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水晶の角玉

提供:Wikisource


水晶の角玉かくだま



 実業家笠松繁造しげぞうは薄日の射す縁側に出て、最近に手に入れた見るから古めかしいかや柾目まさめ碁盤ごばんを、光沢つや布巾ぶきんを手にしながら、しきりに拭いていた。梅雨時で降り続いた長雨が、今朝方ちょっとあがったので、泉水せんすいの鯉や鮒は水面に近い所をいきおいよく泳ぎ廻って、時々ボチャンと水音を立てたりしていた。

 「石を買わなければならないな」

 繁造はこんな事を考えながら、案外に好い碁盤なのでホクホクもので、終いに盤を仰向けにして、光沢拭きを掛け出したが、どうしたはずみか、足が一つポロリと抜けた。

 「おや」

 と思ったが、好い碁盤には足をめ込む穴に、その碁盤をこしらえた碁盤師の銘が書いてあるという事で、一度足を抜いて調べてみようかなどと思ったりした事があったのでそれほど驚きもせず、取れた跡を覗き込んだが、穴の奥にまた小さい穴があって、それがただの丸や四角の形ではなく、変に角が多く、切口の所は八角ほどになっていた。

 「おや、変だな」

 今度は本気に意外に思いながら、取れた足を見ると、足の方にも変に角張った穴があいていて盤の方の穴とピタリと合うようになっていた。

 「うむ。何か隠してあったのだな」

 繁造はちょっと当惑したように眉をひそめたが、やがて思いついたように、他の三本の足を抜いて見た。この方には別に不思議な穴はあいていなかったが、漢字で、東南、鍵、蔵という文字が、一本の足の穴に二つずつ書かれていた。

 暫く小首を傾けていた繁造は、そっと末の子の部屋に這入って、粘土細工用の粘土を取り出して、元の座敷に帰ると、奇妙な穴のあいている碁盤の足跡に入れて、上から足をグッと嵌め込んで、固まった所を見計らって、足を抜き粘土を取り出して見た。粘土は縦横幅共に六七分位に正しい形で、面の数が無数にある。恰度ダイヤモンドを磨き上げたような形をしていた。

 「宝石が隠してあったと見える」

 老実業家はまた少し怪しくなってきた空を、じっと睨みながら、暫く考えていたが、やがて彼は穴の跡を丁寧に拭いて、それぞれ足を嵌め込み、碁盤を重そうに抱えながら床の間の上に運んだ。

 そうしてそれっきり、他の用事に紛れて彼はその事を忘れるともなく忘れてしまった。

 二月ふたつきばかり経って夏の宵に、珍しく老実業家は着流し姿で、ステッキを振り振り京橋のある裏通りを散歩した。この四辺あたりは小さい骨董店が沢山軒を並べている所で、どうかすると掘出物があるので、彼は暇があると好んで素見ひやかして廻るのだった。

 彼はブラブラと歩いて行ったが、ふと通りかかった一軒の汚ならしい骨董店の飾窓ウインドーに眼がつくと、彼は吸い寄せられるようにその傍に寄り、ピタリと足を留めて、熱心に中を凝視し出した。

 飾窓の中は、おさだまりの煤で真黒になった怪しげな仏像だの、二三寸鯉口をくつろげた刀剣、水牛の角、得体の知れぬ仏具などが、乱雑に並べてあったが、それらの物の中ほどに、小さい紫檀したんの置物机があり、その上に模様のよく分らなくなった古い袱紗ふくさ勿体もったいらしく拡げて、その上に透き通るように美しい小さい多面体の水晶らしい石が置かれていた。

 繁造の眼はその石の上に、その石をかしてしまいはせぬかと思われるほどの勢いでピタリと注がれていた。というのはその石のおおきさといい形といい二月前に彼が古碁盤の足の抜けた跡の奇妙な穴で型を取った粘土と、寸分違わぬように思えたのだった。



 老実業家はツカツカと店の中に這入った。店には、頭髪あたまを綺麗に分けた、ちょっとこうした骨董店の番頭とは思われない若い男が、店の方に尻を向けて新聞を読んでいたが、繁造の這入って来たのを素知らぬ風で、振向こうともしなかった。

