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ぢにて御年廿六にて、寬仁元年三月十六日攝政にならせたまふ。其の十九日牛車の宣旨かうぶらせ給ひて、やがてその廿二日、大臣三人のかみにつかせ給ふ宣旨かうぶり給ふ。帝おとなにならせ給ひぬれば、關白と申しき。後朱雀の院位につかせ給ふにも、猶御をぢにて長元九年四月廿九日、さらに關白せさせ給ふ。その後、太政大臣にならせ給ふ。御とし七十一とぞきこえ給ひし。治曆三年七〈十イ〉月七〈十イ〉日宇治院の平等に行幸ありて准三后の宣旨かうぶり給ふ。むかしの白河のおとゞの如くに、內舍人なども御隨身にたまはらせ給ひき。關白は讓り給ひて、のかせ給へれど、內覽の職事まゐり、物申すこと同じことなりき。後三條の院くらゐに即かせ給ひてぞ、年ごろの御心よからぬ事どもにて、宇治にこもりゐさせ給ひて延久四年正月二十九日御ぐしおろさせ給ひて、同六年二月二日八十三にてうせ給ひにき。この大臣、歌などもよくよませ給ひしにこそ侍るめれ。その中に堀川の右のおとゞに、梅の花をりて奉り給ふとて、

  「折られけりくれなゐ匂ふ梅の花けさ白妙に雪はふれゝど」

とよませたまひたる、いとやさしく末の世まで、とゞまり侍るめり。この大臣の御子、太郞にて右大將通房と申しゝ、十八にてうせ給ひにき。御母右兵衞督憲定の女なり。まうけの關白、一の人の太郞君にて、あへなくなり給ひにしかば、世もくれふたがりたるけしきなりしぞかし。としもまだ二十にだにならせ給はぬに、和歌などをかしくよませ給ひけるさへ、いとあはれに思ひ出でられさせ給ふ。「一夜ばかりを七夕の」などよませ給ひたる、後拾遺にいりて