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今鏡 (國文大觀)

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他の版の作品については、今鏡をご覧ください。

今鏡


今鏡第一

    すべらぎの上

やよひの十日あまりの頃、同じ心なる友だちあまたいざなひて、はつせに詣で侍りしついでに、よきたよりに寺めぐりせむとて大和のかたに旅ありき日ごろするに、路遠くて日もあつければ、木かげに立ちよりて休むとてむれゐる程に、みづはさしたる女の杖にかゝりたるがめのわらはの花がたみにわらび折りいれてひぢにかけたるひとり具して、その木のもとにいたりぬ。「「遠き程にはあらねど苦しくなりて侍れば、おはしあへる所はゞからしけれど、都のかたよりものし給ふや。むかし戀しければ、しばしもなづさひたてまつらむ」」といふけしきも、口すげみわなゝくやうなれど、年よりたるほどよりも、昔おぼえてにくげもせず。「「此のわたりにおはするにや」」など問へば「「もとは都に百とせあまり侍りて、その後山城の狛のわたりにいそぢばかり侍りき。さて後おもひもかけぬ草のゆかりに、春日野わたりに住み侍るなり。すみかのとなりかくなりし侍るも、あはれに」」といふに、年の積り聞く程に、みな驚きてあさましくなりぬ。「昔だにさほどの齡はあり難きに、いかなる人にかおはすらむ。誠ならばあり難き人見たてまつりつ」」といへば、うち笑ひて「「つくも髮はまだおろし侍らねど、ほとけの五つのいむ事をうけて侍れば、いかゞ浮きたることは申さむ。おほぢに侍りし者もふたもゝちに及ぶまで侍りき。おやに侍りしもそればかりこそ侍らざりしかども、もゝとせに餘りて身まかりにき。おうなも、其の齡を傳へ侍るにや。いまいまと待ち侍りしかど、今はおもなれてつねにかくてあらむずるやうに、念佛なども怠りのみなるもあはれになむ」」といへば「「さていかにおはしけるつゞきにか。あさましくも、長くもおはしける齡どもかな。からのふみ讀む人の語りしは、みちよへたる人も有りけり。もゝとせを七かへり過ぐせるも有りければこの世にも、斯る人のおはするかな」」と此の友だちの中にいふめれば、「「おほぢはむげに賤しき者に侍りき。きさいの宮になむ仕へまつり侍りける。名は世繼と申しき。おのづからも聞かせ給ふらむ。くちにまかせて申しける物語、とゞまりて侍るめり。親に侍りしは、なま學生にて大學に侍りき。この嫗をも若くては、宮仕へなどせさせ侍りて、からの哥やまとの歌などよく作りよみ給ひしが、越の國の司におはせし御むすめに式部の君とましゝ人の、上東門院の后の宮と申しゝ時、御母の鷹司殿にさぶらひ給ひし局に、あやめと申してまうで侍りしを、「五月に生まれたるか」と問ひ給ひしかば「五日になむ生まれ侍りける。母の志賀のかたにまかりけるに舟にて生まれ侍りける」と申すに、「さては五月五日舟のうち浪の上にこそあなれ、午の時にや生れたる」と侍りしかば「しかほどに侍りけるとぞおやは申し侍りし」など申せば、もゝたび鍊りたるあかゞねなゝりとて、いにしへをかゞみ今をかゞみるなどいふ事にてあるに、いにしへもあまりなり。今鏡とや云はまし。まだをさをさしげなる程よりも、年もつもらずみめもさゝやかなるに、小鏡とや付けまし」」など語れば、「「世に人の見興ずる事語り出だされたる人のうまごにこそおはすなれ。いとあはれにはづかしくこそ侍れ。式部の君たれがことにか」」と問へば「「紫式部とぞ世には申すなるべし」」といふに、「「それは名高くおはする人ぞかし。源氏といふめでたき物語作りいだして、世にたぐひなき人におはすれば、いかばかりの事どもか聞きもちたまへらむ。うれしき道にも逢ひきこえけるかな。昔の風も吹き傳へ給ふらむ。然るべき言の葉をも傳へ給へ」」といへば「「かたがたうけたまはること多かりしかども物語どもに皆侍らむ」」といへば「「その後の事こそゆかしけれ」」といふに、「「近き世の事も、おのづから傳へきゝ侍れば、おろおろ年の積りに申し侍らむ。若く侍りし昔は然るべき人の子など三四人生みて侍りしかど、此の身の怪しきにや皆法師になしつゝ、あるは山ぶみしありきて跡もとゞめ侍らざりき。あるは山籠りにておほかた見る世も侍らず。たゞ養ひて侍る五節の命婦とて侍りし、內わたりの事も語り世の事もくらからず申して、琴のつまならしなどして聞かせ侍るも、齡のぶる心ちし侍りし。早くかくれ侍りてまた殿守のみやつこなるをのこの侍るも、うひかうぶりせさせ侍りしまで養ひたてゝ、この春日の里に忘れずまうでくるが、朝ぎよめ御垣の內に仕うまつるにつけて、此の世の事も聞き侍る。みなもとを知りぬれば末の流れきくに心くまれ侍り。世繼が申しおける萬壽二年よりことしは嘉應二年かのえ寅なれば、もゝとせあまりよそぢの春秋に、三とせばかりや過ぎ侍りぬらむ。世は十つぎあまり三つぎにやならせ給ふらむとぞおぼえ侍る。その折萬壽二年に、ことしなると申したれば、彼の後一條のみかど世をたもたせ給ふ事廿年おはしましゝかば、萬壽二年の後いまとかへりの春秋はのこり侍らむ。神武天皇より六十八代にあたらせ給へり。その御世より申し侍らむ」」とて、

     くもゐ

「「後一條のみかどゝは、前の一條の院の第二の皇子におはします。御母上東門院、中宮彰子と申しき。入道前の太政大臣道長のおとゞの第一の御むすめなり。このみかど寬弘五年長月の十日あまり、ひとひの日生れさせ給へり。同じ年の十月十六日にぞ親王の宣旨きこえさせ給ひし。同じ八年六月十三日東宮に立たせ給ふ。御年四つにおはしましき。一條の院位さらせ給ひて、御いとこの三條の院東宮におはしましゝにゆづり申させ給ひしかば、その御かはりの東宮に立たせ給へりき。かの三條の院位におはします事、五とせばかり過ぐさせ給ひて、長和五年むつきの廿九日に、位を此の帝に讓り申させ給ひき。御年九つにぞおはしましゝ。さて東宮には、かの三條の院の式部卿のみこを立て申させ給へりき。攝政は、やがて御おほぢの入道おとゞ、左大臣とて先のみかどの關白におはしましゝ、ひきつゞかせ給ひて次の年の三月に御子の宇治のおとゞ、右大將と聞こえさせ給ひしに、讓り申させ給ひにき。その日やがて內大臣にもならせたまふと聞こえさせたまひにき。その八月九日、東宮わが御心とのかせ給ひき。三條の院も卯月に御ぐしおろさせ給ふ。五月にかくれさせたまひぬるにも、世の中さうざうしくおぼしめすにや。御病ひなどきこえてかくさらせ給ひぬれば、みかどの御おとうとの第三の親王を、このかはりに立て申させ給ひて、廿五日にぞ、さきの東宮に院號きこえさせ給ひて、小一條院と申す。年每のつかさくらゐ、もとの如く給はらせたまふ。御隨身などきこえ給ひき。堀河の女御の「見えしおもひの」などよみたまへる、ふるき物語に侍るめれば、こまかにも申し侍らず。寬仁二年正月には上の御年十にあまらせ給ひて、三日御元服せさせたまへれば、きびはにおはしますに、御かうぶりたてまつりておとなにならせ給へる御姿もうつくしう、いとめづらかなる雲ゐのはるになむ侍りける。卯月の廿八日に大內やうやう造り出だしてわたらせ給ふ。しろがねのうてな玉のみはし、磨きたてられたる有樣、いときよらにて、あきらけき御世の曇りなきもいとゞあらはれ侍るなるべし。御格子も御簾も、あたらしくかけわたされたるに、雲の上人の夏頃も御だちのよそひなど、いとゞ涼しげになむ侍りける。おほ宮もいらせ給ふ。東宮もわたらせ給ひて、梅壺にぞおはします。入道おとゞの四の君は、威子の內侍のかみと聞こえたまひし、こよひ女御に參り給ひて、藤壺におはします。神無月の十日あまりのころ、きさきに立たせ給ふ。國母も后もあねおとゝにおはしませば、いとたぐひなき御榮えなるべし。廿二日に上東門院にみゆきありて、桂を折る試みせさせたまふ。題、霜をへて菊の性をしる。又みどりの松色を改むる事なし、などぞ聞えし。おほきおとゞたてまつらせ給へるとなむ。八月二十八日東宮御元服せさせ給ふ。御年十一にぞおはしましゝ。九月廿九日に、入道おとゞ東大寺にて御戒うけさせ給ひき。同四年かのえさる、三月廿二日に無量壽院つくり出ださせ給ひて、供養せさせ給ふ。きさき、みところ行啓せさせたまふ。御ありさまども、ふるき物語に、こまかにはべれば、さのみ同じことをや申しかさね侍るべき。十月には入道のおとゞ、比叡にのぼりたまひて、廻心とかいひて、御戒重ねて受けさせたまふ。治安二年みづのえの戌の七月十四日法成寺に行幸せさせ給ひき。入道大臣金堂供養せさせ給ひしかば、東宮もきさきたちも、皆行啓せさせ給ひき。罪あるものども皆赦され侍りにけり。三年正月に太皇太后宮に朝覲の行幸せさせ給ひき。東宮もおなじやうに行啓せさせたまひける。ふたりの御子おはしませば、いとたぐひなき宮のうちなるべし。十月十三日に上東門院の御母鷹司どの、六十の御賀せさせ給ふ。その御ありさまむかしの物がたりに侍れば、この中にも御覽ぜさせたまへる人も、おはしますらむ。萬壽元年九月十九日、關白殿の高陽の院に行幸ありてくらべ馬御覽ぜさせ給ふべきにて、太皇太后宮まづ十四日にわたりゐさせたまひてぞ、まち奉らせ給ひける。かくて廿一日に、大宮は內へいらせ給ひき。高陽院の行幸には、かの家の司、加階などし侍りけり。村上の中務の宮の御子源氏の中將を、入道おとゞの御やしなひ子ときこえ給ふ。このたび三位中將になりたまひき。二年八月三日東宮のみやす所、をとこ宮うみたてまつり給ひて、五日にかくれさせ給ひき。入道おとゞの六の君におはする、御さいはひの中に、あさましく悲しと申すもおろかに侍れど、後冷泉院を生みおきたてまつり給へれば、いとやんごとなくおはします。そのをりの悲しさはたぐひなく侍りしかども、いきて后に立ちたまへる御姉たちよりも、おはしまさぬあとのめでたさは、こよなくこそ侍るめれ。

     子の日

三とせの正月十九日、太皇太后宮御さまかへさせたまひき。后の御名も止めさせ給ひて上東門院と申しき。よそぢにだにまだ滿たせたまはぬに、いと心かしこく世をのがれさせ給ふ。めでたくもあはれにも、きこえさせ給ひき。大齋院と申しゝは、選子內親王ときこえさせ給ひし、この御事を聞かせ給ひて、よみてたてまつらせ給へる御うた、

  「君はしもまことのみちに入りぬなり獨やながきやみにまどはむ」。

此の齋院は、村上の皇后宮の生みおきたてまつらせ給へりしぞかし。東三條殿の御いもうとなれば、この入道殿には、御をばにあたらせ給ふぞかし。長月には中宮御產ときこえさせ給ひて、姬宮うみたてまつらせたまふ。左衞門の督兼隆ときこえたまひしが家をぞ御うぶやにはせさせ給へりし。男宮におはしまさぬは、くちをしけれど、御うぶやしなひなど、心ことにいとめでたく、ことわりと申しながら聞こえ侍りき。この姬宮は後冷泉院のきさき、二條の院と申しゝ御事なり。東宮に始めてまゐらせ給ひけるころ、出羽の辨見たてまつりて、

  「春ごとの子の日はおほく過ぎぬれどかゝる二葉の松はみざりき」

とぞよめりける。同四年正月には、上東門院に年の初めのみゆきありて、朝覲の御拜せさせたまひき。常の所よりも御すまひありさま、いとはえばえしく、唐繪などのやうに、山の色水のみどり、木だちたて石などいと面しろきに、位にしたがへる色々の衣の袖、近衞司の平胡錄、平緖などめもあやなるに、きぬの色まじはれるうちより、からのまひ、こまの舞人、左右かたがたに袖ふるほどなど、所にはえておもしろしなども、言葉も及ばずなむ侍りける。霜月には入道おほきおとゞ御病ひ重らせたまひて、千人の度者とかやいひて、法師になるべき人の數のふみたまはらせ給ふときこえ侍りき。法成寺におはしませば、その御寺に行幸ありて、とぶらひたてまつらせ給ふ。御誦經御布施など、さまざまきこえはべりき。東宮にも行啓せさせ給ふ。御うまご內東宮におはしませば、御病ひの折節につけても、御榮えのめでたさ、むかしもかゝる類ひやは侍りけむ。しはすの四日に入道殿かくれさせ給ひぬれば、年もかはりて、春のはじめの節會などもとゞまりて、位などたまはすることも、程すぎてぞ侍りける。長元二年きさらぎの二日、中宮又ひめ宮うみたてまつらせ給へり。この姬宮は後三條院のきさきにおはします。二人の姬宮たち、二代の帝の后におはします、いとかひがひしき御有樣なり。六年霜月に、たかつかさ殿の七十の御賀せさせ給ふとて、女院中宮關白殿內のおほいどの、かたがた營ませ給ひき。童舞などいとうつくしくて、まだいはけなき御齡どもに、から人の袖ふり給ふ有樣、いとらうありて、いかばかりか侍りけむ。又の日うちに召して、きのふのまひども御らんぜさせ給へり。まひ人雲のうへゆるさるゝ人々ときこえ侍りき。舞の師もつかさ給はりて、近衞のまつりごと人など、加へさせ給ひけりとなむ。かの御賀の屛風に臨時客のところを、あかぞめの衞門がよめる、

  「紫の袖をつらね〈かさねイ〉てきたるかな春たつことはこれぞ嬉しき」。

又子の日かきたる所よめる歌も、いうにきこえ侍りき。

  「萬代のはじめに君が引かるれば子の日の松もうらやみやせむ」。

おなじき九年やよひの十日あまりの程より、うへの御惱みときこえさせ給ひて、神々にみてぐら奉らせ給へる、さまざまの御祈りきこえ侍りき。殿上人御使にて、左右の御馬など引かれ侍りけり。御年みそぢにだに、いま一つたらせ給はぬ、いとあたらし。されど廿年たもたせ給ふ、すゑの世にありがたく聞こえさせたまひき。まだおはします有樣にて、御おとうとの東宮に、位讓り申させ給ふさまなりけり。後の御事の、よそほしかるべきによりて、くらゐおりさせ給ふ心なるべし。をとこ御子のおはしまさぬぞくちをしき。いづれの秋にか侍りけむ、菊の花星に似たりといふ題の御製、からの御言のはきこえ侍りき。

  「司天記取葩稀色

   分野望看露冷光」

とか人の語り侍りし。御ざえもかしこくおはしけるにや。菩提樹院に、此のみかどの御影おはしましけるを、出羽の辨がよめりける。

  「いかにしてうつしとめけむ雲居にてあかずかくれし月の光を」。

かの菩提樹院は、二條院の御堂なれば、御心ざしのあまりに、父のみかどの御すがたをかきとゞめて、置き奉らせたまひけるなるべし。おもひやり參らするも、いとあはれに悲しくこそはべれ。

     はつ春

後朱雀院と申す、さきの一條院の第三の皇子。御母上東門院、先代とおなじ御はらからにおはします。このみかど寬弘六年つちのとの酉と申しゝ年の霜月の廿五日にうまれさせたまひけり。七年正月十六日に、親王ときこえさせ給ふ。御年九つときこえさせ給ひき。長元九年四月十七日位につかせたまふ。御とし二十八。其の年御即位大甞會など過ぎて、年もかはりぬれば、いつしか、む月の七日、關白左のおとゞとて宇治のおほきおとゞおはしましゝ、女御たてまつらせ給ふ。帝の御兄におはしましゝ式部卿の御子の女ぎみの、むらかみの中務の宮の御むすめの御はらにおはせしを、關白殿御子にしたてまつり給ひて、女御にたてまつり給へるなり。一條院の皇后宮の生みたてまつりたまへりし一の御子におはしませば、東宮にもたち給ふべかりしを、御後見おはしまさずとて、二のみこにて、先帝、三のみこにて此のみかどふたり、御堂のうまご、關白の御甥におはしませば、うちつゞき即かせたまへるなり。彼の一條院の皇后宮は、御せうとの內の大臣の、筑紫におはしましゝ事どもに、おもほしなげかせ給ひて、御樣かへさせ給へりしのちに、式部卿の御子を生みたてまつらせ給へるなり。から國の則天皇后の御ぐしおろさせ給ひてのちに、皇子生み給ひけむやうにこそおぼえ侍りしか。されどかれはさきのみかどの女御にて、彼の帝かくれさせ給ひにければ、世をそむきて、感業寺とかいふ寺に住み給ひけるを、先のみかどの御子位につき給ひて、かの寺におはして見たまひけるに、御心やよりたまひけむ。さらに后に立て奉りけるを、これは同じ御代の元のきさきなれば、いたくかはり給はぬさまにて、なのめなる樣にて侍りき。かしこき御世の御事申し侍るもかたじけなく。かの皇后の女房、肥後守元輔と申すがむすめ、淸少納言とて殊になさけある人に侍りしかば、常にまかりかよひなどして、彼の宮のこともうけ給はりなれ侍りき。その式部卿の親王の御むすめにおはしませば、みかどには姪に當らせ給へり。かくて彌生のついたちに、后に立たせ給ひぬ。御とし二十二にぞおはしましゝ。もとの后は皇后宮にならせたまひき。そのもとの后は、みかど東宮におはしましゝ時より、參り給へりき。三條院の姬宮におはします。それは御とし廿五にならせたまへりき。陽明門院と申すはこの御事なり。御ぐしのうつくしさを、故院「見まゐらせぬ、くちをし」とて、さぐり申させ給ひけむも思ひやられて。同じきさきと申せども、やんごとなくおはします。久しく內へ參らせ給はざりけるころ、うちより、

  「あやめ草かれし袂のねをたえてさらに戀路にまどふころかな」

と侍りけむ、御返事はわすれにけり。東宮におはしましゝ時の御息所なり。この后に御堂の六の君まゐり給ひて、內侍のかみときこえたまひし、後冷泉院の今の東宮におはしましゝ生みおきたてまつりて、うせ給ひしかば、この宮は、その後參り給へるなり。故內侍のかみの御もとに、「かすみのうちにおもふ心を」とよませ給ひたる御歌、たまはり給ひけると聞こえ侍りしものを。長曆元年神無月の廿三日、關白殿の高陽の院に、上東門院わたらせ給ひて、行幸ありて、きんだち院司など加階どもし給ひき。かくて年もあけぬれば、又正月二日上東門院に朝覲の行幸ありて、いづくと申しながら、猶この院のけしき有樣、山の嵐よろづ世よばふ聲をつたへ、池の水も、ちとせのかげをすまして、まちとりたてまつり給ひき。先帝かくれさせ給へれども、かくうちつゞきておはします、二代の國母とまうすもやんごとなし。又三日は東宮朝覲の行啓とて、內に參らせ給ふ。みかどのみゆきよりも、事しげからぬものから、はなやかにめづらしく、ゆげひのすけ一員などひきつくろひたるけしき、こゝろ殊なるべし。すべらぎの御よそひ、みこの宮の御ぞの色かはりてめづらしく、御拜のありさまなど袖ふりたまふたちゐの御よそひ、うつくしうて、喜びの淚もおさへがたくなむ有りける。列なれるむらさきの袖も、ことにしたがへるあけもみどりも、華やかなる御垣のうちの春なりけるとなむきこえ侍りし。

     ほしあひ

中宮こぞより、いつしか唯ならず成らせたまひて、霜月の十三日に、左のおとゞの高倉殿に出でさせ給へりしが、次の年四月一日、女みこ生み奉らせ給ひて、又うちつゞき、またの年も同じやうにまかり出でさせ給ひて、丹後守行任のぬしの家にて、長曆三年八月十九日に、なほ女宮うみたてまつり給ひて、おなじき廿八日にうせ給ひにき。御とし廿四、あさましくあはれなる事かぎりなし。いとゞ秋のあはれそひて、有明の月の影も心をいたましむる色、ゆふべの露のしげきも、淚をもよほすつまなるべし。かくて九月九日に內より故中宮の御ために、七寺に御誦經せさせ給ふ。みかど御服たてまつりて、廢朝とて淸凉殿の御簾おろしこめられ、日のおもの參るも、聲たてゝ奏しなどすることもせず、よろづしめりたるまゝには、ゆふべの螢をもあはれとながめさせ給ふ。秋のともし火かゞけつくさせたまひつゝぞ、心ぐるしき折ふしなりけるに、廿日ぞ解陣とかいひて、よろづ例ざまにて、御殿の御簾なども卷きあげられ、すこし晴るゝ景色なりけれど、なほ御けしきは盡きせずぞ見えさせ給ひける。神無月も過ぎぬれば、御忌すゑになりて、かの失せ給ひにし宮にて、御佛事あり。こずゑの色も風のけしきも、思ひしりがほなるさまなり。くれなゐ拂はぬ昔のあとも、法のにはとて、殊に淸めらるゝにつけても、折にふれて、あはれつきせざりけり。霜月の七日ぞ、內にははじめて、まつりごとせさせ給ふ。南殿に出でゐさせ給ひて、官奏などあるべし。後一條の院の中宮に侍りける、出雲の御といふが、この宮に侍りし伊賀の少將がもとに、

  「いかばかり君なげくらむかずならぬ身だにしぐれし秋のあはれを」

とよめりけり。秋の宮うちつゞき、秋うせさせ給へるに、いとらうありて、思ひよられけるもあはれにこそ聞こえはべりしか。またの年の七月七日、關白殿に、內より御消息ありて、

  「こぞのけふ別れし星もあひぬなりなどたぐひなき我が身なるらむ」

とよませ給ひて侍りけむこそ、いとかたじけなく、なさけ多くおはしましける御ことかなとうけ給はりしか。楊貴妃のちぎりも思ひ出でられて、星合の空、いかにながめ明かさせ給ひけむといとあはれに「尋ねゆくまぼろしもがな」などや、おぼしけむと推しはかられてこそ、傳へきゝ侍りしか。詩などをも、をかしく作らせ給ひけるとこそ聞こえ侍りしか。「秋のかげいづちかへらむとす」などいふことに、

  「路非山水誰堪

   跡任乾坤豈得尋」

など作らせ給ひけるとこそうけたまはりしか。乾坤といふはあめつちといふことにぞ侍りける。長久二年三月四日、花の宴せさせたまひて、歌の舌は鶯にしかずといふ題たまひて、桂を折る試みありと聞こえ侍りき。つぎの年のやよひの頃、堀川右大臣その時春宮の大夫と申しゝに、女御たてまつり給ひき。帥の內のおとゞのむすめの御はらなり。おとゞたちにも劣りたまはず、いとめでたく侍りき。神無月の比、おほ二條殿內大臣ときこえ給ひし、二の君內侍のかみになりてまゐりたまひて、方々華やかにおはしき。十一月には二の宮御書始とて、式部大輔舉周ときこえし博士、御注孝經といふ文敎へたてまつりき。藏人實政、尙複とて、それも御師なるべし。同じき四年の三月にも、佐國孝言時綱國綱などいふ者ども、試みさせ給ひき。弓塲殿にてぞ、作りてたてまつり給ひける。もと桂を折りたるは、博士をのぞみ、まだ折らぬ者は、ともしびの望みなむありける。句每にもろこしの博士の名などおきければ、つゞりかなふる人かたくなむありける。寬德元年八月に、大隅守長國但馬介になり、民部の丞生行おなじ國の掾になしたまひて、こまうどの、彼の國に着きたる、とぶらはせ給ひき。御なやみとて、明くる年正月十六日に、位さらせ給ひ御ぐしおろさせ給ふ。御年卅七になむおはしましゝ。世をたもたせたまふ事九年なりき。まだ若くおはしますさまを、惜しみ奉らずといふ人はなし。先帝廿九にておはしましき。これはされど、みそぢ餘りの春秋すぎさせ給へり。母きさきの、餘り永くおはしますに、かくのみおはしませば、御幸ひの中にも、御歎きに堪へざるべし。なほ御うまごの一の御子はみかど、二のみこは東宮におはしませば、いとやんごとなき御有樣なるへし。

     もち月

世繼もみかどの御ついでに、國母の御事申し侍れば、この帝の御母后の御事、この序に申し侍るべし。御年二十一二におはしましゝ時、後一條院、後朱雀院うちつゞき生み奉らせ給へり。土御門殿にて御一條院うみ奉らせ給へりし七夜の御遊びに、御簾のうちより出だされ侍りける、さかづきに添へられ侍りし歌は、むかしのみつぼねのよみたまへりし、

  「珍らしき光さしそふさかづきはもちながらこそ千世はめぐらめ」

とぞおぼえ侍る。その女院十三より后におはしましき。一條院かくれさせ給ひて、後一條のみかど、をさなくおはしましけるに、なでしこの花をとらせ給ひければ、御母ぎさき、

  「見るまゝにつゆぞこぼるゝおくれにし心も知らぬなでしこの花」。

五節のころ、昔を思ひいでゝ殿上人參りて侍りけるに伊勢の大輔、

  「はやくみし山井のみづのうす氷うちとけざまはかはらざりけり」

とぞよみて出だし侍りける。寬弘九年二月に皇太后宮にあがらせ給ふ。御年廿五と聞こえさせ給ひき。後一條のみかど位に即かせたまひて、寬仁二年正月に太皇太后宮にならせたまひき。萬壽三年正月十九日に、御さまかへさせ給ふ。御とし卅九、御名は淸淨覺と申しけり。きさきの御名とゞめさせ給ひて女院と聞えさせ給ふ。年每のつかさ位たまはらせ給ふ事は、同じやうにかはり侍らざりけり。長曆三年五月七日御ぐしおろさせ給ふ。顯基の入道中納言、

  「世をすてゝ宿を出でにし身なれどもなほ戀しきはむかしなりけり」

とよみて、この女院へたてまつり給へる御返事に、

  「つかのまも戀しきことのなぐさまば二たび世をもそむかざらまし」

とよませ給へる、はじめは御ぐしそがせ給ひて、後に皆おろさせ給ふ心なるべし。かの中納言は後一條院の御おぼえの人におはしけるに、御忌におはして、宮のうちに御となぶらもたてまつらず侍りければ、いかにと尋ね給ひけるに、女官ども今の內に參りて、かきともしする人もなし、などきゝ給ふに、いとゞ悲しくて、帝のかくれさせ給ひて、六日といふに、かしらおろして、山ふかくこもりたまへりけり。年卅七になむおはしける。聞く人淚を流さずといふ事なくなむ侍りける。花山の僧正の、深草のみかどの御いみに、御ぐしおろし給ひけむにも、おくれぬ御心なるべし。猶つきせずおもほしけるにこそとかなしく、御返しもいとあはれに、御母后さこそはおもほしけめとおぼえて。かの東北院はこの院の御願にて、ちゝおとゞの御堂、法成寺のかたはらに作らせたまへり。山のかたち池のすがたもなべてならず、松のかげ花のこずゑも外にはすぐれてなむ見え侍りける。九月十三夜より望月の影まで、佛のみかほも光りそへられ給へり。御念佛はじまりける程に、上達部殿上人參り集まり給へるに、宇治のおほきおとゞの「朗詠侍りなむ」と勸めさせ給ひければ、齊信の民部卿、年たけたる上達部にて「極樂尊を念じたてまつる事一夜」とうち出だし給ひけむ、折ふしいかにめでたく侍りけむ。齊名といふ博士のつくりたるが、生けるよに、いかにいみじく侍りけむ。此の世ならば、今の人の作りたることよも出だし給はざらまし。殿上人紫苑色の指貫、この御念佛よりこそ着始め給ひしか。此の堂土御門の末にあたれば、上東門院と申すなり。この後代々の女院の院號、かどの名きこえ侍るめり。陽明門も、近衞にあたりたれば、此の例によりて附かせ給へり。郁芳門待賢門などは、大炊御門、中のみかどに御所おはしまさねど、なぞらへて附かせたまへるとぞ聞こえ侍る。待賢門院の院號のさだめ侍りけるに、なぞらへて付かせたまふならば、などさしこえて、郁芳門院とは付けたてまつりけるにか、など聞こえければ、顯隆の中納言といひし人の「此の御料に遺しておかれけるにこそ侍るめれ」と申されけるとかや。さてぞ付かせ給ひにけるとなむ。みかどの御前などにては、土御門近衞などは申さで、上東門の大路よりはいづかた、陽明門のおほぢよりはそなたなどぞ奏すなる。されば一條二條など申すにもおなじ心なるべし。この上東門院の御年は、八十七までおはしましき。

     菊の宴

此の次のみかどは、御冷泉の院と申しき。後未雀院の第一の皇子。御母內侍のかみ、贈皇太后宮嬉子と聞えき。入道おほきおとゞの第六の御むすめなり。上東門院のおなじ御はらからにおはします。此のみかど萬壽二年きのとの丑の年の八月三日生れさせ給へり。長曆元年七月二日御元服、やがて三品の位たまはらせ給ふ。八月十七日に東宮に立たせ給ひて、寬德二年正月十六日に即かせたまふ。御とし二十一にぞおはしましゝ。永承元年やよひの比、いつきたち、おのおの定めさせ給ふ。七月十日中宮たゝせたまひき。東宮の御時より御息所にておはしましゝ、後一條院の姬宮なり。神無月も過ぎて、みかど今年ぞ豐のみそぎせさせ給ふ。正月十六日御いみの月とて、踏歌の節會もなし。十月に關白殿のおとうとの右の大臣女御たてまつりたまふ。大二條殿と申しゝ御事なり。同じき四年十一月に、殿上の歌合せさせ給ひき。村上の御時、花山院などの後、めづらしく侍るに、いとやさしくおはしましゝにこそ。能因法師の「いはねの松も君がため」と一番の歌によみて侍る。このみちのすきもの時にあひて侍りき。「たつたの川のにしきなりけり」といふ歌も、此のたびよみて侍るぞかし。五年しはす關白殿のみむすめ女御に參り給ふ。四條の宮と申しゝ御事なり。六年二月十日、后にたち給ふ。皇后宮と申しき。もとの后は、皇太后宮にあがり給ひき。さつき五日殿上のあやめ根あはせせさせ給ひき。その歌ども、歌合の中に侍るらむ。后の宮さとにおはしましける時、良暹法師「もみち葉のこがれて見ゆる御ふねかな」といふ連歌、殿上人の付けざりけるをも、みかどの御耻におぼしめしたりけるも、いとなさけおほくおはしましけるにこそ。九月九日菊の宴せさせ給ひて、「菊ひらけて水の岸かうばし」といふ題を作らせ給ひけるとぞ聞こえ侍りし。七年神無月のころ、釣殿にて御あそびあり。文つくらせ給ひけるとそきこえ侍りし。かやうの御あそびつねの事なるべし。

     こがねのみのり

いづれの年にか侍りけむ。九月十三夜高陽院の內裏におはしましけるに、瀧の水音すゞしくて、岩まの水に月やどして御覽せさせ給ひて、よませたまひける、

  「岩間より流るゝ水ははやけれどうつれる月の影ぞのどけき」

とぞ聞こえはべりし。治曆元年九月廿五日に、高陽院にてこがねの文字の御經、みかど御みづから書かせ給ひて、御八講行はせ給ひき。村上の御代のみづぐきの跡を、流れくませ給ふなるべし。はじめの御導師は勝範座主の、まだ僧都などきこえし折ぞせらるゝと聞こえ侍りし。いづれの問とかいひて、論義の事のよしなども、彼の村上の御時のをぞ、塵ばかり引きかへたるやうなりけるとぞ、聽聞しける人など傳へ語り侍りし。五卷の日は宮々上達部殿上人みな捧げ物たてまつりて、たつとりのから船池にうかびて、水の上にこゑごゑ調べあひて、佛の御國うつし給へり。紅葉のにしき水の綾、所も折もかなへる御のりの庭なるべし。三年十月十五日には宇治の平等院にみゆきありて、おほきおとゞ二三年かれにのみおはしましゝかば、わざとのみゆき侍りて、見奉らせ給ふとぞうけたまはりし。うちはしの遙かなるに舟より樂人參り向ひて、宇治川に浮べて、漕ぎのぼり侍りける程、から國もかくやとぞ見えけると語り侍りし。御堂の有樣、川のうへに、錦のかりや造りて、池の上にも、から船に笛のね、さまざましらべて、御前のものなどは、こがね白がね、色々の玉どもをなむ、つらぬき飾られたりける。十六日にかへらせ給ふべきに、雨にとゞまらせ給ひて、十七日にふみなど作らせたまふ。そのたびのみかどの御製とてうけ給はり侍りしは、

  「忽看鳥瑟三明〈効イ〉

   影暫駐鸞輿一日蹤」

とかや作らせたまへると、ほのかにおぼえはべる。「折にあひて、おぼしよらせ給ひけむほどいとめでたき事」と知りたる人申しける。そのたびぞ准三宮の宣旨は、宇治殿かうぶらせ給ひけると聞こえさせ給ひし。その頃にや侍りけむ。內裏にて童舞御覽ぜさせ給ひき。上達部の若君たち、おのおの舞ひ給ひき。樂人は殿上人、さまざまのふきもの、ひきものなどせさせたまふ。其の中に六條の右のおとゞの中納言と聞こえたまひし時、その若君胡飮酒まひ給ふを、御前にめして、御ぞ賜ふに、おほぢの內大臣とておはせし、座をたちて拜し給ひけるは、土御門のおとゞとぞきこえ給ひし。舞ひたまひしは、太政のおとゞとや申しけむ。かくてしはすの十二日、廿二社にみてぐらたてまつらせ給ひき、みかどの御惱みの事とて。つぎの年正月一日は日蝕なりしかば廢朝とてみすもおろし、世の政事も侍らざりき。さきのおほきおとゞも御惱みとて、きさらぎのころ、皇后宮もさとに出でさせ給ひき。內には孔雀明王の法おこなはせ給ひて、大御室とておはしましゝ仁和寺の宮、御弟子僧綱になり、我が御身も牛車など蒙りたまひき。みかど御心ちをこたらせ給ふなるべし。四月にはこがねしろがね、綾錦などのみてぐら、神々の社に奉らせ給ひき。かゝる程なれど、左の大臣のみむすめの女御皇后宮に立ちたまひき。ちゝおとゞも關白になりたまひき。內にも御なやみ怠らせ給はず。おほきおとゞも、よろづのがれ給ひて、讓り申し給ふなるべし。みかど世をたもたせ給ふ事、廿三年なりき。御とし四そぢに四年ばかりあまらせ給へりけるなるべし。をとこにても女にても、御子のおはしまさぬぞくちをしきや。御はゝ內侍のかみ御とし十九にて、このみかど生みたてまつりたまひて、かくれさせたまひにき。寬德二年八月十一日に、皇后宮おくりたてまつられき。國忌にて、その日はよろづのまつりごと侍らず。昔は后にたち給はでうせたまへれど、みかどの御母なれば、後にはやんごとなき御名とゞまりたまへり。

     司めし

此の次のみかど後三條の院にぞおはしましゝ。まだ御子におはしましゝ時、父の帝後朱雀院さきの年の冬よりわづらはせ給ひて、むつきの十日あまりの比、位さらせ給ひて、みこの宮にゆづり申させたまふとばかりにて、東宮の立たせ給ふ事は、ともかくも聞こえざりけるを、能信大納言とて、字治どのなどの御弟の、高松の腹におはせしが、御前にまゐりて「二の宮をいづれの僧にか付け奉りはべるべき」と聞こえさせ給ひけるに「坊にこそは立てめ。僧にはいかゞ附けむ。關白の、東宮のことはしづかにといへば、後にこそは」と仰せられけるを「けふ立たせ給はずは、かなふまじきことに侍り」と申したまひければ、「さらば今日」とてなむ東宮はたゝせ給ひける。やがて大夫には、その能信大納言なりたまへりき。君の御ため、たゆみなくすゝめたてまつり給へりけむ、いとありがたし。されば白河院は、まことにや大夫どのとぞ仰せらけるとぞ人は申し侍りし。二の宮とは後三條院の御事なり。このみかどは、後朱雀院の第二の皇子におはします。御母太皇太后宮禎子の內親王と申す。陽明門院この御事なり。みかど寬德二年正月十六日に東宮に立たせ給ふ。御とし十二。治曆四年四月十九日位に即かせたまふ。御年三十五。大極殿もいまだ造られねば、太政官の廳にて御即位侍りける。世を治めさせ給ふ事、昔かしこき御世にも耻ぢずおはしましき。御身の才はやんごとなき博士どもにもまさらせ給へり。東宮におはしましける時、匡房中納言まだ下﨟に侍りけるに、世を恨みて山の中に入りて、世にもまじらじなど申しければ、經任の中納言と申しゝ人の、「われは、やんごとなかるべき人なり。然あらば世のため身のため、くちをしかるべし」といさめければ、宇治のおほきおとゞ心得ずおぼしたりけれど、東宮に參り侍りければ、宮も喜ばせ給ひて、やがて殿上して、人のよそひなど借りてぞ、ふだにもつきける。さてよる晝文のみちの御ともにてなむ侍りける。位に即かせ給ふ始めに、つかさもなくて、五位の藏人になりたりければ藏人の式部大夫とてなむ。あきたるにしたがひて中務の少輔にぞなり侍りける。大貳實政は東宮の御時の學士にて侍りしを、時なくおはしませば、かまへて參りよらぬ事にならむと思ひけるに、さすが痛はしくて甲斐守に侍りければ、かの國よりのぼりて參るまじき心がまへしけるに、くだりけるに、餞せさせたまふとて、

  「州民縱發〈作イ〉甘棠詠

   莫忘多年風月遊」

と作らせ給へりけるになむ。え忘れ參らせざりける。甘棠の詠とは、から國に國の守になりける人のやどれりける所に、やまなしの木のおひたりけるを、その人の都へかへりてのち、政事うるはしく、しのばしかりければ、「このなしの木伐る事なかれ。かの人のやどれりし所なり」といふ歌をうたひけるとなむ。さてみかど位につかせ給ひて後、「左中辨に加へさせ給へ」と申しければ、「つゆばかりもことわりなきことをばすまじきに、いかでかゝることをば申すぞ。正左中辨に始めてならむ事あるまじき」よし仰せられければ、藏人の頭にて、資仲の中納言侍りけるが、重ねて申しけるは、「實政申す事なむ侍る。木津のわたりの事を、一日にても思ひ知り侍らむ」と奏しければ、其の折おもほししづめさせ給ひて、計らはせたまふ御けしきなりけり。昔實政は東宮の春日の使にまかり下りけり。隆方は辨にて罷りけるに、實政まづ船など設けて渡らむとしけるを、隆方おしさまたげて、「待ち幸ひする者、何に急ぐぞ」などないがしろに申し侍りければ、からくおもひて、かくなむと申したりけるを、おもほし出して、此のことわり天照る御神に申しうけむとて、左中辨には加へさせたまひてけり。隆方はかりなき心ばへにて、殿上に司召のふみ出だされたるを、上達部たち、かつかつ見たまひて、何になりけり、かれに成りにたりなどのたまはせけるを、隆方つかうまつりて侍らむなど、得たりがほに云ひけるを、さもあらぬ者のかみに加はりたるぞなど、人々侍りければ、うちしめりて出でにけり。次のあしたの陪膳は、隆方が番にて侍りけるを「よも參らじ。こと人をもよほせ」と仰せられける程に、午の時よりさきに、隆方まゐり侍りければ、みかどさすがにおもほしめして、日ごろは御ゆする召して、うるはしく御鬢かゝせ給ひて、たしかにつかせたまふ御心に、けふは待ちけれども、程すぎて出でさせたまへりけるに陪膳つかうまつりて、辨も辭し申して、こもり侍りにけりとなむ。御代のはじめつ方の事にや侍りけむ。內裏燒亡の侍りけるに、殿上人上達部なども、さぶらひあひたまはね程にて、南殿に出でさせたまへりけるに、御覽じもしらぬ者、すくよかに走りめぐりて、內侍所出だしたてまつり、右近の陣に、御輿たづね出だして、御はしに寄せて、載せたてまつりなどしければ、「おのれは誰れぞ」と問はせたまひけるに「右少辨正家」と申ければ、「辨官ならば近くさぶらへ」とぞ仰せられける。正家匡房とて、時にすぐたれる一つがひの博士なるに、匡房は朝夕さぶらひけり。これは御覽じも知られまゐらせざりけるにこそ。つかさをさへ具して、名對面申しけむ、折節につけて、いとかどある心ばへなるべし。さてこそ、これかれの殿上人上達部、束帶なるも、又直衣狩衣などなる人も、とりもあへずさまざまに參りあつまりたりけれとなむきこえ侍りし。


今鏡第二

    すべらぎの中

     たむけ

此の帝、世をしらせ給ひてのち、世の中みな治まりて、今にいたるまで、其のなごりになむ侍る。たけき御心おはしましながら、又なさけ多くぞおはしましける。石淸水の放生會に上卿宰相諸衞のすけなどたてさせ給ふ事も、この御時より始まり、佛の道もさまざまそれよりぞまことしき道は、おこれる事多く侍るなる。圓宗寺の二會の講師おかせ給ひて、山三井寺ざえ高き僧など、位たかくのぼり、深き道もひろまり侍るなり。又日吉の行幸はじめてせさせ給ひて、法華經おもくあがめさせ給ふ。かの道ひろまる所を、おもくせさせ給ふ事は、誠に御法をもてなさせ給ふにこそはべるなれ。ひえの明神は法華經守り給ふ神におはします。深き御法を守り給ふ神におはすれば、動きなく守り給はむ爲に、世の中の人をも廣く惠み、しるしをも極め施したまふなるべし。石淸水の行幸、はじめてせさせ給ひけるに、物見車どものかな物うちたるを御覽じて、御輿とゞめさせ給ひて、ぬかせ給ひける。御めのとの車より「いかでか我が君のみゆきに此の車ばかりはゆるされ侍らざらむ」と聞こえければ、此のよしをや奏しけむ。そればかりぞ、ぬかれ侍らざりけるとかや。賀茂のみゆきには、金物ぬきたる跡ある車どもぞ、立ちならびて侍りける。大極殿、さきのみかどの御時、火事侍りしのち、十年過ぐるまで侍りしに、位につかせ給ひて、いつしか造りはじめさせ給ひて、よとせといふに、つくり建てさせ給ひにしかば、わたらせ給ひて、慶びの詩など、作られ侍りけり。よろづの事昔にも耻ぢず行はせ給ひて、山の嵐枝もならさぬ御世なれば、雲居にて千歲をも過ぐさせ給ふべかりしを、世の中さだまりて、心安くやおぼしめしけむ、また高き雲の上にて、世の事もおぼつかなく、深き宮の中は、世を治めさせたまふも、わづらひ多く、今すこしおりゐのみかどゝて、御心のまゝにとやおぼしめしけむ。位におはしますこと四年ありて、白河のみかど東宮におはしましゝに讓り申させ給ひき。御母女院、御むすめの一品の宮など、具したてまつらせ給ひて、住のえにまうでさせ給ふとて、

  「住よしの神もうれしと思ふらむむなしき船をさしてきたれば」

とよませ給へる、みかどの御歌とおぼえて、いと面白くも聞こえはべる御製なるべし。おりゐの帝にて、久しくもおはしまさば、いかばかりめでたくも侍るべかりしに、次の年かくれさせ給ひにし、世にくちをしきとは申せども、くらゐの御時よろづしたゝめおかせ給ひて、東宮に位讓り申させ給ひて、かくれさせ給ひぬれば、今はかくてと、おぼしけるなるべし。ある人の夢に、こと國のそこなはれたるをなほさむとて、此の國をば去らせ給ふと見たることも侍りけり。又嵯峨に世をのがれて、籠もり居たる人の夢に、樂の聲そらに聞こえて、紫の雲たなびきたりけるを、何事ぞとたづねければ、院の佛の御國に生れさせたまふと見たりけるに、院かくれさせ給ひぬと世の中に聞こえけるにぞ、まさしき夢と、たのみはべりけるとなむ。

     みのりのし

むかしみこの宮におはしましゝ時より法の道をも知ろしめされけり。勝範座主といふ人、參り給へりけるに「眞言止觀かねまなびたらむ僧の、俗のふみも心得たらむ、一人たてまつれ。さるべき僧のおのづからたのみたるがなきに」と仰せられければ「顯密かねたるは、常の事にてあまたはべり。からのふみの心しりたる者こそありがたく侍れ。さるにても、尋ねて申し侍らむ」とてかへりて藥智といふ僧をぞ奉られけるに、わざと取りつくろひて車などをも借されざりけるにや。かりばかまに馬にのりたる僧の、座主のもとよりとて參りたりければ、召しよせて、御簾ごしにたいめさせ給ひけるに、蒔繪の御硯の函のふたに、止觀の一の卷をおきて、さし出ださせ給ひて、讀ませて問はせ給ひければ、明らかに說き聞かせ參らせけり。眞言の事は、ふみはなくて唯問はせ給ひければ、事の有樣、又申し述べなどしけり。其の後、俗の文の事を仰せられければ、法文にあはせつゝ、それもあへしらひ申しけり。末つ方に「極樂と兜率と、いづれをか願ふ」とのたまはせければ、「いづれをも望みかけ侍らず。たゞ日每に法華經一部兩界など行ひ侍るを、怠らで彌勒の世までしはべらばやと思ひ給へて、大鬼王のいのち長きにて行ひ此の定にしつゝ侍らむとぞ願ひはべる」とぞ申しける。須彌山のほとりに、しかある鬼の行ひなどするありと見ゆる經の侍るとぞ、後に誰れとかや申され侍りける。鬼は化生のものなれば、生れて程なく行ひなどしつきて、怠るまじき心に申しけるとぞ。さて又仰せられけるは、御祈りなど、取りたてゝせむこともかなひ難ければ、さしたることも仰せられつけず。たゞ心にかけて、行ひのついでに祈りて、穩かに保たむ事を、心に掛くべきなりとぞのたまはせける。位につかせ給ひて、たづねさせ給ひければ、藥智は身まかりにけり。弟子なりける法師をぞ僧綱になさせ給ひける。おほうへの法橋顯耀とか云ひけるとなむ。東宮におはしましける時、世のへだて多く坐しましければ、危く思しけるに、檢非違使の別當にて經成〈盛イ〉といひし人、直衣に柏夾にて、やなぐひ負ひて中門の廊に居たりける日は、いかなる事の出できぬるぞとて、宮のうちの女房より始めて、隱れ騷ぎけるとかや。おはしましける所は、二條東の洞院なりければ、そのわたりを、いくさのうち廻りて、つゝみたりければ、「かゝる事こそ侍れ」など申しあへりける程に、別當の參りたりければ、東宮も御直衣たてまつりなどして御用意ありけるに、別當、檢非違使めして「をかしの者は召し捕りたりや」と問はれければ「既にめして侍り」といひければこそ、ともかくも申さで、罷り出でられけれ。重くあやまちける者おはします近きあたりに籠もりゐたりければ、うちつゝみたりけるに、もし東宮に逃げ入る事もやあるとて參りたりけり。かやうにのみあやぶまれ給ひて、東宮をも捨てられやせさせ給はむずらむとおもほしけるに、殿上人にて衞門權佐ゆきちかと聞こえし人の相よくする、おぼえありて、いかにも天の下知ろしめすべきよし申しけるかひありてかくならびなくぞおはしましゝ。このみかどの御母陽明門院と申すは、三條の院の御むすめなり。後朱雀院、東宮の御時より御息所におはしまして、このみかどをば、廿二にて生みたてまつらせ給へり。長元十年二月三日、皇后宮にたち給ふ。御とし廿五。其の時、江侍從たゝせ給ひきときゝて、

  「紫の雲のよそなる身なれどもたつと聞くこそうれしかりけれ」

となむよめりける。寬德二年七月廿一日、御ぐしおろさせ給ふ。治曆二年二月、陽明門院と聞こえさせ給ふ。御歌などこそ、いとやさしく見え侍るめれ。後朱雀院にたてまつらせ給ふ、

