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同時に相合して一全體をなすものなり。

《其の善惡論、罪惡の必然の失敗。》〔五〕前にもいへる如く神は凡べての定限を絕するもの、唯だ發現して萬物となれるのみ。而して其の發現したる萬物は皆至善を極致とす、各〻善に與る(即ち善き所ある)の故を以て存在す。實在は皆善なるものなり。惡は消極的のもの即ち實有の缺乏これ惡なり惡といふ實有の體を具ふるものあるに非ず。吾人に於ける罪惡は意志の向け方の誤れる也、詳しく云へば眞實存在せざるものを眞實存在するかの如く迷想しそを善なるものとして意志する是れ即ち罪惡の根元なり。かくの如く罪惡に於ける意志は非有なるものに向かひてこれを求むる者なれば必然失敗せざるを得ず、換言すれば罪惡はそが必然の結果として刑罸を受けて亡びざるを得ず。而して萬物は皆遂には神に歸り彼れに和合すべきものなり。

《エリゲーナの思想と敎會。》〔六〕かくの如くエリゲーナの思想は一見して其の如何にプラトーン學派風(寧ろ新プラトーン學派風)の思想に影響せられたるかを認め得べし從ひて後に敎會が彼れの說を排斥して正說ならずとしたるも怪しむべきことにあらず。盖し當時に在りては哲學は尙ほ一般に怪しげなるものとせられし趣ありしが上にエリ