セザールへの手紙
ミシェル・ノストラダムス師の予言集>セザールへの手紙
- 予言集に寄せたるミシェル・ノストラダムスの序文
- 息子カエサル・ノストラダムスへ
- 長命と幸福を
わが息子セザール・ド・ノートルダムよ、おまえが遅く生まれたことは、私を夜通しでの作業に専念させるものであった。その作業とは、神が星辰の転回を通じて私に知らせてくれた人類共通の利益となるものを、書き物によって明らかにすることをもって、お前の父祖(ノストラダムス自身)の肉体的消滅の後の土産とすべく行ったものである。
お前は不死なる神に気に入られてこの広大な世界に光を享けたが、3月が2度来ただけの年齢(この時点ではセザールは1歳3ヶ月弱)を自分で語ることも出来ないのだから、その年齢の虚弱な理解力では、わが生涯の後に終わらせざるを得ない物事を受け止めることは出来ない。だから、父祖伝来の隠された予言の言葉は私の腹の中にとどめおかれ、時間が破壊し去ってしまうであろうが、それを書き物によってお前に残してやることは、可能であることを考慮したのである。
人生がいつ終わるかは不確かなことであり、全ては不滅なる神の御力によって支配・統御されていることを考慮しつつ、私は、バッコス的恍惚によってでもなく、狂気によってでもなく、ただ星辰の断ずるところによってのみ霊感を享けているのである。「神の精髄と予言の息吹とにかき立てられた存在のみが、特別な物事を予言できるのである」[1]。
いつからのことになるだろうか、私は何度も神の御力や霊感が下ることで、特定の地域に起こることをかなり前もって予言していた。その一方で、世界中で起こることになる幸福なことや不幸なことを、ことが起こるほんの少し前に予言していたこともある。
現在の出来事の大部分だけでなく、未来の出来事の大部分もまた、何者をも傷つけることがないようにと、私は沈黙し放置したかった。なぜなら体制も党派も宗教も、現在の視点で見れば正反対のものに変化するだろうから。そしてまた、王国の人々や、党派、宗教、信仰の人々が、彼らの聞き及んでいた幻想に到底一致しえないと考えるであろう未来を私が語ったならば、今後数世紀にわたって人々が目撃するであろうものを打ち棄ててしまうのだろう。
そして真の救い主の次の句も考慮したのである。「聖なる物を犬に與ふな。また眞珠を豚の前に投ぐな。恐らくは足にて踏みつけ、向き反りて汝らを噛みやぶらん」[2]。私が民衆に語り掛けることも、紙にペンを走らせることもやめたのは、このためである。
そして私は、未来の出来事も喫緊の出来事も私が見たものも、曖昧模糊とした詩句によって共通の出来事のために語るべしと、自らに枷をはめることを企図したのである。繊細な耳を憤慨させる来るべきいくつかの変転をはじめとするあらゆる物事は、全くの予言的なるものよりも適した形態の下で書かれるのである。
「汝はこれらのことを賢者や慎重な者、つまりは権力者や王たちには隠し、小さき人々や貧しき人々」そして預言者たち「に明らかにした」のだから[3]。
(預言者たちは)不死なる神や善き天使たちを通じて予言の精髄を受け取り、それによって遠く離れた物事や未来の出来事を見たのである。というのは、神なくしては何事も達しえないからである。
臣民に対する神の御力と好意はきわめて大きいものであり、彼らが彼ら自身の内にとどまっているときには――善き天使たちに由来する類似したもののために惹き起こされる別の効能もあるにしても――、予言の熱と権能が我々に近づいてくるのである。あたかも元素から成り立つものにも成り立たないものにもその影響を届けてくれる太陽の光が、我々のところに近づくように。
我々人間についていえば、生来の知識や気質では、造物主たる神の難解な秘密は認識することが出来ないのである。「時期も時間も我々の知るところではないのだから」[4]。
そうは言っても、過去に関してと同様に未来に関しても、神が判定占星術に一致する幾許かの秘密を幻像によってお示しになりたいとお考えになった人物が現在にも現れるのかもしれないし、存在しているのかもしれない。そして、神からのいくらかの能力や意志力は炎の揺らめきの形をとって現れるのだし、それ(炎)に触発されて、人は神の霊感と人の霊感を判断するに至るのである。
というのは、神が総じて絶対的なものである作品をお作りになったからである。中庸のものは中間にあり、天使たちが作ったのである。そして三番目(のもの)は悪魔たち(が作ったもの)である。
