続古事談/第四

 
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続古事談 第四
 
 
神社仏事
 
行教和尚、一夏九旬、宇佐宮に籠りて、昼は大乗経を読み、夜は真言を誦して、法楽し奉る。九旬に満ちなむとする時、我れ王城の近辺に向つて、国家を守り奉らむと託宣し給ひければ、涙を流して、十日延べて、御体を見奉らんと祈るに、三衣箱を見るべしと託宣ありければ、是を見るに、七条の袈装の上に、字にも非ず絵にもあらず、阿弥陀三尊現じ給へり。行教此御姿を移し奉る。さて京へ上りて此由を奏するに、御門の御夢に、男山の上に、紫雲立上りて、王城を覆へりと御覧じき。此事なるべしとて、急ぎ御殿を作り、内殿の中に、此御体をかけ奉る。人敢て見る事なし。たゞ御殿の預り、御座を敷く時、後向きて敷く。此内殿の中は、常に香しき香に匂へりとぞ。

行教和尚、大菩薩の御前に候して、勅命を承る気色ありけり。始の別当安宗大菩薩の御草鞋の鼻、水精の御念珠の十弟子を見たてまつりけり。外殿の木像は、敦実親王作り奉るなり。始めて御供を奉りけるに、雅信・重信、束帯にて役し給ひけり。保延の火事に、何れもみな焼けにけり。口惜き事なり。江帥申しけるは、大菩薩は釈迦の三尊なり。或聖人釈迦仏を見奉らんと祈りて、眼を閉ぢたる程に、飛ぶが如くにして、八幡の宝前に参りけり。釈迦仏におはしますなるべし。大権の化現なれば、釈迦阿弥陀、何れにてもあるべきにや。

兵庫頭知定といふ陪従ありけり。産穢に入りて甘余日を経て、八幡の御神楽に参勤し帰り、事なかりければ、又臨時祭に参りたりけるに、舞殿にて、鼻血あえたりければ、恐をなして罷出でて思ふ様、此産穢の外に不浄の事なし。此祟にやと疑ふ程に、知定が娘の十歳計りなるが、俄に気色変りて、知定を呼びていふやう、我は八幡の御使なり。汝を誠めんとて来るなり。いかで産婦と抱き寝て、大菩薩宝前へはオープンアクセス NDLJP:136参るぞ。仍御勘当あるなり。早く御神楽をして、勘当をゆるべし。汝が歌久しくきかず。我愛する所なり。早くうたふべし。又蒜鹿更に食ふべからず。大菩薩憎み給ふ物なりといふ。知定申す様、産穢をば、いく日計り忌むべきぞや。女子いはく、卅三日忌むべし。我れおとなに附くべけれども、一には疑あるべし。一には穢らはし。幼き者は、疑なく穢はしからず。此故に託宣するなりとてさめにけり。知定人々語らひて、八幡に参りて、御神楽行ひけり。

山王は、伝教大師の霊と申す僻事なり。社司成信語りけるは、先祖みつの浜の住人にてありけるに、夕暮に旅人来りて、船をかりて云く、此浜に通ふ人なり。此船これにあるべしといふ。つとめて高き木の上に此船あり。神人の仕業と知りて、帰命して問ひ奉る。則現じて、神託を宣はく、此山の麓に住まんと思ふ。則社を作りてしづめ奉る。此浜の住人の子孫、永く神人なりとぞ。又伝教大師、大和の三輪の明神を勧請して、山王とすとも申す。是も僻事なり。大比叡・小比叡、皆大師より先に住み給ふなり。住吉の明神託宣して宣ふ。昔新羅国を討ちし時、我は大将軍なり、日吉副将軍なり。後に将門を討つ時、日吉は大将軍、我は副将軍なり。是れ天台宗繁昌して、法施を受けて、威徳倍増の故なりとぞ。

三井寺の新羅明神は、やむごとなき神なり。宇治殿の御祈に、頼豪阿闍梨参りたりければ、宝殿の妻戸より、御直衣の袖、差出でたりけり。

祇園の宝殿の中には、龍穴ありとなむいふ。延久の焼亡の時、梨本の座主、其深さをはからむとせられければ、五十丈に及びて、猶底なしとぞ。保安四年、山法師追捕せられけるに、多く宝殿の中に逃げ入りたりける。其中にみぞあり。それに落入りたりつるとぞいひける。

後冷泉院の御時、世間騒がしかりける年、ならびの岡の辺に社を作らば、鎮まるべしと示現ありて、兵衛府生時重を始めて、六衛府の者共、社を作りて御霊会行ひけり。花園の社とぞいひける。

