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公教要理説明/01-12

提供:Wikisource


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だい十二くわ イエズス、キリストの公生活こうせいかつ

75●イエズス、キリストは三十さい当(當)あたってなにたまふたか

イエズス、キリストは三十さいあたり、洗者せんしゃヨハネから洗礼(禮)せんれいけ、四十日しじふにち間断(斷)食あひだだんじきし、叉十二使徒またじふにしとえらんでこれとも福音ふくゐんたまふたのであります。

それよつことる。

だい一、

洗者せんしゃヨハネから洗礼せんれい

たまふた。

洗者せんしゃヨハネ使徒しとヨハネとをこんじてはなりませぬ。使徒しとヨハネは十二の御弟子おでしうち特別とくべつイエズスあいせられ、御死去ごしきょ時聖母ときせいぼマリアあづけられたものであるが、洗者せんしゃヨハネ告白こくはく祈祷(禱)いのり書載かきのせたもので、聖母せいぼマリア親族しんぞくエリザ

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ベトよりうまれたものである。其御誕生そのごたんぜう祝日しゅくじつは六がつ二十四あたる。人民じんみんイエズスことらせ、こゝろあらためさせるために、天職てんしょくとして説教せっけう且苦行かつくげうしつゝあったものなれば「先駆者せんくしゃ」とばれた、すなはイエズスさきだって其道そのみちそなへたもの意味いみである。つひ国王こくわうヘロデあにつまめとったこととがめたので、監獄かんごくれられ、くびねられたものである。つみ悔改くひあらためるしるしに、ヨルダンかは洗礼(禮)せんれいほどこったから、もっぱら「洗者せんしゃ」、すなはあらもの洗礼せんれいほどこものなづけられたが、其洗礼そのせんれい今秘跡いまひせきったものとはちがって、実(實)際罪じっさいつみゆるされるものでなく、つみ悔改くひあらためるしるしばかりにとゞまったけれど、イエズスもとよりこれたまはずはなかったに、人皆ひとみな是非罪ぜひつみつぐのはねばならぬとさとためみづか罪人ざいにんおもはれるをいとはず、ヨハネ辭(辞)ことわるのにしひ洗礼せんれいねがたまふたのであります。

其時そのときてんより声(聲)こゑひゞいて、「これわれこゝろやすんずる愛子あいしである」ときこえた。叉聖霊またせいれいはとかたちもって、イエズスうへくだたまふのがえました。我々われゝゝ洗礼(禮)せんれいければ天主てんしゅ

[下段]

愛子あいしすなは可愛かあいらしいり、聖霊せいれい我等われらこゝろ宿やどたまふのであるから、つみもっ其恵そのめぐみうしなはぬやうにつとめねばなりませぬ。

だい二、

四十にち間断(斷)食あひだだんじき

たまふた。断食だんじきとは、しょくつとことばで、大斎たいさいちがひ、夜昼(晝)少よるひるすこしも食飮たべのみせぬことである。イエズスをしへ宣初のべはじめるまへに、荒野あれのって極寂ごくさびしい処(處)ところ野獣やじうばかりったところ引込ひきこんで、四十にち間断食あひだだんじきたまふたのは、天主てんしゅ御恵みめぐみいたゞくに断(斷)食等だんじきなど苦行くげうおほい効能かうのうのあることしめためである。公教会(會)こうけうくわいで「四旬節しじゅんせつすなはち四十にちあひだ大斎たいさいさだめたのはイエズス、キリスト断(斷)食だんじき紀念きねんするためであります。

イエズス其時そのとき悪魔あくま誘惑いざなひたまふたこと初歩しょほえぬからこゝにもりゃくする。

だい三、

十二使徒しとえら

たまふた。すなはおびたゞしい信者しんじゃうちに、七十二にん殊更ことさら弟子でしとし、また十二にんを「使徒しと」とさだたまふたが、使徒しととは、つかはされる弟子でしとの意味いみで、イエズスあと国々くにゞゝつかはされるはずものでありました。十二使徒しと

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は、だいペトロそれから其兄弟そのけうだいアンデレア叉二人またふたり兄弟けうだいだいヤコボヨハネまたフィリッポバルトロメオトママテオ二人ふたりイエズス従弟いとこせうヤコボユダタデオシモンつひ謀叛人むほんにんったユダであります。

だい四、

これともに、

すなはち十二使徒しとれて、

福音ふくゐんたまふた。

福音ふくゐんとは、イエズスみづか其教そのをしへなづたまふたであります。福音ふくゐんべ、すなはかせたまふたのは三ねんあひだおもガレリアユデアサマリアベレアよつちひさくに処々しょゝゝ方々ほうゞゝでありました。

76●福音ふくいんとはなんであるか

福音ふくゐん幸福さいはひ音信おとづれで、ひとしん且守かつまもるべき救霊たすかりみちであります。

福音ふくゐんは、幸福さいはひ音信おとづれとの文字もんじで、原語げんごEvangeliumエヴァンゼリウムつげ意味いみである。新聞紙上しんぶんしぜう肺病者はいべうしゃ福音ふくゐんとか誰彼たれかれ福音ふくゐんとか広告くわうこくえるのは、矢張やはりイエズスをしへならったのであります。いよいイエズス

福音ふくゐん幸福さいはいおと

[下段]

づれ

後世のちのよ幸福さいはひばかりでなく、此世このよからの本当ほんたう幸福さいはひすなは困難こんなんうちでもこゝろ満足まんぞく叉何またなにより、救霊たすかりすなはをはりなき幸福さいはひみちである。「まづしいひとひとくるしひと幸福さいはひなるかな」とはれたのははじめであって、なんありがたい御話おはなしではないか、たれ幸福さいはひのぞまぬひとがあらうか、其道そのみちきたくないものがあらうか。りながらたゞではられぬ、そのためしんずべきこともあって、これ幸福さいはひみちであります。

しんずべき

ことは、おもてんましまちゝのあること万物ばんぶつ主宰つかさどたまことイエズス、キリスト天主てんしゅ御子おんこたることその御救おんすくひいたゞくべきこと其教会(會)そのけうくわい帰(歸)服きふくすべき事等ことなどであります。

まもるべき

ことは、なにより改心かいしんして天主てんしゅ万事ばんじえてあいすること天父てんぷ完全くわんぜんましまごと面々めんゝゝ完全くわんぜんるやうに励(勵)はげことひとあやまちゆるし、ひとおのれごとあいすることひとつまづかせぬ事等ことなどであるが、これまなぶべくまもるべき

救霊たすかりみちであります。

皆之みなこれまもるならば此世このよから極楽ごくらく

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うかまなんでまもりたいものである。

ちゅう福音ふくゐんたっひとつなれど、これいたほん四冊しさつあって、「聖福せいふく音書ゐんしょ」となづけて新約聖書しんやくせいしょはじめえる。ミサのとき司祭しさい祭壇さいだんひだりほうむのは、矢張やはり福音ふくゐんって、聖福せいふく音書ゐんしょうちから抜萃ばっすゐしたものであります。聖福せいふく音書ゐんしょいたひと矢張やはりにんで、「福音ふくゐん史家しか」とふ、すなは福音ふくゐん歴史れきしいたひととの意味いみであります。二人ににんマテオヨハネであって、十二使徒しとうちであるが、ほか二人ににんマルコルカとは、たゞ使徒等しとたち弟子でしでありました。

福音ふくゐん事柄ことがら一々いちゝゝ説明せつめいするのはもっと大事だいじであるが、初歩しょほ省略せうりゃくしてあるから書籍しょせきゆづる。