  「今はたゞ雲居の月をながめつゝめぐり逢ふべき程も知られず」

などよませ給へるむかしに耻ぢぬ御歌にこそ侍るめれ。この女院の御母、皇太后宮姸子と申すは、御堂の入道殿の第二の御むすめなり。

     紅葉のみかり

白河の院は後三條の院の一の御子におはしましき。その御母贈皇后宮茂子と申す。權大納言能信の御むすめとて、後三條の院の東宮におはしましゝ、御息所に參り給へりき。誠には閑院の左兵衞の督公成の中納言の女なり。此の中納言の御いもうとは、能信の大納言の北の方なり。このみかど天喜元年みづのとの巳六月廿日生れさせ給ひ、延久元年四月廿八日に東宮にたゝせ給ふ。御とし十七、同四年十二月八日、位につかせ給ふ。御とし廿にやおはしましけむ。位讓りたてまつらせ給ひて、次の年の五月に後三條の院かくれさせ給ひにしかば、國のまつりごと、廿一の御年より、みづからしらせ給ひて、位におはします事十四年なりしに、卅四にて位おりさせ給ひてのち、七十七までおはしましゝかば、五十六年、國のまつりごとをせさせ給へりき。延喜のみかどは三十三年たもたせたまへりしかども、位の御かぎりなり。陽成院は八十一までおはしましゝかども、院の後久しくて、世をばしらせ給はざりき。此の院は父の太上天皇世をしらせたまひしこと、いくばくもおはしまさず。さきの御なごりにて一の人のわがまゝに、行ひ給ふもおはせねば、若くより世をしらせ給ひて、院の後は、堀河の院鳥羽の院讃岐の院御子うまごひゝご、うちつゞき三代のみかどの御世、法皇の御まつりごとのまゝなり。かく久しく世を知らせ給ふ事は昔も類ひなき御有樣なり。後二條のおとゞこそ、「おりゐのみかどの門に、車立つる樣やはある」などのたまはせける。それかくれ給ひて後は、少しもいき〈おとイ〉などたつる人やは侍りし。このみかど、かん日に生まれさせ給ひたるとぞ聞こえ侍りし。又誠にやありけむ。御めのとの二位も、かん日に參りそめられたりけるとかや。されども末のさかえ給ふこと、此のころまでいやまさりにおはすめり。あしき日參れりとも聞こえざりし。今ひとりの御めのとの、知綱のぬしの御母にていますかりしは、日野三位のむすめにて、世おぼえも殊の外に聞こえ給ひしかども、みかどの五つにおはしましゝ年、かのめのと、かくれられにしかば、二位のみ並びなくおはすめり。宿世かしこければあしき日もさはりなかるべし。しかあらざらむ人は、いかゞ其のまねもせむ。從二位親子の草子合とて、人々よき歌どもよみて侍るも、いとやさしくこそ聞こえ侍りしか。このみかどは、御心ばへ、たけくもやさしくもおはしましけるさまは、後三條の院にぞ似たてまつらせ給へりける。さればゆゝしく事々しきさまにぞ、好ませ給ひける。白河の御寺もすぐれておほきに、やおもてこゝのこしの塔など建てさせ給ひ、百體の御佛など常は供養せさせ給ふ。百臺の御あかしを、一度に、ほどなくそなふる、ふりうおぼしめしよりて、前栽のあなたに、物の具かくしおきて、あづかり百人めして、一度にたてまつらせ給ひけるに、事おこなひける人、心も得で少々まつともしなどしたりけるをも、むつからせ給ひて、さらに一度にともされなどせられけり。鳥羽などをも廣くこめて、さまざま池山など、こちたくせさせ給へり。後三條の院は五壇御修法せさせ給ひても、「國やそこなはれぬらむ」など仰せられ、圓宗寺をもこちたく造らせ給はず。漢の文帝の露臺造らむとし給ひて、國堪へじなどいひてとゞめ給ひ、女御愼夫人には、裾もひかせず。御帳のかたびらにも、あやなきをせられける御心なるべし。おのおの時に從ふべきにやあらむ。白河の院は御弓なども上手にておはしましけるにや。「いけの鳥を射たりしかば、故院のむつからせ給ひし」など、仰せられけるとかや。まだ東宮のわか宮と申しける時より、和歌をも重くせさせ給ひて、位にても後拾遺あつめさせ給ふ。院の後も金葉集えらばせ給へり。いづれにも御製ども多く侍るめり。承保三年十月廿四日、大井川にみゆきせさせ給ひて、嵯峨野に遊ばせ給ひ、みかりなどせさせ給ふ。そのたびの御歌、

  「大井川ふるき流れを尋ねきてあらしの山の紅葉をぞ見る」

などよませ給へる、むかしの心ちして、いとやさしくおはしましき。承曆二年四月廿八日殿上の歌合せさせ給ふ。判者は六條右のおとゞ、皇后宮大夫と申しゝ時せさせ給ひき。歌人ども時にあひ、よき歌も多く侍るなり。歌のよしあしはさることにて、事ざまの儀式など、えもいはぬ事にて、天德歌合、承曆歌合をこそは、むねとある歌合には、世の末まで思ひて侍るなれ。又から國の歌をも、もてあそばせ給へり。朗詠集に入りたる詩の殘りの句を、四韻ながらたづね具せさせ給ふ事もおぼしめしよりて、匡房中納言なむ集められ侍りける。その中にさ月の蟬の聲は、なにの秋を送るとかやいふ詩の殘りの句をえたづね出ださゞりけるほどに、ある人これなむとてたてまつりたりければ、江帥見給ひて「これこそ此の殘りともおぼえ侍らね」と奏しける後に、仁和寺の宮なりける手本の中に、誠の詩、いできたりけるなどぞ聞こえ侍りし。又本朝秀句と申すなる文の後しつがせ給ふとては、法性寺の入道おとゞにえらばせたてまつり給ふとぞうけ給はりし。さて其のふみの名は、續本朝秀句と申して、みまきなさけ多く選ばせ給へるふみなり。五十の御賀こそめでたくは侍りけれ。康和四年三月十八日、堀川のみかど、鳥羽に行幸せさせ給ひて、父の法皇の五十の御よはひを、よろこび給ふなり。舞人樂人などは、殿上人中少將さまざま左右のしらべし給ひき。童舞三人、胡飮酒、陵王、納蘇利なむ侍りける。その中に胡飮酒は源氏の若君なむ舞ひ給ひし。袖ふり給ふさま、天童の下りたる樣にて、此の世の人のしわざともなく、めもあやになむ侍りける。御ぞかづけ給へるをば、御おやの大納言とて、太政のおほい殿おはせしぞ、とりて拜し給ひける。その若君は中の院の大將と聞こえ給ひしなるべし。

     つりせぬうらうら

此の御時ぞ、昔のあとを起こさせ給ふ事は多く侍りし。人のつかさなどなさせ給ふ事も、よしありて、たはやすくもなさせたまはざりけり。六條の修理大夫顯季といひし人、世のおぼえありておはせしに、敦充といひし博士の「など殿は宰相にはならせ給はぬぞ。宰相になる道は七つ侍るなり。中に三位におはすめり。又いつ國治めたる人も成るとこそは見え侍れ」といひければ「顯季も、さおもひて、御氣色とりたりしかば、それも物かくうへの事なりと仰せられしかば、申すにもおよばでやみにき」とぞいはれ侍りける。また顯隆の中納言といひし人、世にはよるの關白など聞こえしも「辨になさむと思ふに、詩つくらではいかゞならむ。四韻詩つくる者こそ辨にはなれ」と仰せられければ、おどろきて好みなどせられけり。殊に明らかにおはしまして、はかなき事をも、はえばえしく感ぜさせ給ふ。又やすき事をもきびしくなむおはしましける。いづれの山とか。御祈りの賞行はむとおぼされけるに、たゞ御布施ばかり給はむは、懇におぼしめす本意なかるべし、阿闍梨など寄せおかむこそかひあるべきに、さすがさせる事なくて、さる事もたはやすかるべしと、おぼしわづらはせ給へるを、顯隆の中納言「しか侍らば、たゞこのたび阿闍梨の宣旨を下させ給ひて、永くよせらるゝ事はなくて候へかし」と申されければ「誠にしかこそあるべかりけれ。おのれなからましかば、われいかゞせまし」とぞかひがひしく感ぜさせ給ひける。その子の顯賴といひし。「中納言をも、夢に手をひかれてゆくと見たりしものを」など仰せられて、殊の外におもほしめせりける人にて、ふみの函など、ひきさげなどする事をも、下らうなどめして、持たせさせ給ふなど、重くおもほしめせりけるに、五位の藏人にて、除目の目錄とか奏せられけるに、御覽じて、あらゝかに裂かせ給ひてかへしたびければ、何事にかと恐れ思ひて、まかりいでゝその後父の中納言まゐりたりけるにぞ「大外記師遠は、津の國の公文も、まだ勘へぬものをばいかで目錄に入れてたてまつりけるぞ」と仰せられなどして、さやうの事も、かくなむおはしける。法文などをも誠しく習はせ給ひけるにこそ。良眞座主に、六十卷といひて、法華經の心とける文うけさせ給へりけるに、西京にこもりゐ給ひて、比叡の山の大衆のゆるさゞりければ、さて居給へりける所とぶらはせ給ひけり。西院のほとけをがませ給ふ序とてぞ御幸ありける。御法のためも、人の爲も面目ありけるとなむ聞き侍りし。金泥の一切經かゝせ給へるも、もろこしにも類ひすくなくやと聞こえし。その後こそ、此國にも、あまた聞こえ侍れ。この院のしはじめさせ給へるなり。又生きとし生けるものゝ命をすくはせ給ひて「かくれさせ給ふまでおはしましき。皐月のさやまに、ともしする賤のをもなく、秋の夕ぐれ浦に釣するあまも絕えにき。おのづから網など持たるあまの笘屋もあれば、とり出だしてたぐなはの殘るもなく烟りとなりぬ。もたる主はいひしらぬめどもみて、罪をかぶる事かずなし。神の御厨ばかりぞゆるされて、かたのやうに備へて、その外は、殿上の臺盤なども六齋にかはる事なかりけり。位におはしましゝ時は、中宮の御事なげかせ給ひて、多くの御堂ども作らせ給ひき。院の後はその御むすめの郁芳門院かくれさせ給へりしこそ、限りなく歎かせ給ひて、御ぐしもおろさせ給ひしぞかし。四十五六の程にやおはしましけむ。御なげきのあまりに世をばのがれさせ給へりしかども、御受戒などは聞こえさせ給はで、佛道の御名などもおはしまさゞりけるにや。敎王房と聞えし山の座主、御祈りの祭文に、御名の事申されけるに「いまだ付かぬと仰せられければ、其の心を得侍りてこそ申しあげ侍らめ」と申されけるとかや。そののち久しく世を治めさせ給ひしほどに、七月七日俄に御心ちそこなはせ給ひて、御霍亂などきこえしほどに、月日も歷させ給はで、やがてかくれさせ給ひにしかば、そらのけしきも、常にはかはりて、風雨の音もおどろおどろしく、日を重ねて世のなげきもうちそへたる心ちして侍りき。あさましき心のうちにも、すきずきしかりし人にて、平氏の刑部卿忠盛ときこえし、この折何のかみとか申しけむ。その歌とて傳へ聞き侍りし、

  「又もこむ秋をまつべき七夕のわかるゝだにもいかゞ戀しき」

とかや。鳥羽の院、花園のおとゞ、攝政殿などの、若き御すがたに御ぞども染めさせ給ひて、御忌の程、佛の道のこととぶらひ申させ給ふ。いづれのほどに、たれかよませ給ひけるとかや。

  「いかにして消えにし秋の白露をはちすの上の玉とみがゝむ」

といふ御歌侍りけるとなむ。鳥羽殿は、この法皇の作らせ給へれば、さやうにや申さむとおもへりしかども、白河にもかたがた御所ども侍りしかば、白河院とぞさだめ參らせける。

此のみかどの御母は、東宮の御息所とて、うせさせ給へれば、延久三年五月十八日、從二位贈りたてまつらせ給ふ。位につかせ給ひて、同五年五月六日、皇后宮おくりたてまつらせ給ふ。國忌みさゝきなどおかれて、おなじき日、能信の大納言殿、おほきおとゞ、おほき一つの位贈らせ給ふ。御息所の御母藤原祕子と申しゝにも、おほきひとつの位を贈り給ふ。これはきびのなかのつかさ知光のぬしのむすめなり。

     たまづさ

堀川のみかどは、白河の法皇の第二の御子におはしましき。その御母、贈太皇太后宮賢子中宮なり。關白太政大臣師實のおとゞの御むすめ、誠には右大臣源顯房のおとゞの御むすめなり。このみかど、承曆三年つちのとの未、二月十日生れさせ給へり。應德三年十一月廿六日位につかせ給ふ。御とし八つ。この御門御心ばへあてにやさしくおはしましけり。その中に笛をすぐれて吹かせ給ひて、あさ夕に御あそびあれば、瀧口のなだいめんなど申すも調子たかうとて、曉になるをりもありけり。その御時、笛ふき給ふ殿上人も、笛の師など、皆かの御時給はりたるふみなりなどいひて末の世まで持ちあはれ侍るなり。時元といふ笙のふえふき、御覺えにて夏はみづし所に氷めしてたまふ。おのづからなき折ありけるには、すゞしき御扇なりとて、たまはせなどせさせ給ひけり。宗輔のおほきおとゞ、近衞のすけにおはしけるほどなど夜もすがら御笛ふかせ給ひてぞあかさせ給ひける。和歌をもたぐひなくよませ給ひて、さつきの比、つれづれにおぼしめしけるにや。歌よむをとこ女、よみかはさせて御覽じけり。大納言公實中納言國信などよりはじめて、俊賴などいふ人々も、さまざまの薄葉に、かきてやり給ひけり。女は周防內侍、四條宮の筑前、高倉の一宮の紀伊、前齋宮のゆり花、皇后宮の肥後、津の君などいふ、ところどころの女房、われもわれもと返しあへり。又女のうらみたる歌よみて、男のがりやりなどしたる、堀川院の艷書合とて、末の世までとゞまりて、よき歌はおほく撰集などに入れるなるべし。ふたまにてぞ、講じてきこしめしける。又時のうたよみ十四人に、百首歌おのおのにたてまつらせ給ひけり。をとこ女僧など、歌人みな名あらはれたる人々なり。題は匡房の中納言ぞたてまつりける。この世の人、歌よむなかだちには、それなむせらるなる。尊勝寺作られ侍りけるころ、殿上人に、華鬘あてられ侍りけるに、俊賴歌人にておはしけるに、百首歌あんぜむとすれば、いつもじには華鬘とのみおかるゝと聞かせたまひて、「ふびんの事かな」とて、のぞかせ給ひけるとぞきこえ侍りし。いづれの頃にかありけむ。南殿か仁壽殿かにて、御覽じつかはしけるに誰れにか有りけむ。殿上人のまゐりて、殿上にのぼりてゐたりければ、

  「雲の上に雲のうへ人のぼりゐぬ」

と仰せられけるに、俊賴のきみ、

  「しもさぶらひにさぶらひもせで」

と付けられたりけるを、詞とゞこほりたりと聞こゆれど、心ばせもある事と聞こゆめり。歌のふぜい、いたづらにうする事なりとて、連歌をば大方せられざりけりと聞こえ侍りしに、金葉集にぞいとしもなき多く集められたる。いたづらに出できたるを、惜まれ侍るなるべし。基俊の君が連歌は、「月くさのうつしのもとのくつわ蟲」などしたるをいふなり。又「からかどやこのみかどゝもたゝくかな」など侍りけり。木工の頭俊賴も、高陽院の大殿のひめ君と聞こえ給ひし時、つくりてたてまつり給へりとか聞こゆる和歌のよむべきやうなど侍るふみには、道信の中將の連歌、伊勢大輔が、「こはえもいはぬ花の色かな」と付けたる事などいというなることにこそ侍るなれば、連歌をもうけぬことにひとへにし給ふとも聞こえず。おほかたは、見る事聞くことにつけて、かねてぞよみまうけられける。當座によむことはすくなく、擬作とかきてぞ侍りつる。さて侍りけるにや。家集に、きゝときゝ給へりけると覺ゆることをよみ集められ侍るめり。これは連歌の序に、うけたまはりしことを申し侍るになむ。さてこの御時に、御息所は、これかれ定められ給へりけれども、御をばの前齋院ぞ女御に參り給ひて、中宮にたち給ひし。殊の外の御よはひなれど、幼くより類ひなく見とりたてまつらせ給ひて、たゞ四宮をとかや、おぼせりければにや侍りけむ。參らせ給ひける夜も、いとあはぬ事にて、御車にもたてまつらざりければ、曉ちかくなるまでぞ、心もとなくはべりける。鳥羽のみかどの御母の女御どのも參り給ひて、院もてなしきこえさせ給へば、はなやかにおはしましゝかども、中宮はつきせぬ御心ざしになむきこえさせたまひし。女御うせさせ給ひてのころ、

  「梓弓はるの山べのかすみこそ戀しき人のかたみなりけれ」

とよませ給へりけるこそ、あはれに御なさけ多くきこえ侍りしか。末の世のみかど、廿一年までたもたせ給ふ、いとありがたき事なり。時の人を得させ給へる、誠にさかりなりけり。一のかみにて堀河の左のおとゞ物かく宰相にて通俊、匡房、藏人頭にて季仲あり。「昔に耻ぢぬ世なり」などぞおほせられける。みちみちの博士も、すぐれたる人、多かる世になむ侍りし。このみかどみそぢにだに滿たせ給はぬ世の惜みたてまつる事、限りなかるべし。その御ありさま內侍のすけ讃岐とか聞こえ給ひし、こまかにかゝれたるふみ侍りとかや。人のよまれしを、ひとかへりは聞き侍りし。この中にも御覽じてやおはしますらむ。

     ところどころの御寺

此のみかどの御母、權中納言隆俊の御むすめの腹に、六條の右のおとゞの御むすめにおはしましゝ大殿の御子にしたてまつりて、延久三年三月九日御とし十五にて、白河院東宮におはしましゝ御息所にまゐらせ給へり。同五年七月廿三日女御ときこえ給ひて、四位の位給はり給ふ。承保元年六月廿日きさきに立ち給ふ。御とし十八におはしましき。十二月二十六日前坊うみたてまつらせ給ふ。三年四月五日郁芳門院うまれさせ給ひて、その後二條の大ぎさきの宮、生みたてまつらせ給へり。御年廿三にて、此のみかどは生みたてまつらせ給へり。應德元年九月廿三日、三條の內裏にてかくれさせ給ひにき。御年廿八とぞ聞こえ給ひし。村上の御母、梨壺にてうせ給ひてのち、內にてきさきかくれ給ふ事これぞおはしましける。廿四日に備後守經成のぬしの四條高倉の家にわたしたてまつりて、神無月の一日ぞ、鳥部野におくりたてまつりて、烟とのぼり給ひにし、悲しさたとふべきかたなし。まだ三十にだに足らせ給はぬに、多くの宮たち生みおきたてまつり給ひて、上の御おぼえ類ひもおはしまさぬに、はかなくかくれさせ給ひぬれば、世の中かきくらしたるやうなり。白河のみかどは、くらゐの御ときなれば、廢朝とて、三日は、日の御座のみすもおろされ〈あげられずイ〉、世のまつりごともなく、なげかせ給ふ事、から國の李夫人楊貴妃などの類ひになむ聞こえ侍りし。御なげきのあまりに、多くの御堂御佛をぞ作りてとぶらひたてまつらせ給ひし。ひえの山のふもとに、圓德院ときこゆる御堂の御願文に、匡房中納言の、「七夕の深きちきりによりて、驪山の雲に悵望する事なかれ」とこそかきて侍るなれ。飯室には勝樂院とて御堂つくりて、又の年のきさらぎに、供養をせさせ給ひき。八月には法勝寺の內に、常行堂つくらせ給ひて、仁和寺の入道の宮して供養せさせ給ふ。同日醍醐にも圓光院とて供養せさせ給へり。九月十五日、白川の御寺にて御佛事せさせ給ふ。廿二日御正日に、同じ御寺にて行はせ給ふ。事にふれて悲しきこと、見たてまつる人まで、胸あかぬ時になむあるべき。朝な夕なの御心ち、「御垣の柳も池のはちすも、むかしを戀ふるつまとぞなり侍りける。寬治元年しはすのころ、皇太后宮を贈りたてまつらせ給ふ。いにしへも今も、かゝるたぐひなむおはしましける。

     白河の花の宴

鳥羽の院は堀川の先帝の第一の皇子。御母贈皇太后宮茨子と申しき。實季大納言の御むすめなり。このみかど康和五年みづのとの未、正月十六日生まれさせ給へり、八月十七日東宮にたち給ひて、嘉承二年七月十九日位につかせ給ふ。天永四年正月一日御元服せさせ給ひき。十六年位におはしまして、一の御子にゆづり申させ給ひき。白河の法皇のおはしましゝ限りは、世の中の御まつり事なかりしに、彼の院うせさせ給ひて後は、ひとへに世をしらせ給ひて、廿八年ぞおはしましゝ。白河の院おはしましゝ程は、本院新院とて、ひとつ院に御かたがたにて、三條室町殿にぞおはしましゝ。待賢門院又女院の御かたとて、三院の御かた、いとはなやかにて、若宮姬宮たち、皆ひとつにおはしましき。本院新院、常には、ひとつ御車にて、御幸せさせ給へば、法皇の御車なれど、さきに御隨身ぐせさせ給へりき。保安五年にや侍りけむ。きさらぎに閏月侍りし年、白河の花御覽ぜさせ給ふとて、御幸せさせ給ひしこそ、世にたぐひなき事には侍りしか。法皇も院も、ひとつ御車にたてまつりて、御隨身に、錦縫ひもの、色々にたち重ねたるに、上達部、殿上人、かりさうぞくにて、さまざまに色をつくして、われもわれもと詞も及ばず。こがの太政のおとゞも御馬にて、それは直衣にかうぶりにて仕うまつり給へり。院の御車の後に、待賢門院ひきつゞきておはします。女房のいだし車のうちいで、しろがねこがねにしかへされたり。女院の御車のしりには、皆くれなゐの十ばかりなるいだされて、紅のうちぎぬ、櫻萠黃のうはぎ、赤色の唐衣に、しろがねをのべて、くわんの紋おかれて地ずりの裳にも、かねをのべて、洲濱鶴龜をしたるに、裳の腰にもしろがねをのべて、うはざしは、玉をつらぬきてかざられ侍りける。よしだの齋宮の御はゝや、乘り給へりけむとぞ聞こえ侍りし。又いだし車十輛なれば、四十人の女房おもひおもひに裝ひども心を盡して、けふばかりは制もやぶれてぞ侍りける。あるは五つにほひにて、紫紅、もえぎ、山吹、すはう廿五重ねたるに、うちぎぬ、うはぎ、裳、唐衣、皆かねをのべて紋におかれ侍りけり。あるは柳さくらをまぜかさねて、上はおりもの、うらはうちものにして、裳の腰には、錦に玉をつらぬきて「玉にもぬける春の柳か」といふ歌、「柳さくらをこきまぜて」といふ歌の心なり。裳はえび染を地にてかいふをむすびて、月のやどりたるやうに、鏡を下にすかして、「花のかゞみとなるみづは」とせられたり。からぎぬには日をいだして「たゞはるの日にまかせたらなむ」といふ歌の心なり。あるは唐衣に錦をして、櫻の花をつけて、うすき綿を、あさぎに染めて上にひきて、「野べの霞はつゝめども」といふ歌の心なり。袴もうちばかまにて花をつけたりけり。このこぼれてにほふは、七の宮など申す御母のよそひとぞきゝ侍りし。御車ぞひの狩衣はかまなど、いろいろの紋押しなどして、かゞやきあへるに、やりなはといふものもあしつをなどにや、より合せたる。色まじはれるみすの掛け緖などのやうに、かな物ふさなどゆらゆらとかざりて、何事も常なくかゞやきあへり。攝政殿は御車にて、隨身などきらめかし給へりしさま、申すもおろかなり。法勝寺にわたらせ給ひて、花御覽じめぐりて、白河殿にわたらせ給ひて、御あそびありて、上達部の座に、御かはらけたびたびすゝめさせ給ひて、おのおの歌たてまつられ侍りける。序は花園のおとゞぞかき給ひけるとなむうけ給はり侍りし。新院の御製など集にいりて侍るとかや。女房のうたなどさまざまに侍りけるとぞ聞き侍りし。

  「よろづ代のためしと見ゆる花の色をうつしとゞめよ白河の水」

などぞよませ侍りけると聞き侍りし。御寺の花、雪のあしたなどのやうに咲きつらなりたる上に、わざとかねて外のをも散らして、庭にしかれたりけるにや、牛のつめもかくれ車のあとも入るほどに花つもりたるに、こずゑの花も雪のさかりにふるやうにぞ侍りけるとぞ、傳へうけ給はりしだに、思ひやられ侍りき。まいて見給へりけむ人こそおもひやられ侍れ。その後いづれの年にか侍りけむ、雪の御幸せさせ給ひしに、たびたび晴れつゝ、けふけふと聞こえけるほど、俄に侍りけるに、西山船岡のかた、御覽じめぐりて、法皇も院も都のうちには、ひとつ御車にたてまつりて、新院御直衣に、くれなゐのうち御ぞいださせ給ひて、御馬にたてまつりけるこそ、いとめづらしく繪にもかゝまほしく侍りけれ。二條の大宮の女房、いだし車に、菊もみぢの色々なる衣どもいだしたるに、うへしたに、白き衣をかさねて、縫ひあはせたれば、ほころびは多く、ぬひめはすくなくて、あつきぬのわたなどのやうにて、こぼれいでたるが、菊紅葉のうへに、雪のふりおけるやうにて、五車たてつゞけ侍りけるこそいと見所おほくはべりけれ。このみかど、御心はいといたく好かせ給ふ事はなくて、御心ばへうるはしく、御みめも淸らに、功德の道たうしも御祈りをのみせさせ給ひき。御笛をぞ、えならず吹かせ給ひて、堀川の院にも、劣らずやおはしましけむ。樂などもつくしてしらせ給ふ。御笛のねも、あいつかはしく、すゞしきやうにぞおはしましける。公敎公能など申しゝおほいどの伊實、成通など申す中納言など皆御弟子なりとぞきゝ侍りし。例ならぬ御心ち、久しくならせ給ひて、世など心ぼそくおぼしめしけるにや、德大寺の左のおとゞにや、花をりて給はすとて、御哥侍りける、

  「心あらばにほひをそへよ櫻花のちの春をばいつ〈たれイ〉か見るべき」

となむよませ給ける。

     鳥羽の御賀

此の院世を知らせ給ひて、久しくおはしましゝに、よろづの御まつりごと、御心の儘なるに中の院のおとゞの、大將になり給ひしたび、人々あらそひて讃岐の院位におはしましゝかばしぶらせ給ひしにこそ。近衞のみかど東宮にてまなめしける夜、俄に內へ御幸とて殿上人せうせうかぶりして、夜に入りて北の陣に御車たてさせ給ひて、「權大納言大將にまかりならむ事、わざと申しうけに參りたる」と申しいれさせ給へりしかば、さてこそ、やがて其の夜なり給ひけれ。實能の大將、下﨟なれどももとよりなりゐ給へれば、かみに加へじとおさへ申し給ふ。實行の大納言「われこそ上﨟なればならめ」といひて、下﨟ふたりに越えられむ事と、內をふたりして、かたがた申し給へば、御をぢのこと、さりがたくて押さへさせたまふなり。院には、さきに下﨟をこしてなさせ給ひしかども、なほいとほしみ出できて、なさむとおぼしめしかためけるに、うちのおさへさせ給へば、年ごろはかゝる事もなきにいと心よからずおぼしめして、御幸あるなりけり。とかく申させ給ひ、めして仰を下されなどする程に、御くるまにて、「春の夜あけなむとす」といふ朗詠、又「十方佛土の中には」などいふ文を詠ぜさせ給ひて、佛の御名たびたび唱へさせ給ひける、聞く人みな淚ぐましくぞ思ひあへりけるとなむきこえ侍りし。かくて次の年御ぐしおろさせ給ひき。御とし四十にだに滿たせ給はねども、年ごろの御ほいも、又つゝしみのとしにて、年比は御隨身などもとゞめさせ給ひて具せさせたまはねども、白河の大炊の御門どのゝむかひに御堂つくらせ給ひて、供養せさせ給ふに、兵仗かへし給はらせ給ひて、めづらしく太上天皇の御ふるまひなり。うちつゞき八幡賀茂など御幸ありて、三月十日ぞ鳥羽殿にて御ぐしおろさせ給ふ。少しも御なやみもなくてかくおもほしたつ事を、世の人淚ぐましくぞ思ひあへる。御名は空覺とぞ聞こえさせ給ひし。五十日御佛事とてせさせ給ふほど大路にありく犬や、き積みてありく車牛などまで養はせ給ひ、御堂の池どものいをにも、庭の雀からすなどかはせ給ふ。山々寺々の僧にゆあむし、御布施などは云ひしらず、たゞの折も、かやうの御功德は、常の御營みなり。人のたてまつるもの、多くは僧の布施になむなりける。おはしますあたり、あまたの御所どもには、いひしらぬ、綾錦、唐綾、唐絹、さまざまのたから物、所もなきまでぞおきめでられ侍りけるを、御布施にせさせ給へば、來む世の御功德いかはかりか侍らむ。白河の院はおはします所、きらきらと掃きのごひて、たゞうちの見參とて、かみや紙にかきたる文の、日每にまゐらするばかりを、御厨子にとりおかせ給ひて、さらぬ物は御あたりに見ゆるものなかりけり。ましてたちぬはぬ物などは、御前にとりいださるゝことなくて、かたしはぶきうちせさせ給ひて、たゞ一所おはしまして、近習の上﨟下﨟などを、とりどり召しつかひつゝおはしましける。おのおの御有樣かはらせ給ひてなむ聞え侍りし。仁平二年三月七日近衞の御門、鳥羽の院に行幸せさせ給ひて、法皇の五十の御賀せさせ給ひき。等身の御佛、壽命經もゝまき、玉のかたち〈かざりイ〉をみがき、黃金の文字になむありける。僧はむそぢの數、ひきつらなりて、佛をほめたてまつり、舞人は近きまぼりのつかさ、雲の上人靑色のわきあけに、柳さくらの下襲、平やなぐひの水晶のはず日の光りにかゞやきあへり。つぎの日も猶とゞまらせ給ひて、法皇をがみたてまつり給ふ。さまざまの供へども庭もせにつらねてたてまつらせたまふ。池の船、春の調べとゝのへて、みぎはに漕ぎよせて、おのおのおりて左右のまひの袖ふりき。靑海波、左のおとゞの御子、右大將の孫の中將の公達舞ひ給ふ。はてには、左大將の御子とて、胡飮酒、童舞し給ふ。ふるきあと、家のことなれば、かづかり給ふ御ぞ、父のおとゞとりて、袖ふり給ひて庭におりてよろこび申しのやうに、更に拜し給ふ。ゆふ日のかげに紅の色かゞやきあへり。其の若君は、誠は御わらは名、くま君とて、前中納言師仲の子を大將殿の子にし給へるとぞ。この若君の母は、鳥羽の院の御子たち生み奉られたる人とぞきゝたてまつりし。かやうにはなやか侍にりしほどに、なか二年ばかりや隔て侍りけむ。近衞のみかど、かくれさせ給ひしかば、おぼしめし歎きて、鳥羽に籠もりゐさせ給ひて、年のはじめにも、門廊などさして、人もまゐらざりき。御とし五十四までぞおはしましける。御母贈皇太后宮は承德二年十一月に內に參り給ひて、康和五年正月に、このみかど生みおきたてまつりて、かくれさせ給ひにしかば、きさき贈りたてまつりたまへり。

     春のしらべ

仁和寺の女院の御腹の一の御子は、位おりさせ給ひて、新院ときこえさせ給ひし。後に讃岐におはしましゝかば、讃岐のみかどゝこそ聞こえさせ給ふらめな。御母女院は中宮璋子と申しき。公實大納言の第三の御むすめなり。鳥羽の院の位におはしましゝ時、法皇の御むすめとて參り給へりき。此のみかど元永二年己亥五月十八日にうまれさせ給へり。保安四年正月廿八日に位に即かせ給ふ。大治四年御元服せさせ給へり。御とし十一。法性寺のおほきおとゞの御むすめ、女御に參り給ひて、中宮に立ち給ひし。皇嘉門院と申す御事なり。時の攝政の御女、きさきの宮におはします。白河の院、鳥羽の院おやおほぢとておはします。御母女院ならぶ人なくておはしましゝかば、御せうとの侍從中納言實隆、左衞門の督通季、右衞門の督實行、左兵衞の督實能など申して、帝の御をぢにて、直衣ゆるされて常に參り給ふ。その公達近衞のすけにて、あさ夕さぶらひ給ふ。みかどの御心ばへ絕えたる事をつぎ、古きあとを興さむとおもほしめせり。幼くおはしましけるより歌を好ませ給ひて、朝夕さぶらふ人々に、かくし題よませ、「紙燭の歌かなまりうちて響きのうちによめ」などさへ仰せられて、常は和歌の會ぞせさせ給ひける。さのみうちうちにやはとて、花の宴をせさせ給ひけるに、松に遙なる齡を契るといふ題にて上達部束帶にて、殿よりはじめてまゐり給ひけり。まづ御あそびありて、關白殿ことひき給ふ。花園のおとゞ、その時右大臣にて琵琶ひき給ふ。中の院の大納言笙のふえ、右衞門の佐季兼俄に殿上にゆるされて篳篥仕うまつりけり。拍子は中の御門大納言宗忠、笛は成通實衡などの程にやおはしけむ。季成の中將、和琴などぞきゝ侍りし。序は堀川の大納言師賴ぞかき給ひける。講師は左大辨實光、御製のは誰れにか侍りけむ。常の御歌どもは、朝夕の事なりしに、つねの御製などきこえ侍りしに、珍らしくありがたき御歌ども多くきこえ侍りき。遠く山の花をたづぬといふ事を、

  「たづねつる花のあたりになりにけり匂ふにしるし春の山風」

などよませ給へりしは、世の末にありがたしとぞ人は申し侍りける。まだ幼くおはしましゝ時、

  「こゝをこそ雲の上とは思ひつれ高くも月のすみのぼるかな」

などよませ給へりしより、かやうの御歌のみぞおほく侍るなる。これらおのづから傳へ聞こえ侍るにこそあれ。天承二年三月にや侍りけむ。臨時客せさせ給ひき。臨時の祭の試樂のさまになむ侍りける。淸凉殿のみすおろして孫庇に御倚子たてゝ、みかど御直衣にておはします。北の廊の立蔀とりのけて、御簾かけて、きさいの宮の女房うちいでの衣さまざまに出だされたり。二間には中宮おはします。左右の舞人かさねのよそひして、月華門に集まれり。樂の行事、重通季成の中將ぞうけ給はりてせられける。春のしらべ、先は吹きいだして、春の庭といふ樂をなむ奏して參りける。みかど出でさせ給ひて、關白殿右のおとゞよりはじめて、簀の子にさぶらひ給ふ。宰相は例の事なれば、なかはしにおはしけり。然るべきまひども、笛の師など賞かぶりける中に、成通の宰相中將とておはしける、わざと遙かに北の方にめぐりてもとまさといふ笛の師かぶり給はれる、よろこび云ひにおはしたりけるこそ、いと優しく侍りけれ。百首の歌なども、人々によませさせ給ひけり。又撰集などせさせ給ふと聞え侍りき。かばかり好ませ給ふに、歌合侍らざりけるこそ、くちをしく侍りしか。古き事ども興さむの御志はおはしましながら、世を心にえまかせさせ給はで、院の御まゝなれば、易き事もかなはせ給はずなむおはしましける。歌よませ給ふにつけて、朝夕さぶらはれける修理權大夫行宗、三位せさせむとて、德大寺のおとゞにつけて「院に見せ參らせよ」とて、

  「我が宿に一本たてるおきなぐさあはれといかゞ思はざるべき」

とぞよませ給ひけると聞こえ侍りし。

     八重の汐路

もとの女院ふたところも、かたがたに輕からぬさまにおはしますに、いまの女院時めかせ給ひて、近衞のみかど生みたてまつらせ給へる、東宮に立てまつりて、位ゆづりたてまつらせ給ふ。その日辰の時より、上達部、さまざまのつかさづかさ參り集るに、內より院に度々御使ありて、藏人の中務少輔とかいふ人、かはるがはる參り、又六位の藏人、御文捧げつゝ參る程に、日くれがたにぞ神璽寳劔など、東宮の御所昭陽舍へ、上達部引きつゞきてわたり給ひける。みかどの御養ひ子、例なきことゝて、皇太弟とぞ宣命にはのせられ侍りける。その御さだに、「けふ延ぶべし」など內より申させ給ひけれど「事始まりていかで」とてなむその日侍りけるとぞ聞え侍りし。今のうちには、職事殿上人など仰せ下され、あるべきことどもありて、新院は九日ぞ三條西の洞院へわたらせ給ふ。太上天皇の御尊號たてまつらせ給ふ。かくて年へさせ給ふほどに、近衞のみかどかくれさせ給ひぬれば、今の一院の、今宮とておはします、位につかせ給ひにき。さるほどに鳥羽の院御心ちおもらせ給ひて、七月二日うせさせ給ひぬれば、みかどの御代にて定まりぬるを、院のおはしましゝ折より、きこゆる事どもありて、御垣のうち、きびしく固められけるに、嵯峨のみかどの御時、兄の院と爭はせ給ひけるやうなる事いできて、新院御ぐしおろさせ給ひて、御おとゝの仁和寺の宮におはしましければ、しばしはさやうに聞えし程に、八重の汐路をわけて、遠くおはしまして、上達部殿上人の、ひとり參るもなく、一宮の御母の兵衞の佐ときこえ給ひし、さらぬ女房、ひとり二人ばかりにて、男もなき御旅ずみも、いかに心ぼそく朝夕におぼしめしけむ。親しくめしつかひし人ども皆うらうらに都を別れて、おのづからとゞまれるも、世の怖ろしさにあからさまにもまゐることだにもなかるべし。皇嘉門院よりも、仁和寺の宮よりも、しのびたる御とぶらひなどばかりやありけむ。たとふる方なき御すまひなり。あさましき鄙のあたりに、九年ばかりおはしまして、憂き世のあまりにや、御病も年にそへて重らせ給ひければ、都へかへらせ給ふこともなくて、秋八月廿六日に、かの國にてうせさせ給ひにけりとなむ。白峰のひじりといひて、かの國に流されたる阿闍梨とて、昔ありけるが、この院に生まれさせ給へるとぞ、人の夢に見えたりける。その墓のかたはらによき方にあたりたりければとてぞおはしますなる。八重の汐路をかき分けて、はるばるとおはしましけむ、いと悲しく、心ちよきだにあはれなるべき道を人もなくて、いかばかりの御心ちせさせ給ひけむ。このみかどの御母ぎさき、十九と申しゝ御年此の帝をうみたてまつらせ給ひて、御子位につかせ給ひてのち、廿三の御年后の位をさらせ給ひて、待賢門院と申す。同じ國母と申せど、白河の院の御むすめとて養ひ申させ給ひければ、ならびなく榮えさせたまひき。まして院號はじめなどはいかばかりかもてなし聞こえたまひし。多くの御子うみたてまつらせ給ひ、今の一の院の御母におはしませば、いとやんごとなくおはします。仁和寺に御堂つくらせ給ひ、こがねの一切經などかゝせ給ひて、康治二年御ぐしおろさせ給ふ。御名は眞如法とつかせ給ふとぞ。久安元年八月廿二日、かくれさせ給ひにき。又のとしの正月に、かの院の女房の中より高倉のうちのおとゞのもとへ、

  「みな人はけふのみゆきといそぎつゝ消えにし跡はとふ人もなし」。

顯仲の伯のむすめ、堀河の君の歌とぞきこえ侍りし。この女院の御母は、但馬守隆方の辨の女なり。從二位充子とて、ならびなく世にあひたまへりし人におはすめり。


今鏡第三

    すべらぎの下

     をとこ山

鳥羽のみかど御位の御時より、まゐりたまへりしきさきは、御子たちあまた生みたてまつりて、位おりさせ給ひしかば、女院と申しておはしましき。法皇の養ひたてまつりて、はたもてかしづき給ひしに、法皇おはしまさで後、宇治のきさき參り給ひて、御かたがたいどましげなれども、院にはいづ方にも、うときやうにてのみおはしましゝに、しのびて參り給へる御かたおはしまして、やゝ朝まつりごとも怠らせ給ふさまにて、夜がれさせ給ふ事なかるべし。いとやんごとなききはにはあらねど、中納言にて御おやはおはしけるに、母北の方は、源氏の堀河のおとゞの女におはしける上に、類ひなくかしづき聞えて、たゞ人にはえゆるさじと、もてあつかはれける程に、中納言かくれ侍りける後、院にもとよりおぼしめしつゝ過ぐし給ひけむ。かの父の御忌など過ぎけるまゝに、しのびて御せうそこありてかくれつゝ參り給ひけるほどに、日にそへて類ひなき御志にて、ときめき給ふほどにたゞならぬ事さへおはしければ、御祈りおどろおどろしきまでかたがたせさせ給ふ程に、女宮うみたてまつらせ給へれば、珍らしきをば喜びながら、男におはしまさぬをぞ、くちをしうおぼしめしたるに、又生み奉り給へるも、おなじさまなれば、まめやかに口をしうおぼしめしたれど、さすが、いかゞはせむにておはしますなるべし。姉宮をば宇治のきさき、御子おはしまさぬにあはせて、大きおとゞの御心とゞむとにや、この宮にむかへ申させたまひて、養ひ申させ給ふ。のちに生まれさせ給へるをば、院にみづから養ひたてまつり給ふ。御母きさき、しばしはあの御方など申しておはしましゝ程に、三位のくらゐそへさせ給ひて、この御事をのみ類ひなき御もてなしなれば、世の人ならびなく見たてまつれるに、又たゞならぬ事おはしませば、此の度さへうちつゞかせ給はむも口をしき上に、おぼしめしはからふ事やあらむ、をとこ宮生みたてまつり給ふべき御祈り、いひしらず營ませ給ふ。石淸水に般若會などいひて、山三井寺などのやんごとなき智惠深き僧ども參りゐて、日ごろ法文のそこをきはめて行はせ給ふ。帥の中納言といふ人、御後見にて都の事も大事なれど、かの宮に日ごろ籠もりて、御かはりにや、日每に、束帶にて御講もよほし行はれけるを、われもわれもと御法ときて、祈り申されける中に、忠春とか聞こえしが、「鼇海の西にはうみの宮、御產平安たのみあり。鳳城の南には男山、皇子誕生疑ひなし」と申したりけるとなむ聞き侍りし。奈良の濟圓といひし僧都、さきの日このこゝろをしたりけるにめでたしなど聞こえけるを、山に忠春己講と聞こえしが、後の日、かやうにむすびなしていひける。とりどりにえも云はずなむきこえ侍りける。はての日は、上達部引きつれまゐりて、御布施とり御神樂などせらる。上達部歌も笛も、おのおの心をつくして、淸暑堂のやうなり。かうに云ひ知らぬ御祈りども有りける程に、保延五年にや侍りけむ。つちのとの未の年五月十八日、よになくけうらなる玉のをのこ宮、生れさせ給ひぬれば、院のうちさらなり、世の中も動くまで、歡びあへるさま、いはむかたなし。ひつじの時ばかりなれば、御祈りの僧、御前に參りたるに、おのおの御馬ひき、女房のよそほひなどたまはす。仁和寺の法親王、山の座主など、僧綱賜はり、さまざまの賞どもありて、まかで給ひぬ。御うぶ養ひ七夜など、關白殿よりはじめて參り給ひて、御遊びどもあり。御湯殿南おもてにしつらひて、弦うち五位六位しらがさねに立ちならべり。男宮におはしませば、文よみ式部大輔左中辨などいふ博士、大外記とかいふもの、明經博士とて、つるばみのころも、あけのころも、袖をつらねて、うちかはりつゝ、日每によむけしき、いはむかたなくめでたし。御子の御祈りはじめてせさせたまひ、七瀨の御祓へに、辨ゆげひのすけ、五位の藏人など、時にあへる七人、御ころも筥取りてたつほど、おぼろげの上達部なども、あふぐべくもなかりけり。御めのとには、二條の關白の御子に、宰相の中將といひし人のむすめ、內藏の頭、男にてあれば、えらばれてやしなひ奉るなるべし。日に添へてめづらかなるちごの御かたちなるにつけても、いかでかすがやかに、みこの宮にも、位にもとおぼせども、きさきばらに、御子たちあまたおはしますを、さし超ゆべきならねば、おもほしめしわづらふ程に、當帝の御子になし奉り給ふ事いできて、みな月の廿六日、御子內へいらせ給ふ。御ともに上達部、殿上人えらびて、常のみゆきにも心ことなり。都のうち車もさりあへず、見るもの所もなき程になむはべりける。內へいらせ給ふに、てぐるまの宣旨など、藏人おほせつゝ既に參らせ給ひて、中宮を御母にて、まだ御子も生ませ給はねば、めづらしく養ひ申させたまふ。きさきの親にては、關白殿おはしませば、御子のおほぢにて、かたがたみかどもきさきも、御子おはしまさぬに、院も御心ゆかせ給ひて、いと心よき事いできて、いつしか八月十七日東宮にたゝせ給ふ。昭陽舍に御しつらひありて渡らせ給ふ。大夫には堀川大納言なり給ふ。御母のをぢに坐して殊に選ばせ給へるなり。御母女御の宣旨かぶり給ふ。願ひの御まゝなり。男宮の嬉しさもいふばかりなきうへに、御みめも御心ばへも、いと美くしう、此の世のものにもあらず。さかしくおとなしくて、日の御座の事ある每に、大夫の抱き參らせ給へるにも、泣きなどし給はず。ゐさせ給ふ程には、御しとねの上にひとりゐさせ給ひて、おとなのやうにおはしませば、かひがひしく見奉る人も歡びの淚おさへがたかりけり。かくて同七年十二月七日、御年三つにて、位讓り申させ給ふ。近くは五つなどにてぞつかせ給へども、心もとなさにやすがやかにゐさせ給ひぬ。御母女御殿、皇后宮に立たせ給ふ。御年廿五にや。御即位大甞會など、心ことに世も靡きてなむ見え侍りける。おとなにならせ給ふまゝに、御有樣然るべき前の世の御契と見え給へり。攝政殿の御弟の左のおとゞ、女御奉らせ給ひて、皇后宮にたち給ひぬ。猶足らずや思しめすらむ、院より御さたせさせ給ひて、大宮の大納言のむすめ、關白殿の御子とて、北の政所の、御せうとのむすめれば、御子にし奉り給ふ。御かたがたはなばなといどみ顏なるべし。殿のあに弟の御中よくもおはしまさねば、宮もいとゞ隔多かるに、關白殿は、うちのひとつにて、ひとへに中宮のみのぼらせ給ひて、皇后宮の御かたをは、疎くおはしましける。かくて年ふる程に御母きさき院號ありて、女院とておはしませば、院の后の女院、三人おはします。內には后二人立ち給ひて、いとかたがた、多くおはする頃なるべし。

     蟲のね

此のみかど御みめも御心ばへもいとなつかしくおはしましけるに、末になりて、御目を御覽ぜざりければ、かたがた御祈りも御藥も、然るべきにや、かひなくて、すゑざまには年のはじめの行幸などもせさせ給はずなりにけり。攝政殿たぐひなく思ひたてまつらせ給ふ。みかどもおろかならず思ひかはさせ給ひて、殿の、御弟にこめられさせ給ひて、藤氏の長者などものかせたまひたるを、幼き御心に歎かせ給ふ。殿もみかどの例ならぬ御事を歎かせ給ふほどに、十七にやおはしましけむ。初秋の末に、日ごろ例ならぬ事おはしまして、かくれさせ給ひぬれば、世の中はやみに惑へる心ちしあへるなるべし。さりとてあるべきにあらねば、鳥羽の院には、次のみかど定めさせ給ふに、誠にや侍りけむ。女院の御事のいたはしさにや。姬宮を女帝にやあるべきなどさへ計らはせ給ふ。又仁和寺の若宮をなど定めさせ給ひけれどことわりなくて、ひと日は過ぎて世の中思しめし恨みたる御有樣なるべし。たゞおはしまさむだにをしかるべきを、歌をも幼くおはします程に、すぐれてよませ給ひ、法文のかたも、然るべくてやおはしましけむ。心にしめて、經などをも訓に讀せ給ひて、それにつけても二十八品の御歌などよませ給ふ。おなじ歌と申せども此の比のうちあるさまにもあらず、昔の上手などのやうによませ給ひける。おほくよませ給ひける中に、世を心細くや思しめしけむ。

  「蟲のねの弱るのみかは過ぐる秋を惜む我が身ぞまづ消えぬべき」

などよませ給へりける、いとあはれにかなしく、又から萩などいふことを、かくし題にて、

  「つらからばきしべの松の波をいたみねに顯れて泣かむとぞ思ふ」

など多くきゝ侍りしかども、おぼえ侍らず。位におはしますこと、十四年なりき。御わざの夜さねしげといひしが、むかし藏人にて侍りける、おもひ出でゝよめる。

  「おもひきや蟲のねしげき淺茅生に君を見すてゝかへるべしとは」。

殿の御子の、大僧正と聞こえ給ふ、みかどの植ゑさせ給へりける菊を見給ひて、

  「よはひをば君にゆづらでしら菊のひとりおくれて露けかるらむ」

とよまれ侍りけるこそあはれに聞こえ侍りしか。備前の御とてはべりけるが、みかどおはしまさで後、むかし思ひいでけるに、しのばしき事、多く覺えければ、星合の比、內侍土佐が、かのみかどの御事の悲しみにたへで、頭おろして籠りゐ侍りけるもとにいひつかはしける。