 繁造はむっとしたが、それでも、

 「今晩は」と声をかけた。すると若者は渋々しぶしぶ新聞を置 いて、振返ってうるさそうに、

 「今晩は」と答えた。

 「あの飾窓の中にある水晶の玉みたいなものね、あれを見せてくれませんか」

 「あれは駄目です」若者は首を振った。「見せられません」

 「見せられない、どうして?」

 「あれは売物じゃないのです」

 「売物じゃない」繁造は呆れたように繰返したが、「売物でなくてもちょっと位見せてくれても好いだろう」

 「ところがいけないのです、誰にでも手を触れる事はお断りしてあるのです」

 「不思議な話だ!」老実業家は腹立しそうに叫んだが、「じゃ一体どうした品なんだね」

 「他所様よそさまからお預りしているのですよ」

 「それをまた何のためにあそこへ出しておくのだね」

 「主人の命令いいつけですから、私は知りません」

 「では、とにかく、あれは売らないのだね」

 「ええ、売りません」

 「いくら出しても」

 「ええ、いくらお出しになりましても売りません」

 老実業家はプンプンして店を出た。骨董店が飾窓へ品物を飾っておきながら、売らないという法があるものか。それにあの店員の無愛想極まる態度は何だと、繁造はひどく腹を立てていたが、そこは金をあり余るほど持っている我儘わがままな実業家に有り勝ちな事で、いくらでも売らぬと云われると、なおさら欲しい。金を山と積んでも、我手に入れたい。高が水晶の角玉だけれどもそれが例の碁盤の裏に隠してあったらしいものと、寸法が頗るく似ているという事と、飾窓に勿体らしく置かれているという事としかもいくら出しても売らないという事などが、痛くこの老実業家の好奇心を刺戟した。どうしてでも手に入れてやるぞ。こうなると意地になるのが彼の癖だったから、その後二回ばかりその店に行った。そうして同じような押問答をして、いつも空手で帰って来た。

 物事が思うようにならないと、いらいらするのが人の常だが、してや我儘な老人の事であるから、ひどく機嫌が悪くなって、家の人や事務所の事務員に当り散らした。当り散らされた方ではまた始まったと思いながら、出来るだけ逆らわないようにしていた。

 四五日経って、繁造老人は自分の力だけではあの水晶の玉が容易に手に這入らぬと見切をつけたのと、水晶の玉にばかり掛ってられぬ用事が出来たので、彼は総領の繁太郎を呼んで碁盤の足の事から話出して、是非その玉を買取るように命令いいつけた。

 一伍一什いちぶしじゆうを聞いた繁太郎は、年が若いだけにひどく碁盤の方に興味を持った。

 「宜しい。きっとその玉を手に入れてみましょう。で、お父さんいくらまで出すんです」

 「千両まで出す、もし買えたら骨折料として貴様に百両やるよ」

 「一週間暇を下さい」

 繁太郎は抜目なく云った。彼は二三年前に大学を出て、父の経営している会社に、重役秘書という名で、勤めているのだった。

 「一週間は長過ぎるなあ」繁造は暫く考えていたが、水晶の玉がよくよく欲しかったと見えて、「宜しい、休暇をやろう。その代りきっと手に入れるのだぞ」


 繁太郎は早速碁盤を調べてみた。しかし、父が既に調ベた以外に格別新しい発見をする事は出来なかったので、碁盤を買入れた店に電話で出所でどころを聞き合せた所が、埼玉県下の某豪農の所持品という事が分っただけでそれ以上委しい事は分らなかった。それでなお出来るだけ委しい事を調べてもらう事を依頼して、第一の目的たる水晶の角玉を手に入れるべく、父から教えられた店に出かけた。

 日中はあまりに暑いので、日のずっと傾いた黄昏たそがれ近く に、繁太郎は京橋の裏通りの例の骨董店の前に立った。飾窓には父の云った水晶の玉が父の見た時そのままで飾られていた。繁太郎は別に何という事なしに暫く立止って玉を眺めていた。すると、彼の傍に寄り添って同じように窓を覗く者があったので、彼は少し場所を譲りながら、見るともなしに見ると、真白な洋服を着た美しい若い娘だった。はっと思っているうちに、彼女は窓を離れてツカツカと店へ這入って行った。