ところでわが息子よ、私はここで少々あいまいに語っている。しかし、隠された予言についていえば、それは火の繊細なエスプリによって受け止められたものなのである。その火は、時には星々の最も高いところを熟視することに没頭している理解力を揺さぶるので、私は自分が勝手に語りだすことに驚かされるのである。私は不敬な饒舌に侵されているわけでは全くないし、何も恐れることなく語りながら執筆しているのである。だが何を(語ると言うのか)? 全ては永遠の大神の御力からと、全き恩寵が生み出すものとから生じているのである。
さらにわが息子よ、私は(今までの文章に)預言者の名称を挿入してきたが、自分をこの崇高な尊称に列したいとは今のところ考えていない。というのは、「今日『預言者』と呼ばれる者はかつては『先見者』としか呼ばれていなかった」[5]からである。つまり我が息子よ、預言者とは正確には被造物そのものに生来備わっている認識で遠くの物事を見る者なのである。
そして預言者には、預言の完全な光によって、人のものごとのように神のものごとがはっきりと啓示されるということも起こるのである。それは遠くまで広がっている預言の効力に鑑みても、通常は起こりえないことである。というのは神の秘密は理解できないものだからである。そして、生来の認識の広がりに含まれていて自由意志にもっとも近い起源であるところの顕示力 (La vertu effectrice) は、それ自体の中では占いでも他の知識 ― つまりは空の窪みの下に含まれている隠秘の力 ― でも認識されることがない物事を出現させるのだ。同様にして、全き永遠が存在することは、その内で全ての時を見渡せるということなのである。そして癲癇的な忘我の状態や星辰の運行によって、不可分の永遠性に通じることで、ものごとが認識されるのである。
お前によく分かってもらいたいのだが、私はお前の幼い脳にこの方法の認識を刷り込むことが出来ないとはいわないし、遠く離れた未来の出来事が理性ある被造物に知りえないとも言わない。しかしながら、仮に知的な魂が知りうるのだとしても、現在の物事も未来の物事も、そのものに隠されすぎているということもなければ明らかになりすぎているということもないのだ。
しかし、予言的霊感そのものがまず何よりも造物主たる神の発動原理を受け止め、次いで幸運と自然(のそれぞれの発動原理)を受け止めることに鑑みれば、ものごとの完全な認識は、神に由来する霊感なしには得られないものである。それゆえに任意の物事が無差別に起ころうと起こるまいと、予兆は予言されたとおりに部分的に実現するのである。というのは、知的に創られた理解力は、幽かな炎を通じて裾で生まれる声に拠らなければ、どのような部分からであれ、来るべき未来を神秘的に見ることが出来ないからである。
だから我が息子よ、肉体を干からびさせ、魂を失わせ、弱い感覚をかき乱す夢想や空虚なものに、お前の理解力を使うことは消してしないでほしい。それはかつて聖書や神の規範によって排斥された忌まわしき魔術についても同じことである。ただし、判定占星術の判断は例外である。我々はそれ(判定占星術)、霊感、神の啓示、継続的な徹夜、諸算定などによって、予言集をまとめ上げたのだから。隠秘哲学が排斥されている以上、たとえ長い間隠されていた何巻かの文献が私の手許にあったとしても、私はその度の外れた教えを提示したいとは思わなかった。しかし私はそれがもたらすものに憂えて、読んだ後にウルカヌスに捧げたのである。それらが燃え尽きるまでに、空気をなめる炎は自然の炎よりも明るく、あたかも稲妻の輝きのような異常な明るさを放ち、突然に家を照らし、まるで大火災が起こったかのごとくであった。おまえがいずれ月や太陽の全き変化の研究[6]であるとか、地中や伏流の朽ちない金属の研究などに惑わされないようにと、私はそれらの文献を灰にしたのである。
さて、天の判断が完成させる人の判断についても、お前に説明しておきたい。人が未来の物事を認識できるのは天の判断による。その未来の出来事は、起こるべきことが遠くに幻想的な像として投影されているものである。そして、超自然的な神から来る霊感によって、(それが起こる)場所の特徴を特定でき、さらには神の御威徳、御力、権能と隠された特性によって、天空の表徴と一致する範囲で、場所だけでなく一部の時までもが特定できるのである。そして、神にとっては、その永遠性の中に三つの時を包含しているのである。それは過去の物事、現在、未来を含む、時の転回である。「すべての物事は裸であり、発見されているのである」云々[7]。
以上によってわが息子よ、お前の脳は稚いけれども、起こるべき物事が夜天の自然の光と予言のエスプリとによって予言されうるということは、理解できるであろう。