  「あまのかはほしあひの空はかはらねどなれし雲居の秋ぞ戀しき」

とよめりけるこそいとなさけ多く聞きはべりしか。此のみかどの御母は、贈左大臣長實中納言のむすめなり。得子皇后宮と聞え給ふ、美福門院と申しき。この御有樣さきに申し侍りぬ。且は近き世の事なれば、たれもきかせ給ひけむ。されども事のつゞきに申し侍るになむ。猶あさましくおはしましゝ御すぐせぞかし。御親もおはせずなりにしかば、いかゞなりたまはむずらむと見え給ひしに、しのびて參り初め給ひて、御子たち生み奉り給ひ、女御きさきみかどの御母におはしますのみにあらず、行く末までの御有樣申すもおろかなり。始めかやう院のやしなひ申させ給ひしは、叡子內親王と聞こえたまひしは、うせさせ給ひにき。其のつぎ姬宮は暲子內親王八條の院と申すなるべし。院にやがて養ひ申させ給ひて、あさ夕の御なぐさめなるべし。をさなくて物などうつくしうおほせられて、「わか宮は東宮になりたり。われは東宮のあねに成りたり」など仰せられければ、院は「さる司やはあるべき」など興じ申させ給ひけるなどぞ聞こえはべりし。この宮保延三年ひのとの巳の年に生まれさせ給ひて、保元二年六月御ぐしおろさせ給ふ。御とし廿一とぞ聞こそさせ給ひし。應保元年十二月に、院號きこえさせ給ふ。二條のみかどの御母とて、后にもたゝせ給はねども、女院と申すなるべし。小一條院の、東宮より院と申しゝやうなるべし。近衞のみかど生まれさせ給ひてのち、永治元年十一月にや侍りけむ。かのとの酉の年、又姬宮、六條殿にて生みたてまつり給へりし、二條のみかど、東宮ときこえさせ給ひし時、保元元年の比、御息所と聞こえさせ給ひて、みかど位につかせ給ひしかば、平治元年十二月廿六日、中宮ときこえさせ給ひしに、永曆元年八月十九日御なやみとて、御ぐしおろさせ給ふ。御とし廿とぞきこえさせ給ひし。いとたぐひなく侍りき。應保二年二月十三日、院號ありて高松の院と申す。この宮々の御母、國母にておはしましゝ程に、近衞のみかどかくれさせ給ひて、歎かせ給ひしに、次の年鳥羽の院うせさせ給ひし時は、北おもてに侍ふと侍ふ下﨟どもかきたてゝ、「院のおはしまさゞらむには、たしかに女院に侍へ」とてわたされ侍りけり。女院は法皇の御病ひのむしろに、御ぐしおろさせ給へりき。三瀧のひじりとか聞こえしは、御戒の師と聞こえ侍りし、よろづおもほしすてたる御有樣にやあらむ。鳥羽などをも、よろづ女院の御まゝとのみさたしおかせ給へれど、後の世のことを、おもほし掟てさせ給ふうへに、心かしこく何事にものがれさせ給へりき。姬宮たち御母おはしましゝ折、皆御ぐしおろさせ給ひてしこそいとあはれに聞こえ侍りしか。むかしの佛の、やたりの王子十六の沙彌などの御有樣なるべし。なかにも、當時のきさきの宮にて、佛の道にいらせ給ふ。世にたぐひなし。この世をつら〈よイ〉くおぼしめしとりて、わが御身もひめ宮たちをもすゝめなし奉りて、つとめさせ給ふほどに、わづらはせおはします御事ありて、應保元年十一月廿三日に、かくれさせおはしましにき。紫の雲たなびきて、ゐながら、うせさせおはしにけるとぞうけ給はりし。かねて高野の御山に、しのびて、御堂建てさせ給ひて、それにぞ御舍利をば送りまゐらせたまひけるとなむ。かの御ともには、さもあるべき人々、おのおの御さはりありて、贈左大臣の末の子時通の備後守とか聞こえし、後には法師になられたりけるに、年ごろも契りおかせ給へりけるとて、その人ばかりぞ、首にかけ參らせて、たゞ一人參られければ、若狹守にて、たかのぶと申して、むげに年若き人、をさなくより、なれ仕うまつりて、御なごりのしのびがたさに、事にのぞみて、慕ひまゐりけるに、御山へいらせ給ふ日、雪いたくふりければ、よみ侍りける、

  「誰か又けふのみゆきを送りおかむわれさへかくて思ひ消えなば」。

     大內わたり

過ぎたる方の事は、遠きも近きも見及び聞き及ぶ程の事申しはべりぬるを、今の世の事は、はゞかり多かる上に、誰れかはおぼつかなく思されむ。しかはあれども、事のつゞきなれば申しはべるになむ。當時の院は、鳥羽の院の第四のみこ、御母待賢門院、大治二年ひのとの未の年、生み奉り給へりしにやおはしますらむ。多くの宮たちの御中に天の下つたへたもたせ給ふ、いとやんごとなき御榮えなり。保延三年十二月御ふみはじめに式部の大輔敦光といひし博士、御侍讀には參るとうけたまはりしに、上達部殿上人まゐりて、詩などたてまつられける。近くはさることも聞こえ侍らぬに、この御文はじめにしも、しか侍りけむ、よき例にこそせられ侍らむずらめ。同五年十二月廿日、御元服せさせ給ひしは、十三の御年にこそおはしましけめ。久壽二年七月廿五日、位に即かせたまふ。御とし廿九におはしましき。院の仰せごとにて、內大臣とて、德大寺のおとゞおはせし、具し奉りて、まづ高松殿にわたり給ふ。夜に入りて、上達部引きつれてまゐり給ひて、近衞の內裏へわたらせおはします。十月廿六日御即位ありて、東宮たゝせ給ふ。大甞會など有りて年も替りぬれば院の姬宮東宮の女御に參り給ふ。高松の院と申す御事なり。前の齋院とて今の上西門院のおはしましゝを、御母にしたてまつらせ給ふとうけ給はりし。母ぎさき美福門院おはしませば、べちの御母なくても坐しましぬべけれど、今すこしねんごろなる御心にや侍りけむ。五月の末に故院の御なやみまさらせ給ひて、七月にうせさせ給ひしほどに、世の中にさまざま申す事ども出できて、もの騷がしく聞こえしほどに、誠に、いひしらぬいくさの事いできて、みかどの御かた、勝たせ給ひしかば、賞ども行はせ給ひき。其のほどの事、申し盡すべくも侍らぬ上に、みな人知らせ給ひたらむ。世を治めさせ給ふ事むかしに耻ぢず。記錄所とて後三條の院の例にて、かみは左大將公敎、辨三人、寄人などいふもの、あまた置かれはべりて、世の中をしたゝめさせ給ふ。次の年も、諒闇にて三月にぞつかさめしなどせさせ給ふ。十月に大內造り出だしてわたらせたまふ。殿舍ども門々などの額は、關白殿かゝせ給ふ。宮造りたる國の司など七十二人とか、位賜はりなどす。中頃かばかりのまつりごとなきを、千世にひと度すめる水なるべしとぞおもひあへる。上は、淸凉殿、藤つぼ、かけておはします。女房、弘徽殿、登華殿などにつぼねたび、皇后宮は、弘徽殿におはします。女房それも、登華殿のつゞきに、つぼねして侍ふ。中宮は、承香殿におはします。その女房、麗景殿につぼねあり。內のおとゞの奉りたまへる女御は、梅壺に坐す。その女房、襲芳舍につぼね賜はりき。かんなりのつぼなるべし。東宮は桐壺におはします。女房はその北舍につぼねしつゝ侍ふ。東宮のみやす所は、梨壺なれば女房その北につぼね賜はり。關白殿は宣耀殿を御とのゐどころとせさせ給へり。近き世には、里內裏にてのみ有りしかば、かやうの御すまひもなきに、いとなまめかしう、珍らかなるべし。弓矢などいふ物あらはに持ちたるものやはありし。ものに入れかくしてぞ大路をもありきける。都の大路をも、鏡の如くみがきたてゝ、つゆきたなげなる所もなかりけり、世の末ともなく、かく治まれる世の中、いとめでたかるべし。

     ない宴

かくて年もかはりぬれば、朝覲の行幸、美福門院にせさせ給ふ。誠の御子におはしまさねども、近衞のみかどおはしまさぬ世にも、國母になぞらへられて坐します。いとかしこき御榮えなり。又東宮行啓ありて、姬宮の御母とて、拜し奉り給ふ。この姬宮と申すは、八條の院と申すなるべし。廿日內宴おこなはせ給ふ。もゝとせあまり絕えたる事を、行はせ給ふ。世にめでたし。題は春生聖化中とかやぞきこえ侍りし。關白殿など、上達部七人、詩つくりて參り給へり。靑色の衣、春の御あそびにあひて、珍らかなる色なるべし。舞姬十人、綾綺殿にて、袖ふる氣色、から女を見るこゝちなり。ことしは、にはかにて、誠の女はかなはねば、童をぞ、仁和寺の法親王奉り給ひける。ふみをば仁壽殿にてぞ講ぜられける。尺八といひて、吹きたえたる笛、此のたび始めて吹きいだしたりとうけ給はりしこそいとめづらしきことなれ。七月すまうの節行はせ給ふ。これも久しく絕えて、年ごろ行はれぬ事なり。十七番なむ有りける。ふるき事どもの、あらまほしきを、かく行はせ給ふ。ありがたき事なり。且は君の御すぐせもかしこくおはします上に、少納言通憲といひし人、後は法師になりたりしが、鳥羽の院にも朝夕仕うまつり、この御時には、ひとへに世の中をとりおこなひて、古きあとをも起こし、新しきまつりごとをも速かに計らひ行ひけるとぞきゝ侍る。此のみかど、御めのとは修理のかみ基隆のむすめ、大藏卿師隆のむすめなど、二三人おはしけれど、あるはまかり出で、あるはかくれなどして、紀の御とて、御乳の人と聞こえしがをとこにて、かの少納言通憲の子あまたうみなどして、今は御めのとにて、やそ島のつかひなどせられければ、並ぶ人もなきにこそ。

  「すべらぎの千代のみかげにかくれずばけふ住吉の松を見ましや」

などよまれはべりけると聞こえ侍りし。誠にかひがひしき人におはすべし。かの少納言、からの文をも博く學び、やまと心もかしこかりけるにや。天文などいふ事をさへ習ひて、才ある人になむ侍りける。よはひさまで古き人にても侍らざりしに、今の世にも、いかにめでたく侍らまし。御めのとは、代々もなきにはあらぬを、近衞のすけなど、かりそめにもあらで、四位の少將中將なるに、樣々の國の司などかけて、あまりに侍りけるにや。はねあるものは前の足なく、角あるものは、かみの齒なき事にて侍るを、さして道の人ならぬ、天文などのおそれある事にや。よろづめでたく侍りしに、惜しくも侍るかな。かくて保元三年八月十六日くらゐ東宮にゆづり申させ給ふ。位におはします事三年なりき。おりゐのみかどにて、御心のまゝに世をまつりごたむとおもほしめすなるべし。さきざきのみかど位につかせ給ひ院など申せどもわがまゝにせさせ給ふ事は有り難きに、並ぶ人もおはしまさず。八卷のみのりをうかべさせ給ひて、さまざま勤め行はせ給ふなれば、昔の契りにおはしますなるべし。千體の千手觀音の御堂たてさせ給ひて、天龍八部衆などいきてはたらかすといふばかりこそは侍るなれ。鳥羽の院の千體の觀音だにこそ、ありがたく聞こえ侍りしに、千手の御堂こそ、おぼろげの事とも聞こえ侍らね。熊野をさへうつして、都につくらせ給へらむこそ、遠くまゐらぬ人のためも、いかにめづらしく侍らむ。比叡などをもいはひすゑたてまつらせ給へらむ、神佛の御事、かたがたおこしたてまつらせ給へる、かしこき御心ざしなるべし。みくま野まうで、年每にせさせ給ひ、ひえの山、高野などきこえ侍り。然るべき御ちぎりなるべし。今は御ぐしおろして、法皇と申すなれば、いかばかり尊くおはしますらむ。御子たちも、おのおの道にとりて、ざえおはしますこときこえさせ給へるこそ、たれも知らせ給へることなれば、何とかはさのみ申し侍るべきな。されども事のつゞきを申し侍りつるなり。

     をとめの姿

二條のみかどゝ申すは、此の院の一の御子におはしましき。此のをさなくおはします新院の御おやにおはします。其の御母右大臣有仁のおとゞの御むすめ、誠の御親は、經實の大納言におはす。このみかど、東宮にたゝせ給ひて、保元三年八月十一日、位につかせ給ひき。御年十六とぞ承はりし。十二月二十日御即位ありて、年もかへりにしかば、正月三日、朝覲のみゆきとて、院へ行幸せさせたまふ。二十一日、ことしも內宴ありて、上達部七人、四位五位十一人、ふみ作りてまゐると聞こえ侍りき。序は永範の式部大輔ぞかゝるゝとうけたまはりし。題は花下歌舞を催すとかや。法性寺のおとゞ奉りたまへりとぞ聞こえ侍りし。舞姬ことしはうるはしき女舞にて、日ごろよりならはされけるとぞ、聞こえ侍りし。通憲の大德、樂のみちをさへ好みしりて、さもありぬべき女ども習はしつゝ、神の社などにもまゐりて、舞ひあへりと聞き侍りしに、ゆかしく見ばやと思ひはべりしかど、おいのくちをしき事は、心にもえまかせ侍らで、さる所どもにえまゐりあはで、見はべらざりき。此の御中には定めて御覽ぜさせ給ひけむかし。かの入道事にあひ、世にあさましき事ども出でまうできてぞ、內宴もたゞ二年ばかりにて行はれぬ事になりて侍るにこそ。其の事のとがにや侍らむ。猶もあらまほしき事なれど且はしたつる人もかたく、久しく絕えたる事を行はれて、世のさわぎも出できにしかば、時におはぬ事とてはべらぬにや。春のはじめに詩作りて、上達部より下ざま、たてまつる事、かしこき御時、もはらあるべき事なり。さる事もはべらば猶いみじかるべし。二月廿四日、きさき立ち給ひき。鳥羽院の姬宮にて、高松院、東宮の御時より女御におはしましゝ、中宮に立ち給ひて、もとの中宮は院のきさき、公能右大臣の御むすめ、皇后宮にあがり給ふ。ことしぞ大甞會ときこえ侍る。御かたがた侍ひあはせ給へりしも、皆まかりいでさせ給ひにき。此の御時は、いまだ御かたがたも、おはしまさぬ程なれば、上は淸凉殿ばかりに、常のやうにおはしまして、藤壺には、中宮ぞおはしましける。殿の御とのゐ所は、猶宣耀殿なり。いづくも廣らかにていとめでたく聞こえ侍りしにその年のしはすに、あさましきみだれ都の內に出できにしかば、世もかはりたるやうにて少納言の大德もはかなくなり、めでたく聞えし上達部、このゑのすけなどきこえし子ども、あるは流され、あるは法師になりなどしていとあさましき頃なり。信賴の右衞門の督と申しゝは、かの大德が中あしくてかゝるあさましさを、しいだせるなりけり。御おぼえの人にて、いかなるつかさもならむと思ふに、入道諫むるをいぶせく思ひて、軍を起したりけるを、大とこさとりて、行くかた知らずなりにけるに、彼のみかきもりも、その報いに、思はぬかばねになむなりにける。いとあさましとも、詞も及ばぬ事なるべし。

     ひなの別れ

彼の通憲の大とこのゆかり、浦々に流されたる、皆召しかへして、世みな靜まりたれば、內の御まつりごとのまゝなりしに、みかどの御母方、又御めのとなどいひて、大納言經宗、別當惟方などいふ人ふたり、世を靡かせりしほどに、院の御ため、御心にたがひて、あまりの事どもやありけむ。ふたりながら內に侍ひける夜、あさましき事どもありて、おもひたゞしきさまに聞こえけるを、法性寺のおほき大臣の、せちに申しやはらげ給ひて、おのおの流されにき。此のころは召し返されて、大臣の大將までなりたまへるとこそうけたまはれ。さまであやまたずおはしけるにや。宰相は憂きめ見たりとて、かしらおろされにけり。それも歸りのぼりておはするとかや。鳥羽の院うせさせ給ひしほどに、世の亂れいできてより、かたがた流され給ひし人、たびたびに其の數おはしき。初めのたび、讃岐の院の御ゆかり、おほいどのがたなど、廿四五人ばかりやおはしけむ。四年ばかりありて、かの衞門督とかや聞こえし人の亂れに少納言の大とこの子ども八九人ばかり浦々へときこえ侍りき。事なほりしかば、その人々は召し返して、又の年の春、師仲の源中納言とかや、衞門の督に同じ心なるとて、あづまの方へおはすと聞き侍りき。しか有りし程に、その頃かの大納言、宰相とふたり阿波の國鳴〈長イ〉門の方などにおはしき。その年の六月にやありけむ。出雲守光保その子光宗などいひし源氏の武者なりし人、筑紫へつかはして、はてはいかになりにけるとかや。その人の女とかや、いもうとゝかやなる人の、鳥羽の院にときめく人にて、いとほしみの餘りにや。二條の院、東宮とておはしましゝ御めのとにて、位につかせたまひにしかば、內侍のすけなど聞こえき。そのゆかりにて、時にあへりしに、內の御方人どもの、かく事にあへりしかばにや、又源氏どもの然るべく失せむとてにやありけむ。又さばかりの少納言埋まれたる、索めいでたるにやよりけむ、かくぞなりにし。かやうにて今は何事かはとおぼえしに、かくおはしますべかりけるを、その折も又いかゞうたがはせ給ひけむ、皇子の御方人とおぼしき人、つかさのきなどして、又流させ給へりき。大かた六七年のほどに、三十餘人ちりぢりにおはせし、あさましく侍りき。輕きにしたがひて、やうやう召しかへされしに、惟方いつとなくおはせしかば、かしこより都へ、女房につけてときこえし、

  「このせにも沈むときけば淚がは流れしよりもぬるゝ袖かな」

とぞよまれ侍りける。此の兄に、大納言光賴ときこえ給こし、四十餘りにてかしらおろして、桂の里にこそ籠もりゐ給ふなれ。それはかやうの事に、かゝり給ふ事なく、何事もよき人ときゝたてまつりし、いとあはれにありがたき御心なるべし。又右兵衞の督成範ときこえし、紀の二位のはらにて、その折は、播磨の中將、弟の美濃の少將などきこえし、衞門の督のみだれに、ちりぢりにおはせし時、中將下野へおはして、かしこにてよみ給ひける、

  「わがためにありけるものを下野や室の八島にたえぬ思ひは」

とかや。ひが事どもや侍らむ。

     花園のにほひ

そのみかどの御母、生みおき奉り給ひて、うせ給ひにしより、鳥羽の女院養ひたてまつり給ひて、幼くおはしましゝ時は、仁和寺におはしまして、五の宮の御弟子にて、俱舍頌など、さとく讀ませ給ひて、ぢくぢく讀みつくさせ給ひて、そのこゝろ說きあらはせるふみどもをさへ、傳へうけさせたまひて、智惠深くおはしましけり。院位に即かせ給ひしかば、當今の一の宮にておはしますうへに、美福門院の御養ひ子にて、近衞のみかどの御代りともおぼしめして、この宮に位をも讓らせ給へらむと計らはせ給ひければ、都へかへり出でさせ給ひて、みこの宮、たからのくらゐなど、傳へさせ給へりき。すゑの世の賢王におはしますとこそ、承はりしか。御心ばへも深くおはしまし動かしがたくなむおはしましける。廿三におはしましゝ御年、御病重くて、若宮にゆづり申させ給ひて、幾ばくもおはしまさゞりき。よき人は、時世にもあはせ給はで、久しくもおはしまさゞりけるにや、末の世、いとくちをしく、みかどの御位は限りある事なれど、あまり世を疾く受け取りておはしましけるにや、又太上天皇朝にのぞませ給ふ常の事なるに、御心にもかなはせ給はず、世のみだれ直させ給ふ程といひながら、あまりに侍りけるにや、よくおはしましゝみかどゝて、世も惜み奉るときこえ侍り。二條の院とぞ申すなる。古き后の御名なれど、をとこ女かはらせ給へればまがはせ給ふまじきなるべし。されど同じ御名は古くも侍らぬにや。此のみかどの御母は大納言經實の御むすめ、その御母、東宮大夫公實の御むすめなり。その大納言の中の君は、花園の右のおとゞの北のかたなれば、あねの姬君を子にして、院の今宮とておはしましゝに、たてまつられたりしなり。このみかど、生みおき奉りてうせ給ひにき。后の位贈られ給ひて、贈皇太后宮懿子と申すなるべし。御おやの按察大納言も、おほきおとゞおほき一つの位おくられ給へるとなむうけ給ばる。さる事やあらむとも知らで、うせ給ひにしかども、やんごとなき位そへられ給へり。御末の盛りなるべし。はかなくて、消えさせ給ひにし露の御命も、后贈られ給へば、いきて成り給へるも昔がたりになりぬれば、殘り給ふ御名は同じ事なるべし。彼の讓られておはしましゝみかどは、新院と申してまだ幼くて太上天皇とておはしますなり。二條の院の御子ふたりおはしますなる御中に、第二のみこにおはしますなるべし。御母ことごとに聞こえさせ給ひき。この帝の御母、德大寺の左大臣の御むすめと申すめりしも、うるはしき女御などに、參り給へるにはあらで、忍びて僅に參り給へるなるべし。さればたしかにもえ承り侍らず。帝尋ねいで奉りて後、中宮養ひ奉り給ひて、母后におはしますなり。永萬元年六月二十五日、位に即かせ給ふ。御とし二つ。世をたもたせ給ふ事三年にやおはしますらむ。一院おぼしめしおきつる事にて、東宮に位を讓り奉り給ひて、まだ幼くおはしますに、太上天皇と申すも、いとやんごとなし。御年二つにて、位につかせ給ふ事、これや初めにておはしますらむ。近衞の帝は、三つにて初めて即かせ給ふと申しゝも、はじめたる事とこそうけたまはりしか。多くは五つなどにてぞ即かせ給ふ。から國には一つなる例も、おはしましけりとか聞こえき。このみかどの御母、いまの中宮育子と申して、法性寺の入道前のおほきおとゞの御むすめに、おはします。前の上野のかみ源の顯俊のむすめの御腹となむ。みかどの誠の御母の事は、さきに申し侍りぬ。この中宮、二條のみかどおはしまさねども、今のこくもとて、猶內におはしませば、昔にかはれる事なくなむおはしましける。臨時の祭の四位の陪從に、淸輔ときこゆる人、催しいだされて、參られたりけるに、先帝の御時は雲の上人なりけれど、この世にはまだ殿上もせねば、たちやすらひて、北の陣の方にめぐりて、后の宮のおはします、御たちの局町など見るに、また殿上のかたざまへ參りて、遙かに見わたしなどしけるにも、昔にかはりたる事もなく、なれならひたりし人どもの見えければ、后の御方の人に物など申しけるついでに、檜扇の片つまを折りてかきつけて、ごたちの中に申しいれさせける、

  「むかし見し雲のかけはしかはらねど我が身一つのとだえなりけり」。

いとやさしく侍る事ときこえ侍りき。

     二葉の松

さて、後一條の院の御時より近きやうに侍れど、十代に御世餘らせ給ひけり。今は當今の御事申すもはゞかり多く侍れど、事つゞきにおはしませば、事新しく侍れど申すになむ。當帝は一院の御子、御母は皇后宮滋子ときこえさせ給ふ。贈左大臣平時信のおとゞの御女なり。みかど應保元年かのとの巳の年生まれさせ給ひて、仁安元年十月十日東宮にたゝせ給ふ。御とし五つ。みかどよりも、二年兄にておはします。あに東宮は三條の院の例なるべし。同三年二月十九日、位に即かせ給ふ。御年八つにおはします。同じみかどゝ申せども、世の中隔てある事もなく、一院あめの下知ろしめし、御母ぎさき、盛りにおはしませば、いとめでたき御榮えなるべし。然あれば、ふたばの松の千代の初め、いとめでたく傳へうけたまはり侍りき。御母ぎさき此のみかど生み奉り給ひて、五六年ばかりにや、女御ときこえさせ給ひて、仁安三年と申しゝやよひの頃、皇太后宮に立たせ給へり。今は女院と申すとぞ。いとめでたき御榮えにおはします。多くの女御きさきおはしますに、みかど生み奉り給へりける御すくせ、申すもおろかなり。先のみかどの御時も、この御世にも、御產の御祈りとのみ聞こえて、誠にはあらぬ事のみ聞こえ給ひしに、いとありがたく聞こえさせ給ふ。代々のみかどの御母、ふぢなみの御流におはしますに、堀河の帝の御母ぎさきも、關白の御むすめになりて、女御に參り給へれども、誠には源氏におはしませば、ひきかへたるやうに聞こえさせ給ひしに、いま又平の氏の國母、かく榮えさせ給ふうへに、同じ氏の、上達部、殿上人、近衞づかなど、多くきこえ給ふ。此の氏の然るべく榮え給ふ時のいたれるなるべし。平の氏のはじめは、一つにおはしましけれど、にきの家と、世の固めにおはする筋とは、久しくかはりて、かたがた聞こえ給ふを、いづ方も同じ御世に、みかど后おなじ氏に榮えさせ給ふめる。平野は、あまたの家の氏神にておはすなれど、御名もとりわきて、此の神垣の榮え給ふ時なるべし。このきさきの御母、顯賴の民部卿の御むすめにおはしますなるべし。醍醐の帝の御母方の家にておはしますのみにあらず、君に仕へ奉り給ふ家、かたがた然るべく、かさなり給へるなるべし。今の世の事はゆかしく侍るを、えうけたまはらで、おぼつかなき事多くはべり。


今鏡第四

    ふぢなみの上

     ふぢなみ

世繼は、入道おほきおとゞの御榮え申さむとて、その御事こまかに申したれば、その後より申すべけれど、水上あらはれぬは流れのおぼつかなければ、まづ入道おとゞの御ありさまおろおろ申し侍るべきなり。入道前の太政大臣道長のおとゞは、大入道殿の五郞、九條の右のおとゞの御孫なり。一條の院、三條の院、後一條の院、三代の關白に坐します。五十四の御年御ぐしおろさせ給ひて、萬壽四年十二月四日、六十二にてかくれさせ給ふ。をのこ君、女君、あまたおはしましき。女君、第一のは、上東門院と申して、後一條の院、後朱雀の院、二代のみかどの御母なり。次に第二の御むすめは、三條の院の中宮姸子と申しき。陽明門院の御母なり。第四は後一條の院の中宮威子と申す。二條の院と、後三條の院の皇后宮との御母なり。第六の君は後冷泉の院の御母內侍のかみ嬉子と申しき。これ皆鷹つかさ殿の御はらなり。男君だち、太郞は宇治のおほきおとゞ、次は二條殿、またおなじ御はらからなり。堀川の右のおとゞ、閑院の東宮大夫、無動寺のうまのかみ、三條の民部卿、この四ところは、高松の御はらの君だちなり。この御はらに、女君二所おはしき。ひとりは小一條の院とて、東宮より院にならせ給へりし、女御に參り給へりき。今ひとりは、土御門の右のおとゞの北の方なり。昔も今もかゝる御榮えはありがたきなるべし。

上東門院は、一條の院のきさき、二代のみかどの御母なり。御有樣さきにこまかに申し侍りぬ。次に姸子と申すは、女院とおなじ御はらからにおはします。寬弘元年十一月、內侍のかみになり給ひてやがて正四位の下せさせ給ふ。十二月に三位にあがらせ給ふ。七年正月に二位にのぼり給ひて、同年二月に、三條の院の東宮と申しゝ女御に參り給ふ。位に即かせ給ひて、寬弘八年八月に、女御の宣旨かうぶり給ふ。長和元年二月十四日、中宮にたち給ふ。みかど位さらせ給ひて、寬仁二年十月十六日、皇后宮にあがり給ふ。萬壽四年九月十四日、三十四にて御ぐしおろして、やがてその日かくれさせ給ひにき。枇杷殿の皇太后宮と申す。隆家の帥くだり給ひけるに、この宮より扇たまはすとて、

  「すゞしさはいきの松原まさるともそふる扇の風な忘れそ」。

この宮の御はらに、三條の院の姬宮おはします。その宮禎子の內親王と申して、治安三年一品の宮と申す。萬壽四年三月廿三日、後朱雀院の東宮と申しゝ時、參らせ給ひき。御年十五にぞおはしましゝ。みかど位につかせ給ひて、皇后宮にたゝせ給ふ。後にあらためて中宮と申しき。みかどの御ついでに且は申し侍りぬ。後三條の院の御母、陽明門院と申す、この御事なり。この女院の御はらに、女宮たちおはしましき。良子內親王とて、長元九年十一月二十八日、伊勢のいつきと聞こえさせ給へりし、一品にのぼらせ給へりき。次の姬宮は、娟子の內親王と申しき、長元九年霜月の頃、賀茂のいつきと聞こえしほどに、まかり出で給ひける後、天喜五年などにやありけむ、なが月の比いづこともなく失せ給ひにければ、宮の內の人いかにすべしともなくて明かし暮らしける程に、三條わたりなる所に住み給ふなりけり。はじめは人の扇にひと文字を男の書きたまへりけるを、女の書き添へさせ給へりければ、をとこ又見て、ひとつ添へ給ふに、たがひに添へたまひけるほどに、歌ひとつに、かきはてたまひけるより心通ひて夢かうゝつかなることもいできて心や合せ給へりけむ、負ひ出だしたてまつりて、やがてさて住み給ひけり。をとこ咎あるべしなどきこえけれど、人がらの品も、身の才などもおはして、世もゆるし聞こゆるばかりなりけるにや、もろともに心を合せ給へればにやありけむ、さてこそ住み給ひけれ。男その程は、宰相中將など申しけるとかや。後には右のおとゞまでなり給へりき。入道おとゞの第四の御むすめ、後一條の院の中宮威子と申しき。これも同じ御はら、鷹司殿の御むすめなり。寬弘九年に、內侍のかみになりたまひて、後一條の院くらゐの御時、女御に參り給ふ。寬仁二年十月に、きさきにたち給ふ。長元九年に、御ぐしおろさせ給ふ。同九月にかくれさせ給ひにき。みかどは四月にうせさせ給ひ、きさきは九月にかくれさせ給ひし、いと悲しかりし御事ぞかし。その御はてに、さはる事有りて、江侍從參らざりけるを、人の、「などまゐらざりしぞ」と申したりければ、

  「わが身には悲しき事のつきせねば昨日をはてと思はざりけり」

とぞ聞こえける。此の后の生みたてまつり給へる姬宮、章子內親王と申し、二條の院と申す。この御事なり。後冷泉の院東宮におはしましゝ時、まゐらせ給ひて、永承元年七月に、中宮にたゝせ給ふ。治曆四年四月に皇太后宮にあがらせ給ひき。內にまゐらせ給ひて、藤壺におはしましけるに、故中宮の、これにおはしましゝ事など、思ひいだして、出羽の辨が淚つゝみあへざりければ、大貳の三位、

  「しのびねの淚なかけそかくばかりせばしと思ふころのたもとに」

とよまれ侍りければ、出羽の辨、

  「春の日にかへらざりせばいにしへの袂ながらや朽ちはてなまし」

とぞかへし侍りける。

馨子の內親王と申すも、又同じ御はらにおはします。長元四年に賀茂のいつきにて、同九年に出でさせたまひて、永承六年十一月、後三條の院東宮におはしましゝ、女御に參らせたまひき。御とし廿三。承保〈延久イ〉元年六〈七イ〉月廿二〈三イ〉日、皇后宮にたち給ふ。延久五年四月廿一日、御ぐしおろさせ給ひき。院の御ぐしおろさせ給ひし同じ日、やがて同じやうにならせ給ひし、いとあはれに、契り申させ給ひける御すぐせなり。后の位はもとにかはらせ給はず。入道殿の第六の君は、後冷泉の院の御母におはします。みかどの御ついでに申し侍りぬ。

     梅のにほひ

關白前の太政大臣賴通のおとゞは、法成寺入道おほきおとゞの太郞におはします。御母、宮たちに同じ。從一位源の倫子と申す。一條の右大臣雅信のおとゞの御むすめなり。鷹司殿と申す。この宇治のおほきおとゞ、大臣の位にて五十六年までおはしましき。後一條の院の御をぢにて御年廿六にて、寬仁元年三月十六日攝政にならせたまふ。其の十九日牛車の宣旨かうぶらせ給ひて、やがてその廿二日、大臣三人のかみにつかせ給ふ宣旨かうぶり給ふ。帝おとなにならせ給ひぬれば、關白と申しき。後朱雀の院位につかせ給ふにも、猶御をぢにて長元九年四月廿九日、さらに關白せさせ給ふ。その後、太政大臣にならせ給ふ。御とし七十一とぞきこえ給ひし。治曆三年七〈十イ〉月七〈十イ〉日宇治院の平等に行幸ありて准三后の宣旨かうぶり給ふ。むかしの白河のおとゞの如くに、內舍人なども御隨身にたまはらせ給ひき。關白は讓り給ひて、のかせ給へれど、內覽の職事まゐり、物申すこと同じことなりき。後三條の院くらゐに即かせ給ひてぞ、年ごろの御心よからぬ事どもにて、宇治にこもりゐさせ給ひて延久四年正月二十九日御ぐしおろさせ給ひて、同六年二月二日八十三にてうせ給ひにき。この大臣、歌などもよくよませ給ひしにこそ侍るめれ。その中に堀川の右のおとゞに、梅の花をりて奉り給ふとて、

  「折られけりくれなゐ匂ふ梅の花けさ白妙に雪はふれゝど」

とよませたまひたる、いとやさしく末の世まで、とゞまり侍るめり。この大臣の御子、太郞にて右大將通房と申しゝ、十八にてうせ給ひにき。御母右兵衞督憲定の女なり。まうけの關白、一の人の太郞君にて、あへなくなり給ひにしかば、世もくれふたがりたるけしきなりしぞかし。としもまだ二十にだにならせ給はぬに、和歌などをかしくよませ給ひけるさへ、いとあはれに思ひ出でられさせ給ふ。「一夜ばかりを七夕の」などよませ給ひたる、後拾遺にいりて侍るめり。

     伏見の雪のあした

大將殿の外の君たちは、おほとのゝひとつ御はらにおはしましき。おほ殿の御末こそは、一の人つがせ給ふめれ。その御報に押されて、大將殿もとくかくれ給ひけるにこそ。女君は後朱雀の院の中宮に、奉り給へりしは、誠の御子にはおはしまさで、式部卿の宮の御子なりしに、誠の御むすめは四條の宮と申しき。大將殿のひとつ御腹なり。伏見の修理のかみ、俊綱ときこえし人も、ひとつ御はらにおはしき。其の御母は贈二位讃岐守俊遠と、あひぐし給へりければ、俊綱の君、御子にておはしけれど、けざやかならぬ程なりければにや、猶俊遠のぬしの子の定にて、橘の俊綱とてぞおはせし。後になほ殿の御子とて、藤原になり給ひき。直衣など着られけるをも橘直衣とぞ人は申しける。まめやかになりて後、大殿、宇治の大僧正、四條の宮などは、おなじ御はらなれど、修理のかみは、下﨟にてやみ給ひにしぞかし。上達部にだにえなられざりける、猶世のあがりたるにや。からくやおぼしけむとぞおぼえはべりし。されども近江守有佐といひし人は、後三條の院の誠には御子と聞こえしかど、證岐守顯綱の子にてこそやまれにしか。有佐といふ名もみかどの御手にて扇にかゝせたまひて、母の侍從內侍に賜へりける。堀河の右のおとゞは中務の少輔有佐が道にあひておりて居たりつるこそ、いとほしく覺えつれ。院にたがはず似奉りたるさまなど有りけりと聞こえしかど〈ばイ〉、それはさてこそやまれにしか。此のすりのかみは、橘をかへられしかば、なほ關白の御子なるべし。この修理のかみの、昔尾張の國に俊綱といひけるひじりにておはしけるを、熱田の社のつかさの、ないがしろなることの有りければ、生まれかはりて、その國の守になりて、かの國に下るまゝに、熱田にまうでゝ、その大宮司とかを、かなしく、せためられなどしければ、「過ちなき者をかくつかまつるよ」と神に申しける夢に、昔すんがうといひて有りしひじりの法施を年ごろえさせざりしかば、いかにもえ答むまじきとぞ見たりける。然ならむために、國の司のしなに生まれたまひけるにこそ。さすが昔の行ひの力に關白の御子にてもおはするなるべし。「われも昔その物をさめたりき」などいひて、鏡とりいださせなどせられける、たゞ人にはおはせざるべし。大殿の伏見へおはしましたりけるも、すゞろなる所へはおはしますまじきに、雪のふりたりけるつとめて、俊綱がいたく伏見ふけらかすに、俄に行きて見むとて、播磨守師信といふ人ばかり御供にて、俄にわたらせ給ひたりければ、思ひもよらぬことにて、門を叩きけれど、むごにあけざりければ、人々いかにと思ひけり。かばかりの雪のあしたに、さらぬ人の家ならむにてだに、かやうの折節などは、その用意あるべきに、いはむや殿の渡り給へるに、かたがた思はずに思へるに、あけたる者に、おそくあけたるよし、かうづ〈かぶつイ〉ありければ「雪を踏み侍らじとて山をめぐりはべる」と申しければ、元よりあけ設け、又とりあへず急ぎあけたらむよりも、ねんに興あるよし人々いひけるとか。修理のかみさわぎいで雪御覽じて、御物語などせさせ給ふほどに、師信「かくわたらせ給ひたるに、いで然るべきあるじなどつかまつれ」と催しければ、俊綱「今贄殿參り侍りなむ」と申しければ「人にも知られでわたらせ給ひたれば、贄殿まゐることあるまじ。日もやうやうたけて、いかでか、御設けなくてあらむ」といひければ、殿笑はせ給ひて、たゞ「せめよ」など仰せられける程に、家の司なるあきまさといひて、光俊有重などいふ學生の親なりしをのこ、けしき聞えければ、修理のかみたちいでゝかへり參りて、あるじして、きこしめさすべきやう侍らざるなり。御臺などの新しきも、かく御覽ずる山のあなたの庫におきこめて侍れば、便なくとりいづべきやう侍らず。あらはに侍るは皆人の用ひたるよし申しければ「何の憚りかあらむ。たゞ取り出だせ」と仰せられければ「さば」とて立ち出でゝ、取り出だされけるに、色々の狩裝束したる、伏見さぶらひ十人、いろいろのあこめに、いひしらぬ染めまぜしたるかたびら、くゝりかけ、とぢなどしたる雜仕十人ひきつれて、倉のかぎ持ちたるをのこ、先にたちてわたる程に、雪にはえて、わざとかねてしたるやうなりけり。さきに跡ふみつけたるを、しりにつゞきたる男女同じあとをふみてゆきけり。かへさには、御臺高坏しろがねの銚子など、一つづゝさげて持ちたるは、このたびはしりにたちてかへりぬ。かゝる程に上達部殿上人、藏人所の家司、職事御隨身など、さまざまに參りこみたりけるに、この里かの里所々にいひしらぬ供へども目もあやなりけり。師信「いかにかくは俄にせられ侍るぞ。かねて夢など見侍りけるか」など戯ぶれ申しければ、俊綱の君は「いかでかゝる山里にかやうの事侍らむ。用意なくては侍るべき」などぞ申されける。伏見にては、時の歌よみどもつどへて、和歌の會たゆるよなかりけり。伏見の會とて、幾らともなく積もりてなむあなる。「音羽の山のけさはかすめる」などよまれたる、いというに侍るかし。かやうに、もてけうぜらるゝあまりにふけらかし參らせられけるにこそ。四條の宮の女房、あまたあそびて、暮れぬさきにかへり給ひければ、修理のかみ、

  「都人くるればかへる今よりはふしみの里の名をもたのまじ」

となむよみ給ひける。白河の院、「一におもしろき所は、いづこかある」と問はせ給ひければ「一には石田こそ侍れ」、「次には」と仰せられければ「高陽の院ぞ候ふらむ」と申すに「第三に鳥羽ありなむや」と仰せられければ、「鳥羽殿は君のかくしなさせ給ひたればこそ侍れ。地形眺望など、いとなき所なり。第三には、俊綱が伏見候ふらむ」とぞ申されける。こと人ならばいと申しにくきことなりかし。高陽の院にはあらで、平等院と申す人もあり。伏見には、山みちをつくりて、然るべき折ふしには、たび人をしたてゝ、とほされければ、さる面白きことなかりけり。大僧正まだ若くおはしける時、御母贈二位の、宇治殿に、「僧都の、御房のまだ我が房も持たせ給はで、あひずみにておはしますなるに、房をさたして、たてまつらせ給へかし」と申されければ、泰憲の民部卿、近江守なりけるが、參りたりけるに、「こゝなる小僧の、房を持たざるに、草庵ひとつむすびて、とらせられなむや」と仰せられければ「作り侍らむ、いとやすきことに侍り。泰憲がたちに仕うまつる、石田と申す家こそ、寺も近くて、おはしまさむにも、つれづれなぐさみぬべき所はさぶらへ。堂なども侍りて見よき所なり」と申しければ、殿は「ゆゝしき報ありける小僧かな。それはこよなきことにこそあらめ」とて、すゑたてまつり給へりけるとぞ。泰憲の民部卿は、おほとのゝ中將など申して、いはけなくおはしけるに、大將殿などまだ世におはしける程は、殿も人もおもりかに思ひたてまつらるゝこともなかりける折、名簿をとりいだして、手うつしにたてまつりて、「泰憲が名簿えさせ給へらむは、さりともよしあるべき事なり。思ふやうありて、たてまつるなり」と申しければ、字治にまゐらせ給ひて、かくこそ仕うまつりたれ」と申させ給ひけるにこそ、おぼえはつかせ給ひけれとぞきゝ侍りし。誠にやはべりけむ。

     雲のかへし

宇治のおほきおとゞの御むすめは、大殿の一つ御はらにて、四條の宮になむおはしましける。そのさきに、式部卿のみこの女君を子にしたてまつりて、後朱雀の院の御時たてまつらせ給へりしは、弘徽殿の中宮嫄子と申しき。その御事はさきに申し侍りぬ。いつしか、みやみや生みたてまつりて、あへなくかくれさせ給ひにし、いと悲しく侍りしことぞかし。誠の御むすめならねども、いかにくちをしくおぼしめされけむ。秋のあはれいかばかりかはかなしく侍りし。この中宮の生みたてまつり給へる姬宮は、祐子の內親王と申しき。長曆二年四月二十一日生まれたまふ。長久元年裳着し給ひき。延久四年御ぐしおろし給ふ。後に二品の宮と申しき。この宮の歌合に、宇治のおほきおとゞの御うた、

  「有明の月だにあれやほとゝぎすたゞひと聲のゆくかたも見む」

とよみたまへるなり。大貳三位、

  「秋ぎりの晴れせぬみねにたつ鹿は聲ばかりこそ人に知らるれ」

とぞよめりける。又禖子の內親王と申すこそは、この中宮生みおき給へる宮におはしませ。寬德三年三月、賀茂のいつきと申しき。天喜六年御なやみによりて、いで給ふ。美作の御が「ありし昔の同じ聲かと」とよめるは、この宮のいつきのころ侍りて、思ひいだして侍りけるになむ。この宮いつきと聞こえける比、本院の朝顏を見給ひて、

  「神がきにかゝるとならばあさがほのゆふかくるまで匂はざらめや」

と侍るもいとやさしく、宇治殿の誠の御むすめ、四條のみやにおはします。後冷泉の院の中宮寬子と申す。永承元年內へまゐり給ひて、同六年皇后宮に立ち給ふ。御年十六。治曆四年四月に中宮と申す。同十二月に御ぐしおろさせ給ふ。御とし三十二。天喜四年皇后宮にて歌合せさせ給ふに、堀川の右のおとゞ「雲のかへしの嵐もぞ吹く」などよみ給ふ此のたびなり。また御身にも得させ給へりける道にこそ侍るめれ。女房の參らむと申しけるほどに、身まかりけるを聞かせ給ひて、

  「くやしくぞ聞きならしけるなべて世の哀とばかりいはましものを」

とよませたまひけむ、いとなさけ多くなむ。宇治殿のかぎりにおはしましけるに、おほ殿の「おぼしめさむ事、仰せられおかせ給へ」と申させ給ひければ「宇治と宮と」とぞ、仰せられける。宇治とは平等院の御堂の事、宮とは四條の宮の御事なり。「かくて候はむずれば御堂の事、宮の御事は、おぼつかなく思しめすこと、つゆ侍るまじきなり」とぞよく申させ給ひけるとなむ。

     白川のわたり

鷹司殿の御はらの、第二の御子にては、大二條殿とておはしましゝ、關白太政大臣敎通のおとゞと申しき。御堂の君たちの御中には、第三郞にやおはしけむかし。さはあれども、宇治殿のつぎに、關白もせさせ給ふ。第二の御子にてぞおはしましゝ。大臣の位にて五十五年おはしましき。治曆四年四月十七日、後冷泉の院の御時、兄の宇治殿の御ゆづりによりて、關白にならせ給ひき。七十三の御年にやありけむ。みかど程なくかはりゐさせ給ひて、後三條の院の代のはじめの關白、やがて同月の十九日に、更にならせ給ひき。延久二年三月に、太政大臣にのぼらせ給ふ。承保二年九月廿五日にぞ、うせさせ給ひにし。御年八十。兄の宇治殿は申すべきならず。このおとゞも、世おぼえなど、とりどりになむおはしましゝ。女御きさきなど、たびたびたてまつらせ給ふ。家の賞かぶり給ふ事もたびたびにて、御ひきいで物、御馬などたてまつり給ふ。公達など加階せさせたまひて、もとより一の人にも劣らずなむおはしましゝ。御後見にて但馬守能通といふが、はかばかしきにてうしろ見たてまつりければ、御家のうちも、いと心にくきことおほかりけり。いつの事に侍りけるにかや。おほみあそびに、冬の束帶に半臂をきさせ給へりけるを、肩ぬがせ給ふとき、宇治殿よりはじめて、下がさねのみ白く見えけるに、この大臣ひとりは半臂を著給へりければ、御日記に侍るなるは、「予ひとり半臂の衣をきたり。衆人耻ぢたる色あり」とぞ侍るなる。かやうなることもぞ多く侍りける。能通のぬし、宇治殿にまゐりて、御前に召されて、參るとて、しやく持ちて參らむとて、藏人所の御厨子さぐりて、「しやくも置かれぬみづしかな。衣冠にておまへに參るものは、とりてこそ參ることにてあるに」とつぶやきければ、殿きかせ給ひて「かく常に耻ぢしめらるゝ」などぞ仰せられける。しやくは、束帶にてぞ持つ事にて侍るを、殿居裝束にも、事にしたがひ、人によるべきにや。檢非違使などは、常に持ち侍るめり。又高光とかきこえし人、誰れにあひ奉りたりけるとかや、車よりおりて、懷紙をたかくたゝみなして、笏になしてなむとれりけるとぞ、聞き侍りし。束帶にも、上達部はなちては、殿上には持ちてのぼり給はぬとかや。大宮の右のおとゞ、經輔の大納言、藏人の頭にていさかひ給ひける時、笏してうち給ひたりけるより、とゞめられ侍りとぞきゝ侍りし。御座のおほひ掛くなる棹は、とりはなちに侍りけるを、鳥羽の院の位の御時にや、殿上人のいさかひ給ひて、其の棹をぬきて打たむとし給ひけるより、うちつけられたるとなむ聞こえ侍る。もとなき事も、かゝるためしに始まれるなるべし。その御座と申すは御倚子とて、殿上のおくの座のかみに、たてられ侍るなり。紫檀にて作られて侍るなるを、むかし宇多の帝、まだ殿上人におはしまして、業平の中將とすまひとらせ給ひて、勾欄うち折らせ給ひけるを、代々さてのみ折れながらこそ侍るなるに、近き御世に筑紫の肥後守になれりける、何某とかやいふ人、藏人なりける時、紫檀のきれ、とのに申して、そのかうらんの折れたる、つくろはむなどせられけるこそ、をこの事に侍りけれ。かの能通のぬしの、しかありける末なればにや、通憲といひし少納言の大とこも、近くはいみじくこそ、世の中したゝむめりしか。このおとゞ右衞門の督など申しけるほどにや、白川に、花見にわたり給ふとて、小式部の內侍に、かくと仰せられければ、

  「春のこぬところはなきを白川のわたりにのみやはなは咲くらむ」

と申したりけるこそ、いとやさしくとゞまりて見え侍れ。和泉式部とかきたるも侍れば、母のよみて侍るにや。

     はちすの露

四條の大納言のむすめの御はらに、御子ども多くおはしましき。太郞にては、山の井の大納言信家の君おはしましき。いとよき人におはしましき。宇治殿は「山の井ばかりの子をえもたぬ」とぞ仰せられける。いかばかりおはしましけるにか。何ごとにか侍りけむ、字治殿の御許におはしけるに、わさとすゑまさむとおぼして、見かへりて、久しくものし給ひけるにも、遂に居給はざりけるとかやぞ聞こえ侍りし。いと末おはせぬに、土御門の右のおとゞのひめぎみをぞ養ひ子にて、大殿の北のまんどころと申しゝ。二條殿の次の御子は、三位侍從信基とておはしましき。又九條の太政のおとゞ、信長とておはせし、それもはかばかしき末もおはせぬなるべし。木幡の僧正、なが谷の法印などいふ僧きんだちおはしましき。僧正は小式部の內侍のはらなればにや、歌よみにてこそおはすめりしか。「粟津野のすぐろのすゝきつのぐめば」などいふ歌、撰集にも見え侍るめり。うせ給ひて後も、上東門院の御夢に御覽じける、僧正の御うた、

  「あだにして消えぬる身とや思ふらむはちすの上の露ぞわが身は」

とはべりける、淨土に往生し給ふにや。いとたふとき御歌なるべし。法印は兄たちの、同じはらにおはすべし。

     小野のみゆき

大二條殿の女君は、後朱雀の院の女御におはせし。院うせさせ給ひて、七八年ばかりやありけむ、御ぐしおろし給ひて、十餘年ばかりすぎて、うせ給ひにき。長久二年に歌合せさせ給へりしに、良暹法師の人にかはりて、

