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東照宮御実紀附録/巻廿四

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東照宮御実紀附録 巻廿四
 
なべてえうなき御遊戯は、このませ給はざりしが、時としては申楽を御覧じ、あるは囲碁・将棋などもて、御消閑にもてあそばれし事もありしかど、ふかく御心とめられしにもあらず、家康鷹狩を好むたゞ鷹つかふことばかりは、御天性すかせられ、御若年より御年よらせらるゝまで、いさゝかも暇ある折は、かならず出立たせ給ふことなり、既に長久手の戦畢り、豊臣秀吉が許より土方下総守雄久等を使として、御上京の事を勧め進らせしに、三河の吉良の辺に狩せさせ給ひしが、彼等を召出し、御手に据ゑられし鷹を指し給ひながら、われ此頃は鷹つかふをもて、明暮の楽とす、都方は織田殿のすゝめにて一覧せしかば、今はた見まくも思はず、さりながら秀吉あながちに我を上せむとて、軍勢さしむけむには、この鷹一据もて蹴ちらさむものをと仰せられしかば、雄久等大に恐れて、京へ逃げ帰りしとか、また奥の景勝御追討の時、御路すがら軍をば後にせられ、たゞ鷹のことばかりに御心とめられし様なれば、本多中務大輔忠勝、あまりの御事なりと申せば、いやとよ、わがかくたはれたる様するは、汝等をしてよき幸得させむがためなりと仰せられき、また常に人に御物語ありしは、おほよそ鷹狩は遊娛の為のみにならず、遠く郊外に出で、下民の疾苦、土風を察するはいふまでもなし、筋骨労動し、手足を軽㨗ならしめ、風寒・炎暑をもいとはず、奔走するにより、おのづから病など起る事なし、その上朝とく起出づれば、宿食を消化して朝飯の味も一しほ心よくおぼえ、夜中となれば、終日の倦疲によて快寝するゆゑ、閨房にもおのづから遠ざかるなり、これぞ第一の摂生にて、なまの持薬用ゐたらむより、はるかに勝れりとの仰なり、されば御好の深くおはしませしは、元より遊戯に耽らせ給ふにもあらず、一つには御摂生のため、一つには下民の艱苦をも近く見そなはし、山野を奔駈し、身体を労動して、兼ねて軍務を調練し給はむとの盛慮にて、かの晋の陶侃といへるが、甓を運びしためし思出でゝいとかしこし、〈中泉古老諸談、〉

家康鷹場に婦人を携ふ御鷹野のさきへは、いつも女房共召連れられそが内にて、上臈だちしは輿にのり、その余はいづれも乗懸馬に茜染の蒲団敷きて乗り、市女笠の下に、ふくめむオープンアクセス NDLJP:2-121して供奉する事なり、いつの頃にや、例の泊狩に出立たせたまはむとて本多上野介正純、諸事奉はりて指令しけるが、ひそかに伺ひ奉りしは、いつも御狩場へ女中を馬にのせて召連れらるゝ事なるが、今泰平の折から、御前近く侍ふ女房共が、馬上に顔面をあらはすも、あまり失体なれば、この後はなべて乗輿せしめむと申す、君聞召して、汝が申す所理なり、されど人々其分の高下によりて、行所の事また異なり、小身なれば諸事手軽にするは勿論なれども、時としては鄭重にする事もあり、大身はおのづから重大なれど、また軽便にしてかなふ事もあり、これはその時宜に応じてかはるなり、一様には心得まじきぞ、おほよそ鷹狩は、たゞ鳥獣を多くむさぼらむ為のみならず、無事の時なりとて、上下共に身を安佚に取りては、手足たゆみて、おのづから急遽の用に立たぬものなり、されば鹿狩・鷹狩などして上も下も身を馴らし、乗物をすてゝ歩立になり、山坂を凌ざ水流をかち渡し、さま労動して、身体を堅固にするなれ、かつは家人等剛弱の様をかうがへ見るにも便なり、家人もまた奔走駈馳するによりて、歩行達者になりて、物の用に立つなり、かかれば大名の狩するは、軍法調練の為なり、但し軍中に婦人を携へざれども、狩は遊娛を兼ねたれば、使令のたより良からしめむ為に、婦人を召連るゝなり、元より乗輿の者は馬にのり、騎馬の者は歩行になる習なれば輿にのるべき女の、馬に乗りて供するは、相当の事なり、大身も手軽にしてすむとはかゝる事ぞ、汝重役をも奉はりながら、その分別がなくては叶はぬぞとて、ねもごろに御教諭あそばせしとなむ、〈岩淵支話別集、落穂集追加〉

