Page:Kokubun taikan 07.pdf/365

提供:Wikisource
このページは校正済みです

侍るめり。

     伏見の雪のあした

大將殿の外の君たちは、おほとのゝひとつ御はらにおはしましき。おほ殿の御末こそは、一の人つがせ給ふめれ。その御報に押されて、大將殿もとくかくれ給ひけるにこそ。女君は後朱雀の院の中宮に、奉り給へりしは、誠の御子にはおはしまさで、式部卿の宮の御子なりしに、誠の御むすめは四條の宮と申しき。大將殿のひとつ御腹なり。伏見の修理のかみ、俊綱ときこえし人も、ひとつ御はらにおはしき。其の御母は贈二位讃岐守俊遠と、あひぐし給へりければ、俊綱の君、御子にておはしけれど、けざやかならぬ程なりければにや、猶俊遠のぬしの子の定にて、橘の俊綱とてぞおはせし。後になほ殿の御子とて、藤原になり給ひき。直衣など着られけるをも橘直衣とぞ人は申しける。まめやかになりて後、大殿、宇治の大僧正、四條の宮などは、おなじ御はらなれど、修理のかみは、下﨟にてやみ給ひにしぞかし。上達部にだにえなられざりける、猶世のあがりたるにや。からくやおぼしけむとぞおぼえはべりし。されども近江守有佐といひし人は、後三條の院の誠には御子と聞こえしかど、證岐守顯綱の子にてこそやまれにしか。有佐といふ名もみかどの御手にて扇にかゝせたまひて、母の侍從內侍に賜へりける。堀河の右のおとゞは中務の少輔有佐が道にあひておりて居たりつるこそ、いとほしく覺えつれ。院にたがはず似奉りたるさまなど有りけりと聞こえしかど〈ばイ〉、それはさてこそやまれにしか。此のすりのかみは、橘をかへられしかば、なほ關白の御子なるべし。