鳥羽院の御時、治部卿雅兼の夢に、此今宮祇園に参りて申し給ひける。我居所破れ損じて、既に年月を送るに、院宣ありて修理せらる。限なき悦なりと見えたりけれオープンアクセス NDLJP:137ば、時重といふもの、兵衛尉の功に作りける。覆勘を待たでなされにけり。

一条院の御時、六月晦日に、風吹き雷おどろしく鳴りける程に、母后の御方に、藤典侍といふ人に、北野天神附き給ひて宣ひける、我家破れたり、修理せらるべし。又摂政上達部引具して賀茂に詣でて、十列音楽奉らる、羨しき由託宣ありて、歌を詠み給ひける。

   うらやみにまよひし胸のかき陰りふるは涙のさまを見てしれ

此間殿上の殿守司一人、鬼間にて死にいりたりけり。陣の外に昇出で、息出でにけり。其後摂政、人々を具して北野に詣でて、作文和歌ありけるとぞ。

式部大輔在良といふ人、三条壬生になん住みける。是は天神、昔住み給ひける所なり。其後人住むことなし。在良申うけて居たりけり。夢にみるやう、汝は居るとも、子孫は住むべからず。在良老に臨みて、病附きて後、此家焼けにけり。夢の告空しからず。恐しき事なり。

金峯山の御在所には、九月九日より後、三月三日迄人参らず。是はたゞ寒気によりてのみにあらず。天人降りて供養し給ふともいひ、又邪魔ひまを窺ひて、充満すともいふなり。

下野国二荒山の頂に湖水あり。広さ千町計、清く澄める事類なし。林四方にめぐるといへども、木葉一水に浮ばず、魚もなし。若人魚を放てば、即ち波に打たれて出づ。二荒の権現山の頂に住み給ふ。麓の四方に田あり、其数を知らず。国司検田を入れず。千町の田代あり。宇都宮は権現の別宮なり。狩人鹿の頭を供へ、祭物にすとぞ。

白山の西園上人語りけるは、三所権現は、阿弥陀勢至観音十一面の垂跡なり。衆生の煩悩邪魔を、此池にかりこむる故に、かりこめの池といふなり。四十八年此山に籠りて、大願を発して、山の頂に堂を作りて、阿弥陀の三尊を居ゑ奉る。此山に三人の上人あり、一人は真言を習ひて、山の頂に住みて、三味の行法をして、人に会ふ事なし。五六十日物を食はねども、飢ゑたる気色なし。山内の人、之を証果の人といふ。一人は近く住みて、結縁の人来りて、未だ其詞を述べぬ先に、かねて人の心をオープンアクセス NDLJP:138知れり。人之を化人といふ。一人は座の前に鉢を置きて、天水を待ちてうけてのむ。旱する時は、咒をみてゝ加持すれば、雲起り雨降りて、此鉢に入る。其水絶ゆる事なし。年九十二なり。起居軽利なり。人之を神仙といふ。日泰上人といひける聖人、万の霊験所拝み、残す所なし。此山の滝の池の水、昔より汲む人なし。始めて之を汲みて、人にのませけり。飲む人皆病癒えけり。

広隆寺は、上宮太子、秦河勝が許へ御しける道に、はち岡の辺に仮屋作りて、御儲したりける所を、太子御覧じて、此所地形いみじき所なり。三百歳の後、都も此所に移して、仏法を崇めて、帝王の苗胤相継ぎて、絶ゆべからずと宣ひて、十箇日止まりて、此所を楓野別宮といふ。其後寺になして、河勝に給ふ。寺の前に水田卅町、後の山野六十町、同じく給ひけり。此寺の本仏は、百済国の弥勒なり。光を放ち給ふ仏なり。薬師仏は客仏なり。

昔摂津国に、富原といふ所に翁ありけり。家の前なる梅樹、夜々光りけり。怪しみて此木を切りて、一操手半の薬師仏を作り奉りて、丹後国石造寺に移し奉れりともいふ。一説には、山陰中納言、仏を作らんの願ありて、仏師を尋ねけるに、夢に見る様、行かん路に始めて会ひたらん人を、仏師として作らしむべしと見て夢覚めぬ。さて出でて行くに、牧童一人行逢ひぬ。牧童再三固辞すといへども、やむ事を得ず、之を作らしむるに、めでたく作り奉れり。此童仏作る間、常につばき吐きて、物を穢しけり。むづかしく思へども、仏を作らむが為めに、忍び過す程に、造り果てゝ帰らんとする暁方に、門を叩きて、此童を呼ぶ者あり。長谷寺の観音は是にかといふ。此童いふやう、口にくき文珠かなとて失せにけり。是れ長谷寺観音の化現なるべし。されば此薬師仏は、長谷寺の観音造り給へりとぞ。