御狩の度ごとに、あらかじめ厨所を定められ、御着あれば、常に焼飯を召上られ、また時によりては、さきの民家に入らせたまひ、芋など煮さしめて召上られ、饑にあてられしとぞ、いと真率の御事どもなりき、〈寛元聞書、〉

家康大坂に在りて鷹を使ふ慶長四年十一月の頃、大坂におはして、世の中もやゝ静なれば、増田右衛門尉長盛めして、我若年より鷹狩をもて楽とす、近年は故国を離れ、当地に滞留して、何の暇もなきまゝ、鷹の据ゑ様だに忘れたり、此頃世も穏なれば、郊外に出で鷹試み、少しは心をも慰めむと思ふ、されど此折から鷹の一聯だになし、其もとさるべく計らはむにやと仰あれば、長盛うけたまはり奉り、いと易き御事なり、よきに計らひ申さむとて、太閤在世の時、鷹の事司りし佐々淡路守・増田若狭守に命じ、鷹師どオープンアクセス NDLJP:2-122もよび集め、よろづむかしの如く用意し、供奉には御心易きかぎりの織田有楽・細川幽斎有馬・金森・青木の三法印・山岡道阿弥・岡江雪・前波半入、御家人には井伊兵部少輔直政・榊原式部大輔康政・酒井内記忠重・同与七郎忠利など、御輿の後にしたがひ、終日狩くらし給ひ、其夜は摂州茨木に宿らせられければ、当地の代官川尻肥前守宗久御膳を奉り、明くる六日に還御なり、佐々・増田へは御使もて銀・時服たまひ、鷹師どもへは関東絹・銀、犬飼・餌さしの類は、銀あるは鵞眼をこちたく下されしかば、いづれも盛意をかしこみ、いつもの内府公の客さには引かへたり、兎角凡慮の及ばぬことゝ驚歎して誦誉し奉り、御威望のそはせ給ひし事、大方ならざりしとなむ、〈落穂集、〉

家康鶴を禁中仙洞に献す慶長十七年正月、三河の吉良の辺に御狩ありて、御みづからとらせられし鶴を、仙洞へ進らせられ、広橋・勧修寺の両伝奏へもつかはさる同月また御鷹の鶴を内に進らせ給ふ、これぞ後々御拳の鶴を京へ駅進せらるゝ恒例とはなりしなり、〈駿府政事録、〉

おなじ年二月三日、遠州堺川二上山にて御鹿狩あり、勢子五六千人、弓銃もて駈立らる、唐犬六七十疋を放たしむこの時銃技に名を得し者、あまた召連れられしかば、猪二三十ばかり御得物あり、また天正の頃、三河の吉良に狩せさせたまひし時、手負ひし野猪、御前近くはしり来りしに、旗下の士春田半兵衛将吉駈せ出で組とめしかば、御けしきの余り、これより汝が名を猪之助と改むべしと仰付けらる、常に御狩にならせらるゝに、鏃をぬかせられ、又は根矢ならば、あたらぬやうになさしめしとぞ、御仁心の一端うかゞひ知るべし、〈駿府政事録、家譜、天野逸話、〉

ある時、暁ふかく狩に出立たせられしが、いかなる思召にや、十町ばかり成らせられて、俄に還御ありしに、御城門閉ぢたれば、明けよと仰せけれども、番兵どもあやしみて、とみにあけず、火をともし、尊顔をしかと拝してのち、門開きしかば、人人無礼の所為なりといひしが、かへりてよく其職をまもり、心を用うるとて、衣服など給はり、褒せられしとぞ、〈続武家閑談、〉

いづれの地か、ほど遠き所に御狩ありしに、折しも雪降り出で、供奉の輩のぬれそぼつさま御覧じ、御輿の戸を明けられ、いとをかしの景色かなと宣ひて、御自らもぬれそひ、行殿に着かせ給ふにも、御身にかゝりし雪払はむともし給はず、いそぎオープンアクセス NDLJP:2-123粥煮よとて、煮はじめ給ひ、少し召上られて、残りはみな御供のものに給ひ、これたべてあたゝまれと仰せければ、いづれも御仁意のかしこさに、挟続の思ひをなしけるとなむ、〈天野逸話、〉

