガン​​成吉思 合罕​は、​タリカン​​塔里罕​​イマ​​在​して、]​トルイ​​拖雷​​トコロ​​處​​ツカヒ​​使​​ヤ​​遣​りぬ。「​トシ​​年​ ​アツ​​熱​くなりぬ。​ホカ​​別​​イクサ​​軍​どもは​ゲバ​​下馬​するぞ。​ナンヂ​​汝​は、​ワレラ​​我等​​トコロ​​處​​クワイ​​會​せよ」と​ノリタマ​​宣​ひて​ヤ​​遣​りたれば、​トルイ​​拖雷​は、​イル​​亦嚕​ ​イセブル​​亦薛不兒​ ​ラ​​等​​シロ​​城​どもを​ト​​取​りて、​システン​​昔思田​​シロ​​城​​ヤブ​​破​りて、​チユクチエレン​​出黑扯嗹​​シロ​​城​​ヤブ​​破​​ヲ​​居​​トキ​​時​​ツカヒ​​使​はこの​ミコト​​言​​イタ​​致​したれば、​トルイ​​拖雷​は、​チユクチエレン​​出黑扯嗹​​シロ​​城​​ヤブ​​破​ると、​カヘ​​回​​ゲバ​​下馬​して​キ​​來​て、​チンギス カガン​​成吉思 合罕​​クワイ​​會​しぬ。


〈[#訳注者 那珂通世 本人が考訂した]〉§260(11:44:03)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年) Open original book in Wikimedia


三皇子の叱られ

 [その​ナツ​​夏​]​ヂユチ​​拙赤​ ​チヤアダイ​​察阿歹​ ​オゴダイ​​斡歌歹​ ​ミタリ​​三人​​ミコ​​子​だちは、​オロンゲチ​​斡嚨格赤​​シロ​​城​​クダ​​降​して、​ミタリ​​三人​にて​シロ​​城​どもの​タミ​​民​​ワカ​​分​​ア​​合​ひて、​チンギス カガン​​成吉思 合罕​​ワケマヘ​​分前​​イダ​​出​さざりき。この​ミタリ​​三人​​ミコ​​子​だち​ゲバ​​下馬​して​キ​​來​ぬれば、​チンギス カガン​​成吉思 合罕​は、​ヂユチ​​拙赤​ ​チヤアダイ​​察阿歹​ ​オゴダイ​​斡歌歹​ ​ミタリ​​三人​​ミコ​​子​だちを​トガ​​咎​めて、​ミカ​​三日​ ​マミ​​見​えさせざりき。そこに​ボオルチユ​​孛斡兒出​ 木合黎 ​シギ クドク​​失吉 忽都︀忽​ ​ミタリ​​三人​ ​マウ​​奏​さく「​マツロ​​服​はざりし​サルタウル​​撒兒塔兀勒​​タミ​​民​​シヨルタン​​莎勒壇​​コトム​​平​けて、​カレ​​彼​​シロ​​城​どもの​タミ​​民​​ト​​取​れり、​ワレラ​​我等​​ワ​​分​けて​ト​​取​らるゝ​オロンゲチ​​斡嚨格赤​​シロ​​城​も、​ワ​​分​​ア​​合​ひて​ト​​取​​ミコ​​子​だちも、​スベ​​都︀​​チンギス カガン​​成吉思 合罕​のものなり。​アマツカミ​​皇天​ ​クニツカミ​​后土​​チカラ​​力​​ソ​​添​へられて、​サルタウル​​撒兒塔兀勒​​タミ​​民​をかく​コトム​​平​けたる​トキ​​時​​ワレラ​​我等​​ナガミコト​​爾​のあまたの​ヲトコ​​男​ ​センバ​​騸馬​ ​ヨロコ​​歡​びて​マカイ​​馬孩​してあり。​カガン​​合罕​は、​ナン​​何​ぞかく​イカ​​怒​りて​イマ​​在​せる。​ミコ​​子​だち[335]は、​アヤマチ​​過​​サト​​悟​りて​オソ​​畏​れたるぞ。​ノチ​​後​​イマシ​​戒​めよ。[​シカ​​然​らずば]​ミコ​​子​だちは、​セイカウ​​性行​​オコタ​​怠​らん。​オンシ​​恩賜​せば、​マミ​​見​えさせば​ヨ​​可​からん」と​マウ​​奏​したれば、​チンギス カガン​​成吉思 合罕​ ​イカリ​​怒​ ​ヤ​​息​みて、​ヂユチ​​拙赤​ ​チヤアダイ​​察阿歹​ ​オゴダイ​​斡歌歹​ ​ミタリ​​三人​​ミコ​​子​だちを​マミ​​見​えさせて​コヱ​​聲​​イダ​​出​し、​オキナラ​​翁等​​斡脫古思​​コトバ​​辭​​ヒ​​引​​斡兒乞惕​きて、​フル​​舊​​合兀臣​​コトバ​​辭​​タヅ​​尋​​合荅勒​ねて、​タ​​立​​巴亦黑三​ちたる​トコロ​​地​​タフ​​仆​​巴黑塔阿勒荅​るゝまで、​ヒタヒ​​額​​莽來​​アセ​​汗​​ヌグ​​拭​​阿兒臣​​ア​​敢​へぬまで​ノ​​陳​べて、​ケンセキ​​譴責​により​ケウクン​​敎訓​により​サト​​諭​して​イマ​​仕​せる​トキ​​時​​コンカイ ゴルチ​​晃孩 豁兒赤​​コンタカル ゴルチ​​晃塔合兒 豁兒赤​​シユルマカン ゴルチ​​搠兒馬罕 豁兒赤​