此寺の阿弥陀堂の中尊は、稽文会が作れるなり。恵心僧都の夢に、極楽の阿弥陀仏を拝まんと思はゞ、此仏を見奉れと見給ひけり。仏其上光を放ち給ひけり。寺僧火事かとて、驚き騒ぎけり。

道昌僧都といふ人は、俗姓秦氏、讃岐国香河郡の人なり。年十四にて出家して、元興寺の明証法師に随ひて、三論宗を習ひ、兼て諸宗に渡る。弘仁八年に得度、年廿オープンアクセス NDLJP:139なり。天長五年、弘法大師に従ひて、真言の大法をうく。内裏の仏名会に召されけり。御門問ひ給はく、帝王の殺生の罪と凡夫の罪と、何れか重き。道昌申して云く、帝王は重く凡夫は軽し。此事を聞く者、法師年若くて、いふ事浅しと思へり。御門良久くありて宣はく、帝王の罪重しといふ、其説ありや。道昌申して云く、窃に此事を思ふに、帝王の供御は、多くの魚鳥を殺して、僅に一膳にあつといふとも、其罪重し。凡夫は、山海の禁制あれば、狩漁たやすからず。僅に之を取りて、口腹を養ふ。其の業軽きなり。御門此事を信じて、殺生をやめられたり。

此僧都、水尾帝の御持僧にて、広隆寺の別当なりける時、御薬ありて、僧都を召して、祈念せしむる時、僧都申す様、大炊寺に霊験の薬師仏います。彼仏を広隆寺に安置して、試みに祈り奉らんと。即ち宣旨を下して、此仏を広隆寺に移し奉り、七日祈り奉るに、玉体平安なり。其後大炊寺の聖人、道昌僧都が許に行きて、御悩平癒し給ひぬ。彼仏元の如く返し渡さるべしといふ。道昌敢てきかず、聖人歎きて、寝食を忘れて、欝の余りに、醍醐の聖宝僧正の許に行きていふやう、大炊寺の薬師仏、道昌盗みて返さず。取返さんとするに、力及ばず、いかゞすべき。聖宝いふやう、いと易き事なり。速に取返してん。但し広隆寺四壁全くして、容易く破り難し。其日其時に、人夫千人を大極殿の辺に設けて、我を待つべし。我力にてなどか取返さゞらむといふ。ひじり悦び帰りて、人夫千人を雇ひ集めて、其日になりて、大極殿の辺に設けて僧正を待つに、たま出できていふやう、其薬師仏は、僅に一𢷡手半也。一人しても取りてむ、千人の夫は、東大寺の大仏を盗むべきなりと嘲りければ、聖人不言とて止みにけり。

或説云、旱しける時、道昌大井川を堰きて祈りけるに、時の人いふやう、石造寺の薬師仏、霊験の仏なり。それに祈るべし、道昌これを聞きて。暫く奉迎て祈るに、空曇りて、雨快く降りにけり。さてやがて広隆寺に安置し奉りて、新仏を作りて、彼寺へ御渡し奉りにけり。さて広隆寺は繁昌し、石造寺は荒れにけり。

