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公教要理説明/01-02

提供:Wikisource

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だいくゎ 天 主てんしゅ

13●天主てんしゅとはたれでありますか

天主てんしゅは、天地万物てんちばんぶつ創造つくり、且主宰かつつかさどたまものであります

天主てんしゅ

とは、てん御主みあるじ意味いみであります。世間せけんではこれてんばかなづけることあれども、我々信者われゝゝしんじゃっては事足ことたらぬ。

てん

とは、此世界このせかいほか何処どこてんうへばかりでない、した周囲ぐるりてんである。

とは、此世界このせかい

万物ばんぶつ

とは、よろづものって、てんるものつきほし

[下段]

るものうみやまくさけもの人間にんげんなに万物ばんぶつうちである。

創造つく

とは、出来でかし、あらしめたまふたとことである。

主宰つかさどたま

とは、はからをさたまふとの意味いみ

天地万物てんちばんぶつもとからるものでない。もとかったのに、天主てんしゅこれつくたまふたのである。しか職人しょくにんものつくごとくでない、むしろあらしめた、出来でかした、すなは出来できみち出来でき法則はふそくてゝ、其道其法則そのみちそのはふそくしたがって出来できるやうにいたたまふたのである。そこ天主てんしゅ造主つくりぬし世間せけんでは又造物主またぞうぶつしゅ造物者ぞうぶつしゃともなづける。天主てんしゅ万物ばんぶつ出来でかたまふたばかりでなく、たまふた種々いろゝゝ法則はふそくしたがって万物ばんぶつはからたまふのである。ほしめぐるのも、あめるのも、かぜくのも、いねむぎくさけだもの人間にんげん出来できるのも、皆天主みなてんしゅ御計おんはからひである。世間せけんでも「せいめいあり」とふが、殊更ことさらひとぬのも、うまれてきるのも、皆所謂みないはゆるてんめいすなは天主てんしゅ御計おんはからひによるとの意味いみである。

それ天主てんしゅなに出来でかし、且計かつはからたま御者おんものなれば、これ

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まことかみすなは実際凡じっさいすべてのものゝうへにあって、最上さいぜうのもの、此上このうへのない御主みあるじである、これならぶものはけっしてない、ならべようとするのははなは無理むりである。

14●天主てんしゅたまふものでありますか

天主てんしゅは、れいでありまして、かたちがないから、肉眼にくがんたまふものではありませぬ。

我々われゝゝ霊魂れいこんれいであるから、これいてかんがへればわかやする。

れい

とはふものであるか、れい無形むけいすなは色形いろかたちなくして、知恵ちえ生命いのちのあるものである。いろたとへばしろいとかくろいとかふもの、かたちたとへばまるいとか四角しかくとかながいとかみじかいとかふものであるが、れいしろくろながみじかおほきちいさなどふやうなものではない、まったいろ

かたちがない

ものである。又風またかぜごとはだあたり、にほいごとはながれ、おとごとみみきこえるものではない。そんものとはちがって、知恵ちえがあってものわかる、又活またいきたものである。

ひと霊魂たましひ其通そのとほりで、にはえねどはたらことえる。ひと

[下段]

うごいたりものわかったりすれば、霊魂たましひがあるとれ、んでものわからずうごかぬやうになれば、霊魂たましひけたとれる天主てんしゅたまはぬのに、其働そのはたらきえる、天主てんしゅがなければ天地万物てんちばんぶつけっしてあるまいとのわけである。

肉眼にくがん

すなは肉身にくしんえるのは色形いろかたちばかりであるから、霊魂れいこんさらえず、天主てんしゅ肉眼のくがんたまふものではない。そんなら天主てんしゅまったたまはぬかとふに、肉眼にくがんえねどこゝろたまふ。せいパウロいはく「天主てんしゅ見得みうべからざるところ其永遠そのえいえん能力のうりょく神性しんせいも、世界創造以来造せかいさうぞういらいつくられたものによってさとられ、あきらかにえるがゆゑに、人々弁解ひとゞゝべんかいすることず」と(ロマ書一ノ廿)。天主てんしゅみとめぬのは、おほこゝろ邪欲じゃよくためくらまされてあるわけによる、それイエズスキリストは「さいはひなるかなこゝろきよひと彼等かれら天主てんしゅ見奉みたてまつるからである」と(マテオ五ノ八)のたまふた。それ此世このよからのことであるが、んだ時霊魂ときたましひ肉体にくたいはなれてから、天国てんごくおい直接ちょくせつ天主てんしゅたまふに相違さうゐない。しか此事このことあと天国てんごくいて(だい百二十七のとひに)説明ときあかす。

