コンテンツにスキップ

神皇正統記


神皇正統記


巻一

大日本おほやまと神国かみのくに也。天祖あまつみおやはじめてもとゐをひらき、日神ひのかみながくとうつたへ給ふ。わが国のみ此事あり。異朝いてうには其たぐひなし。此故に神国かみのくにふ也。神代かみよには豊葦原千五百秋瑞穂とよあしはらのちいほのあきのみづほの国とふ。天地開闢てんちかいびやくはじめより此あり。天祖あまつみおや国常立尊くにのとこたちのみこと陽神陰神をがみめがみにさづけ給しみことのりにきこえたり。天照太神あまてらすおほみかみ天孫あめみまの尊にゆづりまししにも、此名あれば根本こんぼんなりとはしりぬべし。又は大八州国おほやしまのくにふ。是は陽神陰神、此国をうみ給しが、やつしまなりしによ[つ]てなづけられたり。又は耶麻土やまとふ。是は大八州おほやしま中国なかつくにの名也。第八にあたるたび、天御虚空豊秋津根別あめのみそらとよあきづねわけと云神をうみ給ふ。これを大日本豊秋津州おほやまととよあきづしまとなづく。今は四十八け国にわかてり。中州なかつくにたりし上に、神武じんむ天皇東征とうせいより代々よよ皇都くわうと也。よりて其名をとりて、ほかの七州をもすべて耶麻土と云なるべし。もろこしにも、しうの国よりいでたりしかば、天下てんかを周といひかんよりおこりたれば、海内かいだいを漢と名づけしが如し。耶麻土やまとと云へることは山迹やまあとと云也。昔天地あめつちわかれてでいのうるほひいまだかわかず、山をのみ往来わうらいとして其あとおほかりければ山迹やまあとふ。あるひは古語に居住をふ。山に居住せしによりて山止やまとなりとも云へり。大日本とも大倭ともかくことは、此国に漢字つたはりて後、国の名をかくに字をば大日本とさだめてしかも耶麻土やまととよませたるなり。大日孁をほひるめのしろしめす御国なれば、其義をもとれるか、はた日のいづる所にちかければしかいへるか。義はかゝれども字のまゝ日のもとゝはよまず。耶麻土とくんぜり。我国の漢字を訓ずること多く如此かくのごとし。おのづからもとなどいへるは文字もんじによれるなり。国の名とせるにあらず。〔裏書云うらがきにいふ。日のもとゝよめる哥、万葉[に]ふ。いざこどもはや日のもとへおほとものみつのはま松まちこひぬらん〕又古いにしへより大日本とももしは大の字をくはへず、日本ともかけり。しまの名を大日本豊秋津といふ。懿徳いとく孝霊かうれい孝元かうげん等の御おくりなみな大日本の字あり。垂仁すゐにん天皇の御むすめ大日本姫やまとひめふ。これみな大の字あり。天神あまつかみ饒速日尊にぎのはやひのみことあめ磐船いはふねにのり大虚おほぞらをかけりて「虚空見日本そらみつやまとの国」とのたまふ。神武の御名神日本磐余彦かみやまといはれびこと号したてまつる。孝安かうあん日本足やまとたらし開化かいくわわか日本ともがうし、景行天皇の御子小碓をうす皇子みこ日本武やまとたけの尊となづけ奉る。是は大をくはへざるなり。彼此かれこれおなじくやまとゝよませたれど大日孁おほひるめの義をとらば、おほやまとゝよみてもかなふべきか。其のち漢土かんどより字書じしよつたへける時、倭とかきて此国の名にもちゐたるを、すなはち領納りやうなふして、又此字を耶麻土と訓じて、日本のごとくに大を加へても又のぞきてもおなじ訓に通用つうようしけり。漢土よりなづけゝる事は、昔此国の人はじめて彼土かのどにいたれりしに、「なんぢが国の名をばいかゞふ。」と問けるを、「吾国わがくには」と云をきゝて、すなはちと名づけたりとみゆ。漢書かんじよに、「楽浪らくらう彼土かのどの東北に楽浪らくらう郡あり〉海中に倭人わじんあり。百余国をわかてり。」とふ。もし前漢ぜんかんの時すでにつうじけるか一書いつしよには、しんの代よりすでにつうずともみゆ。しもにしるせり〉後漢書ごかんじよに、「大倭だいわ王は耶麻たいきよす。」とみえたり〈耶麻堆は山となり〉。これはもしすでに此国の使人しじん本国ほんごくの例により大倭と称するによりてかくしるせるか神功皇后じんぐうくわうごう新羅しらぎ百済くだら高麗かうらいをしたがへ給しは後漢の末ざまにあたれり。すなはち漢地にも通ぜられたりとみえたれば、文字もさだめてつたはれるか。一説にはしんの時より書籍しよじやくつたふとも云〉。大倭と云ことは異朝にも領納して書伝しよでんにのせたれば此国にのみほめてしようするにあらず〈異朝に大漢だいかん大唐だいたうなど云はおほきなりと称するこゝろなり〉唐書たうじよに高宗かうそう咸亨かんかう年中に倭国の使つかひ始てあらためて日本にほんと号す。其国東にあり。日の出所いづるところちかきふ。」とのせたり。此事我国の古記にはたしかならず。推古すゐこ天皇の御時、もろこしの隋朝ずゐてうより使ありて書をおくれりしに、倭皇わくわうとかく。聖徳太子みづからふでりて、返牒へんでふかき給しには、「東天皇敬白西皇帝。」とありき。かの国よりは倭とかきたれど、返牒には日本とも倭とものせられず。是より上代かみつよには牒ありともみえざる也。唐の咸亨のころ天智てんぢの御代にあたりたれば、まことにはくだりころより日本とかきて送られけるにや。又此国をば秋津州あきづしまといふ。神武天皇国のかたちをめぐらしのぞみ給て、「蜻蛉あきづ臀舐となめの如くあるかな。」との給しより、此名ありきとぞ。しかれど、神代かみよ豊秋津根とよあきづねと云名あれば、神武にはじめざるにや。此外このほかもあまた名あり。細戈くはしほこ千足ちたるの国とも、磯輪上しわかみ秀真ほつまの国とも、玉垣たまかき内国うちつくにともいへり。又扶桑ふさう国と云名もあるか。「東海の中に扶桑の木あり。日の出所いづるところなり。」とみえたり。日本も東にあれば、よそへていへるか。此国にかの木ありと云事きこえねば、たしかなる名にはあらざるべし。およそ内典ないてんせつ須弥しゆみと云山あり。此山をめぐりてななつ金山こんせんあり。其中間は皆香水海かうすゐかいなり。金山のそと四大海しだいかいあり。此海中に四大州あり。州ごとに又ふたつ中州ちゆうしうあり。南州をば贍部せんぶと云〈又閻浮提えんぶだいとふ。おなじことばのてん也〉。是はうゑきの名なり。南州の中心に阿耨達あのくたつと云山あり。山頂やまのいただきに池あり〈阿耨達こゝには無熱ぶねつふ。外書げしよ崑崘こんろんといへるは即この山なり〉。池のかたはらこの樹あり。めぐり由旬ゆじゆんたかさ百由旬なり〈一由旬とは四十里也。六尺を一歩いちぶとす。三百六十歩を一とす。この里をもちて由旬をはかるべし〉。此樹、州の中心にありて最も高し。よりて州の名とす。阿耨達あのくたつ山の南は大雪山だいせつせん、北は葱嶺そうれいなり。葱嶺の北は胡国ここく、雪山の南は五天竺ごてんぢく、東北によりては震旦しんだん国、西北にあたりては波斯はし国也。此贍部せんぶ州は縱横じうわう七千由旬、里をもちてかぞふれば二十八万里。東海より西海にいたるまで九万里。南海より北海にいたるまで又九万里。天竺は正中たゞなかによれり。よ[つ]て贍部の中国ちゆうごくとす也。地のめぐり又九万里。震旦ひろしと云へども五天にならぶれば一辺いちへんの小国なり。日本は彼土かのどをはなれて海中にあり。北嶺ほくれい伝教大師でんげうだいし南都なんと護命僧正ごみやうそうじやう中州ちゆうしう也としるされたり。しからば南州と東州とのなかなる遮摩羅しやもらと云州なるべきにや。華厳経けごんきやうに「東北の海中に山あり。金剛山こんがうせんふ。」とあるは大倭やまとの金剛山の事也とぞ。されば此国は天竺よりも震旦よりも東北の大海の中にあり。別州にして神明しんめいの皇統をつたへ給へる国也。おなじ世界の中なれば、天地開闢の初はいづくもかはるべきならねど、三国の説おのおのことなり。天竺の説には、世の始りを劫初こふしよと云ふこうじやうぢゆうくうよつあり。各二十の増減あり。一増一減を一小劫とふ。二十の増減を一中劫とふ。四十劫をあはせて一大劫と云〉光音くわうおん天衆てんじゆ、空中に金色こんじきの雲をおこし、梵天ぼんてん偏布へんぷす。すなはち大雨だいうをふらす。風輪ふうりんの上につもりて水輪すゐりんとなる。増長ぞうちやうして天上にいたれり。又大風ありてあわ吹立ふきたてて空中になげおく。即大梵天の宮殿となる。其水次第に退下たいげしよく界の諸宮殿乃至ないし須弥山・四大州・鉄囲山てちゐせんをなす。かくて万億の世界同時になる。是を成劫じやうこふと云也〈此万億の世界を三千大千世界といふなり〉。光音の天衆下生げしやうして次第に住す。是を住劫ぢゆうこふふ。此住劫の間に二十の増減あるべしとぞ。其初には人の身光明くわうみやうとほく照して飛行自在ひぎやうじざい也。歓喜くわんぎもちてじきとす。男女なんによさうなし。後に地より甘泉かんせん涌出ゆしゆつす。あぢはひ酥密そみつのごとし〈或は地味ちみとも云〉。これをなめて味着みちやくを生ず。よりて神通じんづうを失ひ、光明くわうみやうもきえて、世間せけんおほきにくらくなる。衆生しゆじやうむくいしからしめければ、黒風海をふきにちぐわち二輪を漂出へうしゆつす。須弥の半腹におきて四天下てんげを照さしむ。是より始て昼夜ちうや晦朔くわいさく春秋しゆんじうあり。地味にふけりしより顔色がんしよくもかじけおとろへき。地味又うせて林藤りんどうと云物あり〈或は地皮とも云〉。衆生又じきとす。林藤又うせて自然じねん秔稲かうたうあり。もろもろ美味びみをそなへたり。あしたにかればゆふべじゆくす。此稲米たうまいじきせしによりて、身に残穢ざんえいできぬ。此故に始て二道にだうあり。男女の相おのおの別にして、つひに婬欲いんよくのわざをなす。夫婦ふうふとなづけ舎宅しやたくかまへて、共にすみき。光音の諸天、のち下生げしやうする者女人によにん胎中たいちゆうにいりて胎生たいしやうの衆生となる。其後そののち秔稲しやうぜず。衆生うれへなげきて、おのおのさかひをわかち、田種でんしゆほどこしうゑて食とす。他人の田種をさへうばひぬすむ者出来いできて互にうちあらそふ。是を決する人なかりしかば、衆ともにはからひて一人ひとり平等王びやうどうわうたてなづけ刹帝利せつていりと云田主でんしゆと云心なり〉

其始の王を民主王と号しき。十ぜん正法しやうぼふをおこなひて国ををさめしかば、人民にんみん是を敬愛きやうあいす。閻浮提の天下てんげ豊楽安穏ぶらくあんをんにして病患びやうげん及び大寒熱あることなし。寿命じゆみやうきはめひさしく无量歳むりやうざいなりき。民主の子孫相続して久く君たりしが、やうやく正法もおとろへしより寿命もげんじて八万四千歳にいたる。身のたけ八丈はちぢやうなり。其あひだに王ありて転輪てんりん果報くわはう具足ぐそくせり。づ天より金輪宝こんりんほう飛降とびくだりて王の前に現在す。王たまふことあれば、此りん転行てんぎやうしてもろ小王せうわうみなむかへて拝す。あへてたがふ者なし。すなはち四大州にあるじたり。又ざうしゆ玉女ぎよくによ居士こじ主兵しゆひやう等のたからあり。此七宝成就じやうじゆするを金輪王となづく。次々つぎつぎごんどうてちの転輪王あり。福力不同ふくりきふどうによりて果報も次第におとれる也。寿量じゆりやうも百年に一年を減じ、身のたけも同く一尺をげんじてけり。百二十歳にあたれりし時、釈迦仏しやかぶつたまふ〈或は百才[の]時ともふ。是よりさきに三仏さんぶつたまひき〉。十歳に至らんころほひに小三さいと云ことあるべし。人種じんしゆほとつきてたゞ一万人をあます。そのひと善をおこなひて、又寿命も増し、果報もすゝみて二万歳にいたらん時、鉄輪王いでなん一州を領すべし。四万歳の時、銅輪王出て東・南二州を領す。六万歳の時、銀輪ごんりん王出て東・西・南三州を領し、八万四千歳の時金輪王出て四天下をとう領す。其むくいかみいへるが如し。かの時又げんにむかひて弥勒仏みろくぶついで給べし〈八万才の時とも云〉。此後十八けの減増あるべし。かくて大火災と云ことおこりて、色界しきかい初禅梵天しよぜんぼんてんまでやけぬ。三千大千世界同時に滅尽めつじんする、これを壊劫ゑこふふ。かくて世界虚空黒穴こくうこくけつのごとくなるを空劫とふ。かくのごとくすること七けの火災をへて大水災あり。このたびは第二禅まです。七々の火・七々の水災をへて大風災ありて第三禅まで壊す。是を大の三災と云也。第四禅已上いじやう内外ないげ過患くわげんあることなし。此四禅のなかに五天あり。よつ凡夫ぼんふの住所、ひとつ浄居天じやうごてんとて証果しようくわ聖者しやうじや住処ぢゆうしよ也。此浄居をすぎて摩醯首羅まけいしゆら天王の宮殿あり大自在天だいじざいてんとも云〉色界しきかい最頂さいちやうきよして大千世界を統領す。其天のひろさかの世界にわたれり下天げてんも広狭に不同ふどうあり。初禅の梵天は一四いちし天下のひろさなり〉。此上に無色界の天あり。又四地をわかてりといへり。此等の天は小大のさいにあはずといへども、業力ごふりきに際限ありてはうつきなば、退没たいもつすべしと見えたり。震旦はことに書契しよけいをことゝする国なれども、世界建立こんりふいへる事たしかならず。儒書には伏犠ふくき氏とふ王よりあなたをばいはず。ただし異書の説に、混沌未分こんとんみぶんのかたち、天・地・人のはじめを云るは、神代かみよおこりに相似たり。或は又盤古ばんこと云王あり。「目は日月じつげつとなり、毛髪は草木さうもくとなる。」と云る事もあり。それよりしもつかた、天皇てんくわう・地皇・人皇・五龍ごりよう等のもろもろの氏うちつゞきて多くの王あり。其間万歳をへたりとふ。我朝の初は天神あまつかみしゆをうけて世界を建立するすがたは、天竺の説に似たる方もあるにや。されどこれは天祖あまつみおやより以来このかた継体けいたいたがはずして、たゞ一種ましますこと天竺にも其たぐひなし。かの国の初の民主王も衆のためにえらびたてられしより相続せり。又世くだりては、その種姓しゆしやうもおほくほろぼされて、勢力せいりきあれば、下劣の種も国主となり、あまさへ五天竺を統領するやからも有き。震旦又ことさらみだりがはしき国なり。昔世すなほに道ただしかりし時も、賢をえらびてさづくるあとありしにより、一種をさだむる事なし。乱世になるまゝに、ちからをもちて国をあらそふ。かゝれば民間より出でゝ位に居たるもあり。戎狄じゆうてきよりおこりて国をうばへるもあり。或はるい世の臣として其君をしのぎ、つひにゆづりをえたるもあり。伏犠氏の後、天子の氏姓ししやうをかへたる事三十六。みだれのはなはだしさ、云にたらざる者哉ものをや

ただ我国のみ天地あめつちひらけし初より今の世の今日こんにちいたるまで、日嗣ひつぎをうけ給ことよこしまならず。一種姓いちしゆしやうの中におきてもおのづからかたはらよりつたへ給しすら猶せいにかへる道ありてぞたもちましける。是しかしながら神明の御誓あらたにして余国にことなるべきいはれなり。そもそも、神道のことはたやすくあらはさずと云ことあれば、根元をしらざればみだりがはしき始ともなりぬべし。其つひえをすくはんためにいさゝかろくし侍り。神代より正理しやうりにてうけ伝へるいはれをのべむことをこころざして、常にきこゆる事をばのせず。しかれば神皇じんわう正統記しやうとうきとやなづはべるべき。

それ天地あめつちいまだわかれざりし時、混沌こんとんとして、まろがれること鷄子とりのこの如し。くゝもりてきざしをふくめりき。これ陰陽いんやう元初げんしよ未分の一気いちき也。其気始てわかれてきよくあきらかなるは、たなびきてあめと成り、おもくにごれるはつゞいてつちとなる。其中より一物ひとつのものいでたり。かたち葦牙あしかびの如し。すなはちして神となりぬ。国常立くにのとこたちの尊と申。又は天の御中主の神とも号し奉つる。此神にもくくわごんすゐ五行ごぎやうの徳まします。まづ水徳の神にあらはれ給を国狭槌くにのさつちの尊とふ。次に火徳の神を豊斟渟とよくむぬの尊とふ。あめみちひとりなす。ゆゑに純男じゆんなんにてます〈純男といへどもその相ありともさだめがたし〉つぎに木徳の神を泥土うひぢ〈蒲鑒反〉にの尊・沙土瓊すひぢにの尊とふ。つぎにこん徳の神を大戸之道おほとのぢの尊・大苫辺おほとまべの尊とふ。次に土徳の神を面足おもたるの尊・惶根かしこねの尊とふ。天地の道相まじはりて、おのおの陰陽のかたちあり。しかれどそのふるまひなしと云り。此諸もろもろのかみまことには国常立のひとはしらの神にましますなるべし。五行の徳おのおの神とあらはれ給。是を六代ともかぞふる也。二世三世の次第をたつべきにあらざるにや。次に化生けしやうし給へる神を伊弉諾いざなぎの尊・伊弉冊いざなみの尊と申す。是はまさしく陰陽のふたつにわかれて造化ざうくわはじめとなり給ふ。かみの五行はひとつづゝの徳也。此五徳をあはせて万物を生ずるはじめとす。こゝに天祖あまつみおや国常立くにのとこたちの尊、伊弉諾・伊弉冊のふたはしらの神にみことのりしての給はく、「豊葦原の千五百秋の瑞穂のくにあり。いましゆきてしらすべし。」とて、すなはち天瓊矛あまのぬぼこをさづけ給。此矛又は天の逆戈さかほことも、天魔返あまのさかほこともいへり。二神このほこをさづかりて、あま浮橋うきはしの上にたゝずみて、矛をさしおろしてかきさぐり給しかば、滄海あをうなばらのみありき。そのほこのさきよりしたゝりおつるしほこりてひとつの嶋となる。これを磤馭盧嶋おのごろじまふ。此名につきて秘説あり。神代、梵語ぼんごにかよへるか。其ところもあきらかにしる人なし。大日本やまとの国宝山ほうせんなりと云口伝くでんあり〉。二神此嶋に降居くだりまして、すなはち国の中のみはしらをたて、八尋やひろ殿との化作けさくしてともにすみ給。さて陰陽和合わがふして夫婦の道あり。此矛はつたへて、天孫したがへてあまくだり給へりともふ。又垂仁すゐにん天皇の御宇ぎように、大和姫の皇女くわうぢよ、天照太神の御をしへのまゝに国々をめぐり、伊勢いせの国に宮所みやどころをもとめ給し時、大田おほたの命と云神まゐりあひて、五十鈴いすず河上かはかみ霊物れいもつをまぼりおける所をしめしまをししに、かの天の逆矛・五十鈴いすず天宮あめのみや図形づぎやうありき。大和姫の命よろこびて、其所をさだめて、神宮をたてらる。霊物は五十鈴の宮の酒殿さかどのにをさめられきとも、又、滝祭たきまつりの神と申はりゆう神なり、その神あづかりて地中にをさめたりともふ。ひとつには大和の龍田たつたの神はこの滝祭と同体にます、此神のあづかり給へる也、よりて天柱国柱あめのみはしらくにのみはしらふ御名ありともふ。昔磤馭盧嶋にもてくだり給しことはあきらか也。世につたふと云事はおぼつかなし。天孫のしたがへ給ならば、神代より三種さんじゆ神器じんぎのごとくつたへ給べし。さしはなれて、五十鈴[の]河上に有けんもおぼつかなし。ただし天孫も玉矛みづからしたがへたまふと云事みえたり古語拾遺こごしふゐの説なり〉。しかれど矛も大汝おほなむちの神のたてまつらるゝ、国をたひらげし矛もあれば、いづれと云事をしりがたし。宝山にとゞまりて不動のしるしとなりけんことや正説しやうせつなるべからん。龍田たつたも宝山ちかき所なれば、龍神を天柱国柱あめのみはしらくにのみはしらといへるも、深秘じんぴの心あるべきにや〈凡神書しんしよにさまの異説あり〉日本紀にほんぎ旧事本紀くじほんぎ・古語拾遺等にのせざらん事は末学まつがくともがらひとへに信用しがたかるべし。かの書のうち猶一決せざること多し。いはんや異書におきてはしやうとすべからず。かくて、此ふたはしらの神相はからひてやつしまをうみ給ふ。まづ淡路あはぢしまをうみます。淡路穂之狭別あはぢのほのさわけふ。つぎに伊与いよ二名ふたなしまをうみます。一身ひとつのみ四面よつのおもあり。ひとつ愛比売えひめと云、これは伊与也。ふたつ飯依比売いひよりひめと云、是は讚岐さぬき也。みつ大宜都比売おほげつひめと云、これは阿波あは也。よつ速依別はやよりわけと云、是は土左とさ也。つぎに筑紫つくししまをうみます。又一身に四面あり。一を白日しらひわけと云、是は筑紫つくし也。後に筑前ちくぜん筑後ちくごふ。二を豊日別とよひわけと云、これはとよ国也。後に豊前ぶぜん豊後ぶごふ。三を昼日別ひるひわけと云、是はの国也。後に肥前ひぜん肥後ひごふ。四を豊久士比泥別とよくじひねわけと云、是は日向ひむか也。後に日向ひうが大隅おほすみ薩摩さつまと云〈筑紫・豊国・肥の国・日向といへるも、二神の御代の始の名にはあらざつぎに壱岐いきの国をうみます。天比登都柱あめひとつはしらふ。つぎに対馬つしましまをうみます。天之狭手依比売あまのさてよりひめふ。つぎに隠岐おきの州をうみます。天之忍許呂別あめのおしころわけふ。つぎに佐渡さどの州をうみます。建日別たけひわけふ。つぎに大日本豊秋津州おほやまととよあきづしまをうみます。天御虚空豊秋津根別あめのみそらとよあきづねわけふ。すべて是を大八州おほやしまと云也。此外あまたの嶋をうみ給。後に海山うみやまの神、木のおや、草のおやまでことごとくうみましてけり。いづれも神にませば、うみ給へる神のしまをも山をもつくり給へるか。はた州山しまやま生給うみたまふに神のあらはれましけるか、神世かみよのわざなれば、まことに難測はかりがたし

ふたはしらの神又はからひてのたまはく、「我すでに大八州の国および山川草木をうめり。いかでかあめの下のきみたるものをうまざらむや。」とてまづ日神ひのかみうみます。此みこひかりうるはしくして国のうちにてりとほる。二神よろこびてあめにおくりあげて、天上の事をさづけ給。此時天地あひさることとほからず。天のみはしらをもてあげ給。これを大日孁おほひるめの尊とまをすれいの字は霊と通ずべきなり。陰気を霊と云とも云へり。女神めがみにましませばおのづか相叶あひかなふにや〉。又天照太神ともまをす。女神にてまします也。つぎに月神つきのかみうみます。其光日につげり。あめにのぼせてよるまつりことをさづけ給。つぎに、蛭子ひるこを生ます。みとせになるまであしたゝず。あめ磐樟いはくす船にのせて風のまゝはなちすつ。つぎに素戔烏すさのをの尊をうみます。いさみたけく不忍いぶりにして父母かぞいろの御心にかなはず。「の国にいね。」との給ふ。この三柱みはしら男神をがみにてまします。よりて一女三男いちによさんなんと申也。すべてあらゆる神みな二神の所生しよしやうにましませど、国のあるじたるべしとてうみ給しかば、ことさらに此よはしらの神を申伝けるにこそ。其後火神ひのかみ軻倶突智かくつちうみましし時、陰神めがみやかれて神退かんさり給にき。陽神をがみうらみいかりて、火神を三段みきだにきる。その三段おの神となる。血のしたゝりもそゝいで神となれり。経津主ふつぬしの神斎主いはひぬしの神とも申。今の檝取かとりの神〉健甕槌たけみかづちの武雷たけみかづちの神とも申。今の鹿嶋かしまの神〉みおや也。陽神猶したひて黄泉よみのくにまでおはしましてさまざまのちかひありき。陰神うらみて「此国の人を一日ひとひ千頭ちがしらころすべし。」との給ければ、陽神は「千五百頭ちいほがしらうむべし。」との給けり。よりて百姓ひやくしやうをばあめ益人ますびとともふ。しぬるものよりも生ずるものおほき也。陽神かへり給て、日向ひむか小戸をど河檍かはあはぎが原と云所にてみそぎし給。この時あまたの神化生けしやうし玉へり。日月ひつきの神もこゝにて生給うまれたまふと云説あり。伊弉諾尊神功かむことすでにをはりければ、天上にのぼり、天祖に報命かへりごと申て、すなはち天にとゞまり給けりとぞ。ある説に伊弉諾・伊弉冊は梵語ぼんごなり、伊舎那天いしやなてん伊舎那后いしやなくうなりとふ。

地神ちじん第一代、大日孁おほひるめの尊。是を天照太神あまてらすおほみかみと申。又は日神ひのかみとも皇祖すめみおやとも申也。此神のうまれ給ことみつの説あり。ひとつには伊弉諾・伊弉冊尊あひはからひて、天下あめのしたあるじをうまざらんやとて、まづ、日神をうみ、次に、月神つきのかみつぎに蛭子ひるこつぎに、素戔烏尊をうみ給といへり。又は伊弉諾の尊、ひだりの御手に白銅ますみの鏡をとりて大日孁の尊を化生けしやうし、みぎの御手にとりて月弓つきゆみの尊をうみ御首みかうべをめぐらしてかへりみ給しあひだに、素戔烏尊をうむともいへり。又伊弉諾尊日向の小戸の川にてみそぎし給し時、左の御眼みめをあらひて天照太神を化生し、右の御眼をあらひて月読つきよみの尊をしやうじ鼻をあらひて素戔烏尊をしやうじ給とも云ふ。日月ひつきの神の御名みなみつあり、化生の所もみつあれば、凡慮ぼんりよはかりがたし。又おはします所も、ひとつには高天たかまの原といひふたつには日の小宮わかみやいひみつには我日本わがやまとの国これ也。八咫やたの御鏡をとらせまして、「われをみるが如くにせよ。」とみことのりし給けること、和光わくわうの御誓もあらはれて、ことさらにふかき道あるべければ、三所みところに勝劣の義をば存ずべからざるにや。

ここに、素戔烏尊、父母かぞいろふたはしらの神にやらはれてねの国にくだり給へりしが、天上にまうでゝ姉の尊にみえたてまつりて、「ひたぶるにいなん。」と申給ければ、「ゆるしつ。」との給。よりて天上にのぼります。大うみとゞろき、山をかなりほえき。此神のさがたけきがしからしむるになむ。天照太神おどろきまして、つはもののそなへをしてまち給。かの尊きたなき心なきよしをおこたり給ふ。「さらば誓約うけひをなして、きよきか、きたなきかをしるべし。誓約のなかに女を生ぜば、きたなき心なるべし。男を生ぜば、きよき心ならん。」とて、素戔烏尊のたてまつられける八坂瓊やさかにの玉をとり給へりしかば、其玉に感じて男神をがみ化生し給。すさのをの尊よろこびて、「まさやあれかちぬ。」との給ける。よりて御名を正哉吾勝々まさやあかつかつ速日天はやひあめ忍穂耳おしほみみの尊と申〈これは古語拾遺の説〉。又の説には、素戔烏尊、天照太神の御くびにかけ給へる御統みすまる瓊玉にのたまをこひとりて、あめ真名井まなゐにふりすゝぎ、これをかみ給しかば、まづ吾勝あかつの尊うまれまします。其後猶四はしらの男神うまれ給。「物のさねわが物なれば我子なり。」とて天照太神の御子になし給といへり〈これは日本紀の一説〉この吾勝尊をば太神めぐしとおぼして、つねに御わきもとにすゑ給しかば、腋子わきこふ。今の世にをさなき子をわかこと云はひが事也。かくて、すさのをの尊なほ天上にましけるが、さまのとがをゝかし給き。天照太神いかりて、天の石窟いはやにこもり給。国のうちとこやみになりて、昼夜のわきまへなかりき。もろの神達うれへなげき給。其時諸神しよじん上首じやうしゆにて高皇産霊たかみむすひの尊とふ神ましき。昔、天御中主あめのみなかぬしの尊、みはしらの御子おはします。をさを高皇産霊ともいひ、次をば神皇産霊かみむすひ、次を津速産霊つはやむすひと云とみえたり。陰陽二神いんやうにじんこそはじめて諸神をしやうじ給しに、ぢき天御中主あめのみなかぬしの御子と云ことおぼつかなし。〈此みはしらを天御中主の御こと云事は日本紀にはみえず。古語拾遺にあり〉。此神、あめのやすかはのほとりにして、八百万やほよろづの神をつどへて相し給。其御子に思兼おもひかねと云神のたばかりにより、石凝姥いしこりどめと云神をして日神の御形みかたちの鏡を鋳せしむ。そのはじめなりたりし鏡、諸神の心にあはず紀伊きの日前ひのくまの神にます〉。次に鋳給へる鏡うるはしくましければ、諸神よろこびあがめ給〈初は皇居にましき。今は伊勢国の五十鈴の宮にいつかれたまふ、これなり〉。又天の明玉あかるたまの神をして、八坂瓊の玉をつくらしめ、天の日鷲ひわしの神をして、青幣白幣あをにぎてしらにぎてをつくらしめ、手置帆負たをきほをい彦狭知ひこさしりの二神をして、大峡小峡おほかいをかひをきりてみづ殿みやらかをつくらしむ〈このほかくさあれどしるさず〉。其物すでにそなはりにしかば、天のかご山の五百箇いほつ真賢木まさかきをねこじにして、上枝かみつえには八坂瓊の玉をとりかけ、中枝なかつえには八咫の鏡をとりかけ、下枝しもつえには青和幣・白和幣をとりかけ、天の太玉の命〈高皇産霊神の子なり〉をしてさゝげもたらしむ。天の児屋こやねの命〈津速産霊の子、或は孫とも。興台産霊こことむすひの神の子也〉をして祈祷きたうせしむ。天の鈿目うずめの命、真辟まさきかづらをかづらにし、蘿葛ひかげのかづら手襁たすきにし、竹の葉、飫憇木おけのきの葉を手草たぐさにし、差鐸さなぎの矛をもちて、石窟いはやの前にして俳優わざをぎをして、相ともにうたひまふ。又庭燎にはひをあきらかにし、常世とこよ長鳴鳥ながなきどりをつどへて、たがひにながなきせしむ〈これはみな神楽かぐらおこりなり〉。天照太神きこしめして、われこのごろ石窟にかくれをり。葦原あしはら中国なかつくにはとこやみならん。いか[ん]ぞ、天の鈿女の命かくゑらぐするやとおぼして、御手をもてほそめにあけてみ給。この時に、天手力雄あめのたぢからをの命と云神〈思兼の神の子〉磐戸いはとのわきにたち給しが、其戸をひきあけて新殿にひどのにうつしたてまつる。中臣なかとみの神〈天児屋命なり〉忌部いむべの神〈天の太玉の命也〉しりくへなはを〈日本紀には端出之縄とかけり。注にはひだり縄のはしいだせるとふ。古語拾遺には日御縄ひのみなはとかく。これ日影ひかげかたちなりといふ〉ひきめぐらして「なかへりましそ。」と申。上天しやうてんはじめてはれて、もろともに相見あひみるおもてみなあきらかにしろし。手をのべて哥舞うたひまひて、「あはれ〈天のあきらかなるなり〉。あな、おもしろ〈古語にいとせつなるをみなあなとふ。面白おもしろ、もろのおもてあきらかに白き也〉。あな、たのし。あな、さやけ〈竹のはのこゑ〉。おけ〈木の名也。そのはをふるこゑ也。天の鈿目の持給へる手草也〉。」かくて、つみを素戔烏の尊によせて、おほするに千座ちくら置戸をきどをもてかうべのかみ、手足のつめをぬきてあがはしめ、其罪をはらひて神やらひにやらはれき。かの尊あめよりくだりて、出雲いづも川上かはかみと云所にいたり給。其所そのところひとりのおきなとうばとあり。ひとりのをとめをすゑてかきなでつゝなきけり。素戔烏尊「たそ。」とゝひ給ふ。「われはこれ国神くにつかみ也。脚摩乳あしなつち手摩乳たなつちふ。このをとめはわが子なり。奇稲田姫くしいなだひめふ。さきに八けの少女をとめあり。としごとに八岐やまた大蛇をろちのためにのまれき。今此をとめ又のまれなんとす。」と申ければ、尊、「我にくれんや。」との給。「みことのりのまゝにたてまつる。」と申ければ、此をとめを湯津ゆつのつまぐしにとりなし、みづらにさし、やしほをりの酒をやつふねにもりてまち給に、はたしてかの大蛇きたれり。かしらおのひとつの槽にいれてのみゑひてねぶりけるを、尊はかせる十握とつかつるぎをぬきてつだにきりつ。尾にいたりて剣のすこしかけぬ。さきてみ給へばひとつの剣あり。その上に雲気うんきありければ、天の叢雲むらくもの剣となづ日本武やまとたけの尊にいたりてあらためて草なぎの剣とふ。それより熱田社あつたのやしろにます〉。「これあやしきつるぎなり。われ、なぞ、あへて私におけらんや。」との給て、天照太神にたてまつりあげられにけり。其のち出雲のすがの地にいたり、宮をたてゝ、稲田姫とすみ給。大己貴あなむちの神を大汝おほなむちとも云〉うましめて、素戔烏尊はつひに根の国にいでましぬ。大汝の神、此国にとゞまりて〈今の出雲の大神にます〉天下あめのした経営けいえいし、葦原あしはらの地をりやうじ給けり。よりてこれを大国主の神とも大物主おほものぬしとも申。その幸魂奇さきたまくし魂は大和の三輪みわの神にます。

○第二代、正哉吾勝々まさやあかつ速日天忍穂耳はやひあまのをしほみみの尊。高皇産霊の尊のむすめ栲幡千々姫たくはたちぢひめの命にあひて、饒速日にぎはやひの尊・瓊々杵ににぎの尊をうましめたまひて、吾勝尊葦原中州あしはらのなかつくににくだりますべかりしを、御子うみ給しかば、「かれを下すべし。」と申給て、天上にとゞまります。まづ、饒速日の尊をくだし給し時、外祖ぐわいそ高皇産霊尊、十種とくさ瑞宝みづたからさづけ給。瀛都をきつのひとつ辺津へつ鏡一、八握やつかの剣一、生玉いくたま一、死反しにかへりの玉一、足玉たるたま一、道反みちがへしの玉一、蛇比礼へみのひれ一、はちの比礼一、くさぐさものの比礼一、これなり。此みことはやく神さり給にけり。およそ国のあるじとてはくだし給はざりしにや。吾勝尊くだりたまふべかりし時、天照太神三種さんじゆ神器じんぎつたへ給。のちに又瓊々杵尊にもさづけまししに、饒速日尊はこれをえ給はず。しかれば日嗣の神にはましまさぬなるべし〈此事旧事本紀の説也。日本紀にはみえず〉。天照太神・吾勝尊は天上にとどまり給へど、地神ちじんの第一、二にかぞへたてまつる。其はじめ天下あめのしたあるじたるべしとてうまれ給しゆゑにや。

