亜細亜諸国との和戦は我栄辱に関するなきの説

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亞細亞諸國との和戰は我榮辱に關するなきの説[編集]

　近日征韓の議論新聞紙上に飛雨をなし、世人の耳目も此論題に集るを以て、我儕の論鋒を之に向けること數囘、未だ心に慊らざりしが、福澤君より此論題に關する一議論を寄るに會へり。固より社論と方向を同ふするを以て、之を掲げて本日の社論とす。


　世の中の事に就き輕重大小を見分るは甚だ難きことなり。譬へば爰に一個の人あり、手足に怪我をして流血淋漓たらんには、傍の人皆是を見て驚かざる者なし。醫者よ藥よとて其手當をすることならん。されども其實は深く恐るゝに足らず、捨置くも自然に癒るものなり。又一個の人は其の容貌健なるには非ざれども、さしたる病症も見へず、唯朝夕少しく咳嗽して時々微熱を發する位のことなれば、素人の目には之を病人とも思はずして、動もすれば打捨て置くこと多けれども、其實は肺の病にして必死の期遠からず、幸にして去年の冬を過ごしたれども、今年の春に至て果して斃るゝことあり。
　僅かに身體の事にても斯の如し。況や世の中の人事に於てをや。輕重大小の紛らはしくして處置を誤ること甚だ多し。故に人事を處するには外形に拘はらずして其内情を察し、内實に困難なるものを先にして之を救はざる可らざるなり。
　今日我日本の有樣を太平無事として悦ぶ者は甚だ少なし。學問未だ上達せず、商賣未だ盛ならず、國未だ富まず、兵未だ強からずとて、之を憂るに非ずや。一口に云へば日本は未だ眞に開化の獨立國と稱す可らずとて之を心配することなり。此心配を抱く者は獨り政府の役人のみならず、凡そ此國に生れて國に叛くの惡心なきより以上の者は、共に此心配を與にする筈なり。此一段に至ては國内の人民、上下の別なく、華士族も平民も、目暗らも目明きも、學者も役者も、敵も味方も、異頭同心に一方に向ふことならん。
　今この國の獨立如何の心配ある其源を尋るに、我日本は亞細亞洲の諸國に對して其輕蔑を受るが爲歟、我學問の彼に及ばざるが爲歟、我商賣の彼に劣るが爲歟、我兵の彼より弱きが爲歟、我富の彼に若かざるが爲歟、是等の箇條に於ては我輩一も彼に恥るものなし。我輩の思ふ所にては、我日本は亞細亞の諸國に對して一歩をも讓らざる積りなり。されば我國の獨立如何の心配は別に源因を求めざる可らず。即ち其源因は亞細亞にあらずして歐羅巴に在るなり。
　虚心平氣、以て我國の有樣を詳にし、之を歐米諸國の有樣に比して、學問の優劣、商賣の盛否、國の貧富、兵の強弱を問はゞ、殘念ながら今日の處にて我は未だ彼に及ばずと云はざるを得ず。然り而して學問と商賣と國財と兵備とは一國獨立の元素なれば、彼に對して此物に欠典ありとすれば、我國の獨立如何は唯歐米諸國に對して心配あるのみ。故に今我邦の困難事は一概に外國交際に在りと云ふ可らず。余輩は此外國の字義を狹くして歐米諸國との交際に付き困難ありと云はざるを得ざる也。
　近來世間に洋學の道開けたりと雖ども、我國人は彼に學ぶのみにして未だ彼に教る者あるを聞かず。開港場に貿易ありと雖ども、商賣の權柄は彼の手に在りと云はざるを得ず。世上に物産製造の企なきに非ざれども、我國人は彼に資本を借るのみにして未だ彼に貸す者あるを見ず。英米の軍艦は日本海を横行して我國人の膽を奪ふ可しと雖ども、我國の兵備未だ以て之に敵對するに足らず。是等の諸件は實に我國威に關することにして、其事跡に見はれたるものは枚擧に遑あらず。日本國に屬したる貿易運上の權も我一方に在らず、裁判の權も我政府の自由に任せず、現に内外の間に起る公事訴訟も我國人は常に被告と爲て彼は常に原告たり。遇ま我人民より訴ることあるも、能く曲を伸ばす者は十中一に過ぎず。概して云へば我日本は歐米諸國の人民に對して曲を蒙る者と云はざるを得ず。但し其交際の外形は美にして互に輕擧暴動なきを以て、遠方より之を皮相する者は外形の美に欺かれて或は意に關せざるもの多しと雖ども、少しく内情に注意することあらば果して至難至困の勢を見出す可し。歐米の交際は我日本國の肺病と云ふ可きものなり。
　右の次第を以て考れば、我日本は亞細亞の諸國に對して和戰共に國の榮辱に差響くことなし。永遠の事を心配するときは、戰て之に勝つも却て國の獨立に害ありと云はざるを得ず。近く其一證を示さん。昨年臺灣の一條は我國の勝利と云ふ可し。之がため臺人も恐入りたることならん、支那人も閉口したることならん。されども此勝利の後、此勝利の勢を以て、聊かにても歐米の交際に差響き、歐米の人民に對して我國威を燿かし、暗に彼を恐れしめて彼を制するの勢を得たるや。十目の見る所にて毫も其痕跡なきに非ずや。此一條に付き今日に殘りたるものは、軍費數百萬圓の不足あるのみ。去年若し此數百萬圓を費さずして之を轉じて外債の一部を拂ふことあらば、我全國の人民は負擔の一部を卸して永遠獨立の一部を助け、全國肺病の一部を癒したるに非ずや。思はざる可らざる也。
　歐米諸國に對して、我學問の不熟、我商賣の拙劣、我兵備の不足等は姑く閣き、簡易明白、何人にも分り易き我國の損亡は今の外債なり。之を人に聞く、方今我國の外債凡そ千五百萬圓、元利共に償却して今後毎年二百萬圓づゝを拂ひ、凡そ二十年、共計四千萬圓の金を拂て皆濟たる可しと。歐米諸國の政府にも國債なるものあれども、大概皆自國の人民に募りたるものなれば、自から借りて自から拂ふものなり。然るに我國債は商賣の敵國に借用したるものなれば、拂ふ所の利金は一度び去て復た返らず。四千萬の内、元金千五百萬を引き、殘二千五百萬の利足を二十に分てば、一年に百二十五萬圓なり。此高を償ふがため、毎年我國民の膏血を集めてこれを外國に輸出するとは惜む可きに非ずや。一俵二圓の米なれば、毎年作り出したる米の内より六十萬俵餘の高を集めて、之を海に投ずるに異ならず。又金の損得のみに就て云へば、英國と戰ひ負けて二千五百萬圓の償金を拂ふに異ならず。何れにしても外債は我國の經濟にからみ付たる肺病と云ふ可し。前日余が著述したる文明論之概略第六卷の四十二葉に、巨艦大砲は以て巨艦大砲の敵に敵す可くして借金の敵に敵す可らずと云へり。參考す可し。
