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北條民雄日記 (1936年)

提供:Wikisource


一九三六年 (昭和十一年)

北條民雄

 六月二十六日。快晴、夕方に驟雨があつた。

 二週間の放浪から帰つて今日はもう四日目である。どんなに死なうとあせつてみても、まだ自分には死の影がささない。あの苦しい経験で判つたものは、実に、生きたい自分の意志だけであつた。轟音と共に迫つて来る列車に恐怖する時、紺碧の海の色に鋭い牙を感ずる時、はつきり自分は自分の意識を見た。死にたいと思ふ心も、実は生きたい念願に他ならなかつた。そして自分は、あの時、「人間は、なんにも出来ない状態に置かれてさへも、ただ生きてゐるといふ事実だけで貴いものだ。」と激しく感じた。何故貴いか、ただ生きてゐるだけで、生の本能に引きずられてゐるだけで、どうして貴いのか? それは自分には判らない。が、実に貴いことだと感じた。どういふ風に貴いか。まだ言葉として表現することが出来ない。しかし真実貴いと思へたのだ。とにかく生きねばならぬと思ふ。

 二週間の無茶苦茶な生活がたたつて、心身共に疲れ切つてゐる。休養しなければならない。

 朝、光岡君が遊びに来る。彼は来月に這入ると休暇を貰つて東京へ行くとのこと。その節草津へも行つてよくあちらの様子を見て来るといふ。

 花岡君の部屋で光岡君の手紙を読んだ時の気持が蘇つて来る。自分を救つて呉れたものは、実際彼の温かい友情と川端先生の愛とであつた。あの部屋で先生の手紙を読み、続いて彼の手紙を読んだ時の嬉しさは、たうてい言葉には表はせない。光岡君よ、兄に深く感謝する。

 和辻博士の『続日本精神史研究』を少し読む。これから日本精神を大いに研究しなければならない。

 昼食後光岡君の部屋へ遊びに行く。彼はこの病院へ這入る前の日記を読んで聴かせた。学生時代の彼の若々しい息吹きがそこにはあつた。

 帰つてから、トルストイの『幼年時代』を読み始める。頭が疲れてゐるので非常な努力をして読むのだが、頭にぴつたりと這入つて来ない。夕食後また少し読む。


 六月二十七日。曇。驟雨あり。

 午前中は頭が爽快で、『プラトンの生涯』を読む。午後、頭重く、強ひて読書しようとしても駄目であつた。アンドレ・シュアレスの『ドストエフスキー研究』を拾ひ読む。ペンを執る気はしない。非常に書きたいのだが、頭がまとまらない。

 光岡君来り、散歩。永代神社の横で一休みする。

 夕食にはしるこを食ふ。妙義舎の連中と一緒である。食後、草津の話などする。

 夜、東條と将棋を二番さす。彼は弱い。

 なんとなく気分が重く、憂鬱である。これではならないと思ふが、どうしやうもない。愛人が欲しいと思ふ。だが結婚する気にはどうしてもならない。精系手術のことを考へるとたまらない。

 夜の八時、これを書きながら幾分感傷的である。

 制作にかかれるほどの平静な気持が欲しい。立派なものが書きたい。

「ただひとつのものを」

「続ただひとつのものを」

「青春の天刑病者」

「大阪の一夜」

 これだけは一時も早く書き上げねばならない。その他にも「思ひ出」は是非とも書かねばならない。気分を落着けて一日も早く筆を執らねばならない。

 もつと意志的になること。自分を高く見て下さる人々、殊に川端先生の期待に対して裏切つてはならない。もつと懸命になれ。今の自分に一番欠けてゐるものは制作に対する熱意である。この灰色に澱んだ世界で自己の個性を守るには余程の熱情と意力がなくてはならない。

 凡てに対し、情熱的たること。

 情熱をもつて個我を守れ。


 六月二十八日。終日雨。

 朝寝をしたので頭は爽快であつた。頭の爽快さを保つためには、どうしても朝寝をする必要がある。夜早く眠ることは自分にとつて不可能であるのみでなく、床に這入つてからの幾時間かこそ自分の作品の形づくられる時であつて、夜更しは非常な大切な時間である。今までは思ふやうに朝寝が出来なかつたため、睡眠不足は毎日で、これがどんなに頭を悪くしたか判らない。出来るだけ眠らねばならない。