 繁太郎も無論店へ這入る積りだったが、先を越された形で、それにその店がひどく狭くって、二人の客を入れるには窮屈だったしママするので、その女客が出てからにしようと思って、入口の所に立って中の様子を見ながら待っていた。

 「今日こんにちは」娘は透き通るような声で云った。

 中にいた番頭は父の時の番頭と同じ者らしかったが、この番頭は一日中新聞を読んでいるものと見えて、この時も背向うしろむきになって、拡げた新聞に顔を埋めるようにしていたが、面倒臭そうに、

 「今日は」と答えて、振向いたが、思いがけなく若い美しい娘が立っていたので少し狼狽したようだった。娘は繁太郎の見る所ではどこかの女事務員というタイプだった。

しかし、その真白な洋装がピタリと合うような清楚な上品な顔立ちで、晴れ晴れとした眼は人懐ひとなつこいながら、どこかに犯し難い気品があった。繁太郎は思わずうっとりと女の横顔に見惚みとれていたが、彼女の云った次の一句に、電気にでも触れたように身体を鯱張しゃちこばらした。

 「あの飾窓ウインドーの水晶の玉を見せて下さいな」

 さてはこの女もあの玉を欲しがっていると見えると思いながら,繁太郎はかたを呑んで番頭の返事を待っていた。

 「駄目です、あれは見せられません」

 番頭はかねて聞いていたように無愛想に答えた。

 「そんな意地の悪い事を云わないで、ちよっと見せて下さいな」女は媚を含んだ眼を番頭に向けながら嘆願するように云った。

 「駄目なんですよ、あれは売物じゃないのですから」

 「売物じゃないんですって。そんな事はないでしょう。そんな事を云わないで見せて下さいよう」

 「ほんとうに売りものじゃないのですから」

 さすが仏頂面ぶっちょうづらの番頭も相手が美人なので、些か持て余し気味だった。

 「だって、売物でもないものを、ああやって出しておく訳はないでしょう」

 「それが、か、看板なんですよ」

 「ええ、看板ですって」

 「ええ、あれを見て這入って来た人が、何か他のものを買ってくれますから」

 「嘘、嘘」娘は微笑ほほえみながら、おてんらしく叫んだ。

 「番頭さんたら意地悪ね、ちょっと見せて下さいったら、見せて下さいな」

 「いいえ駄目です」

 繁太郎は二人の問答と様子をききしながら、番頭の片意地なのと、娘が熱心なのに驚嘆していた。あの未通女おぼこしとやかそうな娘が、殆ど色仕掛といっても好いほど、色っぽい眼で誘惑を試みようとしているのは、よくよくの事であり、その美しい女の眼の誘惑にさえ乗らず、ちょっと手を延ばしてあの小さい水晶の玉を見せようとしない番頭にも、よくよくの理由がありそうに思えるのだった。

 やがて娘は落胆した色を現しながら、トボトボと店を出て来た。繁太郎はもうその店に這入って、あの無愛想な番頭と無益な問答を繰返す勇気がなくなっていた。その上、彼は美しい娘の姿と、その娘が非常にあの水晶の玉を見たがっている事に好奇心を起して、思わずじっと彼女の後姿を見送った。

 と、容易ならぬ事が起った。というのは例の番頭が店の奥の方からチラと表の方へ目配せをしたが、すると店の向側むこうがわの軒先に佇んでいた風体の悪い男が、ちょっとうなずいたかと思うと、女のあとけ出したのである。

 繁太郎は呆気に取られたが、考えてみると、父の場合もやはりこんな尾行がついたのかも知れぬ。父は気がつかなかったようではあるが、何にしても、この店は怪しい店だ。あの水晶の玉で人を釣って何か好からぬ事をし ているのに相違ない。いずれにしてもあの可憐な女を見捨てておく訳には行かぬ。

 繁太郎は咄嗟とっさに決心すると、飾窓をつと離れて、女を 尾行して行く怪漢をまた尾行し始めた。



 女は怪しげな男が尾行しているのに気がついたらしく、急に足を早めて、不安に堪えないようにソワソワし出した。ずっと離れて後からついて行った繁太郎はその様子を見ると、猶予していられないような気持ちになって、 足を早めると、駈け出すようにして尾行している怪漢を追い抜き、彼女に追迫おいせまって肩を並べるようにしながら、