　近日世上に征韓の話あり。一と通り聞けば伐つ可き趣意もなきに非ず。野蠻なる朝鮮人なれば必ず我に向て無禮を加へたることもあらん。道理を述て解すこと能はざる相手なれば、伐つより外に術なしと云ふ説もあらん。加之これを伐たんと云ふ輩は敢て私心を挾むに非ず、愛國盡忠の赤心を事實に顯はさんとすることなれば、一概に之を咎む可らずと雖ども、國を愛するには之を愛するの法なかる可らず、忠を盡すには之を盡すの路を求めざる可らず。其法と路とを求るには、心を靜にして永遠の利害を察すること最も緊要なり。彼の手足の怪我を見て狼狽するが如きは思慮の足らざる人と云ふ可し。
　朝鮮交際の利害を論ずるには先づ其國柄を察せざる可らず。抑も此國を如何なるものぞと尋るに、亞細亞洲中の一小野蠻國にして、其文明の有樣は我日本に及ばざること遠しと云ふ可し。之と貿易して利あるに非ず、之と通信して益あるに非ず、其學問取るに足らず、其兵力恐るゝに足らず、加之假令ひ彼より來朝して我屬國と爲るも、尚且之を悦ぶに足らず。蓋し其故は何ぞや。前に云へる如く我日本は歐米諸國に對して竝立の權を取り、歐米諸國を制するの勢を得るに非ざれば、眞の獨立と云ふ可らず。而して朝鮮の交際は假令ひ我望む所の如くなるも、此獨立の權勢に就き一毫の力をも増すに足らざればなり。
　朝鮮は彼より來朝して我屬國と爲るも之を悦ぶに足らず。況や事を起して之と戰ふに於てをや。之に勝て榮とするに足らず、之を取て利するに足らず。巨萬の軍用金を費して歐米の物を仰ぎ、歐米の船艦を買ひ、歐米の銃砲を求め、錢を歐米の人に與へて物を朝鮮の國に費し、結局我外債の高を増して、毎年海に投ずるに等しく償金を拂ふに等しき利足を外國に輸出するに過ぎず。青年の書生と雖ども、數學の初歩を學び得たるものなれば、明白に解す可き算當に非ずや。永遠の利害を察するとは此邊の損得を思慮することなり。愛國の至情を擴て獨り自から沈思せば必ず大に發明することあらん。方今我國は正に借金の敵に向て戰ふ可きの秋なり。先づ此勁敵を壓倒して安心の地位を作り、砲艦の戰の如きは他日徐々に其謀ある可きなり。
　征韓論者の云く、征韓は固より好む所に非ざれども、既に雙方の間に釁を開く上は、一國の榮辱に於て捨置く可らず、大義名分は金のために誤る可らずと。一應尤の言なれども、前に云へる如く、我日本は親の病氣にも等しき歐米交際の困難なるものを抱けり。今親の大病にて家内を靜謐にせざる可らざるの時に當り、門外に折助が亂妨喧嘩するとて、之に取合ひ、之と爭鬪して、家内の靜謐を妨げ、親の病氣に害を加ふ可きや。人心ある子弟ならば理も非も問はずして何事も後日の事に附し、其折助へは酒手にても取らせて追ひ返し、穩便に取扱ふこそ孝子の處分と云ふ可けれ。今の朝鮮人の無禮は折助の亂妨に異ならず。之を度外に置くも何ぞ國の榮辱に關することあらんや。論者は我日本をして折助と鬪はしめんと欲する乎。余輩は本國のために却て之を恥るなり。
　論者又云く、朝鮮は目的に非ず、朝鮮に事を始て次で支那に及ぼし、支那の富を取て以て今日の費を償ふ可しと。盛なる哉、此言や。支那をして孤立せしめなば此言或は當る可しと雖ども、今日世界の有樣に於て支那は決して孤立するものに非ず。支那帝國は正に是れ歐米諸國人の田園なり。豈他人をして貴重なる田園を蹂躪せしむることあらんや。事こゝに至らば、歐米の人は支那人を憐むに非ずして、自から貿易の利を失ふを惜み、自から利するの私心を以て支那を助るや必然の勢なり。假令ひ自から利するの私心なきものとするも、嫉妬の念を以て必ず他の所業を妨ることある可し。今を去ること十餘年、魯西亞人が對馬に上陸して地を占めんとせしとき、英の公使は力を盡して之を防ぎ、遂に其地を去らしめたることあり。當時英公使の盡力は日本の爲にしたるに非ず。英國の面目として、魯人の日本に地を占るを惡み、其權力を嫉て之を妨げたるのみ。萬國の交際に於て權力を平均せしむるものは嫉妬の念に生ずること多し。此亦心得ざる可らず。されば日本人の思ひの儘に朝鮮に勝ち、朝鮮丈けは外國人が傍觀するものと假に定るも、支那に至りしとき日本人が四百餘州を蹂躪するを見て手を拱することあらんや。是れも永遠の事なり。今より考へざる可からず。
　是に於てか愛國盡忠の輩は人事の輕重大小を辨別し、志を遠大にして眞に我國の獨立を謀り、亞細亞諸國の交際に於ては和戰共に我獨立の權力に差響くことなきを知り、我獨立は歐米に對立して始て滿足す可きを知り、此獨立は學問と商賣と國財と兵備と四者各其釣合を得て始て安心の場合に至る可きを知り、亞細亞諸國との和戰に由ては四者を目的として一も所得ある可らざるを知り、加之戰へば必ず此四者を退歩せしめ、殊に國財の如きは第一番に不足を生じて却て外債を増す可きを知り、今日朝鮮の事件は恰も手足の疵の如くして深く憂るに足らず、其無禮は恰も折助の亂暴の如くして之を度外に置く可きを知り、歐米の交際は肺病の如くして早晩必死の患ある可きを知り、國の榮辱は一朝に在ずして永遠に在るを知り、愛國の志あるも愛國の路を求むるの緊要なるを知り、一朝の怒を忍て他日大に期する所あるこそ、眞の日本人に非ずや。人誰か愛國の至情なからんや。余輩も日本國中の人民にして、國の一部は自から擔當する者なれば、只管他人の好尚に雷同するを得ず。敢て愛國の趣を述ること斯の如きなり。