​ゴルチ​​豁兒赤​ 三人の奏議

この​ミタリ​​三人​​セントウシ​​箭筒士​は、​チンギス カガン​​成吉思 合罕​​マウ​​奏​さく「​ヒナ​​雛​なる​タカ​​鷹​​テウシフ​​調習​にやつと​イ​​入​りたる​ゴト​​如​く、​ミコ​​子​だちはやつとかく​セイバツ​​征伐​​マナ​​學​​ヲ​​居​​トキ​​時​​ミコ​​子​だちを​シリゾ​​退​くるが​ゴト​​如​くいかんぞ かく​シカ​​叱​りませる。​ミコ​​子​だちは、​オソ​​懼​れて心を​オト​​落​さん。​ヒ​​日​​イ​​沒​​トコロ​​處​より​イヅ​​出​​トコロ​​處​​イタ​​至​るまで​テキ​​敵​​タミ​​民​あり。​ワレラ​​我等​​トボドト​​脫孛都︀惕​​イヌ​​狗​どもを​ケシカ​​嗾​けて​ヤ​​遣​らば、​テキ​​敵​​タミ​​民​を、​ワレラ​​我等​は、​アマツカミ​​皇天​ ​クニツカミ​​后土​​チカラ​​力​​ソ​​添​へられて、​コガネ​​金​ ​シロカネ​​銀​ ​タンモノ​​段物​ ​タミ​​民​ ​ヂウグ​​住具​​ナガミコト​​爾​​モ​​持​​コ​​來​ん。その​タミ​​民​​イ​​云​へば、この​ニシ​​西​​バクタト​​巴黑塔惕​​カリベ シヨルタン​​合里伯 莎勒壇​​イ​​云​へるありと​イ​​云​へり。それらの​トコロ​​處​​ワレラ​​我等​ ​シユツセイ​​出征​せん」と​マウ​​奏​しければ、​カガン​​合罕​ ​サト​​悟​りて、この​コトバ​​言​​イカリ​​怒​ ​ヤ​​息​みて、​チンギス カガン​​成吉思 合罕​は、​ヨ​​可​しとして​ミコト​​勅​あり、​コンカイ​​晃孩​ ​コンタカル​​晃塔合兒​ ​シユルマカン​​搠兒馬罕​ ​ミタリ​​三人​​セントウシ​​箭筒士​​オンシヤウ​​恩賞​して、​アダルギン​​阿荅兒斤​​コンカイ​​晃孩​ ​ドロンギル​​朶籠吉兒​​コンタカル​​晃塔合兒​ ​フタリ​​二人​を「​ワ​​我​[336]​マエ​​前​​ヲ​​居​れ」[とて​トヾ​​畱​めて]、​オテゲダイ​​斡帖格歹​ ​シユルマカン​​搠兒馬罕​​バクタト​​巴黑塔惕​​タミ​​民​​トコロ​​處​​カリベ シヨルタン​​合里伯 莎勒壇​​トコロ​​處​​シユツセイ​​出征​せさせたり。