本多正信秀忠近侍の誅戮を諫む一とせ駿河より江戸へわたらせ給ひ、武相の間御狩ありしに、御場の内に、もち縄張りてありしを御覧じ、こは誰がせしことゝ御糺あれば、青山常陸介忠成・内藤修理亮正成、両人が申ゆるせしゆゑなりと申せば、にはかに御けしき損じ、誰なりとも、我留場にて、かゝる曲事せしめしこと奇怪なれ、将軍は知りたまはぬかと宣へば、此よし江戸に聞え、将軍家も驚かせ給ひ、両人を誅せられむと思召せども、かれ等いとけなきより、御側近く召仕はれ、今さら誅せられむにも忍びたまはねば、駿河へ還御の後、阿茶の局もて御けしきとらせ給ひしかども、何の御答もましまさず、かくてはいかゞせむとおぼし召し、本多佐渡守正信を御使につかはさる、正信駿府に参り謁見して、こたび若殿には青山・内藤の両人を誅して、御怒を休められむと宣ふ、正信などもかく老年に及び、彼等がごとく、いさゝかの過誤にて、御誅戮に逢はむも図りがたし、此後は江戸の仕を返し奉り、こなたに参りて、余命をつながむと存ずるよし申せば、御心とけ給ひ、将軍には左様まで心かけらるゝや、さらば両人の罪ゆるさるべしと仰ありて、しばし門をとざして籠らしめ、其職をば免さしめしとなり、〈武家閑談、〉

天海出猟時刻の吉凶を相す世治りて後、御狩に出立たせ給ふに、明日は何時に御出がよきといふを、いつも天海僧正に問はしめらるゝ事なるが、和尚常に巳刻がよしと申す、後に御不審に思して、刻限の吉凶も日によももなはるべとに、御坊は例巳いつもの刻がよしといふは、いかなるゆゑぞ、天海承り、さればにて候、御軍陣の時ならば、日時の吉凶、方位の向背によりて、時刻の遅速も侍れ、只今四海一統して、何の御心配もおはしまさず、この時に乗じて、鷹を臂にし給ひ、郊外に出で御遊興あるに、時刻の早ければ、供奉の輩、暁深くより起出で、寒夜ならば風霜にあたり、夏なれば短夜にくるしみ、いとからくも思ひ侍れば、いつも巳刻と申上ぐるは、御時宜を見はからひての事なりと申上げしかば、君にも和尚の心用ゐこそ理なれと仰せけるとぞ、〈及聞秘録、〉

丹沢正忠丹沢七右衛門正忠といひしは、武田が家人なりしが、関東へ移らせ給ふころより当家に参り、元より鷹の事に精しければ、いつも御供にめし加へらる、ある時成らオープンアクセス NDLJP:2-124せたまふに、正忠、この路筋には田切のあれば、御路をかへ給へと申す君、われ幼きより駿河にて生長したれば、路の案内よく知りたり、この路にさる所なしと宣ひて成らせ給ふに、はたして路絶えたれば、笑はせ給ひながら、丹沢、かゝる田切のあるを、何とて知らさぬとて咎め給ふ、また鳥の有無を見せに遣されしに、かへり来て見えずと申す、やがてその筋通御あるに、鳥あまた下り居たれば、丹沢、いかに、汝には見えぬかと宣へば、先にはなかりしが、たゞ今入懸りしなりと申せば、そはわれもとくより知りたりとて、また咎め給ふ、還御のゝち、今日は日ひとひ丹沢とあらがひて、いとをかしかりしと仰せらる、後に其日成らせられし道路の経営の事仰出されしに、代官等いづれの地かと伺へば、先日丹沢とあらがひし所よと仰せられしにて、速に分りたりしとぞ、かく御遊行の折の事も、よく御心にとめられ、誰はいつの時、いづれにて酒のみし、膳給はりしなどゝおぼしいでゝ仰せられし事、つねおはしましき、〈校合雑記、家譜、〉

家康豪農を代官となす大井河の辺に、万年三左衛門重頼といへる、頗る富豪のものあり、五月ばかりの頃、御狩の折、重頼が農民に命じ、田代をかくさまを御覧じ、御戯に彼が馬把ことく取あげ、鼻あかせむと宣ひ、御供に命じ、みな奪ひ取らしむ、重頼ことゝもせず、又外の竹把とり出て、元の如くにかゝしむ、君は小高き所におはして、御覧じ興ぜさせたまひ、逸物の万年かなと仰せられ、のちに其辺の代官とせらる、〈此子孫正徳の頃まで代々遠州の代官たり、今は江戸に参りて子孫御家人たり、〉又中泉より朝とく加茂村の辺に成らせられしに、平野三郎右衛門重定といへる豪農が家の棟に、庭鳥あまた上りて、鳴き叫ぶ様を御覧じ、何者なるぞと問はせ給へば、平野三郎右衛門と申す、いと賑はしき体かなと仰ありて、これも代官命ぜらる、此重定元は美濃の国の者なるが、永禄の頃、当家へ参り、加茂村に住せしなり、又中原の行殿預り奉りし大石重左衛門某は、殊に御けしきにかなひ、御狩の折、常に重左と召させられ、ねもごろの仰蒙る事、常々ありしとぞ、〈中原古老物語、家譜、〉