　論者又云く、征韓論の人心に萌芽するや日既に久し、焔々の氣鬱結して遂に臺彎の師と爲り、其餘焔尚消滅せずして遂に今日に至りしものなれば、何れにも其流通の路を設けざる可らず、即ち今日の事は鬱焔を洩らし滯水を通ずるの權道にして、勢こゝに至れば止んと欲して止む可らざるものなりと。其意味を察するに、此論者は前の二論者に比すれば全く所見を別にしたる者にして、中心征韓の非を知り、國の獨立のために實に害あるを辨じながら、唯勢に迫られて止むを得ざるの策に出で、止むを得ざるの拙を行ふと云ふものゝ如し。余輩は甚だ以て不同心なり。抑も征韓論とは何れより來りしものなるや。天より降るに非ず、地より生ずるに非ず。征韓を以て日本國の利益と思ふ人の口より出たる議論なり。其人は木石に非ず、水火に非ず。正に人心を具して道理を辨ず可き人類にして、然かも愛國の情に乏しからざる人物なれども、唯其所見近淺にして方向を誤るのみ。今若し此人の心をして方向を改めしむるを得ば、征韓論は立所に止む可し。論者若し征韓の非を知らば何ぞ直に其非を述べ、或は書に記し或は言に發し公然と之と唱へざるや。一點の愛國心に符合する所あれば、異説爭論も遂には一に歸せざるを得ず。然るに今其沙汰もなく、唯此論者の如く世間の人氣を測量して、或は其餘焔を洩らすと云ひ、或は其渟滯を通ずると云ひ、人を視ること水火の如く、手術を以て之を御せんとするは、同權の人類に對して無禮なりと云ふ可し。抑も亦彼の征韓論者の少年輩も、其熱中の甚しきに至ては、或は水火の如き勢もありて、水火の如く御せられて申譯なき場合もあらん乎、誠に氣の毒千萬なりと云ふ可し。人は此世に居て他の拙を憂へて其不足を補ふ樣にこそありたきものなれ。然るに己が熱心の甚しきよりして、他人のために憂へらるゝの目的と爲るとは淺ましきことならずや。少しく勘辨せざる可らず。兎に角に政治學者の權謀術數は余輩の知る所に非ず。余輩は日本國中の良民たる地位と面目とを全ふせんがため、亞細亞の和戰は國の榮辱とするに足らず、朝鮮の征伐は止む可しとの説を主張し、之を天下の公議に附して、一人たりとも此説に同意する者多きを願ふなり。

〔明治八年十月七日「郵便報知新聞」社説欄〕

亜細亜諸国との和戦は我栄辱に関するなきの説[編集]

　近日（きんじつ）征韓（せいかん）の議論（ぎろん）新聞紙上（しんぶんしじょう）に飛雨（ひう）をなし、世人（せじん）の耳目（じもく）も此（この）論題（ろんだい）に集（あつむ）るを以（もっ）て、我儕（わがさい）の論鋒（ろんぽう）を之（これ）に向（む）けること数回（すうかい）、未（いま）だ心（こころ）に慊（あきた）らざりしが、福沢君（ふくざわくん）より此（この）論題（ろんだい）に関（かん）する一議論（いちぎろん）を寄（よせ）るに会（あ）えり。固（もと）より社論（しゃろん）と方向（ほうこう）を同（おなじ）うするを以（もっ）て、之（これ）を掲（かか）げて本日（ほんじつ）の社論（しゃろん）とす。


　世（よ）の中（なか）の事（こと）に就（つ）き軽重大小（けいちょうだいしょう）を見分（みわく）るは甚（はなは）だ難（かた）きことなり。譬（たと）えば爰（ここ）に一個（いっこ）の人（ひと）あり、手足（てあし）に怪我（けが）をして流血（りゅうけつ）淋漓（りんり）たらんには、傍（かたわら）の人（ひと）皆（みな）是（これ）を見（み）て驚（おどろ）かざる者（もの）なし。医者（いしゃ）よ薬（くすり）よとて其（その）手当（てあて）をすることならん。されども其実（そのじつ）は深（ふか）く恐（おそ）るゝに足（た）らず、捨置（すてお）くも自然（しぜん）に癒（いえ）るものなり。又（また）一個（いっこ）の人（ひと）は其（そ）の容貌（ようぼう）健（けん）なるには非（あら）ざれども、さしたる病症（びょうしょう）も見（み）えず、唯（ただ）朝夕（あさゆう）少（すこし）しく咳嗽（がいそう）して時々（ときどき）微熱（びねつ）を発（はっ）する位（くらい）のことなれば、素人（しろうと）の目（め）には之（これ）を病人（びょうにん）とも思（おも）わずして、動（やや）もすれば打捨（うちすて）て置（お）くこと多（おお）けれども、其実（そのじつ）は肺（はい）の病（やまい）にして必死（ひっし）の期（き）遠（とお）からず、幸（さいわい）にして去年（きょねん）の冬（ふゆ）を過（す）ごしたれども、今年（ことし）の春（はる）に至（いたり）て果（はた）して斃（たお）るゝことあり。
　僅（わず）かに身体（しんたい）の事（こと）にても斯（かく）の如（ごと）し。況（いわん）や世（よ）の中（なか）の人事（じんじ）に於（おい）てをや。軽重大小（けいちょうだいしょう）の紛（まぎ）らわしくして処置（しょち）を誤（あやま）ること甚（はなは）だ多（おお）し。故（ゆえ）に人事（じんじ）を処（しょ）するには外形（がいけい）に拘（かか）わらずして其（その）内情（ないじょう）を察（さっ）し、内実（ないじつ）に困難（こんなん）なるものを先（さき）にして之（これ）を救（すく）わざる可（べか）らざるなり。
　今日（こんにち）我日本（わがにほん）の有様（ありさま）を太平無事（たいへいぶじ）として悦（よろこ）ぶ者（もの）は甚（はなは）だ少（すく）なし。学問（がくもん）未（いま）だ上達（じょうたつ）せず、商売（しょうばい）未（いま）だ盛（さかん）ならず、国（くに）未（いま）だ富（と）まず、兵（へい）未（いま）だ強（つよ）からずとて、之（これ）を憂（うれう）るに非（あら）ずや。一口（ひとくち）に言（い）えば日本（にほん）は未（いま）だ真（しん）に開化（かいか）の独立国（どくりつこく）と称（しょう）す可（べか）らずとて之（これ）を心配（しんぱい）することなり。此（この）心配（しんぱい）を抱（いだ）く者（もの）は独（ひと）り政府（せいふ）の役人（やくにん）のみならず、凡（およ）そ此国（このくに）に生（うま）れて国（くに）に叛（そむ）くの悪心（あくしん）なきより以上（いじょう）の者（もの）は、共（とも）に此（この）心配（しんぱい）を与（とも）にする筈（はず）なり。此（この）一段（いちだん）に至（いたり）ては国内（こくない）の人民（じんみん）、上下（じょうげ）の別（べつ）なく、華士族（かしぞく）も平民（へいみん）も、目暗（めく）らも目明（めあ）きも、学者（がくしゃ）も役者（やくしゃ）も、敵（てき）も味方（みかた）も、異頭同心（いとうどうしん）に一方（いっぽう）に向（むか）うことならん。