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ちゅうれいのやうにかたちこと無形むけいひ、そんなものを無形物むけいぶつふ。これはんしてかたちこと有形いうけいひ、そんなものを有形物いうけいぶつふが、又之またこれ一般いっぱん物体ぶったい物質ぶっしつともふ。物質ぶっしつれい反対はんたい部分ぶぶんがあって、出来できたりくづれたりする、れい部分ぶぶんなくしてめっすることなし。

15●天主てんしゅにははじめがありますか

天主てんしゅは、はじめもなく、をはりもなくして永遠えいゑんましまものであります。

なにものでも出来できときそのものゝはじめで、くなるときをはりである。

天主てんしゅ

出来できたものでないから

はじめなく、

又無またなくなるものでないから

をはりもない。

はじめをはりのないこと永遠えいゑんふ、それ天主てんしゅ

永遠えいゑんましま

まうす。

天主てんしゅほかに、はじめのないものはない。太古人間おほむかしにんげんけものくさ此世界このせかいさへもかったとことあきらかにれる、それ皆始みなはじめがある、又終またをはりがあらう。

16●天主てんしゅ何処どこましますか

[下段]

天主てんしゅは、てんにも、にも、何処どこにももましまさぬところはありません。

天主てんしゅ

何処どこにも在す、

のは、霊魂れいこんからだうち一杯いっぱいあるがごとくである。

れば天主てんしゅ地獄ぢごくにもおでになる、唯罪人たゞざいにん打棄うちすてられ天主てんしゅこと出来できぬのが、地獄ぢごくひとつくるしみである。天主てんしゅひとこゝろにもおでになる、唯善人たゞぜんにんこゝろには、愛深あいふかちゝごとくおでになるに、悪人あくにんこゝろには、こればつすべき判事はんじごとくであります。

17●天主てんしゅにはたまはぬことがありますか

天主てんしゅたまはぬことがありませぬ、これ全知ぜんちまうします天主てんしゅ何処どこにもましますによって、何処どこことでも

たまはぬことがありませぬ。

それひと如何いかかくして何事なにごとかをようとしてもけっしてかくこと出来できぬ、ひとかくしても天主てんしゅにはけっしてかくぬ。ひともっとひそかおもひでものぞみでも皆知みなしって、其善悪次第そのよしあししだいかなら褒美或ほうびあるひばつあたたまはず

天主てんしゅ又何時またいつかはことなくおでになるによって、何時いつ

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ことでも御存ごぞんじで、すなは過去くわこって、過去すぎさったことむかしこと現在げんざいって、今何処いまどこにでもあること未来みらいってこと先々さきゞゝあるはずこと御存ごぞんじである。天主てんしゅ何事なにごとりならざるのを

全知ぜんち

すなはまった知恵ちえかぎりなき知恵ちえ

まを

ますひとおもことるから、天主てんしゅひとたやうに、何事なにごと見給みたまふとはふが、れいでありますから、いのはまうすまでもないことである。

18●天主てんしゅにはできなさらぬことがありますか

天主てんしゅにはできなさらぬことがありませぬ、これ全能ぜんのうまうします。

天主てんしゅ天地万物てんちばんぶつ出来でかしなさったによって、なにでも御望おのぞみとほ容易たやす出来できなさる、

できなさらぬことがありませぬ。これ全能ぜんのう

すなはまったちからかぎりなきちから

まうします。

それ此世界このせかいほろぼことでも、べつ世界せかいつくことでも、容易たやす出来できなさるに相違さうゐない。

それなら無理むりことひとあざむ事等出来ことなどできるかとふに、そんことちからではない、不足ふそくであるから、天主てんしゅには出来できぬ。又理またり

[下段]