  「みがくれてすだくかはづのもろ聲にさわぎぞ渡るゐでのうき草」

とよめる、この歌合のうたなり。兼長の君は、「おのが影をや友と見るらむ」とよみ、永成法師は、「いのちはことの數ならず」とよめる、かやうのよき歌ども多く侍り。天喜元年御ぐしおろし給ひて、治曆四年にぞ失せさせ給ひにし。弘徽殿の女御と申しき。おなじ御時、內侍のかみ眞子と申しゝも世に久しくおはしき。第二の御むすめにやおはしけむ。三の君は後冷泉の院の女御に參りて、きさきに立ち給ひて、皇后宮と申しき。のちに皇太后宮にあがりて、承保元年の秋、御ぐしおろし給ひてき。猶きさきの位にて、比叡の山のふもと、小野といふ里に籠もりゐさせ給ひて、都の外に行ひすまし給へりき。雪おもしろく積もりたるあしたに、白河の院にみゆきなどもやあらむと思ひて、ある殿上人、馬ひかせて參り給へりけるに、院「いと面白き雪かな」と仰せられて、雪御覽ぜむとおぼしめしたりけるに、馬ぐして參りたる、いみじく感ぜさせ給ひて、御隨身のまゐりたりける、獨り御供にて、俄に御幸有りけるに、北山のかたざまに、わたらせ給ひければ、その御隨身、ふと思ひよりて、もし小野のきさきの、山ずみし給ふなどへや、わたらせ給はむずらむと思ひて、かの宮にまうで仕うまつるものにや侍りけむ、俄にしのびて「みゆきのけさ侍る。そなたざまに渡らせ給ふ。もしその御わたりなどへや、侍らむずらむ」と吿げきこえければ、かの入道の宮、その御用意ありて、法花堂に三昧經しづやかに讀ませさせ給ひて、庭の上いさゝか人のあとふみなどもせず。うちいで十具ばかり有りけるを、中よりきりて、袖廿出ださむ用意ありけるを、「もし入りて御覽ずることも侍らむ。いと見苦しくや」と女房申しけれど、きりて出だし給ひけるに、既にわたらせたまひて、階かくしの間に、御車たてさせ給ひて、かくとや侍りけむ。さやうに侍りける程に、かざみ着たるわらは二人、ひとりはしろがねの銚子に、みき入れてもて參り、いま一人はしろがねの折敷に、こがねの盃すゑて、大柑子御さかなにて、出だし給へりければ、御ともの殿上人、とりて參りて、いとめづらしき御用意に侍りけり。かへらせ給ひてのち、「かしこく內を御覽ぜで、かへらせ給ひぬ」など、御たち申しければ「雪見に渡り給ひて、いり給ふ人やはある」とぞのたまはせける。月を雪ともきこえ侍り。さて院より御使ありて、「いと心ぐるしく、おもひやりたてまつるに、うちいでなどこそ用意して、有りがたく持たせ給へりけれ」とて、美のゝ國とかや、御庄の券奉らせ給へりければ、まゐりつかうまつるをとこ女これかれ望みけれど、御幸吿げきこえける隨身に、預けたまひけるとぞ聞き侍りし。その舍人の名は、信定とかや。殿上人は何某の辨とかや。たしかにも聞き侍らざりき。その小野の寺などは、猶殘りて三昧行ふ僧も、まだかすかに侍るなり。后まだおはしましける折、夕立のそら物おそろしく、鳴る神おどろおどろしかりけるに、御經よみてゐさせ給へりけるを、神落ちて御經なども紙の所ばかり燒けて、文字はのこり、御身には露の事もおはしまさゞりける、いとたふとく、あさましき事とぞ聞き侍りし。うせ給ひけるときも、いとたふとくて、淨土にまゐり給ふとぞ申し侍りし。大二條殿の君たちかくなり。

     うすはなざくら

昔は世もあがりて、うちつゞきすぐれ給へるは申すべきならず。又とりわきたる御能などは次のことにて、近き世の關白には、大殿とてをぢの大二條殿のつぎに、一の人におはしましゝこそ、御みめも善く、御心ばへも末榮えさせ給ふ事も、優れておはしましゝか。その御名は、師實とぞ聞こえさせ給ひし。宇治のおほきおとゞの、第二の御子におはしましき。御母贈從二位藤原の祇子と申しき。四條の宮と一つ御はらなり。大臣の位にて四十二年おはしましき。承保二年九月、內覽の宣旨かうぶり給ひて、十月三日氏の長者にならせ給ふ。十五日に關白にならせ給ひき。御とし三十四。白河の院の御時なり。大將はのかせたまひて、御隨身なほ賜はらせたまひて、牛車の宣旨かうぶらせ給ふ。承曆四年十月に、太政大臣の上につらなり給ふべき宣旨ありき。堀河の院くらゐに即かせ給ひし日、攝政にならせ給ふ。同四年內舍人隨身たまはり給ふ。寬治二年十二月に、太政大臣になり給ふ。同四年攝政の御名はかはりて、關白と申しゝかども、猶司召などのことは、同じことなりき。嘉保元年三月關白のかせ給ひても、御隨身はもとのやうにつがはせ給ひき。同三年正月なかのへの手車の宣旨ありき。康和三年正月廿九日、御ぐしおろさせ給ふ。二月十三日、宇治にて、うせさせ給ふ。御年六十におはしましき。大殿と申し、又後の宇治の入道殿とも、又京極殿とも申すなるべし。寬治八年高陽院にて歌合せさせ給ひし時の歌よみども、昔にも耻ぢぬ御あそびなるべし。筑前の御の、うすはなざくらの歌、匡房の中納言の、「白雲とみゆるにしるし」といふ歌にまけ侍りしを、殿より、

  「しら雲はたちかくせども〈へだつれどイ〉くれなゐのうす花櫻心にぞしむ」

と仰せられたりしかば、筑前の御の御返したてまつるに、

  「しら雲はさもたゝばたてくれなゐの今一しほを君しそむれば」

と申したりし、いとやさしくこそ侍りしか。御心ばへなどのなつかしく、おはしましけるにこそ。御物御覽ぜさせ給ひけるに、盛長淡路守といひしを、殊の外にはめさせ給ひけるほどに、信濃守行綱も、心には劣らず思ひて、羨ましく、ねたく思ひけるに、御足すまさせ給ひけるに、つみ奉るやうにたびたびしければ、「いかにかくは」と仰せられければ「鞠も見しらぬはぎの」といひつゝ、洗ひ參らするを、「行綱もよし」とぞ仰せられける。御かへりごとに、こそこそと撫で奉りける、もとのさるがうなれども、ものこちなきしうには、さもえまさじかしと覺えて。また盛長のぬし、花ざかりに、鞠もたせて、かゝりへまかりけるに、行綱さそひにやりたりければ、「御物忌にこもりて、人もなければ、けふはえ參らじ」と返事しけるをきゝつけさせ給ひて、「たゞいけ」とて薄色の指貫のはりたる、香のそめ布など納殿よりとり出ださせて、俄に縫はせて、御鞠、花の枝につけて、みまやの御馬にうつし置きて、出だしたてゝつかはしければ、けふこそ此のついでに、女に見えめとおもひて、日ごろはあはぬ女の家のさじきに馬うちよせて、かたらふほどに、御馬にはかにはねおとして、まへのほりけにうちいれてけり。かしらくだりのこる所なく、土かたに浴みたりけるを、女、家にいれてあらひあげて、いとほしさにこそあひにけれ。御馬走りてみまやに立ちにけり。あやしく聞こしめしけるほどに、ゐかひ追ひつきて、かくと申しければ、いかにあさましく、をかしくおぼしめしけむ。さてしばしはえさし出でもせざりけるとぞ聞こえ侍りし。

     波の上のさかづき

この大殿の末、廣くおはしますさまは、をのこ公だち、よに知らず多くおはしまして、をとこ僧も、あまたおはしますに、御むすめぞおはしまさぬ。六條の右のおとゞの御むすめを、殿の御子とて、白河の院の東宮と申しゝ時より、御息所にたてまつり給へりし、賢子の中宮とて、堀河の院の御母なり。宮々おほく生み奉り給へりき。その御事はみかどの御ついでに申し侍りぬ。さて一の人つがせ給ふ。太郞におはしましゝ、後の二條の關白おとゞの御流れこそ、いまもつがせ給ふめれ。その御名は關白內大臣師通と申しき。御母は土御門の右のおとゞ師房と申しゝ御むすめを、山の井の大納言信家と申しゝが子にしたてまつりたまへりし御腹なり。永保三年正月廿六日、內大臣になりたまふ。御年廿一。嘉保元年三月九日關白にならせ給ふ。御年卅三。その三年正月、從一位にのぼらせ給ふ。右大臣の上につらなるべき宣旨かうぶり給ふ。承德三年六月廿八日、御年三十八にて、うせさせ給ひにき。大臣の位にて十七年おはしましき。このおとゞ、御心ばへたけく、すがたも御能も、すぐれてなむおはしましける。御即位などにや侍りけむ、匡房の中納言、この殿の御有樣を、ほめたてまつりて、「あはれこれを、もろこしの人に見せはべらばや。一の人とてさし出だし奉りたらむに、いかにほめ聞こえむ」などぞ、まのあたり申しける。玄上といふ琵琶をひき給ひければ、おほきなる琵琶の、ちりばかりにぞ見え侍りける。手などもよくかゝせ給ひけり。うまごの殿などばかりは、おはしまさずやあらむ。手かきにおはしましきとぞ、定信の君は人に語られける。三月三日曲水の宴といふ事、六條殿にて、この殿せさせ給ふと聞こえ侍りき。から人のみぎはになみ居て、鸚鵡の盃うかべて、桃の花の宴とてすることを、東三條にて、御堂のおとゞせさせ給ひき。その古き跡を尋ねさせ給ふなるべし。このたびの詩の序は孝言といひしぞかきけるときゝ侍りし。四十にだに足らせたまはぬを、然るべき御よはひなり。かぎりある御いのちと申しながら、御にきみのほど人の申し侍りしは、「常の事と申しながら、山の大衆の、おどろおどろしく申しけるもむづかしく、世の中心よからぬつもりにやありけむ」とも申し侍りき。

     宇治の川瀨

後の二條殿の御つぎには、近く富家殿とておはしましゝ、入道おとゞおほぢの大殿、御子にし參らせ給ふと聞こえ給ひき。御母は大宮の右のおとゞの御むすめなり。此のおとゞの御名は忠實とぞきこえ給ひし。康和元年閏九月廿八日、內覽の宣旨かうぶり給ひき。御とし廿二。同二年七月十七日、右大臣にならせたまひき。大將も猶かけさせ給へりき。天永三年十二月十四日、太政大臣になり給ひき。はじめは宇治の川瀨波しづかにて、白河の水へだてなくおはしましゝかば、富家殿つくり給ひて、院わたらせ給ひけるに、宇治川にあそびの船、歌うたひて、波に浮かびなどして、いと面白くあそばせ給ひける。盛定といひしをとこ、歌うたひ、その時こうたうなどいひし、船に乘り具して、うたつかうまつりけるとかや。其のたび人々に、歌よませさせ給はざりけるをぞ、くちをしくなど申す人もありける。かやうの所にわたらせ給ひて、何となき御あそびも、古き跡にも似ぬ御心なるべし。かやうにて過ぎさせ給ひしに、保安元年十一月十二日にやありけむ、夜をこめて院よりとて「堀川のおとゞ俄に參り給へ」と御使ありて、おとゞ內覽とゞむべきよしを、仰せ下し給ひけり。白河の院うせさせ給ひて、鳥羽の院世しらせ給ひし時にぞ、富家より出でさせ給ひし。待賢門院をさなくおはしましゝを、白河の院養ひ奉り給ひて、鳥羽の院くらゐにおはしましゝ、女御にたてまつり給ふほどに、入道おほきおとゞの御むすめ、女御に奉らむとせさせ給ふと聞こゆるによりて、關白うちとめ申させ給ふとぞ聞こえ侍りし。白河の院の御世に、きさき御息所などかくれさせ給ひて、さるかたがたもおはせざりしに、白川殿ときこえ給ふ人おはしましき。その人待賢門院をば養ひ奉り給ひて、院も御むすめとてもてなしきこえさせ給ひしなり。その白川殿あさましき御すぐせおはしける人なるべし。宣旨などは下されざりけれども、世の人は祇園の女御とぞ申すめりし。もとよりかの院の、うちの局わたりにおはしけるを、はつかに御覽じつけさせ給ひて三千の寵愛ひとりのみなりけり。たゞ人にはおはぜざるべし。賀茂の女御と世にはいひて、うれしき、いはひをとて、姉弟後につゞきて、聞こえしが、それは彼のやしろのつかさ、重助がむすめどもにて、女房に參りたりしかば、御目近かりしを、これは、はつかに御覽じつけられて、それがやうにはなくて、これは殊の外に、おもきさまに聞こえ給ひき。かの御さたにて、その女院もならびなくおはしましき。代々の國母にておはしましければ、ことわりとは申しながらいかばかりかは榮えさせ給ひし。をさなくては白河の院の御ふところに御足さしいれて、ひるも御殿ごもりたれば、殿など參らせ給ひたるにも、「こゝにすぢなきことの侍りて、えみづから申さず」などいらへてぞおはしましける。おとなにならせ給ひても、類ひなく聞こえ侍りき。白河の院かくれさせ給ひてこそほいの如く、殿の姬君たてまつり給ひて、女御の宣旨かうぶり給ふ。皇后宮にたち給ひてのちは、院號聞こえさせ給ひて、高陽の院と申しき。院の後まゐり給へるが、女御の宣旨は、これや始めて侍りけむ。后の宮のはじめつ方も、宇治の御幸ありて、皇后宮ひきつゞきていらせ給ひし、うるはしき行啓のやうには侍らで、皆狩衣にふりうなどして、女房の車いろいろに、もみぢの匂ひいだして、雜仕などもみな車にのりてなむ侍りし。さきざき白河の院の御時は、雜仕は皆馬にのりて、透笠たゞの笠などきて、いくらともなくこそつゞきて侍りしか。これ女車にて、これぞはじめて侍りし。后の宮には、冠にてこそ、常は人々侍ふを、これはほういになされてなむ侍りし。此の富家のおとゞは、御みめもふとり、淸らかに、御聲いとうつくしくて、年老いさせ給ふまで細く淸らかに坐しましき。朗詠などえならずせさせ給ふ。又箏の琴はすべて並びなく坐しましき。歌はさまでも聞こえさせ給はざりしに、宇治に籠りゐさせ給へりしときぞ、

  「さほ川の流れたえせぬ〈ひさしきイ〉身なれどもうき瀨にあひて沈みぬるかな」

とよませ給ひけるとかや。ふみのさたなどは、常にせさせ給ふとも聞こえざりしかども、天臺止觀とかいふふみをぞ、皇覺とかいひて、杉生の法橋といひしに、本書ばかりは傳へさせ給ひてけり。日每に參りて侍ひければ、まぎらはしき日も、よふけてなど思ひ出ださせ給ひつゝ、年をわたりてぞ、よみはてさせ給ひける。眞言も好みさたせさせ給ひけると聞こえき。年よらせ給ひては、御足のかなはせ給はざりしかば、わらふだに乘りて、ひかれ給ひ、又御輿などにてぞ院にも參り給ひける。御ぐしおろさせ給ひて、奈良にても、山にても、御受戒せさせ給ひき。御名は圓理とぞ聞えさせ給ひし。いづれのたびも、院の御ともにぞ、御受戒せさせ給ひける。御子の左のおとゞのことおはせしゆかりに、奈良におはしましゝが、宇治殿へは入らせ給はで、おはしましゝを、法性寺殿に、御消息ありければ、とく京の方へいらせ給へと、御かへりごと申させ給ひければ、よろこび給ひて、年頃の御中もなほらせ給ひて、播磨とてときめかせ給ひし人の、都の北に、雲林院か、知足院かに侍るなる堂にぞおはして、うせさせ給ひにし。その播磨とか聞こえし人は、世にたぐひなき、さいはひ人になむおはすめる。白川殿に、唯同じさまなるはじめにやおはしけむ、後には女院の、はしたものなどいふことになり、つぎに女房になりなどしておはすとぞ聞こえられし。今にかしこき人にて、法性寺殿の、三井寺の僧都の君、養ひまして、昔に變らぬ有樣にてなむ聞こえ侍るなる。かの白川殿とて、祇園におはせしはゆかりまでさりがたく、院におぼしめされておはせしに、始めつかた、平氏の正盛といひしまゐり仕うまつりければ、隱岐守などいひけるも、後には然るべき國々のつかさなど、なりたりけれど、なほ下北面の人にてありけれど、その子よりぞ院の殿上人にて、四位五位のまひ人などしけれども、內の殿上はえせざりけるに、五節たてまつりける年、受領いまひとり、爲盛爲業などいひしが父なりし、殿上ゆるされたりしかば、忠盛、

  「おもひきや雲居の月をよそに見て、心のやみに迷ふべしとは」

とぞきこえし。其の殿上ゆるされたりしは、院の御めのとご知綱といひしがうまごなれば、いとほしみあるべき上に、近くつかはせ給ふ女房の、心ばへなどおぼしめしゆるされたる者にてありしが、子などあまた生みたりければ、殿上せさせむとおぼしめしながら、辨近衞のすけなどにもあらで、忽に殿上せむも、いかゞとおぼしめして、宇佐の使につかはしけるを、鳥羽の院の新院と申しておはしましゝ程に、長輔ときこえし兵衞の佐をつかはさむと、申させ給ひければ、かの御方に申させ給ふことさりがたくて、さらば爲忠は、今年の五節をたてまつれとてぞ殿上はゆるされける。餘りふとれりしかばにや、口かわく病ひして、十年ばかりこもりゐながら、四位の正下までのぼりしも、三條烏丸殿作りたりしたびは、をとこゝそこもりたれども、女の宮仕へをすれば、加階はゆるしたぶと仰せらるとて、順賴の中納言は、大原うとくおぼゆとぞよろこびいふとて、戯ぶれられける。左京のかみ顯輔のいはれけるは「大夫の大工なるべし二條の大宮つくりても加階し、その御堂造りても、また院の御所つくりても加階す」といはれけると聞こえしにあはせて、木工の權頭をぞ、かけづかさにしたりし。貫之がつかさなればとて、なりたりけるとかや。その人まだ幼きほどなりけるに、白河の法皇の、六位の殿上したりけるに、それがしと召しけるを、人の召し次ぎければ、「藤原の、異姓になるは、あしき事なり」とてもとの姓になるべきよし仰せられけるも、猶むかしの御いとほしみの、殘りけるとぞ聞こえし。爲章といひし人も、本はためのりといひけるを、白河の院のためあきらと召したりけるより、かはりたるとかや。おほぢの高大貳は、なりのりといひしかども、此のころその末は、むねあきらなどいへるは、召しけるより改まりたるとかや。白河の院は、はかなきことも仰せらるゝことの、かくぞとゞまりける。又御心の敏くおはしまして、時の程に、おもほし定めけるは、信濃守惟明といひしが、式部の丞の藏人なりし時、女房の局の前にゐて、ものなど申しけるに、殿まゐらせ給ふとて、庭におりて居ければ、女房參りて「關白の參り候ふ」など申しければ「關白ならばさきこそ逐はめ。をこのものは、兄の知綱が參るをいふにこそあらめ」と仰せられけるに、「伯耆守の參られたりける」とぞ女房語られける。かの雲居の月よめりし忠盛は、なかなかに院かくれさせ給ひて後にぞいつしか殿上ゆるされたりし。その時、殿上の硯のはこに、かきつけられたりける歌ありけりと聞こえしは、みなもとなのる雲の上はなにさへのぼるなりけりとかや。忘れておぼえ侍らず。山城と伊勢と、源と平とを、たいしたるやうにぞ聞こえし。同じ折に殿上したりける人のことなるべし。その平氏の子ども、二人ならびて藏人になりなどせしも、平氏のおほきおとゞは、白河院の御時は、非藏人などいひて、院の六位の殿上したりしかども、うるはしくはなさせ給はで、かうぶり給はりて、兵衞の佐になりたりしも、藏人は、なほかたきことと聞こえ侍りき。さて又かの宇佐の使に下られし兵衞の佐は在方と聞えし人の聟なりしが、心ざしやなかりけむ離れにしかば、いとくちをしくて、なほ御きそくにて、ふたゝびまで、とりよせたりしかども、え住み果てざりしかば、世に歌にさへうたひてありしを、院の御めのと子の、帥の子なれども、ふたゝびまで、床さりたるあやまりにや、國の司なりしをもとらせ給ひて、ふる里のせうとに、天の橋立もわたりにしは、かの宮內卿平氏の、むこになれりしいとほしみの、殘れるなるべし。そのふる里に、住みわたる人ときこえしも、世の中によめる歌など、きこえ侍りき。歌は忘れておぼえ侍らず。


今鏡第五

    ふぢなみの中

     みかさの松

近くおはしましゝ法性寺のおとゞは、富家の入道おとゞの御子におはします。御母六條の右のおとゞの御むすめ、仁和寺の御室と申しゝ、一つ御はらからにおはしましゝかば、其の北のまんどころ、昔は白河の院にも參り給ひけるにこそ。仁和寺の法親王をば、師子王の宮とぞ世には申しゝ。御母の童名にやおはしけむ。さて此のおとゞ仁和寺の宮と親しく申しかはしたまひき。富家のおとゞの北の方にては、堀川の左のおとゞの御むすめおはせしかども、それは御子おはしまさで、くちをしきことどもありけるにやよりけむ。後には疎くなり給ひき。其の六條のおとゞの御むすめの、京極の北のまんどころにさぶらひ給ひけるを、始めは院にめして宮生み奉り給へりける程に、富家のおとゞ若くおはしける時に、はつかに覗きて見給へることありけるより、御病ひになりて、惱みたまひけるを、命も絕えぬべくおぼゆることの侍れど、心に叶ふべきならねば「世に永らへ侍らむ事もえ侍るまじ。又心のまゝに侍らば、いかなる重き罪も、かうぶる身にもなり侍りぬべし。いづれにてか、よく侍らむ」など、京極の北の方に申し給ひけるにや、「いかにも御命おはしまさむ事に、まさることはあるまじければ」とて、院に申させ給ひたりけれは、許したまはらせ給ひけるとかや。ひがごとにや侍らむ。人の傳へ語り侍りしなり。さて住みたまひけるほどに、まづは姬君うみ給ひ、又此のおとゞをも、生み奉り給ひてのち、さてうるはしく住み給ひけるとぞうけ給はりし。此のおとゞ保安二年のとし、關白にならせ給ふ。御とし廿五にぞおはしましゝ。同四年正月に、讃岐の帝くらゐに即かせ給ひしかば、攝政と申しき。みかどおとなに成らせ給ひて、關白と申しゝほどに、近衞のみかど位につかせ給ひしかば、又攝政にならせ給ひき。久壽二年七月、近衞のみかど、かくれさせ給ひて、この一院位につかせ給ひしにも、又關白にならせ給ひしかば、四代のみかどの關白にて、ふたゝび攝政と申しき。昔もいと類ひなき事にこそ侍りけめ。おほきおとゞにも、ふたゝびなり給へりし。いとありがたく侍りき。藤氏の長者さまたげられ給ひしも、左のおとゞの、事にあひ給ひしかば、保元元年七月に、更にかへりならせ給ひにき。同三年八月十六日、二條のみかど位につかせたまひし時、いまのとのゝ御兄におはしましゝ、右のおほいまうちぎみに、關白ゆづり聞こえさせ給ひて、大殿とておはしましゝに、應保二年に御ぐしおろさせ給ひてき。御年六十六とぞうけ給はりし。長寬二年二月十九日、六十八と聞えさせ給ひし年かくれさせ給ひにき。昔まだ幼くおはしましゝ時、春日のまつりのつかひせさせたまひしに、ないし周防のごまゐりて、行事のべんのためたかに申しおくりける、

  「いかばかり神もうれしとみかさ山二葉の松の千代のけしきを」。

その返しは、劣りたりけるにや。きこえはべらざりき。祈り奉りたるしるしありて、めでたく久しくせさせ給ひき。法性寺の御堂の御所などつくりて、貞信公の御堂のかたはらに住ませたまひしかば、法性寺殿とぞ申すめる。昔より攝政關白つゞきておはしませど、身の御才は類ひなくおはしましき。才學もすぐれておはしましける上に、詩など作らせ給ふことは、いにしへの宮師殿などにも劣らせたまはずやおはしけむ。歌よませ給ふ事も、心たかく昔の跡をねがひ給ひたるさまなりけり。管絃のかた心にしめさせ給ひて、箏のことを、むねと御遊などにも、ひかせ給ふとぞ聞き侍りし。父おとゞばかりは、おはしまさずやありけむ、手かゝせ給ふ事は、昔の上手にも耻ぢずおはしましけり。まなも假名も、このもしく今めかしき方さへそひて、すぐれておはしましき。內裏の額ども、古きをばうつし、失せたるをば、更にかゝせ給ふとぞ、うけたまはりし。院宮の御堂御所などの色紙形は、いかばかりかは多くかゝせ給ひし。御願よりはじめて、寺々の額など數しらずかゝせ給ひき。「橫河の花臺院などは、古き所の額も、むかへ講すゝめけるひじりの申したるとてかゝせ給へり」とぞ山の僧は申しゝ。又人の仁和寺とかより、額申したりければ、かゝせ給ひける程に、奧のえびす基衡とか云ふが寺なりと聞かせ給ひて、みちの奧へ、取り返しに遣はしたりけるを、返し奉らじとしけるを、女の心かしこくやありけむ、「かへし奉らざらむは、しれごとなり」と諫めければ、返し奉りけるに、御厩舍人とか、つかはしたりける御使の、心やたけかりけむ、三つにうちわりてぞもてのぼりける。柱をにらみけむにも、劣らぬ使なるべし。えびすまでもなびき奉りけるにこそ。又いづれの御願とかの繪に、飯室の僧正たふとくおはすることかくとて、冷泉院の御太刀ぬかせ給へるに、僧正にげ給へるあとに、とゞまれる三衣筥のもとにて、みかどの物のけうたせ給ひたる所の色紙形、これはえかゝじとて、もじもかゝれでいまだ侍るなり。御手並びなくかゝせ給へども、さやうの御用意は、ありがたき事ぞかし。まだ幼くおはしましゝ時より、歌合など朝夕の御あそびにて、基俊俊賴などいふ、時の歌よみどもに、人の名かくして、判ぜさせなどせさせ給ふこと絕えざりけり。御うたなど多くきゝ侍りし中に、

  「わたの原こぎいでゝ見ればひさかたの雲ゐにまがふおきつ白浪」

などよませ給へる御歌は、人丸が「島かくれゆく舟をしぞ思ふ」などよめるにも耻ぢずやあらむとぞ人は申し侍りし。

  「よし野山みねのさくらや咲きぬらむふもとの里に匂ふはるかぜ」

などよませ給へるも、心も詞もたへにして、金玉集などに、選びのせられたる歌のつらになむ聞こえ侍るなる。からのふみ作らせ給ふこともかくぞありける。さればふみの心ばへしらせ給ふこと深くなむおはしける。白河の院にも三卷の詩えらびて奉り給ひ、基俊の君にも、からやまとのをかしきことの葉どもをぞえらびつかはさせ給ひける。かやうの事ども多くなむ侍るなる。又つくらせ給へるからの詞ども、御集とて、唐の白氏の文集などの如くに、事好む人、もてあそぶとぞうけ給はる。かくざえもおはしまして、日記なども鏡をかけておはしませば、右大辨爲隆といひし宰相は「日本はゆゝしくてつゞなる國かな。さきの關白を一の人にて、このおとゞ、花園のおとゞふたり、若き大臣よくつかへぬべきを、うちはへつゝ公事もつとめさせで、この殿一の人なれば、いたづらに足ひき入れてゐたまへるこそ惜しけれ」とぞいはれけるとなむ、きこえ侍りし。

     菊のつゆ

法門のかたは、底を極めさせ給ひて、山、三井寺、東大寺、山科寺など智惠ある僧綱、大とこども、內裏に御讀經など勤むる折に、御簾のうちにて、深き心たづね問はせ給ひ、わが殿にて、八講など行はせ給ふ折ふしのことにつけて、經論の深きこと、ひろき心、汲み盡くさせ給はぬことなくなむおはしましける。御佛供養せさせたまひける御導師に、菊の枝にさして給はせける、

  「たぐひなき御法を菊の花なればつもれる罪は露も殘らじ」

などぞきこえ侍りし。御心ばへもすきずきしくのみおはしましながら、わづらはしくとりがたき御心にて、ひがひがしきことはおはしまさで、何事もおどろかぬやうにぞおはしましける。されば世にも似させ給はで、いづ方にも、踈きやうに、聞こえさせ給ひて、公達など心もとなく、聞こえさせ給ひしかども、世の中みだれ出できて後、元のやうに、氏の長者にも、かへりならせ給ひき。男公達も、位高くならせ給ひて、法師におはしますも、僧正ともならせ給ひ、ところどころの長吏もせさせ給へり。女御きさき、かたがたおはして、よろづあるべきこと、皆おはしましき。昔、時にあはせ給ひたる、一の人に劣らせ給ふ事なかりき。馬を失ひて、なげかざりけむ翁などのやうにておはしましゝけにや、苦しき世をすぐさせたまひてのちは、かく榮えさせ給へり。作らせ給ひたる御詩とて、人の申しゝは、

  「官祿身ニアマリテ世ヲテラストイヘドモ、素閑性ニウケテ權ヲアラソハズ」

とかや作らせ給へるも、その心なるべし。さやうの御心にや、又近衞のみかどの悲しびのあまりにや、關白にこのたびならせ給ひし始めに、彼のみかど、船岡にをさめたてまつりし御供せさせ給へり。かちよりおはしますさまにて、御輿の綱を長くなされたりしにや、日記にしなしてかゝれてぞすゑざまはおはしましける。いとあはれに、悲しくなむ侍りける。二條の院くらゐに即かせ給ひし時、關白をば御子に讓りまさせ給ひて、大殿とておはしましゝほどに、御ぐしおろさせ給ひて、御名は圓觀とぞつかせ給ひける。このおとゞ失せさせ給ふほど近くなりて、法性寺殿かつら殿など、御覽じめぐらせ給ひて、ところどころの有樣を、さまざまの文ども作らせ給ひて、盛光惟としなどいふ學生どもに給ひて、和してたてまつり、判ぜさせなどせさせ給へり。後の世に、佛道ならせ給へるにや、こゝの品のはちすの上に、おはしますなど、夢にも人の見たてまつりたるとかや。式部の大輔永範、夢に見たてまつりたるとて、詩三首作りて給はせける中に、

  「漢月天ニウルハシクシテコトゴトクナリトイヘドモ、忘ルゝコトナカレ昔ノ尼文ヲモテアソブコトヲ」

と作らせ給へりけるとて、和して奉らむとしける程に、おどろきにけり。夢のうちには都率の內院におはしますとおぼしかりきとぞ、和してたてまつれる文にはかゝれ侍るなる。

     藤の初花

攝政前の右大臣とて、近くおはしましゝは、法性寺のおとゞの太郞にぞおはしましゝ。御母從二位源の信子と申しき。國信と申しゝ、中納言のむすめにぞおはしますなる。このおとゞの御名は、基實とぞ申すとうけ給はりし。いづれの御時の例とか、左衞門の督など聞こえさせ給ひしに、其の後大納言右大臣などにならせ給へりき。折ふしあきあはざりけるにや、大將にはならせ給はざりしかとよ。二條のみかど、位につかせ給ひしに、父おとゞの讓りにて、保元三年八月十六日、關白になり給ふ。御とし十六とぞきこえ侍りし。昔よりかくきびはにてなり給へる一の人、これや始めにておはしますらむ。から國に甘羅といひける人は、十二にてぞ大臣になり給ひける。世の人をさなしとも申さゞりけり。人がらによるべきことにこそ侍るめれ。永曆元年八月十一日右大臣にのぼり給ふ。永萬元年六月みかどの御位みこに讓り奉らせ給ひし日、攝政にならせ給ふ。同二年七月廿六日御とし二十四にて、かくれさせ給ひにき。大臣のくらゐにて十年おはしましき。このおとゞ御みめもこえきよらにおはしましき。又手なども、昔の跡つぎまさせ給へりけり、いとめでたく聞きたてまつりしほどに、夢のやうにてかくれさせ給ひにし、いと悲しくこそ。去年は二條のみかど、ことしはこの殿の御事、折ふし心あらむ人は、おもひ知りぬべき世なるべし。贈太政大臣正一位など、後に添へ奉られはべりとぞ聞こえ給ふ。きのふ今日のちごに、おはしますを、昔語りにうけ給はるやうに覺えて、いとあはれにかなしく侍り。六條の攝政と申すなるべし。又中の攝政殿と申す人も侍り。太郞におはせしかども、中の關白と申しゝ樣なるべし。この次の一の人は、今の攝政のおとゞにおはします。御母はこれも國信の中納言の三の君にぞおはする。御名は國子と聞こえ給ふ。三位し給へるとぞ、一の人藤氏の御はら、多くは源氏におはします。然るべきことにぞ侍る。宇治殿二條殿の御母は、一條の左大臣の御むすめ、後の二條の關白殿は、土御門の右のおとゞの御むすめ、法性寺殿は六條の右大臣、此の殿ふたところは、源中納言の姬君ふたところにおはしませば、藤氏は一の人にて、源氏は御母方やんごとなし。御流れかたがたあらまほしくも侍るかな。今の世の事、新しく申さでも侍るべけれど、ことのつゞきなれば、申し侍るになむ。このおとゞ永曆元年八月十一日、內大臣にならせ給ひて、同月左大將かけさせ給ひき。同二年九月十三日、左大臣にのぼらせ給ひて、永萬二年七月二十七日、攝政にならせ給ふ。御とし廿二におはしましき。やがて藤氏の長者にならせ給ひき。仁安三年二月、當今位に即かせ給ひしに、又攝政にならせ給ふ。いとやんごとなくおはしましける御さかえなり。御兄の攝政殿も、宇治の左のおとゞも、其の御子の大將殿も、長者つぎ給ひて久しく坐しまさば、一の人の御子なりとも、大臣にこそならせ給ふとも、かならずしも、家のあとつがせ給ふ事かたきを、この御報にや、押されさせ給ひけむ。皆夢になりて、かく忽に攝政にならせ給ひ、藤氏の長者におはします。三笠の山の朝日は、かねて照らさせ給ひけむ、御身のざえをさなくよりすぐれておはしますとて內宴の詩なども、兄をさしおき奉りてその席にさしいらせたまひき。御心ばへあるべかしく、まだ若くおはしますに、公事をもよく行はせたまふ。おとなしくおはしますなり。閑院ほどなく作りいださせ給ひて、上達部殿上人など、詩つくり、歌たてまつりなどして、昔の一の人の御有樣には、いつしかおはします。心ある人、いかばかりかは、ほめたてまつるらむ。みかどに貸し奉らせ給ひて、內裏になりなどし侍らむも、世の爲も、いとはえばえしきことにこそ侍るなれ。ゆく末思ひやられさせ給ひて、然るべきことゝ、世の爲も、たのもしくこそうけたまはれ。此の二人の攝政殿たち、皆御子おはしますなれば、藤なみのあと絕えず、佐保川の流れ、久しかるべき御有樣なるべし。

     濱千鳥

此の近くおはしましゝ入道おほきおとゞ、御心の色めきておはしましゝかば、ときめき給ふかたがた多くて、北の方は、きびしくものし給ひしかども、はらばらに公達おほくおはしましき。奈良の僧正、三井寺の大僧正、このふたりは、をとこにおはしまさば、今は老い給へる上達部にておはすべきを、北の方の御はらに、をのこ君たちもおはしまさで、女院ばかりもちたてまつり給ひつるにつけても、大方も嫉ましき御心の深くおはしましけるにや。御房たちの、幼くおはしましゝより、おとなまで、近くもよせ申させたまはず。いなごなどいふ蟲の心を、すこし持たせ給はゞよく侍らまし。后などは、かの蟲のやうに、妬む心なければ、御子もうまごも多くいでき給ふとこそ申すなれ。關白攝政の北の方も、同じ事にこそおはすべかめれ。されど年よりてはおもほしなほしたりけるにや、君だち外ばらなれど殿の內にも多くおはしましき。源中納言の姬君たちふたりに、ひとりのは故攝政殿今ひとりのには當時の殿、又山に法印御房とておはしましき。又奈良に僧都とておはしますなり。又女房の御はらに、右のおほい殿、三井寺のあや僧都のきみ、又三位中將殿など申しておはしますなり。又山の法印などきこえたまふ。又末つかたに時めかせ給ひしはらにおはする、山の法眼など申してきこえ給ふ。女きんだちは、女院、中宮などおはします。讃岐のみかどの御時の中宮聖子と申すは、北の政所ひとり生み奉らせたまへるぞかし。その御母は、宗通の大納言の御むすめ、顯季の修理のかみの御むすめの腹なるを、法性寺殿に奉り給へりき。かの女院、讃岐の帝位におはしまし、父のおとゞも時の關白におはしましゝかば、宮の御方御あそび常にせさせ給ふ。をりをりにつけつゝ、昔おぼし出づることも、いかにおほく侍らむ。卯月のころ、みかど宮の御方に小弓の御あそびに、殿上人かたわかちて、賭物など出だされ侍りけるに、扇紙を册子のかたに作りて、歌かきつけられたりけり。その歌は、

  「これを見て思ひも出でよ濱千鳥あとなき跡をたづねけりとは」

と侍りける返し、公行の宰相、右中辨とておはせしぞしたまひける。

  「はま千鳥跡なき跡を思ひ出でゝ尋ねけりともけふこそは知れ」

とぞうけ給はりし。歌は殿のよませ給へるにや侍りけむ。拾遺抄にはべる、小野宮のおとゞの故事、思ひいでられて、いとやさしくこそきこえ侍りしか。

     使あはせ

彼のみかど位おりさせ給ひしかば、皇太后宮に登らせ給へりき。近衞のみかどの御時も、母后にて、內に猶おはしましき。中宮と申しゝ時、近衞のみかどの東宮におはしましゝに、ふた宮の女房たち、常にきこえかはして、をかしき事ども侍りけるに、文の使ひ、いかなるものに侍りけるにか、わろしとて、始めは藏人を、東宮よりやられたりければ、返事又少將爲通して送りたりけり。其の返りごと、東宮より公通の少將もちておはしたりけり。かやうにする程に、左のおとゞ、中宮の女房の文もちて、わたり給ひたるに東宮の女房なげきになりて、宮司などゝいかゞせむずると、さまざま、もの歎きにしあへるに、傅の殿のおはしましたるは「この宮人におはしませば、ことつけにてこそあれ」などいへども、からくしまけてわぶる程に、關白殿「われ使せむ」とてふみかゝせて、中宮の御方にわたらせ給へるに、女房皆かくれて心得てさしいでねば、とかくして、うちかけて歸らせ給ひぬ。中宮には「又これにまさる使は、院こそおはしまさめ」とて、「かゝる事こそさぶらへ」とて、內の御使にやありけむ。頭の中將とて、敎長のきみ、鳥羽の院の六條におはしましゝに、申されければ「いかにも侍るべきに、女房の取り次ぎてせため侍れば、えなむし侍るまじき」と申させ給ひなどしてありときゝ侍りし、後にはいかゞなり侍りけむ。この女院始めつ方は、うへ常におはしまして、よる晝あそびせさせたまひけるに、末つ方には、兵衞のすけなどいふ人いできて、珍らしき折も、多くおはしましけるに、上ふと渡らせ給ひけるに、しばし短き御屛風のうへより、御覽じければ、きさき十五重なりたる、白き御ぞたてまつりたる御そで口の、白浪たちたるやうに、匂ひたりけるを、「浪の寄りたるを見るやうなる御そでかな」と仰せられければ、「うらみぬ袖にもや」といらへ申させ給ひけると聞こえ侍りし。「うらみぬ袖も浪は立ちけり」といふ、ふるきことなにゝ侍るとかや。折ふしいとやさしく侍りけることなどこそ、傳へうけ給はりしか。ひがごとにや侍りけむ。人の傳へ侍ることは知りがたくぞ。新院遠くおはしましてのち、この女院は御ぐしおろさせ給ひてけりとなむ聞こえさせたまふ。をなじ事と申しながらも、いとあはれに悲し。近衞の帝の御時の中宮、呈子と申しゝも、太政大臣伊通のおとゞの御むすめを、この法性寺殿の御子とてぞたてまつり給へる。此の頃九條の院と申すなるべし。誠の御子ならねど、院號も關白の御子とてはべるとかや。この法性寺殿は、二條のみかどの御時も、女御たてまつらせ給ひて、中宮にたちたまひき。みかどかくれさせ給ひても、いまの新院くらゐの御時國母とて、猶うちにおはしましき。みかど位さらせ給ひしかば、里におはしませども、猶中宮と申すなるべし。御ぐしおろさせ給へるとかや。まだ御年廿三四などにやおはしますらむ。此の頃ばかり、上﨟の入道の宮、院たち、多くおはしますをりはありがたくや侍らむ。女院いつところおはします。おほみや中宮、二所のきさきの宮、齋宮さい院などかたがたきこえさせ給ふ。且はよのはかなきによらせ給ふ。佛の道のひろまり給へるなるべし。

     かざり太刀

富家の入道おとゞの御子は法性寺のおほきおとゞ、次には、宇治の左のおとゞ賴長ときこえ給へりし。女君は高陽の院と申す。泰子皇后宮と聞こえたまひき。法性寺殿の一つ御はらの姉にておはしましき。長承三年三月のころ、后に立ち給ふ。御年四十と聞こえき。保延五年院號得させ給ひき。左のおとゞ、御はゝは土佐守盛實といひしが女にやおはしけむ。其の左のおとゞは、御みめもよくおはし、御身の才も廣き人になむ聞こえ給ひし。堀川の大納言に、前書とか聞こゆる書受け傳へさせ給へりけり。そのふみは、匡房の中納言より傳はりて讀み傳へたる人、かたく侍るなるを、この殿ぞ傳へさせ給へりける。今は師の傳へも絕えたるにこそ侍るなれ。かやうにして、さまざまのふみども讀ませたまひ、僧の讀むふみも、因明などいふふみ、奈良の僧どもに、尋ねさせ給ふとかや聞こえき。笙の笛をぞ、御遊びには吹かせ給ふときこえ給ひし。御手かゝせ給ふ事をぞ、わざと書きやつさせ給ひけるにや、兄の殿に、いかにも劣らむずれば、などおぼしたりけるを、法性寺殿は、「われは詩も作るやうに、覺ゆるものを、さては詩をぞ作らるまじき」なとぞ仰せられけるとかや聞こえ侍りし。法成寺修理せさせ給ふ。塔の燒けたる作らせ給ひて、すがやかに、いとめでたく侍りき。日記など博くたづねさせ給ひ行はせ給ふことも、古き事をおこし、上達部の着座とかし給はぬをも、皆催しつけなどして、おほやけわたくしにつけて、何事もいみじく、嚴しき人にぞおはせし。道にあふ人、きびしく耻ぢがましきこと多く聞こえき。公事おこなひ給ふに付けて、遲く參る人、さはり申す人などをば、家燒き毀ちなどせられけり。奈良に濟圓僧都と聞こえし名僧の公請に障り申しければ、京の宿房毀ちけるに、山に忠胤僧都と聞こえしと、たはぶれがたきにて、みめ論じて、もろともに、「われこそ鬼」などいひつゝ、歌よみかはしけるに、忠胤これをきゝて、濟圓がりいひつかはしける、

  「誠にや君がつかやを毀つなる世にはまされるこゝめ〈ろイ〉有りけり」。

返し

  「やぶられてたちしのぶべき方ぞなき君をぞ賴むかくれ簑かせ」

とぞきこえ侍りける。又女怨ぜさせ給ふこともあらあらしくぞ聞こえはべりける。いはひをなどいふ、深き色ごのみとかや思はせ給ひけるに、よる俄におはしたりければ隱れて、思ひかけぬものゝうしろなどに有りけるを、もりのり、つねのりなどいふ人どもして、求めなどして、かくれのあやしの方まで見けれど、え求め得でかへり給ひて、又ひるあらぬさまにて、かくわたらせ給へると侍りければ、このたびはいであひ奉り、たいめしけるにも、昔今の物語などして、ことうるはしく、かへり出でさせ給ひにけり。ふたゝびながら、世つかざりしなとぞいひけると、人はかたり侍りし、この御童名はあやぎみと申しけるに、富家殿法性寺殿、親子の御中、後にこそたがはせ給へりしか。はじめは左のおとゞ、御子にせさせ奉り給ひけるころ、餝り太刀もたせたてまつらせ給ひけるに、

  「代々をへて傳へてもたるかざり太刀のいしつきもせずあやおぼしめせ」

とよませ給へりける程に、末には御心どもたがひて、この弟の左のおとゞを、院と共にひき給ひて、藤氏の長者をもとりて、これになしたてまつり給ふ。賀茂まうでなどは、一の人こそ多くし給ふを、兄の殿をおきて、この左のおほいどのゝ、賀茂まうでとて、世の營みなるに、東三條などをも取り返して、かぎなどのなかりけるにや御倉の戶わりなどぞし給ふと聞え侍りし。ふたり並びて、內覽の宣旨などかうぶり給ひ、隨身給はりなどし給ひき。かゝる程に、鳥羽の院うせさせ給ひて、讃岐の院と左のおとゞと御心合せて、この院のくらゐにおはしましゝ時、白河の大炊の御門殿にて、いくさし給ひしに、みかどの御守りつよくて、左のおとゞも、馬に乘りて出で給ひける程に、誰れが射奉りたりけるにか、矢にあたり給ひたりけるが、奈良に逃げておはして、程なくうせ給ひにき。その公だち、右大將兼長と聞こえたまひし、御母は、師俊の中納言の御むすめなり。その大將殿は、御みめこそいと淸らに餘りぞふとり給ひてやおはしましけむ。御心ばへもいとうつくしくおはしけり。つぎに中納言中將師長と申しゝは、みちのくの守信雅ときこえし、御うまごにやおはすらむ。その御弟は中將隆長と申しける。それも入道中納言の御はらなるべし。皆流され給ひて、うらうらにおはせしに、中納言中將殿は、歸りのぼり給ひて、大納言になり、大將などにおはすめり。身の御ざえなども幼くよりよき人にておはしますと、聞こえ給ひき。琵琶はすべて上手にておはしますとぞ聞こえ給ふ。都わかれて、土佐の國へおはしけるに、これもりとかやいふ陪從、御送りに參りける道にて、箏のことのえならぬ、調べ傳へ給ふとて、そのふみの奧に、歌よみ給へりけるこそあはれに悲しくうけ給はりしか。

  「をしへ置くかたみを深くしのばなむ身は靑海の波にながれぬ」

とかやぞきゝ侍りし。靑海はかの調べの心なるべし。いと悲しく、やさしく侍りけることかな。もろこしに、むかし嵇叔夜といひける人の、琴のすぐれたる調べを、この世ならぬ人に傳へ習ひて、ひとり知れりけるを、袁孝尼とかやいひけることひきの、あながちに習はむといひけれども、ないがしろに思ひて、ゆるさゞりける程に、罪をかうぶりける時、この調べの長く絕えぬることをこそ悲しみいたみけれ。此のことの調べを傳へ給ひけむことこそ、かしこく賴もしくも、うけ給はりしか。琵琶こそすぐれ給へりと聞こえ給へりしか。箏のことをも、かく極めさせ給ひて、御おほぢの跡をつがせ給ふ、いとやさしくこそうけ給はり侍れ。かくて年へて後、歸りのぼり給へるに、二條のみかど、琵琶を好ませ給ひて召しければ、參らせ給ひて、賀王恩といふ樂をぞひき給ひけると傳へうけたまはる。さてもとのかずの外の大納言に加はり給ひて、うちつゞき大將かけ給へるなるべし。其の外の公だちは、皆うらうらにてかくれ給ひにけり。いと悲しく、いかにあはれに、主も人もおぼしけむ。この奈良におはせし禪師の君も、還りのぼり給ひて後、うせ給ひにけり。唯ごとゝも覺え給はぬ御有樣なり。この左のおとゞは、近衞の帝の御時、女御たてまつり給へりき。大炊の御門の右大臣、公能のおとゞの三の君を、御子にし給ひて、たてまつり給ひて、皇后宮多子とぞ申しゝ。その左のおとゞの北の方は、大炊の御門のおとゞの御妹なれば、そのゆかりに、御子にし給へるなるべし。此のころは、大宮とぞきこえさせ給ひける。

     苔のころも

後の二條殿の御子には、富家の入道おほきおとゞ、その御弟にて、宰相中將家政、少納言家隆とておはしき。但馬守良綱といひしが女のはらにおはす。その宰相の御心ばへの、きはだかにおはしけるにや、三條のあく宰相とぞ人は申し侍りし。その御子には、顯隆の中納言のむすめのはらにおはせし、雅敎の中納言と申しゝ、身の御ざえ廣くおはしける。つかさをも返したてまつり給ひて、かしらおろして、高野におはすと聞き侍りし。その御子にて、少將ふたりおはすなる。前の美作守顯能と聞こえしが女のはらにやおはすらむ。弟の少將公房ときこえ給ふ。二條のみかどかくれさせ給ひて、世をはかなくおもほしとりて、高野山にのばりて、かしらおろして住み給ふなれば、御親の中納言も、それに引かれて、深き山にも、住みたまへるなるべし。昔こそ若き近衞のすけなど、世をのがれて山に住み給ふとは、古き物語にも聞こえ侍れ。まさにこれこそあはれに悲しく、花山僧正の、深草の御時、藏人頭にておはしけるが、夜晝仕うまつりて、諒闇になりにければ、悲しびに堪へず、御ぐしおろし給ひて、苔の衣かわきがたく、入道中納言、後一條の院の御忌にみかどを戀ひ奉りて、世を背きて、深き山に住み給ひけむにも、おくれぬあはれさにこそ聞え給ふめれ。昔はいかばかりかは、かやうの人聞え給ひし。九條殿の御子、高光少將、始めは橫河にすみ給ひて「たゞかばかりぞ枝にのこれる」などいふ御歌きこえ侍りき。後には多武の峯におはしき。又少將時敍と聞こえ給ひし源氏の、一條のおとゞの御子、大原の御室などきこえて、やんごとなき眞言師おはしき。又村上の兵部卿致平のみこの、成信の中將、又堀河關白のうまごにやおはしけむ、重家の少將とて、左大臣のひとり子におはせし、もろともに佛道に一つ御心に、契り申し給ひて、三井寺の慶祚あざりの堂におはして、「世をそむきなむ」とのたまひければ、「名高くおはする君だちにおはするに、びんなく侍りなむ」といなび申しけれど、かねて御ぐしをきりておはしければ、慶祚阿闍梨、ゆるし聞こえてけり。照る中將、光る少將など申しけるとかや。中將は廿三、今ひとりは廿五におはしけるとかや。行成大納言の御夢に、重家の消息とて、世をそむきなむといふこと、のたまへりけるを、御堂のおとゞの御許におはしあひて、「かゝる夢こそ見侍りつれ」と語り聞え給ひければ、少將うち笑ひて、「まさしき御夢に侍り。しか思ふ」などのたまはせける。次の夜、寺の大阿闍梨房へおはしたるとなむ。年ごろの御心ざしの上に、時の一の人の、わづらひたまふだに、人もたゆむこと多く、世のたのみなきやうに、覺えたまふことの、心ぼそくおぼえ給へて、さばかりの惜しかるべききんだちの、その御年のほどに、おもほしとり、行ひすまし給へりし。あはれなどいふも、こともよろしかりしことぞかし。此のことを、又人の申し侍りしは、齊信公任俊賢行成ときこえ給ひし大納言たち、陣の座にて、世の定めなどしたまひけるを、立ち聞き給ひて、位高くのぼらむと思ふは、身の耻を知らぬにこそありけれ。かやうに、後の世をぞ思ひとるべかりけるなどおもひて、出でたまひける夜、重家の少將、御親の大臣殿に、いとま申し給ひけるを、大方とゞめらるべきけしきも、なかりければ、えとゞめ給はざりけるとも聞え侍りき。行成大納言の御日記には、さきに申しつるやうにぞ侍るなる。これはこと人の語りはべりしなり。四條大納言公任の御歌など侍りしかとよ。御集などには見え侍らむ。又飯室の入道中納言の御子、成房の中將の君も、おやの中納言の同じふかき谷に入り居つゝ、室ならべて行ひ給ひしぞかし。義懷の中納言、惟成の辨、このふたりは、花山の院の折、かしらおろし給へりき。四條の大納言の御歌、辨のだいとこのもとに、