　今（いま）この国（くに）の独立（どくりつ）如何（いかん）の心配（しんぱい）ある其（その）源（みなもと）を尋（たずぬ）るに、我日本（わがにほん）は亜細亜洲（アジヤしゅう）の諸国（しょこく）に対（たい）して其（その）軽蔑（けいべつ）を受（うく）るが為（ため）歟（か）、我学問（わががくもん）の彼（かれ）に及（およ）ばざるが為（ため）歟（か）、我商売（わがしょうばい）の彼（かれ）に劣（おと）るが為（ため）歟（か）、我兵（わがへい）の彼（かれ）より弱（よわ）きが為（ため）歟（か）、我富（わがとみ）の彼（かれ）に若（し）かざるが為（ため）歟（か）、是等（これら）の箇条（かじょう）に於（おい）ては我輩（わがはい）一（ひとつ）も彼（かれ）に恥（はず）るものなし。我輩（わがはい）の思（おも）う所（ところ）にては、我日本（わがにほん）は亜細亜（アジヤ）の諸国（しょこく）に対（たい）して一歩（いっぽ）をも譲（ゆず）らざる積（つも）りなり。されば我国（わがくに）の独立（どくりつ）如何（いかん）の心配（しんぱい）は別（べつ）に源因（げんいん）を求（もと）めざる可（べか）らず。即（すなわ）ち其（その）源因（げんいん）は亜細亜（アジヤ）にあらずして欧羅巴（ヨーロッパ）に在（あ）るなり。
　虚心平気（きょしんへいき）、以（もっ）て我国（わがくに）の有様（ありさま）を詳（つまびらか）にし、之（これ）を欧米諸国（おうべいしょこく）の有様（ありさま）に比（ひ）して、学問（がくもん）の優劣（ゆうれつ）、商売（しょうばい）の盛否（せいひ）、国（くに）の貧富（ひんぷ）、兵（へい）の強弱（きょうじゃく）を問（と）わば、残念（ざんねん）ながら今日（こんにち）の処（ところ）にて我（われ）は未（いま）だ彼（かれ）に及（およ）ばずと言（い）わざるを得（え）ず。然（しか）り而（しこう）して学問（がくもん）と商売（しょうばい）と国財（こくざい）と兵備（へいび）とは一国独立（いっこくどくりつ）の元素（げんそ）なれば、彼（かれ）に対（たい）して此物（このもの）に欠典（けってん）ありとすれば、我国（わがくに）の独立（どくりつ）如何（いかん）は唯（ただ）欧米諸国（おうべいしょこく）に対（たい）して心配（しんぱい）あるのみ。故（ゆえ）に今（いま）我邦（わがくに）の困難事（こんなんじ）は一概（いちがい）に外国交際（がいこくこうさい）に在（あ）りと言（い）う可（べか）らず。余輩（よはい）は此（この）外国（がいこく）の字義（じぎ）を狭（せま）くして欧米諸国（おうべいしょこく）との交際（こうさい）に付（つ）き困難（こんなん）ありと言（い）わざるを得（え）ざる也（なり）。
　近来（きんらい）世間（せけん）に洋学（ようがく）の道（みち）開（ひら）けたりと雖（いえ）ども、我国人（わがこくじん）は彼（かれ）に学（まな）ぶのみにして未（いま）だ彼（かれ）に教（おしう）る者（もの）あるを聞（き）かず。開港場（かいこうじょう）に貿易（ぼうえき）ありと雖（いえ）ども、商売（しょうばい）の権柄（けんぺい）は彼（かれ）の手（て）に在（あ）りと言（い）わざるを得（え）ず。世上（せじょう）に物産（ぶっさん）製造（せいぞう）の企（くわだて）なきに非（あら）ざれども、我国人（わがこくじん）は彼（かれ）に資本（しほん）を借（か）るのみにして未（いま）だ彼（かれ）に貸（か）す者（もの）あるを見（み）ず。英米（えいべい）の軍艦（ぐんかん）は日本海（にほんかい）を横行（おうこう）して我国人（わがこくじん）の胆（きも）を奪（うば）う可（べ）しと雖（いえ）ども、我国（わがくに）の兵備（へいび）未（いま）だ以（もっ）て之（これ）に敵対（てきたい）するに足（た）らず。是等（これら）の諸件（しょけん）は実（じつ）に我（わが）国威（こくい）に関（かん）することにして、其（その）事跡（じせき）に見（み）われたるものは枚挙（まいきょ）に遑（いとま）あらず。日本国（にほんこく）に属（ぞく）したる貿易（ぼうえき）運上（うんじょう）の権（けん）も我（わが）一方（いっぽう）に在（あ）らず、裁判（さいばん）の権（けん）も我（わが）政府（せいふ）の自由（じゆう）に任（まか）せず、現（げん）に内外（ないがい）の間（あいだ）に起（おこ）る公事（くじ）訴訟（そしょう）も我国人（わがこくじん）は常（つね）に被告（ひこく）と為（なり）て彼（かれ）は常（つね）に原告（げんこく）たり。遇（たまた）ま我（わが）人民（じんみん）より訴（うったう）ることあるも、能（よ）く曲（きょく）を伸（の）ばす者（もの）は十中一（じゅっちゅういつ）に過（す）ぎず。概（がい）して言（い）えば我日本（わがにほん）は欧米諸国（おうべいしょこく）の人民（じんみん）に対（たい）して曲（きょく）を蒙（こうむ）る者（もの）と言（い）わざるを得（え）ず。但（ただ）し其（その）交際（こうさい）の外形（がいけい）は美（び）にして互（たがい）に軽挙暴動（けいきょぼうどう）なきを以（もっ）て、遠方（えんぽう）より之（これ）を皮相（ひそう）する者（もの）は外形（がいけい）の美（び）に欺（あざむ）かれて或（あるい）は意（い）に関（かん）せざるもの多（おお）しと雖（いえ）ども、少（すこ）しく内情（ないじょう）に注意（ちゅうい）することあらば果（はた）して至難至困（しなんしこん）の勢（いきおい）を見出（みいだ）す可（べ）し。欧米（おうべい）の交際（こうさい）は我（わが）日本国（にほんこく）の肺病（はいびょう）と言（い）う可（べ）きものなり。