此寺別当時円法橋、四十余年寺務して亡せにけり。寺僧例に任せて、東寺の人ならんずると思ふ程に、量らざるに園城の増誉僧正になされぬ。寺僧驚き騒ぎて、本尊オープンアクセス NDLJP:140を取りて、山林に可入之由議定して、御帳の中なる厨子明けて、本尊を取出さむとするに、鑑なし。此の鎰失せて久しくなりにけり。さりとてあるべきならずとて、厨子を打破りて、本尊を出さんとするに、敢て動き給はず。兎角する程に、右の御手折れにけり。寺僧驚きて求むるに更になし。怪しみ恐れて、本の如く御帳の中に置きて去りぬ。此後阿弥陀堂の柱に押文あり。門跡薬師仏を取り奉ると書きたり。所司大衆、之を見て驚きて、御厨子を見るに、御厨子破れて、霊像の右の御手なし。衆人歎きて、御手を求むるに得る事なし。人疑ふらく、霊像動き給はぬによりて、御手を折り取りたるかといひて、扉を押合せて、布してからげゆひて封を付けて、此由を別当に触るゝに、たゞ恐るゝ事のみありて、させる沙汰なし。僧正亡せて後、仁和寺の寛助僧正、別当になりて、此事を聞きて、驚き歎きて、仏の御手に置きては、忽に左右し難し。先づ厨子を修理すべしとて、浄行の寺僧三人に浄衣をたびて、帳の中に入れて、からげたる布を解きて見るに、厨子敢て破損なし。奇異の思をなして、鑑を尋ぬるに、寺僧申して云、件の鑑、往年失せて久しくなりにけり。容易く開く事なき故なり。僧正重ねて仰せて云く、累代の物、空しく失すべからず。よく求むべし。玆に寺僧一人、古き鎰を捧げて出来れば、試に此鑑にて厨子を開くるに、忽然としてあきぬ。御帳の中暗くして見えず。脂燭をさして見るに、本尊の右の御手なし。僧正悲歎して、大座の本を見るに、まろかなる物あり、取りて見るに、既に此御手なり。之を取りて、泣々悦びて、つぎ奉りぬ。敢て違ふ事なし。恰も薬王の臂の還復するが如し。僧正悦びの余りに、所着の綿衣三領を脱ぎて、寺僧三人にかづけて云く、前世の宿縁によりて、此寺の吏になりたり。始は辞退の思ありしかども、今は既に随喜悦与、此寺度々炎上ありといへども、本仏焼け給はず。

西明房座主源心僧都宣ひけるは、中堂の薬師仏、うつまさの薬師仏、同じ契なり。病者中堂に詣でて祈りければ、夢に見るやう、此病は、右京の医師につくろはすべし。我は力及ばず、彼此分別なけれども、たゞ縁の有無によるべき也と見て、此病人思廻して、広隆寺に詣でて祈りければ、則癒えにけり。広隆寺の南大門の西力士は、相撲人宗平に似たるとなむ申伝へたる。

オープンアクセス NDLJP:141日野薬師仏は、伝教大師の作り給へると申す、誠にや。有国宰相が家に伝はりたる仏なり。正家朝臣が時に、家の長伝ふべしと、実綱朝臣申すによりて、後冷泉院の御時、実綱伝へ給ひたるなり。

西京の座主の申しけるは、斎院の北に、安国寺といふ所に、薬師仏おはします。伝教大師、中堂の薬師仏作りて後に、〔七イ〕年を経て、作り給へる仏なり。一斧一礼作り給へるなり。身金色衣、文は綵色なり。中堂の仏も、斯くおはするなり。薬師仏は、弘法大師三寸の像を作りて、之を負ひて、唐土に渡り給へり。伝教大師、又薬師仏を布に書き奉り、之を持ちて、唐に渡り給ふ。皆是仏法の祖師なり。

河原院は、融左大臣の家なり。台閣水石風流を尽して、作り磨きて住み給ひけり。亡せ給ひて後、其御子宇多法皇に奉りて、時々渡り給ひけり。彼大臣の霊、止まり住む聞えありければにや、常には住み給はず、大臣の抜苦の為に、誦経せられたる事あり。其後仏閣になりにけり。仁康聖人といふ者、知識を進めて、丈六の釈迦仏を作りて、此所に居ゑ奉りけり。大安寺の釈迦仏は、天人の作りたるなり。夫を移して、仏師康尚此仏を作れり。維敏・満仲などいふ武者より始めて、結縁助成せり。仮堂を作りて、始めて五時講を行ふ。時の明匠日毎に請に赴く。所謂山の座主花山厳久僧都・横川の明豪僧正・東塔の静仲供奉・静昭法橋・清範律師なり。説経論義、詞を尽して順を極む。願文は大江匡衡作り、佐理宰相清書せられたり。いかにめでたかりけむ、思ひやるべし。聴聞には、山には恵心檀那の僧都より始めて、奈良には小島真興僧都・清海上人已下、七大寺挙りて集まる。内記上人・三川入道など、さもある人、残るはなかりけり。結縁の為のみにあらず、人多く夢の告ありけり。此会に逢はむ人は、三途を離れて、浄刹に生るべしといふ。又霊山の釈迦預り給ふなど見たりけり。第三日講師静仲、高座の上にて、南無大恩教主釈迦大師と拝みたりければ、聴聞集会の人、同時に唱へて、五体を地に投げて礼拝しけり。計らず今日釈尊再び出来給へりとぞ、各随喜瞻仰しける。時明朝臣米千石を、造堂の料に施入しけり。其後此所鴨河水漲り入りて、苑池ほと水底になりぬべかりければ、上人、祗陀林の広幡院に移作しけり。此所は顕光左大臣の家なり。昔庶明中納言住みオープンアクセス NDLJP:142けり。古老伝ふらく、行基菩薩此地を見て、三宝不動の所なり。尊重すべしと宣ひけり。此所には、宇多法皇もおはしましけり。清貫民部卿も住みけりとぞ。顕光のおとゞ施入の後、上人堂を作る時の受領、多く助成しけり。供養の日僧衆を集め、音楽を調べけり。昔釈迦仏、竹苑より舎衛城に赴き給ふに異ならじ。其後西方院の座主院源、此所に於て、舎利会を始め行ふ。入道殿(〈道長〉)より始めて、大臣公卿貴賤つどひ集まりけり。祗陀林と名付けたる事は、須達長者祇園精舎を作りて、如来に施与す。今左大臣此地を上人に給へり。此事相似たるによりて、源信僧都名とせるなり。