○第三代、天津彦々火瓊々杵あまつひこひこほににぎの尊。天孫あめみまとも皇孫すめみまとも申。皇祖すめみおや天照太神・高皇産霊尊いつきめぐみましき。葦原の中州のあるじとして天降あまくだし給はんとす。こゝに其国邪神あしきかみあれてたやすくくだり給ことかたかりければ、天稚彦あめわかひこと云神をくだしてみせしめ給しに、大汝おほなむちの神のむすめ下照姫したてるひめにとつぎて、かへりこと申さず。みとせになりぬ。よりて名なしきぎしをつかはしてみせられしを、天稚彦いころしつ。其矢天上にのぼりて太神の御まへにあり。血にぬれたりければ、あやめ給て、なげくだされしに、天稚彦新嘗にひなめしてふせりけるむねにあたりて死す。世に返し矢をいむは此故也。さらに又くださるべき神をえらばれし時、経津主ふつぬしの命檝取かとりの神にます〉武甕槌たけみかづちの神鹿嶋かしまの神にます〉みことのりをうけてくだりましけり。出雲いづもの国にいたり、はかせる剣をぬきて、地につきたて、其上にゐて、大汝の神に太神のみことのりをつげしらしむ。その子都波八重事代主つみはやへことしろぬしの〈今葛木かづらきかもにます〉あひともにしたがい申。又次の子健御名方刀美たけみなかたとみの神〈今陬方すはの神にます〉したがはずして、にげ給しを、すはのみづうみまでおひてせめられしかば、又したがひぬ。かくてもろあしき神をばつみなへ、まつろへるをばほめて、天上にのぼりてかへりこと申給。大物主の神〈大汝の神は此国をさり、やがてかくれ給と見ゆ。この大物主はさきに云所の三輪の神にますなるべし〉事代主の神、相共に八十万やそよろづの神をひきゐて、あめにまうづ。太神ことにほめ給き。「よろしく八十万の神をりやうじて皇孫をまぼりまつれ。」とて、まづかへしくだし給けり。其後、天照太神、高皇産霊尊相はからひて皇孫をくだし給。八百万やほよろづの神、みことのりうけたまはりて御供につかうまつる。諸神の上首じやうしゆ三十二神あり。其なか五部いつとものをの神と云は、天児屋あまのこやねの〈中臣のおや太玉ふとたまの〈忌部の祖〉鈿女うづめの猨女さるめの祖〉石凝姥いしこりどめの〈鏡つくりの祖〉玉屋たまのやの玉作たまつくりの祖〉也。此中にも中臣・忌部のふたはしらの神はむねと神勅しんちよくをうけて皇孫をたすけまぼり給。又三種みくさ神宝かむたからをさづけまします。まづあらかじめ、皇孫にみことのりしてのたまはく、「葦原千五百秋之瑞穂国あしはらのちいほあきのみづほのくにはこれ吾子孫わがうみのこの可主之きみたるべきところ也[なり]。宜爾皇孫就而治いましすめみまついてしらすべし焉。行給矣さきくゆきたまへ宝祚之あまつひつぎのさかえまさむこと当与天壌無窮者矣まさにあめつちときはまりなかるべし。」又太神御手に宝鏡をもちたまひ、皇孫にさづけほきて、「吾児わがこ視此宝鏡このたからのかがみをみること当猶視吾まさになをしわれをみるがごとくすべし可与同床共殿以為斎鏡ともにゆかをおなじくしみあらかをひとつにしていはひのかがみとすべし。」との給。八坂瓊の曲玉まがたま・天の叢雲の剣をくはへて三種とす。又「此鏡のごとく分明ふんみやうなるをもて、天下あめのした照臨せうりんし給へ。八坂瓊のひろがれるが如く曲妙たくみなるわざをもて天下をしろしめせ。神剣をひきさげては不順まつろはざるものをたひらげたまへ。」とみことのりましけるとぞ。

此国の神霊しんれいとして、皇統くわうとう一種たゞしくまします事、まことにこれらのみことのりにみえたり。三種の神器世につたふること、日月星ひつきほしあめにあるにおなじ。鏡は日のたいなり。玉は月のせい也。剣は星の也。ふかき習あるべきにや。そもそも、彼の宝鏡はさきにしるしはべる石凝姥いしこりどめの命のつくり給へりし八咫の御鏡〈八咫に口伝あり〉、〔裏書[に]ふ。咫説文ふ。中婦人手長八寸謂之咫。周尺也。ただし、今の八咫の鏡[の]事はべつに口伝あり。〕玉は八坂瓊の曲玉、々屋の命天明あめのあかる玉とも云〉つくり給へるなり〈八坂にも口伝あり〉。剣はすさのをの命のえ給て、太神にたてまつられし叢雲むらくもの剣也。此三種につきたる神勅しんちよくまさしく国をたもちますべき道なるべし。鏡は一物いちもつをたくはへず。わたくしの心なくして、万象ばんしやうをてらすに是非善悪のすがたあらはれずと云ことなし。其すがたにしたがひて感応かんおうするを徳とす。これ正直しやうぢきの本源なり。玉は柔和善順にうわぜんじゆんを徳とす。慈悲の本源也。剣は剛利決断を徳とす。智恵ちゑの本源也。此三徳を翕受あはせうけずしては、天下あめのしたのをさまらんことまことにかたかるべし。神勅しんちよくあきらかにして、ことばつゞまやかにむねひろし。あまさへ神器にあらはれ給へり。いとかたじけなき事をや。なかにも鏡をもととし、宗廟そうべう正体しやうたいとあふがれ給。鏡はめいをかたちとせり。心性しんしやうあきらかなれば、慈悲決断は其うちにあり。又まさし御影みかげをうつし給しかば、ふかき御心をとゞめ給けんかし。あめにある物、日月ひつきよりあきらかなるはなし。よりて文字もんじを制するにも「日月を明とす。」と云へり。我神、大日だいにちみたまにましませば、明徳をもて照臨し給こと陰陽におきてはかりがたし。冥顕みやうけんにつきてたのみあり。君もしんも神明の光胤くわういんをうけ、或はまさしくみことのりをうけし神達の苗裔べうえい也。誰か是をあふぎたてまつらざるべき。此ことわりをさとり、其道にたがはずは、内外典ないげてんの学問もこゝにきはまるべきにこそ。されど、此道のひろまるべき事は内外典流布るふの力なりと云つべし。魚をうることはあみ一目いちもくによるなれど、衆目の力なければ是をうることかたきが如し。応神おうじん天皇の御代より儒書をひろめられ、聖徳しやうとく太子の御時より、釈教しやくけうをさかりにし給し、これ権化ごんげ神聖かみにましませば、天照太神の御心をうけて我国の道をひろめふかくし給なるべし。かくて此瓊々杵の尊、天降あまくだりましゝに猨田彦さるだびこと云神まゐりあひき〈これはちまたの神也〉。てりかゝやきて目をあはする神なかりしに、天の鈿目の神ゆきあひぬ。又「皇孫いづくにかいたりましますべき。」と問しかば、「筑紫つくしの日向の高千穂の槵触くしふるたけにましますべし。われは伊勢の五十鈴の川上にいたるべし。」とまをす。彼神のまをしのまゝに、槵触の峯にあまくだりて、しづまり給べき所をもとめられしに、事勝ことかつ国勝くにかつと云神〈これも伊弉諾尊の御子、又は塩土しほつちおきなと云〉まいりて、「わがゐたる吾田あた長狭ながさ御崎みさきなんよろしかるべし。」と申ければ、その所にすませ給けり。こゝに山の神大山祇おほやまつみふたりむすめあり。姉を磐長姫いわながひめと云〈これ磐石ばんじやくの神なり〉、妹を花開耶はなのさくや姫と云〈これは花木の神なり〉。二人をめしみたまふ。あねはかたちみにくかりければ返しつ。いもうとをとどめ給しに、磐長姫うらみいかりて、「我をもめさましかば、世の人はいのちながくて磐石の如くあらまし。たゞ妹をめしたれば、うめらん子はの花の如くちりおちなむ。」ととこひけるによりて、人のいのちはみじかくなれりとぞ。木の花のさくやひめ、ゝされて一夜ひとよにはらみぬ。天孫のあやめ給ければ、はらたちて無戸室うつむろをつくりてこもりゐて、みづから火をはなちしに、三人みたりの御子生給うまれたまふ。ほのほのおこりける時、うまれますを火闌降ほのすせりの命とふ。火のさかりなりしに生ますを火明ほあかりの命とふ。のちに生ますを火火出見ほほでみの尊とまをす。此三人の御子をば火もやかず、母の神もそこなはれ給はず。父の神よろこびましけり。此尊天下あめのしたをさめ給事三十万八千五百三十三年と云へり。自是これよりさき、天上にとゞまります神達の御事は年序ねんじよはかりがたきにや。天地あめつちわかれしより以来このかたのこと、いくとせをへたりと云こともみえたるふみなし。そもそも、天竺の説に、人寿にんじゆ無量なりしが八万四千歳になり、それより百年に一年を減じて百二十歳の時〈或百才とも〉釈迦仏たまふいへる、此仏出世は鸕鶿草葺不合うがやふきあへずの尊のすゑざまの事なれば〈神武天皇元年辛酉かのととり仏滅後ぶつめつののち二百九十年にあたる。これより上はかぞふべき也〉、百年に一年を増してこれをはかるに、此瓊々杵の尊のはじめつかたは迦葉仏かせふぶついで給ける時にやあたり侍らん。人寿二万歳の時、此仏は出給けりとぞ。

○第四代、彦火々出見ひこほほでみの尊とまをす御兄このかみ闌降すせりの命、海のさちます。此尊は山のさちましけり。こゝろみに相かへ給しに、おのおのさちなかりき。おととの尊の、弓箭ゆみやに魚の釣鉤つりばりをかえ給へりしを、弓箭をばかへしつ。おとゝの尊鉤つりばりを魚にくはれて失ひ給けるを、あながちにせめ給しに、せんすべなくて海辺うみべにさまよひ給き。塩土のおきな〈此神の事さきにみゆ〉まゐりあひて、あはれみ申て、はかりことをめぐらして、海神綿積うみのかみわたつみの小童せうとうともかけり〉の所におくりつ。其むすめを豊玉姫とふ。天神あまつかみの御孫にめでたてまつりて、父の神につげてとゞめ申つ。つひに其むすめとあひすみたまふ。みとせばかりありて故郷もとつくにをおぼす御気色みけしきありければ、其女父にいひあはせてかへしたてまつる。大小おほきちひさきいろくづをつどへてとひけるに、口女くちめと云うを、やまひありとてみえず。しひてめしいづれば、そのくちはれたり。是をさぐりしに、うせにし鉤をさぐりいづひとつには赤女あかめふ。又此魚はなよしと云魚とみえたり〉海神うみのかみいましめて、「口女いまよりつりくふな。又天孫あめみまおものにまゐるな。」となん云ふくめける。又海神ひる珠みつ珠をたてまつりて、このかみをしたがへ給べきかたちををしへ申けり。さて故郷もとつくににかへりまして鉤をかへしつ。満珠みつたまをいだしてねぎ給へば、塩みちきて、このかみおぼれぬ。なやまされて、「俳優わざをぎたみとならん。」とちかひ給しかば、ひる珠をもちて塩をしりぞけ給き。これより天日嗣あまつひつぎをつたへましける。海中にて豊玉姫はらみ給しかば、「産期うみがつきにいたらば、海辺うみべ産屋うぶやつくりて待給へ。」と申き。はたして其いも玉依たまより姫をひきゐて、海辺にゆきあひぬ。を作て鸕鶿にてふかれしが、ふきもあへず、御子うまれ給によりて鸕鶿草葺不合うがやふきあへずの尊と申す。又産屋をうぶやと云事もうのはをふけるゆゑなりとなん。さても「うみの時み給な。」と契申ちぎりまをししを、のぞきて見ましければ、りようになりぬ。はぢうらみて、「われにはぢみせ給はずは、海陸うみくがをして相かよはしへだつることなからまし。」とて、御子をすておきて海中へかへりぬ。後に御子のきらしくましますことをきゝて憐みあがめて、妹の玉依姫を奉て養ひまゐらせけるとぞ。此尊、天下を治給こと六十三万七千八百九十二年と云へり。震旦の世のはじめをいへるに、万物ばんぶつ混然としてあひはなれず。是を混沌こんとんふ。其後かろくきよき物はてんとなり、をもくにごれる物はとなり、中和気くわのきじんとなる。これを三才さんさいと云〈これまでは我国のはじまりを云にかはらざる也〉。其はじめの君盤古ばんこ氏、天下ををさむること一万八千年。天皇てんくわう・地皇・人皇など云王相続あひつぎて、九十一代一百八万二千七百六十年。さきにあはせて一百十万七百六十年〈これ一説なり。まことにはあきらかならず〉広雅くわうがと云書には、開闢より獲麟くわくりんいたりて二百七十六万歳ともふ。獲麟とは孔子の在世ざいせの哀公の時なり。日本の懿徳いとくにあたる。しからば、盤古のはじめは此尊の御代のすゑつかたにあたるべきにや。

○第五代、彦波激武鸕鶿草葺不合ひこなぎさたけうがやふきあへずの尊とまをす。御母豊玉姫の名づけ申ける御名なり。御をば玉依姫にとつぎてはしらの御子をうましめ給ふ。彦五瀬ひこゐつせの命、稲飯いなひの命、三毛入野みけいりのゝ命、日本磐余彦やまといわれひこの尊と申す。磐余彦尊を太子に立てて天日嗣あまつひつぎをなんつがしめましける。此神の御代七十七万余年の程にや、もろこしの三皇の初、伏犠ふくきと云王あり。つぎに神農しんのう氏、つぎに軒轅けんゑん氏、三代あはせて五万八千四百四十年〈一説には一万六千八百二十七年。しからば此尊の八十万余の年にあたる也。親経ちかつねの中納言の新古今の序をかくに、伏犠の皇徳にもとゐして四十万年と云り。いづれの説によれるにか。無覚束おぼつかなきことなり。其後に少昊せうこう氏、顓頊せんぎよく氏、高辛かうしん氏、陶唐たうたう〈堯也〉有虞いうぐ〈舜也〉と云五帝あり。あはせて四百三十二年。其つぎにいんしうの三代あり。夏には十七主、四百三十二年。殷には三十主、六百二十九年。周の代となりて第四代のしゆを昭王と云き。その二十六年甲寅きのえとらの年までは周おこりて一百二十年。このとしは葺不合尊の八十三万五千六百六十七年にあたれり。ことし天竺に釈迦仏出世しまします。おなじき八十三万五千七百五十三年に、ほとけ御年八十にて入滅にふめつしましけり。もろこしには昭王の子、ぼく王の五十三年壬甲みづのえさるにあたれり。其後二百八十九年ありて、庚申かのえさるにあたる年、此神かくれさせまします。すべて天下を治給こと八十三万六千四十三年と云り。これよりかみつかたを地神ちじん五代とは申けり。二代は天上にとゞまりたまふしも三代は西のくにの宮にて多の年をおくりまします。神代のことなれば、其行迹かうせきたしかならず。葺不合の尊八十三万余年まししに、その御子磐余彦尊の御代より、にはかに人王にんわうとなりて、暦数れきすうも短くなりにけること疑ふ人もあるべきにや。されど、神道の事おしてはかりがたし。まことに磐長姫のとこひけるまゝ寿命も短くなりしかば、神のふるまひにもかはりて、やがて人の代となりぬるか。天竺の説の如く次第ありてげんじたりとはみえず。又百王ましますべしと申める。十々の百にはあらざるべし。きはまりなきを百とも云り。百官百姓ひやくくわんひやくしやうなど云にてしるべき也。昔、皇祖天照太神天孫の尊に御ことのりせしに、「宝祚之あまつひつぎのさかんなること当与天壌無窮まさにあめつちときはまりなかるべし。」とあり。天地も昔にかはらず。日月も光をあらためず。いはんや三種の神器世に現在し給へり。きはまりあるべからざるは我国をつたふ宝祚はうそ也。あふぎてた[つ]とびたてまつるべきは日嗣をうけ給すべらぎになんおはします。


巻二

人皇にんわう第一代、神日本磐余彦天皇すめらみことまをす。後に神武じんむとなづけたてまつる。地神ちじん鸕鶿草葺不合の尊の第四の子。御母玉依姫、海神うみのかみ小童わたつみの第二[の]むすめ也。伊弉諾尊には六世、大日孁おほひるめの尊には五世の天孫にまします。神日本磐余彦と申は神代よりのやまとことばなり。神武は中古となりて、もろこしのことばによりてさだめたてまつる御名也。又此御代より代ごとに宮所みやどころをうつされしかば、其ところを名づけて御名とす。此天皇をば橿原かしはらの宮と申、是也。又神代よりいたりたふときみこといひ、其次をみことふ。人の代となりては天皇すめらみこととも号したてまつる。臣下にも朝臣あそむ宿禰すくねおみなどと、いふ号いできにけり。神武の御時よりはじまれる事なり。上古しやうこには尊とも命ともかねしようしけるとみえたり。世くだりては天皇を尊と申こともみえず、しんを命と云事もなし。古語の耳なれずなれるゆゑにや。此天皇てんわう御年十五にて太子たいしたち、五十一にてちちの神にかはりて皇位にはつかしめたまふ。ことし辛酉かのととりなり。筑紫つくしの日向の宮崎の宮におはしましけるが、このかみの神達および皇子群臣わうじぐんしんみことのりして、東せいのことあり。此大八州おほやしまは皆是王地也。神代かみよ幽昧ゆうまいなりしによりて西偏にしのほとりの国にして、おほくの年序ねんじよをおくられけるにこそ。天皇舟楫しうしふをとゝのへ、甲兵かふへいをあつめて、大日本州おほやまとのくににむかひ給。みちのついでの国々をたひらげ、大やまとにいりまさむとせしに、其国にあめの神にぎ速日はやひの尊の御すゑ宇麻志間見うましまみの命と云神あり。外舅はゝかたのをぢ長髄彦ながすねひこと云、「天神あまつかみの御子両種有むや。」とて、いくさをおこしてふせぎたてまつる。其軍こはくして皇軍みいくさしば利をうしなふ。又邪神あしきかみ毒気どくきをはきしかば、士卒しそつみなやみふせり。こゝに天照太神、健甕槌たけみかづちの神をめして、「葦原の中つくににさわぐおとす。汝ゆきてたひらげよ。」とみことのりし給。健甕槌の神まをし給けるは、「昔国をたひらげし時[の]剣あり。かれをくださば、おのづからたひらぎなん。」と申て、紀伊きの名草なぐさの村に高倉下たかくらじの命と云神にしめして、此剣をたてまつりければ、天皇よろこび給て、士卒のやみふせりけるもみなおきぬ。又神魂かみむすひの命のまご武津之身たけつのみの命大からすとなりて軍の御さきにつかうまつる。天皇ほめて八咫烏やたからすと号し給。又金色こんじきとびくだりて皇弓みゆみのはずにゐたり。其光てりかゞやけり。これによりて皇軍おほきにかちぬ。宇麻志間見うましまみの命其をぢのひがめる心をしりて、たばかりてころしつ。そのいくさをひきゐてしたがひ申にけり。天皇はなはだほめまして、あめよりくだれる神剣をさづけ、「其大勲だいくんにこたふ。」とぞのたまはせける。此剣を豊布都とよふつの神と号す。はじめは大和やまと石上いそのかみにましき。後には常陸ひたち鹿嶋かしまの神宮にまします。かの宇麻志間見うましまみの命又饒速日にぎはやひの尊天降あまくだりし時、外祖ぐわいそ高皇産霊たかみむすひの尊さづけ給し十種とくさ瑞宝みづたからつたへもたりけるを天皇に奉る。天皇鎮魂みたましづめの瑞宝也しかば、其祭を始られにき。此宝をもすなはち宇麻志間見うましまみにあづけ給て、大和やまとの石上に安置あんぢす。又は布瑠ふるがうす。此瑞宝をひとつづゝよびて、呪文じゆもんをして、ふる事あるによれるなるべし。かくて天下あめのしたたひらぎにしかば、大和国橿原かしはらに都をさだめて、宮つくりす。其制度せいど天上の儀のごとし。天照太神より伝給へる三種の神器を大殿みあらかに安置し、ゆかを同くしまします。皇宮・神宮ひとつなりしかば、国々のつき物をも斎蔵いみくらにをさめて官物くわんもつ神物じんもつのわきだめなかりき。天児屋根あめのこやねの命の孫天種子あめのたねこの命、天太玉あめのふとたまの命[の]孫天富あめのとみの命もはら神事しんじをつかさどる。神代のためしにことならず。又霊畤まつりのには鳥見山とみのやまなかにたてゝ、天神あまつかみ地祇くにつかみをまつらしめたまふ。此御代の始、辛酉かのととりの年、もろこしのしうの世、第十七代にあたる君、けい王の十七年也。五十七年丁巳ひのとみは周の二十一代の君、てい王の三年にあたれり。ことし老子らうし誕生たんじやうす。是は道教の祖也。天竺てんぢく釈迦如来しやかによらい入滅にふめつし給しより元年辛酉までは二百九十年になれるか。此天皇天下てんかをさめ給こと七十六年。一百二十七歳おはしき。

○第二代、綏靖すゐぜい天皇[は]〈これより和語わごの尊号をばのせず〉神武じんむ第二[の]御子。御母鞴五十鈴姫たたらいすずひめ事代主ことしろぬしの神の女也。父の天皇かくれまして、みとせありて即位し給。庚辰かのえたつの年也。大和葛城高岡やまとのかづらきのたかをかの宮にまします。三十一年庚戌かのえいぬの年もろこしの周の二十三代[の]君、れい王の二十一年也。ことし孔子こうし誕生す。自是これより七十三年までおはしけり。儒教をひろめらる。此道は昔の賢王、唐堯たうげう虞舜ぐしゆんはじめいんのはじめのたうしうのはじめのぶん王・王・しう公の国を治め、民をなで給し道なれば、心をただしくし、身をなほくし、家を治め、国を治めて、天下におよぼすをむねとす。さればことなる道にはあらねども、末代まつだいとなりて、人不正になりしゆゑに、其道ををさめて儒教じゆけうをたてらるゝ也。天皇天下ををさめ給こと三十三年。八十四歳おましき。

○第三代、安寧あんねい天皇は綏靖すゐぜい第二の子。御母五十鈴依姫いすずよりひめ事代主ことしろぬしの神のおとむすめ也。癸丑みづのとうしの年即位。大和やまと片塩かたしほ浮穴うきあなの宮にまします。天下を治給こと三十八年。五十七歳おましき。

○第四代、懿徳いとく天皇は安寧あんねい第二の子。御母渟名底中媛ぬなそこなかつひめ事代主ことしろぬしの神の孫也。辛卯かのとうの年即位。大和の軽曲峡かるのまがりをの宮にまします。天下を治給こと三十四年。七十七歳おはしましき。

○第五代、孝昭かうせう天皇は懿徳いとく第一の子。御母天豊津あまのとよつ姫、息石耳おきしみみの命の女也。父の天皇かくれまして一年ひととせありて、丙寅ひのえとらの年即位。大和のわき上池かみのいけこころの宮にまします。天下を治給こと八十三年。百十四歳おはしましき。

○第六代、孝安かうあん天皇は孝昭かうせう第二の子。御母世襲足よそたらしの姫、尾張をはりむらじ上祖とほつおや瀛津世襲おきつよその女也。乙丑きのとうしの年即位。大倭秋津嶋やまとのあきづしまの宮にまします。天下を治給こと一百二年。百二十歳おましき。

○第七代、孝霊かうれい天皇は孝安かうあん太子たいし。御母押姫おしひめ天足彦国押人あめたらしひこくにおしひとの命の女也。辛未かのとひつじの年即位。大和の黒田廬戸くろだいほとの宮にまします。三十六年丙午ひのえうまにあたる年、もろこしの周の国めつしてしんにうつりき。四十五年乙卯きのとう、秦の始皇しくわう即位。此の始皇仙ほうをこのみて長生不死ちやうせいふしの薬を日本にもとむ。日本より五帝三皇の遺書ゐしよかの国にもとめしに、始皇ことくこれをおくる。其後三十五年ありて、かの国、書をやき、儒をうづみにければ、孔子の全きやう日本にとゞまるといへり。此事異朝の書にのせたり。我国には神功皇后じんぐうくわうごう三韓をたひらげ給しより、異国に通じ、応神の御代より経史けいしの学つたはれりとぞ申ならはせる。孝霊の御時より此国に文字もんじありとはきかぬ事なれど、上古しやうこのことはたしかしるしとゞめざるにや。応神の御代にわたれる経史だにも今は見えず。聖武の御時、吉備大臣きびのだいじん入唐にふたうしてつたへたりける本こそ流布るふしたれば、この御代より伝けん事もあながちにうたがふまじきにや。凡此国をば君子不死の国とも云也。孔子世のみだれたる事をなげきて、「九夷きういにをらん。」との給ける。日本は九夷の其ひとつなるべし。異国には此国をば東夷とす。此国よりは又彼国をも西蕃せいばんと云るがごとし。四海しかいと云は東夷とうい南蛮なんばん西羌せいきやう北狄ほくてき也。南はじやしゆなれば、虫をしたがへ、西は羊をのみかふなれば、羊をしたがへ、北は犬の種なれば、犬をしたがへたり。たゞ東は仁ありていのちながし。よりてだいきうの字をしたがふと云へり。〔裏書[に]ふ。夷説文曰。東方之人也。从大从弓。徐氏曰。唯東夷从大从弓。仁而寿。有君子不死之国ふ。仁而寿、未合弓字之義。弓者以近窮遠也ふ。若取此義歟。〕孔子の時すらこなたのことをしり給ければ、秦の世に通じけんことあやしむにたらぬことにや。此天皇天下ををさめ給事七十六年。百十歳おはしましき。

○第八代、孝元かうげん天皇は孝霊の太子たいし。御母細媛くはしひめ磯城県主しきのあがたぬしの女也。丁亥ひのとゐの年即位。大倭やまと軽境原かるのさかひはらの宮にまします。九年乙未きのとひつじの年、もろこしのしんほろびかんにうつりき。此天皇天下を治給こと五十七年。百十七歳おましき。

○第九代、開化かいくわ天皇は孝元第二の子。御母鬱色謎うつしこめ姫、穂積ほづみおみの上祖とをつをや鬱色雄命うつしこをのみことの妹也。甲申きのえさるの年即位。大和の春日率川かすがのいさがはの宮にまします。天下を治給こと六十年。百十五歳おましき。

○第十代、崇神すじん天皇は開化第二の子。御母伊香色謎いかがしこめ〈初は孝元のきさきとして彦太忍信ひこふとおしまことの命をうむ〉太綜麻杵おほへそきの命の女也。甲申きのえさるの歳即位。大和の磯城しき瑞籬みづかきの宮にまします。此御時神代をさる事、世は十つぎ、年は六百あまりになりぬ。やうやく神威をおそれ給て、即位六年己丑つちのとうしの〈神武元年辛酉かのととりより此己丑つちのとうしまでは六百二十九年〉神代の鏡造かがみつくり石凝姥いしこりどめの神のはつこをめして鏡をうつしせしめ、天目一箇あめのまひとつの神のはつこをして剣をつくらしむ。大和宇陀やまとのうだこほりにして、此両種をうつしあらためられて、護身ごしんしるしとして同殿おなじとのに安置す。神代よりの宝鏡および霊剣をば皇女くわうぢよ豊鋤入姫とよすきいりひめの命につけて、大和の笠縫かさぬひむらと云所に神籬ひもろぎをたてゝあがめ奉らる。これより神宮・皇居おのおのべつになれりき。其後太神のをしへありて、豊鋤入姫の命、神体を頂戴ちやうだいし所々ところどころをめぐり給けり。十年の秋、大彦おほひこの命を北陸ほくろくつかはし、武渟川別たけぬなかはわけの命を東海とうかいに、吉備津彦命を西道さいだうに、丹波たには道主みちぬしの命を丹波たんばに遣す。ともに印綬いんじゆたまひて将軍とす〈将軍の名はじめてみゆ〉。天皇の叔父しゆくふ武埴安彦たけはにやすひこの命、朝廷をかたぶけんとはかりければ、将軍等をとどめて、まづ追討しつ。冬十月かんなづきに将軍発路みちたちす。十一年の夏、四道の将軍戎夷じゆういたひらげぬるよし復命かへりことす。六十五年秋任那みまなの国、使つかひをさしてつきをたてまつる〈筑紫をさること二千余里と云〉。天皇天下を治給こと六十八年。百二十歳おましき。

○第十一代、垂仁すゐにん天皇は崇神すじん第三の子。御母御間城姫みまきひめ大彦おほひこみことの〈孝元の御子〉女也。壬辰みづのえたつの年即位。大和の巻向まきむく珠城たまきの宮にまします。此御時皇女大和姫の命、豊鋤入とよすきいり姫にかはりて、天照太神をいつきたてまつる。神のをしへにより、なほ国々をめぐりて、二十六年丁巳ひのとみ十月甲子かんなづききのえね伊勢いせの度会郡わたらひのこほり五十鈴いすずの川上に宮所みやどころをしめ、高天たかまの原に千木高知ちぎたかしり下都磐根したついはねに大宮柱広敷ふとしきたててしづまりましぬ。此ところは昔天孫あめみまあまくだり給し時、猨田彦さるだびこの神まゐりあひて、「われは伊勢の狭長田さながたの五十鈴の川上にいたるべし。」と申ける所也。大倭やまと姫の命、宮所をたづね給しに、大田の命と云人〈又興玉おきたまとも云〉まゐりあひて、此所ををしへ申き。此命は昔の猨田彦の神の苗裔べうえいなりとぞ。彼川上に五十鈴いすず・天上の図形づぎやうなどあり〈天の逆戈さかほこもこの所にありきと云一説あり〉。「八万歳のあひだまぼりあがめたてまつりき。」となん申ける。かくて中臣なかとみおや大鹿嶋おほかしまの命を祭主さいしゆとす。又大幡主おほはたぬしと云人を太神主おほかむぬしになしたまふ。これより皇太神すめおほみかみとあがめ奉て、天下てんか第一の宗廟そうべうにまします。此天皇天下を治給こと九十九年。百四十歳おましき。

○第十二代、景行けいかう天皇は垂仁第三の子。御母日葉州媛ひはすひめ、丹波道主の王の女也。辛未かのとひつじの年即位。大和の纏向まきむく日代ひしろの宮にまします。十二年秋、熊襲くまそ〈日向にあり〉そむきてみつき奉らず。八月はつきに天皇筑紫にみゆきして是をせいし給。十三年夏ことたひらぐ。高屋の宮にまします。十九年の秋筑紫よりかへり給。二十七年秋、熊襲又そむきて辺境ををかしけり。皇子小碓をうすの尊御年十六、をさなくより雄略気をゝしきけまして、容貎ようばう魁偉すぐれたゝはし。身のたけ一丈、ちからよくかなへをあげ給ひしかば、熊襲をうたしめたまふ。冬十月かんなづきひそかに彼国にいたり、奇謀きぼうをもて、梟帥たけるひとこのかみ取石鹿父とりいしかやと云物を殺給ころしたまふ。梟帥ほめ奉て、日本武やまとたけとなづけ申けり。ことごとく余党をたひらげて帰給。所々にしてあまたの悪神あしきかみをころしつ。二十八年春かへりこと申給けり。天皇其の功をほめてめぐみ給こと諸子にことなり。四十年の夏、東夷とういおほくそむきて辺境さわがしかりければ、又日本武の皇子をつかはす。吉備きび武彦たけひこ大伴おほとも武日たけひを左右の将軍としてあひそへしめ給。十月に枉道よきりみちして伊勢の神宮にまうでゝ、大和姫の命にまかりまをし給。かの命神剣をさづけて、「つゝしめ、なおこたりそ。」とをしへ給ける。駿河するが〈駿河日本紀説、あるひは相模さがみ古語拾遺説〉いたるに、賊徒ぞくと野に火をつけてがいしたてまつらんことをはかりけり。火のいきほひまぬかれがたかりけるに、はかせる叢雲むらくもの剣をみづからぬきて、かたはらの草をなぎてはらふ。これより名をあらためて草薙くさなぎの剣とふ。又火うちをもて火をいだして、むかひ火をつけて、賊徒をやきころされにき。これより船にのり給て上総かづさにいたり、転じて陸奥みちのおくの国にいり、日高見ひたかみの国〈その所異説あり〉にいたり、こと蝦夷えびすたひらげ給。かへりて常陸ひたちをへ甲斐かひにこえ、又武蔵むさし上野かみつけをへて、碓日坂うすひざかにいたり、弟橘媛おとたちばなひめと云しみめをしのび給〈上総へわたり給し時、風波ふうはあらかりしに、尊の御命をあがはんとて海にいりし人なり〉。東南のかたをのぞみて、「吾嬬あづま者耶はや。」との給しより、山東さんとうの諸国をあづまと云也。これより道をわけ、吉備の武彦をば越後ゑちごの国につかはして不順者まつろはぬものたひらげしめ給。尊は信濃しなのより尾張をはりにいで給。かの国に宮簀媛みやすひめと云をんなあり。尾張をはり稲種宿禰いなたねのすくねの妹也。此女をめしてひさしく留給とどまりたまふあひだ、五十葺いぶきの山に荒神あらぶるかみありときこえければ、剣をば宮簀媛の家にとゞめて、かちよりいでます。山神やまのかみして小蛇こへびになりて、御道によこたはれり。尊またこえてすぎ給しに、山神毒気をはきけるに、御心みだれにけり。それより伊勢にうつり給。能褒野のぼのと云所にて御やまひはなはだしくなりにければ、武彦の命をして天皇に事のよしをそうして、つひにかくれ給ぬ。御年三十也。天皇きこしめして、かなしみ給事かぎりなし。群卿百寮ぐんけいひやくれうおほせて、伊勢国能褒野にをさめたてまつる。白鳥しらとりなりて、大和国をさして琴弾ことひきの原にとゞまれり。其所に又みささぎをつくらしめられければ、又とび河内古市かはちのふるいちにとゞまる。その所に陵をさだめられしかば、白鳥又飛てあめにのぼりぬ。よりてみつの陵あり。かの草薙の剣は宮簀媛あがめたてまつりて、尾張にとゞまり給。今の熱田あつたの神にまします。五十一年秋八月はつき武内たけうち宿禰すくね棟梁とうりやうの臣とす。五十三年秋、小碓をうすの命のことむけし国をめぐりみざらんやとて、東国にみゆきし給。十二月しはすあづまよりかへりて、伊勢のかむばたの宮にまします。五十四年秋、伊勢より大和にうつり、纏向まきむくの宮にかへり給。天下を治給こと六十年。百四十歳おましき。

○第十三代、成務せいむ天皇は景行第三[の]子。御母八坂入姫やさかいりひめ、八坂入彦の皇子[の]〈崇神の御子〉女也。日本武やまとたけの日嗣ひつぎをうけ給ふべかりしに、世をはやくしまししかば、此御門みかどたち給。辛未かのとひつじの歳即位。近江の志賀高穴穂しがのたかあなほの宮にまします。神武より十二代、大和国にまし〈景行天皇のすゑつかた、此高穴穂にまししかどもさだまれる皇都にはあらず〉。此時はじめて他国にうつり給。三年の春、武内の宿禰を大臣おほおみとす〈大臣の号これにはじまる〉。四十八年の春、姪仲足彦をひなかたらしひこの尊〈日本武の尊の御子〉をたてゝ皇太子とす。天下を治給こと六十一年。百七歳おましき。