　右（みぎ）の次第（しだい）を以（もっ）て考（かんがう）れば、我日本（わがにほん）は亜細亜（アジヤ）の諸国（しょこく）に対（たい）して和戦（わせん）共（とも）に国（くに）の栄辱（えいじょく）に差響（さしひび）くことなし。永遠（えいえん）の事（こと）を心配（しんぱい）するときは、戦（たたかい）て之（これ）に勝（か）つも却（かえっ）て国（くに）の独立（どくりつ）に害（がい）ありと言（い）わざるを得（え）ず。近（ちか）く其（その）一証（いっしょう）を示（しめ）さん。昨年（さくねん）台湾（たいわん）の一条（いちじょう）は我国（わがくに）の勝利（しょうり）と言（い）う可（べ）し。之（これ）がため台人（たいじん）も恐入（おそれい）りたることならん、支那人（しなじん）も閉口（へいこう）したることならん。されども此（この）勝利（しょうり）の後（のち）、此（この）勝利（しょうり）の勢（いきおい）を以（もっ）て、聊（いささ）かにても欧米（おうべい）の交際（こうさい）に差響（さしひび）き、欧米（おうべい）の人民（じんみん）に対（たい）して我（わが）国威（こくい）を燿（かがや）かし、暗（あん）に彼（かれ）を恐（おそ）れしめて彼（かれ）を制（せい）するの勢（いきおい）を得（え）たるや。十目（じゅうもく）の見（み）る所（ところ）にて毫（ごう）も其（その）痕跡（こんせき）なきに非（あら）ずや。此（この）一条（いちじょう）に付（つ）き今日（こんにち）に残（のこ）りたるものは、軍費（ぐんぴ）数百万円（すうひゃくまんえん）の不足（ふそく）あるのみ。去年（きょねん）若（も）し此（この）数百万円（すうひゃくまんえん）を費（ついや）さずして之（これ）を転（てん）じて外債（がいさい）の一部（いちぶ）を払（はら）うことあらば、我（わが）全国（ぜんこく）の人民（じんみん）は負担（ふたん）の一部（いちぶ）を卸（おろ）して永遠（えいえん）独立（どくりつ）の一部（いちぶ）を助（たす）け、全国（ぜんこく）肺病（はいびょう）の一部（いちぶ）を癒（いや）したるに非（あら）ずや。思（おも）わざる可（べか）らざる也（なり）。
　欧米諸国（おうべいしょこく）に対（たい）して、我（わが）学問（がくもん）の不熟（ふじゅく）、我（わが）商売（しょうばい）の拙劣（せつれつ）、我（わが）兵備（へいび）の不足（ふそく）等（とう）は姑（しばら）く閣（さしお）き、簡易明白（かんいめいはく）、何人（なにびと）にも分（わか）り易（やす）き我国（わがくに）の損亡（そんもう）は今（いま）の外債（がいさい）なり。之（これ）を人（ひと）に聞（き）く、方今（ほうこん）我国（わがくに）の外債（がいさい）凡（およ）そ千五百万円（せんごひゃくまんえん）、元利（がんり）共（とも）に償却（しょうきゃく）して今後（こんご）毎年（まいとし）二百万円（にひゃくまんえん）ずつを払（はら）い、凡（およ）そ二十年（にじゅうねん）、共計（きょうけい）四千万円（よんせんまんえん）の金（かね）を払（はらい）て皆済（かいさい）たる可（べ）しと。欧米諸国（おうべいしょこく）の政府（せいふ）にも国債（こくさい）なるものあれども、大概（たいがい）皆（みな）自国（じこく）の人民（じんみん）に募（つの）りたるものなれば、自（みず）から借（か）りて自（みず）から払（はら）うものなり。然（しか）るに我（わが）国債（こくさい）は商売（しょうばい）の敵国（てきこく）に借用（しゃくよう）したるものなれば、払（はら）う所（ところ）の利金（りきん）は一度（ひとた）び去（さり）て復（ま）た返（かえ）らず。四千万（よんせんまん）の内（うち）、元金（がんきん）千五百万（せんごひゃくまん）を引（ひ）き、残（のこり）二千五百万（にせんごひゃくまん）の利足（りそく）を二十（にじゅう）に分（わか）てば、一年（いちねん）に百二十五万円（ひゃくにじゅうごまんえん）なり。此（この）高（たか）を償（つぐの）うがため、毎年（まいとし）我（わが）国民（こくみん）の膏血（こうけつ）を集（あつ）めてこれを外国（がいこく）に輸出（ゆしゅつ）するとは惜（おし）む可（べ）きに非（あら）ずや。一俵二円（いっぴょうにえん）の米（こめ）なれば、毎年（まいとし）作（つく）り出（いだ）したる米（こめ）の内（うち）より六十万俵余（ろくじゅうまんぴょうあまり）の高（たか）を集（あつ）めて、之（これ）を海（うみ）に投（とう）ずるに異（こと）ならず。又（また）金（かね）の損得（そんとく）のみに就（つい）て言（い）えば、英国（えいこく）と戦（たたか）い負（ま）けて二千五百万円（にせんごひゃくまんえん）の償金（しょうきん）を払（はら）うに異（こと）ならず。何（いず）れにしても外債（がいさい）は我国（わがくに）の経済（けいざい）にからみ付（つい）たる肺病（はいびょう）と言（い）う可（べ）し。前日（ぜんじつ）余（よ）が著述（ちょじゅつ）したる文明論之概略（ぶんめいろんのがいりゃく）第六巻（だいろくかん）の四十二葉（よんじゅうによう）に、巨艦大砲（きょかんたいほう）は以（もっ）て巨艦大砲（きょかんたいほう）の敵（てき）に敵（てき）す可（べ）くして借金（しゃっきん）の敵（てき）に敵（てき）す可（べか）らずと言（い）えり。参考（さんこう）す可（べ）し。
　近日（きんじつ）世上（せじょう）に征韓（せいかん）の話（はなし）あり。一（ひ）と通（とお）り聞（きけ）けば伐（う）つ可（べ）き趣意（しゅい）もなきに非（あら）ず。野蛮（やばん）なる朝鮮人（ちょうせんじん）なれば必（かなら）ず我（われ）に向（むかい）て無礼（ぶれい）を加（くわ）えたることもあらん。道理（どうり）を述（のべ）て解（かい）すこと能（あた）わざる相手（あいて）なれば、伐（う）つより外（ほか）に術（すべ）なしと言（い）う説（せつ）もあらん。加之（しかのみならず）これを伐（う）たんと言（い）う輩（はい）は敢（あえ）て私心（ししん）を挟（はさ）むに非（あら）ず、愛国尽忠（あいこくしちゅう）の赤心（せきしん）を事実（じじつ）に顕（あら）わさんとすることなれば、一概（いちがい）に之（これ）を咎（とが）む可（べか）らずと雖（いえ）ども、国（くに）を愛（あい）するには之（これ）を愛（あい）するの法（ほう）なかる可（べか）らず、忠（ちゅう）を尽（つく）すには之（これ）を尽（つく）すの路（みち）を求（もとめ）めざる可（べか）らず。其（その）法（ほう）と路（みち）とを求（もとむ）るには、心（こころ）を静（しずか）にして永遠（えいえん）の利害（りがい）を察（さっ）すること最（もっと）も緊要（きんよう）なり。彼（か）の手足（てあし）の怪我（けが）を見（み）て狼狽（ろうばい）するが如（ごと）きは思慮（しりょ）の足（た）らざる人（ひと）と言（い）う可（べ）し。