  「さゞ浪やしがの浦風いかばかり心の內のすゞしかるらむ」

と聞こえ侍りし。昔こそさかりなる人の、かやうなるは聞こえ給ひしか。近き世にはかゝる人も聞こえたまはぬをこの公房の少將こそ、あはれに悲しく聞こえたまへ。

     花の山

大殿のをのこ公だちは、後の二條殿の次に、花山の院の左のおとゞ家忠とて、大臣の大將にて、久しく一の上にておはしき。其の御母は、美濃守賴國と聞こえし源氏のむすめの腹におはす。此のおとゞ、關白にもなり給ふべき人におはすれど、御兄の二條殿の御子、富家の入道おとゞの、大殿のうまごにおはする上に、御子にしたてまつり給ひて、關白つぎ給へれば、大殿のおはしましゝ代より、「ふけ殿をたのみにしてあれ」と仰せられ掟てさせ給ひければ、何事も申し合せつゝ過ぎ給へりけるに、富家殿關白になり給ひて、大將のき給へりけるを、白河の院の御おぼえにて、「宗通大納言なるべし」と聞こえければ、このおとゞ、富家殿に、「いかゞし侍るべき」と申しあはせ給ひければ、「いかにも力及ばぬ事にこそあめれ。さるにても、もし少しのつまともやなると中宮に心ざしを見え申し給へ。この家にいとなきことなれど」など侍りければ「誠にしか侍る事」とて申しいれ給へりければ、「思ひがけね御心ざし」など聞え給ひけるほどに、白河の院、宗忠のおとゞ頭の辨におはしける時、「きとまゐれ」と侍りければ、おそくやおぼしめすらむと、恐れおぼしけれど、いと心よき御けしきにて、堀河のみかど、位おはしましゝ時、「內へ參りて申せ」とて、「大將あきて侍るに宗通をなし侍らむと思ひ給ふなり。幼くよりおぼしたて侍りて、さりがたく思ふ餘りになむなど奏せよ」と侍りければ、わづらはしきことにかゝりぬと思ひながら、參り給へりけるに、內は御笛吹かせ給ひて、聞こしめしも入れざりけるを、ひま伺ひて、かく奏し給ひければ、御返事もなくて、なほ笛吹かせたまひて、いらせ給ひにけるを、いそぎて御返事申せと侍りつる物をと思ひて、おどろかし申されければ、出でさせ給ひて、「いかさまにも、御計らひにこそ侍らめ。かく仰せつかはすべしとも思うたまへ侍らず。かゝる仰せ侍れば、恐れながら申し侍るになむ。昔うけたまはり侍りし仰せに、世のまつりごとは、司召にあるべきなり。然あれば大臣大將などより始めて、靱負のまつりごとまで、人の耳おどろくばかりのつかさをば、よくためらひて、世の人いはむ〈はいむイ〉ことを聞くべきなりとうけたまはり侍りしより、いとかしこき仰せなりと、心の底に思ひ給へてなむ、まかりすぎ侍る。この大將のことは、然るべきにとりて、家忠こそ、關白の子にて侍る上に、位も上﨟に侍るを、こえ侍らむや、いかゞと思うたまふるに、下﨟なりとも、身のざえなどすぐれ侍らば其のかたともおぼえ侍るべきに、それもまさりたることも侍らず。いかにも御計らひに侍るべしと申せ」との給はせければ、歸り參られ侍りけるに、いそぎ問はせ給ひけるに、かくと申しければ、院きかせ給ひて「暫し侍へ」とて重ねて召して「えもいはずのたまはするものかな。誠にことわりなり」とて家忠仰せ下すべきよし侍りてぞこのおとゞ大將にはなり給ひける。此のおとゞの御子は中納言忠宗と申しき。その中納言は、播磨守定綱と聞こえしむすめのはらにおはしき。中納言いとよき人にぞおはせし。雅兼の中納言とならび給ひて、五位の藏人十年ばかり、藏人の頭にても十年などやおはしけむ。二十年の職事にて、ふたりながら、同じやうに仕へ給ひしに、昔にもはぢず、末の世にはありがたき職事とて、惜まれ給ふほどに、なかなかおそく昇りたまふとぞいたみたまひける。宰相中納言まで、同じやうにならびてのぼり給ひき。忠宗の中納言は、中宮權大夫と聞こえ給ひき。その中納言の御子は、修理のかみ家保と聞こえしはらにおはする公だち、花山の院のおほきおとゞ忠雅、又中納言忠親など申して、おやの御子なれば、よきかんだちめたちにぞおはするときこえたまふ。忠親の中納言、これも親たちのおはせしやうに、雅兼の子の、雅賴の中納言と、藏人の頭にならびて、宰相中納言にも、同じやうにうちつゞきのぼり給ふなるも、いとかひがひしく忠雅のおとゞは、三位中將大臣大將など歷たまひて、おほきおとゞまで至り給へり。その御子におはするなる、兼雅の中納言は、家成の中納言の、むすめの腹にやおはすらむ。それも、三位の中將などきこえ給ひき。中宮權大夫の兄にて、播磨のすけ忠兼といふ人もおはしけり。弟の中納言の、上達部になり給ひてのち、親のおほいとの大將をたてまつりて、少將にはじめてなし申したまひけるとかや。その少將の子に、光家とか聞こえ給ひけるを、大臣殿の御子にし給ひて、殿上したまへけり。侍從におはしけるをば、かのこ侍從とぞ人は申しける。親はかくれて、子のあらはれたるとかなるべし。そのおやの少將は子より後に、殿上もし給ひけるとかや。おほいどのゝ三郞にては、按察の大納言經實と申しておはしき。二位の大納言とぞ申しゝ。二位の宰相など申しつけたりけるとぞ。その御母は美濃守基貞のむすめなり。その大納言の御むすめ、公實の春宮大夫のおほいぎみのはらにおはせしを、院の宮とておはしましゝに、參り給ひて、二條のみかどを生み奉りてかくれ給ひにき。后を贈られ給ひき。ちゝの大納言殿は、おほきおとゞおくられ給へるとぞ。その贈后のひとつ御はらにおはすなり。此の頃は、經宗の左のおとゞときこえ給ふ。二條院の御をぢにておはせし上に、人からもはかばかしくおはするにや。よき上達部とぞきこえたまふめる。おやの大納言殿も、兄の中納言殿も、物などかき給ふことおはせずと聞こえしに、是れは、ふみにもたづさはり給へるとぞ聞こえ給ふ。御子に中將のきみおはすなる。淸隆の中納言のむすめのはらにやおはすらむ。この大臣殿の御兄ども、多くおはするなるべし。經定の中納言は、治部卿通俊のむすめの腹におはしけるとぞ聞こえし。その次に、光忠の中納言と聞こえ給ふも、左のおとゞの御兄におはするなるべし。二條のおほぎさいの宮の女房の御子におはせしを、彼の宮の養はせ給ひて、はるわか君と聞こえし、此の頃は前の中納言民部卿になり給ふとかや。按察の大納言の御子は、多くおはしけるとぞ聞こえし。大侍從などいひてもおはしき。仁和寺に靜經僧都と聞こえたまひしは、よき眞言師にて、しるしある人とぞ聞こえ給ひし。おほとのゝ四郞にやあたり給ひけむ。按察のひとつはらに能實の大納言と申しゝ、小野の宮とぞきこえ給ひし。兄の殿よりも、文字などかきたまひしにや。檢非違使の別當などし給ひき。大殿の五郞にやおはしけむ。忠敎の大納言、四條の民部卿とぞきこえ給ひし。その御母遠江守永信が子に、藏人おりて、つかさもなかりしにや、永業と聞こえし人のむすめのはらにおはす。その民部卿の御子どもあまたおはしき。忠基の中納言と申しゝ、筑紫の帥になり給へりしかとよ。神樂の笛をぞよく吹きたまひけるとうけたまはりし。その御子に、六角の宰相家通と申すなるは、重通のあぜちの大納言の養ひ申し給ひけるとぞ聞こえ給ふ。

     みづぐき

四條の民部卿の御子は、又俊明の大納言のむすめのはらに宰相中將敎長ときこえ給ひし、後には左京のかみになりて、讃岐の院のことゞもおはしましゝに、かしらおろし給ひて、常陸の浮島とかやに、流され給へりし、歸りのぼり給ひて、高野にすみ給ふときこえ給ふ。和歌の道にすぐれておはするなるべし。手かきにもおはすとぞ。ところどころの額などもかき給ふなり。御堂の色紙がたなどもかき給ふとぞ聞こゆる。佐理の兵部卿、しんのやうをぞ好みて、かき給ふと聞ゆる、かつは法性寺のおとゞの御すぢなるべし。花園のおとゞのも、さやうのすぢにかゝせ給ふとぞ聞えさせ給ひし。宇治の左のおとゞの「朝隆、敎長、いづれかまさりたる」とときたゞと聞こえし人に問ひ給はせければ、定め聞えむもよしなくて、「とりどりによく書き侍る」とぞ答へ申してし。定信の君、人に語られけるを、たびたび問はせ給ひけるにや、申しきられにけりとも聞え侍り。「はだへと、骨とに喩へたる」とかや、その入道は人にかたられける。朝隆の中納言は、行成の大納言の消息、ゆゝしくうつしにせられたるとぞ聞こえ侍るめる。その消息もたぬ人なし。世に多く侍るなり。敎長の御手も、さまざま京ゐなか傳はり侍るなり。宮內大輔も、ひじりの進むるふみ、何かとすぐさずかきひろめ侍りけり。いかに本多く侍らむ。道風のぬしの、いますかりける世にこそ、ひとくだりもたぬ人は、耻に思ひ侍りけれ。宮內の大輔は、大納言のすゑなれば、よく似らるべきにて侍れど、一つの樣を傳へられたるにや、常に見ゆるやうにはかはりてぞ侍りける。おほぢの、すざかの治部卿の御手にぞよく似て侍るなる。その定信の君は、一切經を一筆にかき給へる、たゞ人ともおぼえ給はず。世になきことにこそ侍るめれ。五部の大乘經などだに、ありがたく侍るに、いと尊き契りむすび給へる人なるべし。敎長の御わらは名は、文珠君と聞こえき。殿上人におはせしにも、道心おはして、をとこながら、ひじりにおはすときこえ給ひしかば、いかばかり尊くおはすらむ。その御弟にて、賀茂ばらの公だち、あまたおはすと聞こえたまふ。その御母こそ、歌よみにおはせしか。おほぢの、名高き歌よみなりしかばなるべし。いとやさしくこそ。「月やむかしのかたみなるらむ」とよみ給へるぞかし。撰集には有敎が母とていり給へり。奈良、仁和寺、山などに、僧きんだちも多くおはすとぞ聞こえ給ふ。民部卿の次に、宮內卿と聞こえ給ひし、上達部にもならでやみ給ひにき。

     ふるさとの花の色

おほとのゝ僧公達には、山には理智房の座主と申して、男公達より、兄におはしけるなるべし。奈良には覺信大僧正、三井寺には、白河の僧正增智とて、讃岐のみかどの護持僧におはしき。忠敎の大納言の、ひとつ腹とぞきこえ給ふ。德大寺の法眼と申しゝは、花山の院の左のおとゞの、一つ腹におはす。心のきゝ給へるにや、法金剛院の、石立てなどにめされて、參り給ひけるとかや。梵字などもよくかき給ふとぞきこえ給ひし。奈良に玄覺僧正と申しゝもおはしき。うせ給ひしほどに、仁和寺の寬運とかいひし人、御修法の賞に、僧都になりし、いかなりしことにか。たれが御使ひとかやとて、日每に、みてぐら奉らるゝことありと聞こしめしたりけるとかや。二條殿の御時にも、範俊とかやきこえし、鳥羽の僧正、林の中に、しのびてたてられたる丈六の明王の御堂にて、みずほふ行はせ給ふなど聞こえはべりし。これらよしなきことに侍り。山の座主行玄大僧正ときこえ給ひしは、やんごとなき眞言師にて、鳥羽の院、佛の如くにおもほし給ふと聞えき。三昧のあざり良祐といひしやんごとなき眞言の師にこまかに傳へ習ひ給ひて、心ばへ振舞ひありがたく、僧のあらまほしきさまにて、さる人まだ出できがたくなむおはしける。尊勝陀羅尼の御導師におはしけるに、日ぐらしあることなれば、僧膳などいふこともあり。又おのづから立ち給ふことなどありけるに、御扇のうへに、五鈷置きて、わが御代りにとゞめ給ひけるなどをも、いと心にくゝよしありて、めもあやにぞ思ひあへりける。鳥羽の院御ぐしおろさせ給ひし年にや侍りけむ、七月ばかりより御わらはやみ、大事におはしまして、月比わづらはせ給ひしに、さまざまの御祈りせさせ給はぬ事なく、かたがたより御祈りしつゝ奉りたまふ。げんざとて、三井寺の覺宗などいふ僧たち、うちかはりつゝ參りても、怠らせ給はで、あさましくきこえ侍りしに、げんざなどし給ふさまにはおはせねど、この座主參り給ひて、祈り奉り給ひけるにこそ、かひがひしく怠らせ給ひにければ、又後にも、程へておこらせ給へりけるにも、たびたびやめたてまつり給ひけるとこそ聞こえ侍りしか。かやうの驗者には、山伏をのみ賴もしきものには思ひあへるに、誠しきことは、この度ぞ見え侍りける。山科寺の尋範僧正と申すぞ、ひとり殘り給ひて、此の比おはする。それは諸方の辨のむすめの腹にや。奈良には淸き僧もかたきを、いと尊き人にぞおはしますめる。和歌こそよくよみ給ふめれときこえ侍りしか。

  「やどもやど花もむかしに匂へどもぬしなき色はさびしかりけり」

とよみ給ふ。詞もいひなれ、すがたもよみすまされ侍る。近院の大臣の、河原院にてよみたまへるうた、

  「うちつけに寂しくもあるかもみぢばの主なき宿は色なかりけり」

といふ御うたの心なるものから、よみかへられて、いとやさしくきこえ侍る。又範永が、「月のひかりもさびしかりけり」といふ歌の心なれども、それにかはりて侍り。おなじ御はらの兄にて、寺の仁證法印とてもおはしき。猶僧公だちは、あら法眼など申すもおはしき。又てらに法印など申すも、大方をとこぎみ、十五六人ばかりやおはしましけむ。


今鏡第六

    ふぢなみの下

     繪合の歌

鷹司殿の御はらの公だちの御流れ皆申し侍りぬ。高松の御はらの、堀河の右大臣賴宗のおとゞこそ、關白にはなり給はざりしかども、女御たてまつりなどし給ひ、末のきみたちも、近くまで位高くおはする、あまた聞こえたまひしか。このおとゞ、御堂の第二の御子におはす。御母は、西の宮の左大臣高明のおとゞの御むすめなり。永承二年八月一日、內大臣になり給ふ。御年五十四、大將もとのまゝにかけ給ひき。康平三年に右大臣になり給ひき。御年七十三と聞えき。和歌の道むかしに耻ぢずおはしき。歌よみは、貫之、兼盛、堀河のおほい殿、千載の一遇とかや、ある人申し侍りけると申し出だしたる、人はえ聞き侍らず。御集にもすぐれたる歌おほく聞こえ、撰集にもあまた入り給へり。いたく人の口ならし侍る御歌は、花紅葉七夕千鳥など、數知らず聞こえ侍るめり。中にも戀の歌は、いたく人の口ずさびにもし侍る、多くよみ給へりき。「戀はうらなき」などよみ給へるぞかし。この御歌のさまは、めづらしき心を先にし給へるなるべし。帥のうちのおとゞの御むすめの腹に、君たちあまたおはしき。後朱雀の院の御時、女御に奉り給へりし。麗景殿の女御と申すなるべし。帝かくれさせ給ひて後、里にまかりいで給へりけるに、植ゑおき給へりける萩を、またの年の秋、人のをりて侍りけるを見給ひて、よみ給ひける、

  「こぞよりも色こそ濃けれ萩の花淚の雨のかゝる秋には」

その女御の生み奉りたまへりける姬宮、賀茂のいつきと聞こえ給ひき。この宮繪合し給ひしに、「卯の花さける玉川の里」と相模がよめるは名高き歌にはべるなり。三の君は後三條の院の東宮と申しゝ時、御息所にまゐり給へりき。このおとゞの太郞にては、兼賴中納言おはしき。御はゝは、女御のひとつ御はらなり。いと末のはかばかしきも、おはせぬなるべし。次には右大臣俊家のおとゞ、大宮の右のおとゞときこえ給ひき。この御末おほく榮えさせ給ふめり。その御子は宗俊の大納言、御母は宇治大納言隆國の女なり。管絃の道すぐれておはしける。時光といふ笙の笛ふきに習ひ給ひけるに、大食調の入調を、いまいまとて、年歷て敎へ申さゞりける程に雨かぎりなくふりて、くらやみしげかりける夜いできて「今宵かのもの敎へたてまつらむ」と申しければ、歡びて「とく」とのたまひけるを、「殿のうちにてはおのづから聞く人もはべらむ。大極殿へわたらせ給へ」といひければ、さらにうし〈こイ〉など取り寄せておはしけるに、「御供には人侍らでありなむ。時光ひとり」とて、簑笠きてなむ有りける。大極殿におはしたるに、「猶おぼつかなく侍り」とてつい松とりて更に火ともして見ければ、柱に簑きたる者の立ちそひたる有りけり。「かれは誰れぞ」と問ひければ「武能」となのりければ「さればこそ」とてその夜は敎へ申さで歸りにけりと申す人もありさ。又かばかり心ざし有りとて、敎へけりともきこえ侍りき。それはひがことにや侍りけむ。かの武能も其の道の上手なりけるに、誰れにかおはしけむ、一の人の「誰れに習ひたるぞ」と問はせ給ひければ、「道のものにもあらぬ法師とか、よく習ひたるものありけるになむ、傳へてはべる」など申しければ、「なほ時光が弟子になるべきなり」と仰せうけ給はりて、名簿かきてかれが家にいたりて「それがし參りたり」といはせければ、挑みて、「年頃かやうにも見えぬもの」とて驚きて呼びいれければ、時光ははなちでに、笛つくろひて居たりけるに、武能庭にゐてのぼらざりければ、袖のはたをひきて、のぼせて「いかに」と問ひければ、「殿のおほせにて、御弟子に參りたるなり」といへば、いと心ゆきて「何をか習ひ給ふべき」といふに「大食調の入調なむまだ知らぬものにて、うけたまはらむと思ひたまふる」といふに、けしきかはりて、太郞子に侍りける公里が前なりけるを、「此のわらはに敎へ侍りてのちにこそこと人には授けたてまつらめ。これは忽におぼしよるまじき事」と云ひければ、「この君傳へられむこと、忽の事にあらじ」とて、名簿とりかへして、歸り出でゝ、年經ける後、心ふかくうかゞひて、聞かむとするなりけり。昔の物の師は、かくなむ心ふかくて、たはやすくも授けざりける。その大納言は、さやうに道をたしなみて、やんごとなくなむおはしける。

     から人の遊び

按察の御子にて、備中守實綱といひし博士のむすめの腹に、右大臣宗忠のおとゞ、また堀河の左のおとゞの御むすめのはらに、太政のおとゞ宗輔など、近くまでおはしき。右のおとゞは中の御門のおとゞとて、催馬樂の上手におはして、御遊びなどには、つねに拍子とり給ひけり。才學おはして、尙齒會とて、年老いたる時の詩作りのなゝたり集まりて、文作ることおこなひ給ひき。から國にては、白樂天ぞ序かきたまひて、行ひ給ひけり。この國には、これ加へて、三たびになりにけり。からぐにゝは、ふたゝびまでまさりたることに聞こえ侍りしに、近くわたりたるから人のまた後に行ひたる、もてわたりたりけるとぞ聞き侍りし。年の老いたるを、上﨟にて、庭に居並びて詩作りなど遊ぶ事にぞ侍るなる。此のたびは、諸陵の頭爲康といふ翁、一の座にて、その次にこのおとゞ、大納言とておはしけむ。いとやさしく侍りし、藏人の頭より始めて、殿上人垣下してから人の遊びの如く、此の世の事とも見えざりけり。弟の宗輔のおほきおとゞは笛をぞきはめ給ひける。あまり心ばへふるめきて、この世の人にはたがひ給へりけり。菊や牡丹など、めでたく大きに作り立てゝ好みもち、院にも奉りなどして、ことことの世の用事など、いと申し給ふことなかりけり。餘り足ぞはやくおはすとて、御供の人も追ひつき申さゞりけり。思ひかけぬことには、蜂といひて、人さす蟲をなむ好み飼ひ給ひける。かうなる紙などに蜜ぬりて、さゝげてありき給へば、幾らともなく飛びきて、遊びけれど、大方つゆさし奉ることせざりけり。足高、角みじか、はねまだらなどいふ名つけて、呼ばれければ、召しに從ひて聞きしりてなむ來つゝむれゐける。うへなどいふ人も、いと定め給はざりけるにや、幼きめのわらはべをぞあまた御ふところにはふせておはしける。知り給ふ所より、何もてくらむとも知り給はで、預かりたるものなど、取りいづることあれば、「こはいづくなりつるぞ」などいひて、世に喜びたまひけりとぞ。おやは大臣にもなり給はざりしかども、此の二人は、高く至り給へりき。中御門の右のおとゞ宗忠の御子は、宗能の內大臣と聞こえ給ふ。美濃守行房の女の腹にやおはすらむ。大臣も辭し給ひて御ぐしおろして、まだおはすとぞうけたまはる。おとなしき人だに此の世にはおはせず。いかなるにか、わかき人のみ、上達部にもおはする世に、やとせにやあまり給ひぬらむ。ひとり殘りたまへるとぞ。宰相の中將など申しゝ程直衣ゆるされておはしけるとかや。讃岐の帝の御時、御身したしき上達部にもおはせぬに、思ひかけずなどきこえき。わきの關白かなと、あざける人などもおはしけるとかや。大方は事に明らかに、はかばかしくおはして、御さかしらなども、したまへばなるべし、易きことなれども、幼くおはします帝など、常には、五節の帳臺の試みなどに、いでさせ給ふことまれなるに、讃岐のみかど、おとなにならせ給ひて、はじめて出でさせ給ひしに、御指貫は何の紋といふことも納殿の藏人おぼつかなく思へるに「霰地にくわんの紋ぞかし」など、藏人の頭におはせし時のたまひなどして、さやうのこと明らかにおはしき。みかどの御指貫たてまつることは、ひとゝせに唯ひと度ぞおはしませばおぼつかなく思へるも、ことわりなるべし。このおとども催馬樂の上手におはして、御聲めでたくおはすとぞ。その御子は、贈左大臣長實の御むすめのはらに、中納言とておはすとぞ。右のおとゞの御子は宗成の左大辨の宰相とておはしき。又刑部少輔宗重とて、琵琶ひき給ふ人ぞおはしける。何事の侍りけるにか。夜、河原にて、はかなくなり給ひにけり。いかなるかたきをもち給へりけるにか。また山科寺に覺靜僧都と申しゝも、皆同じ御はらなるべし。その僧都こそ、すぐれたる智者におはすとうけ給はりしか。法も能く說き給ふとて、鳥羽の院などにても、御講つとめ給ひき。宗輔のおほきおとゞの御子は、前の大納言兵部卿と申すとかや。笛もおやの殿ばかりはおはせずやあらむ。吹きたまふとぞ申すめる。大宮の右のおとゞの公達あまたおはしき。宰相中將師兼と申しゝ、その御子に、少將おはしき。宰相の弟に、基俊の前の左衞門の佐と申しゝは、下野守順業ときこえしむすめの腹にやおはしけむ。その左衞門の佐は、歌よみ詩つくりにておはすと聞こえ侍りしが、さばかりの人の、五位にてやみ給ひにしこそくちをしく、餘りすぐれて、人に似ぬ事などのけにや有りけむ。「いはもる淸水いくむすびしつ」などよみ給へるぞかし。九十ばかりまでおはしき。七の翁にも入り給へりけるとぞきこえ侍りし。山の座主寬慶ときこえしも、大宮のおとゞの御子とぞきこえし。大乘坊とかや申しけむ。

     旅寐のとこ

末の子にやおはしけむ。大納言宗通の民部卿と申しゝこそ、大宮どのゝ御子には、むねと時めき給ひしか。末も廣く榮え給へり。白河の院の御おぼえの人におはしき。あこまろの大納言とぞ聞こえ侍りし。歌をもをかしくよみ給ひけるにこそ。行尊僧正のよゐして、とこわすれ侍りけるを、つかはすとて、よみ給ふこそ、いとむかしの心ちして、

  「草枕さこそかりねのとこならめけさしもおきて歸るべしやは」。

返しは劣りたりけるにや。え聞き侍らざりき。その公達は、顯季の三位のむすめの腹に多くおはしき。信通宰相中將と申しゝ、笛の上手にておはしけり。是れは世の覺えおはすと聞こえ給ひき。白河の院の殿上人に武者の裝束せさせて御覽じけるに、滋目ゆひの水干きてやなぐひ負ひ給へりけるこそしなすぐれておはしけるにや。こと人はとも人の樣にて、此の君こそあるじなどいはむやうに、おはしけると人の申しゝ、ひがことにや。わらはやみして失せ給ひにけりとぞ聞き侍りし。いと人の死なぬやまひにこそ、つねはきゝ侍るに。大方は此の末の、御ものゝけこはくおはするにや。民部卿のうせ給ひけるほどにも「家正がありつるは、まだあるか」などのたまはせければ「さも侍らず。はかなくなりて年歷侍りにしものゝ、いかでか侍らむ」など人申しければ、「うやかきて、まさしくありつるものを」とのたまひけるは、その家正といふが親の讓りたる所を、とり給ひけるを、からく思ひける程に「よせ文を奉れ。預けむ」など侍りければ、喜びて奉りけれど、預からざりけるとぞ聞き侍りし。家正とは、さねしげとて、式部の大夫とか聞こゆるが、をぢになむきこえし。故宰相うせ給ひけるにも、「卿殿おはしまさねば、侍はむとてなむ」といひて出できたりけるとかや。さてその所は、むすめ尋ね出だしてかへさるなどきこえ侍りし。後いかゞ侍りけむ。これならず大宮のおほいどのゝ、ものゝけなどいふ者も侍るが、年老いたりける僧のしる所侍りけるを、それも妨げ給ひければ、參りて中門の廊に、つとめてより、日たくるまで居たりけれど、家人も御けしきにやよりけむ、申しもつがざりけるを、民部卿幼くて、うつくしきわか君の、遊びありき給ふに、この僧のいとほしくつくづくと居りければ、訪らひて、「われ申さむ」とて、殿に申し給ひければ、人出だして問はせ給ひけるに、「しかじかの所のこと、うたへ申し侍る」など申しければ、その由あることなど、こまかに云ひ出だし給へりけるを、「ことわりの侍らむは、とかく申すべくも侍らず。年ごろもしるべくてこそ、久しくもしり侍らめ。何かは申すべからず。命の絕え侍りなむずることのかなしくて」と申しければ「いはれのあれば」とて、かなひ侍らざりければ、「いかにも命絕え侍りなむとす。たゞし若君をばなさけおはしませば、守り奉らむ」と申しけれど、それも、ものゝけに出でけるを、守らむといひしはなどありければ、「さ申し契り思うたまふれば、守り奉るに、その御ゆかりと思ふによりて、おのづから參りよるなり」とぞ云ひける。宰相中將の公だちは基隆三位のむすめの腹に、行通中將と聞こえ給ひし、つかさも辭し給へりし、法師になりておはするとぞ。ことはらの今一人おはするとかや。二人ながら、いよの入道とぞきこえ給ひし。思ひかけぬやうなる御名なるべし。

     弓のね

その宗通の大納言の次郞におはせし、太政大臣伊通のおとゞおはしき。詩など作りたまふかた、いとよくおはしけり。手もよくかき給ひけり。よき上達部とておはしけるに、あまりいちはやくて、世のものいひにてぞおはしける。こもりゐ給へりし折も、御幸など見給ひては「百大夫變じて、百殿上人になりにけり」などのたまひ、又「籠もりゐたるは苦しからねど、世に交ろはまほしきことは、人のいたく烏帽子のしり高くあげたるに、うなじのくぼにゆひて、出でむとおもふなり」など世に似ぬやうにのたまひけり。また信賴の右衞門の督武者おこしてのち、除目を行へりし、見たまひては、「など、井は司もならぬにかあらむ。井こそ人は多く殺したれ」など、かやうのことをのみのたまふ人になむおはしける。籠もりゐ給ひしことは、宰相におはせしに、われより上﨟四人中納言になれるに、われひとり殘りたり。たとひ上﨟なりとも、後に宰相になりたる人もあり。われこそなるべきに、ひとりならずとて、宰相をも兵衞の督をも中宮の權大夫をも、皆たてまつりて、久しく籠もり給へりき。人に越えられたることもなし。こと人ならばさてもおはすべけれども、腹立ちて籠もり給へりしに、爲通宰相の太郞子におはせし、讃岐のみかどの、御おぼえにおはせし程に、おほきおとゞ前の宰相にて、なりもかへらで中納言になり給ひき。陣の座の除目に、かんだちめになる例は、これや始めにて侍りけむとぞ聞き侍りし。內より院に申させ給ひ、はからはせたまへと、關白におほせられよなど申させたまひけるにや。さまで御けしきもあしくもなかりければ、なさむとせさせ給ふを、法性寺のおとゞ關白にて、あるまじきこととたびたび申させ給ひければ、いつとなくしぶらせ給ひけれど、院にたびたび御使などありて、陣の座にて中納言になり給ひにき。御前にて行はるゝ除目にこそ、上達部はなさるなるに、これよりはじまりて、此の頃はさてなさるゝとぞ聞こえ侍る。うへの御せうとなれば、殿にはさりがたくおはすべけれど、例なき事と申させ給ひけるにこそ。つかさをも返したてまつりて、入りこもり給ひける時、檳榔毛の車やぶりて、家の前の大宮おもての大路にて、取いだして燒き失ひたまひけるは、節會の日にて侍りけるとかや。さて紺の水干に、くれなゐの衣とか着て、馬にて川尻へ、かねとかいふあそびがりおはしける道に、鳥羽の櫻をなむ好き給ひける。かくて月日をわたりてありかむと思ふと院の御おぼえなりし中納言に消息し給ひければ、さもとおぼしめしけれど、うち任せてもえなくて、みかどのせさせ給ふあかざりけるなるべし。さきの宰相にて中納言になる例なき事なれど、隆國の宇治に籠もりゐて、前の中納言より大納言になりたる事の准らへつべきによりてぞ成り給ひける。宰相にまづかへしなさむと御氣色ありけるを、さてはありかむともなかりければ、かたきことなりと侍りけるなるべし。さていりこもり給ひし時、中の院大將まだ中納言など申しゝ折にや。その弓をかり給へりけるが、つかさたてまつりて、返したまふとて、

  「とゝせあまり手ならしたりし梓弓かへすにつけてねぞなかれける」

とはべりけるかへしに、中の院、

  「さりとても思ひな捨てそあづさ弓ひきかへす世も有りもこそすれ」

と侍りけるかひありて、右衞門の督になり給へりき。御むすめ近衞のみかどの御時、女御にまゐり給へりし、后にたち給ひて、みかどかくれさせ給ひしにかば、御ぐしおろし給ひてけり。九條の院と申すなるべし。法性寺殿の御子とて參り給へれど、誠にはこの御子なれば、いとめでたき御名なり。きさきには立ち給へれど、院の御女、一の人のなどならぬは、かたき事にぞ侍るなる。御みめも御けはひも、いとらうある人になむおはすとて、鳥羽の院もいと有り難くとぞほめさせ給ひける。近衞のみかどのかくれさせ給ひて、御ぐしおろしたまひてまたの年、五月のいつかの日、皇嘉門院にたてまつらせ給ひける、

  「あやめぐさひきたがへたるたもとには昔をこふるねぞかゝりける」。

御かへし、

  「さもこそは同じたもとの色ならめかはらぬねをもかけてけるかな」

と侍りけるとぞ聞こえ侍りし。太政のおとゞの太郞にておはせし、宰相とて、うせ給ひにき。その宰相は二郞か太郞かにおはすとて、おほぢの大納言殿、じたぎみとわらは名をつけ申し給ひけり。その宰相の御子は、此の頃泰通の少將と申すなる。侍從大納言の子にし給ひておはしけり。またも御子はおはすとぞ。伊實中納言と申しゝは、顯隆の中納言のむすめの腹にて、むかひばらとて、むねとし給ひしかば、兄の宰相よりも、ときめき給ひき。あにおとゝ皆笛をぞ吹き給ひし。ふたりながらおほい殿よりさきに、かくれ給ひにき。伊實の中納言の子に、少將侍從など申しておはすなり。宗通の大納言の三郞にて、季通前の備後守とておはしき。文のかたもしり給ひき。箏のこと琵琶など、ならびなくすぐれておはしけるを、兵衞の佐より四位し給ひて、この御中に上達部にもなり給はざりしぞくちをしき。さやうの道のすぐれ給へるにつけても、色めきすぐし給へりけるにや。

     かりがね

かの九條の民部卿の四郞にやおはしけむ。侍從大納言成通と申すこそ、よろづの事、能多く聞えしか。笛歌詩など、其のきこえおはして、今樣うたひ給ふ事、類ひなき人におはしき。又鞠あしにおはすることも、昔もありがたきことになむ侍りける。大方ことに力いれ給へるさま、ゆゝしくおはしけり。鞠も千日かゝずならし給ひけり。今樣も、碁盤に碁石を百かぞへおきて、うるはしく裝束し給ひて、帶などもとかで、「釋迦のみのりはしなじなに」といふ同じ歌を、一夜にもゝかへり數へて、百夜謠ひ給ひなどしけり。馬に乘り給ふ事も、すぐれておはしけり。白河の御幸に、馬の川に伏したりけるに、鞍の上にすぐにたち給ひて、つゆぬれ給ふ所おはせざりけるも、こと人ならば水にこそうち入れられましか。大かた早業をさへ並びなくし給ひければ、そりかへりたる沓はきて、勾欄のほこぎの上あゆみ給ひ、車のまへうしろ、ついぢのうらうへ、とゞこほる所おはせざりける、餘りに到らぬ隈もおはせざりければ、宮內卿有賢と聞こえられし人の許なりける女房に、しのびてよるよる樣をやつして、通ひ給ひけるを、さぶらひどもいかなるものゝふの、局へいるにかとおもひて、窺ひてあしたに出でむを討ち伏せむといひ、支度しあへりければ、女房いみじく思ひなげきて、例の日暮れにければ、おはしたりけるに、泣く泣くこの次第をかたりければ、「いといと苦しかるまじきことなり。きとかへりこむ」とていで給ひにけり。女房のいへる如くに門どもさしまはして、さきざきにも似ずきびしげなりければ、人なかりける方のついぢを、やすやすと越えておはしにけり。女房は、かく聞きておはしぬれば、又はよもかへり給はじと思ひけるほどに、とばかりありて袋をてづからもちて、又ついぢを越えてかへりいり給ひにけり。あしたには此のさぶらひども、いづらいづらとそゝめきあひたるに、日さし出づるまで出で給はざりければ、さぶらひども杖などもちて打ち伏せむずる設けをして、目をつけあへりけるに、ことの外に日高くなりて、まづ折烏帽子のさきを、さし出だし給ひけり。次に柿の水干の袖のはしをさし出だされければ、「あは、すでに」とて、おのおのすみやきあへりけるほどに、その後新しき沓をさし出だして、綠におき給ひけり。こはいかにと見る程に、いと淸らかなる直衣に、織物の指貫着て步み出で給ひければ、このさぶらひども逃げまどひ、土をほりてひざまづきけり。沓をはきて庭におりて、北の對のうしろをあゆみ參りければ、つぼねつぼねたてさわぎけり。中門の廊にのぼり給ひけるに宮內卿もたゝずみありかれけるが、いそぎ入りて裝束して、出で會ひ申されて、「こはいかなることにか」とさわぎければ、「べちの事には侍らず。日ごろ女房のもとへ、ときどき忍びて通ひ侍りつるを、さぶらひの打ちふせむと申すよしうけたまはりて、その怠り申さむとてなむ參りつる」と侍りければ、宮內卿おほきにさわぎて、「この科はいかゞあがひ侍るべき」と申されければ、「べちの御あがひ侍るまじ。彼の女房を賜はりて、出ではべらむ」とありければ、さうなきことにて御車どもの人などは、かちにて門のとに設けたりければ、具して出で給ひけり。女房さぶらひ、すべて家のうちこぞりて、めづらかなることにてぞ侍りける。から國に江都王など申しけむ人も、かくやおはしけむ。大方は心わかくなどおはして、始めて人のむこにおはせしをりも、調度の厨子かきいだして呪師のわらはの、御おぼえなるに給ひなどし給ひけり。上達部になり給ひても、賀茂詣に、檳榔にあをすだれかけなどし給ひし、始めたる事にはあらねども、さやうに好み給ひけるなるべし。わかざかりは左中將とて、すきものやさしき殿上人、名高きにておはしき。五節などには、雲のうへ、皆その御まゝなるやうにぞ侍りける。何れの年にか、五節に藏人の頭たちの舞ひ給はざりければ、殿上人たちはやみていかにぞや歌うたひ給ひけるに、右兵衞の督公行の、まだ別當の兵衞の佐など申しけむ、その人を表におし立てゝ、成通の中將かくれてうたひ給ひけるを、頭の辨うれへ申されたりければ、その折にぞ、御かしこまりにて、しばし籠もりゐ給へりし。白河の院には御いとほしみの人にておはしき。殿上人のうちには、たゞひとり色ゆるされておはすとぞ聞こえし。雪ふりの御幸に、ひきわたのかりごろも〈三字ぎぬイ〉を着給へりとて、こゝろえぬことに仰せらるゝときゝて、資遠とて侍りし檢非違使の、まだわらはにて、御前にも近くつかはせ給ひしに、「わび申すよしきかせ參らせよ」との給ひければ、はかなくうちいだして、「成通こそひきわたの事、かしこまりて申し候へ」と申したりければ、あしよしの御けしきなくて、「誠に奇怪なり」とぞ仰せられける。近衞のすけなどは、かとりうすものなど、花の色、紅葉のかたなど、染めつけらるべかりけるを、ひきわたのあらあらしく、おもほしめしけるにや、讃岐の院のくらゐの御時、十五百の歌、人々によませ給ひけるに、述懷といふ題をよみ給ふとて、

  「白河の流れをたのむ心をばたれかは汲みてそらに知るべき」

と講ぜられける時、むしろこぞりて、あはれと思ひあへりけり。淚ぐむ人もありけるとかや。おほかた、歌なども、をかしくよみ給ひき。かへる雁のうたに、

  「こゑせずばいかでしらまし春霞へだつるそらに歸る雁がね」

とよみ給へるも、淸らかにきこえ侍り。戀の歌どもゝ、「こひせよとても生まれざりけり」また「ふる白雪のかたもなく」など、わが心より思ひいだし給へるなるべしと聞こえていとをかし。詩などもよく心得給へりけるなるべし。左大辨宰相顯業といふ博士の語られけるは、「詩のことなどいはるゝきけば、なにがし千里などもつくりたる優にきこえて心すむわざになむある。萬里といふになりぬれば、またいふにもおよばずなどあるはと、けふあり」などぞはべりける。餘りね泣きやすきやうにぞおはしける。鳥羽にて、白河院のやぶさめといふこと御覽じけるに、瀧口なにがしとかいふ者、射むとしけるに、兄に似てつはものゝおぼえある家の者にて侍るなるが、的たてはべりけるを見て、「弟のいかに、兄の的たてによるか。いとやさしきことなり」とて、なき給ひければ、二條の帥は、「行兼〈兼行イ〉がやぶさめ射むに、公兼が的たてむ、あはれなるべきことかは」とぞ侍りける。またある源氏のむさのやさしく歌よみあそびなどしけるに、指貫のくゝりのせばく見えければ、「おのづからの事もあらば、さは、きとあげむずるか」などいひても淚ぐみ給ひけり。また三井寺に侍りける山伏の、法橋になれりけると語らひたまひても、「山伏ゆかしくは、それがし見よなどいふらむこそ、大峯のすがたゆかしけれ」などいひても、うちしぐれたまひけりと聞こえ給ひき。やすき事も物をほむる心にて、かくなむおはしける。弟の按察の大納言重通と聞こえ給ひしは、みめなどは似通ひ給へりけるが、いますこしにほひありて、あいつかはしきやうにぞおはしける。いと能などはおはせねども、笙の笛吹き、琵琶ひき給ひき。法性寺殿にぞ、常はしたしくさぶらはせ給ひけるに、殿も此の大納言も過ぎておはするのちなども、なつかしく、さと薰る香ぞおはしける。にほふ兵部卿かをる大將などおぼえ給ひけるなるべし。このふたりの大納言たち、御子もおはせで、みな人の子をぞ養ひ給ひける。

     ますみの影

閑院の春宮大夫と申すも高松の御はらなり。贈太政大臣能信と申す。白河の院の御おはぢ贈皇后宮の御おやにて、誠の御むすめにこそおはしまさねども、いとやんごとなし。この殿は詩など作らせ給ひけるとて、人の語り侍りしは、「はるにとめる山の月は、かうべにあたりてしろし」とぞきこえ侍りし。また忘れ侍らぬ、これはふみを題にて作り給へるに、吳漢とかいふ人とぞいひし。所の名などをも、さすがに、たどたどしくなむ申しゝ。また御歌もうけ給りき。

  「くもりなき鏡の光ますますに照らさむ影にかくれざらめや」

と白河院の御事を、伊勢の大輔よみ侍りける、その御返しとぞきこえ侍りし。白河の院一つ御はらの御いもうとは、仁和寺の一品の宮とて近くまでおはしましき。聰子內親王と申すなるべし。後三條の院うせさせ給ひし時、その日御ぐしおろさせ給ひて、仁和寺に住ませ給ひき。さておはしましゝかども、年ごとに、つかさくらゐなど賜はらせ給ひき。その御おとうとに、伊勢のいつきにておはせし、三品したまへり。俊子內親王ときこえき。樋の口の齋宮と申すなるべし。次に賀茂のいつき、佳子の內親王ときこえ給ひし、御惱みによりて、延久四年七月に罷りいで給ひき。富の小路の齋院とぞ申すめりし。齋宮はしはすに出で給ひき。そのおとうとにて篤子の內親王と申しゝも、皆同じ御はらからなり。始め延久元年賀茂のいつきに立ち給ひて、同五年に院うせさせ給ひしかば、前の齋院にておはしましゝに、をばの女院の御讓にて准三后御封など賜はらせたまへりし程に、堀河の帝の御時、后にたち給ひき。みかどよりは、御とし殊の外におとなにおはしければ、世にうたふ歌なむはべりけるとかや。春宮大夫殿は誠の御子もおはせねば、三條の內大臣能長のおとゞの甥におはするをぞ、子にしたてまつり給ひける。誠には堀河殿の御子におはす。これも帥殿の御女のはらなり。この內のおとゞの御子は、中納言基長と申しゝは、贈三位濟政の女のはらなり。彈正の尹になりたまへりしかば、尹の中納言とぞ申しゝ。三井でらに僧都とて、御子おはすとぞ。尹の中納言の弟、大藏卿長忠とておはしき。母は昭登親王の女なり。大辨の宰相より、中納言になりておはせし程に、中納言を奉りて、われ大藏卿になり、子を辨になされ侍りき。石山の辨とぞ申すめりし。賀茂にぞ限りなく仕うまつられし。中納言までなど夢に見られたりけるとかや。其の子は左少辨能忠と申しゝ。詩などよく作り給ひつ。心さとき人になむ坐しける。若くて疾くうせ給ひにき。少將入道有家と聞えし人の子にこの辨の同じ名つきたるが、わづらひける程に、公伊法印といふ人に、祈りをつけたりけるが同じ名にてとりかへられたるとぞ、世にはいひあへりし。其のとりかへ人は、まだおはすとかや。大藏卿の弟に、山の座主仁豪と申すもおはしき。南勝房とぞ申し侍りし。又律師などいひて、二人ばかりおはしき。又四位の侍從宗信と申すもおはしき。其の子は仁和寺に頑喜僧正とて東寺の長者にて此の頃おはすとぞ。尹の中納言の同じはらにおはせし、三條のおとゞの御むすめは、白河の院東宮におはしましゝ時、御息所と聞こえ給ひし。みかど位につかせ給ひて延久五年女御の宣旨かうぶり給ひき。道子の女御ときこえき。姬宮生み奉つりて後、內へも參り給はずなりにき。承香殿の女御とや申しけむ。御むすめの善子の內親王に伊勢にいつきにて下らせ給ひしに、具し奉りてぞおはしける。七十に餘りて失せたまひにき。この女御は、また何とかや申す女おはしき。春宮の大夫の御弟に同じ高松の御腹の、無動寺の右馬の頭入道顯信の君ときこえ給ひし。その御名は長禪とぞ申すなる。十八にてこの世をおぼし捨てゝ、比叡の山にこもらせ給ひし、たふとくあはれになど申すもおろかなり。昔の物語どもに、こまかに侍れば、さのみやは繰りかへし申し侍らむ。長家の民部卿と申すも、やがて高松の御はらなり。御歌どもこそうけ給はりしか。「庭しろたへの霜と見えつゝ」などよみ給へるも、この御歌とこそきゝ侍りしか。この大納言、御子忠家大納言、祐家中納言など申しておはしき。母はみな美濃守基貞のむすめとぞ。大納言の御子にて、もとたゞ俊忠二人の中納言おはしき。それは經輔の大納言のむすめの御腹なり。俊忠の中納言は、それも歌よみ給ふと聞え給ひき。堀河の院の御時、をとこ女のふみかはしにも、よみ給へるとこそきゝ侍りしか。その中納言の公達は、民部大輔忠成と聞こえ給ひし、又俊成三位とておはすなり。伊豫守敦家のむすめのはらとぞ。その三位の御歌も、此の頃の上手におはすとかや。歌の判などし給ふとこそ聞き侍れ。この三位、讃岐のみかどの御時、殿上人におはしけるが、みかど位おり給ひてのち、院の殿上をし給はざりければ、

  「雲居よりなれし山路を今更にかすみへだてゝなげく春かな」

とよみて、敎長の卿につけて、奉られ侍りければ、御返事はなくて、やがて殿上仰せ下されけるとぞ。撰集には、「あやしや何の暮を待つらむ」とかやいふ歌ぞいりて侍るなる。その兄に山の大僧正とて、經たふとくよみ給ふおはすなりときこえ給ふ。

     たけのよ

みかど關白に次ぎ奉りては、御母方の君たちこそ、皆世にしかるべき人にておはすめれ。九條殿の御子の中に三郞におはしましゝ、關白たえずせさせ給ふ。十郞にあまり給へりし、閑院のおほきおとゞの末こそ、關白はし給はねども、打ちつゞきみかどのおほんをぢにて、さるべき人々おはすめれば、その御有樣申さむとてまづ御門の御母方を申しつゞけ侍るなり。朱雀院村上の御おほぢは、堀河殿、冷泉院圓融院の御おほぢは九條殿、花山の院のは一條殿、一條の院三條の院のは東三條殿、後一條の院後朱雀の院後冷泉の院この三代の御おほぢは御堂の入道殿この十代のみかどは昭宣公と申す。堀河殿のひとつ御末なり。後三條の院こそ母方もみかどの御孫にておはしませど、御母陽明門院は御堂の御孫にておはしませば、ひとつ御流れなり。白河の院の御おほぢ、閑院の春宮大夫の同じ流れにおはしますを、まことの御おやは閑院の左兵衞の督公成、この同じ御流れなれど、東三條殿の御末にはおはせで、その御おとうとの閑院のおとゞの御末なり。この閑院のおほきおとゞの御うまごにおはせし、左兵衞のかみの御すゑうちつゞきみかどの御おほぢにおはす。この公成の左兵衞の督の御子按察の大納言實季は鳥羽の院の御おほぢなり。この大納言の太郞には、春宮大夫公實と申しき。經平の大貳のむすめの腹におはす。みめも淸らかに、和歌などもよくよみ給ふときこえ給ひき。笛吹きことひきなどし給はざりけれど、紅梅のみちのくに紙にまきたるふえ腰にさして、こと爪おほしてぞおはしける。こと人のさやうにおはせば、人もあざけるべきに、よくなり給ひぬれば、科なくいうにぞ見え侍りし。若くおはしけるほどにや、右近の馬塲に郭公尋ねに夜をこめておはしたりければ、女房ぐるまの雜色一人具したる、さきに立てりけるに、ほとゝぎすは啼かでやうやう明けゆく程に、水雞のたゝきければ女の車より、

  「いかにせむ待たぬ水雞はたゝくなり」

といひおくり侍りければ、

  「山ほとゝぎすかゝらましかば」

とつけて返したまひにけり。女は誰にかありけむ。ゆりばなにやとぞうけ給りし。いかにやさしく侍りけることかな。此の世には、さやうのことあり難くぞあるべき。よみ給へる歌おほかる中に、いとやさしくきこえ侍りし、