 「モシモシ」と声をかけた。

 娘は飛上るように驚いて横を見たが、それが尾行して来た怪しげな風体の男ではなく、立派な青年紳士だと見ると、やや安心したらしいが、それでも油断なく身構えながら、

 「何か御用ですか」

 ときっぱりした口調で云った。それは先刻さっき骨董店で番頭に色っぽく話しかけていた時と別人のようだった。繁太郎には反ってその方が嬉しかった。

 「今ね、あなたを、怪しげな奴が尾行しています。ですから、失礼ですけれども、僕はあなたの友達のように見せかけますから、あなたもその積りで並んでお歩き下さい」

 繁太郎は早口に女の耳許で囁いた。

 娘は繁太郎の悪意のない紳士である事を漸く悟ったらしく、「有難う」と簡単に礼を云って、足並を普通の早さに落して、繁太郎と肩を並べた。

 「それからね、甚だ失礼ですけども」並んで歩きながら繁太郎は相変らず早口に云った。「あなたの見たがっていらしたあの玉ですね。実は私もあれを手に入れたいと思っているのですが、それについてちよっと奇妙な話もあるのですが、あなたがどういう訳であれを欲しがっていらっしゃるかという訳も聞きたいし、ちょっとどこかでお話し下さる訳に行きませんでしょうか」

 「ええ」娘は往来で初めて会った男にこんな事を話しかけられて大分警戒しているようだったが、繁太郎の人柄が信頼出来そうなのと、水晶の玉についての話というのがよほど興味を惹いたと見えて、低声こごえで答えた。「ええ、参りましょう」

 「ではタキママシーを呼びますから」繁太郎はいそいそして云った。「とにかく、あの尾行して来る男を撒いてしまうためにお乗り下さい」

 そう云って、繁太郎は走って来たタキシーを呼留めて、娘を中に入れ自分も続いて中に這入り、運転手に「須田町」と云った。

 神田に近づいて来ると、彼は急いで運転台との仕切の窓を叩いた。

 「ここで下してくれ給え」

 乗って来たタキシーが走り出してしまうと、繁太郎はまた別のタキシーを呼び留めて、彼女を促して、再び車中の人となった。

 「銀座!」

 繁太郎は運転手に命じておいて、彼女の方に向き直りながら、

 「銀座辺の喫茶店でお話しましょう。こうしておけば例の尾行していた男が、私達の乗った自動車の番号を覚えていて、後で見つけ出して運転手に訊いたとしても、大丈夫ですよ」



 繁太郎は彼女を銀座のある喫茶店の二階に伴った。日が暮れたばかりの所なので、客は殆どいなかった。

 「どうも御迷惑です」繁太郎は云った。「私は笠松繁太郎と云いまして会社員です。あなたは?」

 「私は小山直子と申します。やはりあの、会社に勤めておりますの」

 「何という会社ですか」若い女と話しつけないので、云ってからはっとしたほど、彼の質問は不躾ぶしつけだった。

 「は」直子は少しもじもじしていたが、「Mビルヂングの友田商会と申します」

 「友田商会?」

 Mビルヂングといえば、やはり繁太郎の勤めている会社もそこにあるし、彼はMビルヂング関係者の組織しているMクラブの会員であるから、少し大きい所の会社員の主なるものは知っているはずだったが、友田商会というのには覚えがなかった。最近にビルヂングに移って来たのか、さもなければよほど小さい店なのだろう。