〈[#訳注者 那珂通世 本人が考訂した]〉§261(11:49:01)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年) Open original book in Wikimedia


​ドルベ​​朶兒伯​の出征

 ​マタ​​又​ ​ヒンドス​​欣都︀思​​タミ​​民​ ​バクタト​​巴黑塔惕​​タミ​​民​ ​フタ​​二​つの​アヒダ​​閒​なる​アル​​阿嚕​ ​マル​​馬嚕​ ​マダサリ​​馬荅撒哩​​タミ​​民​​アブト​​阿卜禿​​シロ​​城​​ドルベト​​朶兒別惕​​ドルベ ドクシン​​朶兒伯 朶黑申​​シユツセイ​​出征​せさせたり。


〈[#訳注者 那珂通世 本人が考訂した]〉§262(11:49:05)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年) Open original book in Wikimedia


​スベエタイ​​速別額台​の出征

 ​マタ​​又​[​ヂエベ ノヤン​​者︀別 那顏​]​スベエタイ バアトル​​速別額台 巴阿禿兒​[​フタリ​​二人​]を、​キタ​​北​なる​カングリン​​康鄰​ ​キブチヤウト​​乞卜察兀惕​ ​バヂギト​​巴只吉惕​ ​オルスト​​斡嚕速惕​ ​マヂヤラ​​馬札喇​ ​アスト​​阿速惕​ ​サスト​​撒速惕​ ​セルケスト​​薛兒客速惕​ ​ケシミル​​客失米兒​ ​ボラル​​孛剌兒​ ​ケラル​​客喇勒​、この​ジフイチブラク​​十一部落​なる​トツクニ​​外國​​タミ​​民​​トコロ​​處​​イタ​​到​るまで、​イヂル ヂヤヤク​​亦的兒 札牙黑​なる​ミヅ​​水​ある​カハ​​河​​ワタ​​渡​り、​キワ​​乞瓦​ ​メン ケルメン​​綿 客兒綿​​シロ​​城​​トコロ​​處​​イタ​​到​るまで、[​ヂエベ ノヤン​​者︀別 那顏​] ​スベエタイ バアトル​​速別額台 巴阿禿兒​ [​フタリ​​二人​]を​シユツセイ​​出征​せさせたり。