和漢軍船の比較安信といへる、明国の人帰化してありしを召して、唐船の事どもつばらに問ひ聞かしめ、日本の船と戦ふは、鷹に鶴とらする心ならでは、勝つ事を得まじ、まづ千町程の田に鶴が多くむれ居るを、逸物の鷹千据放つとも、つかふ者拙くては捉る事ならず、巧者の鷹逐ならば、あらかじめ寄を作り肉あてして、天気の陰晴と、風のオープンアクセス NDLJP:2-125向背とを見定めしうへ、鷹の気合を考へて放てば、一据にても鶴を捉る事うたがひなし、何ばかり俊鷹なりとも、己が力のみにては、鶴のごとき大鳥をとる事は叶はず、唐船は鶴のごとく、日本の船は鷹のごとし、日本の人何ほど剛なりとも計策なくては唐人を制する事を得むやと仰せらる、こは鷹の使ひやうもて、軍機にたとへ給ひし御詞なれど、常々鷹の事に御熟練ありし程、うかゞひ知るべし、〈君臣言行録、〉

暮春の頃御狩ありて、田野の様を御覧じ、供奉の者へ、今年の麦は豊饒と見えたり、汝等知りたるかと宣ふ、各も心得ざるむね申す、おほよそ麦穂の左の方へ靡きしはあしく、右の方へ靡きしはよし、そがうへに、幼きものどもの顔色つやとしたるは、母の食物多くて、乳のよく出づるゆゑなり、また去年の芋を土中に貯へ置きて、未だ掘いださゞるも、常糧の足りしゆゑなりと仰せければ、供奉の輩、かゝる農事の繊細なるまで、知ろしめしける事よと感歎しけるとなり、〈名将名言記、〉

鷹匠等の跋扈鷹匠・鳥見の輩が威福を張りて、農民を騒擾せしむるよし訴へ出でしに、御笑ありて、随分威を張るがよし、かれ等さへかゝれば、其上つかたの官長は、猶さらの事とおぢ恐れて、異心を抱く者なし、百姓の気まゝなるは、一揆をおこす基なり、さればとて鷹匠・鳥見、はた代官等が非法の挙動するを捨置けば、百姓の難儀になれば、難儀にならぬほどにして、気まゝをさせぬが、百姓共への慈悲なりと仰せられき、〈校合雑誌、〉

浅利兵庫甲州士に浅利兵庫といひしは、鷹の療治に達せしとて召出さる、或時常に愛養せらるゝ鷹の血筋出でたり、捨置けばこの鳥落ちなむと申すにより、其筋取らしめられしが、後に聞召せば、鷹の眼中に臙脂もてすぢ引置きて、己が功にせしなりとぞ、其折、我あまり鷹ずきゆゑ、はじめて人にたばかられしと仰せられき、この者生質偽詐多きものにて、甲斐の一条が孀婦を三宅弥次兵衛正次が妻に媒介せし時に、君の迎へさせ給ふといつはりし事露顕し、当家を述げ出で、蒲生氏郷が方にゆき、徳川殿、我鷹の秘薬を相伝せよとありしを、いなみしにより、誅戮せられむといふを、おそれて逃げ来りしなど、あらぬ偽をいふ由伝へ聞かしめ、大にいからせ給ひ、氏郷が許に仰下され、召捕へて誅せられしとぞ、〈紀伊国物語、〉

金森五郎八長近入道に、畿内にて鷹場を下され、明くる年謁見せしに、汝鷹場にて鶴とりしやと尋ね給へば、入道、鶴とる事は未だ御ゆるし蒙らねば、たゞ鴈・鴨のオープンアクセス NDLJP:2-126みとり侍ると申せば、さらば鶴とらむ為にとて、鶴捉の蒼鷹一聯・黄鷹二聯を下されしかば、入道も盛慮のかしこきを謝し奉り、其後この鷹もて鶴を捉へて献りしかば、御けしきうるはしかりしとぞ、〈寛永系図、〉