　朝鮮交際（ちょうせんこうさい）の利害（りがい）を論（ろん）ずるには先（ま）ず其（その）国柄（くにがら）を察（さっ）せざる可（べか）らず。抑（そ）も此国（このくに）を如何（いか）なるものぞと尋（たずぬ）るに、亜細亜洲（アジヤしゅう）中（ちゅう）の一小野蛮国（いちしょうやばんこく）にして、其（その）文明（ぶんめい）の有様（ありさま）は我日本（わがにほん）に及（およ）ばざること遠（とお）しと言（い）う可（べ）し。之（これ）と貿易（ぼうえき）して利（り）あるに非（あら）ず、之（これ）と通信（つうしん）して益（えき）あるに非（あら）ず、其（その）学問（がくもん）取（と）るに足（た）らず、其（その）兵力（へいりょく）恐（おそ）るゝに足（た）らず、加之（しかのみならず）仮令（たと）い彼（かれ）より来朝（らいちょう）して我（わが）属国（ぞっこく）と為（な）るも、尚且（なおかつ）之（これ）を悦（よろこ）ぶに足（た）らず。蓋（けだ）し其故（そのゆえ）は何（なん）ぞや。前（まえ）に言（い）える如（ごと）く我日本（わがにほん）は欧米諸国（おうべいしょこく）に対（たい）して並立（へいりつ）の権（けん）を取（と）り、欧米諸国（おうべいしょこく）を制（せい）するの勢（いきおい）を得（う）るに非（あら）ざれば、真（まこと）の独立（どくりつ）と言（い）う可（べか）らず。而（しこう）して朝鮮（ちょうせん）の交際（こうさい）は仮令（たと）い我（わが）望（のぞ）む所（ところ）の如（ごと）くなるも、此（この）独立（どくりつ）の権勢（けんせい）に就（つ）き一毫（いちごう）の力（ちから）をも増（ま）すに足（た）らざればなり。
　朝鮮（ちょうせん）は彼（かれ）より来朝（らいちょう）して我（わが）属国（ぞっこく）と為（な）るも之（これ）を悦（よろこ）ぶに足（た）らず。況（いわん）や事（こと）を起（おこ）して之（これ）と戦（たたか）うに於（おい）てをや。之（これ）に勝（かち）て栄（えい）とするに足（た）らず、之（これ）を取（とり）て利（り）するに足（た）らず。巨万（きょまん）の軍用金（ぐんようきん）を費（ついや）して欧米（おうべい）の物（もの）を仰（あお）ぎ、欧米（おうべい）の船艦（せんかん）を買（か）い、欧米（おうべい）の銃砲（じゅうほう）を求（もと）め、銭（ぜに）を欧米（おうべい）の人（ひと）に与（あた）えて物（もの）を朝鮮（ちょうせん）の国（くに）に費（ついや）し、結局（けっきょく）我（わが）外債（がいさい）の高（たか）を増（ま）して、毎年（まいねん）海（うみ）に投（とう）ずるに等（ひと）しく償金（しょうきん）を払（はら）うに等（ひと）しき利足（りそく）を外国（がいこく）に輸出（ゆしゅつ）するに過（す）ぎず。青年（せいねん）の書生（しょせい）と雖（いえ）ども、数学（すうがく）の初歩（しょほ）を学（まな）び得（え）たるものなれば、明白（めいはく）に解（げ）す可（べ）き算当（さんとう）に非（あら）ずや。永遠（えいえん）の利害（りがい）を察（さっ）するとは此辺（このへん）の損得（そんとく）を思慮（しりょ）することなり。愛国（あいこく）の至情（しじょう）を拡（おしひろめ）て独（ひと）り自（みず）から沈思（ちんし）せば必（かなら）ず大（おおい）に発明（はつめい）することあらん。方今（ほうこん）我国（わがくに）は正（まさ）に借金（しゃっきん）の敵（てき）に向（むかい）て戦（たたか）う可（べ）きの秋（とき）なり。先（ま）ず此（この）勁敵（けいてき）を圧倒（あっとう）して安心（あんしん）の地位（ちい）を作（つく）り、砲艦（ほうかん）の戦（たたかい）の如（ごと）きは他日（たじつ）徐々（じょじょ）に其（その）謀（はかりごと）ある可（べ）きなり。
　征韓論者（せいかんろんじゃ）の云（いわ）く、征韓（せいかん）は固（もと）より好（この）む所（ところ）に非（あら）ざれども、既（すで）に双方（そうほう）の間（あいだ）に釁（きん）を開（ひら）く上（うえ）は、一国（いっこく）の栄辱（えいじょく）に於（おい）て捨置（すてお）く可（べか）らず、大義名分（たいぎめいぶん）は金（かね）のために誤（あやま）る可（べか）らずと。一応（いちおう）尤（もっとも）の言（げん）なれども、前（まえ）に言（い）える如（ごと）く、我（わが）日本（にほん）は親（おや）の病気（びょうき）にも等（ひと）しき欧米（おうべい）交際（こうさい）の困難（こんなん）なるものを抱（いだ）けり。今（いま）親（おや）の大病（たいびょう）にて家内（かない）を静謐（せいひつ）にせざる可（べか）らざるの時（とき）に当（あた）り、門外（もんがい）に折助（おりすけ）が乱妨（らんぼう）喧嘩（けんか）するとて、之（これ）に取合（とりあ）い、之（これ）と争闘（そうとう）して、家内（かない）の静謐（せいひつ）を妨（さまた）げ、親（おや）の病気（びょうき）に害（がい）を加（くわ）う可（べ）きや。人心（じんしん）ある子弟（してい）ならば理（り）も非（ひ）も問（と）わずして何事（なにごと）も後日（こうじつ）の事（こと）に附（ふ）し、其（その）折助（おりすけ）へは酒手（さかて）にても取（と）らせて追（お）い返（かえ）し、穏便（おんびん）に取扱（とりあつか）うこそ孝子（こうし）の処分（しょぶん）と言（い）う可（べ）けれ。今（いま）の朝鮮人（ちょうせんじん）の無礼（ぶれい）は折助（おりすけ）の乱妨（らんぼう）に異（こと）ならず。之（これ）を度外（どがい）に置（お）くも何（なん）ぞ国（くに）の栄辱（えいじょく）に関（かん）することあらんや。論者（ろんじゃ）は我（わが）日本（にほん）をして折助（おりすけ）と闘（たたか）わしめんと欲（ほっ）する乎（か）。余輩（よはい）は本国（ほんごく）のために却（かえっ）て之（これ）を恥（はじ）るなり。