六角堂の如意輪観音は、淡路国いはやの海に、辛櫃に入れて鎌子さして、打寄せられたりけるを、聖徳太子上げて御覧じて、本尊とし給ひけり。是は思禅師六代の本尊とぞ。太子、守屋大臣と戦ひ給ひける時、心の如く勝ちたらば、四天王寺を作らむと誓ひ給ひけるに、思の如く勝ち給ひければ、材木取らむとて、山城国愛宕の杣におはしける時、此本尊を、暫くたらの木のうつぼにすゑ奉りて、水あみ給ひて、本の如く取らんとし給ふに、此仏敢て離れ給はず。あやしみて臥し給へる夢に、此仏宣ふ様、汝が本尊として、すでに七世を経たり。今に於ては此所に止まりて、蠢々の衆生を利益すべし。是に依りて、堂を此所に作りて、すゑ奉らんとするに、東の方より、年老いたる女人出来れば、太子問ひて宣はく、此所に小堂を作らんとするに、材木ありなんや。此女申す様、此傍に杉の木一本あり。朝な紫雲引覆ふ。是にて作り給ふべし。次日太子行きて見給ふに、女の詞の如し。即ち此木を切りて、六角の小堂を作りて、此仏を安置し給ふ。遷都の時、造宮使申して云く、丈尺を以て、小路を打つて定むるに、六角の小堂、道の中心に当れり。是れ聖徳太子作り給へる、六角の小堂なり。宣旨に云く、他所へ渡すべし。玆に勅使祈請して云く、此所に住まんと思召さば、南北の間に、少し入り給へと申すに、空俄に暮れふたがりて、五丈計り北へ引入りにけり。さて六角の小路を通しつ。其後五百余歳を経て、天治二年十二月五日、京中大焼亡に、此堂は焼けにけり。左大弁為隆の侍、年頃仕うまつりける此本尊を、取出し奉りけり。其後頻に火事あり。

オープンアクセス NDLJP:143巌間寺正法寺といふ、山城国宇治の郡上、醍醐の奥の笠取山の東の峯なり。越の小大徳といふ行ひ人、十二年行ひたる所なり。日本第三の霊験所とぞ。一は熊野、二は金峯山なり。此大徳をば、泰澄法師ともいふ。又金鎮法師といふ。越後国古志郡の人なり。白山行ひて、次に此所に来れり。一𢷡手半の金銅の千手観音を本尊にて、身を離たず。戴き奉りけるを、此所の坤の方に、桂木のありけるを切りて、自手等身の千手観音を作りて、此金銅の仏を籠め奉りて、安置したるなり。此人は、唐へ渡りて、彼にて亡せにけり。此寺の護法は、熊野の権現・金峯山の蔵王・白山の権現・長谷寺の龍蔵権現なり。龍蔵は、大徳、彼寺に詣でて帰りけるに、随逐し給ひければ、いはひ奉るとぞ。

清滝権現は、地主にておはするなり。三井寺の叡効律師といふ人、此寺に二三年行ひて、無言にて、法華経を六千部読み講じき。夜毎に三千返拝しけり。さて堂の未申の桂木に上りて、我不愛身命但惜無上道と誦して、谷へ身を投げければ、護法袖を広げて受取りて、露散ることなかりけりとぞ。此事一定を知らず。此人は後一条院、東宮におはしける時、わらは病を煩ひ給ひけるに、参りて落し奉りて、御衣給はりて律師になされけり。罷出でて後、発り給ひたりければ、勧賞余りとしと、時の人申しけり。叡効が後、此所行ふ人絶えにけり。信増といふ者来り行ひて、其後常住七人絶えず。其中に誓源といふ常住難行苦行す。天王寺の海にて、身投げてけり。久寿元年十月の事なり。
 
続古事談第四
 
 

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