 本年度下半期の予定表を作製して机の前に貼りつけた。

 夕食後、S君と二人で十号病室へ風呂に行く。浴後Yさんと碁を一番、僕の勝。この人とやると負けたことがない。石は僕が白で相対である。しかし向うが二目がた弱い。けれど彼はもう四十近い年だからなかなか置石をしようとは言はない。負惜しみも相等強いやうだ。東條がA・Gの所から本箱を貰つて来て盛んに本を並ベ出した。半分くらゐは僕が呉れてやつた本であるが、しかし彼は楽しさうに本を並べてゐる。じつと見てゐるうちに僕はなんとなく涙ぐましいほど彼が気の毒にもいとほしく思はれた。勿論、これといつて値のある本は一冊もない。それでも彼は、右に置いて見たり左に立てて見たりしながら、なるべく立派に見えるやうに骨折つてゐる。彼にはかうしたこと以外になんにも喜びがないのだ。あの狂病棟の一室で、毎日々々狂人達と共に暮しながら、その部屋を自分の部屋と定め、粗末な机と貧弱な小さな本箱を眺めては、豊かな喜びを味つて詩を書いてゐる彼。僕は今日ほど彼に友情を覚えたことはない。彼に本をやつたことをこの上なく嬉しく思つた。

 今は九時十五分前。消灯までに一時間と十五分しかない。まだ雨が降つてゐる。いくらでも降つてくれ。さあ明日からは制作にかかるぞ! 六月二十九日。雨。

 仕事にかかるつもりでゐたが、やつぱり今日も出来ない。頭がどうしたのかまとまらない。そんなに重い訳ではないのだが――。やつぱり、疲れてゐるのだらう。

 予定通り、今朝は思ひ切つて八時まで寝たので、気持は良い。

 朝食後すぐ医局へ行き、この前つめたゴムを取つて貰ふ。ゴムの下で痛んでならなかつたのである。物療科へ行くと五十嵐先生がびつくりしてゐた。もう帰つては来まいと思つてゐられたのであらう。忙しさうだつたので何も語れず、黙つて帰る。

 昼食後、「ドストエフスキーの生活」――『文學界』所載、小林秀雄――を読む。『罪と罰』を書いた当時のドストを思ひながら色々と考へ込んでゐると、光岡君がぶらりとやつて来た。這入つて来ると彼は、大学時代の制服のボタンを外しながら、

「書いてゐないやうだつたから――。」

 と言つて上服を脱いだ。

「うん。今『ドストエフスキーの生活』を読んでゐたんだ。」

「ああ、窓から覗いて見たよ。書いてゐるんだつたら帰らうと思つて――。」

「書けないんだ。」

 彼は、机の前に貼りつけた予定表を、首を伸ばして眺めてから、腰をおろした。

「どうしてゐた?」

 と訊くと

「源氏を読んでゐた。桐壺の巻。昨日、ここで、和辻さんの『日本精神史研究』をちよつと読んだらう。あの中の、『もののあはれについて』のところね、それで。」

 それから、源氏について二三話し合ふ。

「君は源氏のやうなものを読んでるんだらう。ところが反対に俺はドストエフスキーを読んでゐるんだね。この違ひが実にはつきり君と俺との相違を物語つてゐるよ。」

 と自分は、今度書く小説の中には、かういう風な対比の場面を書き込んだら効果的に違ひないなどと思ひながら、言つた。

 雨の中を、番傘傾けながら二人で散歩する。途中彼は、昨夜出席したこの院内の文芸家 (?) 協会に就いて語る。大したものが出来たと二人で笑ふ。

 夕食後、本棚から『罪と罰』を引き出してパラッと広げて開いた所から読み始める。ちやうどラスコリニコフがソーニャに自分の殺人を暗示するところだつた。不意にソーネチカの足に接吻する場面と心理、ソーニャがラスコリニコフにラザロの復活を読んでやる場面、なんといふ素晴しさであらう。