はぬことたとへば四角しかくたまつくこと出来できるかとふに、天主てんしゅには出来できぬとふよりは、そんなものは出来できぬ、るにられぬとふが本当ほんたうである。もとよりたまならば四角しかくでない四角しかくなものはたまでないからである。

19●なにって天主てんしゅましまことりますか

天主てんしゅましまこと天主てんしゅしめしってしんじます、又道理まただうりってもれます。

こゝ

天主てんしゅましま

とは、いよい天主てんしゅるとことで、げんへてへば「天主てんしゅ存在そんざい」とひます。

なにって

るかとたづねたのに返事へんじふたつわかれる。

一方いっぽう

しんずる、

一方いっぽう

れる

ふことであるがこれを見分みわけてもらひたい。何故なぜなればしんずるとは信仰しんかうこと天主てんしゅ啓示しめしって、我々われゝゝ天主てんしゅることがわかりれるのはすなはひとでも道理だうりってかんがへたならば、天主てんしゅことがわかるからである。大切たいせつであるから両方少れうはうすこくわしくべねばなるまい、小児こどもためばかりでな

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く、はなし度々出たびゝゝでゆゑである。

(一)我々われゝゝ信仰しんかうわけほかでない、

天主てんしゅ啓示しめしる。

天主てんしゅしめしとはだい九のとひべたごと天啓てんけいって、天主てんしゅらせたまふたことふ。天啓てんけいらぬでも天主てんしゅことみとめたひと幾千いくらもあるけれども、ひと無知むちため種々いろゝゝ情欲ぜうよくためくらまされやすいから、それかゝはらずひとでも皆容易みなやさしく、疑念うたがひなく、錯誤まちがひなくこと出来できるやうに、天主てんしゅ殊更ことさら御自分ごじぶんことらせたまふたのである。それ一遍いっぺんでなく幾度いくたびにもわかちて、人祖じんそアダムはじめ、代々だいゞゝ子孫殊しそんことセットエノクノエアブラハムイザアクヤコブなど又殊更またことさらモイゼ聖人せいじん又数多またあまた予言者よげんしゃ漸々敎だんゞゝをしへあらはし、つひ聖子おんこイエズスキリストもっをしたまふたのである。是皆天啓これみなてんけい部分ぶぶんで、其事実そのじじつおよ旧新両約きうしんれうやく聖書せいしょせて、いよいまことであるとの証拠せうこおびたゞしい奇跡及きせきおよ予言よげんおこなはれ、全知全能ぜんちぜんのう印判いんぱんのやうなものをもっ保証ほせうせられた。又公教会またこうけうくわいもっ万国万民ばんこくばんみんつたへられるものであるが、これ我々われゝゝ信仰しんかう基礎どだいである。

[下段]

それ世間せけんでは、キリスト信者しんじゃ天主てんしゅしんずるのは詮方せんかたなしで、ほか此世界このせかいわけ事出来ことできぬからであるとはなしあれども、けっしてうではない、我々われゝゝ信仰しんかうもっぱ天啓てんけいもとづく、すなは天主てんしゅしたしらせたまふたからである。てうおやるのは、おやからそだてられて、をそはるからであるのとおな道理だうりである。

(二)なほ

又道理まただうりっても

天主てんしゅましまこと

れる。

道理だうりとは、当然あたりまへひとならばはやわかはずはなしである。道理だうりってれるとは、道理だうりしてれば、種々いろゝゝことかんがへれば、天主てんしゅましまことさとはず意味いみ

げん人間にんげんはじめ、かぞへられぬほど種類しゅるいわかれた草獣等見くさけものなどみえるが、是皆何これみなどうして出来できたものであらうか。何時いつ何時いつうであったとすればかくも、うつかわってくので、原無もとなかったに相違さうゐない。原無もとなかったならうして出来できたか、出来でかしたものたれであらうか。又科学またくわがくもっ中々見尽なかゝゝみつく事出来ことできめづらしい釣合つりあひ法則等見はふそくなどみえるが、たれ制定さだめであらうか、自然しぜんとはふけれども、ったばかり