  「思ひ出づやありし其のよの吳竹のあさましかりしふし所かな」

とよみ給へるこそ、いづくにかいばみ給ひけるにか侍りけむ。からうすの音して當來の導師などや拜みけむとさへ思ひやられ侍る。そのおほい君は經實の大納言のうへ、そのつぎは花園の左のおとゞの北の方、三の君は、待賢門院におはします。つぎざまにまさり給へることを「まろが姉あらましかば、それなどいひて、たきゞおへる賤のをに具する人にやあらまし」などのたまはせけると聞えし。さしものたまはぬことを、人のいはせ侍るにも有りけむ。またさやうのことは戯れたまはむ、さも侍りけむ。皆此の御母光子の二位の御はらなり。春宮大夫の太郞にては侍從中納言實隆と申しておはしき。その御はゝ美濃守基貞の御女なり。この中納言人がらはよくおはしけるにや。院に和歌の會せさせ給ひけるに、歌人にまじりて歌かきたる、むねにも入れ、ひきそばめなどはし給はで、いつとなくさゝげておはしければ、御弟の太政のおとゞ、其折まだ中納言などにやおはしけむ、見給ひて、この人は歌などもよみ給はぬにとおぼつかなくて、「御歌見給へ侍らばや」と申し給ひければ、「何ごとのたまふぞ。前の左衞門の佐ひがことせられむやは」とのたまひける、をかしかりしとぞ侍りける。基俊の君、「すぐれたる歌よみなむ、よき歌なるべし」とのたまふにこそとはきこゆれど、歌の道は善きにつけ、惡しきにつけて、しゝあひて、われもたびたびに、人にも見せあはせなどすることを、我がえ〈見イ〉ぬことは、かくおはする事なり。其の子にて、冷泉の宰相公隆とておはせし、わかくて後少將ときこえし、若殿上人のいうなるにておはしき。其の弟に、兵衞の佐成隆とておはしける。まだをさなくてかくれたまひにき。こと御腹にや、奈良に覺珍法印と申しゝは當時おはすざえある人と聞こえ給ひき。春宮大夫の二郞におはせしにや、大宮のすけ實兼とか聞こえて、後には刑部卿など申すおはしき。この御中に上達部などにえ成りたまはざりき。その御女の、あはのかみ朝綱と聞こえし、むすめの腹におはしける、女院に參り給へりけるが、鳥羽の院しのびて物など仰せらるゝ事ありとて、法皇の出ださせ給ひけるとぞ聞こえ侍りし。

     梅のこのもと

春宮大夫の三郞にやあだり給ふらむ。これも美濃守のむすめの腹におはせし、太政大臣實行のおとゞは、學問もし給ひたる人にておはせし上に、たちゐの振舞ひなどめでたく、よき上達部にてぞおはしける。四位し給ひて、前の少納言にて、いつとなくおはしければ、おやの春宮の大夫殿は「身のざえなどもあり。よき者にてあるに、口をしく」とのみ歎き給ひけるに、うせ給ひて後、中辨にも藏人の頭にもなり給ひければ、「身の時なかりしをのみ見え奉りて」とぞ、思ひ出でつゝのたまはせける。おやの御病ひのほどなども、まろぶしにて、常はあつかひきこえ給ひけるに、うせ給ひてのち、基俊の君とぶらひにおはして梅の枝にむすびつけられける、

  「むかし見しあるじがほにて梅がえの花だにわれに物語せよ」

と侍りければ、このおとゞの御かへし、

  「ねにかへる花の姿のゆかしくは唯このもとを形見とは見よ」

とぞ侍りける。弟の左衞門の督より下﨟にて頭にてならび給へるに、頭の中將は上﨟にておはしけれど、この兄はざえもおはし、命も長くて、おほきおとゞまでいたり給へる、いとめでたし。院くらゐにおはしましゝ時、內宴行はせ給ふに、詩作りて參らむとし給ふを、御子の內のおとゞは、「さらで侍りなむ。年もあまり積もり給ひ、御ありきも叶ひ給はぬに、見苦し」と諫め申し給ひければ、中の院入道おとゞに「內大臣かく申し侍るは、いかゞ」と申し合せ給ひければ、「かならず參らせ給ふべきことなり。おぼろげに侍らぬことなるに、みかどの御をぢにおはしまして、おほきおとゞのまゐらせ給はざらむ、くちをしく侍り」など侍りければ、うまごの實長の大納言の、宰相の中將と申しゝに、かゝりてこそ參り給ひけれ。御ぐしおろし給ひしも、中の院かくと申し給ひければ、「しか侍るまじきことにやとこそ、思ひ給へて過ぎ侍れ。おぼしめし立つならば、いとめでたきことに侍り。同じくは障りなき程にとく侍らむ、めでたきこと」とのたまはせければ、入道し給ひてぞうせ給ひにし。弟の左衞門の督は御こゑめでたく、うたをよく謠ひ給ひて、成通の大納言にも、とりどりにぞ申しける。その左衞門の督通季と申しゝは、春宮大夫の四郞にておはせしなるべし。みめも淸らに、おほきにふとりたる人にておはしき。母は二位の光子にてむかひばらにておはせしかば、兄をもこえて頭の中將頭の辨にて、ならびておはしき。殊の外に世にあひたる人にて、通季信通とてひとてにておはせしに立ち並び給ひけるに、信通の君はちひさく、これは大きにおはすれば、母の二位殿、「これはいづれかかたは」と申し給ひければ、白河の院は男の大きなるは、あしきことかは」とぞ仰せられける。實行の太政のおとゞの御子は、內大臣公敎と申しき。修理のかみ顯季と申しゝ女のはらにおはす。その御母は歌よみにおはしき。少將公敎の母とて、集などに多くおはすめり。「常磐の山は春を知るらむ」などこそいうに聞こえ侍れ。內のおとゞは、若くよりみめ心ばへも、思ひあがりたるけしきにぞおはしける。藏人の少將、四位の少將など申しゝ程、左右の御手のうらに香になるまでたき物しめて、月出だしたる扇に、なつかしき程にしめたる狩衣など着給ひて、さき華やかにおはせて、夕つ方などに、常に三條室町殿に院女院などおはしますかたがたにまゐり給へば、女房などは「四位の少將の時になりにたり」などぞいはれけるとぞ聞えし。ざえなどもおはし、笛もよく吹き給ひき。心ばへなどおとなしくて、公事などもよく勤め給ふ。世のさたなどもよくおはせしを、世の人の樣に、あながちなる追從もし給はずなどおはしければにや、家などは叶ひ給はでぞ有りける。藏人の頭檢非違使の別當などし給ひしも、いとよくおはしけり。左大將など申すほど、鳥羽院の御うしろみ、院の內とりさたし給ひしかども、われと國ひとつも知り給はず、賢人にぞおはすめりし。てゝの太政のおとゞよりも、さきにうせ給ひにし、大方おとなしきやうにふるまひて、藏人の頭になり給へりしに、弟におはせし公行の、辨にはじめてなりて、厚額のかぶりになし給ひければ、われも今は厚額にせむとて、同じやうにして、內に參り給へるに、成通宰相の中將にはじめてなりて、しばしは透額の冠にてとやおぼしけむ、內に參り給ひて、頭の中將のかぶりを見給ひて、額に扇さしかくしてまかりいで給ひて、やがて厚額になりておはしけり。成通の御心ばへは、世のさたをばいたくも好み給はで、公事などは識者におはせしかど、世のまめなることは取りいられぬ御心にや。藏人の頭も、檢非違使の別當も歷給はず、侍從大納言などいひて過ぎ給ひにき。公敎のおほい殿は、三條の內大臣とも高倉のおとゞとも申すなるべし。三條のおとゞは能長のおとゞを申しゝかば、いひかふるなるべし。高倉のおとゞの姬君、淸隆の中納言のむすめのはらにおはする、院の女御にたてまつり給へり。今梅壺の女御と申すなるべし。御名こそいとやさしく聞こえ侍れ。その弟の姬君は、父おとゞうせ給ひてのち、おほぢのおほきおとゞ、さたし給ひて、今の攝政殿、右のおとゞなど聞こえさせ給ひし時まゐりたまひて、北の政所とぞきこえ給ふ。男公達は、同じ御はらにおはする、大納言實房と申すこそ、內のおとゞうせ給ひて後、三位の中將になり給ふ。殊の外の御榮えなるべし。末の子におはすれど、むかひばらなれば、兄二人にまさり給へるなるべし。左衞門の督實國と申すは中納言にておはすなり。此の頃みめよき上達部ときこえ給ふ。また笛も吹き給ひて、御おやのあとつぎ給ふとぞ。みかどの御師にもおはすと聞こえ給ふ。神樂などもうたひ給ひて、淸暑堂の御神樂にも、拍子とり給ふときこえ給ふ。その御兄にて左大辨の宰相實綱と申すなる、ふみなどにたづさはり給ひて辨にもなり給ふなるべし。僧公達も法眼など申して、山におはすなり。又石山の座主などもきこえ給ふ。內のおとゞの御次に、右兵衞の督公行と申しゝ、御弟のおはせし、宰相までなり給ひて若くてかくれ給ひにき。ざえなどもおはしけるにや。辨などにても仕へたまひき。歌こそよくよみ給ひけれ。その御子に顯親の播磨守のむすめの腹に前の大納言實長と申すおはすなり。みめよき上達部にぞおはすなる。いりこもり給へる、若き人たちのいかに侍るよにか。實慶法眼とて山におはしけるも、うせ給ひにけり。右兵衞の督の御弟に民部大輔公宗と聞こえ給ふおはしき。うつしごゝろもなくて、常にはものゝけにてうせ給ひにき。みめなどもよくおしはけると聞こえ給ひき。皆同じ御はらからにぞおはしける。顯季の三位のむすめの御腹におはしけり。左衞門の督通季と申しゝ中納言の御子に、按察の大納言公通と申すおはすなり。詩などもつくり給ふなり。くびの御病重くおはすればにや、たびたびつかさも辭し給ひて前の大納言にておはすとぞ。其御子に中將侍從などおはすなり。通基大藏卿のむすめの腹におはすとぞ。前の少將公重と申すも、左衞門の督の御子なり。歌よみ給ふとぞ。又山に法印など申しておはすなり。此人々の御いもうとに、廊の御方と申して、白河院の御おぼえし給ふ人におはせし。後には德大寺の左のおとゞの御子二人うみ給へりき。今の公保の大納言におはすなり。いまひとりは山に僧都と申すとぞ。左衞門の督の次には山の座主仁實と申しゝ、おなじ御はらにおはせしかば、山僧などは二位の僧正などぞ申すなる。いと能はすぐれたるもおはせざりけれども、心ばへかしこくおはせしかばにや、世の覺えなどもすぐれ給へりけるにや。世の末に、さばかりの天臺座主は、かたくなむ侍る。山のやんごとなき堂どもの破れたるも、多くつくりたて、大衆などの中にすこしもふようなるをば、よくしたゝめなどせられければ、世のためかの山のため、その時はおだやかになむ聞こえ侍りし。傳敎大師の二度生れ給ふといふ事も侍りけるとかや。白河の院のかくれさせ給ひけるに、七月七日俄に御心ちそこなひて、つとめてより御霍亂などきこえて、定かにものなど仰せられざりけるに、今はかくと見えさせ給ひける時、かねてより忠盛のぬしに「念佛かならずすゝめよ」と仰せられおきたりければかくなむうけ給はりしと、爲業といふが母して、たびたび申しけれど、仁和寺の宮など、「佛頂尊勝陀羅尼」とのみ仰せられて、「これおなじことなり」とのたまはせけれど、かねてうけ給はりたるに、違ひておぼえけるに、この僧正の「南無阿彌陀佛」と高く申したまへけるなむ、うれしかりしとこそのちに聞こえけれ。その僧正は座主などを辭し給ひて、坂本に梶井といふ所にこもりゐて、四十にあまりてうせ給ひにけり。

     花ちる庭の面

春宮大夫の六郞にやおはすらむ、左大臣實能のおとゞ、これも左衞門の督山の座主女院などの一つ御はらからにて、二位の御子におはす。大炊のみかどのおとゞとも德大寺のおとゞとも申すなるべし。御みめも心ばへもたをやかに、いとよき人におはしき。兄よりもなつかしく、いうなる人におはせしを、ふみなど作り給ふことはおはせねど、歌などよくよみ給ひき。戀の歌の中にも、いうに聞こえ侍りしは、「うつゝにつらき心なりとも」また「命だにはかなからずば」なども聞こえ侍りき。また「思ふばかりの色にいでば」などよき歌とこそきゝはべれ。又「あひみし夜はの嬉しさに」なども聞こえ侍りき。聲もよくおはしけるにや、御遊びに拍子とり給ふなどぞうけたまはりし。「庭こそ花の」などいふも、この御歌とこそおぼえはべれ。世のおぼえも殊の外におはしき。むかひばらにておはするうへに、人がらよくおはすればにや、三位の中將歷給へるも殊の外の御おぼえなり。此の頃こそ多くきこえたまへ。關白つぎ給ふべき人など放ちては、さることも侍らぬに、いとめづらしく侍りき。大納言の大將になり給へりしも、近くたゞびとのなり給ふこともなきに、いと珍らかになむ侍りし。左大臣までなり給へる、閑院のおとゞの後は四代なり絕え給へるに、この殿の大將になりはじめたまひて、兄の太政のおとゞ、この左のおとゞ、右大臣內大臣になりはじめ給ひて、公達もおのおのなり給へり。兄の太政のおとゞ、按察の大納言とておはせし、大將弟になられて、こもり給ひしに、一の大納言忠敎、二の大納言實行、三にて雅定、第四實能の大納言おはせし、上﨟三人をおきて、大將になり給ひしかば、實行、雅定二人は、いりこもりておはせしを、中の院の源大納言雅定左大將になり給ひて後こそ實行、雅定、右大臣、內大臣になり給ひしか。いづれの中納言とかの、まづ右のおとゞの御慶びにおはしたりければ、其の家の門に、うま車おほくたちなみて、俄に四足たつとて異門より入りたるに、見やりたれば、かくれの方までひきつくろひて、をとこ女いろいろにとりさうず〈ぞ歟〉きて掃きのごひなどしてゆゝしく花やかに見えけるに、かくとまうし入れたれば、久しうありて、烏帽子直衣にて、物語まめやかに聞こえて、院の御こゝろざしかたじけなくなどいひて、はなうちかみてよろこびの淚おしのごひつゝ忍びあへぬ御氣色なるに、ほども歷ぬればやうやうしりぞき出でゝ、つぎに中の院に渡りて、內のおとゞの御よろこび申し給ひけれは、中門の廊に犬の足がた八つ九つありて、さりげなる氣色もせず、さぶらひ呼び出だして申しいれたれば、使にとりつゞきて、半尻なる狩衣にて出で給ひて、「慶びに渡り給へるか。大臣は大饗など申して大事おほかり。何かさとぶらひ給ふ」など云ひちらしてやみ給ひにけり。ふたりの人の變られたりし樣こそと語られけるとなむ。德大寺のおとゞの御子は、右大臣公能のおとゞ、その御はゝ按察中納言顯隆と聞こえしむすめにおはす。此のおとゞ管絃も身のざえもかたがたおはすと聞こえき。親おほぢなどは、ざえおはせぬに詩など作り給ひ、みめも心ばへもいというなる人にぞおはしける。中納言の大將になりて、右大臣までなり給へりき。このおとゞは、若くより聲もうつくしくおはしまして、藏人の少將などいひて、五節の淵醉の今樣などに、權現うたひ給ひける。內侍所の御神樂の拍子とりなどし給ひけるも、ほそき御聲いとをかしくぞ侍りける。むねとは詩作り給ふ事を好みて、中將など聞こえ給ひし時、北野の、人の夢に「久しくこそ詩など講ずる人なけれ」とのたまはすとて「野徑只靑草」とかいふ詩、博士學生などあまた詣でゝ講じけるに、年二十にすこし餘り給へる、わかき殿上人のみめかたちいとをかしくて、上の御ぞなどなよらかに着なし給へるに、細太刀平緖などしなやかにてまじり給へる、神もいかゞ御覽ずらむとぞおぼえける。次第に朗詠し給へりける中に、花やかなる御聲して、「羅綺の重衣たる」とうち出でたまへりける。年老いたる人など淚をさへながして、むしろこぞりてめで思へり。また讃岐のみかど位におはしましける時、きさいの宮の御方にて管絃する殿上人ども召してよもすがら遊ばせ給ひけるに大殿もおはしまして「朗詠つかまつれ」と仰せられけるに、このおとゞの中將など申しける時に、「大公望か周文にあへる」と出だし給へりけるこそ〈如元〉御聲もうつくしう、みかど一の人の事にて、其のよしあることの、いうに聞こえ侍りける。藏人の頭より宰相になり給ひしに、中將をぞ、もとのことなればかけ給ふべかりしに、道を歷むとにや、右大辨になり給へりき。いと身にもおひ給はずなど思ふ人もありけるに、侍從になりそへ給ひて、太刀はきたまへるなど、心のまゝにおはせしさま、事につけてあらまほしくおはしき。藏人の頭におはせし時も、殿上の一寸物し日記の辛櫃に、日每に日記かきていれなどして、ふるきことを興さむとし給ふとぞきこえ給ひし。

     宮城野

此のおとゞの御むすめ、俊忠中納言のむすめの腹に、四人おはすときこえ給ふ。おほい君はいまの皇后宮におはしますとぞ。この院の位の御時に、きさきにたち給ひし御名は忻子と申すなるべし。その次に姬君おはしき。「きさきふたりの中にておぼろげの御ふるまひあるまじ。佛の道にこそは入らせ給はめ」と故おほい殿のたまはせければ、それにたがはず、若くおはすなるに御ぐしおろし給ひたると聞き侍る、いとあはれに、この御事をたれがよみ給へるとかや。

  「宮城野の秋の野中のをみなへしなべての花にまじるべきかは」

とぞ聞き侍りし。誠にいとありがたく契りおき給ふとも、そのまゝにおぼしなり給ふ、いといとありがたく物し給ふ御心なるべし。三の君は宇治の左のおとゞの北の方の、父おとゞの御いもうとにおはすれば御子にしたてまつり給ひて、近衞のみかどの御時、姉宮よりさきに、十一にて后に立ち給へり。近衞のみかども此の宮も、そのかみまだ幼くおはしゝ程に、九條のおほきおとゞの御むすめを鳥羽の院、女院などの御さたにて、女御にたてまつりたまへり。法性寺のおとゞの北の方は、九條のおほきおとゞの御いもうとにおはすれば、御子とてうらうへより心ひとつにてたてまつり給へりしに、宇治の左のおとゞ年ごろは兄の法性寺のおとゞよりも、世にあひ給へりしに、あまりにおはせしけにや、さすがにひとつにもおしは〈いイ〉り給はざりしに、今參り給ひたる中宮のみひとつにおはしますことにて、父の伊通のおとゞも大納言などまうして常に侍ひ給ふ。關白殿も宇治のおとゞも、心よからぬさまにて隔ておほかりけるほどに、みかどもまたかくれさせ給ひ、ひだりのおとゞもうせ給ひてとしふるほどに、二條のみかどの御とき、あながちに御せうそこ有りければ、ちゝおとゞにもかたがたまうしかへさせたまひけれども、しのびたるさまにてまゐらせたてまつりたまへりけるにむかしの御すまひもおなじさまにて、くもゐの月も、ひかりかはらずおぼえさせたまひければ、

  「思ひきやうきみながらにめぐりきて同じ雲ゐの月を見むとは」

とぞ、思ひかけず傳へうけ給はりし。かやうに聞こえさせ給ひしほどに、みかども亦かくれさせ給ひて、よも心細くおぼえさせ給ひけるに、例ならずおはしませばなどきこえて、御ぐしおろさせ給ひける。御とし廿五六ばかりの御ほどに、おはしけるにやとぞ聞こえさせ給ひし。この宮何事もえんなるかたなさけ多くおはしまして、御手うつくしうかゝせたまふ。繪をさへなべての筆だちにもあらずなむおはしますなる。またほに出でゝ、こと琵琶などひかせ給ふことは聞こえさせ給はねど、優れたる人に劣らせ給はず、物のねも能くきゝしらせ給ひたるとかや。御せうとたち參り給ひたるにも、御帳おましなどこそあらめ、さぶらふ人々まで、よろづめやすく、もてつけたる樣にて、人參るとて今更に臺盤所とかくひきつくろひ、御几帳おしいでなどせで、かねて用意やあらむ、心にくゝぞおはしますなる。故左のおとゞも、中にとりわきて御心につかせ給ふとてぞ、御子に養ひ申させたまひける。かやうになさけ多く、おはしますことをや聞かせ給ひけむ。二條の院の御時もあながちに御けしき侍りけるなるべし。この宮たちおやの御子におはしませば、ことわりとは申しながらなべてならぬ御姿なむおはしますなる。たれもと申しながら、院の御姉におはしますなる女院こそすぐれて、おはしますさま〈れイ〉は並ぶ御かたがたかたくおはしますなるに、今の皇后宮にや、いづれにかおはしますらむ、參らせ給へりけるに、人の見くらべまゐらせけるこそ、とりどりにいとをかしく見えさせ給ひけれ。女院はしろき御ぞ十にあまりて重なりたるに、菊のうつろひたる小袿白き二重おり物のうはぎたてまつりて、三尺の御几帳のうちにゐさせ給へりけるに、皇后宮は、うへ赤いろにてしたざま黃なるはじもみぢの、十ばかり重なりたるに、うはぎにおなじ色に、やがて濃きえび染めの小袿の色々なる紅葉うち散りたる、ふたへ織物たてまつりたりけるを、見參らせたる人の語りけるとなむ。さて此の大炊の御門の右のおとゞのをのこ君は、太郞にては、三位の中將とまうしゝ宮たちの同じ御はらにおはする、大納言實定と申すなり。つかさも辭し給ひてこもり給へるとかや。さばかりの英雄におはするに、人をこそ超え給ふべきを、人に超えられ給ひければ、位にかへて超えかへし給へる、いとことわりと聞こえ侍り。詩なども作り給ひ歌もよくよみ給ふとぞ。御聲などもうつくしうておやの御あとつぎ給ひて、御神樂の拍子などもとり給ひ、今樣なども能く謠ひ給ふなるべし。こもり給へるもあたらしくはべることかな。次に三位の中將實家と申すなるは、藏人の頭より宰相になり給ひたらむにも、なかなかまさりてなべてならず聞こえはべり。大和ごとなどよくひきたまひ、御聲もすぐれて、これも今樣神樂うたひたまふときこえ給ふ。この御弟に頭の中將實守と聞こえ給ふも、やまとごとなど習ひ傳へたまへり。この君たちみな才などもおはして、からやまとの文など作りたまふ。御みめも昔の匂ひ殘りて此の頃すぐれ給へる御有樣どもにおはすと聞こえ給ひ、又いづれの御はらにかおはすらむ、山に法眼とておはすと聞こえ給ふ。また院の姬宮生み奉り給へる姬君もおはすとぞ。まことや北の方の御はらにや、侍從とておはすなるは、頭の中將御子にし給ふとぞ。德大寺のおとゞの二郞には、中の御門の右のおとゞの御むすめのはらに公親の宰相中將とておはしき。疾くうせ給ひにき。次に一條の大納言公保と申すなる左衞門の督の姬君、廊の御方と申す御はらなり。當時大納言におはすなり。父おとゞに御みめはすこし似給へるとかや。同じ御はらに公雲僧都とて山におはすなり。異はらの御子僧にて三井寺などにおはすとぞ。春宮大夫の末の御子は民部卿季成と申しておはしき。東琴にてぞ御遊びにはまじり給ひけると聞き侍りし。右京のかみ道家のむすめのはらにおはす。文の方も習ひ給へりけり。その御子に、左衞門の督公光と申すなるこそ、ざえなどもおはして詩つくり給ひ、歌もよみてよき人と聞き奉るに、これも前の中納言などうけたまはるこそいかに侍る世の中にか。この御母顯賴の民部卿のむすめとぞ。みめも殊によき上達部にて、ちゝの大納言にはまさり給へりとぞ。聲よく神樂なども、うたひ給ふとか。これもゆゝしく大きなる人にて、御をぢの通季左衞門の督の御たけに、いと劣り給はずとぞうけ給はる。すべてよき人にこそ、若くても。てゝの世おぼえよりは殊の外に殿上にゆるされたる、近衞つかさにてぞおはしける。

     志賀のみそぎ

春宮大夫の御すゑのかく榮え給ふことも、みかどの御ゆかりなれば、女院の御ことこそ申し侍るべけれど、その御有樣はさきに申し侍りぬ。その生み奉りたまへる宮々は一の御子は讃岐の院におはします。二の御子は御目くらくなり給ひて、幼くてかくれ給ひにき。三の御子は若宮と申しておはしましゝ、幼くよりなえさせ給ひて、起きふしも人のまゝにて、ものも仰せられでおはしましゝ。十六にて御ぐしおろさせ給ひて、うせさせ給ひにき。御みめもうつくしう、御ぐしも長くおはしましけり。むかし朝綱の宰相の日本紀の歌に、

  「たらちねはいかにあはれと思ふらむ三とせに成りぬ足たゝずして」

とよまれたるも、蛭子におはしましける。宮の如くこそは聞こえさせたまへ。昔もかゝる類ひおはせぬにはあらぬにや。嵯峨の帝の御子に、隱君子と申しける御子は御身にいかなることのおはしけるとかや。さて嵯峨にこもりゐ給ひて、ひきものゝうちにたれこめて人にも見え給はでわらはにてぞおはしける。此の頃ならば法師にぞなり給はまし。昔はかくぞおはしける。心もさとくいとまもおはするまゝによろづの文を披き見給ひければ、身の御ざえ人にすぐれ給ひておはしましけるに、やんごとなき博士のみちを遂げ給ひける時、廣相の宰相と聞こえける人の、かの博士になり給ひけるに、小屋とかいふ所たちよりとぶらひ奉られけるに、難きこと侍りけるをば、駒をはやめてかの嵯峨に詣でゝぞ問ひ奉りける。みかどの御子にも、かやうなるさまざまおはしけり。これは、佛の道に入らせたまひたれば、後の世の契はむすばせ給ふらむ。この宮あかごにおはしましける時、絕えいり給へりければ、行尊僧正祈り奉られけるに、「白河の院位につき給ふべくは、いきかへり給へ」と仰せられけるほどになほらせ給ひければ、たのもしく人も思ひあへりけるに、そのかひなくおはしましける。いかに侍るにか。なえさせ給ひたりとも、御命は十にあまりておはしますべく、又ひとのしるしもたふとくおはすれば、なほらせ給へども位はべちのことなるべし。第四の御子は今の一院におはします。第五のみこは本仁の親王と申しゝ。わらはより出家し給ひて、仁和寺の法親王と申すなるべし。きさきばらの宮、法師にならせ給ふことありがたきことゝ申せども、佛の道を重くせさせ給ふ。いとめでたきことなるべし。この宮いとよき人におはして、眞言よく習ひ給ひ、御手もかゝせたまひ、詩つくり歌よみなどもよくしたまひき。その御歌多く侍る中に、みのをにこもりて出で給ひけるに、有明の月おもしろかりけるに、

  「このまもる有明の月のおくらずばひとりや秋のみねを越えまし」

とよみ給へるとかや。又、

  「夏のよはたゞときのまもながむればやがて有明の月をこそ見れ」

などよませ給へり。また若くおはせしに、この一二年がさきに、うせさせ給ひにき。四十一二にやおはしけむ。惜しくもおはします御齡に、定めなき世のうらめしきなるべし。又何事も、世におはぬほどの人と聞き奉りしけにや、うせ給はむとてのころ、金泥の一切經かきいだして、高野にて供養し給ひけるに、ひえの山の澄憲僧都を院に申しうけさせ給ひて、導師にて供養せさせ給ひけり。その時院に御ものまうでに具せさせ給ふべかりけるとかや。殊にえらびたまひて、あらぬ方の僧なりともよく說きつべきをと、おぼしけむもいとたふとし。こがねの文字をも院女院などはなちたてまつりては、ありがたきことを、おぼろげの御心ざしにはあらざるべし。女宮は一品の宮とておはしましゝは、禧子の內親王とて、賀茂のいつきに立ち給へりし、御なやみにて程なく出で給ひにき。長承二年十月十一日、御とし十二にてかくれさせ給ひにき。いつきの程なくおりさせ給ふためしありとも、まだ本院にもつがせ給はで、かくいでさせ給ふことはいとあさましき事とぞきこえ侍りし。廿七日薨奏とて、このよし內裏に奏すれば、三日は廢朝とて、御殿のみすもおろされ、何事も聲たてゝ奏することなど侍らざりけり。みかどは御いもうとにおはしませば、御服たてまつりなどしけり。紋もなき御冠、繩纓など聞こえて、年中行事の障子のもとにてぞ奉りける。みかどは日の數を月なみのかはりにせさせ給ふなれば、三日御ぶくとぞ聞こえける。次の姬君は、又さきの齋院とて、恂子の內親王と申しゝ、後には綩子とあらためさせ給ひたるとぞきこえさせ給ひしは、大治元年七月二十三日にうまれさせ給ひて、八月に親王の宣旨かぶりたまひき。長承元年六月卅日、いつき出でさせ給ひて、保元三年二月、皇后宮にたゝせ給ふ。上西門院と申すなるべし。永曆二年二月十七日、御ぐしおろさせ給ふと聞こえき。后にたゝせ給ふと聞こえしは、みかどの御母になぞらへ申させ給ふとぞきこえさせ給ふ。六條院の例にやはべらむ。この女院のさきの齋院とてからさきの御はらへせさせ給ひし時、御をぢの太政のおとゞのよみ給へる。

  「昨日までみたらし川にせしみそぎしがの浦波たちぞかへたる」

と侍りけるとなむ。秋の事なりけるに、かりごろもおのおの萩、龍たんなどいと珍らしきに、逢坂のせきうち越えて、山のけしきみづうみなどいとおもしろくて、御祓のところには、かたのやうなるかりやに、いがきのあけの色水のみどり見えわきて、心あらむ人はいかなる言のはも、いひとゞめまほしきに、おとゞの御歌たけたかくいとやさしくこそ聞こえはべりしか。


今鏡第七

    村上の源氏

     うたゝね

藤波の御流れの榮え給ふのみにあらず、みかど一の人の御母方には、近くは源氏の君だちこそよき上達部どもはおはすなれ。堀河のみかどの御母賢子の中宮は、おほとのゝ御子とて參り給へれど、誠は六條の右のおとゞの御女なり。きさきの御事はみかどのついでに申し侍りぬ。そのゆかりのありさま源をたづぬればいとやんごとなくなむ侍る。村上のみかどの御子に中務のみこと申しゝは、六條の宮とも後の中書王とも申す、この御事なり。ふみ作らせ給ふこと世にすぐれ給へりき。御歌も世々の集どもに見え侍るらむ。その御子に土御門の右のおとゞと申しゝは、始めて源の姓得させ給ひて師房のおとゞと聞こえさせ給ひき。御身のざえも高く、文作らせたまふ方もすぐれ給ひて、野のみかりの歌の序など人の口に侍るなり。又月の歌こそ、心にしみて聞こえ侍りしか。

  「有明の月まつ程のうたゝねは山のはのみぞ夢に見えける」。

すきずきしき方のみにあらず、土御門の御日記とて、世の中の鑑となむうけ給はる。みかど一の人の御よそひども、その中にぞ多く侍るなる。御堂の御女は、おほくきさき國母にてのみおはしますに、此の殿の北のかたのみこそ、たゞ人はおはしませば、いといとやんごとなし。その御はらに、堀河の左のおとゞ俊房、六條の右のおとゞ顯房と申して、兄おとうと並びたまへりき。堀河殿は、才學高くおはして、文作りたまふことすぐれて聞こえ給ひき。六條殿は、歌よみにぞおはして判などし給ひき。世のおぼえ兄よりもまさり給ひて、大納言の大將、中宮のおほんおやにておはせしに、大臣あきて侍りけるを、白河のみかど、おぼしわづらはせ給ひて、日ごろ過ぎけるに、匡房の中納言に仰せられあはせければ、「堀河の大納言をなさせ給へ」とうちいだして申しければ、みかど仰せられけるは「弟なれども、左大將中宮の御おやにて、此のたびならずは法師にならむといふなり。また上﨟ども有りて、われこそなるべけれなどいへば、それも捨てがたきなり」と仰せられければ、「大納言大臣になりはべることはかならずしも一二といふこと侍らず。なるべき人をえりてなされ侍るなり。又國の司歷たる人いかゞ」など申し侍りければ「菅原のおとゞも讃岐守ぞかし」と仰せられければ、江の帥申しけるは、「博士はべちのことに侍り。又才學高く侍らむ兄を大臣になさせ給はむに、出家するおとうとはよに侍らじ」と申しければ、堀河殿はなり給へりけるとぞ。六條のおとゞは、その後にぞなり給ひし。中宮の御おや、堀河のみかどの御おほぢにて、いとめでたくおはしき。後には大將をば、太政のおとゞの大納言におはせしに讓り申し給ひて、行幸に仕うまつり給へりしこそ、いとめづらかに侍りしか。遲く參り給ひて、道にて車よりおりて、馬にのり給ひしかば、大將殿よりはじめて皆おり給へりしに、盛重といひしが、左衞門の尉なりしと、行利といふ隨身の陣につかうまつりしを、あがり馬にのせて、さきに具せさせたまへりければ、なほ大將にてわたり給ふとぞ見えける。このあにおとうとのおほいとの、少將におはしける時、隆俊の治部卿御むこにとり申さむとおもひてその時目しひたる相人ありけるに「彼の二人いかゞ相したてまつりたる」と問はれければ、「ともによくおはします。皆大臣にいたり給ふべき人なり」といひけるを、「いづれか世にはあひ給ふべき」と問はれけるに、「おとうとは末廣く、みかど一の人も、出でき給ふべき相おはす」と申しければ、六條殿をとり申したるとぞきゝ侍りし。其のかひありて、みかど關白もその御末より出でき給へり。雪ふりのみゆきにおそく參り給ひて、「雪見むとしもいそがれぬかな」とよみたまへるこそ、いとやさしく昔の心ちし侍れ。よる女の許にわたり給へりけるに、かねてもなくて、門に車の絕えずたちければ、それを召して出でたまひければ、盛重といひしが、出でさせたまふ道に常はふしたりければ、かならずおくれ奉ることなかりけるに、ゐなかさぶらひと盛重とふたりともに具して、出でたまひけるに、馬に乘れりけるものゝおりざりければ、ゐなか人、ともしたるつい松して、うちおとさむとしけるを、猛きものゝふども多く具したりけるが、御車によらむとしけるを、盛重御車のもとにて、「皇后宮の大夫殿のおはしますぞ。過ち仕うまつるな」といひければ、まどひおりて、「皆々まかりのきね」といひければ、過ぎ給ひにけり。次の日の夕暮に、賴治といひし武者のおほいとのへ參りて御門の方にて盛重たづね出だして「よべかしこく御恩かぶりて、過を仕うまつるらむに」とて、かしこまり申しに參りたるなり。「かくとはな申したまひそ」といひけれど、おほい殿に申したりければ、召してみきすゝめなどしたまひけるとぞ。盛重が子盛道といひしは語りける。

     堀河の流

堀河の左のおとゞの御子は、太郞にては師賴大納言とておはせし、御母中將實基の君の御むすめなり。文など博く習ひ給ひて、才おはする人にて坐しき。中辨より宰相になり給ひて、ひら宰相にて前の右兵衞の督とて年久しくおはしき。年よりてぞ、中納言大納言などに引續きて、程なくなり給ひし。近衞のみかど、東宮にたゝせ給ひしかば、母きさきの御ゆかりにて、大夫になり給へりき。歌をぞ口疾くよみ給ひける。早くけさうし給ふ女の百首よみ給ひたらば逢はむといふありけるに、題をうちより出だしたりけるに從ひて、よひより曉になるほどによみはてたまひたりけるに、女かくれにけるぞいとくちをしかりける。周防の內侍がゆかりなりければ、內侍のとがにぞ聞く人申しける。大納言の御子は師能の辨とて、若狹守通宗のむすめのはらにおはしき。その兄弟に師敎師光などきこえたまふ、三井寺に證禪已講とて、よき智者おはしける、うせ給ひにけり。師光は小野の宮の大納言能實のうまごにて、小野の宮の侍從など申すにや。大納言の次の御弟も、師時の中納言と申しゝ、その母侍從宰相基平のむすめなり。それも詩などよく作り給ふなるべし。大藏卿匡房と申しゝ博士の申されけるは、この君は詩の心得てよく作り給ふとぞ、ほめきこえける。からの文ものし給へることは、兄には劣り給へりけれど、日記など量りなくかきつめ給ひて、此の世にさばかり多く記せる人なくぞ侍るなる。その文どもはうせ給ひてのち鳥羽の院めして、鳥羽の北殿におかせ給へりけるに、權大夫とかきつけられたる櫃ども、數しらずぞ侍りける。宗茂菅軒などいひしがくさうの上官なりし時は、此の君弟子におはして、車など貸し給へりければ、外記の車は上﨟次第にこそたつなるを、中將殿の車とて、牛飼一つに立てゝ、爭ひなどしける。歌よみにもおはして、兄の太納言も、この君も、堀河院の百首などよみ給へり。爲隆宰相は、大辨にて中納言にならむとしけるにも、宰相中將なれども大辨に劣らず、何事もつかへ除目の執筆などもすれば、うれへとゞめなどし給ひける。大方の物の上手にて、鳥羽の御堂の池堀り山造りなど、とりもちてさたし給ふとぞ聞こえ侍りし。ゆゝしくうへをぞ多くもち給へるとうけたまはりし。六七人と持ち給へりけるを、夜每に皆おはしわたしけるとかや。冬は炭などをもたせて火おこしたる、消えがたには出でつゝ、よもすがらありきたまひて朝いを午時などまでせられけるとぞ。さて其のうへども皆中よくて、いひかはしつゝぞおはしける。この中納言の御子は、中宮の大夫師忠のむすめのはらに、師仲中納言とておはする、右衞門の督のいくさおこしたりし折、あづまに流され給ひて歸りのぼりておはすとぞ。この兄ども、少納言大藏卿などきこゆるあまたおはしき。おほいとのゝ御子は、入道中納言師俊とておはしき。大辨の宰相より中納言になりて、治部卿など申しゝ程に、御病によりて、かしらおろし給ひて、たうのもとの入道中納言とぞきこえ給ひし。それも物よく習ひ給ひて、詩など作り給ふ。歌よみにもおはしき。この兄おとうとたち、かやうにおはする、ことわりと申しながらいとありがたくなむ。延喜天曆二代のみかど、かしこき御世におはします上に、ふみ作らせ給ふ方もたへにおはしますに、中務の宮又すぐれ給へりけり。土御門殿、堀河殿あひつぎて、御身のざえ、文つくらせ給ふ方もすぐれ給へるに、土御門殿は才すぐれ、堀河殿は、ふみ作り給ふこと、すぐれておはすとぞきこえ給ひける。この大納言中納言たち、かく仕へ給ひて、六代かくおはする、いと有りがたくやんごとなし。この大納言中納言殿たちの詩も歌も、集どもに多く侍らむ。中納言の御子は、少納言になり給へりし、後は大宮亮とぞきこえける。そのおとうとは寬勝僧都とて、山におはしけるこそ、あめつちといふ女房の、みめよきが生みきこえたりければにや。みめもいときよらに、心ばへもいとつきつきしき學生にて、山の探題などいふこともしたまひけるに、あるべかしくいはまほしきさまに、いとめでたくこそおはしけれ。說法よくし給ひけるに、人にすぐれても聞こえ給はざりしかど、ある所にて、阿彌陀佛釋し給ひしこそ、法文のかぎりし給へば、聞きしらぬ人は何とも思ふまじきを、男も女も、身にしみてたふとがり申して、聞きしりたるは、かばかりのことなしと思ひあへり。天臺大師の經を釋し給ふに、四の法文にて、はじめ如是より經のすゑまで、句ごとに釋し給へば、その流れを汲まむ人、法をとかむ其のあとを思ふべければとて、はじめには因緣などいひて、さまざまの阿彌陀佛をときて、むかし物がたり說き具しつゝ「何事も我が心より外のことものやはある。事の心をしらぬはいとかひなし。朝夕によその實をかぞふるになむあるべき」など說き給ひし。思ひかけず承りしこそ、世々の罪も滅びぬらむかしとおぼえ侍りしか。

     夢のかよひぢ

堀河殿の公達、大臣に成り給はぬぞくちをしき。春宮大夫は一の大納言にて時にあひ給へりしに、成り給ふべかりしに、折ふしあきあふ事なく、えならでうせ給ひにき。若くおはしける時に、御夢に採桑老といふ舞をし給ふとみて語り給へりけるを、物に心得ぬ人の宰相にて久しくやおはしまさむずらむと合はせたりける、いとあさまし。さいさうといふことは有りとても、さい相とやは心得べき。桑といふ木をとるおきなといふ心とも、其の木をとりて老いたりとも云ふにつきてぞ心うべきを、かゝるひがことのあるなり。されば大納言はらだちてのたまひければにやありけむ。さいひける人もとくうせにけり。又大納言殿も誠に宰相にて久しくおはしき。昔九條の右のおとゞの御夢を、あしく合はせたりけむやうなることなり。宰相にて久しくおはせざらましかば大臣にはなり給ひなまし。またおほい殿のいつきを取り据ゑ給へりしかばにや、「御末のつかさ昇りがたくおはする」と申す人もあるとかや。九條殿の北の方の宮もびんなきことなれど、それはたゞ宮ばかりにおはしき。これはいつきに居たまへる人を、籠めすゑ申したまへりし、たぐひなくや。業平の中將も、夢かうつゝかの事にてやみにけり。道雅の三位も、「ゆふしでかけしいにしへに」などいひて、しのびたることにこそ侍りけれ。これはぬすみ出だして、とりすゑ給へれど、業平の中將にはかはりて、前のなれば、さまであやまりならずやあらむ。齋宮の女御なども、又いつきのおり給ひてきさきになり給へるもおはせずやはある。又大臣までぬしのぼり給ひしかば、末のかたるべきにあらず。おのづからの事なるべし。堀河殿は、僧子も多くおはしき。小野法印、山の座主など聞こえ給ひき。姬君は、富家の入道おとゞの北の方にておはせし、後には御堂の御前などきこえて、御ぐしおろし給へりき。おとうとの姬君は子にし給ひて、御堂をも讓り給へるは、堀河の大納言の子の辨に具し給へりけるとかや。それもさまかへておはするとぞ。又近衞のみかどの御はゝ女院も、左のおとゞの御むすめの生みたてまつり給へると聞こえ給ひき。この堀河殿は、七十になり給ふ御年、御子の堀河の大納言殿の右兵衞の督と申しゝ、父のおとゞの御賀せさせ給ふとて、長治元年しはすの廿日あまり、堀河殿にて、御賀したてまつり給ふときゝ侍りしこそ、むかしのこと聞き侍るやうにおぼえ侍りしか。その殿にまゐりし僧のかたり侍りしは、瑠璃のみくにの佛の、人のたけにおはしますかき奉りてこそ、彼の岸のみのりに、かねの文字に七卷、たゞの文字の御經なゝそぢ、寫したてまつりて、僧綱有職など七人請ぜさせ給ひて、供養したてまつらせ給ふ。一家の上達部殿上人、太政のおほいどの、內大臣と申しゝより始めてわたり給ひて、御佛供養の後、舞人樂人など左右の舞ひなどして、後には御あそびせさせ給ふ。御みき聞こえかはしなどして、いひしらずめでたく聞きたまへりしが、中の院の大將若君におはしける、十八ばかりにて、笙の笛吹き給ひけるこそ、その日のめづらしく淚もおとしつべきことに侍りけれ。このおとゞよりは、六條大臣殿は、さきにうせ給ひにしかば、その御子の太政のおとゞは、堀河のおとゞに何事も尋ね習ひ給ひて、親子の如くなむおはしける。それにひかれて、こときんだち皆靡き申し給ひけりとぞきゝ侍りし。

     根あはせ

六條の右のおとゞの公達は、まづ堀河のみかどの御母中宮、その御はらに前坊と堀河のみかどゝをのこ宮生みたてまつり給へり。女宮は媞子の內親王と申すは、白河の院の第一の御むすめ、伊勢のいつきにおはしましゝ、中宮うせさせたまひにしかば、出でさせ給ひて、堀河のみかどの姉にて、御母きさきになぞらへて、皇后宮に立たせ給ふ。院號ありて郁芳門院と申しき。寬治七年五月五日、あやめの根合せさせ給ひて、歌合の題、菖蒲、郭公、五月雨、祝、戀なむ侍りける。こまかには歌合の日記などに侍るらむ。判者は六條のおほい殿せさせ給へり。周防の內侍、戀の歌、

  「こひわびてながむるそらのうき雲や我が下もえの煙なるらむ」

とよめりけるを、判者「あはれ仕うまつりたる歌かな」と侍りければ、右歌人かちぬとて、このうた詠じてたちにけるとなむ。二位大納言の宰相におはせしにかはりて、孝善が、「ひくてもたゆくながき根の」とよみとゞめ侍るぞかし。永長元年八月七日、かくれさせ給ひにき。その年おほ田樂とて、都にも道もさりあへず、神の社々、この事ひまなかりける、御事あるべくてなど世に申しける。この御ことを、白河の院なげかせ給ふこともおろかなり。これによりて御ぐしおろさせたまへり。あさましなど申すもおろかなり。御めのと子の、まだ若くて廿一とか聞こえしも、法師になり侍りし。かなしさはことわりと申しながらも、わかきそらにいとあはれに、ありがたき心なるべし。日野といふところにすむとぞきゝ侍りし。次のとしの秋、むかしの御事思ひ出でゝ、そのとものぶの大とこ、

  「かなしさに秋はつきぬと思ひしをことしも蟲のねこそなかるれ」

とよみて、筑前の御とて、伯の母ときこえしがもとに、つかはしたりければ、筑前かへし、

  「蟲のねはこの秋しもぞなきまさるわかれのとほくなる心ちして」

と侍りしを、金葉集にはきゝあやまりたるにや、かきたがへられてぞ侍るなる。六條の院に御堂たてさせ給ひて、昔おはしましゝやうに、女房さぶらひなど、かはらぬさまに、いまだおかれ侍るめり。御かなしみ、むかしもたぐひあれど、かゝること侍らず。御庄御封などよにおはします樣に、しおかせ給へれば、すゑずゑのみかどの御時にも、改めさせ給ふことなくて、この比も、さきの齋宮傳へておはしますとぞきこえさせ給ふめる。

     ありす川

この中宮の姬宮、二條の大宮とて女院の御おとうとおはしましゝ令子內親王とて、齋院になり給ひて、後には鳥羽の院の御母とて皇后宮になり給ひて、大宮にあがらせ給ひにき。いと心にくき宮のうちと聞き侍りしは、侍從大納言三條のおとゞなど、まだ下﨟におはせし時、月のあかゝりける夜、さまやつして、宮ばらをしのびて立ち聞きたまひけるに、あるは皆ねいりなどしたるも有りけり。この宮にいりたまひければ、西の對の方、しづまりたるけしきにて、人々皆ねたるにやとおぼしかりけるに、奧の方にわざとはなくて、箏のことのつまならしして、たえだえきこえけり。いとやさしく聞こえけるに、北の方のつまなる局、妻戶たてたりければ、月も見ぬにやとおぼしけるに、うちに源氏よみて「榊こそいみじけれ。葵はしかあり」など聞えけり。臺盤所の方にはさゞれ石まきて、らんごひろふ音など聞えけるをぞ、昔の宮ばらもかくやありけむと侍りける。また古き歌よみ、攝津のごといふ、又六條とて若きうたよみなどありて、折ふしにつけて心にくきごたち多く侍りけり。爲忠といひしが子の、爲業といひしにや、いづれにかありけむ、かの宮による參りて、ごたちとあそびけるに、爲忠國にまかりける程なりけるに、年老いたる聲にて、「八橋と天の橋立といづれまさりて覺えさせ給ひしとたよりに傳へ給へ」などいひけるを、後に、又あるごたち、「かくことづてし給ふ人をば、たれとかしりたまひたる」といひければ、「やつはし、あまのはしだてなど侍りけるに、心え侍りぬ」といひけるを、次の日、「よべ心えたりといはれしこそ、猶そのひとの如くおぼゆる」などいひけるをきゝて、津のごとりもあへず「心えずのことや。八橋などいはむからに、われとや心うべき。ながらの橋といはゞこそ、われとはしらめ」といひけるもをかしく。又土御門の齋院と申して稹子內親王と申しておはしき。その齋院は常に法の筵などひらかせ給ひて、法文のことなど僧參りあひてたふとき事ども侍りけり。雅兼入道中納言などまゐりつゝ、もてなしきこえ給ひけるとかや。歌なども人々まゐりてよむ折も侍りけり。水のうへの花といふ題を、時の歌よみども參りてよみけるに、女房の歌、とりどりにをかしかりければ、木工頭俊賴も、むしろにつらなりて、「このうたは、圍碁ならばかたみせんにてぞよく侍らむ」など、とりどりに襃められけるとぞ。其のひとりは、堀河の君とて、顯仲伯のむすめのおはせしうた、

  「雪とちる花のしたゆく山水のさえぬや春のしるしなるらむ」。

また、

  「春風にきしの櫻の散るまゝにいとゞ咲きそふなみの花かな」。

この外もきゝ侍りしかど忘れにけり。入道治部卿の、「嵐や峰をわたるらむ」とよみ給ふ、そのたびの歌なり。白河の院歌どもめしよせて、御覽じなどせさせ給ひけり。一の院の御むすめなればにや、殊の外にあるべかしくぞ、宮のうち侍りける。女房中﨟になりぬれば、みづからさぶらひに物いひなどはせざりけりとぞきこえ侍りし。この齋院かくれさせ給ひてのち、そのあとに堀河の齋院つぎてすみ給ひけるこそ、むかしおぼしいでゝ中の院の入道おとゞよみ給ひける。