「どうしてそんな穢らはしい賤しい事と、それに正反対な神聖な感情が、ちやんと両立してゐられるんだらう。」

 といふラスコリニコフの疑問にぶつかつた時、ふと、ドミイトリイの言葉を思ひ出した。

「美――こいつは恐しい、おつかないものだぞ! はつきりときまつてゐないから怖しいんだ。しかもはつきり定めることができないのだ。だつて、神様は謎より他に見せてくれないんだからなあ。美の中では両方の岸が一つに出合つて、すべての矛盾がいつしよに住んでゐるのだ。おれはね、ひどい無教育者だけれど、このことは随分と考へたものだよ。なんて神秘なことだらけだらう! この地上では人間を苦しめる謎が多すぎるよ。この謎が解けたら、それこそ、濡れずに水の中から出て来るやうなものだ。ああ美か! それにおれの我慢できないことは、心の気高い、しかも勝れた智能を持つた人間が、ともすればマドンナの理想をいだいてゐて踏み出しながら、結局ソドムの理想に終ることなんだ。もつと恐しいのは、すでに姦淫者ソドムの理想を心に懐ける者が、しかも聖母の理想をも否定し得ないで、さながら純情無垢な青春時代のやうに、ほんたうに、心から、その理想に胸を燃え立たせることだ。いや、人間の心は広大だ、あまり広大すぎる。おれはそいつを縮めてみたいくらゐだ。ええ畜生、何が何だかさつぱり判りやしない。ほんとに! 理性では汚辱としか見えないものが、感情ではしばしば美に見えるんだ。ソドムの中に美があるのかしら? ところが、お前、ほんたうのところ大多数の人間にとつては、このソドムの中に美があるんだよ――略――」

 ちよつと書くつもりの日記が長くなつてしまつた。なんにも出来ないせゐか、この頃、日記を書くのがひどく楽しみだ。

 S君と女のことなど語る。やつぱり結婚して草津に家を建てて落着くのが一番良いやうに思ふ。しかし、苦しい。真実、苦しい。癩、癩、呪ふべき癩。


 六月三十日。午前中雨。後曇。

 平凡な一日。S君の退院定る。来月三日。名前だけは軽快退院だが、実際は入院当時よりずつと病気は悪くなつてゐる。家庭の事情があるとのこと。

 夜、東條君来る。精系手術の結果を聴く。書くに堪へず。苦しきことなり。


 七月一日。曇。夜雨。

 朝、机に向ふがどうしても頭がまとまらなかつた。強ひて考へようとすると、頭がづきづきと痛み、吐気を催し、胸が苦しくなつて呼吸が困難になつてしまふ。腹立たしく苛立つて来る。東條の所を訪問する。彼と共に草津行きのことを話す。Fちやんも来、三人で語り合ふ。どんなことがあつても、みんなで向うへ行くことにしようと決意する。

 五十嵐先生に会ふ。自分の気持を幾分は理解して下さる。嬉しいと思ふ。しかしほんとの僕の苦悩などあの人には解らぬ。これは致方もないことである。

 眼科に出かけ洗眼する。

 今朝は六時十五分過ぎに起きたので非常に眠く、午後一時頃から三時まで眠る。どうにか頭がさつぱりする。しかし気力が弱まつてゐるので、どうしても作品の構図が描けない。煙草を吸ひ過ぎるのがいけないのかも知れない。明日から刻み煙草にしてみようか?

 結婚して落着きたい思ひがしきりにする。

 今夜はよく眠りたいものだ。昨夜は午前二時過ぎまで眠れなかつた。床に就くと作のことが頭に浮び、興奮して脈搏が早くなり、どうしても眠れないほどなのに、昼間は萎んだ木の葉のやうに頭が重い。なんとか活気のある頭にならないものか。明日からもつと運動することにしようか。或は病気が騒いでゐるのかも知れない。これが健康者なら「切り抜ける」といふ言葉でこの場合に戦ひ得るが、我々にはさうはいかない。切り抜けるとは、 一定の期間努力するなら再び平和に戻り得る場合にいふのである。我々の場合に於ては切り抜けて行くのではなく、何故なら、かうした頭脳の不明瞭は死ぬまで続くであらうから――、実にどこまでも堪へて行くだけである。意志と意力が欲しいと思ふが、その意志そのもの、意力そのものが、その内部から崩れて行くやうな気がする。これは怖しい、真に怖しい。ただ、いのちに頼るのみである。戦つて行くより仕方がない。それ以外どうしやうもないのだ。