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るか。又面々まためんゝゝこゝろかへりみれば、ひとではなけれど中々争なかゝゝあらそはれぬこゑのやうなものがあって、うしてはならぬといましめるのは、たれこゑであらうか。なにいてもさかのぼって道理だうりせば、かなら天主てんしゅことみとめねばならぬやうにる。うかわけ少々述せうゝゝのべてきたい。

道理上天主だうりぜうてんしゅ存在そんざいせうするわけ

だい一、万物ばんぶつ大原因だいげんいん学者がくしゃもっぱところによれば、此世界このせかいえる草木さうもく種族しゅぞくは五十万以上まんいぜう動物昆虫どうぶつこんちう種族しゅぞくは六十万以上知まんいぜうしれてる。又大地まただいちばれた我地球わがちきうは、すう百の遊星いうせいともえず太陽たいやう周囲ぐるり回転くわいてんする。むかしから太陽たいやう地球ちきうより往来ゆききされるもの、あまつさ地球ちきうより主宰つかさどりかれるものあま岩戸いはどにでもかくれたくらゐのものとおもはれたに、実際じっさいひゃく三十五万倍まんばいばかり地球ちきうよりおほききくして、こめに一つぶくらべるほどである。ちひさえるのは、三千八百万里まんりほどはし汽車きしゃでも、四十五ねんかゝくらゐである。又金またきんくぎのやうにそらかゞやほしおよ太陽たいやうごときものであって、えるのは一おくばかり

[下段]

なれど、望遠鏡ばうゑんけうれば十おくくだらぬとふ。此天地このてんち万物ばんぶつうしてるものであらうか、もとよりいつ此通このとほったものか、出来できたものかふたつきまる。ところ漸々変だんゝゝかはって容子やうすれば、いつうであったとはうしてもはれぬ、いよい出来できたもの、げん出来できつゝあるものであるとことは、科学上かがくぜうあきらかにれてる。それなら出来できたものならば自然しぜん出来できたか、あるひ出来でかしたものがあるか、其所そこ問題もんだいである。しかるに自然しぜん出来できたものはけっしてない、かなら出来でかすものがある。なにものでものものから、すなはあるひおやから、あるひたねから、あるひ化合くわがふから出来できほかはない。いえ時計とけい自然しぜん出来できたとはれようか、これ出来でかだけ知恵ちゑ能力ちからのあるものえうすれば、此万物このばんぶつ出来できるにはしてうである。それ何国いづくににもはれるとほ造物主ぞうぶつしゅとかかみとかせうするものがあって、万物ばんぶつ出来でかすに相違さうゐない、らゆるもののこらず造物主即ぞうぶつしゅすなは天主てんしゅのあることせうするのである。

だい二、運動うんどう原因げんいんつきほし地球ちきうかねいしごとく、きてらぬもの死物しぶつふ。くさとりけもののやうに、

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きてもの生物せいぶつふ。死物しぶつは、惰性だせいって、ほかからうごかされぬならば、何時いつまでも、みづかうごこと出来できぬ。叉死物またしぶつ生物せいぶつらず生物せいぶつかなら同類どうるいおやあるひたまごから出来できほかはない。此二このふたつことは、きまった道理だうりである。

ところつきほし地球等ちきうなどは、死物しぶつながら皆動みなうごいてる、非常ひぜう速力はやさもっうごいてことは、天文学てんもんがくもっれる。地球ちきうだけのことでもけば、自転じてんとて独楽こまごと毎日一遍旋然まいにちいっぺんぐるりまはるが、そればかりでも赤道せきだうあたりのところは、一日いちにち一万里いちまんりあまりはしる。其上公転そのうへこうてんとて毎年太陽まいねんたいやう周囲ぐるり一周ひとまわりするが一日いちじつ走方はしりかたは六十五万里まんりすなは一秒時間いちべうじかん瞬間またゝくま)に七里程りほどであって、特別急行列車とくべつきふかうれっしゃよりも千層倍以上せんそうばいいぜう迅速はやいものである。たれでも聞馴ききなれた此二このふたつ運転うんてんほかに、天文学者てんもんがくしゃ尚十許なほとをばかおもなる運転うんてんみとめてるが、到底素人たうていしろうとではゆめにもわからぬはなし唯我々たゞわれゝゝかく混雑極こんざつきはまるべき運転うんてんあるのに、ほとん地球ちきううごかぬとおもはれるほど奇妙きめう調和てうわされてあるのは、偶然ぐうぜんことであらうか。時計とけい機械きかいまはるのは、偶然ぐうぜん出来事できごと