　論者（ろんじゃ）又（また）云（いわ）く、朝鮮（ちょうせん）は目的（もくてき）に非（あら）ず、朝鮮（ちょうせん）に事（こと）を始（はじめ）て次（つい）で支那（しな）に及（およ）ぼし、支那（しな）の富（とみ）を取（とり）て以（もっ）て今日（こんにち）の費（ついえ）を償（つぐな）う可（べ）しと。盛（さかん）なる哉（かな）、此（この）言（げん）や。支那（しな）をして孤立（こりつ）せしめなば此（この）言（げん）或（あるい）は当（あた）る可（べ）しと雖（いえ）ども、今日（こんにち）世界（せかい）の有様（ありさま）に於（おい）て支那（しな）は決（けっ）して孤立（こりつ）するものに非（あら）ず。支那帝国（しなていこく）は正（まさ）に是（こ）れ欧米諸国人（おうべいしょこくじん）の田園（でんえん）なり。豈（あに）他人（たにん）をして貴重（きちょう）なる田園（でんえん）を蹂躪（じゅうりん）せしむることあらんや。事（こと）こゝに至（いた）らば、欧米（おうべい）の人（ひと）は支那人（しなじん）を憐（あわれ）むに非（あら）ずして、自（みず）から貿易（ぼうえき）の利（り）を失（うしな）うを惜（おし）み、自（みず）から利（り）するの私心（ししん）を以（もっ）て支那（しな）を助（たすく）るや必然（ひつぜん）の勢（いきおい）なり。仮令（たと）い自（みず）から利（り）するの私心（ししん）なきものとするも、嫉妬（しっと）の念（ねん）を以（もっ）て必（かなら）ず他（ほか）の所業（しょぎょう）を妨（さまたぐ）ることある可（べ）し。今（いま）を去（さ）ること十余年（じゅうよねん）、魯西亜人（ロシヤじん）が対馬（つしま）に上陸（じょうりく）して地（ち）を占（し）めんとせしとき、英（えい）の公使（こうし）は力（ちから）を尽（つく）して之（これ）を防（ふせ）ぎ、遂（つい）に其地（そのち）を去（さ）らしめたることあり。当時（とうじ）英公使（えいこうし）の尽力（じんりょく）は日本（にほん）の為（ため）にしたるに非（あら）ず。英国（えいこく）の面目（めんもく）として、魯人（ろじん）の日本（にほん）に地（ち）を占（しむ）るを悪（にく）み、其（その）権力（けんりょく）を嫉（ねたみ）て之（これ）を妨（さまた）げたるのみ。万国（ばんこく）の交際（こうさい）に於（おい）て権力（けんりょく）を平均（へいきん）せしむるものは嫉妬（しっと）の念（ねん）に生（しょう）ずること多（おお）し。此亦（これまた）心得（こころえ）ざる可（べか）らず。されば日本人（にほんじん）の思（おも）いの侭（まま）に朝鮮（ちょうせん）に勝（か）ち、朝鮮（ちょうせん）丈（だ）けは外国人（がいこくじん）が傍観（ぼうかん）するものと仮（かり）に定（さだむ）るも、支那（しな）に至（いた）りしとき日本人（にほんじん）が四百余州（よんひゃくよしゅう）を蹂躪（じゅうりん）するを見（み）て手（て）を拱（きょう）することあらんや。是（こ）れも永遠（えいえん）の事（こと）なり。今（いま）より考（かんが）えざる可（べ）からず。
　是（ここ）に於（おい）てか愛国尽忠（あいこくしちゅう）の輩（はい）は人事（じんじ）の軽重大小（けいちょうだいしょう）を弁別（べんべつ）し、志（こころざし）を遠大（えんだい）にして真（まこと）に我国（わがくに）の独立（どくりつ）を謀（はか）り、亜細亜諸国（アジヤしょこく）の交際（こうさい）に於（おい）ては和戦（わせん）共（とも）に我（わが）独立（どくりつ）の権力（けんりょく）に差響（さしひび）くことなきを知（し）り、我（わが）独立（どくりつ）は欧米（おうべい）に対立（たいりつ）して始（はじめ）て満足（まんぞく）す可（べ）きを知（し）り、此（この）独立（どくりつ）は学問（がくもん）と商売（しょうばい）と国財（こくざい）と兵備（へいび）と四者（よんしゃ）各（おのおの）其（その）釣合（つりあい）を得（え）て始（はじめ）て安心（あんしん）の場合（ばあい）に至（いた）る可（べ）きを知（し）り、亜細亜諸国（アジヤしょこく）との和戦（わせん）に由（より）ては四者（よんしゃ）を目的（もくてき）として一（ひとつ）も所得（しょとく）ある可（べか）らざるを知（し）り、加之（しかのみならず）戦（たたか）えば必（かなら）ず此（この）四者（よんしゃ）を退歩（たいほ）せしめ、殊（こと）に国財（こくざい）の如（ごと）きは第一番（だいいちばん）に不足（ふそく）を生（しょう）じて却（かえっ）て外債（がいさい）を増（ま）す可（べ）きを知（し）り、今日（こんにち）朝鮮（ちょうせん）の事件（じけん）は恰（あたか）も手足（てあし）の疵（きず）の如（ごと）くして深（ふか）く憂（うれう）るに足（た）らず、其（その）無礼（ぶれい）は恰（あたか）も折助（おりすけ）の乱暴（らんぼう）の如（ごと）くして之（これ）を度外（どがい）に置（お）く可（べ）きを知（し）り、欧米（おうべい）の交際（こうさい）は肺病（はいびょう）の如（ごと）くして早晩（そうばん）必死（ひっし）の患（かん）ある可（べ）きを知（し）り、国（くに）の栄辱（えいじょく）は一朝（いっちょう）に在（あら）ずして永遠（えいえん）に在（あ）るを知（し）り、愛国（あいこく）の志（こころざし）あるも愛国（あいこく）の路（みち）を求（もと）むるの緊要（きんよう）なるを知（し）り、一朝（いっちょう）の怒（いかり）を忍（しのび）て他日（たじつ）大（おおい）に期（き）する所（ところ）あるこそ、真（まこと）の日本人（にほんじん）に非（あら）ずや。人（ひと）誰（たれ）か愛国（あいこく）の至情（しじょう）なからんや。余輩（よはい）も日本国（にほんこく）中（ちゅう）の人民（じんみん）にして、国（くに）の一部（いちぶ）は自（みず）から担当（たんとう）する者（もの）なれば、只管（ひたすら）他人（たにん）の好尚（こうしょう）に雷同（らいどう）するを得（え）ず。敢（あえ）て愛国（あいこく）の趣（おもむき）を述（のぶ）ること斯（かく）の如（ごと）きなり。