○第十四代、第十四世、仲哀ちゆうあい天皇は日本武やまとたけの尊第二の子、景行けいかうの御孫也。御母両道入姫ふたちいりひめ垂仁すゐにん天皇[の]女也。大祖たいそ神武より第十二代景行まではのまゝに継体けいたいし給。日本武尊世をはやくし給しによりて、成務せいむ是をつぎ給。此天皇を太子としてゆづりまししより、だいせいとかはれる初也。これよりは世をもととしるしたてまつるべき也〈代と世とは常の義差別しやべつなし。しかれおよそ承運しよううんとまことの継体とを分別ぶんべつせん為に書分かきわけたり。ただし字書にもそのいはれなきにあらず。代はかうの義也。世は周礼しゆらいの註に、父しして子たつを世と云とあり〉。此天皇御かたちいときらしく、御たけ一丈ましける。壬申みづのえさるの年即位。此御時熊襲又反乱ほんらんして朝こうせず。天皇いくさをめしてみづから征伐せいばつをいたし、筑紫つくしにむかひ給。皇后息長足姫おきながたらしひめの尊は越前ゑちぜんの国笥飯けいの神にまうでゝ、それより北海をめぐりて行あひ給ぬ。こゝに神ありて皇后にかたり奉る。「これより西にたからの国あり。うちてしたがへ給へ。熊襲は小国也。又伊弉諾・伊弉冊のうみ給へりし国なれば、うたずともつひにしたがひたてまつりなん。」とありしを、天皇うけがひ給はず。事ならずして橿日かしひ行宮かりみやにしてかくれたまふ長門ながとにをさめ奉る。是を穴戸豊浦あなとのとよらの宮と申す。天下を治給こと九年。五十二歳おましき。

○第十五代、神功じんぐう皇后は息長おきなが宿禰すくねの女、開化かいくわ天皇四世の御孫也。息長足おきながたらし姫の尊と申す。仲哀たてゝ皇后とす。仲哀神のをしへによらず、世を早くし給しかば、皇后いきどほりまして、七日あ[つ]て別殿べつでんを作り、いもほりこもらせ給。此時応神天皇はらまれましけり。神がゝりてさま道ををしへ給ふ。此神は「表筒男うはつつのをなか筒男・そこ筒男なり。」となんなのり給けり。是は伊弉諾尊日向の小戸をど川檍あはぎが原にてみそぎし給し時、化生けしやうしましける神也。後には摂津つの国住吉すみよしにいつかれ給神これなり。かくて新羅しらぎ百済くだら高麗かうらい〈此三け国を三韓さんかんふ。ただしくは新羅にかぎるべきか。辰韓しんかん馬韓ばかん弁韓べんかんをすべて新羅と云也。しかれどふるくより百済・高麗をくはへて三韓といひならはせり〉うちしたがへ給き。海神うみのかみかたちをあらはし、御船をはさみまぼり申しかば、おもひの如く彼国をたひらげ給。神代より年序久くつもれりしに、かく神威しんゐをあらはし給ける、不測はからざる御ことなるべし。海中にして如意によいたま給へりき。さてつくしにかへりて皇子を誕生す。応神天皇にまします。神のまをし給しによりて、是を胎中たいちゆうの天皇とも申。皇后摂政せつしやうして辛巳かのとみの年より天下をしらせ給。皇后いまだ筑紫にましし時、皇子の異母いぼこのかみ忍熊おしくまの王謀反むほんをおこして、ふせぎ申さんとしければ、皇子をば武内の大臣にいだかせて、紀伊水門みなとにつけ、皇后はすぐに難波なにはにつき給て、程なく其みだれを平げられにき。皇子おとなび給しかば皇太子とす。武内[の]大臣もはら朝政を輔佐ふさし申けり。大和の磐余稚桜いはれわかさくらの宮にまします。是より三韓の国、年ごとに御つきをそなへ、此国よりも彼国に鎮守ちんじゆのつかさをおかれしかば、西蕃せいばんつうじて国家とみさかりなりき。又もろこしへも使をつかはされけるにや。「倭国わこくの女王遣使つかひをつかはして来朝す。」と後漢書ごかんじよにみえたり。元年辛巳かのとみの年は漢の孝献帝かうけんてい二十三年にあたる。漢の世始りて十四代と云し時、王まうと云しんくらゐをうばひて十四年ありき。其のち漢にかへりて、又十三代孝献の時に、漢はめつして此御代の十九年己亥つちのとゐに献帝位をさりて、文帝ぶんていにゆづる。是より天下みつにわかれて、しよくとなる。呉は東によれる国なれば、日本の使もまづつうじけるにや。ごの国より道々みちみちのたくみなどまでわたされき。又ぎの国にも通ぜられけるかとみえたり。四十九年乙酉きのととりと云し年、魏又ほろびしんの代にうつりにき〈蜀の国は三十年癸未みづのとひつじに魏のためにほろぼされ、呉は魏より後までありしが、応神十七年辛丑かのとうし晉のためにほろぼさる〉。此皇后天下を治給こと六十九年。一百歳おましき。

○第十六代、第十五世、応神おうじん天皇は仲哀第四の子。御母神功皇后也。胎中たいちゆうの天皇とも、又は誉田ほむだの天皇ともなづけたてまつる。庚寅かのえとらの年即位。大和の軽嶋豊明かるしまとよあかりの宮にまします。此時百済くだらより博士はかせをめし、経史けいしをつたへられ、太子以下いげこれをまなびならひき。此国に経史および文字をもちゐることは、これよりはじまれりとぞ。異朝いてうの一書の中に、「日本は呉の太伯たいはくのち也とふ。」といへり。返々かへすがへすあたらぬことなり。昔日本は三韓と同種也と云事のありし、かの書をば、桓武くわんむの御代にやきすてられしなり。天地あめつちひらけて後、すさのをの尊かんの地にいたり給きなど云事あれば、彼等の国々も神の苗裔べうえいならん事、あながちにくるしみなきにや。それすら昔よりもちゐざること也。天地神あめつちのかみの御すゑなれば、なにしにかくだれるごの太伯が後にあるべき。三韓さんかん震旦しんだんに通じてより以来このかた、異国の人おほく此国に帰化きくわしき。秦のすゑ、漢のすゑ、高麗・百済の種、それならぬ蕃人ばんじんの子孫もきたりて、神・皇の御すゑと混乱せしによりて、姓氏録しやうじろくと云ふみをつくられき。それも人民にとりてのことなるべし。異朝にも人の心まちなれば、異学のともがら云出いひいだせる事後漢書ごかんじよよりぞ此国のことをばあらしるせる。符合ふがふしたることもあり、又心えぬこともあるにや。唐書たうじよには、日本の皇代記くわうだいき神代かみよより光孝くわうかうの御代まであきらかにのせたり。さても此御時、武内たけうちの大臣筑紫ををさめんために彼国につかはされけるころ、おとゝのざんによりて、すでに追討せられしを、大臣のやつこ真根子まねこと云人あり。かほかたち大臣に似たりければ、あひかはりてちゆうせらる。大臣はしのびて都にまうでゝ、とがなきよしをあきらめられにき。上古神霊しんれいあるじ猶かゝるあやまちまししかば、末代まつだいいかでかつゝしませ給はざるべき。天皇天下を治給こと四十一年。百十一歳おましき。欽明きんめい天皇の御代に始て神とあらはれて、筑紫の肥後ひごの菱形ひしかたの池と云所にあらはれたまひ、「われは人皇にんわう十六代誉田ほむだ八幡丸やはたまろなり。」との給き。誉田はもとの御名、八幡は垂迹すゐじやくの号也。後に豊前ぶぜんの国宇佐うさの宮にしづまり給しかば、聖武しやうむ天皇東大寺建立こんりふの後、巡礼じゆんれいし給べきよし託宣たくせんありき。よりて威儀ゐぎをとゝのへてむかへ申さる。又神託ありて御出家の儀ありき。やがて彼寺に勧請くわんじやうたてまつらる。されど勅使ちよくしなどは宇佐にまゐりき。清和の御時、大安寺だいあんじの僧、行教ぎやうけう宇佐にまうでたりしに、霊告れいかうありて、今の男山石清水をとこやまいはしみづにうつりまします。爾来しかしよりこのかた行幸も奉幣ほうへいも石清水にあり。一代一度いちだいいちど宇佐へも勅使ちよくしをたてまつらる。昔天孫あめみま天降あまくだり給し時、御ともの神八百万やほよろづありき。大物主おほものぬしの神したがへてあめへのぼりしも、八十万やそよろづの神と云り。今までも幣帛へいはくたてまつらるゝ神、三千余坐よざ也。しかるに天照太神あまてらすおほみかみの宮にならびて、二所ふたところ宗廟そうべうとて八幡をあふぎ申さるゝこと、いとたふとき御事也。八幡と申御名は御託宣たくせんに「得道来みちをえてよりしてこのかた不動法性ほつしやうをうごかさず示八正道はちしやうだうをしめして垂権迹ごんじやくをたるみな得解脱苦衆生くのしゆじやうをげだつすることをえたりこのゆゑに号八幡大菩薩はちまんだいぼさつとがうす。」とあり。八正はちしやうとは、内典ないてんに、正見しやうけん正思惟しやうしゆゐ正語しやうご正業しやうごふ正命しやうみやう正精進しやうしやうじん正定しやうぢやう正恵しやうゑ、是を八正道とふ。およそこころしやうなれば身口しんくはおのづからきよまる。三業さんごふよこしまなくして、内外真正ないげしんしやうなるを諸仏しよぶつ出世の本懐ほんくわいとす。神明の垂迹すゐじやくも又これがためなるべし。又八方に八色やいろはたたつることあり。密教のならひ西方阿弥陀さいはうあみだ三昧耶形さんまやぎやう也。其故にや行教和尚くわしやうには弥陀三尊みださんぞんの形にてみえさせ給けり。光明くわうみやう袈裟けさの上にうつらせましけるを頂戴ちやうだいして、男山には安置し申けりとぞ。神明の本地ほんぢを云ことはたしかならぬたぐひおほけれど、大菩薩だいぼさつ応迹おうじやくは昔よりあきらかなる証拠しようこおはしますにや。或は又、「昔於霊鷲山りやうじゆせんにおいて説妙法華経めうほけきやうをとく。」とも、或は弥勒みろくなりとも、大自在王菩薩だいじざいわうぼさつなりとも託宣し給。なかにも八正の幡をたてゝ、八方の衆生を済度さいどたまふ本誓ほんぜいを、能々よくよく思入おもひいれてつかうまつるべきにや。天照太神もたゞ正直しやうぢきをのみ御心とし給へる。神鏡をつたへまししことのおこりは、さきにもしるしはべりぬ。又雄略ゆうりやく天皇二十二年の冬十一月しもつきに、伊勢の神宮の新嘗にひなめのまつり、夜ふけてかたへの人々罷出まかりいでのち神主物忌等かむぬしものいみらばかりとどまりたりしに、皇太神すめおほみかみ豊受とようけの太神、倭姫やまとひめの命にかゝりて託宣したまひしに、「人はすなはち天下の神物じんもつなり。心神をやぶることなかれ。神はたるゝに祈祷きたうを以てさきとし、みやうはくはふるに正直を以てもととす。」とあり。おなじき二十三年二月きさらぎ、かさねて託宣し給しに、「日月じつげつは四州をめぐり、六合りくがふを照すといへども正直のいただきを照すべし。」とあり。されば二所ふたところの宗廟の御心をしらんと思はゞ、ただ正直を先とすべき也。大方おほかた天地あめつちの間ありとある人、陰陽の気をうけたり。不正にしてはたつべからず。こと更に此国は神国なれば、神道にたがひては一日も日月をいたゞくまじきいはれなり。倭姫の命人にをしへ給けるは「きたなき心なくしてきよき心をもて、きよくいさぎよくいもほりつつしめ。左の物を右にうつさず、右の物を左にうつさずして、左を左とし右を右とし、左にかへり右にめぐることも万事よろづのことたがふことなくして、太神おほみかみにつかうまつれ。元々本々はじめをはじめとしもとをもとゝす故なり。」となむ。まことに、君につかへ、神につかへ、国ををさめ、人ををしへんことも、かゝるべしとぞおぼえはべる。すこしの事も心にゆるす所あれば、おほきにあやまる本となる。周易しうやくに、「霜をふんでかたきこほりいたる。」と云ことを、孔子釈しての給はく、「積善しやくぜんの家に余慶よきやうあり、積不善の家に余殃よあうあり。君をしいし父を弑すること一朝一夕の故にあらず。」といへり。毫釐がうりも君をいるかせにする心をきざすものは、かならず乱臣となる。芥蔕かいたいも親をおろそかにするかたちあるものは、はたして賊子となる。此故に古の聖人、「道は須臾しゆゆもはなるべからず。はなるべきは道にあらず。」と云けり。ただし其のすゑを学びてみなもとあきらめざれば、ことにのぞみておぼえざるあやまちあり。其源と云は、心に一物いちもつをたくはへざるをふ。しかも虚無きよむうちとどまるべからず。天地あり、君臣あり。善悪のむくい影響かげひびきの如し。おのが欲をすて、人を利するを先として、境々さかひさかひに対すること、鏡の物を照すが如く、明々めいめいとして迷はざらんを、まことの正道と云べきにや。代くだれりとてみづかいやしむべからず。天地の始は今日を始とする理なり。加之しかのみならず、君も臣も神をさること遠からず。常にみやう知見ちけんをかへりみ、神の本誓ほんぜいをさとりて、しやうきよせんことを心ざし、よこしまなからんことを思給おもひたまふべし。

○第十七代、仁徳にんとく天皇は応神第一の御子。御母仲姫なかつひめの命、五百城入彦皇子女いほきいりひこのみこのむすめ也。大鷦鷯さゞきの尊とまをす。応神の御時、菟道稚皇子うぢのわかのみこと申は最末さいまつの御子にてまししをうつくしみ給て、太子にたてむとおぼしめしけり。このかみの御子達うけがひ給はざりしを、此天皇ひとりうけがひ給しによりて、応神よろこびまして、菟道稚を太子とし、此尊を輔佐ふさになん定め給ける。応神かくれまししかば、御兄このかみ達太子を失はんとせられしを、此尊さとりて太子と心をひとつにして彼をちゆうせられき。ここに太子天位を尊に譲給ゆづりたまふ。尊かたくいなみ給、三年みとせになるまでたがひゆづりて位をむなしくす。太子は山城やましろの宇治にます。尊は摂難波なにはにましけり。国々のつぎ物もあなたかなたにうけとらずして、民のうれへとなりしかば、太子みづからうせ給ぬ。尊おどろき歎給なげきたまふことかぎりなし。されどのがれますべきみちならねば、癸酉みづのととりの年即位。摂津国つのくに難波高津たかつの宮にまします。日嗣をうけ給ひしより国をしづめ民をあはれみたまふこと、ためしもまれなりし御事にや。民間のまづしきことをおぼして、三年の御調みつきとどめられき。高殿たかどのにのぼりてみ給へば、にぎはゝしくみえけるによりて、

 高屋たかきやにのぼりてみれば煙立けぶりたつたみのかまどはにぎはひにけり

とぞよませ給ける。さて猶三年を許されければ、宮の中やぶれ雨露あめつゆもたまらず。宮人みやびところもやぶれて其よそほひまたからず。御門みかどは是をたのしみとなむおぼしける。かくて六年むとせと云に、国々の民おのおのまゐりあつまりて大宮づくりし、いろ[の]御調をそなへけるとぞ。ありがたかりし御まつりことなるべし。天下を治給こと八十七年。百十歳おましき。

○第十八代、履中りちゆう天皇は仁徳の太子。御母磐之姫いはのひめの命、葛城かづらき襲津彦そつひこの女也。庚子かのえねの年即位。又大和の磐余稚桜いはれのわかさくらの宮にまします。のちの稚桜の宮とまをす。天下を治給こと六年。六十七歳おましき。

○第十九代、反正はんぜい天皇は仁徳第三の子、履中りちゆう同母の弟也。丙午ひのえうまの年即位。河内の丹比たぢひ柴籬しばがきの宮にまします。天下を治給こと六年。六十歳おましき。

○第二十代、允恭いんぎよう天皇は仁徳第四[の]子、履中反正同母[の]弟也。壬子みづのえねの年即位。大和の遠明日香とをつあすかの宮にまします。此御時までは三韓の御調年々としどしにかはらざりしに、これより後はつねにおこたりけりとなん。八年己未つちのとひつじにあたりて、もろこしのしんほろびて南北朝となる。そうせいりやうちんあひつぎておこる。是を南朝なんてうふ。後魏こうぎ北齊ほくせい後周こうしうつぎにおこれりしを北朝ほくてうふ。百七十余年はならびてたちたりき。此天皇天下を治給こと四十二年。八十歳おましき。


巻三

○第二十一代、安康あんかう天皇は允恭第二の子。御母忍坂大中をしさかのおほなかつ姫、稚渟わかぬ野毛二派けふたまた皇子みこの〈応神の御子〉女也。甲午きのえうまの年即位。大和穴穂やまとのあなほの宮にまします。大草香おほくさかの皇子を仁徳にんとくの御子〉ころして其をとりて皇后とす。かの皇子の子眉輪まゆわの王をさなくて、母にしたがひて宮中に出入しゆつにふしけり。天皇高楼たかどのの上に酔臥ゑひふし給けるをうかゞひて、さしころして、大臣おほおみ葛城かづらきつぶらが家ににげこもりぬ。此天皇天上を治給こと三年。五十六歳おましき。

○第二十二代、雄略ゆうりやく天皇は允恭いんぎよう第五[の]子、安康同母の弟也。大泊瀬おほはつせの尊と申。安康ころされ給し時、眉輪の王およびつぶらの大臣をちゆうせらる。あまさへ其の事にくみせられざりし市辺押羽いちべのをしはの皇子をさへにころして位に即給つきたまふ。ことし丁酉ひのととりの年也。大和の泊瀬朝倉あさくらの宮にまします。天皇せいたけくましけれども、神に通じ給へりとぞ。二十一年丁巳ひのとみ十月かんなづきに、伊勢の皇太神すめおほみかみ大和姫の命にをしへて、丹波たんばの与佐よさ魚井まなゐの原よりして豊受とようけの太神を迎へ奉らる。大和姫の命奏聞そうもんし給しによりて、明年みやうねん戊午つちのえうまの秋七月ふみづき勅使ちよくしをさしてむかへたてまつる。九月ながつき度会わたらひこほり山田の原の新宮しんぐうにしづまり給。垂仁天皇の御代に、皇太神五十鈴いすずの宮にうつらしめ給しより、四百八十四年になむなりにける。神武のはじめよりすでに千百余年に成ぬるにや。又これまで大倭姫やまとひめの命存生ぞんしやうし給しかば、内外宮ないげくうのつくりも、日の小宮わかみや図形づぎやう文形もんぎやうによりてなさせ給けりとぞ。そもそも此神の御事異説まします。外宮には天祖あまつみおや天御中主あめのみなかぬしの神と申伝まをしつたへたり。されば皇太神の託宣たくせんにて、此宮の祭をさきにせらる。かみをがみ奉るもづ此宮を先とす。天孫瓊々杵あめみまににぎの尊此宮の相殿あひどのにまします。よりて天児屋あめのこやねの命・天太玉あめのふとたまの命も天孫につき申て相殿にます也。これより二所[の]太神宮と申。丹波より遷らせたまふことは、昔豊鋤入姫とよすきいりひめの命、天照太神を頂戴ちやうだいして、丹波の吉佐よさの宮にうつり給けるころ、此神あまくだりて一所ひとつところにおはします。四年ありて天照太神は又大和にかへらせたまふ。それより此神は丹波にとまらせ給しを、道主みちぬしの命と云人いつきまをしけり。いにしへは此宮にて御饌みけをとゝのへて、内宮へも毎日におくりたてまつりしを、神亀じんき年中より外宮げくう御饌殿みけどのをたてゝ、内宮ないくうのをも一所ひとつところにてたてまつるとなん。かやうの事によりて、御饌みけの神とまをす説あれど、御食みけ御気みけとの両義あり。陰陽元初いんやうげんしよ御気みけなれば、あめ狭霧さぎりくに狭霧さぎりまをす御名もあれば、猶さきの説をしやうとすべしとぞ。天孫あめみまさへ相殿あひどのにましませば、御饌の神と云説はもちゐがたき事にや。此天皇天下を治給こと二十三年。八十歳おましき。

○第二十三代、清寧せいねい天皇は雄略ゆうりやく第三の子。御母韓姫からひめ、葛城のつぶらの大臣の女也。庚申かのえさるの年即位。大倭の磐余甕栗いはれのみかくりの宮にまします。誕生たんじやうはじめ白髪はくはつおはしければ、しらかの天皇とぞ申ける。御子なかりしかば、皇胤くわういんのたえぬべき事をなげき給て、国々へ勅使ちよくしをつかはして皇胤をもとめらる。市辺いちべ押羽おしはの皇子、雄略にころされ給しとき、皇女くわうぢよ一人ひとり皇子わうじ二人ふたりましけるが、丹波国にかくれ給けるを求出もとめいでて、御子にしてやしなひ給けり。天下を治給こと五年。三十九歳おましき。

○第二十四代、顕宗けんそう天皇は市辺押羽の皇子第三の子、履中りちゆう天皇[の]孫也。御母荑媛はえひめあり臣女おみのむすめ也。白髪しらかの天皇やしなひて子とし給ふ。御兄このかみ仁賢にんけんまづ位に即給つきたまふべかりしを、相共にゆづりまししかば、同母の御姉飯豊いゝとよの尊しばらくくらゐに居給き。されどやがて顕宗けんそうさだまりまししによりて、飯豊いひとよ天皇をば日嗣にはかぞへたてまつらぬ也。乙丑きのとうしの年即位。大和の近明日香八釣ちかつあすかやつりの宮にまします。天下を治給こと三年。四十八歳おましき。

○第二十五代、仁賢にんけん天皇は顕宗けんそう同母の御兄このかみ也。雄略ゆうりやくわが父の皇子をころし給しことをうらみて、「御陵みさゝぎをほりて御屍かばねをはづかしめん。」との給しを、顕宗いさめまししによりて、徳のおよばざることをはぢて、顕宗をさきだて給けり。戊申つちのえさるの年即位。大和の石上広高いそのかみひろたかの宮にまします。天下を治給こと十一年。五十歳おましき。

○第二十六代、武烈ぶれつ天皇は仁賢の太子。御母大娘おほいらつめの皇女、雄略の御女也。己卯つちのとうの年即位。大和の泊瀬列城はつせなみきの宮にまします。せいさがなくまして、あくとしてなさずと云ことなし。よりて天祚あまつひつぎひさしからず。仁徳にんとくさしも聖徳せいとくまししに、此皇胤くわういんこゝにたえにき。「聖徳はかならず百代にまつらる。」春秋しゆんじうにみゆ〉とこそみえたれど、不徳の子孫あらば、其そうを滅すべき先蹤せんしようはなはだおほし。されば上古しやうこ聖賢せいけんは、子なれども慈愛におぼれず、うつはにあらざればつたふることなし。げう丹朱たんしゆ不肖ふせうなりしかば、しゆんにさづけ、舜の子商均しやうきん不肖ふせうにして夏禹かのうゆづられしが如し。堯舜よりこなたには猶天下をわたくしにする故にや、かならず子孫につたふることになりにしが、のちけつ暴虐ぼうぎやくにして国を失ひ、いんたう聖徳ありしかど、ちうが時無道ぶだうにして永くほろびにき。天竺てんぢくにも仏滅度めつど百年の後、阿育あいくと云王あり。姓は孔雀くじやく氏、王位につきし日、鉄輪てちりん飛降とびくだる。転輪てんりん威徳ゐとくをえて、閻浮提えんぶだい統領とうりやうす。あまさへもろもろ鬼神きじんをしたがへたり。正法しやうぼふを以て天下ををさめ、仏理に通じて三宝さんぼうをあがむ。八万四千のたふたてて、舎利しやり安置あんぢし、九十六億千のこがねすて功徳くどくする人なりき。其三世さんせいの弗沙密多羅ふしやみつたら王の時、悪臣のすゝめによ[つ]て、祖王そわうたてたりし塔婆たふば破壊はゑせんと云悪念あくねんをおこし、もろの寺をやぶり、比丘びく殺害せつがいす。阿育王のあがめし鷄雀寺けいじやくじ仏牙歯ぶつげしの塔をこぼたんとせしに、護法神ごほふじんいかりをなし、大山たいせんして王およ四兵しひやうの衆をおしころす。これより孔雀のしゆながくたえにき。かゝれば先祖おほきなる徳ありとも、不徳ふとくの子孫宗廟そうべうのまつりをたゝむことうたがひなし。此天皇天下を治給こと八年。五十八歳おましき。

○第二十七代、第二十世、継体けいたい天皇は応神おうじん五世の御孫也。応神第八[の]御子隼総別はやぶさわけの皇子、其子大迹おほとの王、其子私斐しいの王、其子彦主人ひこぬしの王、其子男大迹をほとの王とまをすは此天皇にまします。御母振姫ふるひめ垂仁すゐにん七世の御孫也。越前ゑちぜんの国にましける。武烈ぶれつかくれ給て皇胤くわういんたえにしかば、群臣うれへなげきて国々にめぐり、ちかき皇胤を求奉もとめたてまつりけるに、此天皇王者わうしや大度たいどまして、潜龍せんりようのいきほひ、世にきこえ給けるにや。群臣相はからひむかへ奉る。三たびまで謙譲けんじやうたまひけれど、つひに位につき給ふ。ことし丁亥ひのとゐの年也武烈ぶれつかくれ給て後、二年くらゐをむなしくす〉。大和の磐余玉穂いはれたまほの宮にまします。仁賢にんけんの御むすめ手白香たしらかの皇女を皇后とす。即位し給しよりまこと賢王けんわうにましき。応神御子おほくきこえ給しに、仁徳にんとく賢王にてまししかど、御末みすゑたえにき。隼総別はやぶさわけの御末、かく世をたもたせたまふこと、いかなる故にかおぼつかなし。仁徳をば大鷦鷯おほさざきの尊とまをす。第八の皇子をば隼総別はやぶさわけと申。仁徳の御代みよに兄弟たはぶれて、鷦鷯さざき小鳥ことり也、はやぶさ大鳥おほとり也とあらそひ給ことありき。隼の名にかちて、末の世をうけつぎ給けるにや。もろこしにもかゝるためしあり左伝さでんにみゆ〉。名をつくることもつゝしみおもくすべきことにや。それもおのづから天命てんめいなりといはゞ、凡慮ぼんりよおよぶべきにあらず。此天皇のたち給しことぞ思外おもひのほか御運ごうんとみえはべる。ただし皇胤くわういんたえぬべかりし時、群臣択求奉えらびもとめたてまつりき。賢名けんめいによりて天位を伝給つたへたまへり。天照太神の御本意ごほんいにこそとみえたり。皇統くわうとうに其人ましまさん時は、かしこき諸王しよわうおはすとも、いかでのぞみをなし給べき。皇胤たえ給はんにとりては、けんにて天日嗣あまつひつぎにそなはり給はんこと、すなはち又天のゆるす所也。此天皇をば我国中興ちゆうこう祖宗そそうあふたてまつるべきにや。天下を治給こと二十五年。八十歳おましき。

○第二十八代、安閑あんかん天皇は継体の太子。御母は目子めのこ姫、尾張をはり草香くさかむらじむすめ也。甲寅きのえとらの年即位。大和の勾金橋まがりのかなはしの宮にまします。天下を治給こと二年。七十歳おましき。

○第二十九代、宣化せんくわ天皇は継体第二の子、安閑あんかん同母の弟也。丙辰ひのえたつの年即位。大和の檜隈廬入野ひのくまのいほりのの宮にまします。天下を治給こと四年。七十三歳おましき。

○第三十代、第二十一世、欽明きんめい天皇は継体けいたい第三の子。御母皇后手白香たしらかの皇女、仁賢にんけん天皇の女也。両兄りやうけいまししかど、此天皇の御すゑ世をたもちたまふ。御母がた仁徳にんとくのながれにてましませば、猶も其遺徳つきずしてかくさだまり給けるにや。庚申かのえさるの年即位。大倭磯城嶋やまとのしきしま金刺かなさしの宮にまします。十三年壬申みづのえさる十月かんなづき百済くだらの国より仏・法・僧をわたしけり。此国に伝来の始なり。釈迦如来しやかによらい滅後めつご一千十六年にあたる年、もろこしの後漢ごかん明帝めいてい永平えいへい十年に仏法はじめてかの国につたはる。それより此壬申みづのえさるの年まで四百八十八年。もろこしには北朝のせいの文宣帝ぶんせんてい即位三年、南朝のりやうの簡文帝かんぶんていにも即位三年也。簡文帝の父をば武帝ぶていと申き。おほきに仏法をあがめられき。此御代の初つかたは武帝同時也。仏法はじめて伝来せし時、他国の神をあがめ給はんこと、我国の神慮にたがふべきよし、群臣かたく諌申いさめまをしけるによりてすてられにき。されど此国に三宝さんぼうの名をきくことは此時にはじまる。又、わたくしにあがめつかへ奉る人もありき。天皇聖徳まして三宝をかんぜられけるにこそ。群臣のいさめによりて、其法をたてられずといへども、天皇の叡志えいしにはあらざるにや。昔、ぶつ在世に、天竺てんぢく月蓋長者ぐわつがいちやうじやたてまつりし弥陀三尊みださんぞん金像こんざうつたへてわたし奉りける、難波なには堀江ほりえにすてられたりしを、善光ぜんくわうと云者とり奉て、信濃しなのの国に安置あんぢし申き。今の善光寺ぜんくわうじこれ也。此御時八幡大菩薩はちまんだいぼさつはじめ垂迹すゐじやくしまします。天皇天下を治給をさめたまふこと三十二年。八十一歳おましき。

○第三十一代、第二十二世、敏達びだつ天皇は欽明第二の子。御母石媛いしひめの皇女、宣化せんくわ天皇の女也。壬辰みづのえたつの年即位。大倭磐余訳語田やまとのいはれおさだの宮にまします。二年癸巳みづのとみの年、天皇の御弟豊日とよひ皇子の、御子を誕生たんじやうす。厩戸うまやどの皇子にまします。うまれ給しよりさま奇瑞きずゐあり。たゞびとにましまさず。御手をにぎり給しが、二歳にて東方にむきて、南无仏なむぶつとてひらき給しかば、ひとつ舎利しやりありき。仏法流布るふのために権化ごんげし給へることうたがひなし。此仏舎利ぶつしやりは今に大倭やまと法隆寺ほふりゆうじにあがめ奉る。天皇天下を治給こと十四年。六十一歳おましき。

○第三十二代、用明ようめい天皇は欽明第四の子。御母堅塩姫きたしひめ蘇我そが稲目大臣いなめのおほおみの女也。豊日とよひの尊と申。厩戸の皇子の父におはします。丙午ひのえうまの年即位。大和やまと池辺列槻いけのへのなみつきの宮にまします。仏法をあがめて、我国に流布るふせむとし給けるを、弓削守屋ゆげのもりや大連をほむらじかたむけまをし、つひに叛逆ほんぎやくにおよびぬ。厩戸の皇子、蘇我そが大臣おほおみと心をひとつにして誅戮ちゆうりくせられ、すなはち仏法をひろめられにけり。天皇天下を治給こと二年。四十一歳おましき。

○第三十三代、崇峻すしゆん天皇は欽明きんめい第十二の子。御母小姉君こあねきみいらつめ。これも稲目いなめ大臣おほおみの女也。戊申つちのえさるの年即位。大和の倉橋くらはしの宮にまします。天皇横死わうしさうみえたまふ。つゝしみますべきよしを厩戸の皇子そうし給けりとぞ。天下を治給こと五年。七十二歳おましき。或人のふ。外舅ははかたのをぢ蘇我そが馬子大臣うまこのおほおみと御なかあしくして、かの大臣のためにころされ給きともいへり。

○第三十四代、推古すゐこ天皇は欽明の御女、用明ようめい同母の御妹也。御食炊屋みけしかや姫の尊とまをす。敏達天皇々后としたまふ〈仁徳も異母の妹を妃とし給ことありき〉。崇峻かくれ給しかば、癸丑みづのとうしの年即位。大倭やまと小墾田をはりたの宮にまします。昔神功皇后じんぐうくわうごう六十余年天下ををさめ給しかども、摂政せつしやうと申て、天皇とは号したてまつらざるにや。此みかどは正位しやうゐにつき給にけるにこそ。すなはち厩戸の皇子を皇太子として万機ばんきまつりことをまかせ給。摂政と申き。太子のけん国と云こともあれど、それはしばらくの事也。これはひとへに天下を治給けり。太子聖徳せいとくまししかば、天下の人つくこと日の如く、仰ぐこと雲の如し。太子いまだ皇子にてましし時、逆臣ぎやくしん守屋もりやちゆうし給しより、仏法はじめ流布るふしき。ましてまつりことをしらせ給へば、三宝さんぼううやまひ正法しやうぼふをひろめ給こと、仏世ぶつせにもことならず。又神通自在じんづうじざいにましき。御づから法服をちやくして、きやうを講じ給しかば、天より花をふらし、放光動地はうくわうどうちずゐありき。天皇・群臣、たふとびあがめ奉ること仏のごとし。伽藍がらんをたてらるゝ事四十余け所におよべり。又此国には昔より人すなほにして法令ほふりやうなんどもさだまらず。十二年甲子きのえねにはじめて冠位くわんゐと云ことをさだめかうぶりのしなによりて、上下かみしもをさだむるに十八階あり〉、十七年己巳つちのとみ憲法けんはふ十七け条をつくりて奏し給。内外典ないげてんのふかき道をさぐりて、むねをつゞまやかにしてつくり給へる也。天皇よろこびて天下に施行しかうせしめ給き。此ころほひは、もろこしにはずいの世也。南北朝相分あひわかれしが、南は正統をうけ、北は戎狄じゆうてきよりおこりしかども、中国をば北朝にぞをさめける。ずゐは北朝の後周こうしうと云しがゆづりをうけたりき。のちに南朝のちんをうちたひらげて、一統の世となれり。此天皇の元年癸丑みづのとうし文帝ぶんてい一統ののち四年也。十三年乙丑きのとうし煬帝やうだいの即位元年にあたれり。彼国よりはじめて使をおくり、よしみを通じけり。隋帝ずゐていの書に「皇帝恭問倭皇。」とありしを、これはもろこしの天子の諸侯王しよこうわうにつかはす礼儀れいぎなりとて、群臣あやしみ申けるを、太子のゝたまひけるは、「皇の字はたやすくもちゐざることばなれば」とて、返報へんはうをもかゝせたまひ、さま饗祿きやうろくをたまひて使をかへしつかはさる。是より此国よりもつねに使をつかはさる。其使を遣隋大使けんずゐたいしとなむなづけられしに、二十七年己卯つちのとうの年、隋ほろびたうの世にうつりぬ。二十九年辛巳かのとみの年太子かくれ給。御年四十九。天皇をはじめたてまつりて、天下の人かなしみをしみ申こと父母にするがごとし。皇位をもつぎましますべかりしかども、権化ごんげの御ことなれば、さだめてゆゑありけんかし。御いみなを聖徳となづけたてまつる。この天皇天下を治給こと三十六年。七十歳おましき。