 「古くからお勤めですか」

 「いいえ、最近ですの」

 「ところで」繁太郎はボツボツ本題に這入った。「水晶の玉の一件ですがね、どういう訳であれほど御執心なのですか、お差支さしつかえがなくば、お知らせ下さいませんか」

 「あれは私が欲しい訳ではございませんの。商会の社長の友田が是非、手に入れたいと申すのです」

 「へえ、実は私もね、親父が是非手に入れたいと云うので、今日あそこへ行ったのですが、あなたの談判の様子ではとても駄目らしいので、這入らずに来たんですよ」

 「あら」直子は眼をみはった。「あれを聞いていらっしたんですか」彼女は大分打解うちとけてきた。

 「ええ」繁太郎も軽く返辞ママが出来るようになった。

 「まあ、私、どうしたら好いだろう。あんな恥かしい所を見られて」彼女は顔を赤くして、いかにも恥入るという風だった。

 「構いませんよ。社長さんのために一生懸命になっておられたんですもの」繁太郎は気の毒そうに慰めた。

 「ええ、全くそうなんですわ。そう思って頂ければ私安心です。実は社長という人がとても骨董の好きな人でして、始終骨董屋をあさって歩くんですが、四五日前にあの水晶の玉を見つけたんですね。ところが番頭が売らないばかりか、手に取って見せる事もしないので、一時は腹を立てたらしいのですが、骨董好きなんて妙なものですね、売らないと云われるといよいよ欲しいものと見えます。で、今朝でした、私を呼んで、小山さん、これこれの訳なんだが、私が云ってもどうしても応じないが、あなたは女だから、向うでもいくらか愛想よくするだろうし、話もきっとつくと思うから、是非行って買ってくれと申すのです。私は一度は断りましたけれども、ってと云いますので、仕方なく引受けましたのですわ」

 「私の親父もその通りなんです」繁太郎はあまりに話がく似ているので思わず微笑みながら、口を差挟さしはさんだ。

 「そうですか」直子もニッコリ笑いながら、「でも、私それだけならあんな厭な番頭に、あんなに嘆願しはしませんでしたわ」

 「ああ、分りました。懸賞があったんでしよう」

 「ええそうなんですの。私が成功すれば千円くれると申しました」

 「ほう、それは私のより大分多い」

 「あら、あなたにも懸賞がありますの」

 二人は顔を見合ママして、ニッコリ笑った。

 「ええ、私のはたった百円ですよ」

 「だって、それはお父様から頂くんでしょう」

 「ええ、そうです」

 「それならいくらでも結構ですわ。私だってお父さんが生きてさえいたら僅かな金が欲しさに、番頭風情をつかまえて、あんなはしたない真似まねはいたしません」

 「お父さんはおなくなりになったのですか」

 「ええ、今は母と二人きりですの。私の家は祖父の代までは埼玉県で一二を争う豪農だったんだそうですけれども、父の代になってすっかり貧乏してしまいました。今は私がこうやって働いて母を養っておりますの。ですから、今の私に取りましては千円だって馬鹿に出来ない大金ですわ。それでも母がいなければお金なんか欲しいと思いませんけれども」

 彼女は急にしんみりとした口調になった。

 繁太郎は埼玉県という言葉を聞いて、急に膝を進めた。

 「あの、埼玉県の豪農でしたって?」



 埼玉県の豪農といっただけでは、埼玉県も広いし、豪農も数が多いし、それが例の碁盤の売主とはきまっていないけれども、どうせ所蔵品を売払うからには零落おちぶれたのだろうから、その点ではあるいは関係があるかも知れないと意気込んで訊いたが、実は繁太郎は水晶の玉の事などはどうでも好くなって、今はこの可憐な美しい直子と話しているのが愉快でたまらなかった。彼はちっとでも多く彼女を引留めて話がしたかったのだった。零落れた豪農の娘! 健気けなげにも華奢きゃしゃな身体で働きながら、母を養っている娘! 血の気の多い繁太郎の頭にはもうローマママンチックな物語が作られていたのだった。

 「ええ、そうなんですの」豪農の娘だったなどと、端たない事を口にしたのを後悔したらしかったが、今更否定もならず、彼女は微かにうなずいた。

 「ではもしや、碁盤がありませんでしたか」

 これは我ながら可笑しい質問だった。豪農でなくても碁盤の一面位はどこの家にでもある。繁太郎は苦笑した。

 「ええ、ございましたわ」直子はこう答えたが、あまりだしぬけの質問に面喰めんくらったようだった。

 「いや」繁太郎は頭を搔きながら、「碁盤といっても普通のでなく、古びた榧の征目の――」繁太郎は委しく碁盤の様子を説明した。

 「ええ、それと同じのがございました」直子は昔の事を思い出したように眼を輝かして答えたが、急に沈みながら、「ですけれども、もうありませんわ。とうに売ってしまいましたから」

