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すゑ奉りて、御門に「この二人の王をむかへ奉り給へ」と申しゝかば、淸寧天皇よろこびて即ちむかへとり給ひつ。「われ子なし位を繼ぎ給ふべし」とて兄の王を東宮に立て奉り給ひき。さて淸寧天皇うせ給ひにしかば、東宮位に即き給ふべかりしを、御弟にゆづり給ひしかどもあるべき事にあらずと申し給へりき。かくてかたみに位につき給はざりしかば、御妹の飯豐天皇をつけ奉り給ひしほどに、その年のうちにうせ給ひにしかば、猶弟の王東宮の御すゝめに從ひて位に即きたまひき。そのとし三月上巳の日始めて曲水宴を行はせ給ひし。二年八月と申しゝに御門御兄の東宮に申し給はく「わが父のみこ罪なくして雄畧天皇にうしなはれ給へりき。うらみの心今にやむことなし。われかの御門の陵をこぼちてその骨をくだきて捨てむ」とのたまひしを、東宮申し給はく「雄畧天皇は御門におはします。我が父は御門の御子なりといへども、位にのぼり給はざりき。また御門淸寧天皇の御惠をかうぶり給へり。雄畧天皇は淸寧天皇の御父におはせずや。今位にのぼりたまひいかでかその志を忘れたまはむ。陵を破りたまはむ事あるべからず」と申し給ひしかば、その言にしたがひ給ひき。この御時世治り民やすらかに侍りき。

     第廿六仁賢天皇〈十一年崩。年五十。葬河內國埴生坂本陵。〉

次の御門仁賢天皇と申しき。顯宗天皇のひとつ御腹の兄なり。淸寧天皇の御世三年四月に春宮に立ちたまふ。戊辰の年正月五日位に即かせたまふ。御年四十。世をしりたまふ事十一年なり。この御門の御ありさま顯宗天皇の御事の中にこまかに申し侍りぬ。御心ざまめでたく