○第三十五代、第二十四世、舒明じよめい天皇は忍坂大兄おしさかおほえの皇子の子、敏達びだつの御孫也。御母糠手ぬかて姫の皇女、これも敏達の御女むすめ也。推古すゐこ天皇は聖徳太子の御子につたへ給はんとおぼしめしけるにや。されどまさしき敏達の御孫、欽明きんめい嫡曾孫ちやくそうそんにまします。又太子御やまひにふし給し時、天皇此皇子を御使としてとぶらひましゝに、天下のことを太子の申付まをしつけ給へりけるとぞ。癸丑みづのとうしの年即位。大倭の高市郡岡本たけちのこほりをかもとの宮にまします。此即位の年はもろこしの唐の太宗のはじめ、貞観ぢやうぐわん三年にあたれり。天下を治給こと十三年。四十九歳おましき。

○第三十六代、皇極くわうぎよく天皇は茅渟ちぬの王の女、忍坂大兄をしさかおほえの皇子の孫、敏達の曾孫そうそん也。御母吉備姫きびひめの女王と申き。舒明天皇々后とし給。天智てんぢ天武てんむの御母也。舒明かくれまして皇子をさなくおはしましゝかば、壬寅みづのえとらの年即位。大倭明日香河原やまとのあすかのかはらの宮にまします。此時に蘇我蝦夷そがのえみし大臣おほおみ馬子うまこの大臣の子〉ならびにその子入鹿いるか朝権てうけんもはらにして皇家くわうかをないがしろにする心あり。其家を宮門みかどいひ、諸子を王子となむ云ける。上古しやうこよりの国紀重宝こくきちようほうみな私家わたくしのいへにはこびおきてけり。中にも入鹿悖逆はいげきの心はなはだし。聖徳太子の御子達のとがなくまししをほろぼし奉る。こゝに皇子なか大兄おほえまをす舒明じよめいの御子、やがて此天皇御所生ごしよしやう也。中臣鎌足なかとみのかまたりむらじと云人と心をひとつにして入鹿いるかをころしつ。父蝦夷えみしも家に火をつけてうせぬ。国紀重宝はみなやけにけり。蘇我の一門ひさしく権をとれりしかども、積悪しやくあくのゆゑにやみなほろびぬ。山田石川丸やまだのいしかはまろと云人ぞ皇子と心をかよはし申ければめつせざりける。此鎌足かまたりの大臣は天児屋根あめのこやねの命二十一世[の]そん也。昔天孫あめみまあまくだり給し時、諸神の上首じやうしゆにて、此みこと、殊に天照太神のみことのりをうけて輔佐ふさの神にまします。中臣なかとみと云ことも、ふたはしらの神の御中にて、神の御心をやはらげて申給けるゆゑ也とぞ。其まご天種子あめのたねこの命、神武の御代に祭事まつりことをつかさどる。上古しやうこかみきみひとつにまししかば、まつりをつかさどるはすなはちまつりことをとれる也〈政の字のくんにても知べし〉。其のち天照太神、始て伊勢国にしづまりましゝ時、種子たねこの命のすゑ大鹿嶋おほかしまの命祭官さいくわんになりて、鎌足かまたりの大臣の父小徳冠せうとくくわん御食子みけこまでもその官にてつかへたり。鎌足にいたりて大勲たいくんをたて、世に寵せられしによりて、祖業そげふをおこし先烈をさかやかされける、無止やんごとなきこと也。かつは神代よりの余風なれば、しかるべきことわりとこそおぼえはんべれ。後に内臣うちつおみに任じ大臣に転じ、大織冠たいしよくくわんとなる〈正一位の名なり〉。又中臣をあらためて藤原ふぢはらしやうたまはらる〈内臣に任ぜらるゝ事は此御代にはあらず。事のついでにしるす〉。此天皇天下を治給こと三年ありて、同母の御弟かるわうゆづり給。御名を皇祖母すめみおやの尊とぞ申ける。

○第三十七代、孝徳かうとく天皇は皇極くわうぎよく同母の弟也。乙巳きのとみの年即位。摂津国長柄豊崎つのくにながらのとよさきの宮にまします。此御時はじめて大臣だいじん左右さいうにわかたる。大臣おほおみは成務の御時武内たけうち宿禰すくねはじめてこれに任ず。仲哀ちゆうあいの御代に又大連おほむらじの官をゝかる。大臣おほおみ大連おほむらじならびてまつりことをしれり。此御時大連をやめて左右の大臣とす。又八省百官はちしやうひやくくわんをさだめらる。中臣の鎌足を内臣になし給。天下を治給こと十年。五十歳おましき。

○第三十八代、齊明さいめい天皇は皇極くわうぎよく重祚ちようそ也。重祚と云ことは本朝にはこれにはじまれり。異朝には殷大甲いんのたいかふ不明なりしかば、伊尹いいんこれ桐宮とうきゆうにしりぞけて三年まつりことをとれりき。されど帝位をすつるまではなきにや。大甲あやまちをくいて徳ををさめしかば、もとのごとく天子とす。晉世しんのよ桓玄くわんげんと云し者、安帝あんていの位をうばひて、八十日ありて、義兵ぎへいの為にころされしかば、安帝位にかへり給。たうの世となりて、則天そくてん皇后世をみだられし時、我所生わがしよしやうの子なりしかども、中宗をすてゝ廬陵ろりやう王とす。おなじ御子予王よわうをたてられしも又すてゝみづから位にゐ給。後に中宗ちゆうそうくらゐにかへりて唐のたえず。予王も又重祚あり。是を睿宗えいそうふ。これぞまさしき重祚なれど、二代にはたてず。中宗・睿宗とぞつらねたる。我朝に皇極くわうぎよくの重祚を齊明さいめいと号し、孝謙の重祚を称徳と号す。異朝にかはれり。天日嗣あまつひつぎをおもくするゆゑ。先賢の議さだめてよしあるにや。乙卯きのとうの年即位。このたびは大和の岡本をかもとにまします。のちの岡本の宮とまをす。此御世はもろこしのたうの高宗かうそうの時にあたれり。高麗かうらいをせめしによりてすくひのつはものまをしうけしかば、天皇・皇太子つくしまでむかはせたまふ。されど三韓つひに唐に属しゝかば、いくさをかへされぬ。其後も三韓よしみをわするゝまではなかりけり。皇太子とまをすなか大兄おほえの皇子の御事也。孝徳の御代より太子に立給たちたまひ、此御時は摂政したまふとみえたり。天皇天下を治給こと七年。六十八歳おましき。

○御三十九代、第二十五世、天智てんぢ天皇は舒明の御子。御母皇極天皇也。壬戌みづのえいぬの年即位。近江国大津の宮にまします。即位四年八月はつき内臣うちつおみ鎌足を内大臣大織冠ないだいじんたいしよくくわんとす。又藤原朝臣ふぢはらのあそんしやうたまふ。昔の大勲を賞給しやうしたまひければ、朝奨てうしやうならびなし。先後せんこうふうたまふこと一万五千なり。やまひのあひだにも行幸みゆきしてとぶらひ給けるとぞ。此天皇中興のにまします光仁くわうにんの御おやなり〉国忌こくきは時にしたがひてあらたまれども、これはながくかはらぬことになりにき。天下を治給こと十年。五十八歳おましき。

○第四十代、天武てんむ天皇は天智同母の弟也。皇太子にたち大倭やまとにましき。天智は近江にまします。御やまひありしに、太子をよび申給けるを近江の朝廷のしんなかにつげしらせまをすひとありければ、みかどの御意のおもぶきにやありけん、太子の位をみづからしりぞきて、天智の御子太政大臣だいじやうだいじん大友おほともの皇子にゆづりて、芳野よしのの宮にいり給。天智かくれ給て後、大友の皇子猶あやぶまれけるにや、いくさをめして芳野をゝそはんとぞはかり給ける。天皇ひそかに芳野をいで、伊勢にこえ、飯高いひたかこほりにいたりて太神宮を遙拝えうはいし、美濃みのへかゝりて東国の軍をめす。皇子高市たけちまゐり給しを大将軍として、美濃の不破ふはをまぼらめし、天皇は尾張をはりの国にぞこえ給ける。国々したがひ申しゝかば、不破の関のいくさうち勝ぬ。すなはち勢多せたにのぞみて合戦かつせんあり。皇子の軍やぶれて皇子ころされ給ぬ。大臣以下いげあるひちゆうにふし、或は遠流をんるせらる。軍にしたがひまをすともがらしなによりて其賞をおこなはる。壬申みづのえさるの年即位。大倭の飛鳥浄御原あすかのきよみはらの宮にまします。朝廷の法度はふとおほくさだめられにけり。上下かみしもうるしぬりの頭巾かぶりをきることも此御時よりはじまる。天下を治給こと十五年。七十三歳おましき。

○第四十一代、持統ぢとう天皇は天智の御むすめ也。御母越智娘をちのいらつめ、蘇我の山田やまだの石川丸の大臣の女也。天武天皇、太子にまししより妃とし給。後に皇后とす。皇子草壁くさかべわかくまししかば、皇后てうにのぞみ給。戊子つちのえねの年也。庚寅かのえとらの春正月一日むつきついたち即位。大倭やまとの藤原の宮にまします。草壁くさかべの皇子は太子にたち給しが、世をはやくし給。よりて其御子かるわうを皇太子とす。文武もんむにまします。さきの太子は後に追号つゐがうありて長岡ながをかの天皇とまをす。此天皇天下を治給こと十年。位を太子にゆづりて太上たいしやう天皇とまをしき。太上天皇と云ことは、異朝に、かんの高祖の父を太公たいこういひ、尊号ありて太上皇たいしやうくわうと号す。其のち後魏こうぎけん祖・たうの高祖・玄宗げんそうえい宗等也。本朝には昔は其ためしなし。皇極天皇位をのがれ給しも、皇祖母すめみおやみことと申き。此天皇よりぞ太上天皇の号は侍る。五十八歳おましき。

○第四十二代、文武もんむ天皇は草壁くさかべの太子第二の子、天武の嫡孫ちやくそん也。御母阿閇あへの皇女、天智てんぢのむすめ〈後に元明天皇と申〉丁酉ひのととりの年即位。なほ藤原の宮にまします。此御時唐国たうこくの礼をうつして、宮室のつくり、文武官ぶんぶくわんの衣服のいろまでもさだめられき。又即位五年辛丑かのとうしよりはじめて年号あり。大宝たいはうふ。これよりさきに、孝徳かうとくの御代に大化たいくわ白雉はくち、天智の御時白鳳はくほう、天武の御代に朱雀しゆじやく朱鳥しゆてうなんどふ号ありしかど、大宝より後にぞたえぬことにはなりぬる。よりて大宝を年号のはじめとする也。又皇子を親王しんわうと云こと此御時にはじまる。又藤原の内大臣ないだいじん鎌足の子、不比等ふひとの大臣、執政しつせいしんにて律令りつりやうなんどをもえらびさだめられき。藤原のうぢ、此大臣よりいよさかりになれり。四人の子おはしき。是を四門しもんふ。一門いちもん武智麿むちまろの大臣のながれ南家なんけふ。二門にもん参議さんぎ中衛ちゆうゑの大将房前ふささきの流、北家ほくけふ。いまの執政大臣およびさるべき藤原の人々みなこの末なるべし。三門さんもん式部卿しきぶきやう宇合うまかひながれ式家しきけふ。四門しもん左京大夫さきやうのだいぶ麿まろの流、京家きやうけといひしがはやくたえにけり。南家なんけ・式家も儒胤じゆいんにていまに相続すといへども、たゞ北家のみ繁昌はんじやうす。房前の大将ひとにことなる陰徳いんとくこそおはしけめ。〔裏書[に]ふ。正一位左大臣武智丸。天平九年七月薨。天平宝字四年八月贈太政大臣。参議正三位中衛大将房前。天平九年四月薨。十月贈左大臣正一位。宝字四年八月贈太政大臣。天平宝字四年八月大師藤原恵美押勝奏。廻所帯大師之任、欲譲南北両大臣者。勅処分、依請南卿藤原武智丸贈太政大臣、北卿〈贈左大臣房前〉転贈太政大臣云々。〕又不比等の大臣は後に淡海公たんかいこうと申也。興福寺こうぶくじ建立こんりふす。此寺は大織冠たいしよくくわんの建立にて山背やましろ山階やましなにありしを、このおとゞ平城へいせいにうつさる。よりて山階寺とも申也。後に玄昉げんばうそうたうへわたりて法相宗ほつさうしゆうつたへて、此寺にひろめられしより、氏神うぢのかみ春日かすが明神みやうじんも殊に此宗を擁護おうごし給とぞ春日神かすがのかみ天児屋あめのこやねの神をもととす。本社ほんしや河内かはち平岡ひらをかにます。春日にうつり給ことは神護景雲年中じんごけいうんねんちゆうのこと也。しからば、此大臣以後のこと也。又春日第一の御殿ごてん常陸鹿嶋ひたちのかしまの神、第二は下総しもふさ香取かとりの神、三は平岡、四は姫御神ひめおんかみと申。しかれば藤氏とうじ氏神うぢのかみさんの御殿にまします〉。此天皇天下を治給こと十一年。二十五歳おましき。

○第四十三代、元明げんめい天皇は天智第四の女、持統異母いぼの妹。御母蘇我嬪そがのひめ。これも山田石川丸の大臣の女也。草壁の太子の妃、文武の御母にまします。丁未ひのとひつじの年即位。戊申つちのえさるに改元。三年庚戌かのえいぬ始て大倭やまと平城宮へいせいのみやみやこをさだめらる。いにしへにはごとに都をあらため、すなはちそのみかどの御名みなによび奉りき。持統天皇藤原宮にましゝを文武はじめて改めたまはず。此元明天皇平城にうつりまししより、又七代の都になれりき。天下を治給こと七年。禅位ぜんゐありて太上天皇とまをししが、六十一歳おましき。

○第四十四代、元正げんしやう天皇は草壁の太子の御女。御母は元明天皇。文武同母の姉也。乙卯きのとうの正月むつきに摂政、九月ながつき受禅じゆぜん即日そくじつ即位、十一月しもつきに改元。平城宮にまします。此御時百官にしやくをもたしむ〈五位以上牙笏げしやく、六位は木笏もくしやく。天下を治給こと九年。禅位の後二十年。六十五歳おましき。

○第四十五代、聖武しやうむ天皇は文武の太子。御母皇太夫人くわうたいぶにん藤原の宮子みやこ淡海公不比等たんかいこうふひとの大臣の女也。豊桜彦とよさくらひこの尊とまをす。をさなくましゝによりて、元明・元正まづ位にゐ給き。甲子きのえねの年即位、改元。平城宮にまします。此御代おほきに仏法をあがめ給こと先代せんだいにこえたり。東大寺を建立し、金銅こんどう十六ぢやうほとけをつくらる。又諸国に国分寺こくぶんじおよび国分尼寺こくぶんにじて、国土安穏こくどあんをんのために法華ほつけ最勝さいしよう両部りやうぶきやうを講ぜらる。又おほくの高僧他国より来朝らいてうす。南天竺なんてんぢく波羅門僧正ばらもんそうじやう菩提ぼだいふ〉林邑りんをう仏哲ぶつてち、唐の鑒真和尚がんじんわじやうこれ也。真言しんごん祖師そしちゆう天竺の善無畏ぜんむい三蔵さんざう来給きたりたまへりしが、密機みつきいまだ熟せずとてかへりたまひにけりともいへり。此国にも行基ぎやうぎ菩薩・朗弁僧正らうべんそうじやうなど権化ごんげの人也。天皇・波羅門僧正・行基・朗弁をば四聖ししやうとぞ申つたへたる。此御時太宰少弐だざいのせうに藤原広継ひろつぐと云人式部卿しきぶきやう宇合うまかひの子なり〉謀叛むほんのきこえあり、追討せらる玄昉げんばう僧正のざんによれりともいへり。よりてりやうとなる。今の松浦まつらの明神也云々〉祈祷きたうのために天平十二年十月かんなづき伊勢の神宮に行幸ありき。又左大臣さだいじん長屋王ながやのわう〈太政大臣高市王たけちのわうの子、天武の御孫なり〉つみありてちゆうせらる。又陸奥みちのおくの国より始て黄金わうごんをたてまつる。此朝にこがねある始なり。国のつかさわう、賞ありて三位にじよす。仏法繁昌はんじやう感応かんおうなりとぞ。天下を治給こと二十五年。天位を御女高野たかの姫の皇女にゆづりて太上天皇と申す。後に出家せさせ給。天皇出家のはじめ也。昔天武、東宮の位をのがれて御ぐしおろし給へりしかど、それはしばらくの事なりき。皇后光明子くわうみやうしもおなじく出家せさせ給。此天皇五十六歳おましき。

○第四十六代、孝謙天皇は聖武の御女。御母皇后光明子、淡海公不比等の大臣の女也。聖武の皇子安積あさかの親王世をはやくして後、男子ましまさず。よりてこの皇女たち給き。己丑つちのとうしの年即位、改元。平城宮にまします。天下を治給こと十年。大炊おほひの王を養子として皇太子とす。位をゆづりて太上天皇と申す。出家せさせ給て、平城宮の西宮にしのみやになむましける。

○第四十七代、淡路廃帝あはぢのはいたい一品舎人いちほんとねりの親王の子、天武の御孫也。御母上総介かづさのすけ当麻たぎまをきなが女也。舎人親王は皇子の中に御身のさいもましけるにや、知太政官事ちだいじやうくわんじと云職をさづけられ、朝務をたすけ給けり。日本紀もこの親王みことのりをうけ玉は[つ]てえらび給。後に追号ありて尽敬じんけい天皇とまをす。孝謙天皇御子ましまさず、又御兄弟もなかりければ、廃帝を御子にしてゆづり給。たゞし、年号などもあらためられず。女帝の御まゝなりしにや。戊戌つちのえいぬの年即位。天下を治給こと六年。事ありて淡路あはぢの国にうつされ給き。三十三歳おましき。

○第四十八代、称徳しようとく天皇は孝謙の重祚ちようそ也。庚戌かのえいぬの正月一日むつきついたち更に即位、おなじき七日改元。太上天皇ひそかに藤原武智麿むちまろの大臣の第二の子押勝をしかつかうたまひき。大師たいし〈其時太政大臣をあらためて大師と云〉正一位になる。見給へばゑましきとて、藤原に二字をそへて藤原恵美えみしやうたまひき。天下のまつりことしかしながら委任ゐにんせられにけり。後に道鏡だうきやうと云法師ほふし弓削ゆげ氏人うぢびと也〉寵幸ちようかうありしに、押勝いかりをなし、廃帝をすゝめ申て、上皇の宮をかたぶけんとせしに、ことあらはれて誅にふしぬ。みかども淡路にうつされ給。かくて上皇重祚あり。さきに出家せさせ給へりしかば、尼ながら位にゐ給けるにこそ。非常のきはみなりけんかし。たう則天そくてん皇后は太宗の女御ぢよぎよにて、才人さいじんふ官にゐ給へりしが、太宗かくれ給て、あまなりて、感業かんげふと云寺におはしける、高宗み給て長髪ちやうはつせしめて皇后とす。諌申人いさめまをすひとおほかりしかどももちゐられず。高宗崩じて中宗位にゐ給しをしりぞけ、えい宗をたてられしを、又しりぞけて、みづから帝位につき、国を大周たいしうとあらたむ。唐の名をうしなはんとおもひ給けるにや。中宗・睿宗もわがうみ給しかども、すてゝ諸王とし、みづからのやから武氏ぶしのともがらをもちて、国をつたへしめむとさへし給き。其時にぞ法師も宦者くわんじやもあまた寵せられて、世にそしらるゝためしおほくはべりしか。この道鏡はじめは大臣にじゆんじて日本にほんの准大臣のはじめにや〉大臣禅師だいじんぜんじいひしを太政大臣になし給。それによりてつぎ納言なふごん参議さんぎにも法師をまじへなされにき。道鏡世を心のまゝにしければ、あらそふ人のなかりしにや。大臣吉備きび真備まきびの公、左中弁さちゆうべん藤原の百川ももかはなどありき。されど、ちからおよばざりけるにこそ。法師の官に任ずることは、もろこしよりはじめて、僧正・僧統そうとうなど云事のありし、それすら出家の本意ほんいにはあらざるべし。いはんや俗の官に任ずる事あるべからぬ事にこそ。されど、もろこしにも南朝の宋の世に恵琳ゑりんと云し人、政事まつりことにまじらひしを黒衣宰相こくいさいしやうといひきただしこれは官ににんずとはみえず〉りやうの世に恵超ゑてうと云し僧、学士がくしの官になりき。北朝[の]魏の明元帝めいげんていの代に法果ほふくわと云僧、安城あんじやう公のしやくをたまはる。唐の世となりてはあまたきこえき。粛宗しゆくそうてう道平だうへいと云人、みかどこころひとつにして安祿山あんろくさんらんをたひらげし故に、金吾きんご将軍になされにけり。だい宗の時、天竺の不空三蔵ふくうさんぞうをたふとびたまふあまりにや、特進とうしん鴻臚卿こうろけいをさづけらる。後に開府かいふ儀同三司ぎどうさんし粛国公しゆくこくこうとす。帰寂きじやくありしかば司空しこうの官をおくらる〈司空は大臣の官なり〉則天そくてんの朝よりこの女帝によたい御代みよまで六十年ばかりにや。両国のこと相似たりとぞ。天下を治給こと五年。五十七歳おましき。天武・聖武国に大功あり、仏法をもひろめ給しに、皇胤くわういんましまさず。此女帝によたいにてたえ給ぬ。女帝かくれ給しかば、道鏡をば下野しもつけ講師かうじになしてながしくだされにき。そもそも此道鏡は法王の位をさづけられたりし、なほあかずして皇位につかんといふ心ざしありけり。女帝さすがおもひわづらひ給けるにや、和気清丸わけのきよまろふ人を勅使ちよくしにさして、宇佐うさの八幡宮にまをされける。大菩薩さま託宣たくせんありて更にゆるされず。清丸帰参きさんしてありのまゝに奏聞そうもんす。道鏡いかりをなして、清丸がよぼろすぢをたちて、土左とさの国にながしつかはす。清丸うれへかなしみて、大菩薩をうらみかこちまをしければ、小蛇こへび出来いできてそのきずをいやしけり。光仁くわうにん位につき給しかば、すなはちめしかへさる。神威をたうとび申て、河内かはちの国に寺をて、神願寺じんぐわんじふ。後に高雄たかをの山にうつしたつ。今の神護寺じんごじこれなり。くだりのころまでは神威じんゐもかくいちじるきことなりき。かくて道鏡つひにのぞみをとげず。女帝も又程なくかくれ給。宗廟社稷しやしよくをやすくすること、八幡やはた冥慮みやうりよたりしうへに、皇統をさだめたてまつることは藤原百川朝臣ももかはのあそんこうなりとぞ。

○第四十九代、第二十七世、光仁くわうにん天皇は施基しきの皇子の子、天智天皇の御孫也〈皇子は第三の御子なり。追号ありて田原たはらの天皇とまをす。御母贈皇太后紀旅子きのもろこ、贈太政大臣旅人もろひとの女也。白壁しらかべの王と申き。天平てんぴやう年中に御年二十九にて従四位に叙し、次第に昇進せさせ給て、正三位勲二等大納言に至給いたりたまひき。称徳しようとくかくれましましゝかば、大臣以下いげ皇胤くわういんうちをえらび申けるに、おの異議ありしかど、参議百川と云し人、この天皇に心ざしたてまつりて、はかりことをめぐらしてさだめ申てき。天武世をしり給しよりあらそひまをす人なかりき。しかれど天智御兄にてまづ日嗣ひつぎをうけ給。そのかみ逆臣ぎやくしんを誅し、国家をもやすくし給へり。この君のかく継体にそなはりたまふ、猶ただしきにかへるべきいはれなるにこそ。まづ皇太子にたち、すなはち受禅じゆぜん〈御年六十二〉。ことし庚戌かのえいぬの年なり。十月かんなづきに即位、十一月しもつき改元。平城宮へいせいのみやにまします。天下を治給こと十二年。七十三歳おましき。

○第五十代、第二十八世、桓武くわんむ天皇は光仁くわうにん第一の子。御母皇太后高野たかの新笠にゐかさ、贈太政大臣乙継おとつぐの女也。光仁即位のはじめ井上ゐのへ内親王ないしんわう聖武しやうむの御女〉をもて皇后とす。彼所生かのしよしやうの皇子沢良さはらの親王、太子にたち給き。しかるを百川朝臣、此天皇にうけつがしめたてまつらんと心ざして、又はかりことをめぐらし、皇后および太子をすてゝ、つひに皇太子にすゑたてまつりき。その時しばらく不許ふきよなりければ、四十日まで殿でんの前にたちて申けりとぞ。たぐひなき忠烈の臣也けるにや。皇后・さきの太子せめられてうせ給にき。怨霊をんりやうをやすめられんためにや、太子はのちに追号つゐがうありて崇道すだう天皇とまをす辛酉かのととりの年即位、壬戌みづのえいぬに改元。はじめは平城にまします。山背やましろの長岡にうつり、十年ばかり都なりしが、又今の平安城へいあんじやうにうつさる。山背やましろの国をもあらためて山城やましろふ。永代えいたいにかはるまじくなんはからはせ給ける。昔聖徳太子蜂岡はちをかにのぼり給て太秦うづまさこれなり〉いまのじやうをみめぐらして、「四神しじん相応さうおう也。百七十余年ありてみやこをうつされて、かはるまじき所なり。」との給けりとぞ申伝まをしつたへたる。その年紀ねんきもたがはず、又数十代不易ふえきみやことなりぬる、まこと王気わうき相応の福地ふくちたるにや。この天皇おほきに仏法をあがめ給。延暦えんりやく二十三年伝教でんげう弘法こうぼふみことのりをうけて唐へわたりたまふ。其時すなはち唐朝へ使つかひをつかはさる。大使は参議左大弁さだいべんけん越前守ゑちぜんのかみ藤原葛野麿朝臣かどのまろのあそん也。伝教は天台の道邃和尚だうすいくわしやうにあひ、その宗をきはめておなじき二十四年に大使と共に帰朝きてうせらる。弘法は猶かの国にとゞまりて大同だいどう年中に帰給かへりたまふ。この御時東夷とうい叛乱ほんらんしければ、坂上さかのうへ田村丸たむらまろを征東大将軍になしてつかはされしに、ことくたひらげてかへりまうでけり。この田村丸は武勇ぶよう人にすぐれたりき。はじめ近衛こんゑ将監しやうげんになり、少将にうつり、中将に転じ、弘仁こうにんの御時にや、大将にあがり、大納言をかけたり。ぶんをもかねたればにや、納言の官にものぼりにける。子孫はいまに文士ぶんしにてぞつたはれる。天皇天下を治給こと二十四年。七十歳おましき。


巻四

○第五十一代、平城へいせい天皇は桓武くわんむ第一の子。御母皇太后藤原の乙牟漏をとむろ、贈太政大臣良継よしつぐの女也。丙戌ひのえいぬの年即位、改元。平安宮へいあんのみやにまします〈これより遷都せんとなきによりて御在所ございしよをしるすべからず〉。天下を治給こと四年。太弟にゆづりて太上天皇とまをす。平城の旧都にかへりてすませ給けり。尚侍ないしのかみ藤原の薬子くすりこちようしましけるに、其弟参議右兵衛督うひやうゑのかみ仲成なかなりまをしすゝめて逆乱げきらんの事ありき。田村丸たむらまろ大将軍たいしやうぐんとして追討せられしに、平城へいせいいくさやぶれて、上皇出家せさせ給。御子みこ東宮高岡とうぐうたかをかの親王もすてられて、おなじく出家、弘法大師こうぼふだいし弟子でしになり、真如しんによ親王とまをすはこれなり。薬子・仲成等ちゆうにふしぬ。上皇しやうくわう五十一歳までおましき。