  「ありすがは同じ流れと思へども昔のかげの見えばこそあらめ」。

     紫のゆかり

中宮の御せうとたち、男も僧もさまざまおほくおはしましき。太政大臣雅實のおとゞと申しゝは、中宮の一つ御はらからにて、六條の右のおとゞの太郞におはしき。その御母治部卿隆俊の中納言のむすめなり。久我のおほきおとゞと申しき。いと御身のざえなどはおはせざりしかど、世に重く思はれたる人にぞおはせし。父おとゞわがまゝなる御心にて、ひがひがしきこともしたまひけるにも、このおとゞ參り給ひければとゞまりたまひけり。白河の院も耻ぢさせ給へりけるとこそ聞え侍りしか。醍醐より僧正の申さるゝことなど侍りけるを、此のおとゞに仰せられ合はせければ、「知る所など幾ばくも侍らねば、さぶらふ者どもに申しつけて、しもづかさなどいふことは、え知り給はぬことになむ」など侍りければ「いと耻かしくあるかな」と仰せられけり。堀河のみかどの御時、子の少將とて、入道右のおとゞ、石淸水の舞人し給ふべかりけるに、中のみかどの內のおとゞ少將とておはするは上﨟なりけれど、一の舞は中の院ぞ仰せられむずらむとおぼしけるに、知足院の大殿の關白におはするに、みかども憚りて宗能の一の舞し給へりければ、久我のおとゞ聞きつけ給ひて、この少將をば呼びとゞめて腹だちてこもり給ひければ、みかどもいたませ給ひて、心ゆるさむとて加階を給はせたりければ、然あらば、出でありかざらむも便なしとて、喜び申しなどせられけるに、關白どの對面したまひて、「事のついでなれば申すぞ。大饗には、おとゞ尊者に申さむずるなり。其の由きこえしるべきなり」などありて、賴みておはしける程に、その日になりて、見せに遣はしたりければ、御物忌にて、門さしておはしければ、俊明の大納言をぞ、尊者には呼び給ひける。四條の宮は、「むげに下りたる世かな」とて、泣かせ給ひけるとかや。臨時の祭の一の舞、少將のし給はぬ、やすからぬ心にて、かくたがへ給ふなりけり。その入道右のおとゞ、宰相の中將と申しゝ時、實能のおとゞの、三位の中將とておはせし、こえて中納言になり給ひけるにも、太政のおとゞ、院をうらみ申し給ふと聞かせ給ひて、「中宮のせうとにて、うちのせさせ給ふ、すぢなきことかな」と仰せられながら、長忠の宰相、左大辨にて中納言になりたりけるを、「子を辨になさむと申しけるものを」とて、中納言にて七八日ばかりやありけむ、長忠をば大藏卿になして、子の能忠をば辨になしてぞ、中の院の宰相中將は、中納言になりたまふと承はりし。待賢門院中宮にたゝせ給ひけるにや、白河の院、盛重とてありしを御使にて、太政のおとゞに、「何事も、思ふ事のかなはぬはなきに、上﨟女房なむ心にかなはぬことはあるを、思ひかけず、上﨟女房をまうけたることなむ侍る」と仰せられたりければ、いかなる人の事にかと問ひ給ふに、ほか腹の姬君のおはしける御事なりけり。それを聞き給ひて、御後見呼びて、「その姬君のもとへ、さたしやる事どもは怠らぬか」と問ひ給へば「更に怠り侍らず」と申すに、「今はそのさたあるまじ」とありければ、御使も後見も、いと思はずに思へりけり。「御かへりいかゞ」と申しければ、「うけ給はりぬ」とばかり申し給ひけり。院はともかくものたまはざりけりとなむ。かやうに院にも關白にも憚り給はぬ人におはしけり。御心のあてなるあまりに、物の數もこまかに知り給はざりけるにや、をさめ殿する侍ひ人のもとに「きぬせさせにやれ」とありければ、「二つが料にはふた匹なむ遣しつる」と申しければ、「一つをこそ二匹にてはすれ」とのたまひて、驚き給ひけるに、內匠のすけなにがしといふに問ひ給ひければ、同じさまに申しけるにこそ、「さはえ知らざりけるにこそ」と折れ給ひけれ。これをいへ人、語りあひけるをきゝて、兼延といふ近衞舍人は、「いづれの國の絹とかを、こまかにきりなどせさせ給ふ所もおはしますものを」などいひける、いと耻かしくこそ。このおほいまうちぎみ、おこりごゝちわづらひ給ひげるに、白河の院より平等院の僧正をつかはして、祈らせ給ひけるに、をこたりたる布施に馬をひき給ひける、大方いひしらぬ惡馬になむ侍りければ、院きこしめして、「われこそ布施も得べけれ」と盛重といひしを遣はして仰せられければ、院にありがたきもの參らせむとて、武藏の大德隆賴がつくりたる、小弓のゆづかの、しもひとひねりしたるを取りいでゝ、漆のきらめきたるさして、すりまはして、錦のゆづかとりすてゝ、みちのくに紙してひき卷きて、錦の袋にも入れず、唯みちのくに紙につゝみて、たてまつられたりければ、「いと珍らしきものなり」とたちかへり仰せられけるとぞきゝ侍りし。

     にひまくら

このおとゞの御子は、大納言顯通と申して、父おとゞよりもさきにうせ給ひにき。其の御子は今の內大臣雅通の大將と申すなるべし。此の大將の御母は、よしとしの治部卿のむすめにやおはすらむ。又此の御兄に、つのかみ廣綱のむすめのはらに、山の座主明雲權僧正とて、いまにおはすなるこそ、世の末には、かやうなる天臺座主はおはしがたく承れ。我が道の法文をも深く學び給ふ。かたがた世にたふとくて、御心ばへも重くおはするにや、山のうへこぞりてもちゐ奉りたるとかや。うちつゞきたもつ人、ありがたくきこえ給ふに、大衆など鐘ならして、起る事だに侍らぬとかや。又太政のおとゞの御子にては、右大臣雅定と申して、さきにも舞人のこと申し侍る、中の院のおとゞとておはしき。御母は加賀の兵衞とかいひしがいもうとにて、下らう女房におはせしかど、兄の大納言よりもおぼえもおはしもてなし申し給ひき。此のおとゞは、ざえもおはして、公事などもよくつかへ給ひけり。笙の笛などすぐれ給へりける、時元とて侍りしを、少しもたかへずうつし給へるとぞ。まじりまろといふ笛をも傳へ給へり。まじりまろとはからの竹、やまとの竹の中に、すぐれたるねなるを、選び作りたるとなむ。まじりまろといふ笙の笛は二つぞ侍るなる。時元が兄にて時忠といひしも作り傳へ侍るなり。むらといひて、稻荷祭などいふ祭わたるものゝ、吹きてわたりける笛の、響き殊なる竹のまじりてきこえ侍りければ、棧敷にて、時忠よびよせ、「かゝるはれには、同じくはかやうの笛をこそ吹かめ」とて我が笛にとりかへて、「我をば見知りたるらむ。後にとりかへむ」といひければ、むらのをのこ喜びて、「皆見知り奉れり」とて、とりかへたりけるを、すぐれたる響きありける竹をぬきかへて、えならず調べたてゝたびたりければ、喜びてかへしえてなむ侍りける。そのまじりまろは、時忠が子の時秀といひしが傳へ侍りしを、子も侍らざりしかば、此の比はたれか傳へ侍らむ。時忠は刑部の丞義光といひし源氏のむさの、好み侍りしにをしへて、その笛を元よりとりこめて侍りけるほどに、義光あづまの方へまかりけるに、時忠もいかでか、年ごろのほいにおくり申さゞらむとて、はるばると行きけるを、この笛のことを思ふにやとや心得けむ。我が身はいかでも有りなむ。道の人にて、この笛をいかでか傳へざらむとて、返したびたりければ、それよりこそ、暇請ひてかへりのぼりにけれ。其の笛をかくたしなみたれども、時元若かりける時、武能といひてえならず笛調ぶる道のものありけるが、年たけてよる道たどたどしきに、時元手をひきつゝまかりければ、いとうれしく思ひて、えならず調ぶるやうども傳へて侍りければにや、いと殊なるねある笛になむ侍るなる。この右のおとゞ、かゝる傳へおはするのみにもあらず、家の事にて胡飮酒まひ給ふこと、いみじく其の道得給ひて、心殊におはしける。其の舞も、資忠とてありし舞人の、政連といひしと挑みて、祇園の會にはやしの日とか、殺されにければ、忠方近方などいひしもまだいといはけなくて、習ひも傳へねば、太政のおとゞの、忠方には敎へ給へるぞかし。然あれども、このおほいどのばかりはえ傅へざるべし。政連は出雲に流されて、彼の國の司のくだりたるにも敎へ、又子の友貞とかいふも、京へのぼりて顯仲とかいひし中納言にも、敎へなどすと聞きしかども、此のおほいどのゝ傳へ給へるばかりは、いかでか侍らむ。兄の忠方は胡飮酒をつたへ、弟の近方は採桑老を天王寺の公貞といひしに傳へて、此の比はその子どもの兄弟筋別れて舞ひ侍るとなむ。忠方近忠、落蹲といふ舞し侍りしは、おとうとは兄のかたを踏まぬさまに舞ひ侍りしは、めづらしきことに侍りしを、子どもはいかゞ侍るらむとゆかしくこの右のおとゞは御心ばへなどすなほにて、いとらうある人にておはしける上に、後の世の事などおぼしとりたる心にや、わづらはしきこともおはせで、いとをかしき人にぞおはせし。まだ若くおはせし比にや、伊豫の御といふ女をかたらひ給ひけるに、物のたまひ絕えてほど經ぬほどに、山城の前の司なる人になれぬときゝて、やり給へりける御歌こそ、いとらうありて、をかしくきゝ侍りしか。

  「誠にやみとせもまたで山城の伏見の里ににひ枕する」

と侍りける。むかし物語見る心ちして、いとやさしくこそうけ給はりしか。おほかた歌よみにおはしき。殿上人におはせし時、石淸水の臨時の祭の使したまへりけるに、その宮にて御神樂など果てゝ、まかりいで給ひける程に、松のこずゑに郭公のなきけるを聞きたまひて、俊賴の君の、陪從にておはしけるに、「むくのかうの殿、これはきゝたまふや」と侍りければ、「思ひかけぬ春なけばこそはべめれ」と心とくこたへたまひけるこそ、いとしもなき歌よみ給ひたらむには遙に優りて聞こえける。四條中納言、この料によみおき給ひけるにやとさへおぼえて、又きゝ給ひておどろかし給ふもいうにこそ侍りけれ。かやうにおはせむ人、いとありがたく侍り。出家などし給ひしこそ、いと淸げにめでたくうけ給はりしか。べちの御やまひなどもなくて、たゞこの世はかくて、後の世の御ためとて、右大臣左大將かへしたてまつりて、かはり奉らむなどいふ御設けもなくて、中の院にてかしらおろして、こもりゐたまへりしこそ、いと心にくゝ侍りしか。御子もおはせねば、兄の御子、今の內のおとゞ、又雅兼の入道中納言の御子、定房の大納言、養ひ給へるかひありて、位高くおのおのなり給へり。御能どもをつぎ給はぬぞくちをしく侍る。內のおとゞの御子も少將とてふたりおはすなり。

     武藏野の草

六條の右のおとゞは、大方きんだちあまたおはしき。太政のおとゞにつぎ奉りては、大納言雅俊とておはしき。御母は美濃守良任ときこえしむすめの腹なり。京極に九體の丈六つくり給へり。その御子は腹々にをとこ女あまたおはしき。伊豫守爲家のぬしのむすめのはらに、神祇の伯顯重と申しき。もとはさきの少將肥前のすけにてぞ久しくおはせし。そのおなじはらに四位の侍從顯親と申して、後は右京の權大夫、播磨守などきこえき。同じ御はらに上野守顯俊とておはしき。中宮の御おほぢにやおはすらむ。憲〈兼イ〉俊の中將ときこえし。のちには大貳になりたまへりき。百良と御わらは名きこえ給ひき。又摩尼ぎみときこえ給ひし、左馬權頭など申しき。此の外にも、上野、越中などになり給へる聞こえき。又僧子も多くおはするなるべし。大納言の同じ御はらに、中納言國信と申しておはしき。堀河の院の御をぢの中に殊に親しくさぶらひ給ひけるとぞきこえ侍りし。歌よみにおはして、百首の歌人にもおはすめり。この中納言の姬君、おほい君は近くおはしましゝ攝政殿の御母、二位と申すなるべし。次には入道どのにさぶらひ給ひて、さりがたき人におはすなり。第三の君は、今の殿の御母におはします。三位のくらゐ得給へるなるべし。うちつゞき二人の一の人の御おほぢにていとめでたき御末なり。この中納言の御子に、四位の少將顯國とておはしき。其の母はさきの伊豫守秦仲のむすめと聞こえき。その少將、いとよき人にて歌などよくよみたまひき。とくうせたまひにき。少將の一つはらの弟にやおはしけむ。備前前司、修理の權大夫、越後守などきこえ給ひき。又六條殿の御子に、顯仲の伯と聞こえたまふ、大納言中納言などの兄にやおはしけむ。其の母は肥前守定成のむすめの腹にやおはすらむ。歌よみ、笙の笛の上手におはしけり。公里といひしが、調子すぐれて傳へたりけるを、うつし習ひ給へりけるとぞ。その御子、淡路守宮內大輔など聞こえき。覺豪法印とて、法性寺殿の佛の如くにたのませ給へるおはしき。僧子もあまたおはするなるべし。女子は堀河の君、兵衞の君などきこえ給ひて、皆歌よみにおはすと聞こえ給ひし。姉君はもとは前の齋院の六條と申しけるにや。金葉集に、

  「露しげき野べにならびてきりぎりす我が手枕の下に鳴くなり」

とよみたまへるなるべし。堀河とは後に申しけるなるべし。かやうなる女歌よみは、世にいでき給はむこと難く侍るべし。またやまもゝの大納言顯雅とて、六條のおほい殿の御子おはしき。その末いとおはせぬなるべし。御むすめぞ、鳥羽の女院の皇后宮の時、みくしげどのとておはせし。女院の御せうとの肥後の前司ときこえしは、大納言のむこにおはせしかばなるべし。その大納言の御車の紋こそ、きらゝかに遠しろく侍りけれ。大かたばみの古き繪に弘高金岡などかきたりけるにや、それを見てせられけるとぞ。今は乘り給ふ人もおはせずやあらむ。物などかき給ふこともおはせざりけるにや、行尊僧正の許にやり給へりけるふみの上書には「きんざうはうとうゐんの僧正の御坊に」とぞありける。かんなならば、きんざうなくてもあるべけれど、えかき給はぬ餘りにやありけむ、言のはもえ聞え給はざりけり。唯車をぞなべてよりよくしたてゝ、牛雜色淸げにてありき給ひける。車などよくするは、まさなきことゝて、はげあやしくなれども、俄にかきすゑたるこそ、然るべき人はさもすると申すこともあるべし。これも亦一つのやうにて、つやゝかにし給ひけるにこそ。風などの重くおはしけるにや、ひがことぞ常にしたまひける。雨のふるに「車ひき入れよ」といはむとては「車ふる、時雨さしいれよ」と侍りければ、車のさまざまそらより降らむ、いと恐ろしかるべしなど思ひあへりける。かやうのことを堀河の院きこしめして「ひがことこそふびんなれ。祈りはせぬか」と仰せられければ、御返事申されけるほどに、鼠の走りわたりければ、「されば等身の鼠作らせて候ふ」と申されければ、「おほ方いふにも足らず」となむ仰せられける。これは信濃守伊綱の女のはらにおはするなるべし。同じはらに信雅のみちのくの守とておはしき。加賀守家定とて、ひさしくおはせしが、後にみちのくにはなり給へりしなり。その子は成雅の君とて、知足院の入道おとゞ、寵し給ふ人におはすと聞こえき。後には近江の中將ときこえし程に、都の亂れ侍りしをり、左大臣殿のゆかりに法師になりて、越の方に流され給ふと聞こえし、歸りのぼり給へるなるべし。その成雅の中將の兄にか弟かにて、房覺僧正とて三井寺に驗者おはすとぞきこえ給ふ。又六條殿の御子に、因幡守惟綱のむすめの內侍のはらに、雅兼の治部卿と申す中納言おはしき。才學すぐれ給ひ、公事につかへ給ふことも、昔もあり難き人になむおはしける。詩つくり、歌よみにおはしき。高くもいたりたまふべかりしを、御やまひにより出家し給ひて久しくおはしき。鳥羽の院大事仰せられ合はせむとて、常は召しいでゝ對面せさせ給ふ折ども侍りけり。この入道中納言のきんだちぞ、この御流れには、上達部などにてもあまた聞こえ給ふ。右中辨雅綱と聞こえ給ひし、よく仕へ給ふとて、四位の少將などに珍らしくなりなどし給へりし。とくうせ給ひにき。その御おとうとに、能俊大納言の女の御はらに、當時中納言雅賴と聞こえ給ふこそ、入道治部卿の御子にはふみなど傳へ給ふらめ。家をつぎ給へる人にこそ。同じ御はらに、その次に、大納言と申すは、入道右大臣の御子にし給ひて、高く昇り給へるなるべし。その御弟、四位の少將通能と申すなるは琴ひき給ふとぞきこえ給ふ。淸暑堂の御神樂にも、ひき給ひけるとなむ。師能の辨とておはせし、養ひ申し給へると聞き侍りし、これにやおはすらむ。六條のおほいどのゝきんだちなど僧も多くおはすれど、さのみ申しつくしがたし。山に相覺僧都とて大原に住みたまふおはしき、醍醐には大僧正定海とて、讃岐のみかどの護持僧におはしき。ならには山科でらの隆覺僧正、東大寺の覺樹僧都と申しゝは、東南院ときこえ給ひにき。皆やんごとなき學生におはしき。又覺雅僧都とてもおはしき。歌よみにぞおはせし。末の世の僧などさやうによまむは有りがたくや侍らむ。白河の院のいとしもなくおぼしめしたる人にておはしけるに、俊賴のきみ金葉集えらびて奉りたりける始めに貫之、「春立つことをかすがのゝ」といふ歌、そのつぎに覺雅法師とて入り給へりけるを、「貫之もめでたしといひながら、三代集にも漏れきてあまりふりたり。覺雅法師も、げにもともつゞきおぼえず」など仰せられければ、ふるき上手ども入るまじかりけり。又いとしもなくおぼしめす人、のぞくべかりけりとておぼえの人をのみとりいれて、次のたび奉りければ、「これもげにともおぼえず」と仰せられければ、又作りなほして、源重之を始めに入れたるをぞとゞめさせ給ひけるは、かくれて世にもひろまらで、中たびのが世には散れるなるべし。又山におはせし妙香院の淸覺內供など聞こえたまひし、その內供の一つ腹にや、はたの御はらにや、治部大輔雅光と聞こえ給ひし歌よみおはしき。人に知られたる歌多くよみ給へりし人ぞかし。「あふまでは思ひもよらず」、又「身をうぢ川の橋柱」などきこえ侍るめり。その御子には、實寬法印とて山におはす。六條殿の御子は、又をとこも丹波の前司、和泉の前司など申しておはしき、はかばかしきすゑもおはせぬなるべし。

     もしほの烟

二條のみかどの御時近くさぶらひ給ひて、かうの君とかきこえ給ひしは、殊の外にときめき給ふときこえ給ひしかば、內侍のかみになり給へりしにやありけむ、たゞまた、かうの殿など申すにや、よくもえうけ給はり定めざりき。それこそは、六條殿の御子の季房の丹波守の子に大夫とか申して、伊勢にこもりゐたまへる御むすめときこえ給ひしか。かの御時、女御きさき、かたがたうちつゞき多くきこえ給ひしに、御心のはなにて一時のみ盛りすくなく聞こえしに、これぞときはに聞こえ給ひて、家をさへに作りて賜はり、世にももてあつかふ程にきこえ給ひて、みかどの御なやみにさへ科おひ給ひしぞかし。御めのとの大納言の三位なども、「いたくな參り給ひそ」など侍りけるにや、ある折は常にも侍ひたまはずなどありけるとかや。かつは御覺えの事など祈りすぐし給へる方も聞こえけるにや、かつは聞きにくゝも聞こえけるとぞ。重らせたまひける程に「年若き人なればおはしまさゞらむにはいかにもあらむずらむ。御消息ども返し參らせよ」とありければ、なくなくとりつかねて參らせければ、信保などいふ人うけ給はりて、かきあつめさせたまへる、もしほのけぶりとなりけむもいかに悲しくおぼしけむ。御ぐしのたけにあまり給へりけるも、そぎおろさばやとぞ聞こえけれど、心づよき事かたくて月日へけるほどに、御心ならずもやありけむ、昔にはあらぬことゞもいできて、若き上達部の時にあひたる所にこそ、むかへられ給ひてときこえ侍るめれ。めしかへさせ給ひけむ。やんごとなきみづくきのあとも、今やおぼしあはすらむ。いとかしくこそ。

六條のおとゞ、いとあさましく、末廣くおはします。昔よりふぢなみの流れこそ、みかどの御おほぢにてはうちつゞき給へるに、堀河の院の御おほぢに、珍らしくかく末さへ廣ごらせ給へる一の人の御おほぢにうちつゞきておはしますめり。六條殿の御むすめは、堀河の院の御時、承香殿と申しけるは女御の宣旨などはなかりけるにや、醍醐におはすと聞こえし、近くうせ給ひにき。堀河殿、六條どのゝ御おとうとに、中宮大夫師忠の大納言おはしき。その御母は、堀河の賴宗の右のおとゞの御女なり。この大納言の御子は左馬の頭師澄とて、千日の講久しく行ひ給ひて、後は大藏卿と申しき。その御おとうとは師親の四位の侍從など申しておはしき。又大納言の御子には、仁和寺の大僧正寬遍と申すおはしき。備中守まさなかの女の腹にやおはしけむ。高松の院の中宮とて、御ぐしおろさせ給ひし、戒の師におはしけり。東寺の長者にて近くうせ給ひにけり。中宮の大夫の御弟廣綱とて坐しき。四位までやのぼり給ひけむ、攝津守など申しゝにや。また堀河殿などの同じはらにやおはしけむ、仁覺大僧正と申しゝ山の座主おはしき。それは中宮の大夫の兄にやおはしけむ。又ことはらにやましなでらの實覺僧都など申しておはしき。莊嚴院の僧都と申しゝなるべし。


今鏡第八

    みこたち

     源氏のみやすどころ

みかどの御おほぢにはおはせねど、東宮や宮たちの御母におはせしは、後三條の院の女御にて、侍從の宰相基平の御女こそおはせしか。その宰相は小一條の院の御子におはしき。その源氏の御息所、御名は基子女御とぞ申しゝ。その御せうとにては春宮の大夫季宗、大藏卿行宗など申しておはしき。みな三位のくらゐにぞおはせし。大藏卿は八十ばかりまでおはせしかば、近くまで聞え給ひき。歌よみにおはしき。ふたりながらからの文なども作り給ふとぞきゝ待りし。良賴の中納言のむすめの腹のきんだちなり。女御も同じ御はらからにおはす。又そのはらに平等院の僧正行尊とて、三井寺におはせしこそ、名高き驗者にておはせしか。少阿闍梨など申しける折より大峯葛城はさることにて、遠き國々山々など久しく行ひたまひて、白河の院鳥羽の院うちつゞき護持僧におはしき。仁和寺の女院の女御まゐりにや侍りけむ、御ものゝけ其の夜になりておこらせ給ひて、俄に大事におはしましけるに、この僧正祈り申し給ひければ、程なくをこたらせ給ひて、御車にたてまつりて、出でさせ給ひにけるあとに、ものつきにものうたせてゐさせ給へりけるこそ、いとめでたく侍りけれと傳へうけ給はりしか。僧正歌よみにおはして、代々の集どもにも多くいりたまへるとこそきゝ侍れ。笙のいはやにて、

  「草のいほを何露けしと思ひけむもらぬいはやも袖はぬれけり」

などよみ給へり。傳へきく人の袖さへしぼりつべくなむきこえ侍る。大峯にて後冷泉の院うせさせ給ひて、世のうきことなど思ひみだれてこもりゐて侍りけるに、後三條の院くらゐに即かせ給ひてのち、七月七日まゐるべきよし仰せられければ、よめる、

  「もろともにあはれと思へ山ざくら花よりほかにしる人もなし」

などよみ給へり。歌よまざらむはほいなかるべき事なるべし。いとゞ御心もすみまさり給ひけむかし。手かきにもおはして、かなの手本など世にとゞまり侍るなり。ことはらばらにも、勸修寺僧正、光明山の僧都など申しておはしき。その女御の御はらに、御子あまたおはしき。東宮と申して、延久三年二月に生まれ給ひて、同四年十二月に御年ふたつと申しゝ、東宮にたち給ひき。永保元年八月に御元服せさせ給ふ。應德二年十一月八日、十五におはしましゝに、かくれさせ給ひにき。平等院の僧正は女御の御せうとなれば、東宮の御忌にこもり給ひて、御はてすぎて、人々ちりけるに、常陸のめのとおくり給ふときこえ侍りし、

  「おもひきや春のみやびとなのみして花よりさきに散らむものとは」

とよみ給ひたりける。返し御めのと、

  「花よりもちりぢりになる身をしらでちとせの春とたのみつるかな」

とぞきゝ侍りし。これは白河の院の異はらの御おとうと、後三條の院の第二の御子なり。東宮とおなじはらに第三の御子おはしき。輔仁親王と申しき。延久五年正月に生まれ給へり。承保二年十二月に親王の宣旨かぶり給ふ。この御子はざえおはして詩などつくり給ふこと、むかしの中務の宮などのやうにおはしき。歌よみたまふこともすぐれ給へりき。圓宗寺の花を見たまひて、

  「植ゑおきし君もなき世にとしへたる花や我が身のたぐひなるらむ」

とよみ給へるこそいとあはれにきこえ侍りしか。かやうの御歌ども、むくのかみの選びてたてまつれる金葉集に、輔仁のみことかきたりければ、白河の院は、「いかにこゝに見むほど、かくはかきたるぞ」と仰せられければ、三の宮とぞかきたてまつれる。御中らひはよくもおはしまさゞりしかども、御おとうとなればなるべし。詩などは數しらずめでたく侍るなり。「よろこびもなくうれへもなし世上の心」とかや作り給へりけるを、中御堂と申しておはせしがのたまひけるは、「うれへこそあれ」とのたまはせけれど、位には必しもみかどの御子なれどつぎ給ふことならねば、ものしり給へる人はなげきとおぼすべからず。かの仁和寺のみやの、利口にこそあれ。何事かは御のぞみもあらむな。

     花のあるじ

三の宮の御子は、中宮の大夫師忠の大納言の御女のはらに、花園の左のおとゞとておはせしこそ、光る源氏などもかゝる人をこそ申さまほしくおぼえ給へしか。まだ幼くおはせし程は若宮と申しゝに、御能も御みめも然るべき事と見えて、人にもすぐれ給ひて、常にひきもの、ふき物などせさせ給ひ、又詩つくり歌などよませ給ひけるに、庭の櫻盛りなりける頃、濃き紫の御指貫に直衣すがたいとをかしげにて、われもよませ給ひ人にもよませさせ給ふとて、

  「をしと思ふ花のあるじを置きながら我がもの顏にちらす風かな」

とよみ給ひたりければ、父の宮見たまひて、「まろを置きながら、花のあるじとは、わか宮はよみ給ふか」などあいし申し給ひけるとぞ人のかたり侍りし。御とし十三になり給ひし時、うひかぶりせさせ給ひしは、白河の院の御子にし申させ給ひて、院にて基隆の三位の、播磨守なりし、初元結したてまつり、右のおとゞとて久我のおとゞおはせし、御かうぶりせさせたてまつり給ひけり。御みめの淸らかさ、おとなのやうにいつしかおはして、見たてまつる人、よろこびの淚もこぼしつべくなむありける。元永二年にや侍りけむ、仲の秋のころ、御とし十七とや申しけむ、始めて源氏の御姓たまはりて御名は有仁と聞こえき。やがてその日、三位の中將になり給ひて、そのとしの十二月のころ、中納言になり給ひて、やがて中納言の中將と聞こえき。むかしのみかどの御子、一の人の公達などおはすれど、かく四位五位なども聞こえ給はで、はじめて三位の中將になり給ふ、年のうちに中納言の中將などはいとありがたくや侍らむ。又その次の年、保安元年にや侍りけむ、大納言になり給ひて、年をならべて右近の大將かけたまひき。世の人、宮の大將など申して、みゆき見る人はこれをなむ見ものにしあへることに侍りし。白河の花見の御幸とて侍りし和歌の序は、この大將殿かきたまへりけるをば、世こぞりてほめきこえ侍りき、

  「低枝折リテサゝゲモタレバ、紅蠟ノ色手ニミテリ。落花ヲフミテ佇立スレバ、紫麝ノ氣衣ニ薰ズ」

などかき給へりける。その人のしたまへることゝおぼえて、なつかしう優に侍りけるとぞ。御歌もおぼえ侍る。

  「かげきよき花のかゞみと見ゆるかなのどかにすめる白川の水」

とぞきゝ侍りし。管絃はいづれもし給ひけるに、御びは笙のふえぞ御あそびにはきこえ給ひし。すぐれておはしけるなるべし。御手もよくかき給ひて、色紙形、てらでらの額などかきたまへりき。中納言になり給ひし折にや、三の御子かくれ給ひしに、法皇の御子とて御服などもし給はざりけるとかや。又うすくてやおはしけむ。院うせさせ給ひしにぞ色こく染め給へりける。まだつかさなども聞こえ給はざりし程は、常に法皇の御車のしりにぞのり給ひて、みゆきなどにもおはしける。さやうの御つゞきをおぼし出だしけるにや、院の御忌のほど參り給ひて有りける時、南おもての方にひとりおはして、さめざめと泣き給ひて、御手して淚をふりすてつゝおはしける、ものゝはざまよりのぞきてあはれなりしと人の語り侍りし。實能のおとゞは北の方のせうとにおはして、朝夕なれあそびきこえ給ひければ、左兵衞の督など申しけるほどにや、五月五日大將殿、

  「あやめ草ねたくも君がとはぬかなけふは心にかゝれと思ふに」

など心やりたまへるも、いとなつかしく。この大將殿は、殊の外に衣紋をぞ好み給ひて、上のきぬなどのながさ短さなどの程など、こまかにしたゝめ給ひて、その道にすぐれたまへりける。大方むかしはかやうのこともしらで、指貫もなかふみて、烏帽子もこはく塗ることもなかりけるなるべし。此の頃こそ、さびえぼうし、きらめき烏帽子など、をりをりかはりて侍るめれ。白河の院は、御裝束まゐる人などおのづから引きつくろひなどし參らせければ、さいなみ給ひけるときこえ侍りし。いかに變はりたる世にかあらむ。鳥羽の院、この花園のおとゞ、おほかたも御みめとりどりに、姿もえもいはずおはします上に、こまかにさたせさせて、世のさがになりて、肩あて腰あて、烏帽子とゞめ、かぶりとゞめなどせぬ人なし。又せでも叶ふべき樣もなし。かうぶり烏帽子のしりは雲を穿ちたればさらずは落ちぬべきなるべし。時に從へばにや此の世に見るには、袖のかゝり袴のきはなどつくろひたてたるはつきづきしく、うちとけたるはかひなくなむ見ゆる。衣紋の雜色などいひて、藏人になれりしもこの御家の人なり。上の御せうとの君だち、若殿上人ども絕えず參りつゝ、遊びあはれたるはさることにて、百大夫と世にはつけて、かげぼしなどの如くあさ夕馴れ仕うまつる。吹きもの、引きものせぬは少くて、外より參らねどうちの人にて御遊び絕ゆることなく、伊賀の大夫、六條の大夫などいふすぐれたる人どもあり。歌よみ、詩つくりも、かやうの人ども數しらず。越後のめのと、小大進などいひて、名高き女歌よみ、家の女房にてあるに、公達まゐりては、くさり連歌などいふことつねにせらるゝに、三條の內のおとゞの、まだ四位の少將などの程にや、

  「ふきぞわづらふしづのさゝやを」

とし給ひたりけるに、中務の少輔實重といふもの、常にかやうのことにめし出ださるゝ者にて、

  「月はもれ時雨は止れと思ふには」

とつけたりければ「いとよくつけたり」などかんじあひ給ひける。又ある時、

  「奈良のみやこをおもひこそやれ」

とはべりけるに、大將殿、

  「やへ櫻秋のもみぢやいかならむ」

とつけさせ給ひけるに、越後のめのと、

  「しぐるゝたびに色やかさなる」

とつけたりけるも、後までほめあはれ侍りけり。かやうなること多く侍りけり。その越後は、「さこそはかりの人はつらけれ」といふうたなどこそ、やさしくよみて侍りけれ。かやうなること數しらずこそきこえ侍りしか。

     ふししば

大將殿年若くおはして、何事もすぐれたる人にて、御心ばへもあてにおはしき。昔はかゝる人もやおはしけむ。この世にはいとめづらかに、かくわざと物語などに作りいだしたらむやうにおはすれば、やさしくすきずきしき事多くて、これかれ袖よりいろいろのうすやうにかきたる文のひき結びたるが、なつかしき香したる、二つ三つばかりづゝ取り出だして、常にたてまつりなどすれば、これかれ見給ひて、あるは歌よみ、色好む君だちなどに見せあはせ給ひて、この手はまさりたり、歌などもとりどりにいひあへり。あるは見せ給はぬもあるべし。また兵衞のかみや少將たちなど參り給へば、かたみに女のことなどいひあはせつゝ、雨夜のしづかなるにも語らひ給ふ折もあるべし。月あかき夜などは、車にて御隨身ひとりふたりばかり、何大夫などいふ人ともにかはるがはるかちよりあゆみ、御車に參りかはりつゝ、ふるき宮ばら、あるは色好む所々にわたり給ひつゝ、人にうちまぎれて遊びたまふに、びは笙のふえなどは人もきゝしりなむとて、ことひき、笛などぞし給ひける。ある折は歌よむ御だちまうでかよひける中に、ほいなかりけるにや、女、

  「かねてより思ひしものをふししばのこるばかりなる歎きせむとは」

とて奉りたりければ、やがてふししばとつけ給ひて、折ふしには音づれ奉りければ、今宵はふししば音すらむものをなどあるに、すぐさず歌よみて奉りなどして、いたきものとて常に申しかはす女ありけり。土御門のさきのいつきの御もとに中將の御とかいひけるものとかや。北の方は手かき歌よみにおはして、いというなる御中らひになむありける。あまりほかにやおはしけむと聞こえしは、鳥羽の院くらゐの御時に、大將殿菊をほりにやりて奉り給ひけるに、うすやうにかきたる文のむすびつけて見えければ、みかど御覽じつけて、「かれは何ぞ。取りて參れ」と藏人に仰せられけるに、おほい殿はふと心えて色もかはりて、うつぶしめになり給へりけるほどに、みかどひろげて御覽じければ、

  「こゝのへにうつろひぬとも菊の花もとのまがきをわすれざらなむ」

とぞありける。きさいの御姉におはすれば、ときどき參りかよひ給ふにつけつゝ、しのびてきこえ給ふことなどもおはしけるなるべし。昔のみかどの御世にもかやうなる御ことは聞こえて、なほなほなど仰せられければ、餘りなることも侍りけるやうに、これもおはしけるにや。殿の色好み給ふなど、大方うへはのたまはせず、へだてもなくて文ども取り入れて歌よむ女房にかへしせさせなどし、上のめのとの車にてぞ女おくり迎へなどしたまひける。殿もこゝかしこにありき給ひける、家の女房どもゝをとこの許よりえたる文をも、その北の方に申しあはせて、歌の返しなどし給ひける。小大進などいふ色好みの、をとこいもとより得たる歌とて申しあはせける、あまた聞こえしかど、忘れておぼえ侍らず。按察の中納言とかいふ人のおほやうなるも、歌などつかはしけるかへりごとに、小大進、

  「夏山のしげみが下の思ひ草露しらざりつこゝろかくとは」

などきゝはべりし。口とく歌などをかしくよみて、和泉式部などいひしものゝやうにぞ侍りし。伊豫の御とて侍りしも、中の院の大將の若くおはせしほどに、ものなどのたまひて、後には山城とかいふ人に物いふときゝ給ひて、さきにも申し侍りつる、「みとせもまたで」といふ歌よみ給へりしぞかし。かやうに色好みたまへるごたち多くこそきこえ侍りしか。

     月のかくるゝ山の端

このおとゞの御子のおはせぬぞくちをしけれど、かへりてはあはれなる方もありて、なごりをしく侍りて、我ものたまはせけるは、「いとしもなき子などのあらむはいとほいなかるべし。村上のみかどの末、中務の宮のうまごといふ人々見るに、せさることなき人々どもこそ多く見ゆめれ。我が子などありともかひなかるべし」などぞ有りける。姬君こそおはすなれ。北の方の御はらにはあらで、うちにつかひたまへりけるわらは、おほくの人のなかに、いかなるすくせにか生みきこえたるとなむ。上西門院にぞおはすと聞こえ給ふ。琴琵琶などもひき給ふともしられでおはしけるに、月あかき夜、しのびてかきならし給ひけるより、あらはれ給ひけるとかや、又ことばらに、女君きこえ給ふは、高松の院に參りかよひ給ひて、殿上人の車などつかはして、迎へなどせさせ給ふとかやぞきこえ給ふ。大將殿、いづれの程にか侍りけむ。年頃すみたまひし、れんぜい東の洞院よりにや侍りけむ。なゝ夜かちより御束帶にて、石淸水の宮に參り給ひけるに、光淸ときこえし別當、御設けなど房とかいふにして御きそく聞こえけれど、「殊更にたちやどることなくて、此の度は參らむと心ざしたれば、えなむ入るまじき」とてより給はざりけるに、七夜參り果て給ひける夜、みつといふところにおいてたてまつりける。

  「さいはいとさんぞのおまへ伏しをがみ七夜のねがひとをながらみて」

とよめりけるを、御神のみことゝたのまむとて、御ふところに納めさせたまひて、かへさに乘り給ふ御馬鞍おきながらぞ引きて給はせける。その御とも人などいかばかりなる御心ざしにて、かくかちの御物まうで夜をかさねさせ給ふらむ、あら人神、昔の帝におはしませば、流れのとだえさせ給ふ御事にやなどおぼつかなくおぼえけるに「臨修正念往生極樂」としのびて唱へさせ給ひける御ねぎごとにてぞ、あはれにかなしくうけ給はりしときこえ侍りける。おほいどの後には大將も辭し給ひて、たゞ左のおとゞとておはしき。仁和寺に花園といふ所に、山里作りいだして通ひ給ひき。四十にあまりてやうせ給ひにけむ。近くなりては御ぐしおろし給ひけるに、すがたは猶昔にかはらず淸らにて、少しおもやせてぞ見えたまひける。岩倉なるひじり呼びて、ゑぼうし直衣にて出でゝ御ぐしおろし給ひける。いと悲しく見奉る人も、淚おさへがたくなむありける。ゑちごのめのと、風いたみける頃、花にさして、

  「われはたゞ君をぞをしむ風をいたみ散りなむ花は又も咲きなむ」

とよみたまひけるを、めのとは常に語りつゝこひかなしみける。この大將殿、帝のうまご、宮の御子にてたゞ人になり給へる、此の世には、めづらしく聞きたてまつるに、なさけ多くさへおはしける。いとありがたくきこえたてまつりしに、まださかりにて雲がくれたまひにけむ、いと悲しくこそ侍れ。かの花園も雲けぶりとのぼりて、あとさへ殘らぬと聞き侍るこそあはれに心うけれ。そのわたりに詣で通ひける人、

  「いづくをか形見ともみむ夜をこめてひかり消えにし山のはの月」

三のみこの御子には、また信證僧正とて仁和寺におはしき。鳥羽の院御ぐしおろさせ給ひし時、御戒師におはしき。また山にも僧都の君などいひて聞こえ給ひき。一定〈言イ〉にもなかりしにや、院よりおほい殿に尋ね申させ給ひけるとかや。御むすめはおほい殿の一つ腹に、伊勢のいつきにて下り給へりき。後は伏見の齋宮と申しゝこれにやおはすらむ。又行宗の大藏卿の女のはらに、齋院もおはするなるべし。此の比むそぢなどにや餘り給ふらむ。そのいつきにおはせし比、おほい殿、本院に有栖川のもとの櫻のさかりなりけるにおはして、歌などよみ給ひけるに、女房の歌とて、

  「散る花を君ふみわけてこざりせば庭のおもてもなくやあらまし」

とぞきこえし。

     はらばらの御子

きさいの宮、女御更衣におはせねど、御子うみたてまつり給へるところどころ、近き御代にあまた聞こえ給ひき。后ばらの宮たちは皆申し侍りぬ。ちりぢりにうち續きおはします多くきこえ給ふ。白河の院のきさきばらの女宮みところの外に、承香殿の女御の生みたてまつり給ひしは、伊勢のいつきにおはしき。それは女四宮なるべし。女五宮も天仁元年霜月のころ、みうらにあひたまひて齋宮ときこえ給ひき。御はらはいづれにかおはしけむ、ひがことにや侍らむ。季實とか聞えしむすめにやおはしけむ。せがゐの齋宮と申しゝも、同じ比立ち給ふと聞こえき。それは賴綱ときこえし、源氏の三河守なりしが女のはらにおはすと聞こえき。七十にあまり給ひてまだおはすと聞こえ給ひき。唐崎のみそぎ、上西門院せさせ給ひし比、そのつゞきに、院の御さたにて殿上人など奉らせ給ひけり。とのもりのかみ何大夫とか名ありし人、御後見にて御車のしりに、綾の指貫、院のおろして着てわたるなど聞こえき。男は此の世には多く佛の道に入りたまひて、御元服もかたくて、うへの御ぞの色などもたづねえ侍らぬ折々もはべるとかや。位おはしまさぬほどは、淺黃と日記に侍るなるをば、靑き色か黃なるか、なほおぼつかなくて、花園のおほいどのにたづね奉られけるも、をさなくておぼえ給はぬよし申したまふなど聞こえし。一の宮の御元服のは黃なるを奉りけるなるべし。位まだえさせ給はねば黃なる衣ぞ誠にもおはしますらむ。無位の人は黃袍なるべければ、小野の篁が隱岐より歸りて、作りたる詩にも、「請ふ君菊を愛せばわれをみるべし。白きことはかうべにあり。黃なることは衣にあり」などぞきこえ侍りし。神の社の黃狩衣なども、位なきうへのきぬの心なるべし。かやうのついでにある人の申されけるは、つるばみのころもは王の四位の色にて、たゞ人の四位と王五位とはくろあけを着、たゞ人の五位あけの衣にてうるはしくあるべきを、今の人心およすげて、四位は王の衣になり五位は四位のころもを着るなるべし。檢非違使上官などはうるはしくてなほあけをあらためざるべしとぞ侍りける。佛の道に入りたまへるは此の頃うちつゞかせ給へり。仁和寺に覺行法親王と聞えたまひしは、白河の院のみこにおはす。御ぐしおろさせ給ひて、やうやうおとなに成らせ給ふ程に、いとかひがひしくおはしければ、さらに親王の宣旨かぶり給ふとぞ聞え侍りし。おほ御室とておはしましゝは、三條の院の御子師明親王ときこえ給ひし、まだちごにおはしまして、御子の御名えたまひければ、法師の後は親王の宣旨かぶり給はず。その宮につけ奉りたまひしに、御弟子の宮はわらはにて親王の御名をえたまはねば親王の宣旨かぶり給へり。後二條のおとゞ出家ののちは例なきよし侍りけれども、白河の院、「內親王といふこともあれば、法親王もなどかなからむ」とて、はじめて法師の後親王ときこえ給ひしなり。かくて後ぞ、うちつゞきいづくにも出家の後の親王ときこえ給ふめる。そのおとうとにて覺法々親王ときこえたまひしは、六條の右のおとゞの御むすめの生み奉り給へりし、法性寺のおとゞのひとつ御はらからにおはす。さきに申し侍りぬ。みかどの御子關白など、一つはらにおはします。いとかたきことなるべし。この御室は、おほきに聲淸らかなる人にぞおはしける。眞言の道よくならひ給ひ、又手かきにてもおはしけり。御堂の色紙形などかき給ふときこえ給ひき。高野の大師の手かきにおはしければにや、御室たちもうちつゞき手かきにぞおはすなる。高野へまうでたまひける道にて、

  「定めなきうき世の中としりぬればいづくも旅の心ちこそすれ」

とよみたまへりけるとぞ。橫河の覺超僧都の、「よろづのことを夢とみるかな」といふ歌思ひ出でられて、あはれにきこえ侍る御歌なり。又仁和寺に花藏院の宮とてもおはしましき。それは異御はらなるべし。御母は大宮の右のおとゞの御子に、なでしこの宰相とかきこえ給ひしむすめとぞ。六條殿とかきこえ給ひて、のちには九條の民部卿におはしけるとかや。此の宮はいみじくたふとき人ときこえ給ひき。長尾の宮とも申しき。又三井寺の大僧正行慶と聞こえたまひしもおはしき。備中守政長と聞こえし人のむすめのはらにおはす。これも眞言よく習ひ給へるなるべし。この院もこの僧正にぞ行ひのこと受けさせ給ふときこえし、法性寺のおとゞ御ぐしおろしたまひて、御戒の師にし給ふときこえき。こまの僧正とも申すなるべし。天王寺へ詣でたまひけるに難波をすぎ給ふとて、

  「夕ぐれに浪花わたりを見渡せばたゞうす墨のあしでなりけり」

となむきこえし。こと所のゆふべの望みよりもなにはのあしでと見えむ、げにときこえはべり。歸る雁のうすゞみ夕暮のあしでになりたるもやさしくきこえ侍り。又若御前法眼ときこえ給へりしも、白河の院の御子にやおはしけむ。みちのおくのかみ有宗といひしがむすめの腹におはすとぞ。堀河のみかどの宮たちは、山に法印など聞えたまひし、後には座主になりて、親王の宣旨かぶり給ひて、座主の宮ときこえき。伊勢の守時經とて傅の大納言の末と聞こえし、むすめの生みたてまつれるとぞ。又仁和寺の花藏院の大僧正と申しゝは、近江守隆宗と聞えしがむすめのはらとぞ聞え給ひし。僧正御身の沈み給へることをおもほしける時、よみたまへりける、

  「さみだれのひまなき比のしづくには宿もあるじも朽ちにけるかな」

とぞ聞え侍りし。身をしるあめ、時にもあらぬしぐれなどや、御袖にふりそひたまひけむといとあはれに聞こえ侍り。女宮は大宮の齋院ときこえ給ふおはしき。やがて彼の大宮の女房の生みたてまつれりけるとなむ。又さきの齋宮も堀河の院の御むすめときこえ給ふ。まだ此の比もおはするなるべし。鳥羽の院の宮は女院ふたところの御腹の外に、三井寺の六宮、山の七宮とておはします。御はゝ石淸水の流れとなむ聞きたてまつりし。俊賴の撰集に鹿の歌など入りて侍り。光淸法印とかいひける別當のむすめとなむ。小侍從などきこゆるは小大進が腹にて、これはさきのはらからなるべし。白河の院の御時より近く侍ひて、鳥羽の院には御子あまたおはしますなるべし。又その同じはらにあや御前ときこえさせたまふ、御ぐしおろして雙林寺といふ所にぞおはしますなる。寺の宮はひととせうせ給ひにき。やまのは法印など申しゝ、親王になり給ふとぞ。又宰相の中將家政ときこえし御むすめ、待賢門院におはしけるも鳥羽の院の御子生み奉りたまへりし、吉田の齋宮と申しき。それもうせ給ひて八九年にもやなり侍りぬらむ。あまにならせ給ひて、智惠深く尊くきこえさせ給ひき。その御母こそはあさましくてうせ給ひにしか。河內守なにがしとかいひしが子なる男の、いかなる事のありけるにか失ひ奉りたるとて、おやも罪かぶりて都にもすまざりき。又德大寺の左のおとゞの御むすめとて、鳥羽の女院に侍ひ給ひけるも、女三のみこ生み給ひてかすがの姬宮ときこえ給ふ。冷泉の姬宮と申すにや、其の母を春日殿と申すなるべし。又勢賀院の姬宮、齋院のひめ宮、高松の宮など聞こえさせ給ふも、おはしますなるべし。鳥羽の院の宮たちは、をとこ女、きさきばら、たゞのなど取り加へ奉りて、男宮八人、女宮八九人ばかりおはしますなるべし。讃岐の院の一の御子ときこえ給ひしは重仁親王と申しけるなるべし。その御母院に具し奉りて、遠くおはしたりけるが歸りのぼり給へるとぞきこえ給ふ。みかど位におはしましゝ時、きさいの宮、一の人の御むすめにておはしますに、うちの女房にて、かの御母、宮仕へ人にてさぶらひ給ひしが、殊の外にときめき給ひしかば、きさきの御方の人はめざましく思ひあひて、人の心をのみはたらかし、世の人もあまりまばゆきまで思へるなるべし。さりとて御後見のつよきもおはせず。たゞ大藏卿行宗とてとし七十ばかりなるが歌よみによりて、親しく仕うまつりなれたるを、おやなどいひて、兵衞の佐などつけ申したるばかりなればさるべき方人もなし。誠の親はをとこにはあらで、紫の袈裟など賜はりて、白河の御寺のつかさなりけり。それもうせて年へにけり。然るべき人の子なりけれど、をとこならねばかひなかるべし。常にさぶらふ何の中將などいふ人のかたごゝろあるなども、目をそばめらるゝ樣にてはしたなくなむありける。されど類ひなき御心ざしをさりがたきことにて過ぐし給ふ程にをのこ君生みいだし給へれば、中宮にはまだかゝることもなきにいと珍らしく、いとゞ安からぬつまなるべし。御おほぢの一院も聞かせ給ひて迎へとり給ひて、女院の御方に養ひ申させ給ふ。やうやううちの御めのとごの、播磨守伯耆守などいふ人ども、彼のさとや、局などの女房などかみ下のことども、取りさたすべきよしうけ給はりて仕うまつり、若宮の御めのと刑部卿などいひて、大貳の御めのとのをとこと聞ゆ。みこも親王の宣旨などかぶり給ひて御元服などせさせ給ひぬ。かくて年月すぐさせ給ふ程に位さらせ給ひて、新院とておはしますにも、世に類ひなくて過ぐさせ給へば、きさいの宮、殿の御わたりには心よからず、疎きことにてのみおはします。本院の御まゝなれば世を心にまかせさせ給はず。うち、中宮、殿などに、ひとつにて、世の中すさまじき事多くておはしますべし。かやうなるにつけてもわたくしものにおもほしつゝ過ぐさせ給ふに、法皇かくれさせ給ひぬる後、世の中に事ども出できて讃岐へ遠くおはしましにしかば、やがて御船に具し奉りてかの國に年歷給ひき。一の御子も御ぐしおろし給ひて、仁和寺大僧正寬曉と申しゝにつかせ給ひて、眞言などならはせ給ひけるに、敏くめでたくおはしましければ、昔の眞如親王もかくやと見えさせたまひけるに、御足のやまひおもくならせ給ひて、ひとゝせうせさせ給ひにけり。御とし廿二三ばかりにやなり給ひけむ。讃岐にも御なげきのあまりにや、御惱みつもりてかしこにてかくれさせ給ひにしかば、宮の御はゝものぼり給ひて、かしらおろして、醍醐のみかどの御母方の御寺のわたりにぞ住み給ふなる。かの院の御にほひなればことわりと申しながら、歌などこそいとらうありてよみ給ふなれ。のぼり給ひたりけるに、ある人のとぶらひ申したりければ、