私は啓示された霊感によって(予言をして)いるが、自らを預言者の名前や役割に帰属させることは望まない。それは、足が大地に埋もれていて感覚が天から遠く隔たっている、死すべき人間として(の立場)である。「私は誤るかも知れない、間違うかもしれない、騙されるかもしれない」[8]。私は人類のあらゆる苦悩に苛まれる、世界の誰よりも罪深い者の一人である。
さて、一週間を通じて時々予言に驚かされ、夜中の研究に甘美な香りを与えてくれる長い算定に没頭しつつ、私はこの百篇ごとの天文学(占星術)的な四行詩からなる予言の書を構成したのである。私はそれを少々曖昧な形で仕上げることを望んだが、それは現在から3797年[9]までの永続的な予言なのである。
かくも長い(予言範囲の)拡張に眉をひそめる人々もいるだろう。しかし、月の窪みの下の至る所で(予言した通りの)事件が起こって認識されるであろうし、それによって全地上であまねく理解されるのだ、わが息子よ。もしおまえが成人まで生きていられるのなら、お前が生まれた固有の空での緯度のもとで、未来の事件が起こるのを見るだろう。唯一、永遠の神のみがご自身から発する光の永続性を認識しておられるのだ。
そして、私は(お前に)率直に言っておく。測り知れない無窮の偉大さ(=神)から、長い憂鬱質の霊感を通じてこの人に啓示したいと思ってもらえた人々には、予言する霊感の理解力を形成する2つの原理のうちの1つが、神の力によって示された隠された物事を通じて注がれているのである。超自然的な光は、天体の学説によって予言する人や、下った霊感によって予言する人を明るくするのである。その霊感は神の永遠性から分け与えられたものである。これによって預言者は、その神々しい直感が神に由来するものなのか、自然の直感に由来するものなのかを判断したのである。つまりは予言した物事は真実であり、天上に起源を持つのである。そして、この光や幽かな炎は全くもって有能にして崇高なのである。このことは、自然の光や自然の明かりによって、哲学者たちが第一の原因の諸原理に関して推論を重ねつつ確信し、最も崇高な学説の最奥部に到達したことと同様である。
さてわが息子よ、(以上の話を)終えるに当たって、お前の知覚の将来の許容量のために、あまり深入りした寄り道はしないでおく。(次に)私は文芸が非常に大きく比類のない損失に見舞われるであろうことを見出す。であるので、世界的な大変動に先立って大洪水や高水位の大浸水が起こり、水で覆われない土地がほとんどなくなるであろうこと、そしてそれが長く続き、エノグラフィ[10]と地形図を除けば全てが失われるであろうことを見出すのである。同様にして浸水の前後には、いくつかの国で雨が非常に少ないものとなり、空から多量の火や白熱した石が降ってくるだろう。それらが焼き尽くすので何も残らないだろう。それは最後の大動乱に先立ち、短期的に起こるのである。 というのは、火星がその周期を完成するからであり、その直近の区切りの最後に、火星が再び巡ってくるだろう。しかし、あるものたちは数年間宝瓶宮にとどまり、別のものたちは巨蟹宮に一層長く継続的にとどまるだろう。そして現在、我々は永遠なる神の全き御力によって、月に支配されている。その全周期が完成する前に太陽が来るであろうし、その次には土星が来るであろう。というのは、天の徴に従えば、土星の支配は戻り来るからだ。そして、あらゆる算定で、世界は断交の変革に近づいている。私がこれを書いている現在は、その時点の177年3ヶ月11日前に当たるのだが、その時点(177年3ヶ月11日後)と予め定めた時との間で前後に何度も起こるペスト、長期の飢餓、戦争、さらには浸水によって、世界は非常に衰えるだろう。そして、耕地を耕したいと望む人を見ることもなくなるであろうほどに人がほとんどいなくなり、田野は人々が使役してきたのと同じくらいに長い間、誰も耕す人がいなくなるだろう。
そして天の目に見える判断では、我々は全てを完成する第7千年紀にいるのであるが、第8(千年紀)に近づいているのである。それは、高さの次元でいうと第8天であり、永遠の大神が変革しに来るであろう時期であり、天空のイメージが動きに戻る時期である。その超越的な動きは、我々を安定した堅い大地に戻すだろう。「いつの時代にも傾くことはない」[11]のである。神がそれを望まない限りは。(以上は)あらゆる自然の理性を超えた曖昧な意見やムハンマド(預言者)的な夢想によるものではあるけれども。
同様に、時として、造物主たる神は使者である火を介して伝道的な炎の中で、我々の眼と同様に外部の感覚に向けて、未来の予言の諸原因をお示しになったのである。その諸原因は、未来の出来事の徴となるものであり、予言をする人に示されなければならないものである。というのは、外部の光から生み出される予兆は、内部の光によってまたそれとともに、分かちがたく結びついているのである。