○第五十二代、第二十九世、嵯峨さが天皇は桓武くわんむ第二の子、平城へいせい同母の弟也。太弟たいていたち給へりしが、己丑つちのとうしの年即位、庚寅かのえとらに改元。此天皇幼年より聰明そうめいにして読書とくしよこのみ、諸芸を習給ならひたまふ。又謙譲けんじやう大度たいどもましましけり。桓武帝鍾愛無双しようあいぶさうの御子になんおはしける。儲君ちよくんにゐ給けるも父のみかど継体のために顧命こめいしましけるにこそ。格式きやくしきなども此御時よりえらびはじめられにき。又ふかく仏法をあがめ給。先世さきのよ美濃みのの神野かむのと云所にたふとき僧ありけり。橘太后きつたいこうの先世にねむごろに給仕きふじしけるを感じて相共に再誕さいたんありとぞ。御いみなを神野と申けるも自然じねんにかなへり。伝教〈御名最澄さいちよう弘法〈御名空海くうかい両大師たうよりつたへ給し天台・真言の両宗も、この御時よりひろまり侍ける。此両師直也人ただなるひとにおはせず。伝教入唐以前より比叡山ひえいざんをひらきて練行れんぎやうせられけり。今の根本中堂こんぼんちゆうだうの地をひかれけるに、やつしたあるかぎをもとめいでゝ唐までもたれたり。天台山てんだいさんにのぼりて智者ちしや大師〈天台の宗おこりて四代の祖なり。天台大師とも云〉六代の正統道邃和尚だうすいくわしやうえつして、その宗をならはれしに、かの山に智者帰寂きじやくより以来このかたかぎをうしなひてひらかざる一蔵ひとつのくらありき。心みに此鎰かぎにてあけらるゝにとゞこほらず。一山いつさんこぞりて渇仰かつがうしけり。よりて一宗いつしゆう奥義あうぎのこる所なく伝られたりとぞ。其後慈覚・智証両大師又入唐して天台・真言をきはめならひて、叡山にひろめられしかば、彼門風もんふういよさかりになりて天下に流布るふせり。唐国みだれしより経教きやうけうおほくうせぬ。道邃だうすゐより四代にあたれる義寂ぎじやくと云人まで、たゞ観心くわんじんつたへて宗義をあきらむることたえにけるにや。呉越国ごゑつこく忠懿王ちゆういわうせいせん、名はりう、唐の末つかたより東南の呉越を領して偏覇へんばしゆたり〉此宗のおとろへぬることをなげきて、使者十人をさして、我朝におくり、教典けうてんをもとめしむ。ことくうつしをはりてかへりぬ。義寂これを見あきらめて、更に此宗を再興す。もろこしには五代ごだいうち後唐こうたうの末ざまなりければ、我朝には朱雀天皇の御代にやあたりけん。日本にほんよりかへしわたしたる宗なれば、此国の天台宗はかへりてほんとなるなり。およそ伝教彼宗の秘密をつたへられたることも唐台州たうのたいしう刺史しし陸淳りくじゆん印記いんきもんにあり〉ことく一宗の論疏ろんしよをうつし、国にかへれることも釈志磐しやくしばん仏祖統紀ぶつそとうきにのせたり〉異朝の書にみえたり。弘法は母懐胎くわいたいはじめ、夢に天竺の僧きたりて宿やどをかりたまひけりとぞ。宝亀はうき五年甲寅きのえとら六月みなづき十五日誕生たんじやう。この日唐の大暦たいれき九年六月ろくぐわつ十五日にあたれり。不空三蔵ふくうさんざう入滅にふめつす。よりてかの後身こうしんまをす也。かつは恵果和尚けいくわわしやうつげにも「我と汝とひさしき契約けいやくあり。ちかひ密蔵みつざうひろめん。」とあるもそのゆゑにや。渡唐の時も或は五筆ごひつの芸をほどこし、さま神異しんいありしかば、唐のしゆ順宗じゆんそう皇帝ことに仰信あふぎしんたまひき。かの恵果けいくわ〈真言第六の祖、不空の弟子〉和尚わしやう六人の附法ふほふあり。けん南の惟上ゆいしやう・河北の義円ぎゑん〈金剛一界をつたふ新羅しらぎ恵日ゑにち訶陵かりよう弁弘べんこう胎蔵たいざう一界をつたふ青龍せいりよう義明ぎめい・日本の空海〈両部をつたふ。義明は唐朝におきて潅頂くわんぢやうの師たるべかりしが世をはやくす。弘法は六人の中に瀉瓶しやびやうたり〈恵果の俗弟子呉殷ごいんさんことばにあり〉。しかれば、真言の宗には正統なりといふべきにや。これ又異朝の書にみえたる也。伝教も、不空の弟子順暁じゆんげうにあひて真言をつたへられしかど、在唐いくばくなかりしかば、ふかく学せられざりしにや。帰朝の後、弘法にもとぶらはれけり。又いまこの流たえにけり。慈覚・智証は恵果の弟子義さう・法じゆんときこえしが弟子法全はつせんにあひてつたへらる。およそ本朝流布るふしゆう、今は七宗しちしゆう也。此中にも真言・天台の二宗は祖師の意巧いげうもはら鎮護国家ちんごこくかのためと心ざゝれけるにや。比叡山には〈比叡と云こと桓武・伝教心をひとつにして興隆せられしゆゑなづくと彼山のともがらしようする也。しかれど旧事本紀くじほんぎに比叡の神の御ことみえたり〉顕密ならびて紹隆せうりうす。殊に天子本命ほんみやうの道場をたてゝ御願ごぐわんを祈る地なり〈これはみつにつくべし〉。又根本こんぼん中堂を止観院しくわんゐんふ。法華ほつけ経文きやうもんにつき、天台の宗義により、かた鎮護の深義じんぎありとぞ。東寺とうじは桓武遷都せんとの初、皇城のしづめのためにこれをたてらる。弘仁こうにんの御時、弘法にたまひてながく真言の寺とす。諸宗の雑住ざうぢゆうをゆるさゞる地也。此宗を神通乗じんづうじようふ。如来果上によらいくわしやうの法門にして諸教にこえたる極秘密ごくひみつとおもへり。就中なかんづく我国は神代よりの縁起えんぎ、此宗の所説しよせつ符合ふがふせり。このゆゑにや唐朝に流布せしはしばらくのことにて、すなはち日本にとゞまりぬ。又相応の宗なりと云もことわりにや。大唐の内道場ないだうぢやうじゆんじて宮中に真言院をたつ〈もとは勘解由使かげゆしちやうなり〉。大師奏聞そうもんして毎年正月むつきこの所にて御修法みしほあり。国土安穏あんをんの祈祷、稼穡豊饒かしよくぶねうの秘法也。又十八日の観音供くわんおんく晦日つごもり御念誦みねんじゆ等も宗によりて深意じんいあるべし。三流の真言いづれと云べきならねど、真言をもて諸宗の第一とすることもむねと東寺によれり。延喜えんぎ御宇ぎよう綱所かうしよ印鎰いんやくを東寺の一阿闍梨いちのあじやりにあづけらる。よりて法務のことを知行ちぎやうして諸宗の一座たり。山門・寺門は天台をむねとするゆゑにや、顕密をかねたれど宗の長をも天台座主てんだいざすと云めり。此天皇諸宗をならべこうぜさせたまひけり。中にも伝教・弘法御帰依ごきえふかゝりき。伝教始て円頓ゑんとん戒壇かいだんをたつべきよし奏せられしを、南京なんきやうの諸宗へうたてまつりてあらそひまをししかど、つひに戒壇の建立をゆるされ、本朝四け所の戒場となる。弘法はことさら師資ししの御やくありければ、おもくし給けるとぞ。此両宗の外、華厳けごん三論さんろんは東大寺にこれをひろめらる。彼華厳は唐の杜順和尚とじゆんくわしやうよりさかりになれりしを、日本の朗弁らうべん僧正つたへて東大寺に興隆こうりゆうす。此寺はすなはちしゆうによりて建立こんりふせられけるにや、大華厳寺と云名あり。三論は東晉とうしんの同時に後秦こうしんと云国に、羅什三蔵らじふさんざうと云師きたりて、此宗をひらきて世につたへたり。孝徳の御世に高麗かうらいの僧恵潅ゑくわん来朝してつたへ始ける。しからば最前さいぜん流布のをしへにや。其後道慈だうじ律師請来しやうらいして大安寺だいあんじにひろめき。今は華厳とならびて東大寺にあり。法相ほつさう興福寺こうふくじにあり。唐玄弉たうのげんじやう三蔵天竺よりつたへて国にひろめらる。日本の定恵和尚ぢやうゑわじやう大織冠たいしよくくわんの子なり〉彼国にわたり玄弉の弟子たりしかど、帰朝ののち世をはやくす。今の法相は玄昉げんばう僧正と云人入唐にふたうして州の智周ちしう大師〈玄弉二世の弟子〉にあひてこれをつたへて流布しけるとぞ。春日かすがの神もことさら此宗を擁護おうごし給なるべし。此三宗に天台をくはへて四家しけ大乗だいじようふ。倶舎ぐしや成実じやうじつなむど云は小乗せうじよう也。道慈律師おなじく伝て流布せられけれども、依学えがくの宗にて、別に一宗をたつることなし。我国大乗純熟じゆんじゆくの地なればにや、小乗を習人ならふひとなき也。又律宗は大小に通ずる也。鑒真和尚がんじんわじやう来朝してひろめられしより東大寺および下野しもつけ薬師やくし寺・筑紫つくしの観音寺に戒壇をたてゝ、此戒をうけぬものは僧せきにつらならぬ事になりにき。中古より以来このかた、其名ばかりにて戒体かいたいをまぼることたえにけるを、南都なんと思円しゑん上人等章疏しやうしよを見あきらめて戒師かいしとなる。北京ほくきやうには我禅上人がぜんしやうにん入宋にふそうして彼土かのど律法りつほふをうけ伝てこれをひろむ。南北の律再興さいこうして彼宗にいるともがらは威儀をすることふるきがごとし。禅宗は仏心宗ぶつしんしゆうともふ。仏の教外別伝けうげべつでんの宗なりとぞ。りやうに天竺の達磨だるま大師きたりてひろめられしに、武帝にかなはず。かうわたりて北朝にいたる。嵩山すうざんと云所にとゞまり、面壁めんぺきして年をおくられける。後に恵可ゑかこれをつぐ。恵可よりしも、四世に弘忍禅師くにんぜんじときこえし、嗣法しほふ南北に相分あひわかる。北宗ほくしゆうながれをば伝教・慈覚伝て帰朝せられき。安然和尚あんねんくわしやう慈覚じかくの孫弟そんてい教時諍論けうじさうろんと云書に教理の浅深せんじんはんずるに、真言・仏心・天台とつらねたり。されど、うけ伝人つたふるひとなくてたえにき。近代となりて南宗なんしゆうのながれおほくつたはる。異朝には南宗のしもに五あり。そのうち臨済りんざい宗のしもより又二流となる。これを五家七宗ごけしちしゆうふ。本朝には栄西やうせい僧正、黄龍わうりようながれをくみて伝来の後、聖一しやういち上人、石霜せきさうしもつかた虎丘くきうのながれ無準ぶしゆんにうく。彼宗のひろまることは此両師よりのこと也。うちつゞき異朝の僧もあまた来朝し、此国よりもわたりてつたへしかば、諸家しよけの禅おほく流布せり。五家七宗とはいへども、以前のけんみつごんじつ等の不同には相にるべからず。いづれも直指人心ぢきしにんしん見性成仏けんしやうじやうぶつもんをばいでざる也。弘仁の御宇より真言・天台のさかりになることをいささかしるしはべるにつきて、大方の宗々伝来のおもむきをのせたり。きはめてあやまりおほくはべらん。ただし君としてはいづれの宗をも大概たいがいしろしめしてすてられざらんことぞ国家攘災じやうさいの御はかりことなるべき。菩薩ぼさつ大士だいしもつかさどる宗あり。我朝の神明しんめいもとりわき擁護し給ふをしへあり。一宗にこころざしある人余宗をそしりいやしむ、おほきなるあやまり也。人の機根きこんもしななれば教法も無尽むじんなり。いはんやわが信ずる宗をだにあきらめずして、いまだしらざる教をそしらむ、きはめたる罪業ざいごふにや。われは此宗にすれども、人は又彼宗に心ざす。共に随分ずゐぶんやくあるべし。是皆今生一世こんじやういちせ値遇ちぐにあらず。国のあるじともなり、輔政ふせいの人ともなりなば、諸教をすてず、機をもらさずして得益とくやくのひろからんことを思給おもひたまふべき也。かつは仏教にかぎらず、じゆだうの二教乃至ないしもろの道、いやしき芸までもおこしもちゐるを聖代せいだいと云べき也。およそ男夫なんぷ稼穡かしよくをつとめておのれも食し、人にもあたへて、うゑざらしめ、女子は紡績はうせきをことゝしてみづからもき、人をしてあたゝかにならしむ。いやしきに似たれども人倫じんりん大本たいほん也。天の時にしたがひ、地の利によれり。此外このほか商沽しやうこの利を通ずるもあり、工巧くげうのわざをこのむもあり、仕官に心ざすもあり、是を四民とふ。仕官するにとりて文武のふたつの道あり。ざしもつて道を論ずるは文士の道也。此道にあきらかならばしやうとするにたへたり。ゆきて功をたつる武人ぶじんのわざなり。此わざにほまれあらばしやうとするにたれり。されば文武ぶんぶふたつはしばらくもすて給べからず。「世みだれたる時は武を右にし文を左にす。国をさまれる時は文を右にし武を左にす。」といへり〈古に右をかみにす。よりてしかいふ也〉。かくのごとくさまなる道をもちゐて、民のうれへをやすめ、おのあらそひなからしめん事をもととすべし。民の賦斂ふれんをあつくしてみづからの心をほしきまゝにすることは乱世乱国のもとゐ也。我国は王種わうしゆのかはることはなけれども、まつりことみだれぬれば、暦数れきすうひさしからず。継体もたがふためし、所々にしるし侍りぬ。いはんや、人臣として其職をまぼるべきにおきてをや。そもそも民をみちびくにつきて諸道・諸芸みな要枢えうすう也。古には詩・書・礼・がくをもて国ををさむ四術しじゆつとす。本朝は四術の学をたてらるゝことたしかならざれど、紀伝きでん明経みやうぎやう明法みやうばふの三道に詩・書・れいせつすべきにこそ。算道さんだうくはへて四道とふ。代々よよにもちゐられ、其職をおかるゝことなればくはしくするにあたはず。医・陰陽おんやうの両道又これ国の至要しえう也。金石糸竹きんせきしちくがくは四学の一にて、もはらまつりことをするもと也。今は芸能の如くに思へる、無念のこと也。「ふううつし俗をかふるには楽よりよきはなし。」といへり。一音より五せい・十二律に転じて、治乱をわきまへ、興衰こうすいしるべき道とこそみえたれ。又詩賦哥詠しふかえいふうもいまの人のこのむ所、詩学のもとにはことなり。しかれど一心よりおこりて、よろづのことのとなり、末の世なれど人を感ぜしむる道也。これをよくせばへきをやめ邪をふせぐをしへなるべし。かゝればいづれか心のみなもとをあきらめ、しやうにかへるじゆつなからむ。輪扁りんへんをけづりて齊桓公せいのくわんこうををしへ、弓工きゆうこうが弓をつくりて唐の太宗をさとらしむるたぐひもあり。乃至ないし囲碁弾碁ゐごたんきたはぶれまでもおろかなる心ををさめ、かろしきわざをとゞめんがためなり。たゞし其みなもとにもとづかずとも、一芸はまなぶべきことにや。孔子こうしも「あくまでにくう終日ひねもすに心をもちゐる所なからんよりは博奕ばくえきをだにせよ。」とはべるめり。まして一道をうけ、一芸にもたづさはらん人、もとをあきらめ、ことわりをさとるこころざしあらば、これより理世りせいの要ともなり、出離しゆつりのはかりことゝもなりなむ。一気一心にもとづけ、五大五行により相剋さうこく相生さうしやうをしりみづからもさとり他にもさとらしめん事、よろづの道其ことわりひとつなるべし。此御門誠に顕密の両宗にきし給しのみならず、儒学もあきらかに、文章もたくみに、書芸もすぐれ給へりし、宮城きゆうじやう東面ひがしおもてがくも御みづからかゝしめ給き。天下を治給こと十四年。皇太弟にゆづりて太上天皇と申。帝都の西、嵯峨山さがやまと云所に離宮をしめてぞましける。一たん国をゆづり給しのみならず、行末ゆくすゑまでもさづけましまさんの御心ざしにや、新帝の御子、恒世つねよの親王を太子にたて給しを、親王又かたく辞退して世をそむき給けるこそありがたけれ。上皇ふかく謙譲けんじやうしましけるに、親王又かくのがれ給ける、末代まつだいまでの美談びだんにや。昔仁徳兄弟相ゆづり給し後にはきかざりしこと也。五十七歳おましき。

○第五十三代、淳和じゆんな天皇、西院さいゐんみかどとも申。桓武第三の子。御母贈皇太后藤原の旅子もろこ、贈太政大臣百川ももかはの女也。癸卯みづのとうの年即位、甲辰きのえたつに改元。天下を治給こと十年。太子にゆづりて太上天皇と申。此時両上皇ましければ、嵯峨をばさきの太上天皇、此御門をばのちの太上天皇と申き。嵯峨さがの御門の御おきてにや、東宮には又此帝の御子恒貞つねさだ親王たち給しが、両上皇かくれましゝ後にゆゑありてすてられ給き。五十七歳おましき。

○第五十四代、第三十世、仁明にんみやう天皇。いみな正良まさら〈これよりさき御諱たしかならず。おほくは乳母めのとしやうなどを諱にもちゐられき。これより二字たゞしくましませばのせたてまつる〉深草ふかくさみかどとも申。嵯峨第二の子。御母皇太后たちばな嘉智子かちこ、贈太政大臣清友女きよとものむすめ也。癸丑みづのとうしの年即位、甲寅きのえとらに改元。此天皇は西院の御門の猶子いうしましければ、朝覲てうきん両皇りやうくわうにせさせ給。或時は両皇同所にして覲礼きんれいもありけりとぞ。我国のさかりなりしことはこの比ほひにやありけん。遣唐使けんたうしもつねにあり。帰朝の後、建礼門けんれいもんの前に、彼国かのくにのたから物のいちをたてゝ、群臣にたまはすることも有き。律令りつりやうは文武の御代よりさだめられしかど、此御代にぞえらびとゝのへられにける。天下を治給こと十七年。四十一歳おましき。

○第五十五代、文徳もんとく天皇。諱は道康みちやす田村たむらの帝とも申。仁明第一の子。御母太皇太后藤原[の]順子じゆんし〈五条のきさきと申〉、左大臣冬嗣ふゆつぐの女也。庚午かのえうまの年即位、辛未かのとひつじに改元。天下を治給こと八年。三十三歳おましき。

○第五十六代、清和せいわ天皇。諱は惟仁これひと水尾みづのをの帝とも申。文徳第四の子。御母皇太后藤原の明子あきらけいこ染殿そめどのの后と申〉、摂政太政大臣良房の女也。我朝は幼主位にゐ給ことまれなりき。此天皇九歳にて即位、戊寅つちのえとらの年也。己卯つちのとうに改元。践祚せんそありしかば、外祖ぐわいそ良房の大臣はじめて摂政せつしやうせらる。摂政と云こと、もろこしには唐堯たうげうの時、虞舜ぐしゆん登用あげもちゐまつりことをまかせ給き。これを摂政とふ。かくて三十年ありて正位をうけられき。いんの代に伊尹いいんと云聖臣せいしんあり。たうおよび大甲たいかう輔佐ふさす。是は保衡ほうかうと云阿衡あかうともふ〉。其こころは摂政也。周の世に周公旦しうこうたん大聖たいせいなりき。文王の子、武王の弟、成王の叔父しゆくふなり。武王のには三公につらなり、成王わかくて位につき給しかば、周公みづから南面なんめんして摂政す〈成王をおひて南面せられけりともみえたり〉かんの昭帝又幼にて即位。武帝の遺詔ゆゐぜうにより博陸はくりく侯霍光くわくくわうと云人、大司馬大将軍にて摂政す。中にも周公・霍氏をぞ先せうにもまをすめる。本朝には応神うまれ給て襁褓きやうほうにまししかば、神功皇后天位にゐ給。しかれど摂政と申伝まをしつたへたり。これは今の儀にはことなり。推古天皇の御時厩戸うまやどの皇太子摂政し給。これぞ帝は位にそなはりて天下の政しかしながら摂政の御まゝなりける。齊明天皇の御世に、御子なか大兄おほえの皇太子摂政し給。元明げんめいの御世のすゑつかた、皇女浄足姫きよたらしひめの尊〈元正天皇の御ことなり〉しばらく摂政し給き。この天皇の御時良房の大臣の摂政よりしてぞまさしく人臣にて摂政することははじまりにける。ただし此藤原の一門神代よりゆゑありて国王をたすけ奉ることはさきにも所々にしるし侍りき。淡海公の後、参議中衛ちゆうゑの大将房前ふささき、其子大納言真楯またて、その子右大臣内麿、この三代はかみ二代のごとくさかえずやありけむ。内麿の子冬嗣ふゆつぐの大臣閑院かんゐんの左大臣とふ。後に贈太政大臣〉藤氏のおとろへぬることをなげきて、弘法大師にまをしあはせて興福寺に南円なんゑん堂をたてゝ祈申いのりまをされけり。此時明神役夫やくぶにまじはりて、

 補陀落ふだらくの南の岸に堂たてゝ今ぞさかえん北の藤浪ふじなみ

えいじ給けるとぞ。此時源氏の人あまたうせにけりと申人あれど、大なるひがこと也。皇子皇孫のみなもとしやうたまはりて高官高位にいたることは此後のことなれば、誰人たれひとかうせ侍べき。されど彼一門のさかえしこと、まことに祈請きせいにこたへたりとはみえたり。大方この大臣とほきおもひはかりおはしけるにこそ。子孫親族の学問をすゝめんために勧学院を建立す。大学寮に東西の曹司さうじあり。くわんがうの二家これをつかさどりて、人ををしふる所也。彼大学の南にこの院をたてられしかば、南曹とぞ申める。氏長者うぢのちやうじやたる人むねとこの院を管領して興福寺および氏のやしろのことをとりおこなはる。良房の大臣摂政せられしより彼一流につたはりて、たえぬことになりたり。幼主の時ばかりかとおぼえしかど、摂政関白もさだまれる職になりぬ。おのづから摂関と云名をとめらるゝ時も、内覧の臣をおかれたれば、執政の儀かはることなし。天皇おとなび給ければ、摂政まつりことをかへしたてまつりて、太政大臣にて白河に閑居せられにけり。君は外孫にましませば、猶も権をもはらにせらるともあらそふ人あるまじくや。されど謙退けんたいの心ふかく閑適かんてきをこのみて、つねに朝参てうさんなどもせられざりけり。其比大納言伴善男とものよしをと云人ちようありて大臣をのぞむ志なんありける。時に三公けつなかりき〈太政大臣良房、左大臣まこと、右大臣良相よしすけまことの左大臣をうしなひて、其闕にのぞみ任ぜんとあひはかりて、まづ応天門をやかしむ。左大臣世をみだらんとするくはたてなりと讒奏ざんそうす。天皇おどろき給て、糺明きうめいにおよばず、右大臣に召仰めしおほせて、すでに誅せらるべきになりぬ。太政大臣このことをきゝ驚遽おどろきあはてられけるあまりに、烏帽子えぼし直衣なほしをきながら、白昼はくちう騎馬きばして、馳参はせさんじて申なだめられにけり。其後に善男が陰謀あらはれて流刑るけいに処せらる。此大臣の忠節まことに無止やんごとなきことになん。天皇仏法にきし給て、つねに脱屣だつしの御志ありき。慈覚大師に受戒し給、法号をさづけ奉らる。素真そしんと申。在位の帝、法号をつき給ことよのつねならぬにや。昔隋煬帝ずゐのやうだい晉王しんわうと云し時、天台の智者ちしやに受戒して惣持そうぢと云名をつかれたりし、よからぬ君のためしなれど、智者の昔のあとなれば、なぞらへもちゐられにけるにや。又この御時、宇佐の八幡大菩薩皇城の南、男山石清水をとこやまいはしみづにうつり給。天皇聞食きこしめし勅使ちよくしをつかはし、その所をてんじ、もろのたくみにおほせて、新宮をつくりて宗廟にせらる〈鎮坐の次第はかみにみえたり〉。天皇天下を治給こと十八年。太子にゆづりてしりぞかせ給。中三とせばかりありて出家、慈覚の弟子にて潅頂うけさせ給。丹波たんば水尾みづのをと云所にうつらせ給て、練行れんぎやうしましゝが、ほどなくかくれ給。御年三十一歳おましき。

○第五十七代、陽成やうぜい天皇。諱は貞明さだあきら、清和第一の子。御母皇太后藤原[の]高子たかきこ〈二条の后と申〉、贈太政大臣長良ながらの女也。丁酉ひのととりの年即位、改元。右大臣基経摂政して太政大臣に任ず〈此大臣は良房の養子なり。まことは中納言長良の男。此天皇の外舅ははかたのをぢ也〉忠仁公ちゆうじんこうの故事のごとし。此天皇せいあくにして人主のうつはにたらずみえたまひければ、摂政なげきて廃立はいりふのことをさだめられにけり。昔漢の霍光くわくくわう、昭帝をたすけて摂政せしに、昭帝世をはやくし給しかば、昌邑王しやうゆうわうたてて天子とす。昌邑不徳にして器にたらず。すなはち廃立をおこなひて宣帝せんていたて奉りき。霍光が大功とこそしるしつたへはべるめれ。此大臣まさしき外戚ぐわいせきの臣にてまつりことをもはらにせられしに、天下のため大義をおもひてさだめおこなはれける、いとめでたし。されば一家にも人こそおほくきこえしかど、摂政関白はこの大臣のすゑのみぞたえせぬことになりにける。つぎ大臣大将にのぼる藤原の人々もみなこの大臣の苗裔べうえいなり。積善しやくぜん余慶よきやうなりとこそおぼえはべれ。天皇天下を治給こと八年にてしりぞけられ、八十一歳までおましき。

○第五十八代、第三十一世、光孝くわうかう天皇。諱は時康ときやす小松御門こまつのみかどともまをす。仁明第二の子。御母贈皇太后藤原の沢子さはこ、贈太政大臣総継ふさつぐの女なり。陽成しりぞけられ給し時、摂政昭宣せうせん公もろの皇子をさうし申されけり。此天皇一品いちほん式部卿けん常陸ひたちの太守ときこえしが、御年たかくて小松の宮にましけるに、俄にまうでゝ見給ければ、人主の器量の皇子たちにすぐれましけるによりて、すなはち儀衛ぎゑいをとゝのへてむかへ申されけり。本位ほんゐの服を着しながら鸞輿らんよして大内だいだいにいらせ給にき。ことし甲辰きのえたつの年なり。乙巳きのとみに改元。践祚のはじめ摂政をあらためて関白とす。これ我朝関白の始なり。漢の霍光くわくくわう摂政たりしが、宣帝の時まつりことをかへして退しりぞきけるを、「万機のまつりこと猶霍光に関白あづかりまうさしめよ。」とありし、その名を取りてさづけられにけり。此天皇昭宣公のさだめによりてたち給しかば御こころざしもふかゝりしにや、其子を殿上てんじやうにめして元服せしめ、御みづから位記ゐきをあそばして正五位になし給けりとぞ。ひさしくたえにけるせり川の御幸ごかうなどありて、ふるきあとをおこさるゝことゝもきこえき。天下を治給こと三年。五十七歳おましき。

大かた天皇の世つぎをしるせるふみ、昔より今にいたるまで家々にあまたあり。かくしるしはべるもさらにめづらしからぬことなれど、神代より継体正統のたがはせ給はぬひとはしを申さんがためなり。我国は神国かみのくになれば、天照太神の御計おんはからひにまかせられたるにや。されど其なかに御あやまりあれば、暦数れきすうひさしからず。又つひには正路しやうろにかへれど、一旦いつたんもしづませ給ためしもあり。これはみなみづからなさせたまふ御とがなり。冥助みやうじよのむなしきにはあらず。ほとけも衆生をみちびきつくし、神も万姓ばんしやうをすなほならしめんとこそし給へど、衆生の果報しなに、うくる所のしやうおなじからず。十善じふぜん戒力かいりきにて天子とはなり給へども、代々の御行迹かうせき、善悪又まち也。かゝればもとを本としてしやうにかへり、はじめをはじめとしてじやをすてられんことぞ祖神そじん御意みこころにはかなはせ給べき。神武より景行まで十二代は御子孫そのまゝつがせ給へり。うたがはしからず。日本武やまとたけの尊世をはやくしましゝによりて、御弟成務へだゝり給しかど、日本武の御子にて仲哀つたへましぬ。仲哀・応神の御後おんのちに仁徳つたへ給へりし、武烈悪王にて日嗣ひつぎたえましゝ時、応神五世の御孫にて、継体天皇えらばれたち給。これなむめづらしきためしに侍る。されどふたつをならべてあらそふ時にこそ傍正ばうしやううたがひもあれ、群臣皇胤なきことをうれへて求出もとめいだし奉りしうへに、その御身けんにして天の命をうけ、人ののぞみにかなひましければ、とかくのうたがひあるべからず。其後相つぎて天智・天武御兄弟立給しに、大友の皇子のみだれによりて、天武の御ながれひさしくつたへられしに、称徳女帝にて御嗣おんつぎもなし。又まつりこともみだりがはしくきこえしかば、たしかなる御ゆずりなくて絶にき。光仁又かたはらよりえらばれてたち給。これなん又継体天皇の御ことに似玉へる。しかれども天智は正統にてましき。第一の御子大友こそあやまりて天下をえ給はざりしかど、第二の皇子にて施基しきのみこ御とがなし。其御子なれば、此天皇の立給へること、正理しやうりにかへるとぞ申侍べき。今の光孝又昭宣公のえらびにてたち給といへども、仁明の太子文徳の御ながれなりしかど、陽成悪王にてしりぞけられ給しに、仁明第二の御子にて、しかも賢才諸親王にすぐれましければ、うたがひなき天命とこそみえ侍し。かやうにかたはらよりいで給こと是まで三代なり。人のなせることゝは心えたてまつるまじき也。さきにしるし侍ることはりをよくわきまへらるべき者をや。光孝よりかみつかたは一向いつかう上古しやうこ也。よろづのためしかんがふる仁和にんなよりしもつかたをぞ申める。いにしへすら猶かゝることわりにて天位を嗣給つぎたまふ。ましてすえの世にはまさしき御ゆづりならでは、たもたせ給まじきことゝ心えたてまつるべき也。此御代より藤氏の摂籙せふろくの家も他流にうつらず、昭宣公の苗裔べうえいのみぞたゞしくつたへられにける。かみは光孝の御子孫、天照太神の正統とさだまり、しもは昭宣公の子孫、天児屋あめのこやねの命の嫡流ちやくりうとなり給へり。二神ふたはしらのかみの御ちかひたがはずして、上は帝王三十九代、下は摂関四十余人、四百七十余年にもなりぬるにや。

○第五十九代、第三十二世、宇多うた天皇。諱は定省さだみ、光孝第三の子。御母皇太后くわうたいこう班子はんしの女王、仲野なかの親王〈桓武[の]御子〉の女也。元慶ぐわんぎやうころ孫王そんわうにて源氏のしやうたまはらせまします。そのかみ、つねに鷹狩たかがりをこのませ給けるに、ある時賀茂かもの大明神あらはれて皇位につかせ給べきよしをしめし申されけり。践祚せんその後、彼社かのやしろの臨時のまつりをはじめられしは、大神の申うけ給けるゆゑとぞ。仁和にんな三年丁未ひのとひつじあき、光孝御やまひありしに、御兄の御子たちをゝきてゆづりをうけ給。まづ親王とし、皇太子にたち、すなはち受禅。おなじき年の冬即位。中一とせありて己酉つちのととりに改元。践祚の初より太政大臣基経もとつね又関白せらる。此関白こうじのちはしばらくその人なし。天下を治給こと十年。位を太子にゆづりて太上天皇と申。中一とせばかりありて出家せさせ給。御年三十三にや。わかくよりその御こころざしありきとぞおほせ給ける。弘法大師四代の弟子益信やくしん僧正を御師にて東寺にして潅頂くわんぢやうせさせ給。又智証ちしよう大師の弟子増命僧正ぞうみやうそうじやうにも〈于時法橋也。後謚云靜観〉比叡山にてうけさせ給へり。弘法の流をむねとせさせ給ければ、其御法流とて今にたえず、仁和寺にんなじ伝侍つたへはべるは是なり。およそ弘法の流に広沢ひろさは〈仁和寺〉・小野醍醐だいご寺・勧修寺くわんじゆじの二あり。広沢は法皇の御弟子寛空くわんぐう僧正、寛空の弟子寛朝くわんでう僧正敦実あつみ親王[の]子、法皇[の]御孫也〉。寛朝広沢にすまれしかば、かのながれふ。そのゝち代々だいだい御室おむろつたへてたゞ人はあひまじはらず〈法流をあづけられて師範となることは両度あり。されど御室は代々親王なり〉。小野の流は益信の相弟子あひでし聖宝しやうぼう僧正とて知法無双ちほふぶさうの人ありき。大師の嫡流と称することのあるにや。しかれど年戒ねんかいおとられけるゆゑにや、法皇御潅頂の時は色衆しきしゆにつらなりて歎徳たんどくと云ことをつとめられたりき。延喜えんぎ護持僧ごぢそうにて、ことに崇重そうちようし給き。其弟子観賢くわんげん僧正もあひついで護持まをす。おなじく崇重ありき。綱中かうちゆうの法務を東寺の一阿闍梨いちのあじやりにつけられしもこの時より始るしやうの法務はいつも東寺のいち長者ちやうじやなり。諸寺になるはみなごんの法務なり。又仁和寺の御室、そうの法務にて、綱所かうしよ召仕めしつかはるゝことは後白河以来このかたの事。此僧正は高野かうやにまうでゝ、大師入定にふぢやうくつひらきて御髪をそり、法服をきせかへまをしし人なり。其弟子でし淳祐じゆんいう〈石山の内供ないくと云〉ともなはれけれどもつゐに見奉らず。師の僧正、その手をとりて御身にふれしめけりとぞ。淳祐罪障ざいしやういたりをなげきて卑下ひげの心ありければ、弟子元杲僧都げんがうそうづ延命院えんみやうゐんと云〉許可こかばかりにて授職じゆしよくをゆるさず。勅定ちよくぢやうによりて法皇の御弟子寛空くわんぐうにあひて授職潅頂をとぐ。彼元杲の弟子仁海にんかい僧正又知法の人なりき。小野と云所にすまれけるより小野流とふ。しかれば法皇は両流の法主ほふしゆにまします也。王位をさりて釈門しやくもんいることは其ためしおほし。かく法流の正統となり、しかも御子孫継体し給へる、有がたきためしにや。今の世までもかしこかりしことには延喜・天暦と申ならはしたれど、此御世こそ上代によれれば無為ぶゐの御まつりことなりけんとおしはかられ侍る。菅氏の才名さいめいによりて、大納言大将まで登用したまひしも此御時也。又譲国じやうこくの時さまをしへ申されし、寛平くわんべい御誡ぎよかいとて君臣あふぎてみたてまつることもあり。昔もろこしにも「天下の明徳は虞舜ぐしゆんより始る。」とみえたり。唐堯のもちゐ給しによりて、舜の徳もあらはれ、天下の道もあきらかになりにけるとぞ。二代の明徳をもて此御ことおしはかり奉るべし。御寿いのちながく朱雀すざくの御代にぞかくれさせ給ける。七十六歳おましき。

○第六十代、第三十三世、醍醐だいご天皇。諱は敦仁あつひと、宇多第一の子。御母贈皇太后藤原の胤子たねこ、内大臣高藤たかふぢの女也。丁巳ひのとみの年即位、戊午つちのえうまに改元。大納言左大将藤原時平ときひら、大納言右大将菅氏、両人上皇のみことのりをうけて輔佐ふさし申されき。後に左右の大臣ににんじてともに万機を内覧せられけりとぞ。御門みかど御年十四にて位につき給。をさなくまししかど、聰明叡哲そうめいえいてつにきこえ給き。両大臣天下のまつりことをせられしが、右相は年もたけ才もかしこくて、天下のゝぞむ所なり。左相は譜第ふだいうつは也ければ、すてられがたし。或時上皇の御在所朱雀院に行幸、猶右相にまかせらるべしと云さだめありて、すでに召仰めしおほせ玉ひけるを、右相かたくのがれ申されてやみぬ。其事世にもれにけるにや、左相いきどほりをふくみ、さまざんをまうけて、つひにかたぶけ奉りしことこそあさましけれ。此君の御一失と申伝まをしつたへはべり。ただし菅氏権化ごんげの御事なれば、末世まつせのためにやありけん、はかりがたし。善相公清行ぜんしやうこうきよつら朝臣はこの事いまだきざゝざりしに、かねてさとりて菅氏にわざはひをのがれ給べきよしを申けれど、さたなくて此事出来いできにき。さきにも申はべりし、我国には幼主のたち給こと昔はなかりしこと也。貞観ぢやうぐわん元慶ぐわんぎやうの二代始て幼にてたち玉ひしかば、忠仁公ちゆうじんこう昭宣公せうせんこう摂政にて天下ををさめらる。此君ぞ十四にてうけつぎ給て、摂政もなく御みづからまつりことをしらせましける。猶御幼年のゆゑにや、左相の讒にもまよはせ給けん。聖も賢も一失はあるべきにこそ。其趣おもむき経書けいしよにみえたり。されば曾子そうしは、「吾日三省吾躬われひにみたびわがみをかへりみる。」といひ季文子きぶんしは「三思みたびおもふ。」ともふ。聖徳のほまれましまさんにつけてもいよつゝしみましますべきこと也。昔応神天皇もざんをきかせ玉ひて、武内の大臣を誅せられんとしき。彼はよくのがれてあきらめられたり。このたびのこと凡慮およびがたし。ほどなく神とあらはれて、今にいたるまで霊験無双れいげんぶさうなり。末世まつせやくをほどこさんためにや。讒をいれし大臣はのちなくなりぬ。同心ありけるたぐひもみな神罰しんばちをかうぶりにき。此君ひさしく世をたもたせ給て、徳政とくせいをこのみ行はせ玉ふこと上代にこえたり。天下泰平たいへい民間安穏にて、本朝仁徳のふるき跡にもなぞらへ、異域いいき堯舜のかしこき道にもたぐへ申き。延喜七年丁卯ひのとうの年、もろこしの唐ほろびりやうと云国にうつりにけり。うちつゞき後唐こうたう・晉・漢・周となん云五代ありき。此天皇天下を治給こと三十三年。四十四歳おましき。

○第六十一代、朱雀すざく天皇。諱は寛明ひろあきら、醍醐十一の子。御母皇太后藤原穏子をんし、関白太政大臣基経の女也。御兄保明やすあきらの太子おくりな文彦ぶんげんと申〉早世、その御子慶頼よしよりの太子もうちつゞきかくれましゝかば、保明一腹ひとつはらの御弟にてたち給。庚寅かのえとらの年即位、辛卯かのとうに改元。外舅ははかたのをぢ左大臣忠平ただひら〈昭宣公の三男、のちに貞信公ていしんこうと云〉摂政せらる。寛平くわんべいに昭宣公こうじてのちには、延喜御一代まで摂関なかりき。此君又幼主にて立給たちたまふによりて、故事にまかせて万機を摂行せつかうせられけるにこそ。此御時、たひら将門まさかどと云物あり。上総介かづさのすけ高望たかもちまご〈高望は葛原かづらはらの親王[の]まご平姓たひらのしやうたまはる。桓武四代の御苗裔べうえいなりとぞ〉執政しつせいいへにつかうまつりけるが、使宣旨せんじのぞみ申けり。不許ふきよなるによりいきどほりをなし、東国に下向げかうして叛逆ほんぎやくをおこしけり。まづ伯父をぢ常陸ひたち大掾たいじよう国香くにかをせめしかば、国香自殺しぬ。これより坂東ばんどうをゝしなびかし、下総国しもふさのくに相馬郡さうまのこほりに居所をしめ、みやことなづけ、みづからへい親王と称し、官爵をなしあたへけり。これによりて天下騒動す。参議さんぎ民部卿みんぶきやうけん右衛門督うゑもんのかみ藤原忠文朝臣ただふんのあそんを征東大将軍とし、源経基つねもと〈清和の御すゑ六孫王とふ。頼義よりよし義家よしいへの先祖せんぞ也〉・藤原仲舒なかのぶ〈忠文の弟也〉を副将軍としてさしつかはさる。平貞盛さだもり〈国香が子〉・藤原秀郷ひでさと等心をひとつにして、将門をほろぼして其かうべを奉りしかば、諸将は道よりかへりまゐりにき〈将門、承平じようへい五年二月きさらぎに事をおこし、天慶てんぎやう三年二月に滅ぬ。其あひだ六年へたり〉。藤原純友すみともと云物、かの将門に同意して西国にて叛乱ほんらんせしかば、少将小野好古をののよしふるつかはして追討せらる〈天慶四年に純友はころさるとぞ〉。かくて天下しづまりにき。延喜の御代さしも安寧あんねいなりしに、いつしか此みだれ出来いできたる。天皇もおだやかにましけり。又貞信公の執政なりしかば、まつりことたがふことははべらじ。時の災難にこそとおぼえ侍る。天皇御子ましまさず。一腹ひとつはらの御弟太宰帥だざいのそつの親王を太弟たいていにたてゝ、天位をゆづりて尊号あり。後に出家せさせ給。天下を治給こと十六年。三十歳おましき。