中原鷹場預大坂夏の役に、伊達政宗手勢引具しおつてのぼり、相模の中原にいたり鷹つかひしに、この所は御留場にて、大岡何がし守りたるが、鑓提げて出来り、政宗にむかひ、某があづかりし所を、かく狼籍せられては、大御所へ対し奉りて申分立たず、我首取つて御覧に入れられ、某が緩怠にあらざるよし申されよとのゝしれば、政宗も当惑し、全く我心得ざるゆゑ、斯かる粗忽に及びしなり、ひらにゆるされよ、大御所の御前は、政宗よきに申上げむといひて別れけるが、上京の後、此よし申上げて謝し奉れば、君御笑ありて、さもありなむ、かれは安祥以来の旧臣にて、世々武功もありて、いと剛直のものなり、惣て三河の者は、主命を大切にし、まもる所強きものなりと宣へば、政宗うけたまはり、御家人は末々までも、よきもの多く侍りぬとて、殊に感賞しけるとぞ、家康正宗相互に鷹場を犯すまたある時、上の御留場と、政宗に下されし鷹場と、相隣りてありしに、政宗一日獲物少かりしかば、ひそかに御留場に入りて、鶴など狩り得て興に入りし折しも、君の俄に成らせらるゝを見て、大におそれ、鷹などかくして逃げたりしが、君もまた御馬を早めて、乾濠のうちに入らせ給ひぬ、其後政宗まうのぼり謁せし時、先日汝が鷹場に入りて鳥とりしが汝が来るを見て、からぼりの内に隠れたりと宣へば、政宗うけたまはり、さむ候か、その日は何がしもひそかに御留場を犯せしが、君の成らせられしゆゑ、俄に竹林の中に逃げ入りぬと申せば、いや其時汝が竹林にてわれを伺ひ見るかと思ひ、猶更いきまきて逃げたるなり、かくかたみに相知りたらば、さまでいそぐにも及ぶまじものをとて、どつと御笑あれば、伺公の面々もたまりかねて、同じく笑ひ出でしとぞ、〈武徳編年集成、明語集、〉

干菜山十連寺慶長十八年十月の頃にや、戸田・浦和の辺御狩の時、今泉村といふ所へ成らせられしに、かこかなる庵室あり、何といふと聞かせ給へば、住僧、片田舎にて、別に名も候はぬよし申上ぐ、折ふし庵室の軒端に、菜を十連ばかり編みて、日にかけほしたるを御覧じ、さらば千菜山十連寺と号すべしと仰ありて、寺領十六石余寄附せられしとか、御即興のいと㨗妙なる、いふばかりなくをかし、〈寺伝、〉

駒木根何がしは、御狩の事奉はりて、怠なく勤むれば、常に御けしきにかなひ、一オープンアクセス NDLJP:2-127年清水に御狩あらむとて、とく出立たせたまはむとするに、まだ夜深ければ、何時なりと尋ね給ふ折しも、駒木根出来れば、汝は何とてかく早くは参りしと宣ふ、駒木根申すは、殿この二年ばかり御暇ましまさで、鷹野にも出たまはざりしかば、定めて今日は早く出立たせ給はむと存じて、いそぎ参りしなり、やがて夜も明けなむ、とく出でませと申せば、御けしきよく出立たせ給ふ、其折刷木根御はかせ持ちて、御右の方に附そひ参れば、腰物はいつも主人の左の方に持つべし、急事あらむときに便よしと御教諭ありとぞ、〈紀伊国物語、〉

家康の葬儀に愛鷹を列せしむ御在世のとき、さばかり鷹を愛せられしをもて、元和三年四月、霊柩を久能より日光へ移し奉り、はじめて御祭祀行はれし時、行列の内に、鷹の造物十二据を二行に立てつゝ、御生前に御手に馴らされし鷹二聯を、鷹師二人して据ゑしめ、御宮の前に至る時、これを放たしむ今に至りても、造物の鷹を御祭儀に列せらるゝは、此時の例を追はせられてなり、又大猷院殿、寛永十四年、戸沢右京亮政盛が領邑よりとりし、逸物の鷹をまゐらせしが、御気色にかなひ、年頃御狩の度毎に用ゐさせ給ひしを、慶安元年四月、御祭礼のとき、是を御宮の前に放たしめて、在天の霊に備へ給ふ、又寛永十九年十一月、丹頂鶴をとりし鷹を、戸田久助貞吉もて、日光山へ献られし事もあり、これより先十一年、増上寺の安国殿御造営ありし時、御殿の内の障壁に、ことく鷹を画かしめ、御門にも鷹を鏤ばめ、鷹の門と名付けらる、かくとり世におはしませしほどの御好嗜を追はせられて、代々御孝思を尽されし御事、かしこしと申すもおろかなれ、〈元寛日記、羅山文集、君臣言行録、人見私記、〉

此巻は御鹿狩・御鷹野等の事をしるす、

 
 

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