[下段]

であるか。造物主ぞうぶつしゅ奇妙不思議きめうふしぎ全知全能ぜんちぜんのうわざほかはない。或学者あるがくしゃかみわざこといなんで、たれ爪弾つまはじきしたものがあるとったが、かく運転うんてんさせるものがなければ、天体てんたいみづかうごこと出来できゆゑ運転うんてんさせるものはどなたであらうか。

だい三、生命せいめい原因げんいん叉生物皆親またせいぶつみなおやから出来できるとへば、素々もとゝゝ如何どうであったか、けもの人間等にんげんなどかったときに、如何どうしてはじめて出来できたか、たとへばとりたまごからうまれるが、一番前いちばんさきとりであったか、たまごであったか、とりいのに如何どうしてたまご出来できたらう、たまごいのに、如何どうしてとり出来できたらう。木草きくさはじめ木草きくさであったか、種物たねものであったか、木草きくさいのに、如何どうして木草きくさ出来できたらう、「かぬたねえぬ」とふではないか。ひとあって、春夏秋冬はるなつあきふゆはじめなく、年々同ねんゝゝおなじやうにつゞく、何時始いつはじまったかれぬとへば、おもはるれど、如何どうしてもはじめがあるはず今年ことし昭和せうわ十五ねんなら、昨年さくねんは十四ねんであったに相違さうゐない。假令たとひ十五ねんかはりに、十五万年まんねんっても何時いつ

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元年ぐわんねんがあるはず年々数ねんゝゝかずえれば、さかのぼときかならはじめがある、もとのないにはのぼられぬ。

ひとあって、なんでも進化説しんくわせつしたがって、自然しぜん進化しんくわしたとはうか。しかいよい進化しんくわして、べつるゐ出来できたとのたしか証拠せうこ何処どこにあらうか、うりたね茄子なすびえぬのは、もとからの道理だうり原詰もとつまらぬもの漸々進化だんゞゝしんくわしてたとっても、其詰そのつまらぬもの出来できるには、出来でかしたものる。叉進化またしんくわするにも、方法はうはふがあるから、其方法そのはうはふてたもの其方法そのはうはふしたがって進化しんくわさせるものる。こゝろみ人間にんげんさるりたいとおもっても、無論出来むろんできぬのに、さる人間にんげんりたいときには尚更然なほさらさうである。さる人間にんげんに三本毛ぼんけらぬとへば、人間にんげんるには、たれらぬところほどこものがなければ、到底出来たうていできはずはない。可笑をかしはなしはれても道理だうり道理だうりである。ひとあって、むしでもかびでも、たねなしにはけっして出来できぬと、科学上解くわがくぜうわかったことである。世間せけん自然しぜんふのは、天然てんねんふが本当ほんたうであって、天然てんねん天主てんしゅしからしめ

[下段]

たとの替名かへなである。

死物しぶつ運動うんどうも、生物せいぶつ生命いのちも、素必もとかなら天主てんしゅあたたまふたものである。素与もとあたへたものがなければ、けっして自然しぜん出来できはずはない。

だい四、万物ばんぶつ順序じゅんじょなによりめづらしいのは、万物ばんぶつ順序じゅんじょ叉釣合またつりあひである。素人しろうと其上辺そのうはべて、不思議ふしぎおもふが、科学くわがくこれ研究けんきうすればするほど尚々感嘆なほゝゝかんたんへぬのである。たとへば人間にんげんは、如何いかにも込入こみいった立派りっぱ機械きかいで、ものるに釣合つりあったことは、学者がくしゃいくちからつくして研究けんきうしてても、まんいちをもわかつくこと出来できぬ。感心かんしん写真機等しゃしんきなどは、わづかちょっ手本てほんにしたばかりである。しか人間にんげんだけではなく、とりうをけもの顕微鏡けんびけうやうやえるちひさいむし叉顕微鏡またけんびけうでもえぬこまかいむし黴菌ばいきんいたまで矢張皆目やはりみなめがある。よるでもえるもの、叉闇またくらがりばかりにえるものがあって、おのゝゝちがってるけれども、には立派りっぱ釣合つりあってる。全体ぜんたい中些うちちょっとした部分ぶぶんで、尚耳なほみゝはなくち足等あしなどがあり、叉骨組またほねぐみ筋肉きんにく血脈ちすぢ神経しんけい内臓ないぞう種々しゅゞゝ機関きくわんがあって、