○第六十二代、第三十四世、村上むらかみ天皇。諱は成明なりあきら、醍醐十四の子、朱雀同母の御弟也。丙午ひのえうまの年即位、丁未ひのとひつじに改元。兄弟相譲ゆづらせ玉ひしかば、まめやかなる禅譲の礼儀ありき。此天皇賢明の御ほまれ先皇せんくわうのあとをつぎ申させ給ければ、天下安寧なることも延喜・延長の昔にことならず。文筆諸芸をこのみ給こともかはりまさゞりけり。よろづのためしには延喜・天暦の二代とぞ申侍る。もろこしのかしこき明王も二、三代とつたはるはまれなりき。周にぞ文・武・成・康〈文王は正位につかず〉、漢には文・けいなんどぞありがたきことに申ける。光孝かたはらよりえらばれ立給しに、うちつゞき明主のつたはり給し、我国の中興すべきゆゑにこそ侍けめ。又継体もたゞこの一流にのみぞさだまりぬる。すゑつかた天徳てんとく年中にや、はじめて内裏だいり炎上えんしやうありて内侍所ないしどころやけにしが、神鏡は灰の中よりいだし奉らる。「円規ゑんき損ずることなくして分明ふんみやうにあらはれいで給。見奉る人、驚感きやうかんせずと云ことなし。」とぞ御記ぎよきにみえ侍る。此時に神鏡南殿なでんさくらにかゝらせ給けるを、小野宮をののみや実頼さねよりのおとゞ袖にうけられたりと申ことあれど、ひが事をなん云伝侍いひつたへはべる也。応和おうわ元年辛酉かのととりの年もろこしの後周ほろびて宋の代にさだまる。唐の後、五代、五十五年のあひだ彼国おほきみだれ五姓ごしやううつりかはりて国のしゆたり。五季ごきとぞ云ける。宋の代に賢主うちつゞきて三百二十余年までたもてりき。此天皇天下を治給こと二十一年。四十二歳おましき。御子おほくましなかに冷泉・円融は天位につき給しかばまをすにおよばず。親王の中に具平ともひらの親王〈六条の宮と申。中務卿なかつかさきやうにんじ給き。さき兼明かねあきら親王名誉おはしき。よりてこれをばのちの中書王と申〉賢才文芸のかた代々の御あとをよく相継あひつぎ申玉ひけり。一条の御代に、よろづ昔をおこし、人をもちゐましければ、この親王昇殿し給し日、清涼殿せいりやうでんにて作文さくもんありしに〈中殿の作文と云ことこれよりはじまる〉「所貴是賢才」と云題にてゐんをさぐらるゝことあり。此親王の御ためなるべし。およそ諸道にあきらかに、仏法のかたまでくらからざりけるとぞ。昔より源氏おほかりしかども、此御すゑのみぞいまにいたるまで大臣以上に至て相つぎ侍る。源氏と云ことは、嵯峨の御門世のつひえをおぼしめして、皇子皇孫にしやうたまひて人臣となし給。すなはち御子あまた源氏の姓をたまはる。桓武の御子葛原かづらはらの親王の男、高棟平たかむねたひらの姓を給る。平城の御子阿保あほの親王の男、行平ゆきひら業平なりひら在原ありはらの姓を給ることも此後のことなれど、これはたまの儀也。弘仁以後代々の御のちはみなみなもとの姓をたまひしなり。親王の宣旨をかうぶる人は才不才さいふさいによらず、国々に封戸ふこなどたてられて、世のつひえなりしかば、人臣につらねみやづかへしものまなびして朝要てうえうにかなひ、うつはにしたがひ、昇進すべき御おきてなるべし。姓を給る人はぢきに四位に叙す〈皇子皇孫にとりての事也〉。当君のは三位なるべしと云〈かゝれど其ためしまれなり。嵯峨の御子大納言さだむの卿三位に叙せしかども、当代にはあらず〉。かくて代々のあひだ姓をたまはりし人百十余人もやありけん。しかれど他流の源氏、大臣以上にいたりて二代と相続する人の今まできこえぬこそいかなるゆゑなるらん、おぼつかなけれ。嵯峨の御子姓をたまはる人二十一人。このうち、大臣にのぼる人、ときはの左大臣けん大将、まことの左大臣、とほるの左大臣。仁明の御子に姓を給人十三人。大臣にのぼる人、まさるの右大臣、ひかるの右大臣兼大将。文徳の御子に姓を給人十二人。大臣にのぼる人、能有よしありの右大臣兼大将。清和の御子に姓を給人十四人。大臣にのぼる人、十世の御すゑに実朝さねともの右大臣兼大将〈これは貞純さだすみ親王の苗裔なり〉。陽成の御子に姓を給人三人。光孝の御子に姓を給人十五人。宇多の御孫に姓をたまはりて大臣にのぼる人、雅信まさのぶの左大臣、重信しげのぶの左大臣〈ともに敦実あつみ親王の男なり〉。醍醐の御子に姓を給人二十人。大臣にのぼる人、高明たかあきらの左大臣兼大将、兼明かねあきらの左大臣〈後には親王とす。中務卿に任ず。さきの中書王これなり〉。この後は皇子の姓をたまはることはたえにけり。皇孫にはあまたあり。任大臣をほんとしるすによりてことくはのせず。ちかくは後三条の御孫に有仁ありひとの左大臣兼大将輔仁すけひと親王の男、白川院御猶子にてぢきに三位せし人なり〉二世の源氏にて大臣にのぼれり。かやうにたま大臣に至てもいづれか二代と相つげる。ほと納言なふごん以上までつたはれるだにまれなり。雅信の大臣の末ぞおのづから納言までものぼりてのこりたる。高明の大臣の後四代、大納言にてありしもはやく絶にき。いかにもゆゑあることかとおぼえたり。皇胤くわういん貴種きしゆよりいでぬる人、おんをたのみ、いと才なんどもなく、あまさへ人におごり、ものにまんずる心もあるべきにや。人臣の礼にたがふことありぬべし。寛平の御記にそのはしのみえはべりし也。後をもよくかゞみさせ給けるにこそ。皇胤は誠に也にことなるべきことなれど、我国は神代よりのちかひにて、君は天照太神の御すゑ国をたもち、臣は天児屋あめのこやねの御流きみをたすけ奉るべきうつはとなれり。源氏はあらたに出たる人臣なり。徳もなく、功もなく、高官にのぼりて人におごらばふたはしらの神の御とがめ有ぬべきことぞかし。なか上古には皇子皇孫もおほくて、諸国にもふうぜられ、将相しやうしやうにも任ぜられき。崇神天皇十年に始て四人よにんの将軍を任じて四道しだうへつかはされしも皆これ皇族なり。景行天皇五十一年始て棟梁とうりやうの臣をおきて武内の宿禰を任ず。成務天皇三年に大臣おほおみとす〈我朝大臣だいじんこれに始る〉。六代の朝につかへて執政たり。此大臣おほおみも孝元の曾孫なりき。しかれど、大織冠うぢをさかやかし、忠仁公まつりことせつせられしより、もはら輔佐ふさうつはとして、立かへり、神代の幽契いうけいのまゝに成ぬるにや。閑院の大臣おとど冬嗣うぢおとろへたることをなげきて、善をつみ功をかさね、神にいのり仏に帰せられける、其しるしも相くはゝり侍けんかし。此親王ぞまことに才もたかく徳もおはしけるにや。其子師房もろふさ姓をたまはりて人臣に列せられし、才芸いにしへにはぢず、名望世にきこえあり。十七歳にて納言に任じ、数十年のあいだ朝廷の故実こじつに練じ、大臣大将にのぼりて、懸車けんしやよはひまでつかうまつらる。親王のむすめ祇子きしの女王は宇治うぢの関白のしつなり。よりて此大臣をば彼関白の子にし給て、藤子とうじにかはらず、春日社かすがのやしろにもまゐりつかうまつられけりとぞ。又やがて御堂の息女に相嫁あひかせられしかば、子孫もみなかの外孫なり。このゆゑに御堂・宇治をば遠祖とほつおやの如くに思へり。それよりこのかた和漢の稽古けいこをむねとし、報国の忠節をさきとするまことあるによりてや、此一流のみたえずして十余代におよべり。その中にも行跡かうせきうたがはしく、貞節おろそかなるたぐひは、おのづからおとろへてあとなきもあり。向後きやうこうふともつゝしみ思給べきこと也。大かた天皇の御ことをしるし奉るなかに、藤氏のおこりは所々に申侍ぬ。みなもとながれも久くなりぬる上に、正路をふむべき一はしを心ざしてしるし侍る也。君も村上の御流ひととほりにて十七代にならしめ給。臣も此御すゑの源氏こそ相つたはりたれば、たゞ此君の徳すぐれ給けるゆゑに余慶よきやうあるかとこそあふぎ申はべれ。

○第六十三代、冷泉院れいぜんゐん。諱は憲平のりひら、村上第二の子。御母中宮藤原安子やすこ、右大臣師輔もろすけの女也。丁卯ひのとうの年即位、戊辰つちのえたつに改元。この天皇邪気じやきおはしければ、即位の時大極殿だいごくでんいで給こともたやすかるまじかりけるにや、紫宸殿ししんでんにて其れいありき。に年ばかりして譲国。六十三歳おはしましき。此御門より天皇の号を申さず。又宇多うだより後、おくりなをたてまつらず。遺詔ゆゐぜうありて国忌こくき山陵さんりようをゝかれざることは君父くんふのかしこき道なれど、尊号をとゞめらるゝことは臣子の義にあらず。神武以来このかたの御号も皆後代のさだめなり。持統・元明より以来このかた避位或[は]出家の君も謚をたてまつる。天皇とのみこそ申めれ。中古の先賢の議なれども心をえぬことに侍なり。

○第六十四代、第三十五世、円融院ゑんゆうゐん。諱は守平もりひら、村上第五の子、冷泉同母の弟也。己巳つちのとみの年即位、庚午かのえうまに改元。天下を治給こと十五年。禅譲、尊号つねの如し。つぎの年の程にや御出家。永延えいえんの比、寛平のれいをおふて、東寺とうじにて潅頂くわんぢやうせさせ給。御師おんしはすなはち寛平の御孫弟子でし寛朝くわんでう僧正なり。三十三歳おましき。

○第六十五代、花山くわさん院。諱は師貞もろさだ、冷泉第一の子。御母皇后藤原懐子かねこ、摂政太政大臣伊尹これまさの女也。甲申きのえさるの年即位、乙酉きのととりに改元。天下を治給こと二年ありて、にはか発心ほつしんして花山寺くわざんじにて出家し給。弘徽殿こきでん女御にようご〈太政大臣為光ためみつの女也〉かくれて悲歎かなしみなげきましけるをりをえて、粟田関白道兼みちかねのおとゞのいまだ蔵人弁くらうどのべんときこえし比にや、そゝのかし申てけるとぞ。山々をめぐりて修行せさせましゝが、後には都にかへりてすませ給けり。是も御邪気ありとぞ申ける。四十一歳おましき。

○第六十六代、第三十六世、一条いちでう院。諱は懐仁かねひと、円融第一の子。御母皇后藤原詮子せんし〈後には東三条院と申。后宮こうぐう院号の始也〉、摂政太政大臣兼家かねいへの女なり。花山の御門みかど神器をすてゝ宮を出給しかば、太子の外祖にて兼家の右大臣おはせしが、うちにまゐり、諸門をかためて譲位の儀をおこなはれき。新主もをさなくまししかば、摂政の儀ふるきがごとし。丙戌ひのえいぬの年即位、丁亥ひのとゐに改元。そのゝち摂政病により嫡子ちやくし内大臣道隆みちたかゆづりて出家、猶准三宮じゆさんぐうせんかうぶる〈執政の人出家の始也。その比は出家の人なかりしかば、入道殿となん申。よりて源の満仲まんぢゆう出家したりしをはゞかりて新発しんぼちとぞ云ける〉。此道隆始て大臣をじし前官ぜんくわんにて関白せられき〈前官の摂政もこれを始とす〉やまひありて其子内大臣伊周これかたしばらく相かはりて内覧ないらんせられしが、相続して関白たるべきよしをぞんぜられけるに、道隆かくれて、やがて弟右大臣道兼なられぬ。七日と云しにあへなくうせられにき。其弟にて道長みちなが、大納言にておはせしが内覧の宣をかうぶりて左大臣までいたられしかど、延喜・天暦の昔をおぼしめしけるにや、関白はやめられにき。三条の御時にや、関白して、後一条の御世の初、外祖にて摂政せらる。兄弟おほくおはせしに、此大臣のながれひとつに摂政関白はし給ぞかし。昔もいかなるゆゑにか、昭宣公の三男にて貞信公、々々々の二男にて師輔の大臣のながれ、師輔の三男にて東三条のおとゞ、東三条の三男にて道綱みちつなの大将は一男歟。されど三弟にこされたり。よりて道長を三男としるす〉このおとゞ、みな父のたてたる嫡子ならで、自然じねんに家をつがれたり。祖神そじんのはからはせ給へる道にこそ侍りけめ〈いづれも兄にこえて家をつたへらるべきゆゑありと申ことのあれど、ことしげければしるさず〉。此御代にはさるべき上達部かんだちめ・諸道の家々・顕密の僧までもすぐれたる人おほかりき。されば御門みかども「われ人を得たることは延喜・天暦にまされり。」とぞみづからたんぜさせ給ける。天下を治給こと二十五年。御病のほどに譲位ありて出家せさせ給。三十三歳おましき。

○第六十七代、三条さんでう院。諱は居貞ゐやさだ、冷泉第二の子。御母皇太后藤原[の]超子てうし、これも摂政兼家の女也。花山院世をのがれ給しかば、太子に立給しが、御邪気のゆゑにや、をり御目のくらくおはしけるとぞ。辛亥かのとゐの年即位、壬子みづのえねに改元。天下を治給こと五年。尊号ありき。四十二歳おましき。

第六十八代、後一条ごいちでう院。諱は敦成あつひら、一条第二の子。御母皇后藤原彰子しやうし〈後に上東じやうとう門院と申〉、摂政道長の大臣の女也。丙辰ひのえたつの年即位、丁巳ひのとみに改元。外祖道長のおとゞ摂政せられしが、のちに摂政をば嫡子頼通よりみちの内大臣におはせしにゆづり、猶太政大臣にて、天皇御元服の日、加冠かくわん理髪父子りはつふしならびて勤仕きんしせられしこそめづらしく侍しか。冷泉・円融の両流かはるしらせ給ひしに、三条院かくれ給てのち、御子敦明あつあきらの御子、太子にゐ給しが、心とのがれて院号かうぶりて小一条院と申き。これより冷泉の御流はたえにけり。冷泉はこのかみにて御すゑも正統とこそ申べかりしに、昔天暦てんりやくの御時元方もとかたの民部卿のむすめ御息所みやすどころいちのみこ広平ひろひら親王をうみたてまつる。九条殿の女御にようごまゐり給て、第二の皇子〈冷泉にまします〉いでき玉ひし比より、悪霊あくりやうになりてこのみこも邪気になやまされましき。花山院のにはかに世をのがれ、三条院の御目のくらく、此東宮のかくみづからしりぞき給ぬるも怨霊をんりやうのゆゑなりとぞ。円融も一腹ひとつはらの御弟におはしませど、これまではなやまし申ささゝりけるもしかるべき継体の御運ましけるにこそ。東宮しりぞき給しかば、此天皇同母の御弟敦良あつながの親王立給き。天皇も御子なくて、かの東宮の御末ぞ継体せさせ給ぬる。天皇天下を治給こと二十年。二十九歳おましき。

○第六十九代、第三十七世、後朱雀ごすざく院。諱は敦良あつなが、後一条同母の弟也。丙子ひのえねの年即位、丁丑ひのとうしに改元。天皇賢明にましけるとぞ。されど其比執柄しつへい権をほしきまゝにせられしかば、御まつりことのあときこえず。無念むねんなることにや。長久ちやうきうころ内裏だいりありて、神鏡しんきやう焼給やけたまふ。猶霊光れいくわうげんじ給ければその灰をあつめて安置あんぢせられき。天下を治給こと九年。三十七歳おましき。

○第七十代、後冷泉ごれいぜん院。諱は親仁ちかひと、後朱雀第一の子。御母贈皇太后藤原嬉子きし〈本は尚侍ないしのかみ、摂政道長のおとゞ第三の女なり。乙酉きのととりの年即位、丙戌ひのえいぬ改元。此御代のすゑつかた、世の中やすからずきこえき。陸奥みちのおくにも貞任さだたふ宗任むねたふなど云し者、国をみだりければ、源頼義みなもとのよりよしおほせて追討せらる〈頼義陸奥守に任じ、鎮守府の将軍をけんす。彼家かのいへ鎮守将軍に任ずる始也。曾祖父経基つねもとは征東副将軍たりき〉。十二年ありてなむしづめ侍ける。此君御子ましまさざりし上、後朱雀の遺詔ゆゐぜうにて、後三条東宮にゐ給へりしかば、継体はかねてよりさだまりけるにこそ。天下を治給こと二十三年。四十四歳おましき。


巻五

○第七十一代、第三十八世、後三条ごさんでう院。諱は尊仁たかひと、後朱雀第二の子。御母中宮禎子内親王ていしないしんわう陽明やうめい門院と申〉、三条院の皇女也。後朱雀の御素意おんそいにて太弟にたち給き。又三条の御末をもうけ給へり。むかしもかゝるためし侍き。両流を内外ないぐわい欽明きんめい天皇の御母手白香たしらかの皇女、仁賢にんけん天皇の御女、仁徳にんとくの御後也〉うけ給て継体の主となりまします。戊申つちのえさるの年即位、己酉つちのととりに改元。此天皇東宮にてひさしくおはしましければ、しづかに和漢のふみ、顕密のをしへまでもくらからずしらせ給。詩哥しいかの御製もあまた人の口にはべるめり。後冷泉のすゑざま世の中あれて民間のうれへありき。四月うづきよりくらゐにゐ給しかば、いまだ秋のをさめにもおよばぬに、世の中のなほりにける、有徳うとくの君におましけるとぞ申伝はべる。始て記録所きろくしよなんど云所おかれて国のおとろへたることをなほされき。延喜・天暦よりこなたにはまことにかしこき御ことなりけんかし。天下を治給こと四年。太子にゆづりて尊号あり。後に出家せさせ給。此御時より執柄の権おさへられて、君の御みづからまつりことをしらせ給ことにかへり侍にし。されどそのころまでも譲国の後、院中にて政務せいむありとはみえず。四十歳おましき。

○第七十二代、第三十九世、白河しらかは院。諱は貞仁さだひと、後三条第一の子。御母贈皇太后藤原茂子もちこ、贈太政大臣能信よしのぶの女、まことは中納言公成きんなりの女也。壬子みづのえねの年即位、甲寅きのえとらに改元。いにしへのあとをおこされて行幸ぎやうかうなんどもあり。又白河に法勝寺ほつしようじたて九重くじゆう塔婆たふばなども昔の御願ごぐわん寺々てらでらにもこえ、ためしなきほどぞつくりとゝのへさせ給ける。このゝち代ごとにうちつゞき御願寺ごぐわんじを立られしを、造寺ざうじ熾盛しじやうのそしり有き。造作ざうさくのために諸国の重任ちようにんなんど云ことおほくなりて、受領ずりやう功課こうくわもたゞしからず、封戸ふこ庄園しやうゑんあまたよせおかれて、まことに国のつひえとこそ成侍なりはべりにしか。天下を治給こと十四年。太子にゆづりて尊号あり。世のまつりことをはじめて院中にてしらせ給。後に出家せさせ給ても猶そのまゝにて御一期おんいちごはすごさせましき。おりゐにて世をしらせ給こと昔はなかりしなり。孝謙脱屣だつしのちにぞ廃帝はいたいは位にゐ給ばかりとみえたれど、古代のことなればたしかならず。嵯峨・清和・宇多の天皇もたゞゆづりてのかせ給。円融ゑんゆうの御時はやうしらせ給こともありしにや。院の御前おんまへにて摂政兼家のおとゞうけ玉はりて、源の時中ときなか朝臣を参議になされたるとて、小野宮の実資さねすけの大臣などはかたぶけ申されけるとぞ。されば上皇ましませど、主上しゆじやうをさなくおはします時はひとへに執柄のまつりことなりき。宇治の大臣の世となりては三代の君の執政にて、五十余年権をもはらにせらる。先代には関白の後は如在じよさいれいにてありしに、あまりなる程になりにければにや、後三条院、坊の御時よりあしざまにおぼしめすよしきこえて、御なからひあしくてあやぶみおぼしめすほどのことになんありける。践祚の時すなはち関白をやめて宇治にこもられぬ。弟の二条の教通のりみちの大臣、関白せられしはことの外に其権もなくおはしき。まして此御代には院にてまつりことをきかせ給へば、執柄はたゞ職にそなはりたるばかりになりぬ。されどこれより又ふるきすがたは一変するにや侍けん。執柄世をおこなはれしかど、宣旨せんじ官符くわんぷにてこそ天下の事は施行しかうせられしに、此御時より院宣ゐんぜん庁御下文ちやうのおんくだしぶみをおもくせられしによりて在位の君又位にそなはり給へるばかりなり。世の末になれるすがたなるべきにや。又城南せいなん鳥羽とばと云所に離宮りきゆうをたて、土木どぼくおほきなるいとなみありき。昔はおりきみ朱雀すざく院にまします。これを後院ごゐんふ。又冷然院にも然字ぜんのじのことにはゞかりありて泉の字に改む〉おはしけるに、かの所々にはすませ給はず。白河よりのちには鳥羽殿とばどのをもちて上皇御坐ござ本所ほんじよとはさだめられにけり。御子堀河のみかど・御孫鳥羽の御門・御ひこ崇徳すとくの御在位まで五十余年〈在位にて十四年、院中にて四十三年〉世をしらせ給しかば、院中ゐんちゆうれいなんど云こともこれよりぞさだまりける。すべて御心のまゝに久くたもたせ給し御代也。七十七歳おましき。

○第七十三代、第四十世、堀河ほりかは院。諱は善仁たるひと、白河第二の子。御母中宮賢子けんし、右大臣源顕房みなもとのあきふさの女、関白師実もろさねのおとゞの猶子いうし也。丙寅ひのえとらの年即位、丁卯ひのとうに改元。このみかど和漢の才ましけり。ことに管絃くわんげん郢曲えいきよく舞楽ぶがくかたあきらかにまします。神楽かぐらきよくなどは今の世まで地下ぢげにつたへたるもこの御説ごせつ也。天下を治給こと二十一年。二十九歳おましき。

○第七十四代、第四十一世、鳥羽とば院。諱は宗仁むねひと堀川ほりかは第一の子。御母贈皇太后藤原茨子じし、贈太政大臣実季さねすゑの女也。丁亥ひのとゐの年即位、戊子つちのえねに改元。天下を治給こと十六年。太子にゆづりて尊号あり。白河代をしらせ給しかば、新院とて所々の御幸ごかうにもおなじ御車にてありき。雪見の御幸ごかうの日御烏帽子直衣えぼしなほしにふかぐつをめし、御馬にて本院の御車のさきにましける、世にめづらかなる事なればこぞりてみ奉りき。昔弘仁こうにんの上皇、嵯峨の院にうつらせ給し日にや、御馬にてみやこよりいでさせまして宮城のうちをもとほらせ給へりと云ことのみえはべりし、かやうのためしにや有けん。御容儀めでたくましければ、きらをもこのませ給けるにや、装束しやうぞくのこはくなり烏帽子のひたひなんど云ことも其比より出来いできにき。花園の有仁ありひとのおとど又容儀ある人にて、おほせあはせて上下おなじ風になりにけるとぞ申める。白河院かくれ給て後、まつりことをしらせ給。御孫ながら御子の儀なれば、重服ぢゆうぶくをきさせ給けり。これも院中にて二十余年、そのあひだに御出家ありしかど、猶世をしらせ給き。されば院中のふるきためしには白河・鳥羽の二代を申はべる也。五十四歳おましき。

○第七十五代、崇徳すとく院。諱は顕仁あきひと、鳥羽第二の子。御母中宮藤原璋子しやうし待賢たいけん門院と申〉、入道大納言公実きんさねの女也。癸卯みづのとうの年即位、甲辰きのえたつに改元。戊申つちのえさるの年、そうの欽宗皇帝靖康せいかう三年にあたる。宋のまつりことみだれしより北てききんおこりて上皇ならびに欽宗をとりて北にかへりぬ。皇弟高宗江をわたりてかう州と云所に都をたてゝ行在所あんざいしよとす。南渡なんとと云はこれ也。此天皇天下を治給こと十八年。上皇と御中らひ心よからでしりぞかせ給き。保元ほうげんに、事ありて御出家ありしが、讚岐さぬきの国にうつされ給。四十六歳おましき。

○第七十六代、近衛このゑ院。諱はなり仁、鳥羽第八の子。御母皇后藤原得子とくし美福びふく門院と申〉、贈左大臣長実ながさねの女也。辛酉かのととりの年即位、壬戌みづのえいぬに改元。天下を治給こと十四年。十七歳にて世をはやくしましき。

第七十七代、第四十二世、後白河ごしらかは院。諱は雅仁まさひと、鳥羽第四[の]子。崇徳同母の御弟也。近衛は鳥羽の上皇鍾愛しようあいの御子也しに、早世しましぬ。崇徳の御子重仁しげひと親王つかせ給べかりしに、もとより御中おんなか心よからでやみぬ。上皇おぼしめしわづらひけれど、この御門みかどたゝせ給。立太子もなくてすぐにゐさせ給。今は此御末のみこそ継体し給へばしかるべき天命とぞおぼえ侍る。乙亥きのとゐの年即位、丙子ひのえねに改元。年号を保元とふ。鳥羽晏駕あんがありしかば天下をしらせ給。左大臣頼長よりながときこえしは知足院ちそくゐん入道関白忠実たださねの次郎也。法性寺ほふしやうじ関白忠通ただみちのおとゞ此大臣の兄にて和漢の才たかくて、ひさしく執柄しつへいにてつかへられき。この大臣も漢才はたかくきこえしかど、本性ほんしやうあしくおはしけるとぞ。父の愛子あいしにてよこざまにまをしうけられければ、関白をゝきながら藤氏とうじ長者ちやうじやになり、内覧の宣旨をかうぶる。長者の他人にわたること、摂政関白はじまりては其ためしなし。内覧は昔醍醐の御代のはじめつかた、本院の大臣と菅家とまつりことをたすけられし時、あひならびて其号ありきと申めれども、本院も関白にはあらず、其ためしたがふにや。兄のおとゞは本性ほんしやうおだやかにおはしければ、おもひいれぬさまにてぞすごされける。近衛の御門かくれ給しころより内覧をやめられたりしにうらみをふくみ、大方おほかた天下をわがまゝにとはかられけるにや、崇徳の上皇を申すゝめて世をみだらる。父の法皇晏駕のゝち七け日ばかりやありけん。忠孝の道かけにけるよと見えたり。法皇もかねてさとらしめ給けるにや、平清盛たひらのきよもり源義朝みなもとのよしとも等にめし仰て、内裏をまぼり奉るべきよし勅命ちよくめいありきとぞ。上皇鳥羽よりいで給て白河の大炊殿おほひどのと云所にて、すでに兵をあつめられければ、清盛・義朝等にみことのりして上皇の宮をせめらる。官軍かつにのりしかば、上皇は西山にしやまかたにのがれ、左大臣は流矢ながれやにあたりて、奈良坂辺ならざかのほとりまでおちゆかれけるが、つひに客死かくしせられぬ。上皇御出家ありしかど猶讚岐にうつされ給。大臣だいじんの子ども国々へつかはさる。武士どもゝ多くちゆうにふしぬ。その中に源為義みなもとのためよしときこえしは義朝が父也。いかなる御志かありけん、上皇の御方にて義朝と各別かくべつになりぬ。子共こどもは父にぞくしけるにこそ。いくさやぶれて為義も出家したりしを、義朝あづかりて誅せしこそためしなきことに侍れ。嵯峨の御代に奈良坂のたゝかひありし後は、都に兵革ひやうがくと云ことなかりしに、これよりみだれそめぬるも時運じうんのくだりぬるすがたとぞおぼえはべる。此君の御乳母めのとをつとにて少納言通憲みちのり法師と云しは、藤家の儒門じゆもんより出たり。宏才博覧くわうさいはくらんの人なりき。されど時にあはずして出家したりしに、此御世にいみじくもちゐられて、内々ないないには天下の事さながらはからひ申けり。大内だいだいは白河の御代よりひさしく荒廃して、里内りだいにのみまししを、はかりことをめぐらし、国のつひえもなくつくりたてゝ、たえたる公事くじどもを申おこなひき。すべて京中の道路などもはらひきよめて昔にかへりたるすがたにぞありし。天下を治給こと三年。太子にゆづりて、れいのごとく尊号ありて、院中にて天下をしらせ給こと三十余年。そのあひだに御出家ありしかど政務はかはらず。白河・鳥羽両代のごとし。されどうちつゞき乱世にあはせ給しこそあさましけれ。五代の帝の父祖ふそにて、六十六歳おましき。

○第七十八代、二条にでう院。諱は守仁もりひと、後白河の太子。御母贈皇太后藤原懿子いし、贈太政大臣経実つねさねの女也。戊寅つちのえとらの年即位、己卯つちのとうに改元。年号を平治へいぢふ。右衛門督藤原信頼のぶよりと云人あり。上皇いみじくちようせさせ給て天下のことをさへまかせらるゝまでなりにければ、おごりの心きざして近衛[の]大将をのぞみまをししを通憲法師いさめ申てやみぬ。其時みなもとの義朝々臣が清盛朝臣におさへられてうらみをふくめりけるをあひかたらひて叛逆ほんぎやくおもひくはたてけり。保元の乱には、義朝が功たかく侍けれど、清盛は通憲法師が縁者えんじやになりてことのほかにめしつかはる。通憲法師・清盛等をうしなひて世をほしきまゝにせむとぞはからひける。清盛熊野くまのにまうでけるひまをうかゞひて、まづ上皇御坐ござの三条殿と云所をやきて大内だいだいにうつしまをし、主上をもかたはらにおしこめたてまつる。通憲法師のがれがたくやありけん、みづからうせぬ。其子どもやがて国々へながしつかはす。通憲も才学あり、心もさかしかりけれど、おのが非をしり、未萌みばうわざはひをふせぐまでの智分ちぶんやかけたりけん。信頼が非をばいさめまをしけれど、わが子共は顕職顕官けんしよくけんくわんにのぼり、近衛の次将なんどにさへなし、参議已上いじやうにあがるもありき。かくてうせにしかば、これも天意にたがふ所ありと云ことは疑なし。清盛このことをきゝ、道よりのぼりぬ。信頼かたらひおきける近臣等の中に心がはりする人々ありて、主上・上皇をしのびていだしたてまつり、清盛が家にうつしまをしてけり。すなはち信頼・義朝等を追討せらる。程なくうちかちぬ。信頼はとらはれてかうべをきらる。義朝は東国へ心ざしてのがれしかど、尾張国にてうたれぬ。その首をけうせられにき。義朝重代のつはものたりしうへ、保元の勲功すてられがたくはべりしに、父のかうべをきらせたりしことおほきなるとが也。古今にもきかず、和漢にもためしなし。勲功に申替まをしかふともみづから退しりぞくとも、などか父をまをしたすくる道なかるべき。名行めいかうかけはてにければ、いかでかつひに其身をまたくすべき。めつすることは天のことわり也。およそかゝることは其身のとがはさることにて、朝家てうかの御あやまり也。よくあんあるべかりけることにこそ。其比そのころ名臣もあまた有しにや、又通憲法師もはら申おこなひしに、などか諌申いさめまをさざりける。大義滅親云ことのあるは、石碏せきしやくと云人其子をころしたりしがこと也。父として不忠の子をころすはことわりなり。父不忠なりとも子としてころせと云道理なし。孟子にたとへを取ていへるに、「舜の天子たりし時、其父瞽叟こそう人をころすことあらんを時の大理なりし皐陶かうえうとらへたらば舜はいかゞし給べきといひけるを、舜は位をすてゝ父をおひてさらまし。」とあり。大賢のをしへなれば忠孝の道あらはれておもしろくはべり。保元・平治より以来このかた、天下みだれて、武用ぶようさかりに王位かろく成ぬ。いまだ太平の世にかへらざるは、名行のやぶれそめしによれることゝぞみえたる。かくてしばししづまれりしに、主上・上皇御中あしくて、主上の外舅ははかたのをぢ大納言経宗つねむね〈後にめしかへされて、大臣大将までなりき〉・御めのとの子別当惟方これかた等上皇の御意にそむきければ、清盛朝臣におほせてめしとらへられ、配所はいしよにつかはさる。これより清盛天下の権をほしきまゝにして、程なく太政大臣にあがり、其子大臣大将になり、あまさへ兄弟左右の大将にてならべりき〈この御門の御世のことならぬもあり。ついでにしるしのす。〉天下の諸国はなかばすぐるまで家領けりやうとなし、官位は多く一門家僕かぼくにふさげたり。王家わうかの権さらになきがごとくになりぬ。此天皇天下を治給こと七年。二十三歳おましき。

○第七十九代、六条ろくでう院。諱は順仁のぶひと、二条の太子。御母大蔵少輔おほくらのせう伊岐兼盛いきのかねもりが女也〈そのしないやしくて、贈位までもなかりしにや。〉乙酉きのととりの年即位、丙戌ひのえいぬに改元。天下を治給こと三年。上皇世をしらせ給しが、二条の御門の御ことにより心よからぬ御ことなりしゆゑにや、いつしか譲国の事ありき。御元服などもなくて、十三歳にて世をはやくしましき。

○第八十代、第四十三世、高倉たかくら院。諱は憲仁のりひと、後白河第五の御子。御母皇后平滋子しげこ建春けんしゆん門院と申〉、贈左大臣時信ときのぶの女也。戊子つちのえねの年即位、己丑つちのとうしに改元。上皇天下をしらせ給こともとのごとし。清盛権をもはらにせしことは、ことさらに此御代のこと也。其むすめ徳子とくし入内じゆだいして女御にようごとす。すなはち立后りつこうありき。末つかたやう所々に反乱ほんらんのきこえあり。清盛一家非分のわざ天意にそむきけるにこそ。嫡子ちやくし内大臣重盛しげもりは心ばへさかしくて、父の悪行あくぎやうなどもいさめとゞめけるさへ世をはやくしぬ。いよおごりをきはめ、権をほしきまゝにす。時の執柄にて菩提院ぼだいゐんの関白基房もとふさの大臣おはせしも、中らひよろしからぬことありて、太宰権帥だざいのごんのそつにうつして配流はいるせらる。妙音めうおん院の師長もろながのおとゞも京中をいださる。そのほかにつみせらるゝ人おほかりき。従三位源頼政よりまさと云しもの、院の御子似仁もちひとの王とて元服ばかりし給しかど、親王のせんなどだになくて、かたはらなる宮おはせしをすゝめ申て、国々にある源氏の武士等にあひふれて平氏をうしなはんとはかりけり。ことあらはれて皇子もうしなはれ給ぬ。頼政もほろびぬ。かゝれど、それよりみだれそめてけり。義朝々臣が子頼朝よりとも前右兵衛佐さきのうひやうゑのすけ従五位下、平治の比六位の蔵人くらうどたりしが、信頼ことをおこしける時任官すとぞ〉平治の乱に死罪をまをしなだむる人ありて、伊豆いづの国に配流せられて、おほくの年をおくりしが、以仁の王の密旨みつしをうけたまはり、院よりもしのびて仰つかはす道ありければ、東国をすゝめて義兵ぎへいをおこしぬ。清盛いよ悪行をのみなしければ、主上ふかくなげかせ給。にはか避位ひゐのことありしも世をいとはせましけるゆゑとぞ。天下を治給こと十二年。世の中の御いのりにや、平家のとりわきあがめまをす神なりければ、安芸あき厳嶋いつくしまになむまゐらせ給ける。此御門御心ばへもめでたく孝行の御志ふかゝりき。管絃くわんげんのかたもすぐれておはしましけり。尊号ありてほどなく世をはやくし給。二十一歳おましき。

○第八十一代、安徳あんとく天皇。諱は言仁ときひと、高倉第一の子。御母中宮平徳子とくし建礼けんれい門院と申〉、太政大臣清盛女きよもりのむすめ他。庚子かのえねの年即位、辛丑かのとうしに改元。法皇猶世をしらせ給。平氏はいよおごりをなし、諸国はすでにみだれぬ。都をさへうつすべしとて摂津国つのくに福原とて清盛すむ所のありしに行幸せさせ申ける。法皇・上皇もおなじくうつしたてまつる。人の恨おほくきこえければにやかへし奉る。いくほどなく、清盛かくれて次男宗盛むねもり其あとをつぎぬ。世のみだれをもかへりみず、内大臣に任ず。天性父にも兄にもおよばざりけるにや、威望もいつしかおとろへ、東国の軍すでにこはく成て、平氏の軍所々にて利をうしなひけるとぞ。法皇しのびて比叡山にのぼらせ給。平氏力をおとし、主上をすゝめまをし西海さいかい没落ぼつらくす。中みとせばかりありて、平氏ことく滅亡。清盛が後室こうしつ従二位平時子ときこと云し人此君をいだき奉りて、神璽しんしをふところにし、宝剣をこしにさしはさみ、海中にいりぬ。あさましかりし乱世なり。天下を治給こと三年。八歳おましき。遺詔ゆゐぜう等のさたなければ、天皇と称しまをすなり。