理解力の目によって本当に(未来を)見通せるらしい(魂の)一部分は、想像力豊かな感覚の病変によってそれが可能になる以上、理由は極めて明白である。神から来る霊感や、預言と結びついて予言を行う人に霊感を下す天使によって、全ては予言されるからである。それらのものは、彼(予言をする人)を輝かせに来て、夜の様々な出現や昼の確信によって、彼の想像力を掻き立てるのである。そして彼は自由な真情としか結びついていない神聖な未来の予言と結びついて、天文学的管理によって予言を行うのである。
わが息子よ、今このときに理解しに来たれ。啓示された霊感に一致する我が転回によって見出した物事、つまりは死の剣が我々に今このときに迫ってくることを。それは、ペストや、(過去)3世代にあったものよりも酷い戦争や、飢饉の形をとるのである。この剣が地上に振り下ろされるだろうし、しばしば戻り来るだろう。というのは、星々が変革に一致しているからである。さらに(神は)宣う。「私は彼らの不正に鉄の鞭を持って訪れ、そしてそれら(彼らの不正)を私自らの打擲でもって打ち据えるであろう」[12]。というのは、私の予言の大部分が成就し実現していくであろう時には、主の御慈悲は全く広がらないであろうから。そして、不吉な嵐の中で主は宣うだろう。「私は彼らを痛めつけ、砕き、憐れみは持たない」[13]と。そして、洪水や継続的な雨によって他の千の(=無数の)事件が起こるだろう。このことは、私が場所、時期、予め定められた期限を区切って、「拘束のない文体で」詳しく私の他の予言の中に書いた通りである。(その期限のときに)人類は、私が他の予言の中でより明解に示したとおりの出来事が誤りなく起こることを認識しつつ、我々の後に起こることを見るであろう。その理解は雲に包まれてはいるけれども「無知が啓蒙されたときに」[14]物事は明白になるのである。
我が息子よ、終わりに当たって、お前の父 M. ノストラダムスのこの贈り物を受け取ってほしい。ここに含まれているそれぞれの予言四行詩をお前に明かしてやれる(日が来る)ことを望みつつ。そして不死なる神にどうかお前が素晴らしく栄えた幸福の内にその長い人生を送れますように、と祈りつつ。サロン、1555年3月1日。
注
[編集]- ↑ プトレマイオスの"Centiloque"からの引用。なお、この著書の実際の著者は10世紀イスラム世界の学者アフマド・イブン・ユスフであるという
- ↑ 新約聖書「マタイによる福音書」第7章6節
- ↑ 新約聖書「マタイによる福音書」第11章25節のアレンジ
- ↑ 新約聖書「使徒行伝」第1章7節のアレンジ
- ↑ 旧約聖書「サムエル記・上」第9章9節のアレンジ
- ↑ 月や太陽は金銀の比喩。つまり錬金術のこと
- ↑ 新約聖書「ヘブル人の手紙」第4章13節の大幅なアレンジ
- ↑ 原文はPossum non errare, falli, decipiだが、ブランダムールやラメジャラーの判断に従い、nonを誤植として排除した
- ↑ 「3767年」「3192年」「1767年」などとなっている版もある
- ↑ 「葡萄栽培地図」?「民族誌」?
- ↑ 旧約聖書「詩篇」第104篇5節のアレンジ
- ↑ 旧約聖書「詩篇」第89篇32節のアレンジ
- ↑ 旧約聖書「エレミヤ書」第13章14節などのアレンジ
- ↑ アルチャート『エンブレマタ』第188番
翻訳に関する情報
[編集]- 底本はLes Prophéties de M. Michel Nostradamus, Macé Bonhomme, Lyon, 1555
- 明らかな誤植は後の版に基づいて読み替えた。
- 翻訳者はウィキソースユーザーのsumaru。
- 翻訳にあたっては以下の文献を参照した。
- Pierre Brind'Amour [1993], Nostradamus Astrophile, Klincksieck
- Pierre Brind'Amour [1996], Nostradamus : Les Première Centuries, ou, Prophéties (édition Macé Bonhomme de 1555), Droz
- Peter Lemesurier [2003], Nostradamus: The Illustrated Prophecies, O Books
- Edgar Leoni [1982], Nostradamus and His Prophecies, Bell Publishing
- 高田勇・伊藤進編訳『ノストラダムス予言集』岩波書店、1999年