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其組織そのそしき其作用そのはたらき却々言語なかゝゝことばつくされず、人間にんげんこまかいむしちいさい世界せかいのやうなもので、如何いかにも奇妙不思議きめうふしぎなものである。叉数またすうまんわた木草きくさたぐひは、皆似みなにるけれども、其形象そのかたち其生育そのそだち其質そのしつ其向そのむところ其使そのつかはれるところ相異あひことなってる。大木たいぼくでもちいさいたねからせうじて、同類どうるゐもの立派りっぱるが、其枝そのえだも、まったものはない。これ動物学どうぶつがく植物学等しょくぶつがくなど研究けんきうすれば、まこと奇妙きめうで、到底言葉たうていことばつくされぬものである。

是皆偶然出来これみなふとできもの自然しぜん出来できものはれようか、時計とけいでも機械きかいでも、自然しぜん出来できたとふのとおな理屈りくつる。たとへば物皆火事ものみなくわじためはひけむりくわして、もと分子ぶんしひとつせてらぬにせよ、叉自然またしぜんもととほりにかへるか。万物ばんぶつ皆全知全能みなぜんちぜんのう天主てんしゅ御計おはからひによって出来できもの相違さうゐない、出来できものさとったばかりで大学者だいがくしゃはるれば、してもとよりこれ出来でかたまふた造物主ぞうぶつしゅをや。おどろかす発明はつめい天然物てんねんぶつ研究けんきうして其力そのちから応用おうようするばかりである。そらみづおよつまらぬむしでも流石さすが飛行機ひかうき潜航艇せんかうていより何程巧妙どれほどたくみ

[下段]

るか。

だい五、宗教しうけう原因げんいん万物ばんぶつうへたれってこれ出来でかし、また主宰つかさどるとことは、人類一般じんるゐいっぱん太古おほむかしから合点がてんしてる。合点がてんしてればこそ、くにでも宗教しうけうのないとくにはない。成程天なるほどてんとか天帝てんていとか、造物主ぞうぶつしゅとか、かみとかほとけとか、種々いろゝゝけてある。叉如何またどんなものであるかとこといたっても、様々さまゞゝかいせられるけれども、兎角人間とかくにんげんをがむべくたふとむべく、しゃすべく、いのるべきものがあるとおもへばこそ、それためだうみや寺等てらなどて、祭典まつり祈禱きたう供物等くもつなどまうけたものである。これ門違かどちがひばかりで、人類一般じんるゐいっぱん天主てんしゅ存在そんざい気差きざしてことせうするに相違さうゐない。

此五このいつゝわけは、万物ばんぶつ道理だうりしたときに、天主てんしゅ存在そんざいせうするものであるが、おのれいてかんがへても、亦之またこれさとはず

すなは

だい六、一身上しんぜう道理だうりむかしから「死生しせいめいあり」との名言めいげんとほり如何どんひとでも自分じぶんおやのものでもなければ、おのれのものでもないことあきらかである。すなはおやからうまれても、おや如何どん

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出来できるか、何時生いつうまれるか、何時いつまできるかはらず、叉髪毛またかみけ一本いっぽんでも勝手かってらぬなれば、死生しせいすなはうまれてぬるばかりでなく、生涯せうがいまったく「てんめい」によるとことうたがはれぬ。てんとは天主てんしゅ替代かへなである。万事天主ばんじてんしゅ御計おんはからひによることあきらかであって、ひとおのれうへかんがへれば、死生しせいばかりでなく、生涯天主せうがいてんしゅめいによるべきことさとはずである。

