惕 多遜の二史に據るに成吉思 汗は、斡惕喇兒に到り、
全軍を四に分け、察合台 斡歌台の一軍は、斡惕喇兒を攻め、拙赤の一軍は、昔渾 河に沿ひ西北に行き、氈篤 延吉肯篤を攻め、阿剌克 那顏 速客禿 脫該の一軍は、昔渾 河に泝り東南に行き、闊氈篤 別納客惕を攻め、成吉思 汗は、拖雷と共に大軍を將ゐて昔渾 河を渡り、孛合喇に進みて敵の援兵を斷ちたり。洪鈞 曰く「是時、西域王駐㆓撒馬爾干㆒在㆑東、布哈爾 在㆑西、其舊都︀ 烏爾韃赤 更在㆓西北㆒。搗㆓其中㆒、則新舊都︀呼應不㆑靈、所㆔以斷㆓其援㆒也。先西破㆓布哈爾㆒、返而東攻㆓撒馬爾干㆒、太祖︀兵法如㆑是。」氈篤は、元史 地理志に氈的とあり、今 闊兒忽惕と云ひ、失兒 河の右岸に在り、鹹海︀に近し。延吉肯篤は、親征錄 元史に養吉干とあり、失兒 河の左、河口より一日路の處にその遺址あり。阿剌克 那顏は、巴阿𡂰の阿剌黑、功臣の第二十六、速客禿は、晃豁壇の速亦客禿 徹兒必、功臣の第三十一、脫該は、速勒都︀思の塔孩 巴阿禿兒、功臣の第二十四なり。闊氈篤は、唐書 西域傳に俱戰提、西游錄に苦蓋、西游記に霍闡、元史 地理志に忽氈、伯顏の傳に忽禪、薛 塔剌海︀の傳に忽纏、西域 水道記に霍占とあり、失兒 河の左岸、大曲の上に在り、別納客惕は、明の世に沙 囉乞牙と云ひ、明史 西域傳に沙 鹿海︀牙とあり、失兒 河の右岸、大曲の下に在りき。)
拙赤ヂユチ 察阿歹チヤアダイ 斡歌歹オゴダイ 三人ミタリの子ミコだち奏マウして遣ヤるには「我等ワレラの軍イクサども揃ソロへり。兀嚨格赤ウロンゲチの城シロに到イタれり。誰タレの言コトバに依ヨり行オコナはん(誰の命に從ひて事を行はん)、我等ワレラ」と奏マウして遣ヤりたれば、成吉思 合罕チンギス カガン 勅ミコトあり「斡歌歹オゴダイの言コトバに依ヨり行オコナへ」と宣ノリタマひて遣ヤりぬ。(親征錄に、三皇子を玉龍傑赤の城攻に遣りたる續に「以㆓軍集㆒奏聞。上有㆑旨曰「軍旣集、可㆑聽㆓三太子節︀制㆒也」」とあるは、こゝの文を譯したるなり。
喇失惕 曰く「者︀剌列丁 兄弟の兀兒堅只より出奔したる時、城內の兵民は、突︀兒罕 合屯の族なる忽馬兒を主將に戴けり。蒙古の前鋒 到れる時、城兵 出で戰ひ、伏に遇ひ大敗せり。拙赤 等 兄弟 至り、城の形勢を視︀察し、招ぎ降したれども應ぜず。近傍に石なく(礟擊すること能はず)、大木を伐りて濠を塡め、三千人を河道を截ちに遣りたれば、城兵に圍まれ皆 死し、城兵 益 元氣 旺になれり。拙赤 察合台 素より中 惡く、師 和せずして、屢 城兵に敗られ、七月を經たれども城 下らず。成吉思 汗 塔列干に在せる時、三皇子より使もて軍事を吿げ遣りたるに、成吉思 汗その爭の事を聞きて怒り、斡歌台に命じて師を統べさせたり。」斡歌歹の總帥を命ぜられたる事情は、喇失惕に依りて善く分れり。)
§259(11:42:09)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
かくて成吉思 合罕チンギス カガンは、兀都︀喇兒ウドラルの城シロを下クダして、(この事は、前にも云へる如く、太祖︀ 西征の初に書くべき事なり。喇失惕 曰く「斡惕喇兒の守將は哈亦兒 罕にして、都︀より至りし哈剌札 罕は、二萬人にて助け守れり。五月の間 圍まれて、城民 亂れ、哈剌札 罕は降らんと云ひたれども、哈亦兒 罕は從はず。哈剌札 罕は、夜 城を出で、遁れんとして虜︀へられたれば、察合台 斡歌台は、その不忠を責〈[#「責」は底本の国立国会図書館︀デジタルコレクション画像は白修正液らしき消去で確認できず。昭和18年復刻版に倣い修正]〉めて殺︀して、遂にその城を破れり。哈亦兒 罕は、親兵 三萬を率ゐて內堡を守り、一月の閒 禦ぎ戰ひ、士卒 皆 死して始めて擒となり、庫克 撒唻に送りて殺︀されたり。」
哈亦兒 罕は、多遜