○第八十二代、第四十四世、後鳥羽ごとば院。諱は尊成たかひら、高倉第四の子。御母七条[の]院、藤原殖子しよくし〈先代の母儀ぼぎおほくは后宮こうぐうならぬは贈后ぞうこう也。院号ありしはみなまづ立后のゝちのさだめ也。この七条院立后なくて院号の初なり。ただしまづ准后じゆごうみことのりあり〉、入道修理大夫しゆりのだいぶ信隆のぶたかの女也。先帝せんだい西海に臨幸ありしかど、祖父法皇の御世なりしかば、都はかはらず。摂政基通もとみちのおとゞぞ、平氏のえんにて供奉ぐぶせられしかど、いさめまをすともがらありけるにや、九条の大路辺おほぢのほとりよりとゞまられぬ。そのほか平氏の親族ならぬ人々は御供つかまつる人なかりけり。還幸あるべきよし院宣ゐんぜんありけれど、平氏承引しよういんまをさず。よりて太上法皇のみことのりにて此天皇たゝせ給ぬ。親王の宣旨せんじまでもなし。まづ皇太子とし、すなはち受禅じゆぜんの儀あり。翌年つぎのとし甲辰きのえたつにあたる年四月うづきに改元、七月ふみづきに即位。此同胞どうはうに高倉の第三の御子まししかども、法皇此君をえらび定申さだめまをし給けるとぞ。先帝せんだい三種の神器をあひぐせさせ給しゆゑに践祚せんそはじめ違例ゐれいはべりしかど、法皇くにの本主にて正統の位をつたへまします。皇太神宮・熱田の神あきらかにまぼり給ことなれば、天位つゝがましまさず。平氏ほろびて後、内侍所ないしどころ神璽しんしはかへりいらせ給。宝剣はつひに海にしづみてみえず。其比ほひは御坐ござ御剣ぎよけんを宝剣にせられたりしが、神宮の御つげにて神剣をたてまつらせ給しによりて近比までの御まぼりなりき。

三種の神器の事は所々に申侍まをしはべりしかども、まづ内侍所は神鏡也。八咫の鏡と申。正体は皇太神宮にいはひ奉る。内侍所にましますは崇神天皇の御代に鋳かへられたりし御鏡なり。村上の御時、天徳てんとく年中に火事にあひ給。それまでは円かけましまさず。後朱雀の御時、長久ちやうきう年中にかさねて火ありしに、灰燼くわいじんの中より光をさゝせ給けるを、をさめてあがめ奉られける。されど正体はつゝがなくて万代ばんだいの宗廟にまします。宝剣も正体はあめ叢雲むらくもの剣〈後には草薙くさなぎと云〉と申は、熱田の神宮にいはひ奉る。西海にしづみしは崇神の御代におなじくつくりかへられし剣也。うせぬることは末世のしるしにやとうらめしけれど、熱田の神あらたなる御こと也。昔新羅しらぎの国より道行だうぎやうと云法師、きたりてぬすみたてまつりしかど、神変じんべんをあらはして我国をいでたまはず。彼両種は正体昔にかはりましまさず。代々の天皇のとほき御まぼりとして国土のあまねき光となり給へり。うせにし宝剣はもとより如在じよさいのことゝぞ申侍べき。神璽しんしは八坂瓊の曲玉と申す。神代より今にかはらず、代々の御身をはなれぬ御まぼりなれば、海中よりうかび出給へるもことわり也。三種の御ことはよく心え奉るべきなり。なべて物しらぬたぐひは、上古の神鏡は天徳・長久のわざはひにあひ、草薙の宝剣は海にしづみにけりと申伝まをしつたふること侍にや。返々かへすがへすひがこと也。此国は三種の正体をもちて眼目がんもくとし、福田ふくでんとするなれば、日月の天をめぐらん程はひとつもかけ給まじき也。天照太神のみことのりに「宝祚のさかえまさんことあめつちときはまりなかるべし。」と侍れば、いかでかうたがひ奉るべき。今よりゆくさきもいとたのもしくこそおもひたまふれ。

平氏いまだ西海にありしほど、みなもと義仲と云物、まづ京都にいり兵威へいゐをもて世の中のことをおさへおこなひける。征夷将軍に任ず。此官は昔坂上の田村丸までは東夷征伐のために任ぜられき。其後将門まさかどがみだれに右衛門督忠文ただふん朝臣征東将軍をかね節刀せつたうたまはりしよりこのかた久くたえて任ぜられず。義仲ぞ初てなりにける。あまりなることおほくて、上皇御いきどほりのゆゑにや、近臣の中にいくさをおこし対治せんとせしに事不成ならずして中々あさましき事なんいできにし。東国の頼朝、弟範頼のりより義経よしつね等をさしのぼせしかば、義仲はやがて滅ぬ。さてそれより西国へむかひて、平氏をばたひらげしなり。天命きはまりぬれば、巨猾きよくわつもほろびやすし。人民のやすからぬことは時の災難なれば、神も力およばせ給はぬにや。かくて平氏滅亡してしかば、天下もとのごとく君の御まゝなるべきかとおぼえしに、頼朝勲功まことにためしなかりければ、みづからも権をほしきまゝにす。君も又うちまかせられにければ、王家の権はいよおとろへにき。諸国に守護をゝきて、国司の威をおさへしかば、吏務りむと云こと名ばかりに成ぬ。あらゆる庄園郷保しやうゑんがうほう地頭ぢとうを補せしかば、本所はなきがごとくになれりき。頼朝は従五位下前右兵衛佐さきのうひやうゑのすけなりしが、義仲追討の賞に越階をつかいして正四位下に叙し、平氏追討の賞に又越階、従二位に叙す。建久けんきうの初にはじめて京上きやうのぼりして、やがて一度に権大納言に任ず。又右近の大将を兼す。頼朝しきりにじし申けれど、叡慮によりて朝奨てうしやうありとぞ。程なく辞退してもとの鎌倉のたちになんくだりし。其後征夷大将軍に拝任す。それより天下のこと東方のまゝに成にき。平氏のみだれに南都の東大寺・興福寺やけにしを、東大寺をば俊乗しゆんじようと云上人すゝめたてければ、公家にも委任せられ、頼朝もふかく随喜ずゐきしてほどなく再興す。供養くやうの儀ふるきあとをたづねておこなはれける、ありがたきことにや。頼朝もかさねて京上しけり。かつは結縁けちえんのため、かつは警固のためなりき。法皇かくれさせ給て、主上世をしらせ給。すべて天下を治給こと十五年ありしかば、太子にゆづりて尊号れいのごとし。院中にて又二十余年しらせ給しが、承久じようきうに、ことありて御出家、隠岐おきの国にてかくれ給ぬ。六十一歳おましき。

○第八十三代、第四十五世、土御門つちみかど院。諱は為仁ためひと、後鳥羽の太子。御母承明門院じようめいもんゐん源在子みなもとのありこ、内大臣通親みちちかむすめ也。父の御門のためしにて親王の宣旨なし。立太子の儀ばかりにてすなはち践祚あり。戊午つちのえうまの年即位、己未つちのとひつじに改元。天下を治給こと十二年。太弟たいていにゆづりて尊号例の如し。此御門まさしき正嫡しやうちやくにて御心ばへもたゞしくきこえ給しに、上皇鍾愛しようあいにうつされましけるにや、ほどなく譲国あり。立太子までもあらぬさまに成にき。承久の乱に時のいたらぬことをしらせ給ければにや、さまいさめましけれども、ことやぶれにしかば、玉石ぎよくせきともにこがれて、阿波あはの国にてかくれさせ給。三十七歳おましき。

○第八十四代、順徳じゆんとく院。諱は守成もりなり、後鳥羽第三の子。御母修明門院しうめいもんゐん、藤原の重子しげこ、贈左大臣範季のりすゑの女也。庚午かのえうまの年即位、辛未かのとひつじに改元。此御時征夷大将軍頼朝[の]次郎実朝さねとも、右大臣左大将までなりにしが、兄左衛門督さゑもんのかみ頼家よりいへが子に、公暁くげうと云ける法師にころされぬ。又継人つぐひとなくて頼朝が跡はながくたえにき。頼朝が後室こうしつに従二位平政子たひらのまさことて、時政ときまさと云ものゝ女也し、東国のことをばおこなひき。其おとうと義時兵権をとりしが、上皇の御子をくだし申て、あふぎ奉るべきよし奏しけれど、不許にや有けん、九条摂政道家みちいへのおとゞは頼朝の時より外戚ぐわいせきにつゞきてよしみおはしければ、其子をくだして扶持し申ける。大方のことは義時がまゝになりにき。天下を治給こと十一年。譲国ありしが、事みだれて、佐渡さどの国にうつされ給。四十六歳おましき。

〔裏書[に]云実朝前右大将征夷大将軍頼朝卿二男也。建久十年正月頼朝薨。嫡男頼家可奉行諸国守護事由被宣下于時ときに左近中将、正五位下〉。建仁二年七月任征夷大将軍。同三年受病〈狂病〉。遷伊豆国修禅寺翌年遭害。頼家受病之後、為に母幷義時等沙汰似実朝令継之。叙従五位下即日任征夷大将軍。次第昇進。不能具記。建保六年十二月二日任右大臣〈元内大臣、左大将。大将猶帯之〉。同七年〈四月改元承久元〉正月二十七日為拝賀参鶴岡八幡宮。実朝始中終遂不京上。有其煩故也云々。仍以参宮擬拝賀与。而神拝畢退出之処、彼宮別当公暁設刺客殺之〈年二十八云々〉。今日扈従人々、公卿権大納言忠信、坊門左衛門督実氏、西園寺宰相中将国通、高倉平三位光盛、池刑部卿宗長、難波殿上人権亮中将信能朝臣[同被殺云々]、文章博士仲章朝臣、右馬権頭能茂朝臣、因幡少将高経、伊与少将実種、伯耆前司師孝、右兵衛佐頼経、地下前駈右京権大夫義時、修理大夫雅義、甲斐右馬助宗泰、武蔵守泰時、筑後前司頼時、駿河左馬助教利、蔵人大夫重綱、藤蔵人大夫有俊、長井遠江前司親広、相模守時房、足利武蔵前司義氏、丹波蔵人大夫忠国、前右馬助行光、伯耆前司包時、駿河前司季時、信濃蔵人大夫行国、相模前司経定、美作蔵人大夫公近、藤勾当頼隆、平勾当時盛、随身府生秦兼峯、番長下毛野篤秀、近衛秦公氏、同兼村、播磨定文、中臣近任、下毛野為光、同為氏、随兵十人武田五郎信光、加々見次郎長清、式部大夫、河越次郎、城介景盛、泉次郎左衛門尉頼定、長江八郎師景、三浦小太郎兵衛尉朝村、加藤大夫判官元定、隠岐次郎左衛門尉基行、〕

○廃帝。諱は懐成かねなり、順徳の太子。御母東一条院、藤原充子みつこ、故摂政太政大臣良経女よしつねのむすめ也。承久三年春の比より上皇おぼしめしたつことありければ、にはかに譲国したまふ。順徳御身をかろめて合戦の事をもひとつ御心にせさせ給はん御はかりことにや、新主に譲位ありしかど、即位登壇とうだんまでもなくて軍やぶれしかば、外舅ははかたのをぢ摂政道家の大臣の九条のていへのがれさせ給。三種さんじゆの神器をば閑院の内裏にすておかれにき。譲位の後七十七け日のあひだ、しばらく神器を伝給しかども、日嗣にはくはへたてまつらず。いゝ豊の天皇のためしになぞらへ申べきにこそ。元服などもなくて十七歳にてかくれまします。

さても其世のみだれおもふに、まことに末の世にはまよふ心もありぬべく、又しもかみをしのぐはしともなりぬべし。其いはれをよくわきまへらるべき事にはべり。頼朝勲功は昔よりたぐひなき程なれど、ひとへに天下をたなごころにせしかば、君としてやすからずおぼしめしけるもことわりなり。いはんや其跡たえて後室の尼公にこう陪臣ばいしんの義時が世になりぬれば、彼跡をけづりて御心のまゝにせらるべしと云も一往いちわういひなきにあらず。しかれど白河・鳥羽の御代の比より政道せいだうのふるきすがたやうおとろへ、後白河の御時兵革ひやうがくおこりて姦臣かんしん世をみだる。天下の民ほとんど塗炭とたんにおちにき。頼朝一臂いちびをふるひて其みだれをたひらげたり。王室はふるきにかへるまでなかりしかど、九重ここのへちりもをさまり、万民の肩もやすまりぬ。上下をやすくし、東より西より其徳に伏せしかば、実朝なくなりてもそむく者ありとはきこえず。是にまさる程の徳政なくしていかでたやすくくつがへさるべき。たとひ又うしなはれぬべくとも、民やすかるまじくは、上天よもくみし給はじ。次に王者わうしやいくさと云は、とがあるを討じて、きずなきをばほろぼさず。頼朝高官にのぼり、守護の職をたまはる、これみな法皇の勅裁ちよくさい也。わたくしにぬすめりとはさだめがたし。後室その跡をはからひ、義時久く彼が権をとりて、人望にそむかざりしかば、しもにはいまだきず有といふべからず。一往のいはればかりにて追討せられんは、上の御とがとや申べき。謀叛むほんおこしたる朝敵の利を得たるには比量ひりやうせられがたし。かゝれば時のいたらず、天のゆるさぬことはうたがひなし。ただししもかみこくするはきはめたる非道なり。つひにはなどか皇化に不順まつろはざるべき。まづまことの徳政をおこなはれ、朝威をたて、彼を剋するばかりの道ありて、その上のことゝぞおぼえはべる。且は世の治乱のすがたをよくかゞみしらせ給て、わたくしの御心なくば干戈かんくわをうごかさるゝ、弓矢をおさめらるゝ歟、天の命にまかせ、人ののぞみにしたがはせ給べかりしことにや。つひにしては、継体の道も正路しやうろにかへり、御子孫の世に一統の聖運をひらかれぬれば、御本意のすゑ達せぬにはあらざれど、一旦いつたんもしづませ給しこそ口惜くちをしくはべれ。第八十五代、後堀河ごほりかは院。諱は茂仁ゆたひと、二品守貞もりさだ親王のちの高倉院と申〉第三の子。御母北白河院、藤原陳子ちんし、入道中納言基家もといへの女なり。入道親王は高倉第三の御子、後鳥羽同胞どうはうの御兄、後白河の御えらびにもれ給し御こと也。承久にことありて、後鳥羽の御ながれのほか、この御子ならでは皇胤くわういんましまさず。よりて此孫王そんわうを天位につけたてまつる。入道親王尊号ありて太上皇と申て、世をしらせ給。追号の例は文武の御父草壁くさかべの太子を長岡ながをかの天皇と申、淡路のみかどの御父舎人とねりの親王を尽敬じんきやう天皇と申、光仁の御父施基しきの王子を、田原天皇と申。早良さはらの廃太子は怨霊をんりやうをやすめられんとて崇道すだう天皇の号をおくらる。院号ありしことは小一条院ぞましける。此天皇辛巳かのとみの年即位、壬午みづのえうまに改元。天下を治給こと十一年。太子に譲て尊号例のごとし。しばらくまつりことをしらせ給しが、二十一歳にて世をはやくしおましき。

○第八十六代、四条しでう院。諱は秀仁みつひと、後堀河の太子。御母藻壁門院さうへきもんゐん、藤原の竴子そんし、摂政左大臣道家女みちいへのむすめ也。壬辰みづのえたつの年即位、癸巳みづのとみに改元、例のごとし。一とせばかり有て、上皇かくれ給しかば、外祖にて道家のおとゞ王室の権をとりて、昔の執政のごとくにぞありし。東国にあふぎし征夷大将軍頼経よりつねも此大臣の胤子いんしなれば、文武ひとつにて権勢おはしけるとぞ。天下を治給こと十年。にはかに世をはやくし給。十二歳おましき。

○第八十七代、第四十六世、後嵯峨ごさが院。諱は邦仁くにひと、土御門院第二の御子。御母贈皇太后源通子みちこ、贈左大臣通宗みちむねの女、内大臣通親みちちか孫女まごむすめなり。承久のみだれありし時、二歳にならせ給けり。通親の大臣の四男、大納言通方みちかたは父の院にも御傍親ばうしん、贈皇后にも御ゆかりなりしかば、収養しうやうし申てかくしおきたてまつりき。十八の御年にや、大納言さへ世をはやくせしかば、いとゞ無頼ぶらいになり給て、御祖母承明門院じようめいもんゐんになむうつろひましける。二十二歳の御年、春正月十日四条院にはか晏駕あんが、皇胤もなし。連枝のみこもましまさず。順徳院ぞいまだ佐渡におはしましけるが、御子達もあまた都にとゞまり給し、入道摂政道家のおとゞ、彼御方の外家ぐわいけにおはせしかば、此御ながれを天位につけ奉り、もとのまゝに世をしらんとおもはれけるにや、そのおもぶきを仰つかはしけれど、鎌倉の義時が子、泰時やすときはからひ申てこの君をすゑ奉りぬ。誠に天命也、正理也。土御門院御兄にて御心ばへもおだしく、孝行もふかくきこえさせ給しかば、天照太神の冥慮みやうりよかはりてはからひ申けるもことわり也。大方おほかた泰時心たゞしくまつりことすなほにして、人をはぐゝみ物におごらず、公家くげの御ことをおもくし、本所ほんじよのわづらひをとゞめしかば、風の前に塵なくして、天の下すなはちしづまりき。かくて年代をかさねしこと、ひとへに泰時が力とぞ申伝ぬる。陪臣ばいしんとして久しく権をとることは和漢両朝に先例なし。其しゆたりし頼朝すら二世をばすぎず。義時いかなる果報にか、はからざる家業をはじめて、兵馬の権をとれりし、ためしまれなることにや。されどことなる才徳はきこえず。又大名たいめいの下にほこる心や有けん、中二とせばかりぞありし、身まかりしかど、彼泰時あひつぎて徳政をさきとし、法式をかたくす。おのれが分をはかるのみならず、親族ならびにあらゆる武士までもいましめて、たかき官位をのぞむ者なかりき。其まつりこと次第のままにおとろへ、つひに滅ぬるは天命のをはるすがたなり。七代までたもてるこそ彼が余薫よくんなれば、うらむるところなしと云つべし。およそ保元・平治よりこのかたのみだりがはしさに、頼朝と云人もなく、泰時と云者なからましかば、日本国の人民いかゞなりなまし。此いはれをよくしらぬ人は、ゆゑもなく、皇威のおとろへ、武備のかちにけるとおもへるはあやまりなり。所々に申はべることなれど、天日嗣あまつひつぎは御ゆづりにまかせ、正統にかへらせ給にとりて、用意あるべきことの侍也。神は人をやすくするを本誓ほんぜいとす。天下の万民は皆神物じんもつなり。君は尊くましませど、一人いちにんをたのしましめ万民をくるしむる事は、天もゆるさず神もさいはひせぬいはれなれば、まつりことの可否にしたがひて御運の通塞とうそくあるべしとぞおぼえ侍る。まして人臣としては、君をたふとび民をあはれみ、天にせくゝまり地にぬきあしゝ、日月ひつきのてらすをあふぎても心のきたなくして光にあたらざらんことをおぢ、雨露あめつゆのほどこすをみても身のただしからずしてめぐみにもれんことをかへりみるべし。朝夕あさゆふ長田狭田ながたさたの稲のたねをくふも皇恩也。昼夜ちうやいくさく井の水のながれをのむも神徳也。これをおもひもいれず、あるにまかせて欲をほしきまゝにし、わたくしをさきとしておほやけをわするゝ心あるならば、世にひさしきことわりもはべらじ。いはんや国柄こくへいをとるじんにあたり、兵権をあづかる人として、正路しやうろをふまざらんにおきて、いかで其運をまたくすべき。泰時が昔をおもふには、よくまことあるところありけむかし。子孫はさ程の心あらじなれど、かたくしける法のまゝにおこなひければ、およばずながら世をもかさねしにこそ。異朝のことは乱逆らんげきにしてのりなきためしおほければ、ためしとするにたらず。我国は神明の誓いちじるくして、上下の分さだまれり。しかも善悪のむくいあきらかに、困果のことわりむなしからず。かつはとほからぬことゞもなれば、近代の得失をみて将来の鑒誡かんかいとせらるべきなり。そもそも此天皇正路にかへりて、日嗣をうけ給し、さきだちてさま奇瑞きずゐありき。又土御門院阿波国にて告文かうもんをかゝせまして、石清水いはしみづの八幡宮に啓白けいびやくせさせ給ける、其御本懐すゑとほりにしかば、さま御願ごぐわんをはたされしもあはれなる御こと也。つひに継体のしゆとして此御すゑならぬはましまさず。壬寅みづのえとらの年即位、癸卯みづのとうの春改元。御身をつゝしみ給ければにや、天下を治給こと四年。太子をさなくまししかども譲国あり。尊号例のごとし。院中にて世をしらせたまひ、御出家の後もかはらず、二十六年ありしかば、白河・鳥羽よりこなたにはおだやかにめでたき御代なるべし。五十三歳おましき。

○第八十八代、後深草のちのふかくさ院。諱は久仁ひさひと、後嵯峨第二の子。御母大宮おほみや院、藤原の姞子きつし、太政大臣実氏さねうぢの女也。丙午ひのえうまの年四歳にて即位、丁未ひのとひつじに改元。天下を治給こと十三年。后腹きさいばらの長子にてまししかども、御病おはしましければ、同母の御弟恒仁つねひと親王を太子にたてゝ、譲国、尊号例のごとし。伏見御代にぞしばらくまつりことをしらせ給しが、御出家ありて政務をば主上に譲り申させ給。五十八歳おましき。

○第八十九代、第四十七世、亀山かめやま院。諱は恒仁つねひと、後深草院同母の御弟也。己未つちのとひつじの年即位、庚申かのえさるに改元。此天皇を継体とおぼしめしおきてけるにや、后腹きさいばらに皇子うまれ給しを後嵯峨とりやしなひまして、いつしか太子に立給たてたまひぬ。後深草の〈其時新院と申き〉御子もさきだちうまれ給しかどもひきこされましにき〈太子は後宇多にまします。御年二歳。後深草の御子に伏見、御年四歳になり給ける〉。後嵯峨かくれさせ給てのち、兄弟の御あはひにあらそはせ給ことありければ、関東より母儀ぼぎ大宮院にたづね申けるに、先院せんゐんの御素意は当今たうぎんにましますよしをおほせつかはされければ、ことさだまりて、禁中きんちゆうにて政務せさせ給。天下を治給こと十五年。太子にゆづりて、尊号れいのごとし。院中にても十三年まで世をしらせ給。事あらたまりにし後、御出家。五十七歳おましき。

○第九十代、第四十八世、後宇多ごうだ院。諱は世仁よひと、亀山の太子。御母皇后藤原[の]僖子きし〈後に京極きやうごく院と申〉、左大臣実雄さねをの女也。甲戌きのえいぬの年即位、乙亥きのとゐ改元。丙子ひのえねの年、もろこしのそうの幼帝徳祐とくいう二年にあたる。ことし、北狄ほくてきしゆ蒙古もうこおこりて元国と云しが宋の国をほろぼきん国おこりにしより宋は東南のこう州にうつりて百五十年になれり。蒙古おこりて、まづ金国をあはせ、のちに江をわたりて宋をせめしが、ことしつひにほろぼさる〉辛巳かのとみの年〈弘安四年なり〉蒙古のいくさおほく船をそろへて我国ををかす。筑紫つくしにておほきに合戦あり。神明しんめい、威をあらはしかたちを現じてふせがれけり。大風にはかにおこりて数十万艘の賊船みな漂倒へうたう破滅はめつしぬ。末世といへども神明の威徳不可思議なり。誓約のかはらざることこれにておしはかるべし。この天皇天下を治給こと十三年。おもひの外にのがれまして十余年ありき。後二条の御門立給しかば、世をしらせ給。遊義門院いうぎもんゐんかくれまして、御なげきのあまりにや、出家せさせ給。さきの大僧正禅助ぜんじよを御師として、宇多・円融の例により、東寺にて潅頂せさせ給。めづらかにたふとき事にはべりき。其日は後醍醐の御門、中務なかつかさの親王とて王卿の座につかせ御座まします。只今の心地ぞしはべる。後二条かくれさせ給しのち、いとゞ世をいとはせたまふ。嵯峨の奥、大覚寺と云所に、弘仁・寛平の昔の御跡をたづねて御寺などあまたたててぞおこなはせ給し。其後、々醍醐の御門位につきまししかば、又しばらく世をしらせ給て、三とせばかり有てゆづりましき。

大方この君は中古よりこなたにはありがたき御ことゝぞ申侍べき。文学の方も後三条の後にはかほどの御才きこえさせ給はざりしにや。寛平くわんべい御誡ぎよかいには、帝皇ていわうの御学問は群書治要ぐんしよちえうなどにてたりぬべし。雑文ざふぶんにつきて政事まつりことをさまたげ給ふなとみえたるにや。されど延喜・天暦・寛弘・延久の御門みな宏才博覧に、諸道をもしらせたまひ、政事もあきらかにまししかば、さきの二代はことふりぬ、つぎては寛弘・延久をぞ賢王とも申める。和漢の古事をしらせ給はねば、政道せいだうもあきらかならず、皇威もかろくなる、さだまれることわりなり。尚書に堯・舜・禹の徳をほむるには「いにしへ若稽したがひかんがふ。」とふ。傅説ふえついんの高宗ををしへたるには「事いにしへとせずして、世にながきことはえつがきかざる所なり。」とあり。たう仇士良きうしりやうとて、近習きんじふ宦者くわんじやにて内権ないけんをとる、きはめたる奸人かんじん也。其党類たうるゐにをしへけるは「人主に書をみせたてまつるな。はかなきあそびたはぶれをして御心をみだるべし。書をみて此道をしりたまはゝ、わがともがらはうせぬべし。」と云ける、今もありぬべきことにや。寛平の群書治要をさしての給ける、せばきに似たり。ただし此書は唐太宗、時の名臣魏徴ぎちようをしてえらばせられたり。五十巻の中に、あらゆるけい・史・諸子までの名文をのせたり。全経の書・三史等をぞつねの人はまなぶる。此書にのせたる諸子なんどはみる者すくなし。ほと名をだにしらぬたぐひもあり。まして万機をしらせ給はんに、これまでまなばせ給ことよしなかるべきにや。本経等をならはせましそまではあるべからず。すでに雑文とてあれば、経・史の御学問のうへに此書を御覧じて諸子等の雑文までなくともの御心なり。寛平はことにひろくまなばせ給ければにや、周易しうやくの深き道をも愛成ちかなりと云博士にうけさせ給き。延喜の御こと左右さうにあたはず。菅氏輔佐ふさしたてまつられき。其後も紀納言きなふごん・善相公しやうこう等の名儒めいじゆありしかば、文道のさかりなりしことも上古におよべりき。此御誡ぎよかいにつきて「天子の御学問さまでなくとも」とまをすひとのはべる、あさましきことなり。何事も文の上にてよく料簡れうけんあるべきをや。此君は在位にても政事まつりことをしらせ給はず、又院にて十余年閑居し給へりしかば、稽古にあきらかに、諸道をしらせ給なるべし。御出家の後もねむごろにおこなはせましき。上皇の出家せさせ給ことは、聖武・孝謙・平城・清和・宇多・朱雀・円融・花山・後三条・白河・鳥羽・崇徳・後白河・後鳥羽・後嵯峨・深草・亀山にまします。醍醐・一条は御病おもくなりてぞせさせ給し。かやうにあまたきこえさせ給しかど、戒律を具足ぐそくし、始終かくることなく密宗をきはめて大阿闍梨あじやりをさへせさせ給しこといとありがたき御こと也。この御すゑに一統の運をひらかるゝ、有徳の余薫とぞおもひたまふる。元亨げんかうのすゑ甲子きのえね六月みなづきに五十八歳にてかくれましき。


巻六

○第九十一代、伏見ふしみ院。諱は煕仁ひろひと、後深草第一の子。御母玄輝門院げんきもんゐん、藤原[の]愔子やすこ、左大臣実雄さねをの女也。後嵯峨の御門、継体をば亀山とおぼしめし定ければ、深草の御流いかゞとおぼえしを、亀山、弟順ていじゆんの儀をおぼしめしけるにや、此君を御猶子ごいうしにして東宮にすゑ給ぬ。そのゝち御心もゆかず、あしざまなる事さへいできて践祚ありき。丁亥ひのとゐの年即位、戊子つちのえねに改元。東宮にさへ此天皇の御子ゐ給き。天下を治給こと十一年。太子にゆづりて尊号例の如し。院中にて世をしらせ給しが、程なく時うつりにしかど、中六とせばかり有て又世をしり給き。関東のともがらも亀山の正流をうけたまへることはしり侍りしかど、近比となりて、世をうたがはしく思ければにや、両皇の御流をかはるすゑ申さんと相計はからひけりとなん。のちに出家せさせ給。五十歳おましき。

○第九十二代、後伏見ごふしみ院。諱は胤仁たねひと、伏見第一の子。御母永福門院えいふくもんゐん、藤原鏱子しやうし、入道太政大臣実兼さねかねの女なり。まことの御母は准三宮じゆさんぐう藤原経子つねこ、入道参議経氏女つねうぢのむすめ也。戊戌つちのえいぬの年即位、己亥つちのとゐに改元。天下を治給こと三年。推譲すゐじやうのことあり。尊号例のごとし。正和しやうわの比、父の上皇の御ゆづりにて世をしらせ給。時の御門は御弟なれど、御猶子の儀なりとぞ。元弘に、世の中みだれし時又しばらくしらせ給。事あらたまりても、かはらず都にすませまししかば、出家せさせ給て、四十九歳にてかくれさせましき。

○第九十三代、後二条ごにでう院。諱は邦治くにはる、後宇多第二の子。御母西花せいくわ門院、源基子みなもとのもとこ、内大臣具守とももりの女なり。辛丑かのとうしの年即位、壬寅みづのえとらに改元。天下を治給こと六年有て、世をはやくし給。二十四歳おましき。

○第九十四代の天皇。諱は富仁とみひと、伏見第三の子。御母顕親門院けんしんもんゐん、藤原季子すゑこ、左大臣実雄さねをの女也。戊申つちのえさるの歳即位、改元。〔裏書[に]ふ。天子践祚以禅譲年属先代、踰年即位、是古礼也。而我朝当年即位翌年改元已為流例。但禅譲年即位改元又非無先例。和銅八年九月元明禅位。即日元正即位、改元為霊亀。養老八年二月元正禅位。即日聖武即位、改元為神亀。天平感宝元年四月聖武禅位。同年七月孝謙即位、改元為天平勝宝。神護景雲四年八月称徳崩、同年十月光仁即位、十一月改元為宝亀。徳治三年八月後二条崩、同年月新主即位、十月改元為延慶。又踰年不改元例。天平宝字二年淡路帝即位、不改元。仁和三年宇多帝即位、不改元。隔年改為寛平。延久四年白河帝即位、又不改元。隔年改為承保等也。即位似前改元例、寿永二年八月後鳥羽受禅、同三年四月改元為元暦、七月即位。是非常例也。〕父の上皇世をしらせ給しが、御出家の後は御譲にて、御兄の上皇しらせまします。法皇かくれ給ても諒闇りやうあんの儀なかりき。上皇御猶子いうしの儀とぞ。例なきこと也。天下を治給こと十一年にてのがれ給。尊号例の如し。世の中あらたまりて出家せさせ給き。