〈[#訳注者 那珂通世 本人が新作した節︀]〉


​ヂヤラルヂン​​札剌勒丁​ ​カンメリク​​罕蔑里克​の追ひ捲くられ

 [​ヘビ​​蛇​​トシ​​年​​アキ​​秋​​チンギス カガン​​成吉思 合罕​は、​タリカン​​塔里罕​より​ミナミ​​南​​ウゴ​​動​きたれば、その​フユ​​冬​]​ヂヤラルヂン シヨルタン​​札剌勒丁 莎勒壇​ ​カンメリク​​罕篾里克​ ​フタリ​​二人​は、​チンギス カガン​​成吉思 合罕​​ムカヘ​​迎​​シユツバ​​出馬​せり。​チンギス カガン​​成吉思 合罕​​マエ​​前​​シギ クトク​​失吉 忽禿忽​ ​センポウ​​先鋒​​ユ​​行​きけり。​シギ クトク​​失吉 忽禿忽​​タイヂン​​對陣​して、​ヂヤラルヂン シヨルタン​​札剌勒丁 莎勒壇​ ​カンメリク​​罕篾里克​ ​フタリ​​二人​は、​シギ クトク​​失吉 忽禿忽​​ヤブ​​敗​りて、​チンギス カガン​​成吉思 合罕​​トコロ​​處​​イタ​​到​るまで​カ​​勝​ちて​キ​​來​つるに、者︀別 速別額台 ​トクチヤル​​脫忽察兒​ ​ミタリ​​三人​は、​ヂヤラルヂン シヨルタン​​札剌勒丁 莎勒壇​ ​カンメリク​​罕篾里克​ ​フタリ​​二人​​ウシロ​​後​より​イ​​入​りて、​カヘツ​​却​​カレラ​​彼等​​ヤブ​​敗​りて​コロ​​殺︀​して、​ブカル​​不合兒​[337]​セミスカブ​​薛米思加卜​ ​ウダラル​​兀荅喇兒​​シロ​​城​​カレラ​​彼等​​クワイ​​會​せしめず、​カ​​勝​ちて​シン ムレン​​申 木嗹​​イタ​​到​るまで​オ​​追​ひて​ユ​​行​かれ、​シン ムレン​​申 木嗹​​トビコ​​跳込​みて​イ​​入​るとなり、​オホ​​多​​サルタウル​​撒兒塔兀勒​をそこに​シン ムレン​​申 木嗹​​トコロ​​處​​ホロボ​​滅​したるぞ。​ヂヤラルヂン シヨルタン​​札剌勒丁 莎勒壇​ ​カンメリク​​罕篾里克​ ​フタリ​​二人​は、​イノチ​​命​​タス​​助​かりて​シン ムレン​​申 木嗹​​サカノボ​​泝​​ノガ​​逃​れたり。​チンギス カガン​​成吉思 合罕​は、​ヂヤライル​​札剌亦兒​​バラ​​巴剌​​ヂヤラルヂン シヨルタン​​札剌勒丁 莎兒壇​ ​カンメリク​​罕篾里克​ ​フタリ​​二人​​オ​​追​はしめに​ヤ​​遣​りて、[​ウマ​​馬​​トシ​​年​​ハル​​春​]​シン ムレン​​申 木嗹​​サカノボ​​泝​​ユ​​往​きて、​バトケセン​​巴惕客先​​カス​​掠​めて​サ​​去​りて、[その​ナツ​​夏​]​ハヽ ヲガハ​​母 小河​ ​メウマ ヲガハ​​牝馬 小河​​イタ​​到​りて、​バルアン バラ​​巴嚕安 原​​ゲバ​​下馬​して、そこに​ヂヤライル​​札剌亦兒​​バラ​​巴剌​​マ​​待​ちて​ヲ​​居​​トキ​​時​​バラ​​巴剌​は、​シン ムレン​​申 木嗹​​ワタ​​渡​りて、​ヂヤラルヂン シヨルタン​​札剌勒丁 莎勒壇​ ​カンメリク​​罕篾里克​ ​フタリ​​二人​​ヒンドス​​欣都︀思​​クニ​​地​​イタ​​到​るまで​オ​​追​ひて、​ヂヤラルヂン シヨルタン​​札剌勒丁 莎勒壇​ ​カンメリク​​罕篾里克​ ​フタリ​​二人​​ウシナ​​失​ひて、​ヒンドス​​欣都︀思​​ナカ​​中​​イタ​​到​るまで​タヅ​​尋​ねて​エ​​得​かねて​カヘ​​回​りて、​ヒンドス​​欣都︀思​​カタヘ​​傍​​タミ​​民​​カス​​掠​めて、​オホ​​多​​ラクダ​​駱駝​ ​オホ​​多​​カツヤウ​​羯羊​​ト​​取​りて​キ​​來​けり。


〈[#訳注者 那珂通世 本人が考訂した]〉§263(11:50:02)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年) Open original book in Wikimedia