 「うちへその碁盤を見に来てくれませんか。今云った古い碁盤を最近に手に入れましたから」

 「え、え、それは本当ですか」直子は興奮して叫んだ。

 「参りますとも、お差支えさえなければ」

 繁太郎は彼女の言葉を半分も聞かないうちに、ボーイを呼んで勘定を命じていた。

 二十分の後には二人を乗せたタキママシーが、笠松家の玄関に横づけになっていた。

 タキシーから出て四辺を見廻した瞬間に、直子はひどく気後きおくれがしたように云った。

 「まあ、これがあなたのお宅なの」

 「ええ」

 「ああ、私」彼女は口のうちで呟いていた。「来なければ好かった」

 けれども碁盤の誘惑に堪えかねた彼女は、おずおずと玄関に上った。繁太郎は驀進まっしぐらに座敷に彼女を案内した。

 碁盤を見た瞬間に、彼女は棒立ちになった。しかし次の瞬間に彼女は歓喜に堪えないという叫声さけびごえを出して、碁盤に駈け寄ると、母親が赤坊あかんぼうをあやすように、愛撫しながら云った。

 「ああ、これです。これに違いありません。これは先祖から伝ったもので、父が死ぬまで愛して傍を離さなかったのです。それを、先年家を畳む時に止むなく売払ったのでした。私は何だか死んだお父さんに会ったような気がします」

 彼女は懐旧の情にむせびながら、基盤を抱き締めた。

 「そうでしたか、では早速お訊きしますが、あなたはこの穴の中にかくしてあったものを知りませんか」

 繁太郎は碁盤を仰向けにして、一つの足を抜いて、例の小さい穴を示した。

 「ああ」直子は吃驚びっくりしたように叫んだ。「こんな所に穴のあるのは少しも知りませんでした。何が這入っていたんでしょうか」

 彼女は穴をじっと見ていたが、

 「おや、この穴の形はあの水晶の玉そっくりです。では、もしや」彼女は暫く考えていたが、突然狂気したように飛上りながら叫んだ。「ああ思い出しました。思い出しました。この穴に這入つていたものを」

 「え、え、それはどこにありますか。そして何です。それは」

 繁太郎は彼女の傍にり寄って叫んだ。



 「それは鉄の塊です。私が大切にしまっておきました」

 彼女が息を弾ませながら語る所によると、彼女の父というのは一種の発明狂で、それに大の帝国主義者だったので、その当時では未だ珍らママしかった飛行機の研究をしたり、水雷すいらいを操縦する機械の発明に凝ったりして、とうとう親から伝った莫大な財産を一文なしにしてしまった。しかし、一部の人々の中には、あれほどの大財産がすっかりくなる訳はない、どこかに隠してあるのだろうと疑って、いろいろ調べてみたが、結局なんにも得る所はなかった。

 「母も、ことによったらお父さんが戦争の時を考えて、きんにでもして隠しておかれたかも知れないと冗談のようには云いましたが、結果私達に残されたものは、古ぼけた家財道具と、今云う鉄の角の多い四角な塊だけでした。鉄の塊は父の生前よほど大切にしていましたので、何の役に立つか分らないで、蔵っておきましたのです」

 「鍵はありませんでしたか、鍵は」一伍一什を聞いて、繁太郎は興奮しながら叫んだ。

 「え、どうしてそれを御存じですか、古びた鍵一つ、父の遺して行ったものがあります」

 「そうですか。では行きましよう」

 「え」あまりだしぬけだったので、直子は耳を疑うように、「どこへ行くのですか」

 「あなたの故郷へ、あなたの元の屋敷へ」

 「参りますまい」直子は首を振った。「昔の事を思い出すのは厭ですし、それに」彼女は口籠くちごもりながら、「私はあなたとお交際つきあいをした事を後悔していますの。あなたにお会いしなければ好かったと思っていますわ。私はやはりただの女事務員として暮して行かねばなりませんもの。あなたのような方とお交際は出来ません」

 「いいえそんな事を云ってはいけません。あなたはあなたの家に蔵された宝を探しに行かねばなりません」

 「えっ、宝ですって」

 「さママうです」

 「どうしてそんな事がお分りになりました?」

 「想像です。想像ですけれどもたしかだと思われます。ですが考えてみると、今日はもう日が暮れました。明日の朝参りましょう」



 翌朝早く、二人の男女が川越行の電車に乗っていた。それは、笠松繁太郎と小山直子だったが、電車に乗った時から彼等の後を怪しい男が二人尾行しているのを、彼等は少しも知らないようだった。二人は宝を掘りに行くという異様な仕事に、すっかり余裕を失っていた。