 七月二日。終日雨。

 夜、S君の送別会をする。ひどく寂しい。こんな立派な友人を失ふことがたまらないほど寂しい。

 自分は今まで彼のやうな好もしい男を見たことがない。純情無垢といふ感じだ。それかといつてお坊つちやんでは決してない。彼は自動車の運転手である。世の波風には誰よりも多く当つてゐるであらう。しかしその多くの苦しみや辛酸が、凡てみな彼の立派さ、美しさを成長させるに役だつてゐるのである。魂が美しいのだ。個性的に根元的に美しいものを有つてゐるのだ。それでゐながら誰も及ばぬほどの理性的なものと意力をもつてゐる。驚くべき男である。真に驚くべき男である。どんな男でも彼を憎んだり敵視したりすることは出来ないであらう。かういふ男をこそ、自分は原稿紙の上に定着させねばならない。この男にもつと高いインテリヂェンスを与へ、近代性を付与してみるがいい、この錯雑した現代をリードする新しいタイプの人間が出来上るのだ。非常に難しいが、しかしこれはなさねばならない。傑れた作品が出来るに違ひない。


 八月三日。

 六時が鳴つたので起き上つて見ると、雨が降つてゐる。雨の降る日は光線がやはらかで頭を落着けてくれる。私は何より雨が好きである。それでは今日も落着いた気持で、静かに一日を過すことが出来るであらうと思ひながら、部屋その他の掃除をすまして洗顔をした。しかし、食後机の前に坐つてみると、昨夜から続いてゐる苛立たしい気持は、相変らず頭でとぐろを巻いてゐて、なんにも手がつかない。

 昨夜はなんて嫌な一晚だつたことだらう。あんな時は脈搏が百二十にもなつてゐるに違ひない。午前二時を過ぎても眠れなかつた。自分がまだ生きてゐるといふことが腹立たしくてしやうがないのだ。盲目〔めくら〕になつて義足になつて丸坊主になつて、しかも咽喉〔のど〕に穴をぶち抜いてそこから息をしながら生きてゐる――この調子で行くと結局そこまで行つても死ねないかも知れない。そこへ行けば文学などどこか他国の他人のことだ。膿汁に浮かされた頭で――よし筆記者がゐたとしてもだ――何が書ける といふんだ。しかしこれはまあさきざきのことだ、今から心配したつてつまらんに違ひない。さう思ひながら昨夜は、それがもうすぐそこまで来てゐるやうな感じで実に苦しかつた。するとなんとなく頭が狂つて来るやうな不安がして、寝返つたり、うううううと唸り声を出してみたりせねばゐられない。唸つてゐると幾分か気持が軽くなつて、ぐたぐたに疲れ果てて眠つた。

 それで今日は頭がぼんやりと重たい。その頭でジイドの「背徳者」を読み始めてみると、――私は朗かな蒼天の上にあつて云々――の蒼天といふ言葉がぴんと激しく頭に映つて眼先が蒼くなり、もうそれ以上読み進めることが出来ない。

 九時になつたので、蒼天蒼天、と呟きながら眼科へ洗眼に出かけた。M――が「地の糧」を読みながら自分の番の来るのを待つてゐる。おい、と肩を叩いたが、彼が振りむくと後悔した。今日は誰とも口をききたくないからだ。口を開いて、言葉を出して、それがひどく面倒くさくて、それでもお愛想にその本の表紙をちよつと見てあくびを一つして横を向いた。看護婦のNとKとが相変らず洗眼のスポイトを手にしてゐるが、これはもうお愛想にも物を言ひたくない。むつつりと黙り込んだまま洗つて貰ふ。

「ひどいわね。充血が――。」

 と彼女は言ふ。さうだらう、昨夜は二時まで眠れなかつた。その前の夜も、その前の夜も、ずつと二時三時まで眠れない日が続いてゐるのだ。こんなことならあつさり発狂してしまつた方が余程ましかも知れない。

 帰つて来て机の前にぽかんと坐つてゐるとMが来て、

「菓子を食ひに来い。」

 と言ふ。余り食ひたくもなかつたが出かけて行く。体がだるくて、肩がこつて、物が言ひたくないのでごろりと寝転んでゐると、彼は自作の短歌を読み出した。聴きたくもないが自然と耳に這入るから仕方がない。明るい歌が多いので興味が湧かない。こんな日は明るいものを読んだり聴いたりしてゐると腹が立つ。

 昼食を食つてから十号へ行く。東條は例のやうに大の字に寝転んでゐる。廊下の向うの端には孕んだ狂人が床板〔ゆかいた〕の上にぢかに坐つてゐる。おまけにそこは便所の入口と来てゐるからたまらない。

