て、その將の名なし。祕史なる綽兒馬罕の西征は或は卽この軍ならんと洪鈞も云へり。)
§261(11:49:01)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
又マタ 欣都︀思ヒンドスの民タミ 巴黑塔惕バクタトの民タミ 二フタつの閒アヒダなる阿嚕アル 馬嚕マル 馬荅撒哩マダサリの民タミの阿卜禿アブトの城シロに朶兒別惕ドルベトの朶兒伯 朶黑申ドルベ ドクシンを出征シユツセイせしめたり。(
欣都︀思は、欣都︀の蒙語 複稱なり。古名は信度と云ひ、信度 河より出でたり。後 轉じて欣都︀となり、又 轉じて印度となれり。史記 漢︀書の身毒は卽 信度、高僧︀傳の捐毒 賢豆は卽 欣都︀なり。天竺も、信度の轉訛にして、山海︀經には天毒、漢︀書には天篤ともあり。後漢︀書 以後は、天竺の字 多く用ひられたり。竺も、古音は篤なり。珀兒沙 人の欣都︀思壇と云ふは、欣都︀の國と云ふことなり。歐囉巴 人の因的亞と云ふは、印度の喇甸語なり。親征錄には忻都︀、元史 憲宗紀には身毒とも欣都︀思ともあり。阿嚕は、前文の亦嚕にして、今の赫喇惕は、中世 赫哩とも哈哩とも云ひ、赫哩は額哩とも亦嚕とも訛りたれば、阿嚕は哈哩の訛れるなるべし。馬嚕は、篾嚕 沙希展、今の篾兒甫なり。馬荅撒哩 阿卜禿は、考へ得ず。地は三つにして城一つなるも、異むべし。朶兒伯 朶黑申は、禿馬惕を平げたる人にて、卷十に見えたり。この西征の役には、親征錄にその名 見えざれども、集史には朶兒伯とありて巴剌 那顏と同じく、者︀剌列丁を追ひに印度に入りたりとなせり。又 多遜 曰く「者︀剌列丁の敗れたる後、亦勒赤喀歹は命を受けて、叛きたる赫喇惕を討じ、六月 圍みて、一二二二年(太祖︀ 十七年)の六月 始めて攻め落して、その眾を屠り、この外に篾嚕も再 侵掠せられたり」と云へり。本書に依れば、朶兒伯は、印度に入りたるに非ずして、赫喇惕 篾嚕を攻めたるは、卽 朶兒伯なるに似たり。)
§262(11:49:05)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
又マタ 速別額台 巴阿禿兒スベエタイ バアトルを北キタなる康鄰カングリン(康鄰は、漢︀代の康居の遺種にして、抹哈篾惕 敎徒の記錄には、康喀里 又は康克里と呼び、第十三 世紀の初には、牙亦克(兀喇勒) 河の東、闊喇自姆の湖(鹹海︀)の北なる廣き荒野に住めりと云ひ、阿不勒噶資に據れば、成吉思 汗の卽位の頃、康克里の領地は、逸︀昔 郭勒の湖 楚 河 塔剌施(塔喇思) 河まで東に及べり。第十三 世紀の中ごろに、歐囉巴の高僧︀ 二人、その地を過ぎて、紀行に載せ、その民の名を普剌諾 喀兒闢尼は康吉台と云ひ、嚕卜嚕克は康勒と云へり。嚕西亞の史に珀徹捏固と云へるは、卽 康克里なりと信ぜらる。元史には康里と云ふ。康里の名は、已に金史に見え、忠義 傳 粘割 韓奴の條に、大定 年中 康里の部長 孛古 內附の事あり。康克里 人は、武勇 勝れし故に、蒙古に事へて名臣となれる人 甚多く、元史に專傳ある者︀十三人あり。)
乞卜察兀惕キブチヤウト 卽ち乞魄察克キプチヤク
乞卜察兀惕キブチヤウト(乞卜察兀惕は、乞卜察克の複稱にして、卷八に欽察兀惕とあり、元史には欽察と云へり。黑海︀ 高喀速山 裏海︀の北、今の嚕西亞の南部なる荒野に住める部族にして、抹哈篾惕 敎徒の史家 地理家は、乞魄察克 又は迭施惕 乞魄察克と云へり。迭施惕も乞魄察克も、荒野の義なりと云ふ。額篤哩昔は、第十二 世紀の中ごろ(南宋の初)に、突︀兒克 諸︀部を數へ擧げて、その一を乞甫察克と云へり。西游錄に「印度 西北、有㆓可弗又 國㆒、數千里皆平川、無㆓復丘垤㆒、不㆑立㆓城邑㆒。民多㆓羊馬㆒、以㆑蜜爲㆑釀」と云へるも、この國を云へるなるべし。嚕西亞 人は、玻羅物次と云ひ、第十一 世紀の半(北宋の中頃)よりその記錄に見ゆ。嚕西亞の史家は、玻羅物次を平野