 「これが蔵ですわ。母屋おもやの方には人は住んでいますが、この蔵はこんなに荒れてしまったから、もう使ってないようですわ」

 二人が直子の旧屋敷についた時に、直子は丁字路になった狭い路の角に建っている蔵をゆびさした。

 「この角が東南ですか」

 「いいえ向うの角になります」

 「では断らねば這入れませんね」

 「どっちにしたって、断らなければ這入れません。私が断ってきます」

 直子は駈け出したが、やがて許しを得て帰って来たので、二人は蔵の中に這入った。

 「これが東南の隅ですね。鍵穴があるでしょうから探して下さい」繁太郎はそう云って、用意していた懐中電燈を照らした。

 「ああ、ありました」直子は叫んだ。

 「では、あなたの持っている鍵で開けて下さい。多分合うでしょう」

 「ええ、合います。ですけれども、私何だか恐ろしいような気がして」

 「馬鹿な事を云っちゃいけません。早く開けて御覧なさい」

 床の隅にあった鍵穴に鍵を入れて、カチリとひねると、床の一部が持上るようになった。床の下には小さい鉄の函があった。鉄の函の鍵もやはり同じだったので、難なく蓋を開けると、鉄の函の底に多角形の穴が開いていて、それが管のようなもので、ずっと土中まで続いているらしかった。

 繁太郎は暫く腕を組んで考えていたが、やがて直子の方を向いて、

「直子さん、この穴から例の鉄の塊を投げ入れて御覧なさい」

 直子が云われた通りに穴に鉄の塊を入れると、塊は穴に恰度スレスレに適合して、スルスルと滑って行った。

 と、轟然たる音響! グラグラと蔵がゆらめいた。

 地震! 二人は手を取って飛出したが、ぞっとした事には、地面が急に落込んだと見えて、蔵の直ぐ外側に大きな穴が開いて、蔵の壁の一部がその中へ落込んでいた。

 二人は手を握り合って、ブルブル顫えながら穴の中を見たが、あっと叫んで顔色を変えた。

 穴の中に血にまみれて二人の男がたおれていた。

 二人で恐々こわごわ再び覗き込むと、斃れている一人の男は確かに例の奇妙な骨董屋にいた無愛想な番頭だった。も一人は?

 「あっ、あれは確かに茂吉です」そう云って彼女は繁太郎に獅嚙しがみついた。

 「茂吉とは」

 「以前私の所にいた下男です」と直子は答えた。が何を見つけたか再び驚きの声を上げた。「あの、二人の斃れている下に何かあります」

 不意に落込んだ穴の中には大きな鉄製の函があって、その中には時価十万円余の白金塊はっきんかいがギッシリ詰っていた。無論直子の父が蔵しておいたものだった。



 「直子さん、蔵を壊して見てすっかり分りましたよ」繁太郎はニコニコしながら云った。二人は広々としたヴェランダに籐椅子を向い合せて、庭から吹いて来るソヨ風に頰をなぶらせていた。

 「あなたのお父さんの頭は偉い頭でしたね。組織的の学問をしていたら恐らく大発明をしたでしょうよ」繁太郎は語り続けた。「お父さんのお考えは要するに重力の応用なんです。よくホラ富士山の上で小石でも下へ落してはいけないと云うでしょう。その訳は頂上で小石を落すと、小石はコロコロ転げてだんだん勢がついて、自分より大きい石にコツンと突当ってもそのままその石で食い止められないで、今度はその石をゆるがす、するとその石はだんだん動き出して、今度はそれよりももっと大きな石を動かす、いには見上げるような大石を転ばすようになるとこう云うのです。お父さんは多分船の進水式からお考えになったのでしょう。船が進水する場合に、船は一本の細い綱で、傾斜した進水台に止められています。しかも、これは直接綱で止められているのでなく、いくつもの槓杆こうかんを組合せ、その最後を綱で止めてあります。この理窟ママは恰度重いものを支えるのに、ただ綱で下げては持てないが、柱にグルグル綱を巻きつけて、その端を持っていると支えられるようなもので、槓杆を沢山組合せてその端を細い綱で支えてあります。で、進水に際して、支えている綱を切ると、そのはずみに槓杆がーつガチャリと外れて下へ落ちて、その力で次の槓杆の端を叩く、そうすると二番目の槓杆が外れる。順次にそうして行って最後に大きな止めが外れる、船が滑り出すというのです。いずれも小さい力を利用してだんだん大きくして行く方法です。将棋倒しもこの理窟ママです。