 東條の部屋には何時ものやうにE老人と癩生活六十一年氏が並んで寝てゐる。

「おい、今日は肩がこつてどうにも困つてゐるんだ。ひとつ叩いてくれんか。」

「ぬかせ、この野郎。俺は左の眼がもう見えなくなりさうなんだぞ。」

 これが東條と私との挨拶である。成程さう言はれて見ると彼の眼は真赤に充血してゐる。

「どうした、首は?」

と彼が訊く。

「うん。首か。まだ〔くく〕らんと置いてあるさ。」

 と私は答へる。

「はははは。縊る縊るつて言ひながら、結局縊れんのだなあ。あきらめろ、あきらめろ。」

 さう言はれると、何時もなら、縊つてみせると息まいてみるのだが、今日はそんな元気もない。

「ああ。だから俺、今度は盲目〔めくら〕小説を書いてみようと思つてるよ。つまり、『何時でも死ねる』つて安心してゐたのが、いざ盲目になつてみるとまだ死ねなかつた、何時でも死ねるなんてのは嘘だつて小説をな。そして、意志だ、意力だ、思想だなんて言つても、せんじつめると、最後のどん底に来るとみな安鍍金〔やすめつき〕に過ぎない、生きる力はあきらめより他にはない、つてこのことを書きたいんだよ。こんな考へは俺今まで持つたことないし、こんなのは癪にさはるんだが、どうやら真実〔ほんと〕らしいんだ。」

「さうだよ。ほんとだよそれが。」

「しかし、果してあきらめ切れるか、これだよ次の問題は。」

「あきらめ切れなくても、あきらめさせられちやふよ。初めのうちはばたばた藻搔くけれど、そのうちに疲れて、力がなくなつて、ぐつたりしちまつて、どうしやうもないんだ。」

「ばつたんにかかつた猫みたいなもんだなあ。初めはもつこもつこと板を持ち上げてみたりするが、しまひにはぐたつとなつちまつて、ぺしやんこになつちまふ。」

「しかし、盲目小説は今書くの止せよ。」

「どうして!」

「君が盲目になつてから、体験を積んでから書いた方がいいよ。」

「まるで俺が盲目になるのが確実で、寸分間違ひないみたいだなあ。」

「間違ひなく盲目になるさ。定つてるからなあ。」

「しかしその前に死んでみろ、困るぢやないか。」

「ははは、困るもんか、めでたいことだよ。」

「そりやさうだなあ。」

「俺、今日眼科でしみじみ君を見たよ。」

「どうしみじみだい。」

「この男が北條で、今洗眼に来てゐる。この男もいつかは盲目になる。その時は俺も盲目になつてゐる。盲目同志でお互に話し合つてゐる姿が浮んで来てなあ。さうすると、しみじみ、北條も俺も癩だつたなあ、つて思ふんだ。夢のやうな気がするんだ。」

 話が途切れた。私はE老人の禿頭にとまつてゐる蚊を眺めた。六十一年氏が、

「糞にもならん話、しやがる。」

 と言つて笑つた。

「しかし、癩の盲目はひどいからなあ。触覚、嗅覚、味覚、さういふものが〔と〕られちまふからなあ。」

 と私は言つた。

「そんな先のこと、心配したつてしやうがないよ。なあに盲目になつてみりやなつたでまたどうにかなるよ。」

「さうは思ふんだが。」

「はははは、盲目になつて、両手両足繃帯だらけで、おまけにノド切りと来るからなあ。しかし人間つて面白いもんだよ、それでもまだ希望をもつてるからなあ。」

「せめてこのままでゐてくれたらつてな。」

「さうだよ。盲目になつたら、せめて触覚だけでも満足でゐて呉れるやうに……。」

「触覚が駄目になつたら、せめて味覚だけでも、味覚がなくなつたら、せめて呼吸だけでも、呼吸がなくなつたら、せめて解剖されんやうに、解剖されたら、せめて焼場へ行かんやうに、焼場へ入れられたら、せめて骨だけでも残るやうに、つてかい。」