​ダルガチン​​荅嚕合臣​の設け

 ​マタ​​又​ ​サルタウル​​撒兒塔兀勒​​タミ​​民​​ト​​取​​ヲ​​畢​へて、​チンギス カガン​​成吉思 合罕​ ​ミコト​​勅​あり、​シロジロ​​城城​​ダルガチン​​荅嚕合臣​​オ​​置​きて、​ウロンゲチ​​兀嚨格赤​​シロ​​城​より​ヤラワチ​​牙剌哇赤​ ​マスクト​​馬思忽惕​​イ​​云​へる​オヤコ​​父子​ ​フタリ​​二人​​クルムシ​​忽嚕木石​​ウヂ​​姓​ある​サルタウル​​撒兒塔兀勒​ ​キ​​來​て、​シロ​​城​​エンコ​​緣故​ ​タイレイ​​體例​​チンギス カガン​​成吉思 合罕​​マウ​​奏​して、「​エンコ​​緣故​​シタガ​​遵​​シ​​知​らせ」と​イ​​云​はれて、その​コ​​子​​マスクト​​馬思忽惕​ ​クルムシ​​忽嚕木石​を、​ワレラ​​我等​​ダルガス​​荅嚕合思​​トモ​​共​​ブカル​​不合兒​ ​セミスゲン​​薛米思堅​[338]​ウロンゲチ​​兀嚨格赤​ ​ウダン​​兀丹​ ​キスガル​​乞思合兒​ ​ウリカン​​兀哩罕​ ​グセン​​古先​ ​ダリル​​荅哩勒​などの​シロ​​城​どもを​シ​​知​らしめに​コトヨサ​​任​して、その​チヽ​​父​​ヤラワチ​​牙剌哇赤​​ツ​​伴​​キ​​來​て、​キタト​​乞塔惕​​チウト​​中都︀​​シロ​​城​​シ​​知​らしめに​ツ​​伴​​キ​​來​ぬ。​サルタク​​撒兒塔黑​​ヒト​​人​より​ヤラワチ​​牙剌哇赤​ ​マスクト​​馬思忽惕​ ​フタリ​​二人​の、​シロ​​城​​タイレイ​​體例​ ​コトノモト​​緣故​​ツウ​​通​じたるの​ユヱ​​故​に、​キタト​​乞塔惕​​タミ​​民​​シ​​知​らしめに、​ダルガス​​荅嚕合思​​トモ​​共​​コトヨサ​​任​したり。


〈[#訳注者 那珂通世 本人が考訂した]〉§264(11:51:09)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年) Open original book in Wikimedia


大凱旋

 かくて​チンギス カガン​​成吉思 合罕​は、[​ウマ​​馬​​トシ​​年​​アキ​​秋​]​バルアン バラ​​巴嚕安 原​より​カヘ​​回​りて、[その​フユ​​冬​ ​セミスゲン​​薛米思堅​​ゲバ​​下馬​して、​ヒツジ​​羊​ ​サル​​猴​​フタトセ​​二年​は、​チウカ​​駐夏​ ​チウトウ​​駐冬​して、​シヅカ​​徐​​ウゴ​​動​きて、​ヂエベ​​者︀別​ ​スベエタイ​​速別額台​ ​フタリ​​二人​​マ​​待​​ア​​合​はせ、]​サルタウル​​撒兒塔兀勒​​タミ​​民​​トコロ​​處​​ナヽトセ​​七年​ ​ユ​​行​きて、​ナヽトセ​​七年​​アタ​​當​〈[#ルビの「アタ」は底本では、なし。昭和18年復刻版に倣い修正]〉​ニハトリ​​雞​​トシ​​年​​アキ​​秋​​トラ ガハ​​禿剌 河​​カラトン​​合喇屯​​オルド​​斡兒朶​​トコロ​​處​​ゲバ​​下馬​せり。



成吉思 汗 實錄 卷の十一 終り。



  1. 明治四十一年三・四月『大阪朝日新聞』所載、「桑原隲藏全集 第二卷」岩波書店、那珂先生を憶う - 青空文庫
  2. 国立国会図書館デジタルコレクション:info:ndljp/pid/782220
  3. 3.0 3.1 テンプレート読み込みサイズが制限値を越えるので分冊化しています。

この文書は翻訳文であり、原文から独立した著作物としての地位を有します。翻訳文のためのライセンスは、この版のみに適用されます。
原文:

この作品は1929年1月1日より前に発行され、かつ著作者の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)100年以上経過しているため、全ての国や地域でパブリックドメインの状態にあります。

 
翻訳文:

この作品は1929年1月1日より前に発行され、かつ著作者の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)100年以上経過しているため、全ての国や地域でパブリックドメインの状態にあります。