　論者（ろんじゃ）又（また）云（いわ）く、征韓論（せいかんろん）の人心（じんしん）に萌芽（ほうが）するや日（ひ）既（すで）に久（ひさ）し、焔々（えんえん）の気（き）欝結（うっけつ）して遂（つい）に台湾（たいわん）の師（いくさ）と為（な）り、其（その）余焔（よえん）尚（なお）消滅（しょうめつ）せずして遂（つい）に今日（こんにち）に至（いた）りしものなれば、何（いず）れにも其（その）流通（りゅうつう）の路（みち）を設（もう）けざる可（べか）らず、即（すなわ）ち今日（こんにち）の事（こと）は欝焔（うつえん）を洩（も）らし滞水（たいすい）を通（つう）ずるの権道（けんどう）にして、勢（いきおい）こゝに至（いた）れば止（とどめ）んと欲（ほっ）して止（とど）む可（べか）らざるものなりと。其（その）意味（いみ）を察（さっ）するに、此（この）論者（ろんじゃ）は前（まえ）の二論者（にろんじゃ）に比（ひ）すれば全（まった）く所見（しょけん）を別（べつ）にしたる者（もの）にして、中心（ちゅうしん）征韓（せいかん）の非（ひ）を知（し）り、国（くに）の独立（どくりつ）のために実（じつ）に害（がい）あるを弁（べん）じながら、唯（ただ）勢（いきおい）に迫（せま）られて止（や）むを得（え）ざるの策（さく）に出（い）で、止（や）むを得（え）ざるの拙（せつ）を行（おこな）うと言（い）うものゝ如（ごと）し。余輩（よはい）は甚（はなは）だ以（もっ）て不同心（ふどうしん）なり。抑（そ）も征韓論（せいかんろん）とは何（いず）れより来（いた）りしものなるや。天（てん）より降（おり）るに非（あら）ず、地（ち）より生（しょう）ずるに非（あら）ず。征韓（せいかん）を以（もっ）て日本国（にほんこく）の利益（りえき）と思（おも）う人（ひと）の口（くち）より出（いで）たる議論（ぎろん）なり。其（その）人（ひと）は木石（ぼくせき）に非（あら）ず、水火（すいか）に非（あら）ず。正（まさ）に人心（じんしん）を具（ぐ）して道理（どうり）を弁（べん）ず可（べ）き人類（じんるい）にして、然（し）かも愛国（あいこく）の情（じょう）に乏（とぼ）しからざる人物（じんぶつ）なれども、唯（ただ）其（その）所見（しょけん）近浅（きんせん）にして方向（ほうこう）を誤（あやま）るのみ。今（いま）若（も）し此（この）人（ひと）の心（こころ）をして方向（ほうこう）を改（あらた）めしむるを得（え）ば、征韓論（せいかんろん）は立所（たちどころ）に止（や）む可（べ）し。論者（ろんじゃ）若（も）し征韓（せいかん）の非（ひ）を知（し）らば何（なん）ぞ直（じか）に其（その）非（ひ）を述（の）べ、或（あるい）は書（しょ）に記（しる）し或（あるい）は言（げん）に発（はっ）し公然（こうぜん）と之（これ）と唱（とな）えざるや。一点（いってん）の愛国心（あいこくしん）に符合（ふごう）する所（ところ）あれば、異説争論（いせつそうろん）も遂（つい）には一（いつ）に帰（き）せざるを得（え）ず。然（しか）るに今（いま）其（その）沙汰（さた）もなく、唯（ただ）此（この）論者（ろんじゃ）の如（ごと）く世間（せけん）の人気（にんき）を測量（そくりょう）して、或（あるい）は其（その）余焔（よえん）を洩（も）らすと言（い）い、或（あるい）は其（その）渟滞（ていたい）を通（つう）ずると言（い）い、人（ひと）を視（み）ること水火（すいか）の如（ごと）く、手術（しゅじゅつ）を以（もっ）て之（これ）を御（ぎょ）せんとするは、同権（どうけん）の人類（じんるい）に対（たい）して無礼（ぶれい）なりと言（い）う可（べ）し。抑（そ）も亦（また）彼（か）の征韓論者（せいかんろんじゃ）の少年輩（しょうねんはい）も、其（その）熱中（ねっちゅう）の甚（はなはだ）しきに至（いたり）ては、或（あるい）は水火（すいか）の如（ごと）き勢（いきおい）もありて、水火（すいか）の如（ごと）く御（ぎょ）せられて申訳（もうしわけ）なき場合（ばあい）もあらん乎（か）、誠（まこと）に気（き）の毒（どく）千万（せんばん）なりと言（い）う可（べ）し。人（ひと）は此世（このよ）に居（い）て他（た）の拙（せつ）を憂（うれ）えて其（その）不足（ふそく）を補（おぎの）う様（よう）にこそありたきものなれ。然（しか）るに己（おのれ）が熱心（ねっしん）の甚（はなはだ）しきよりして、他人（たにん）のために憂（うれ）えらるゝの目的（もくてき）と為（な）るとは浅（あさ）ましきことならずや。少（すこ）しく勘弁（かんべん）せざる可（べか）らず。兎（と）に角（かく）に政治学者（せいじがくしゃ）の権謀術数（けんぼうじゅつすう）は余輩（よはい）の知（し）る所（ところ）に非（あら）ず。余輩（よはい）は日本国中（にほんこくじゅう）の良民（りょうみん）たる地位（ちい）と面目（めんもく）とを全（まっと）うせんがため、亜細亜（アジヤ）の和戦（わせん）は国（くに）の栄辱（えいじょく）とするに足（た）らず、朝鮮（ちょうせん）の征伐（せいばつ）は止（や）む可（べ）しとの説（せつ）を主張（しゅちょう）し、之（これ）を天下（てんか）の公議（こうぎ）に附（ふ）して、一人（ひとり）たりとも此（この）説（せつ）に同意（どうい）する者（もの）多（おお）きを願（ねが）うなり。

〔明治八年十月七日「郵便報知新聞」社説欄〕

参考文献[編集]

  • 福澤諭吉「亞細亞諸國との和戰は我榮辱に關するなきの説」『福澤諭吉全集』第20巻、岩波書店、1971年5月13日、再版、145-151頁。

関連資料[編集]

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