「うはははは。」

「うわははは。」

 二人して大きな声で笑ひ合ふ。大声で笑つてゐると幾分か気持が楽になつて来たので帰る。

 夕方六時頃また彼の部屋へ行く。風呂を貰ふのが目的である。彼は自作の詩を読んで聞かせてくれた。「狂病棟の詩」といふ題だ。幾分病的なところがあるが彼らしい詩だ。

 帰つてこの日記を書いた。七時十五分。これから生理学の本を読むことにしよう。


 八月七日。

 昨夜から急に神経痛が始まつたので、今日は一日床の中で暮した。午前中は暇にまかせて念入りに『罪と罰』を読む。昨日の朝から読み出してゐたので、今日はもう終りの部分だけである。十一時頃読了。これでこの本は三度目であるが、何度読んでも面白い。読む間、出来る限り作の中に引きこまれないやうに、作と自分との間に或る程度の距離を置くやうに努力したが、ふと気がついた時にはもう引きこまれてゐる。作と組打ちでもするやうな気持であつた。


 八月九日。

 神経痛は依然として続いてゐるので、今日もまた床の中で暮す。昼間は比較的痛みが少く、午前中はトルストイの遺稿集を読む。巻頭の「ハヂムラート」は長いので敬遠し、「悪魔」「舞踏会の後」「壷のアリョーシャ」と続けて読むともう昼飯であつた。

 今までずつと本を読まない日ばかりが多かつたが、読み始めてみると、自分などが糞にもならないものを書いてゐるのが馬鹿々々しくなつて、これからは読んで楽しむだけにしようなどと思ふ。時々空想するのは、どこか人里離れた山奥で家を建て、古今東西の名篇大作ばかりを山程も積み上げて、来る日も来る日もそれを読み暮す、するとどんなに平和な心で豊かな生活が出来ることだらう、――とそんなことばかりである。しかしそんな楽しい空想の中にすら病気のことがついてまはるから腹が立つ。例へば、そんな山奥で独り暮しをしてゐるうちに、盲目になつたらさぞ困ることだらうなあ、それから神経痛が始まつたり、急性結節で四十二度も熱を出したりしたら、――そこでこのロマンチックな空想はたちまち破れた障子のやうに見るもあはれなものになつてしまふ。

 午後になると、遠くで雷が鳴り、空が曇つた。床の中から窓を見上げると、白や黒の雲が二重にも三重にもなつて北へ流れた。硝子越しに眺めると、雲の美しさが死んで立体性を失ひ、どろんとした平面に見えるので、窓を開いて眺める。じつと眸を凝らしてゐると、凄い音響をたてて空全体が崩れて行くやうで、なんとなく恐しくなる。ずつと前、物凄い山崩れの映画を見たことがある。それはサイレントの写真であつたが、今思ひ出してみると、トオキー以上に烈しい音響が聴えたやうに思はれる。今の空も、雲の音など勿論聴えないが、しかし恐しい音響を感じさせるサイレントである。

 夜。一号室の連中がお茶に呼んでくれたので飲みに行く。自分の知らない人が三人ばかり遊びに来てゐる。みんな十一時からのオリンピックの放送を聴くつもりで、それまで茶でも飲んで時間をつぶす腹らしい。で、話題も初めのうちはそのことや、今行はれてゐる都市対抗野球戦などであつたが、そのうち自然と病気の話に移つて行き、何時の間にか発病当時の思出ママを競争で語り出した。病人は病気の話をするのが一番楽しいのである。とりわけ癩の患者が、その発病当時の驚愕や絶望を語るのは、時としてはモノマニアじみてさへゐる。病名を宣告された時のあの驚きは、死ぬまで頭の底に沈んでゐるのである。そしてこの病者は、その病名を自由に他人に語れないのみでなく、ひたかくしにかくしてゐなければならなかつたのである。だからかういふ世界へ来て、それを自由に語り、はばかるところなく苦痛を訴へるのは、此の上ない慰めであり心の解放なのである。自分もやはりさうであり、非常に憂鬱な時ですら、病気の話をしてゐると自然と明るい気分になつてゐるのに気づく。

 病気の話には定つて自殺の話がつきまとふ。この病院にゐる千二三百の患者のうち、自殺を考へなかつた者が幾人ゐるだらうか。まだ十歳に満たぬ子供ですら死を考へてゐるのである。話は何時の間にか「自殺未遂者の座談会」とでもいつた風になつてしまつた。