 ところで、お父さんの考えた事はも一つ、自働ママ電話を掛けた人は知っているが、十銭を入れる穴へ間違って五銭を入れると、下へストンと落ちて来る装置があります。あれは訳はないので、金の滑り落ちて行く道に十銭は通り過ぎるが、五銭は通り過ぎる事が出来ないという間隙を拵えておけば宜しいのです。

 直子さん、宜しいか、あなたのお父さんはこれだけの事を利用して宝物を地中に隠したのです。あの鉄の塊りを投げ入れた穴ですね。あれは他の形のものを入れると、下まで届かないうちにほかの道にれるようになっています。また鉄の塊以外のものは同じ形でも、重さの関係で下の底へ突当っても、梃子てこが外れないようになっています。つまりどうしても、あの鉄の塊でなければならないのです。

 鉄の塊が管に沿って走り出し、十分な強さになって、ドンと底へ突き当りますと、まず第一の槓杆が外れ、次に第二の槓杆が外れ、次に外れて行って、最後にあの陥穴おとしあなを支えている槓杆が外れて、穴が開く仕掛なのです。

 穴の開いた時に蔵の壁が落ちたのは、全く蔵の土台が腐っていたためで、お父さんの設計ではそんなはずはなかったのです。そのために会々たまたま二人の悪者が死んだのは、あるいは天罰かも知れません。

 あの二人は我々を尾行して蔵の外に立ち、あわよくば掘り出した宝を横奪よこどりしようとしたのです。お父さんが宝をかくしている事をあの茂吉という男が知って、も一人の男に相談したのでしょう。

 茂吉はきっと基盤の秘密を知っていたのでしょう。私の考えではあの碁盤の中にはダイヤモンドが這入っていたのでも何でもなく、もしあなたに渡しておいた鉄の塊が紛失でもした時に、あの穴を型にして、鋳造する事が出来るようにしてあったのでしょう。ところで、茂吉は会々碁盤の足を抜いて、東南、蔵、鍵という暗号とあの穴の事を知っていたのです。

 それで茂吉はあの男にその事を相談すると、暗号だけ知っていても肝心のその足の中に入れてあった宝石がなくては何にもならないというので、あなたに眼をつけ始めたのです。無論悪人共はあの穴に宝石があって、それが何かの役に立つと考えたのです。友田商会の社長とか、骨董屋の番頭とかいうのはみんな共謀ぐるなのです。共謀して偽の玉を大切そうに飾って、あなたにああいう形をした水晶なりダイヤモンドなりを出させる積りだったのです。実際旨くやりましたから、あなただってもしそんなものを持っていたら、取替えてもらう積りか、それとも値打を見てもらう積りで、あの店へ持って行ったかも知れませんからね。あなたの持っていたのが鉄の塊だったので、一向そんな事に気がつかなかったのが、向うに取っては生憎あいにくで、こっちに取ってはさいわいだったのです。

 ところで、あの二人はいつの間にか私達の事を嗅ぎつけていたと見えます。私達があなたの郷里の方に出かけたので、二人はきっと私達が宝の在所ありかを考えついたものと思い、そっと後をつけて蔵の外で様子を窺っているうちにあの災難に遭ったのです」

 聞き終った直子は感謝に堪えないように、繁太郎の顔を見ながら、

「あれもこれも皆あなたのお蔭ですわ。私はあなたのお蔭で救われました」

「いいえ」繁太郎は首を振った。「私こそあなたに救われたのです。私は幸福です」

 そう云って繁太郎は立上って固く直子の手を握った。直子はポッと顔を赤くしながらじっと彼のすままに委していた。

この著作物は、1945年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)50年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。


この著作物は、アメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。