○第九十五代、第四十九世、後醍醐ごだいご天皇。諱は尊治たかはる、後宇多第二の御子。御母談天門院だんてんもんゐん、藤原忠子ただこ、内大臣師継もろつぐの女、まこと入道にふだう参議忠継女ただつぐのむすめなり。御祖父亀山の上皇やしなひ申給き。弘安こうあんに、時うつりて亀山・後宇多世をしろしめさずなりにしを、たび関東におほせ給しかば、天命のことわりかたじけなくおそれ思ければにや、にはかに立太子の沙汰ありしに、亀山はこの君をすゑ奉らんとおぼしめして、八幡宮に告文かうもんををさめ給しかど、いち御子みこさしたるゆゑなくてすてられがたき御ことなりければ、後二条ぞゐ給へりし。されど後宇多の御心ざしもあさからず。御元服ありて村上のためしにより、太宰帥だざいのそつにて節会せちゑなどにいでさせ給き。後に中務なかつかさの卿をけんせさせ給。後二条世をはやくしまして、父の上皇なげかせ給し中にも、よろづこの君にぞ委附ゐふし申させ給ける。やがて儲君ちよくんのさだめありしに、後二条のいちのみこ邦良くによしの親王ゐ給べきかときこえしに、おぼしめすゆゑありとて、此親王を太子にたて給。「かのいちのみこをさなくましませば、御子みこの儀にてつたへさせ給べし。もし邦良親王早世の御ことあらば、この御すゑ継体たるべし。」とぞしるしおかせましましける。彼親王鶴膝かくしつの御病ありて、あやふくおぼしめしけるゆゑなるべし。後宇多の御門こそゆゝしき稽古の君にましましゝに、その御跡をばよくつぎ申させ給へり。あまさへもろの道をこのみしらせ給こと、ありがたき程の御ことなりけんかし。仏法にも御心ざしふかくて、むねと真言しんごんをならはせ給。はじめは法皇にうけましましけるが、後に前大僧正さきのだいそうじやう禅助ぜんじよ許可こかまでうけ給けるとぞ。天子潅頂くわんぢやうの例は唐朝にもみえはべり。本朝にも清和の御門、禁中にて慈覚大師じかくだいしに潅頂をおこなはる。主上をはじめ奉りて忠仁公などもうけられたる、これは結縁けちえん潅頂とぞ申める。此度はまことの授職じゆしよくとおぼしめしゝにや。されど猶許可にさだまりにきとぞ。それならず、又諸流をもうけさせ給。又諸宗をもすてたまはず。本朝異朝禅門の僧徒までもうちにめしてとぶらはせ給き。すべて和漢の道にかねあきらかなる御ことは中比よりの代々にはこえさせましけるにや。戊午つちのえうまの年即位、己未つちのとひつじの夏四月うづきに改元。々応と号す。はじめつかたは後宇多院の御まつりことなりしを、中二とせばかりありてぞゆづり申させ給し。それよりふるきがごとくに記録所をおかれて、つとにおき、はにおほとのごもりて、民のうれへをきかせ給。天下こぞりてこれをあふぎ奉る。公家くげのふるき御まつりことにかへるべき世にこそとたかきもいやしきも、かねてうたひ侍き。かゝりしほどに後宇多院かくれさせ給て、いつしか東宮とうぐう御方おんかたにさぶらふ人々そはにきこえしが、関東に使節をつかはされ天位をあらそふまでの御中らひになりにき。あづまにも東宮の御ことをひき立申たてまをすともがらありて、御いきどほりのはじめとなりぬ。元亨甲子きのえね九月ながつきのすゑつかた、やう事あらはれにしかども、うけたまはりおこなふ中にいふかひなき事いできにしかど、大方はことなくてやみぬ。其後ほどなく東宮かくれ給。神慮しんりよにもかなはず、祖皇そくわうの御いましめにもたがはせ給けりとぞおぼえし。今こそ此天皇うたがひなき継体の正統にさだまらせ給ひぬれ。されど坊には後伏見第一の御子、量仁かずひと親王ゐさせ給。かくて元弘辛未かのとひつじの年八月はつきにはかに都をいでさせたまひ、奈良のかたに臨幸ありしが、其所よろしからで、笠置かさぎと云山寺のほとりに行宮かりみやをしめ、御志おんこころざしあるつはものをめし集らる。たび合戦かつせんありしが、同九月おなじながつきに東国のいくさおほくあつまりのぼりて、事かたくなりにければ、他所たしよにうつらしめ給しに、おもひの外のこといできて、六波羅ろくはらとて承久じようきうよりこなたしめたる所に御幸ごかうある。御供にはべりし上達部かんだちめ・うへのをのこどもゝあるひはとられ、或はしのびかくれたるもあり。かくて東宮とうぐう位につかせ給。つぎの年の春隠岐おきの国にうつらしめまします。御子たちもあなたかなたにうつされ給しに、兵部卿ひやうぶきやう護良もりよしの親王ぞ山々をめぐり、国国をもよほして義兵ぎへいをおこさんとくはたて給ける。河内国かはちのくに橘正成たちばなのまさしげと云者ありき。御志ふかゝりければ、河内かはちと大和とのさかひに、金剛山こんがうせんと云所に城をかまへて、近国ををかしたひらげしかば、あづまより諸国のいくさをあつめてせめしかど、かたくまもりければ、たやすくおとすにあたはず。世の中みだれ立にし。次の年癸酉みづのととりの春、しのびて御船にたてまつりて、隠岐をいでゝ伯耆はうきにつかせ給。其国に源長年みなもとのながとしと云者あり。御方みかたにまゐりて船上ふなのうへと云山寺やまでらにかりの宮をたてゝぞすませたてまつりける。かのあたりの軍兵ぐんぴやうしばらくはきほひておそひ申けれど、みなゝびき申ぬ。都ちかき所々にも、御心ざしある国々のつはものよりうちいづれば、合戦もたびになりぬ。京中きやうぢゆうさわがしくなりては、上皇も新主も六波羅にうつり給。伯耆はうきよりもいくさをさしのぼせらる。ここに畿内きだい・近国にも御志あるともがら八幡山やはたやまに陣をとる。坂東ばんどうよりのぼれるつはものの中に藤原の親光ちかみつと云者も彼山にはせくはゝりぬ。つぎ御方にまゐるともがらおほくなりにけり。源高氏みなもとのたかうぢときこえしは、昔の義家よしいへ朝臣が二男、義国よしくにと云しが後胤こういんなり。彼義国が孫なりし義氏よしうぢ平義時たひらのよしとき朝臣が外孫なり。義時等が世となりて、源氏の号ある勇士には心をゝきければにや、おしすゑたるやうなりしに、これは外孫なれば取立とりたてて領ずる所などもあまたはからひおき、代々になるまでへだてなくてのみありき。高氏も都へさしのぼせられけるに、うたがひをのがれんとにや、告文かうもんをかきおきてぞ進発しける。されど冥見をもかへりみず、心がはりして御方みかたにまゐる。官軍力をえしまゝに、五月さつき八日のころにや、都にある東軍みなやぶれて、あづまへこゝろざしておちゆきしに、両院・新帝しんたいおなじく御ゆきあり。近江国馬場あふみのくにばんばと云所にて、御方に心ざしあるともがらうちいでにければ、武士はたゝかふまでもなく自滅しぬ。両院・新帝は都にかへし奉り、官軍これをまぼり申き。かくて都より西ざま、程なくしづまりぬときこえければ還幸せさせ給。まことにめづらかなりし事になん。あづまにも上野国かみつけのくにに源義貞よしさだと云者あり。高氏が一族也。世のみだれにおもひをおこし、いくばくならぬ勢にて鎌倉かまくらにうちのぞみけるに、高時たかとき等運命きはまりにければ、国々のつはものつきしたがふこと、風の草をなびかすがごとくして、五月さつきの二十二日にや、高時をはじめとしておほくの一族みな自滅してければ、鎌倉又たひらぎぬ。符契ふけいをあはすることもなかりしに、筑紫つくしの国々・陸奥みちのおく・出羽のおくまでもおなじき月にぞしづまりにける。六七千里のあひだ、一時いちじにおこりあひにし、時のいたり運のきはまりぬるはかゝることにこそと不思議にも侍しもの哉。君はかくともしらせ給はず、摂津国つのくに西にしみやと云所にてぞきかせましける。六月みなづき四日東寺にいらせ給ふ。都にある人々まゐりあつまりしかば、威儀をとゝのへて本の宮に還幸し給。いつしか賞罰のさだめありしに、両院・新帝をばなだめ申給て、都にすませましける。されど新帝は主の儀にて正位にはもちゐられず。改元して正慶しやうきやうと云しをももとのごとく元弘げんこうと号せられ、官位昇進せしともがらもみな元弘元年八月はつきよりさきのまゝにてぞありし。平治へいぢより後、平氏へいじ世をみだりて二十六年、文治ぶんちはじめ、頼朝権をもはらにせしより父子あひつぎて三十七年、承久じようきう義時よしとき世をとりおこなひしより百十三年、すべて百七十余年のあひだおほやけの世をひとつにしらせ給ことたえにしに、此天皇の御代にたなごころをかへすよりもやすく一統し給ぬること、宗廟そうべうの御はからひも時節ありけりと、天下こぞりてぞあふぎ奉りける。おなじき年冬十月かんなづきに、まづあづまのおくをしづめらるべしとて、参議さんぎ右近うこんの中将源顕家あきいへの卿を陸奥守みちのおくのかみになしてつかはさる。代々和漢の稽古けいこをわざとして、朝端てうたんにつかへ政務にまじはる道をのみこそまなびはべれ。吏途りとかたにもならはず、武勇の芸にもたづさはらぬことなれば、たびいなみまをししかど、「公家くげすでに一統しぬ。文武の道ふたつあるべからず。昔は皇子皇孫もしは執政の大臣の子孫のみこそおほくはいくさの大将にもさゝれしか。今より武をかねて蕃屏はんぺいたるべし。」とおほせ給て、御みづから旗のめいをかゝしめたまひ、さまの兵器をさへくだしたまはる。任国におもむくこともたえてひさしくなりにしかば、ふるきためしをたづねて、罷申まかりまをしの儀あり。御前おんまへにめし勅語ありて御衣おんぞ御馬などをたまはりき。猶おくのかためにもと申うけて、御子を一所ひとところともなひたてまつる。かけまくもかしこき今上きんじやう皇帝の御ことなればこまかにはしるさず。彼国につきにければ、まことにおくの方ざま両国をかけてみなゝびきしたがひにけり。同十二月おなじきしはす左馬頭さまのかみ直義朝臣ただよしあそん相模守さがみのかみを兼て下向す。これも四品しほん上野大守かみつけのたいしゆ成良親王なりよしのしんわうをともなひたてまつる。此親王、後にしばらく征夷大将軍を兼せさせ給〈直義は高氏が弟なり。〉そもそも彼高氏御方にまゐりし、其功は誠にしかるべし。すゞろに寵幸ちようかうありて、抽賞ちうしやうせられしかば、ひとへに頼朝卿よりとものきやう天下をしづめしまゝの心ざしにのみなりにけるにや。いつしか越階をつかいして四位に叙し、左兵衛督さひやうゑのかみに任ず。拝賀のさきに、やがて従三位して、程なく参議従二位までのぼりぬ。三け国の吏務りむ守護しゆごおよびあまたの郡庄ぐんしやうたまはる。弟直義ただよし左馬頭さまのかみに任じ、従四位に叙す。昔頼朝よりともためしなき勲功ありしかど、高官高位にのぼることは乱政なり。はたして子孫もはやくたえぬるは高官のいたす所かとぞ申伝たる。高氏等は頼朝・実朝が時に親族などゝて優恕いうじよすることもなし。たゞ家人けにんの列なりき。実朝公八幡はちまん宮に拝賀せし日も、地下前駈ぢげぜんく二十人の中に相加くははれり。たとひ頼朝が後胤こういんなりとも今さら登用すべしともおぼえず。いはむや、ひさしき家人けにんなり。さしたる大功もなくてかくやは抽賞ちうしやうせらるべきとあやしみ申ともがらもありけりとぞ。関東の高時天命すでにきはまりて、君の御運ごうんをひらきしことは、更に人力じんりよくといひがたし。武士たるともがら、いへば数代すだいの朝敵也。御方にまゐりて其家をうしなはぬこそあまさへある皇恩なれ。さらに忠をいたし、労をつみてぞ理運りうんのぞみをもくわたてはべるべき。しかるを、天の功をぬすみておのれが功とおもへり。介子推かいしすゐがいましめもならひしるものなきにこそ。かくて高氏が一族ならぬともがらもあまた昇進し、昇殿をゆるさるゝもありき。されば或人の申されしは、「公家くげの御世にかへりぬるかとおもひしに中猶武士の世に成ぬる。」とぞ有し。およそ政道と云ことは所々にしるしはべれど、正直慈悲を本として決断の力あるべき也。これ天照太神のあきらかなる御をしへなり。決断と云にとりてあまたの道あり。ひとつには其人をえらびて官に任ず。官に其人ある時は君は垂拱すゐきようしてまします。されば本朝にも異朝にもこれを治世のもととす。ふたつには国郡をわたくしにせず、わかつ所かならず其ことわりのまゝにす。みつには功あるをばかならずしやうし、罪あるをば必ず罰す。これ善をすゝめ悪をこらす道なり。是に一もたがふを乱政とはいへり。上古しやうこには勲功あればとて官位をすゝむことはなかりき。つねの官位のほかに勲位くんゐと云しなをゝきて一等より十二等まであり。無位の人々なれど、勲功たかくて一等にあがれば、正三位のしも、従三位のかみにつらなるべしとぞみえたる。又本位ほんゐある人のこれを兼たるも有べし。官位といへるは、かみ三公よりしも諸司の一分いちぶにいたる、これを内官ないくわんいひ、諸国のかみより史生しじやう郡司ぐんじにいたる、これを外官げくわんふ。天文てんもんにかたどり、地理にのとりておのつかさどるかたあれば、其才なくては任用せらるべからざることなり。「名与器なとうつはものとは人にかさず。」ともいひ、「天のつかさに人それかはる。」ともいひて、君のみだりにさづくるを謬挙びうきよとし、臣のみだりにうくるを尸祿しろくとす。謬挙と尸祿とは国家のやぶるゝはし、王業のひさしからざるもとゐなりとぞ。中古ちゆうこと成て、平将門たひらのまさかどを追討の賞にて、藤原秀郷ふぢはらのひでさと正四位下に叙し、武蔵むさし下野しもつけ両国のかみを兼す。平貞盛さだもり正五位下に叙し、鎮守府の将軍に任ず。安倍貞任あべのさだたふ奥州あうしうをみだりしを、源頼義よりよし朝臣十二年までにたゝかひ、凱旋がいせんの日、正四位下に叙し、伊与守に任ず。彼等其功たかしといへども、一任四五け年の職なり。これ猶上古しやうこの法にはかはれり。保元の賞には、義朝左馬頭さまのかみに転じ、清盛太宰大弐だざいのだいにに任ず。此ほか受領・検非違使けびゐしになれるもあり。此時やすでにみだりがはしき始となりにけん。平治よりこのかた皇威ことのほかにおとろへぬ。清盛天下の権をぬすみ、太政大臣にあがり、子ども大臣大将になりしうへはいふにたらぬ事にや。されど朝敵になりてやがて滅亡せしかば後のためしにはひきがたし。頼朝はさらに一身の力にて平氏の乱をたひらげ、二十余年の御いきどほりをやすめたてまつりし、昔神武の御時、宇麻志麻見うましまみみことの中州をしづめ、皇極の御宇ぎように大織冠の蘇我の一門をほろぼして、皇家くわうかをまたくせしより後は、たぐひなき程の勲功にや。それすら京上きやうのぼりの時、大納言大将に任ぜられしをば、かたくいなみ申けるをゝしてなされにけり。公私のわざはひにや侍けん。その子は彼があとなれば、大臣大将になりてやがてほろびぬ。更にあとゝ云物もなし。天意にはたがひけりとみえたり。君もかゝるためしをはじめ給しによりて、大功なきものまでも皆かゝるべきことゝおもひあへり。頼朝はわが身かゝればとて、兄弟一族をばかたくおさへけるにや。義経よしつね五位の検非違使にてやみぬ。範頼のりより三河守みかはのかみなりしは、頼朝拝賀の日地下ぢげの前駈にめしくはへたり。おごる心みえければにや、この両弟をもつひにうしなひにき。さならぬ親族もおほくほろぼされしは、おごりのはしをふせぎて、世をもひさしく、家をもしづめんとにやありけん。

先祖経基つねもとはちかき皇孫なりしかど、承平じようへいみだれに征東将軍忠文ただふん朝臣が副将として彼が節度せつとをうく。其より武勇ぶようの家となる。其子満仲まんぢゆうより頼信よりのぶ頼義よりよし義家よしいへ相続あひつい朝家てうかのかためとしてひさしく召仕めしつかはる。かみにも朝威まししもにも其分にすぎずして、家をまたくし侍りけるにこそ。為義にいたりて乱にくみしてちゆうにふし、義朝又功をたてんとてほろびにき。先祖の本意にそむきけることはうたがひなし。さればよく先蹤せんしようをわきまへ、得失をかむがへて、身をたて、家をまたくするこそかしこき道なれ。おろかなるたぐひは清盛・頼朝が昇進をみて、みなあるべきことゝおもひ、為義、義朝が逆心ぎやくしんをよみして、ほろびたるゆゑをしらず。近ごろ伏見の御時、源為頼みなもとのためよりと云をのこ内裏だいりにまゐりて自害したりしが、かねて諸社に奉る矢にも、その夜射ける矢にも、大政大臣源為頼とかきたりし、いとをかしきことに申めれど、人の心のみだりになりゆくすがたはこれにておしはかるべし。義時などはいかほどもあがるべくやありけん。されど正四位右京権大夫うきやうのごんのだいぶにてやみぬ。まして泰時が世になりては子孫の末をかけてよくおきておきければにや。ほろびしまでもつひに高官にのぼらず、上下の礼節をみだらず。近く維貞これさだといひしもの吹挙すゐきよによりて修理大夫しゆりのだいぶになりしをだにいかがと申ける。まことに其の身もやがてうせ侍りにき。父祖のおきてにたがふは家門かもんをうしなふしるしなり。人は昔をわするゝものなれど、天は道をうしなはざるなるべし。さらばなど天は正理しやうりのまゝにおこなはれぬと云こと、うたがはしけれど、人の善悪はみづからの果報くわはう也。世のやすからざるは時の災難さいなんなり。天道も神明もいかにともせぬことなれどよこしまなるものは久しからずしてほろび、みだれたる世もしやうにかへる、古今のことわりなり。これをよくわきまへしるを稽古けいこふ。昔人をえらびもちゐられし日はまづ徳行をつくす。徳行おなじければ、才用さいようあるをもちゐる。才用ひとしければ労効らうかうあるをとる。又徳義とくぎ清慎せいしん公平くびやう恪勤かくごんの四善をとるともみえたり。格条きやくでうには「あした廝養しやうたれどもゆふべ公卿こうけいにいたる。」と云ことの侍るも、徳行才用によりて不次ふじにもちゐらるべき心なり。寛弘くわんこうよりあなたには、まことに才かしこければ、種姓しゆしやうにかゝはらず、将相しやうしやうにいたる人もあり。寛弘以来よりこのかたは、譜第ふだいをさきとして、其中に才もあり徳もありて、職にかなひぬべき人をぞえらばれける。世の末に、みだりがはしかるべきことをいましめらるゝにやありけん、「七け国の受領ずりやうをへて、合格がふきやくして公文くもんといふことかんがへぬれば、参議に任ず。」と申ならはしたるを、白河の御時、修理しゆりのかみ顕季あきすゑといひし人、院の御めのとのをつとにて、時のきらならぶ人なかりしが、この労をつのりて参議を申けるに、院のおほせに、「それも物かきてのうへのこと」ゝありければ、ことわりにふしてやみぬ。此人は哥道などもほまれありしかば、物かゝぬ程のことやはあるべき。又参議になるまじきほどの人にもあらじなれど、和漢の才学のたらぬにぞ有けん。白河の御代まではよく官をおもくし給けりときこえたり。あまり譜第ふだいをのみとられても賢才のいでこぬはしなれば、上古におよびがたきことをうらむるやからもあれど、昔のまゝにてはいよみだれぬべければ、譜第をおもくせられけるもことわり也。ただし才もかしこく徳もあらはにして、登用とうようせられむに、人のそしりあるまじき程のうつはならば、今とてもかならず非重代ひぢゆうだいによるまじき事とぞおぼえ侍る。其道にはあらで、一旦いつたんの勲功など云ばかりに、武家代々だいだい陪臣ばいしんをあげて高官をさづけられむことは、朝議てうぎのみだりなるのみならず、身のためもよくつゝしむべきことゝぞおぼえ侍る。もろこしにも、漢高祖かんのかうそはすゞろに功臣をおほきほうじ、公相こうしやうの位をもさづけしかば、はたしておごりぬ。おごればほろぼす。よりてのちには功臣のこりなくなりにけり。後漢ごかん光武くわうぶはこの事にこりて、功臣に封爵ほうしやくをあたへけるも、其しゆたりし鄧禹とううすらほうぜらるゝ所四県にすぎず。官を任ずるには文吏ぶんりをもとめえらびて、功臣をさしおく。是によりて二十八将の家ひさしくつたはりて、昔の功もむなしからず。てうには名士おほくもちゐられて、曠官くわうくわんのそしりなかりき。彼二十八将の中にも鄧禹とうう賈復かふくとはそのえらびにあづかりて官にありき。漢朝の昔だに文武の才をそなふることいとありがたく侍りけるにこそ。次に功田こうでんと云ことは、昔は功のしなにしたがひて大・上・中・下のよつの功をたてて田をあかち給き。其すうみなさだまれり。大功は世々にたえず。其しもつかたはあるひは三世につたへ、孫子まごこにつたへ、身にとゞまるもあり。天下ををさむと云ことは、国郡をもはらにせずして、そのことゝなく不輸ふしゆの地をたてらるゝことのなかりしにこそ。国にかみあり、こほりりやうあり、一国のうち皆国命のしたにてをさめしゆゑに法にそむく民なし。かくて国司の行迹かうせきをかむがへて、賞罰ありしかば、天下のことたなごころをさしておこなひやすかりき。其中に諸院・諸宮に御封みふあり。親王・大臣も又かくのごとし。其外官田くわんでん職田しよくでんとてあるも、みな官符くわんふたまはりて、其ところ正税しやうぜいをうくるばかりにて、国はみな国司の吏務なるべし。ただし大功の者ぞ今の庄園などとてつたふるがごとく、国にいろはれずしてつたへける。中古となりて庄園おほくたてられ、不輸ふしゆの所いできしより乱国とはなれり。上古しやうこにはこの法よくかたかりければにや、推古天皇の御時、蘇我大臣「わが封戸ふこをわけて寺によせん。」と奏せしをつひにゆるされず。光仁天皇はながく神社・仏寺によせられし地をも「えいの字は一代にかぎるべし。」とあり。後三条院の御世こそ此つひえをきかせ給て、記録所をゝかれて国々の庄公しやうこう文書もんじよをめして、おほく停廃ちやうはいせられしかど、白河・鳥羽の御時より新立しんりふの地いよおほくなりて、国司のしりどころ百分が一になりぬ。後ざまには、国司任におもむくことさへなくて、其人にもあらぬ眼代がんだいをさして国ををさめしかば、いかでか乱国とならざらん。いはん文治ぶんちのはじめ、国に守護職しゆごしよくし、庄園しやうゑん郷保がうほう地頭ぢとうをおかれしよりこのかたは、さらにいにしへのすがたと云ことなし。政道をおこなはるゝ道、ことくたえはてにき。たま一統いちとうの世にかへりぬれば、このたびぞふるきつゐえをもあらためられぬべかりしかど、それまではあまさへのことなり。今は本所ほんじよの領と云し所々さへ、みな勲功に混ぜられて、累家るゐけもほと其名ばかりになりぬるもあり。これみな功にほこれるともがら、君をおとし奉るによりて、皇威もいとゞかろくなるかとみえたり。かゝれば其功なしといへども、ふるくよりいきをいあるともがらをなつけられんため、或は本領なりとてたまはるもあり、或は近境きんけいなりとてのぞむもあり。闕所けつしよをもておこなはるゝにたらざれば、国郡につきたりし地、もしは諸家相伝しよけさうでんの領までもきほひ申けりとぞ。をさまらんとしていよみだれ、やすからんとしてますあやふくなりにける、末世まつせのいたりこそまことにかなしく侍れ。およそ王土にはらまれて、忠をいたし命をすつるは人臣の道なり。かならずこれを身の高名かうみやうとおもふべきにあらず。しかれどものちの人をはげまし、其あとをあはれみて賞せらるゝは、君の御政まつりことなり。下としてきほひあらそひ申べきにあらぬにや。ましてさせる功なくして過分くわぶんのぞみをいたすこと、みづからあやぶむるはしなれど、前車のてつをみることはまことに有がたき習なりけんかし。中古までも人のさのみ豪強がうきやうなるをばいましめられき。豪強になりぬればかならずおごる心あり。はたして身をほろぼし、家をうしなふためしあれば、いましめらるゝもことわりなり。鳥羽院の御代にや、諸国の武士の源平の家に属することをとゞむべしと制符せいふたびありき。源平ひさしく武をとりてつかへしかども、事ある時は、宣旨せんじたまはりて諸国のつはものをめしぐしけるに、近代となりてやがて肩をいるゝやからおほくなりしによりて、此制符はくだされき。はたして、今までの乱世のもとゐなれば、ふかひなきことになりにけり。此比このごろのことわざには、ひとたびいくさにかけあひ、或は家子郎従いへのこらうじゆうせつにしぬるたぐひもあれば、「わが功におきては日本国をたまへ、もしは半国をたまはりてもたるべからず。」など申める。まことにさまでおもふことはあらじなれど、やがてこれよりみだるゝはしともなり、又朝威のかろしさもおしはからるゝものなり。「言語げんぎよは君子の枢機すうきなり。」といへり。あからさまにも君をないがしろにし、人におごることあるべからぬことにこそ。さきにしるしはべりしごとく、かたき氷は霜をふむよりいたるならひなれば、乱臣賊子と云者は、そのはじめ心ことばをつゝしまざるよりいでくる也。世の中のおとろふると申は、日月ひつきひかりのかはるにもあらず、草木くさきの色のあらたまるにもあらじ。人の心のあしくなりゆく末世まつせとはいへるにや。昔許由きよいうふ人は帝げうの国をつたへんとありしをきゝて、潁川えいせんに耳をあらひき。巣父さうほはこれをきゝて此水をだにきたながりてわたらず。其人の五臓六腑ござうろくふのかはるにはあらじ、よくおもひならはせるゆゑにこそあらめ。猶行すゑの人の心おもひやるこそあさましけれ。大方おのれ一身は恩にほこるとも、万人まんにんのうらみをのこすべきことをばなどかかへりみざらん。君は万姓ばんしやうあるじにてましませば、かぎりある地をもて、かぎりなき人にわかたせ給はんことは、おしてもはかりたてまつるべし。もし一国づゝをのぞまば、六十六人にてふさがりなむ。一郡づゝといふとも、日本は五百九十四郡こそあれ、五百九十四人はよろこぶとも千万の人は不悦よろこばじいはんや日本のなかばを心ざし、皆ながらのぞまば、帝王はいづくをしらせ給べきにか。かゝる心のきざしてことばにもいでおもてにははづる色のなきを謀反むほんのはじめと云べき也。昔の将門まさかどは比叡山にのぼりて、大内だいだいを遠見して謀反むほんをおもひくはたてけるも、かゝるたぐひにや侍けん。昔は人の心正くておのづから将門にみもこり、きゝもこり侍りけん。今は人々の心かくのみなりにたれば、此世はよくおとろへぬるにや。漢高祖かんのかうその天下をとりしは蕭何せうか張良ちやうりやう韓信かんしんちからなり。これを三けつふ。万人まんにんにすぐれたるを傑と云とぞ。中にも張良は高祖の師として、「はかりことを帷帳ゐちやうなかにめぐらして、かつことを千里のほかに決するはこの人なり。」との給しかど、張良はおごることなくして、りうといひてすこしきなる所をのぞみて封ぜられにけり。あらゆる功臣おほくほろびしかど、張良は身をまたくしたりき。ちかき代のことぞかし、頼朝の時までも、文治ぶんちの比にや、奥の泰衡やすひらを追討せしに、みづからむかふことありしに、平重忠たひらのしげただ先陣せんぢんにて其功すぐれたりければ、五十四郡のうちに、いづくをものぞむべかりけるに、長岡ながをかこほりとてきはめたる小所をのぞみたまはりけるとぞ。これは人々にひろく賞をもおこなはしめんがためにや。かしこかりけるをのこにこそ。又直実なほざねと云ける者に一所いちしよをあたへたまふ下文くだしぶみに、「日本第一のかふの者なり。」と書てたまひてけり。ひととせ彼下文かのくだしぶみもち奏聞そうもんする人の有けるに、褒美はうびことばのはなはだしさに、あたへたる所のすくなさ、まことに名をおもくして利をかろくしける、いみじきことゝ口にほめあへりける。いかに心えてほめけんといとをかし。是までの心こそなからめ、事にふれて君をおとし奉り、身をたかくするともがらのみ多くなれり。ありし世の東国の風儀ふうぎもかはりはてぬ。公家くげのふるきすがたもなし。いかになりぬる世にかとなげき侍るともがらもありときこえしかど、中一なかひととせばかりはまことに一統のしるしとおぼえて、天の下こぞりあつまりて都のうちはえしくこそ侍りけれ。建武乙亥きのとゐの秋の比、ほろびにし高時が余類よるゐ謀反むほんをおこして鎌倉にいりぬ。直義ただよし成良なりよしの親王をひきつれ奉て参河みかはの国までのがれにき。兵部卿ひやうぶきやう護良もりよしの親王ことありて鎌倉におはしましけるをば、つれ申におよばずうしなひ申てけり。みだれの中なれど宿意しゆくいをはたすにやありけん。都にも、かねて陰謀のきこえありて嫌疑けんぎせられけるなかに権大納言公宗卿きんむねのきやうめしおかれしも、このまぎれにちゆうせらる。承久じようきうより関東の方人かたうどにて七代になりぬるにや。高時も七代にてほろびぬれば、運のしからしむることゝはおぼゆれど、弘仁こうにん死罪しざいをとめられて後、信頼が時にこそめづらかなることに申はべりけれ。せき里のよせも久しくなり大納言以上にいたりぬるに、おなじ死罪なりともあらはならぬ法令ほふりやうもあるに、うけたまはりおこなふともがらのあやまりなりとぞきこえし。高氏は申うけて東国にむかひけるが、征夷将軍ならびに諸国の惣追捕使そうつゐぶくしを望けれど、征東将軍になされてことごとくはゆるされず。程なく東国はしづまりにけれど、高氏のぞむ所たつせずして、謀反をおこすよしきこえしが、十一月しもつき十日あまりにや、義貞を追討すべきよし奏状をたてまつり、すなはち討手のぼりければ、京中きやうぢゆう騒動さうどうす。追討のために、中務卿なかつかさきやう尊良たかよし親王を上将軍じやうしやうぐんとして、さるべき人々もあまたつかはさる。武家には義貞朝臣をはじめておほくのつはものをくだされしに、十二月しはすに官軍ひきしりぞきぬ。関々をかためられしかど、次の年丙子ひのえねの春正月むつき十日官軍又やぶれて朝敵すでにちかづく。よりて比叡山東坂本ひがしさかもとに行幸して、日吉社にぞましける。内裏もすなはち焼ぬ。累代るゐだいの重宝もおほくうせにけり。昔よりためしなきほどの乱逆らんげきなり。かゝりしあひだに、陸奥守みちのおくのかみ鎮守府の将軍顕家卿このみだれをきゝて、親王をさきにたて奉りて、陸奥・出羽の軍兵をそつしてせめのぼる。おなじき十三日近江国につきてことの由を奏聞す。十四日に江をわたりて坂本にまゐりしかば、官軍大に力をえて、山門の衆徒しゆうとまでも万歳ばんぜいをよばひき。おなじき十六日より合戦かつせんはじまりて三十日つひに朝敵を追落おひおとす。やがて其夜還幸くわんかうし給。高氏等猶摂津国つのくににありときこえしかば、かさねて諸将をつかはす。二月きさらぎ十三日又これをたひらげつ。朝敵は船にのりて西国さいこくへなむおちにけり。諸将および官軍はかつかへりまゐりしを、東国とうごくの事おぼつかなしとて、親王も又かへらせ給べし、顕家卿も任所にんじよにかへるべきよしおほせらる。義貞は筑紫へつかはさる。かくて親王元服し給。ぢきに三品に叙し、陸奥太守に任じまします。彼国の太守ははじめたることなれど、たよりありとてぞ任じ給。勧賞けんしやうによりて同母の御兄四品成良なりよしのみこをこえ給。顕家卿はわざと賞をば申うけざりけるとぞ。義貞朝臣は筑紫へくだりしが、播磨国はりまのくにに朝敵の党類たうるゐありとて、まづこれを対治すべしとて、日をおくりし程に五月さつきにもなりぬ。高氏等西国の凶徒きようとをあひかたらひてかさねてせめのぼる。官軍利なくして都に帰参きさんせしほどに、おなじき二十七日に又山門に臨幸し給。八月はつきにいたるまで度々たびたび合戦ありしかど、官軍いとすゝまず。よりて都には元弘偽げんこうぎ主の御弟に、三の御子豊仁ゆたひとと申けるを位につけ奉る。十月かんなづき十日の比にや、主上しゆじやう都に出させ給、いとあさましかりしことなれど、又行すゑをおぼしめす道ありしにこそ。東宮は北国に行啓ぎやうけいあり。左衛門督さゑもんのかみ実世さねよの卿以下いげの人々、左中将義貞朝臣をはじめてさるべきつはものもあまたつかうまつりけり。主上は尊号の儀にてましき。御心をやすめ奉らんためにや、成良なりよしの親王を東宮にすゑたてまつる。同十二月おなじきしはすにしのびて都をいでまして、河内国に正成といひしが一族等をめしぐして芳野よしのにいらせ給ぬ。行宮かりみやをつくりてわたらせ給。もとのごとく存位の儀にてぞましける。内侍所ないしどころもうつらせたまひ神璽しんしも御身にしたがへ給けり。まことに奇特きどくのことにこそ侍しか。芳野のみゆきにさきだちて、義兵ぎへいをおこす輩もはべりき。臨幸りんかうの後には国々にも御心ざしあるたぐひあまたきこえしかど、つぎの年もくれぬ。又の年戊寅つちのえとらの春二月きさらぎ鎮守大将軍ちんじゆたいしやうぐん顕家あきいへの卿又親王をさきだて申、かさねてうちのぼる。海道の国々ことくたひらぎぬ。伊勢・伊賀をへて大和にいり、奈良のきやうになんつきにける。それより所々の合戦あまたゝびたがひ勝負しようぶ侍りしに、おなじき五月さつき和泉国いづみのくににてのたゝかひに、時やいたらざりけん、忠孝の道こゝにきはまりはべりにき。こけの下にうづもれぬものとてはたゞいたづらに名をのみぞとゞめてし、心うき世にもはべるかな。官軍猶こゝろをはげまして、男山をとこやまに陣をとりて、しばらく合戦ありしかど、朝敵しのびて社壇をやきはらひしより、ことならずして引しりぞく。北国にありし義貞もたびめされしかど、のぼりあへず。させることなくてむなしくさへなりぬときこえしかば、ふばかりなし。さてしもやむべきならずとて、陸奥の御子みこあづまへむかはせ給べきさだめあり。左少将顕信あきのぶ朝臣中将に転じ、従三位叙し、陸奥のすけ鎮守将軍をかねてつかはさる。東国の官軍ことく彼節度せつとにしたがふべき由をおほせらる。親王は儲君ちよくんにたゝせ給べきむね申きかせたまひ、「道の程もかたじけなかるべし。国にてはあらはさせ給へ。」となん申されし。異母いぼの御兄もあまたましき。同母どうぼの御兄もさきの東宮、恒良つねよし親王しんわう成良親王なりよしのしんわうまししに、かくさだまり給ぬるも天命なればかたじけなし。七月ふみづきの末つかた、伊勢にこえさせ給て、神宮にことのよしをまをして御船をよそひし、九月ながつきのはじめ、ともづなをとかれしに、十日ごろのことにや、上総かづさの地ちかくより空のけしきおどろおどろしく、海上かいしやうあらくなりしかば、又伊豆いづさきかたにたゞよはれ侍しに、いとゞ浪風おびたゞしくなりて、あまたの船ゆきかたしらずはべりけるに、御子みこの御船はさはりなく伊勢いせの海につかせ給。顕信朝臣はもとより御船にさぶらひけり。おなじ風のまぎれに、あづまをさして常陸国ひたちのくになるうちうみにつきたる船はべりき。方々かたがたにたゞよひしなかに、このふたつのふねおなじ風にて東西にふきわけゝる、末の世にはめづらかなるためしにぞ侍べき。まうけの君にさだまらせ給て、ためしなきひなの御すまひもいかゞとおぼえしに、皇太神すめおほみかみのとゞめ申させ給けるなるべし。後に芳野へいらせまして、御目の前にて天位をつがせ給しかば、いとゞおもひあはせられてたふとく侍るかな。又常陸国ひたちのくにはもとより心ざすかたなれば、御志みこころざしあるともがらあひはからひて義兵こはくなりぬ。奥州・野州のかみも次の年の春かさねて下向げかうして、おの国につきはべりにき。さても旧都きうとには、戊寅つちのえとらの年の冬改元して暦応りやくおうとぞ云ける。芳野の宮にはもとの延元えんげんの号なれば、国々もおもひおもひの号なり。もろこしには、かゝるためしおほけれど、此国にはためしなし。されどとせにもなりぬるにや。大日本嶋根やまとしまねはもとよりの皇都くわうと也。内侍所ないしどころ神璽しんしも芳野におはしませば、いづくか都にあらざるべき。さても八月はつきの十日あまり六日にや、秋霧あきぎりにをかされさせ給てかくれましぬとぞきこえし。ぬるがうちなるゆめの世は、いまにはじめぬならひとはしりながら、かずめのまへなる心ちして老泪おいのなみだもかきあへねば、筆の跡さへとゞこほりぬ。昔、「仲尼ちゆうぢは獲麟に筆をたつ。」とあれば、こゝにてとゞまりたくはべれど、神皇正統じんわうしやうとうのよこしまなるまじきことわりを申のべて、素意そいの末をもあらはさまほしくて、しひてしるしつけ侍るなり。かねて時をもさとらしめ給けるにや、まへの夜より親王をば左大臣のていへうつし奉られて、三種の神器をつたへ申さる。後の号をば、おほせのまゝにて後醍醐ごだいご天皇とまをす。天下を治給こと二十一年。五十二歳おましき。昔仲哀ちゆうあい天皇熊襲くまそをせめさせ給し行宮かりみやにて神さりましき。されど神功皇后じんぐうくわうごうほどなく三韓をたひらげ、諸皇子の乱をしづめられて、胎中天皇たいちゆうてんわうの御代にさだまりき。このきみ聖運せいうんまししかば、百七十余年なかたえにし一統いちとうの天下をしらせ給て、御目の前にて日嗣をさだめさせ給ぬ。こうもなく徳もなきぬす人世におごりて、とせあまりがほど宸襟しんきんをなやまし、御世をすぐさせ給ぬれば、御怨念ごをんねんの末むなしく侍りなんや。今の御門みかどまた天照太神よりこのかたの正統をうけましぬれば、この御光にあらそひたてまつる者やはあるべき。中かくてしづまるべき時の運とぞおぼえ侍る。

○第九十六代、第五十世の天皇。諱は義良のりよし、後醍醐の天皇第七御子だいしちのみこ。御母准三宮、藤原の廉子れんし。この君はらまれさせ給はんとて、日をいだくとなん夢に見申させ給けるとぞ。さればあまたの御子の中にたゞなるまじき御ことゝぞかねてよりきこえさせ給し。元弘癸酉げんこうみづのととりの年、あづまの陸奥・出羽のかためにておもむかせ給。甲戌きのえいぬの夏、立親王、丙子ひのえねの春、都にのぼらせまして、内裏にて御元服。加冠かくわん左のおとゞなり。すなはち三品に叙し、陸奥の太守に任ぜさせ給。おなじき戊寅つちのえとらとしの春、又のぼらせ給て、芳野宮よしののみやにまししが、秋七月ふみづき伊勢いせにこえさせ給。かさねて東征とうせいありしかど、猶伊勢にかへりまし、己卯つちのとうの年三月やよひ又芳野へいらせ給。秋八月はつき中の五日ゆづりをうけて、天日嗣あまつひつぎをつたへおまします。


神皇正統記 終


この著作物は、1925年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)50年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。


この著作物は、アメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。