「俺アひと晚、まだ宵の口から、夜が明けるまで橋の上で水を見たよ。ぼうつと頭がして、何がなんだかさつぱり判らなんだ。どうしても死ねなんだ。」

 と一人が言ふと、

「俺アな、こんな病気になつて生き恥さらすよか、いつそ死んだら、思つて、船の甲板で考へた。そだけど、どうしても足が言ふことをきかないんだ。」

 といふ風な調子である。その他にもAは猫いらずを飲んだといふ、Bはカルモチンを飲んだといふ、Cは首を吊り損つたといふのであつた。しかしみな死ねなかつたのである。

「人に殺される時はワケなく死ぬがな、自分で死なうと思ふと、なかなか死ねるもんぢやないなあ。俺も何度もやり損なつたんで、今でも生きてるんだがな。しかし新聞なんか見ても、七割以上、八割くらゐまでは死に損つてるよ。俺、気をつけて見てるが、『△△病院で手当中、一命は取りとめるらしい』つてまあたいていがさうだよ。大分前小松川かしらで、女房と、子供を三人かしら殺した亭主があつたらう。心中のつもりだつたんだが、野郎、女房や子供を殺す時は首尾よく殺せたんだが、いざ今度は自分の番になると、頭を自分でぶつ叩いてみたり、ガスくだをくはへてみたりしたが、たうとう死に損つて自首して出たんだ。自分が人を殺すことはワケないが、自分が自分を殺すことは出来ないんだ。だから自殺した奴は余程しつかりした頭を持つてる奴か、余程狂つた頭を持つてる奴か、どつちかなんだ。もつとも運といふやつもあるが。」

 と私が言ふと、

「運さ、運さ。じゆみやうのあるうちは死ねんのだ。」

 と誰かが言つた。そのうち十時の消灯時刻が来たので自分の部屋に帰り横になる。みんなは暗くなつた中でまだ話し合つてゐた。


 九月四日。曇天。昨夜物凄い雷雨があつた。

 久しく日記を書かなかつたが……。今日は又何か書いてみよう。

 改造社から依頼の原稿三十枚が昨夜書き上つたので、今朝検閲に出した。どう考へて見ても検閲は腹立たしい。……………………………を見ると、胸の中が……………………………を覚えた。根は可愛い男なので憎めないのだけれども、………としての彼を見ると………覚える。我々の原稿を検閲することに彼は………………を満足させてゐるのだ。検閲官であることに…を覚えるとは、………………………………の男であらう。頼りなくて怒りも憎みも出来はしない。

 それにしても、今朝も交付所の窓口で内部を覗きながら思つたが、この…………をして療養所に……してゐる連中を何とか出来ぬものか。しかし所詮………………………………であるに過ぎぬ彼等だ、ここを離れれば……………であらう。…………しいけれど愛すべき……でもある。

 自分はこの頃どんな人間を見ても憎めなくなつて行くやうな気がする。どんな悪人でも、いや、悪人であればあるほど、なんとなくその底に愛すべきユーモラスなものが潜んでゐるのが判るからだ。世の中で一番不快な人間は、それは自分。世の中で一番愛する人間は、それは自分。


 九月五日。

 川端先生よりお手紙あり。「危機」が『中央公論』に採用されたからとの御通知。

 万歳なり。

 これに報ゆる道はただひとつ、それは立派な作家たること。


 九月六日。

 修道僧のやうなこの生活は何時果つるのか! だが、これでよし。ギュスタフ・フロオベルに学ぶべし。


 九月十日。

 朝、筆を執つてみたが書けない。苛々し、不快なことこの上もない。物をいふのも嫌だ。人々がみんな楽しく見える。苦しんでゐる者など一人もゐない。誰も彼も生活を楽しみ、何の疑ひもなく時間をつぶしてゐる。

 散歩に出かけると光岡良二が呼ぶ。顔色が悪いと言ふ。

「上つたらどうだ。」と彼。

「うん。」と僕は不快をかくし切れない。彼の顔までが今日は楽しさに浮き浮きしてゐるやうに見える。彼は机の上に紙を拡げてゐる。

「何やつてるんだ。」

「図書の整理だ。」

 上り込んでみたが話もしたくない。ごろりと寝転んでゐると、

「どうしたんだ。」

「苦しいんだ。書けない。」

「書けなきあ、書かなきやいいぢやないか。」と言ふ彼の顔を見ると、もうむつとしてしまふ。

「とらはれるからいけないんだ。」と彼。

「俺に空気のやうになれつて言ふのか。」

 文学だけが俺の生活ぢやないか。書くことにとらはれないでどこに生活がある。生活と言つて悪ければ生と言はう。書くことが即ち俺の生なのだ。俺のつきつめた気持が判らんのか、と呶鳴りたくなつて来る。なんにしてもノーマルな頭になれなかつた。奇妙にねぢれて腹立たしい。

 昼頃また机に向つたが駄目。たつた五十枚や六十枚の小説で、なんとしたことか!