だい七、良心れうしん証明しょうめい面々めんゝゝこゝろかへりみればまたぜんめいあくいましたま天主てんしゅのあることさとはず其訳そのわけは、乃公おれ自由じゆうひながら、なにかをようとすれば、こゝろうちこゑのやうなものがあって、これわるい、それい、るな、よと、しきりすゝめる。いやでもこれしたがったときは、其声そのこゑは、ことた、これかったとめてうれしがらせる。しも其声そのこゑそむいてしたならば、ひとはなくてもしきりとがめて、ゆるしけるまでは安心あんしんならず、其呵責そのかしゃくもって、はやかれおそかれ其罰そのばつまぬがれぬことさとされる。其声そのこえ面々めんゝゝ生付うまれついた良心れうしんふものであるが、ひと差図さしづではない、善悪ぜんあく区別くべつてゝ

[下段]

ぜんめいあくいましめる「てんめい」である。これこそ人間にんげんうへものめい善悪ぜんあく賞罰せうばつたま天主てんしゅこと立派りっぱせうするものである。

だい八、無神論むしんろん証明せうめいこれまでのはなしは、おもてからの道理だうりであるが、うらからろんじてもおなことで、天主てんしゅいとすれば、此世このよまった説明せつめい出来できぬ。道楽人だうらくにん悪党あくたうって、此世このよられぬとほどる。

天主てんしゅいならば、万物ばんぶつ偶然自然ふとしぜん出来できもので、べつはからものはなし。叉法律またはふりつほかに、あくいましめるものなく、いく悪事あくじても、警官けいくわんさへのがるれば、なにおそるべきものはいやうにる。宗教しうけうもとよりらぬ、叉未来またみらい希望きぼうするはずはないから、悪党あくたうごとく、めやうたへや一寸先いっすんさきやみ無暗むやみうたふが当然あたりまへる。尚欲なほよくおさへ、義務ぎむはたし、犠牲ぎせいなどにはおよばず、ぜんてもあくても、畢竟違つまりちがはぬから、善悪よしあしかまはず、出来できるならくまで情欲ぜうよくみたして此世このよたのしむやうにるがい、ねば其限それかぎり。叉優勝劣敗またいうせうれっぱいなかなれば、難儀なんぎひと依頼よりたのものなく、きるのが

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いやならば、自害じがいしてもそんはない、なんおそろしいはなしではないか。りながら幾何卑劣いくらひれつはなしひとみちけることとはへ、今各国いまかくこくなやましつゝある悪党あくたう無政府党むせいふたう社会主義者等しゃかいしゅぎしゃなどもっぱところは、皆無神論みなむしんろんすなは神無かみなしとのろん結果けっくわではないか、結果けっくわ無理むりとすれば、もとづところ無理むりはねばならぬ。天主てんしゅいならば、まった宗教しうけうらず、宗教心しうけうしんければ、人間にんげんでも動物どうぶつおとものる。此訳このわけよくしてたならば、かなら天主てんしゅ存在そんざいみとめるはずである。真正しんせい宗教しうけうけっして仏教ぶっけう所謂いはゆる勧善懲悪かんぜんてうあく方便ほうべん」ではない、かなら真理しんりである。

天主てんしゅ存在そんざいせうするところ稍長やゝながたらしくべたが、なかなかつくしたところでない、りとらゆるものはのこらず異口同音いくどうおん造物主ぞうぶつしゅことせうする、まいでもくさぽんでもせうせざるはない。これはんしてひろ世界せかいには造物主ぞうぶつしゅいと証拠せうこひとつでもあらうか、けっしてあることなし。此論このろんもとづてんおもふたつだい一、原因げんいんなき結果けっくわなし、だい二、さく作者さくしゃ技量ぎれうれる。なにいても真心まごゝろろんじてれば、かなら

[下段]

天主てんしゅ全知全能ぜんちぜんのう如何いかかんずべく、しゃすべく、あいすべきかをるにいたる。此証拠このしょうこ稽古けいこ子供こどもかならかせねばならぬとわけではない、都合次第つごうしだいもちゐるがい。