『文學界』の古いのを出して、中村光夫氏のフロオベルに就いて書いたものを読む。題は覚えてゐない。ぼんやりとこの大作家の生活を思ひ描いてゐると、『山桜』の九月号を持つて来てくれたので、ペラペラとめくつて見る。『文藝』特集号に当選した佳作が二つ載つてゐる。一つは内田君、一つはどこかの療養所の人。が、読む気は起らぬ。K・F君の巻頭言を読んで不快はますますひどくなる。

 このやうな雑誌の、こんな小説に豊島先生を煩はせたことを彼等は少しも恥ぢないのか。とりわけK・Fの「療養所文芸も文壇のレベルに達し云々」の言葉は、なんといふ思ひ上りだ。もし真剣に人類といふものを考へ、現在の日本文学といふものを考へるなら、このやうな言葉は断じて吐けぬ筈だ。彼等は苦しんでゐる。それは判る。しかしさういふ苦しみ、癩の苦しみを楽しんで書き、何の疑ひもなく表現してゐる。それでいいのか。もし自己を現代人とし現代の小説を書きたいと欲するなら、その苦しみそのものに対して懐疑せねばならないではないか。癩の苦しみを書くといふことが、どれだけ社会にとつて必要なのか! といふことを考へねばならないではないか。彼等の眼には社会の姿が映らぬのであらうか。その社会から切り離された自己の姿が映らぬのであらうか。

 だが、こんなことは俺だけのことだ。彼等はみな楽しくやつてゐる。それでよろしい。ただ俺は誰とも会ひたくない。語りたくない。俺は孤独でもよい。絶えず社会の姿と人類の姿を眼に映してゐたい。俺は成長したいのだ。


 十月八日。

 もう十幾日もの間、苛々した日ばかりが続いてゐる。どうしても書きたいといふ欲望が湧き出して来ない。内部から盛り上つて来るものがない。日に何度となく机の前に坐つてみては、頭がづきづきと痛み出し、あてもなく菜園のあたりをほつつき歩く。どんよりとした頭。力の失せた体。この頃は坐つてゐるだけでもなんとなく息苦しくなつて来る。よくこれで寝込みもしないで生きてゐられるものだ。恋人が欲しいのだ。もし心から愛する女があれば、自分の生活はもつと良くなるに違ひない。独身は半身なり、と横光氏がいつか言つたつけ。


 十月十日。

 夜、東條が遊びに来る。そこへFちやんがやつて来て、Mさんがちよつと話したいことがあるさうだから出て欲しい、と言ふ。何用ならんと出て見ると、結婚する気はないかといふのである。さては仲人をしようといふのだな、と思つたが、それでは俺にも結婚をすすめられるやうなところが出来たのに違ひない。なんとなく大人になつたやうな気がしてめでたしめでたし。特筆すべきことなり。


 十月十八日。

 「癩家族」書き上る。愉快なり。だが駄作。


 十月三十日。

 九時に起きた。

 中村光夫氏から手紙。この前出した手紙の返事である。友人にならうと書いてある。実にいい。新進批評家で最も尊敬してゐるのは氏だけだから。しかし氏はなんといふ下手くそな字を書くんだらう。俺も下手だが、まだ下手だ。まるで字になつてゐないのがある。しかしこの下手なところがまたなんとなく面白い。氏はまだ大学を出たばかりで、あまり世俗的な苦労をしたことのない人に違ひない。なんとなく良家に育つた学生を思はせるものが手紙の中に流れてゐる。世俗の垢がついてゐない。俺は世俗の垢だらけ。

 しかし良い友人が出来て全くうれしい。早速また手紙を書きたくてしやうがないが、また次にしよう。

 中村氏の手紙と一緒に小包が一つ来た。誰からだらうと思つて見ると、創元社の小林茂氏からのお見舞品だ。

 東條を呼んで来て二人で頂戴する。その時東條の言ふには、彼の妹が俺のことを想つてゐるんださうだ。返事のしやうがない。俺は結婚したいが、精系手術のことを考へたらいやになつちまふ。

 今日はばかに良いことばかりのある日だ。

 今十一時が鳴つた。ローソクの火の下で書く。

この著作物は、1937年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)50年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。


この著作物は、アメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。