  「君なくて歸る波路にしをれこし袂を人の思ひやらなむ」

と侍りけるなむ、さこそはといと悲しく推し量られ侍りし。院のおとうとの仁和寺の宮おはしましゝ程は、とぶらはせ給ふと聞こえしに、宮もかくれ給ひて、心ぐるしく思ひやり奉るあたりなるべし。その遠くおはしましたりける人のまだ京におはしけるに、白河に池殿といふ所を人の造りて、「御覽ぜよ」など申しければ、わたりて見られけるにいとをかしく見えければ、かきつけさせ給ひけるとなむ。

  「音羽川せき入れぬ宿の池水も人の心は見えけるものを」

とぞきゝ侍りし。讃岐の院の皇子は、それも仁和寺の宮におはしますなる、法印にならせ給へるとぞ聞こえさせたまふ。それも眞言よく習はせ給ひて勤め行はせ給へりとぞ。上西門院御子にし申させ給へるとぞ。其の御母は師隆の大藏卿の子に、參河の權の守と申す人坐しけるむすめの、讃岐のみかどの御時、內侍のすけにて侍はれしが生みたてまつり給へるとぞ聞えさせ給ふ。讃岐の法皇かくれさせ給へりける頃、「御服はいつか奉る」と御室より尋ね申させ給へりければ、

  「うきながらその松山の形見には今宵ぞ藤の衣をばきる」

とよませ給へりける。いとあはれに悲しく。又御行ひはてゝやすませ給ひけるに、嵐はげしく瀧の音むせびあひていと心ぼそく聞こえけるに、

  「夜もすがら枕におつる音きけば心をあらふ谷川のみづ」

とよませたまへりけるとぞ聞こえ侍りし。昔の風ふき傳へさせ給ふいとやさしく。女宮は聞こえさせ給はず。今の一院の宮たちはあまたおはしますとぞ。きさきばらの外には高倉の三位と申すなる御はらに仁和寺の宮の御室傳へておはしますなり。まだ若くおはしますに、御行ひの方も梵字などもよくかゝせ給ふと聞こえさせ給ふ。つぎに御元服せさせたまへる、おはしますなるも、御ふみにもたづさはらせ給ひ、御手などかゝせ給ふと聞こえさせ給ふ。その宮も、宮たち設けさせ給へるとぞ。おなじ三位の御はらに女宮もあまたおはしますなるべし。伊勢のいつきにてあねおとうとおはしますと聞こえさせたまひし、おとうとの宮は、六條の院の宣旨養ひ奉りて、かの院つたへておはしますとぞ聞こえさせ給ふ。又賀茂のいつきにもおはするなるべし。又女房のさぶらひ給ふなる、御おぼえのなにがしのぬしとか聞えし妹のはらにも、宮たちあまたおはしますなるべし。三井寺に法印僧都など聞こえさせ給ふ。また女宮もおはしますとぞ。大炊の御門の右のおとゞの御むすめも姬宮生み奉り給へる、おはしますと聞こえ給ふ。又ことはらの宮々もあまたおはしますなるべし。二條のみかど宮たちも、をとこ宮女宮きこえさせ給ふ。その女宮は內の女房うみたてまつりたまへるとぞ。中原の氏の博士のむすめにぞおはすなる、男宮は源氏のうまのすけとかいふむすめの腹におはしますとか聞こえたまふ。また德大寺のおとゞの御女のはらとか聞こえたまふは位につかせたまへりし、さきに申し侍りぬ。またかんのきみの御おとうとにおはしけるが生みたてまつり給へる、おはしますと聞こえさせたまふ。かく今の世の事を申しつゞけ侍る、いとかしこくかたはらいたくも侍るべきかな」」。


今鏡第九

    むかしがたり

     あしたづ

「「今の世のことは人にぞ問ひ奉るべきを、よしなきこと申しつゞけ侍るになむ」」などいへば、「「さらば昔語りも猶いかなる事か聞き給ひし。語り給へ」」といふに、「「おのづから見きゝ侍りし事も、ことのつゞきにこそ思ひいで侍れ。且はきゝ給へりし事もたしかにも覺え侍らず。傳へうけ給はりしことも思ひ出づるにしたがひて申し侍りなむ。かたちこそ人の御覽じ所なくとも、いにしへの鏡とはなどかなり侍らざらむ」」とて、むかし淸和のみかどの御時、かたがた多くおはしける中に、ひとりの御息所の太上法皇かくれさせ給へりける時、御經供養して佛の道とぶらひ奉られけるに、御法かきたまへりける色紙の色の、ゆふべのそらのうす雲などのやうに、墨染なりければ、人々怪しく思ひけるに、むかし賜はりたまへりける御ふみどもを色紙にすきて、御法の料紙になされたりけるなりけり。それよりぞ多く色紙の經は、世に傳はれりけるとなむ。かきとゞめられたるふみなども侍らむものを、橘の氏贈中納言ときこえ給ひし宰相の日記にぞこの事はかゝれたると聞こえ侍りし。

村上の御時、枇杷の大納言延光、藏人の頭にて御おぼえおはしけるに、少し御けしきたがひたることもおはせで過ぎ給ひけるに、心よからぬ御けしきの見えければ、あやしく恐れおぼしてこもりゐ給へりける程に、めしありければいそざ參りておはしけるに「年ごろはおろかならずたのみて過ぐしつるに、くちをしきことは、藤原雅材といふ學生の作りたるふみのいとほしみあるべかりけるをば、など藏人になるべきよしをば奏せざりけるぞ。いと賴むかひなく」と仰せられければ、ことわり申す限なくて、やがて仰せ下されけるに、みくらの小舍人家を尋ねてかねて通ふ所ありときゝて、その所に至りて藏人になりたるよし吿げゝれば、その家あるじのむすめの男、所の雜色なりけるが、藏人にのぞみかけゝるをりふしにて、我がなりぬると喜びて祿など饗應せむ料に、俄に親しきゆかりども呼びて營みけるほどに、小舍人、「雜色どのにはおはせず。秀才殿のならせたまへるなり」と云ひければ、あやしくなりて、家あるじ「いかなる事ぞ」とたづねけるに、雜色がめの姉かおとうとかなる女房のまかなひなどしけるを、この秀才しのびて通ひつゝ、局に住みわたりけるを、「かゝる人こそおはすれ」と家の女どもいひければ、「よもそれは藏人になるべきものにはあらじ。ひがことならむ「と謂ひければ〈どイ〉、小舍人「その人なり」といひければ、雜色も家あるじも耻ぢがましくなりて、「かゝる者かよふにより、かゝることは出でくるぞ」とて、夜のうちにその局のしのびづまを追ひ出だしてけり。その事をいかでか雲の上まできこしめしつけゝむ、「いとほしきことかな。さては出で仕うまつらむに、裝ひの然るべきも叶ひがたくやあらむ」とて、くらつかさに仰せられて、くらのかみ調へて、さまざまの天の羽衣たまはりてぞまゐりつかへける。その作りたる詩は、釋奠とかに、鶴九つのさはになくといふ題の序をかきたりけるとぞ。詞をば覺えず。その心はめぐりかけらむことを蓬が島にのぞめば霞の袖いまだあはず。ひく人やあると淺茅が山に思へば、霜のうはげ、いたづらに老いにたりといふ心なり。又村上のみかど、かの大納言に、「われなからむ世に、忘れず思ひ出ださむずらむや」などのたまはせければ、「いかでかつゆわすれ參らせはべらむ」と答へ申されけるを、「折節には思ひ出だすとも、いかでか常にはわすれざらむ」と仰せられければ、「御ぶくをぬぎ侍らで、この世をおくり侍らむずれば、かはらぬ袂の色に侍らば忘れ參らすまじきつまには侍るべき」と奏し給ふ。誠にその契りにたがはずおはしければ、後のみかどの御時も、色ながら事に從ひ給ひけるを御らんじて、御淚も押へあへず悲しませ給ひけるとぞ。かの大納言の夢に先帝を見たてまつりて、作り給へる詩きこえ侍りき。「夢のうちにもし夢のうちのことをしらましかば、たとひこの生を送るとも早くはさめざらまし」とぞおぼえ侍る。「夢としりせばさめざらましを」といふ歌の同じ心なるべし。

     祈るしるし

圓融院の御時にや、橫川の慈惠大僧正參り給へりけるに、眞言の行ひの時、「行者の本尊になることは、あるべきさまをすることにや、又誠に佛になることにてあるか」と問はせ給ひければ、「その印をむすびて眞言を唱へ侍らむには、いかでかならぬやうは侍らむ」と答へ申し給ひければ、五壇の御修法にみかどあはせ給ひて、御覽じけるに、「阿闍梨の印をむすびて定に入りたるとは見ゆれどももとの姿にてこそはあれ」と仰せられければ「誠に本尊になりて侍るを、御さはりものぞこらせたまひ、御功德も重ならせおはしましなば、御覽ぜさせ給ふこともおはしましなむ」と申し給ひけるに、たびたび重なりて御覽じければ、大僧正不動尊のかたち、本尊と同じやうになりてけしやきして居給ひたりけるに、廣澤の僧正も又降三世になりたまひたりけるが、程なく例の人になり又佛になりなどし給ひけり。いま三人は、元のさまにて佛にもならず。かく御覽じて後に大師まゐり給へりけるに、「誠にたふとき事を拜みつることのよに有り難き」と仰せられて、「寬朝こそいとほしかりつれ。心の亂れつるにや、ほどなく姿のもとの樣になりかへりつる」と仰せられければ、大師の申したまひけるは、「寬朝なればまかりなるにこそ侍れ」とぞ奏し給ひける。

禪林寺の僧正ときこえ給ひけるが、宇治のおほきおとゞにやおはしけむ。時の關白殿のもとに消息たてまつりて、「法藏のやぶれて侍る、修理して給はらむ」と侍りければ、家の司何のかみなどいふうけ給はりて、下家司などいふ者つぎがみ具して、僧正の坊にまうでゝ、「殿より法藏修理つかまつらむとて、破れたる所々記しになむ參りたる」と申しければ、僧正呼びよせ給ひて、「いかにかく不覺にはおはするぞ。おほやけの御後見もかくてはいかゞし給ふと申せ」とはべりければ、還り參りて、「しるしに詣で侍りつれどもいづくなる法藏とも侍らず。いかに心得ぬやうには侍るぞ。おほやけの御後見も、いかやうにか御さた候ふらむなど思ひかけず心得ぬ御返事なむのたまはせつる」と申しければ「こはいかに、さはいかにすべきぞ」など仰せられければ、年老いたる女房の、「あれは御はらのそこなはせ給へるを、みのりのくらとは侍るものを」と申しければ、「さもいはれたることさもあらむ」とてまなの御あはせども調へて奉り給へりければ、「材木給はりて、やぶれたる法藏つくろひ侍りぬ」とぞきこえたまひける。此の頃の人ならば關白殿に申さずとも、隱して給ふこと、僧井〈いイ〉しなどいふものに心あはせて、調へさせらるべけれども、かく申され侍りとかや。かの僧正大二條殿の限りにおはしましけるに參り給ひて、「圍碁うたせ給へ」と申し給ひければ、いかにあさましき事など侍りけれど、あながちに侍りければ、やうぞあらむとて碁盤とりよせかきおこされたまひてうたせ給ひけるほどに、御はらのふくれへらせ給ひて、一番がほどに例ざまにならせ給へりける、いとありがたき驗者に侍りけり。經などよみ、祈り申しなどせさせ給はむだに、かた時の程にめでたく侍るべきに、碁うちてやめ申させ給ひけむもたゞ人にはおはせざるべし。

むかし勘解由長官なりける宰相の、まだ下﨟におはしける時、親の豐前守にて筑紫に下りける供にまかりたりけるに、その父國にてわづらひて失せにけるを、その子の父の爲に、泰山府君の祭といふ事を法の如くに祭のそなへどもとゝのへて祈りこひたりければ、その親生きかへりて語られ侍りけるは、炎魔の廳に參りたりつるに、云ひしらぬ備へを奉りけるによりて、返し遣はすべき定めありつるに、その中に、「親の輔通をば返しつかはして、そのかはに子の有國をば召すべきなり。その故は道の者にもあらで、たはやすく此の祭を行ふ科あるべし」と定めありつるを、ある人の申されつるは、「孝養の志ある上に、遠き國に道の人の然るべきもなければ重き罪にもあらず。有國めさるまじとなむ覺ゆる」と申さるゝ人ありつるに因りて、皆人いはれありとて、おや子ともにゆるされぬるとなむ侍りけるとぞ、その流れの人の、才も位も高くおはせし人の語られ侍りける。

一條の院の御時などにや侍りけむ、六位の史を經てかうぶり賜はれるが、縣召に、心高く播磨の國の司望みければ、こと人をなされけるに、たびたび墨をすりてかきつけらるれども、おほかた文字のかゝれざりければ、いかゞすべきと定められけるに、播磨の國望む申しぶみを、皆とりあつめて、かゝるべき定めありて、選びすてたる申しぶみどもをも、おほつかの中よりもとめ出でゝ皆かゝれけるに、かの史の大夫相尹とかいふが名の、あざやかに書かれたりけるとなむ。齊信民部卿の宰相におはしけるとかや、その座にて見給ひければ、ちひさき手して筆のさきをうけてかゝせぬと見給ひける。聖天供をして祈りけるしるしになむありける。その供は觀修僧正とかのせられけるとかや、たしかにも覺え侍らず。かく聞き侍りしを又人の申しゝは、一條の院の御時、長德四年八月廿五日、外記の巡にて、佐伯公行といふ者こそ播磨守にはなりたれ。かの國の史生とかにてありけるとかや。相尹といふものは、なりたることも見えずと申す人もありきとなむ。

     からうた

一條の院の御心ばへも能もすぐれておはしましける上に、しかるべきにや侍りけむ。上達部殿上人、みちみちの博士、たけきものゝふまで、世にありがたき人のみ多く侍りける頃になむおはしましける。常は春風秋月の折ふしにつけつゝ、花のこずゑをわたり、池の水にうかぶをすぐさずもてあそばせ給ひけるに、御をぢの中務宮、はじめて其の筵に參り給へりけるに、ならはせたまはぬ御有樣に、御かうぶりの額もつむる心ちせさせ給ふ。御帶も御したうづもいぶせくのみ覺えさせ給ひけるに、御あそびはじまりて、藤民部卿、四條大納言、源大納言、侍從大納言などいふ人たち、「周の文王の車の右にのせたる」などいふ詩の序、以言と聞こえし博士のつくりたる詠じ給ひけるにぞ、御子の御かうぶりも御よそひもくつろぐやうに覺えさせ給ひて、面白くすゞしく覺えさせたまひける。かの村上の中務宮、ふみつくらせ給ふ道などすぐれておはしましければ、齊名以言などいふ博士常に參りて、ふみ作らせ給ふ御ともになむありける。大內記保胤とて、中にすぐれたる博士、御師にて文は習はせ給ひける。その保胤にはこれらが文、作り得たるところ得ぬ所の有樣問はせ給ひければ、答へ申しける事こそ、からの言の葉は知らぬことなれど面白く聞こえ侍りしか。「いづれもいづれもとりどりに侍るを譬ひにて申し侍らむ」とて、「齊名が文作り侍るさまは月のさえたるに、なかばふりたる檜皮葺の家の御簾ところどころはづれたるうちに、女の箏のことひきすましたる樣になむ侍る。以言詩は、砂子白くちらしたる庭の上に、櫻の花散りしきたるに、陵王舞ひたるになむ似てぞはべる。匡衡がやうはものゝふのあけの革して、緋威のかゞやきたるきて、えならぬ駒の足ときに乘りて、逢坂のせきをこゆる景色なり」とぞ申しける。さて宮、「そこはいかゞ」とおほせられければ、「既に檳榔毛にのり侍りにたり」とぞ申しはべりけるとなむ。

彼の齊信の藤民部卿、鷹司殿の屛風の詩選びたてまつられけるに、日野の三位の詩多くいりたりけるを、義忠といひし贈宰相の難じて「色の絲ことばつゞりて、春風に任せたり」といへる、絲といふ文字平聲にあらず。ひがごとなりと申すときゝて、民部卿、文集の詩の句の、「うるはしきことばゝ、色の絲をつゞれり」と云へるを考へて奉られたりければ、宇治のおほきおとゞ、むづからせ給ひて、「いかにかゝるひが難をば申しけるぞ」とて勘當せさせ給ひて、あくる年まで免させ給はざりければ、義忠の三位、女房につけて奉りける、

  「靑柳の色のいとにや結びてしうれへはとけで春ぞくれぬる」

とぞきゝ侍りし。よればほどけでとかけるもあり。いづれか誠にて侍らむ。

むかしの御つぼねの親にておはせし越後守の縣召に淡路になりていとからくおぼして、女房につけて奏し給ひけるふみに、「苦學の寒夜に紅淚襟をうるほし、除目の春朝蒼天まなこにあり」と書き給へりけるを、一條の御門御覽じて、夜のおとゞに入らせ給ひて、ひきかづきて臥させ給ひけるを、御堂殿參らせ給ひて「いかにかくは」と問はせ給ひければ、女房の、爲時が奉りて侍りつる文を御覽じて御とのごもらせ給へるよし申されければ、「いとふびんなる事かな」とて、國盛といひしを召して、「越前になしたびたるを返し奉るよしの文かきてたてまつれ」とて爲時を越前になさせ給へりしにぞみかどの御心ゆかせ給ひて、こまうどゝふみ作りかはさせむとおぼしめしつる御けしきありけるに合はせて、こしに下りて、から人とふみつくりかはされける。

  去國三年孤舘月

  歸程萬里片〈竹イ〉帆風

  畫鼓雷奔天不

  綵旗雲聳地生風

などぞきこえ侍りし。

     まことの道

大內記のひじりはやんごとなき博士にて、文作る道類ひ少くてよにつたへけれど、心はひとへに佛の道に深くそみて、あはれびの心のみありければ、大內記にて記すべきことありて、催されて內に參れりけるに、左衞門の陣などの方にや、女の泣きて立てるがありけるを、「何事のあれば、かくは泣くぞ」と問ひければ、「あるじの使にて、石の帶を人に借りてもてまかりつるが、道におとして侍れば、あるじにも重く戒められむずらむ、さばかりのものを失ひつる、淺ましく悲しくて歸る空もなければ、思ひやる方もなくてそれを泣き侍るなり」と申しければ、心のうち推し量るに誠にさぞ悲しからむとて、わがさしたる帶をときて取らせたりければ「元の帶にはあらねども空しく失ひて申すかたなからむよりも、おのづから罪もよろしくや侍る」とて「これをもてまからむずる嬉しさ」と手をすりてとりてまかりにけり。さて片隅に帶もなくて隱れゐたりける程に、事始まりければ、おそしおそしと催されて、みくらの小舍人とかに帶を借りてぞ、公事は勤められ侍りける。池亭の記とてかゝれたるふみにも「身は朝にありて心は隱にあり」とぞ侍るなる。中務の宮のもの習ひ給ひけるにも、ふみすこし敎へたてまつりては、目を閉ぢて佛をねんじ奉りてぞ怠らず勸め給ひける。かくて年をわたりける程に、年たけてぞかしらおろして、橫河にのぼりて法文ならひ給ひけるに、增賀ひじりのまだよがはに住み給ひけるほどにて、止觀の明靜なること前代にいまだ聞かずとよみ給ひける。この入道たゞ泣きになきければ、ひじり「かくやはいつしか泣くべき」とて、こぶしを握りて打ち給ひければ、われも人も事にがりて立ちにけり。又程經て、「さてもやは侍るべき。かのふみ受け奉り侍らむ」と申しければ、又さきの如くに泣きければ、またはしたなくさいなみければ、後のことばもえ聞かで過ぐるほどに、又懲りずまに御けしきとり給ひければ、又さらによみ給ふにも、同じやうにいとゞ泣きをりければこそ、ひじりも淚こぼして、「誠に深き御法の尊くおぼゆるにこそ」とてあはれがりてそのふみ靜に授けたまひけり。さてやんごとなく侍りければ、御堂の入道殿も御戒など受けさせ給ひて、ひじりみまかりにける時は、御諷誦などせさせ給ひてさらし布もゝむら給ひける、うけぶみは、三河のひじりたてまつりて、秀句などかきとゞめ給ひけり。

  「昔隋煬帝ノ智者ニ報ゼシ、千僧ヒトツヲアマシ、今左丞相ノ寂公トブラフ、サラシ布モヽチニミテリ」

とぞかゝれはべりける。その三河のひじりも博士におはして、大江の氏のかんだちめの子におはしけるが、三河のかみになりて國へ下り給ひけるに、類ひなくおぼえける女を具しておはしける程に、女みまかりにければ、悲しびのあまりにとりすつることもせでなりまかるさまを見て心をおこして、やがてかしらおろして、都にのぼりて物など乞ひありきけるに、もとの妻にてありける女「われを捨てたりしむくいに、かゝれとこそ思ひしにかく見なしたること」など申しければ、「御とくに佛になりなむ事」とて、手をすりて喜びけると傳へ語り侍る。さて內記のひじりを師にし給ひて、ひんがし山の如意寺におはし、橫河にのぼりても、源信僧都などに深き御法の心汲みしり給ひて、惟仲の平中納言の北白川にて六十卷講じ給ひけるには、覺運僧都まだ內供におはしける時講師せさせ給へり。この三河の入道は讀師とかやにてこそは、法華經の心說きあらはせるふみも、點じしたゝめて、そこばくの聽衆ども居なみて、おのおのよみしたゝめられ侍りけり。かくて後にぞ、山三井寺の僧たちもやすらかによみ傳へたまふなる。遂にから國におはしてもいひしらぬことゞもおはしければ、大師の御名得給ひて、圓通大師とこそきこえ給ふめれ。かくれ給ひけるに佛むかへ給ひ、樂のおと聞こえければ、それにも詩つくり歌よみなどし給ひけるも、もろこしより送り侍りける。

  「笙謌ハルカニ聞コユ孤雲ノウヘ、聖衆來迎ス落日ノマヘ」

とつくり給へり。歌は、

  「雲の上に遙に樂の音すなり人やきくらむひが聞〈耳イ〉かもし」

とよみたまへりけると聞こえ侍りし。

`

又少納言統理と聞えし人、年ごろも世をそむく心やありけむ。月の隈なく侍りけるに、心をすまして山深くたづね入らむ心ざしのせちに催しければ、まづ家に「ゆする設けよ。出でむ」といひて、かしら洗ひて梳りほしなどしけるを、めなりける女も心得てさめざめと泣きをりけれど、かたみにとかくいふことはなくて、あくる日うるはしき裝ひして、一の人の御もとに詣でゝ、山里にまかり籠るべきよしのいとま申しけれど、人も申しつがざりけるをしひ申しければ聞き給ひて、「少納言こなたへ」とて出であひ給ひて、御數珠たびて、「後の世は賴むぞ」など侍りければ、數珠をばをさめて拜したてまつりて、增賀ひじりの室にいたりて、かしらおろしたりけれど、勤め行こふ事もなくてもの思ひたる姿なりければ、ひじりさる心にてはしたなく侍りければ、「生み侍るべき月にあたりたる女の侍ることの思ひ捨て侍れど、いぶせく思ひたまへて」などいふを、ひじり都にいそぎ出でゝ、その家におはしたりければ、え生みやらでなやみけるを、ひじり祈り給ひて生ませなどして、人にまめなるものなどこひたまひて、車につみてうぶやしなひまでし給ひけり。その統理に三條の院より歌の御かへし給はりける。

  「忘られず思ひ出でつゝやま人をしか戀しくぞわれもながむる」

と侍りけるに、淚のごひはべりければ、「東宮より歌たまはりたらむは、佛にやはなるべき」とひじり耻ぢしめ給ひけるとかや。たてまつりたる歌もあはれにきこえ侍りき。

  「きみに人なれなならひそ奧山にいりての後もわびしかりける」

とぞよみてたてまつりける。

公經とか聞こえし手かき、ことよろしき國の司になりたらば、寺なども作らむと思ひしを、河內といふあやしき國になりたればかひなし。ふる寺などをこそは修理せめと思ひて、見ありきけるに、あるふるてらの佛の座の下にふみの見えけるを披きて見ければ、沙門公經と書きたるふみに、こむ世にこの國の司になりて、この寺修理せむといふ願たてたるふみ見てぞ然るべき契りなりけるといひける。かきたる文字のさまなども似たる手になむありける。ふしみの修理のかみのやうにおなじ昔の名をつけるなるべし。

大外記定俊といひしが越中守になりて侍りけるに、國のものは思ふさまに侍りけれども、國の人のないがしろに思へるをあやしみ思ひて、寐たりける夜のゆめに、むかし此の國にめくらきひじりの持經者にて有りけるが、生まれてかくはなりたるぞ。人のあなづらはしく思へるは昔のなごりなるべし。そのひじり、さきの世に彼の國の牛なりける時、法華經一部を負ひて山寺にのぼりたりしゆゑに、持經者になれりしが、此の度は國のかみとなりて、色の黑きもそのなごりとぞ見たりける。昔のなごりにや、末には法師になりて、江文のかたにこもりゐて行ひけるとぞ聞こえ侍りし。その子にて信俊ときこえしも、身は世に仕へながら佛の道をのみ營みて、おいの後にはかしらおろしなどして、限りの時にのぞみては、みづから肥後の入道往生したりと云ひあはむずらむなど申して尊くてうせにけるに、かうばしき匂ひありけるなどきこえ侍りき。

     かしこきみちみち

常陸介實宗と聞こえし人くすしに尋ぬべきことありて、雅忠が許にゆけりけるに、しばしとて障子のつらに据ゑたりけるにまらうど饗ようしけるあひだに、門より入りくる病ひ人を、かねで顏けしきを見て、「これはその病を問ひに來る者なり」といひて、たづぬれは誠にしかありけり。其のなかに見苦しきこともあり、をかしきこともありてえいひやらねば、皆心えたりなどいひて、つくろふべきやうなどいひつゝあへしらへやりけるに、まらうどは有行なりけり。家あるじ盃とりたるを、「とく其のみきめせ。唯今ゆゝしきなゐの振らむずればうちこぼしてむず」といふに、さしもやはとや思ひけむ、いそがぬ程になゐおびたゞしく振りて、はたとひとしき酒をうちこぼしてけり。あさましき事ども聞きたりとぞ語りける。

中頃笙の笛の師にて、市佑時光と聞こえしが、いづれの御時にか、內より召しけるにおなじやうに老いたる者とふたり手うちて、歌うたふ樣によりあはせておほかた聞きもいれず、御返りも申さゞりければ、御使あざけりて歸りまゐりてかくなむ侍るとうれへ申しければ、いましめはなくて仰せられけるは、「いとあはれなる事かな。唱歌しすまして、よろづ忘れたるにこそあなれ。みかどの位こそくちをしけれ。さるめでたきことを往きてもえ聞かぬ」とぞのたまはせける。用光といひし篳篥の師と、ふたり裹頭樂をさう歌にしけるとぞ後にきこえける。その用光が相撲の使に西の國へ下りけるに、きびの國のほどにてや、沖つ白波たちきて、こゝにて命も絕えぬべく見えければ、かりぎぬ、かぶり、うるはしくして、屋形のうへに出でゝをりけるに、白波の舟こぎよせければ、その時用光篳篥とり出だして、うらみたる聲にえならず吹きすましたりければ、白波どもおのおの悲しびの心おこりて、かづけものをさへして漕ぎはなれて去りにけりとなむ。さほどのことわりもなきものゝふさへ、なさけかくばかり吹き聞かせけむもあり難く、又昔の白波は、なほかゝるなさけなむありける。

いとやさしく聞え侍りしことは、いづれの御時にか侍りけむ、中頃のきさき上東門院、陽明門院などにやおはしけむ。近き世の帝の御時、珍らしく內にいらせ給へりける時、月のあかく侍りける夜、「むかしはかやうに侍る夜は、殿上人あそびなどこそ內わたりはしはべりしか。さやうなることも侍らぬこそくちをしく」など申させ給ひければ、いとはづかしくおぼしめしける程に、月の夜めでたきに、「凛々として氷しき」といふうた、いと華やかなる聲して謠ひけるが、なべてなく聞こえけるに、又いといたくしみたる聲のたふときにて、無量義經の「微渧まづおちて」などいふところをうちいでゝ讀まれ侍りけるがいづれもいづれもとりどりにめでたく聞こえければ「昔もかばかりのことこそえきゝ侍らざりしか。いと優なるものどもこそ侍りけれ」と申させ給ひけるにこそ、御汗もかわかせ給ひて御心もひろごらせたまひにけれときゝ侍りし。後冷泉の院の御時、上東門院などいらせ給へりけるにや、又その人々は伊家の辨、敦家の中將などにやおはしけむとぞ人は申し侍りし。ひがことにや。

又能因法師、月あかく侍りける夜、いたゐにむかひて、庇のふき板、所々とりのけさせて、月やどして見侍りけるに、門たゝく音し侍りければ、女ごゑにてとひ侍りけるに、うちより勅使のわたらせ給へるなりと馬部といふ者の申しければ、門開きていづみのもとに、御使の藏人入れ侍りけるに、「仰せごとになむ。月のうたのすぐれたるはいづれかあると仰せはべりつれば、俄に馬つかさの御馬めして、急き對面する」よしなどたれにか有りけむ、その時の藏人の申し侍りければ、

  「月よゝしよゝしと人につげやらばこてふに似たりまたずしもあらず」

といふうたをなむ申しけるが、同じ御ときの事にや侍りけむ、たしかにもきゝ侍らざりき。


今鏡第十

    うちぎゝ

     敷島のうちぎゝ

中頃男ありけり。女を思ひてときどき通ひけるに、をとこある所にて、ともし火のほのほの上にかの女の見えければ、これは忌むなるものを、火のもゆる所をかきおとしてこそその人に飮ますなれとて紙につゝみてもたりける程に、事繁くしてまぎるゝことありければ、わすれて、一日二日過ぎて思ひ出でけるまゝにゆけりければ、「惱みて程なく女隱れぬ」といひければ、いつしか往きて、かのともしびのかきおとしたりし物を見せでと、わが過ちに悲しくおぼえて、つねなき鬼に一口にくはれけむ心うさ、足ずりをしつべく歎き泣きけるほどに、「御覽ぜさせよとにや、この御ふみを見つけて侍る」とて、とり出だしたるを見れば、

  「鳥部山たにゝけぶりの見えたらばはかなく消えしわれとしらなむ」

とぞかきたりける。歌さへともし火のけぶりとおぼえて、いと悲しく思ひける、ことわりになむ。

又ある女有りけり。ときどき通ひける男のいつしか絕えにければ、心うくて、心のうちに思ひ惱みける程に、その人門を過ぐることのありけるを、家の人の、「今こそ過ぎさせ給へ」といひければ、思ひあまりて、「きと立ちながらいらせ給へ」と逐ひつきて云はせければ、やりかへして入りたるに、もと見しよりもなつかしきさまにて、殊の外に見えければ悔しくなりて、とかくいひけれど、女たゞ經をのみよみてかへりごともせざりける程に、七のまきの、即住安樂世界といふ所を、くりかへしよむと見ける程に、やがて絕えいりてうせにければ、われもよりておさへ、人もよりてとかくしけれども、やがてうせにけり。かくてこもりもし、又かしらをもおろしてむと思ひけれど、當時辨なりける人なれば、さすがえ籠らで土におりて、とかくの事までさたして、しばしは山ざとにかくれたりければ、世をそむきぬると聞こえけれど、さすがかくれもはてゞ出でつかへければ、かへる辨となむいひける。

左衞門の尉賴實といふ藏人、歌の道すぐれても、又好みにも好み侍りけるに、七條なる所にて、夕に郭公をきくといふ題をよみ侍りけるに、醉ひて、その家の車宿りにたてたる車にて、歌案ぜむとて寐過ぐして侍りけるをもとめけれど、思ひよらで既に講ぜむとて、人皆かきたる後にて、此のわたりは稻荷の明神こそとてねんじければ、きとおぱえけるをかきて侍りける。

  「いなり山こえてやきつるほとゝぎすゆふかけてしも聲のきこゆる」。

同じ人の、「人にしらるばかりの歌よませさせ給へ。五年が命にかへむ」と住吉に申したりければ、落葉雨の如しと云ふ題に、

  「木の葉ちる宿は聞きわくことぞなき時雨する夜もしぐれせぬよも」

とよみて侍りけるを、かならずこれとも思ひよらざりけるにや、病ひのつきて、生かむと祈りなどしければ、家に侍りける女に、住吉のつきて、「さる歌よませしはさればえ生くまじ」とのたまひけるにぞ、ひとへに後の世の祈りになりにけるとなむ。

又同じゆかりに、三河守賴綱といひしは、まだ若くて、親のともに三河の國に下りけるに、かのくにの女をよばひて、又も音づれざりければ女、

  「あさましや見しは夢かと問ふ程におどろかずにもなりにけるかな」

と申しければ更におぼえづきてなむ思ひ侍りける。かくよむともみめかたちやは變るべきとおぼえ侍れど、むかしの人、中ごろまでは、人のこゝろかくぞ侍りける。此の事は、その人の子の、仲正といひしが語り侍るとなむ。

三河守賴綱は歌のみちにとりて人もゆるせりけり。わが身にも、殊の外に思ひあがりたるけしきなりけり。俊賴といふ人の少將なりける時、賴綱が云ひけるは、「少將殿少將殿歌よまむとおぼしめさば、賴綱を供せさせ給へ。べちの者もまかりいるまじ。あらひたる佛供なむ、ふたかはらけそなへさせ給へ」などぞいひける。其の歌おほく侍れども、

  「なつ山のならのはそよぐゆふぐれはことしも秋のこゝちこそすれ」

といふ歌ぞ、人のくちすさびにし侍るめる。

近き世に女ありけるを、八幡なる所に宮寺のつかさなる、僧都ときこえし小侍從とかいふ親にやあらむ。その坊にこめすゑて程經けるほどに、都より然るべき人のむすめをわたさむといひければ、「かゝることのあるに、人の聞く所も憚らはしければ、しばし都へかへりて、むかへむ折こ」とてしたてゝ出だしけるが、あまりこちたく、贈り物などしてぐしければ、今はかくてやみぬべきわざなめりと思ひけるにつけても、いと心ぼそくて硯がめのしたに歌をかきておくりけるを、とりいでゝ見ければ、

  「行く方もしらぬうき木の身なれどもよにしめぐらは流れあへかめ」

となむよめりけるを見て、むすめなりける人は、院のみやみやなどうみ奉りたるが、まだ若くおはしけるに京へ送りつる人「此の歌をよみおきたる返事をやすべき。又迎へやすべき」と申しあはせければ、「かへしはよのつねのことなり。迎へ給へらむこそ歌のほいも侍らめ」と聞こえければ、心にやかなひけむ、その日のうちに迎へに更にやりて、「けふかならずかへらせ給へ」とて、あけゆく程にかへりにけり。またその然るべき人のむすめを、いひしらず、ゐどころなどしつらひ、はしたもの雜仕などいふもの數あまたしたてゝすゑたりけれど、一夜ばかりにて、硯がめの人にのみ離るゝこともなくぞありける。その女も大臣家の宮仕へ人なりけるが、母の筑紫に下りて菅原の氏寺の別當に具したりけるが、法師みまかりにければ、都へのぼるべきよすがもなくてをりけるを、そのむすめは、朝夕にこれを歎きけるほどに、大臣殿五節たてまつり給ひけるにや、わらはにいだすべき女、外のかたがた見給ひけれど、こればかりなる見えざりければ「思ふやう有りていふぞ。いはむこと聞きてむや」とありければ、「いかでか仰せごとにしたがはず侍らむ」と申しけるに、「五節のわらはに出ださむと思ふ」とのたまひければ、「いかなることもうけ給はり候ふべきを、それはえなむ侍るまじき」と申しければ、「あながちに思ふことにてあるに、構へて聞きたらばいかなる大事をも叶へむ」とありければ、かくまでのたまはせむことさのみもえいなび申さで出でたりけるに、かの大臣殿のわらはいかばかりなるらむとて、殿上人われもわれもとゆかしがりあへりける中に、さかりに物などいひける何の少將などいひける人も見むなどしけるを、ある殿上人の、「珍しげなし。いつも御覽ぜよ」と云ひければ、怪しと思ひて見るに、わがえさらず物いふ人なりければ、恨み耻ぢしめけれど、さほど思ひたちて出でにけり。のちに大臣殿、「此の喜びにいかなる大事かある」と問ひ給ひければ、「熊野にまうでむの志ぞ深く侍る」と申すに、やすき事とて夫さを〈如元〉などあまた召して、淸きころも何かと出だしたてさせ給ひて、參りて筑紫の母迎へよせむことを心ざし申してかへるに、淀のわたりにや、みゆきなどのよそひのやうに道もえさりあへぬことのありけるが、けふ政所の京に出でたまふといひて、よそにはものとも思はぬことのいひしらず見えける程に、むしたれたるはざまよりや見えけむ。ふみをかきて、京より御ふみとてあるを見れば、大臣殿の御使にはあらで、思ひがけぬ筋の文なりけり。ありつる石淸水の僧の舟の人など見しりたるとも人といひければ〈どイ〉きゝも入れぬほどにかたがた思ひかけずいはせければ、いなびもはてゞ下りて、かの筑紫の母むかへとりて、都にしすゑなどしたりけるとなむきこえしは、小大進とかいふ人の事にやあらむ。

陸奧守橘爲仲と申す、かの國にまかり下りて、五月四日舘に廳官とかいふ者年老いたる出できて、あやめふかするを見ければ、例の菖蒲にはあらぬ草を葺きけるを見て、「けふはあやめをこそ葺く日にてあるに、是れはいかなるものを葺くぞ」と問はせければ、「傳へうけたまはるは、この國には、むかし五月とてあやめふく事も知り侍らざりけるに、中將のみたちの御時、けふは菖蒲ふくものをいかにさることもなきにかとのたまはせければ、國の例にさること侍らずと申しけるを、さみだれのころなど軒のしづくも、あやめによりてこそ、今少し見るにも聞くにも心すむことなれば、はや葺けとのたまひけれど、この國にはおひ侍らぬなりとまうしければ、さりとてもいかゞ日なくてはあらむ。あさかの沼のはなかつみといふもの有り。それを葺けとのたまひけるより、こもと申すものをなむふき侍るとぞ、むさしの入道隆資と申すは語り侍りける」もし然らばひく手もたゆく長きねといふ歌おぼつかなく侍り。實方中將の御墓はみちのおくにぞ侍るなると傳へきゝ侍りし。誠にや、藏人の頭にも成り給はで、みちのおくの守に成り給ひてかくれたまひにしかば、この世までも、殿上のつきめの臺盤すゑたるをば、雀ののぼりてくふをりなどぞ侍るなる。實方の中將の、頭になり給はぬ、おもひの遺りておはするなど申すも、誠にはべらば、あはれに耻づかしくも、末の世の人は侍る事かな。

いづれの年にか侍りけむ。右近の馬塲のひをりの日にやありけむ。女車、物見にやりもてゆきけるに、重通の大納言、宰相中將におはしける時にや、車やりつゞけて、見知りたる車なれば、見よき所にたてさせなどして後にわが隨身を、女の車にやりて、

  「たれたれぞたれそ〈二字衍歟〉やまの郭公」

とかや聞こえければ、女の車より、

  「うはのそらにはいかゞなのらむ」

とぞいひ返しける。いとすぐれてきこゆることもなく、かなはずもやあらむ。されども事がらのやさしく聞こえしなり。時の程に覺えむこともかたくて、さてやまむよりも、かやうに云ひたるもさる事ときこゆ。又連歌のいつ文字も、げにと聞こえねども、さやうに問ふべきことに侍りけるなるべし。又確にもえうけ給はらざりき。ひをりといふことはおぼつかなきことに侍るとかや。兼方は眞手つがひと申し侍りけるとかや。匡房中納言の、江次第とかやにもこのことは見え侍るとぞきゝ侍りし。

又いづれの年にか。眞弓の的かくることを、舍人の爭ひて、日くれ夜ふくるまで侍りければ、物見車ども、おひおひに歸りけるに、かきつけて、大將の隨身にとらせたりけるとかや。

  「梓弓ためらふほどに月かげのいるをのみ見てかへりぬるかな」。

ひがことにや侍りけむ。いづもの國にてうせ給ひにし大將殿のつき給へりしとかや。

堀河のみかどの內侍にて周防とかいひし人の、家をはなちて外にわたるとて、はしにかきつけたりける、

  「すみわびてわれさへのきの忍草しのぶかたがたしげき宿かな」

とかきたる、まだその家はのこりて、その歌も侍るなり。見たる人の語り侍りしは、いとあはれにゆかしく、その家はかみわたりにいづことかや、冷泉堀河の西と北とのすみなるところとぞ人は申しゝ。おはしまして御覽ずべきぞかし。まだうせぬ折に、又堀川のみかどのうせたまひて、今のみかどの內侍にわたるべきよし侍りけるに、

  「あまのがは同じ流れといひながらわたらむことは猶ぞ悲しき」

とよまれて侍りけむ。いとなさけ多くこそきこえ侍りしか。

ちかくおはせし橫河の座主の坊に、琳賢といひて、心たくみにて、石たてかざり車の風流などするものはべりき。うたへ申すことありて、藏人の頭にて雅兼中納言のおはしける時かの家にいたり侍りけるに、「大原のたきの歌こそいとをかしく聞えしか」と侍りけるに「うれへ申すことはいかでも侍りなむ。この仰せこそ身にしみて嬉しく侍れ」とでなむ限りなくよろこびて出でにける。その歌は、花園のおとゞの、大原の房の瀧見にいりたまへりけるに、

  「今よりはかけておろかにいはしみづ御らんをへつる瀧の白絲」

とよめりけるとぞ。たはぶれごとのやうなれども、ことざまのをかしく聞こえ侍れば、申し侍るになむ。つのかみ範永といひし人は、何れの山里にか、夕ぐれに庭におりて、とゆきかうゆきしあるきて、「あはれなるかなあはれなるかな」とたびたびながめければ、帶刀節信といひしが、「日くるれば、ところどころの鐘の聲」とつけたりければ、「あなふわい」となむいひける。そのかみ井手のかはづをとりて飼ひける程に、そのかはづ身まかりければほしてもたりけるとかや。

いづれの齋の宮とか。人の參りて、今樣歌ひなどせられけるに、末つ方に四句の神歌うたふとて、「うゑきをせしやうは、鶯すませむとにもあらず」と歌はれければ、心とき人など聞きてはゞかりあることなどや、出でこむとおもひけるほどに「くつくつかうなるなめすゑて、染紙よませむとなりけり」とぞうたはれたりけるが、いとその人うたよみなどには聞こえざりけれども、えつるみちになりぬればかくぞ侍りける。この事刑部卿とか語られ侍りしに、侍從大納言と申す人も侍りしが、さらばことわりなるべし。

菩提樹院といふ寺に、ある僧房の池のはちすに、鳥の子をうみたりけるをとりて、籠にいれて飼ひけるほどに、うぐひすの籠より入りてものくゝめなどしければ、うぐひすの子なりけりと知りにけれど、子はおほきにて親にも似ざりければ、怪しく思ひけるほどに、子のやうやうおとなしくなりて、ほとゝぎすと鳴きければ、むかしより云ひ傳へたるふるきこと誠なりと思ひて、ある人よめる、

  「親のおやぞいまはゆかしき郭公はや鶯のこは子なりけり」

とよめりける。萬葉集の長歌に鶯のかひこの中のほとゝぎすなどいひて、このことに侍るなるを、いと興あることにも侍るなるかな。藏人實兼ときこえし人の、匡房の中納言の物語にかける文にも、中ごろの人この事見あらはしたることなどかきて侍るとかや。かやうにこそ傳へ聞くことにて侍るを、まぢかく、かゝる事にて侍らむこそいとやさしく侍るなれ。右京權の大夫賴政といひて歌よめる人の、さることありと聞きて、わざとたづねきて、その鳥の籠に結びつけられ侍りけるうた、

  「鶯の子になりにける時鳥いづれのねにかなかむとすらむ」。

萬葉集には父に似てもなかず母にゝてもなかずと侍るなれば、うぐひすとはなかずや有りけむなど、いとやさしくこそ申すめかりしか。

     奈良の御代

此の中の人の、おぼつかなき事ついでに申さむ」」とて、「「萬葉集は、いづれの御時つくられ侍りけるぞ」」と問ひしかば、「「古今に、

  神無月しぐれふりおけるならの葉のなにおふ宮のふることぞこれ」

といふ歌侍り」」といひし。「「古今序に、「かのおほん時おほきみつの位、柿の本の人丸なむ歌のひじりなりける」とあるに、かの人丸はかの御時よりも昔の歌よみと見ゆるを、萬葉集つくれる時より古今えらばれたる時まで、年はもゝとせあまり世は十つぎとあれば、とつぎといはゞ大同の御代と聞こえたるに、百とせ餘りといふはさきの事ときこゆる上に、人丸はあがりたる世の人と見えたれば、えなむあるまじき。いかゞ」」と問へば、「「誠におぼつかなきことを、かくこまかに尋ねさせ給ふこそいと心にくゝ」」とて、「「ならのみかどゝ申さむこと大同の御世のみにもあらずや侍らむ。元明天皇奈良の都に、和銅三年の春のころ、始めて遷らせ給ひけるに、長屋の原に御こしとゞめて、藤原のふるさとを顧み給ひて、

  「とぶ鳥のあすかの里をおきていなば君があたりは見えずかもあらむ」

とよませ給へり。はしの目錄にも、寧樂の御歌とてかきつらねて侍るめり。寧樂はならのといひ名づくるなるべし。かくて後七八代は、奈良の都にぞおはしましける。その御世どもにも侍らむ。ならのみかどゝ申す御名は、三代おはしますかと申す人もありとぞ聞き侍りし。柏原の御門の御時長岡の京に渡り給ひて、十年ばかりありてこの平の京には遷らせ給ひて、その御子の大同のみかども、この京の後なれども、平城とはおりたまひてのちべちの御名なるべし。萬葉集に、人丸が歌どもの入りたると聞き侍りしにも、柿の本人丸集にいでたりなどいひて、其の世の人とはきこえずなむ侍るうちに、奈良の京のさきよりも、人丸が歌は多く見え侍るめり。淨見原のみかどの、吉野の宮にみゆきしたまひけるにもよめるうた侍るめり。輕の皇太子、安騎野に宿り給ふ時の歌とても侍るめり。文武の御事なるべし。又人丸が讃とて、いづれの博士が作られたるには、持統文武の聖朝につかへ、新田高市の皇子にあへりとなむ侍るめる。かくて奈良の御世までありて、聖武の御時などにもあひ奉りけるにやあらむと申す人あるべし。誠に奈良の都の時にはありけむとおぼえ侍ることは、そのかみ人丸といふ集所々きゝ侍りしに、天平勝寶五年の春三月、左大臣橘卿の家に、諸卿大夫たち宴し給ひけるに、あるじのおとゞ問ひてのたまはく、古歌にも、

  「あさもよひきの關守がたづか弓ゆるす時なくまづゑめるきみ」

といふ歌のはじめ、いかゞと侍りければ、式部卿石川卿こたへ給へることなど侍るは、高野姬のみかどの御時にこそ侍るなれ。そのほどまでとしたけて侍れども、大同の御時まではいかゞはさのみも侍らむ」」といふに、「「古今序に、「いにしへよりかく傳はるうちに、ならの御時よりぞひろまりける。かの御世や、歌の心をしろしめしたりけむ。かの御時人丸なむひじりなりける。かゝりけるさきの歌をあはせてなむ、萬葉集となづけられたりける」とかけるは、人丸が世にえらばれたるやうにこそ聞こゆれ」」といへば、「「誠に心え難きことに侍る。そのあひだに、詞多く侍る上におしはかり思ひたまふるに、貫之ひがことをかくべきにもあらず。たとひあやまちたりとも、みかどの御覽じとがめずやは侍らむ。しかあれば古今の詞につきてなずらへ試みるに、ならの御時よりひろまりたると侍る、赤人人丸があひ奉れる御世と聞こえたり。「この人々をおきて又すぐれたる人々も吳竹のよゝに聞こえかた絲のよりよりに絕えずなむありける。さきの歌をあはせてなむ、萬葉集となづけられたりける」といふは赤人、人丸が、のちの世々に、よめる歌どもをあはせて、大同の御代には作られたりともや心得べからむ。ならの帝といふは、同名におはしませばひとつことなるやうなれども、萬葉集の時には、人丸がよのあはねばひとつ世にはあらざるべし。

  「たつ田川紅葉みだれて流るめりわたらばにしき中や絕えなむ」

とよませ給へるは、人丸があひ奉れる御代の御歌なるべきにやあらむ。古今序に、「たつた川にながるゝ紅葉は、帝の御目には錦と見え、吉野山の櫻は、人丸が目には雲かとぞおぼえける」とあれば、後のみかどの御製とは、聞こえざるべし。

  「ふるさとゝ成りにしならの都にも色はかはらず花ぞ咲きける」

とよませ侍りけるは、大同の御製なるべし。昔の奈良のみかどならば、ふるさとゝよませ給ふべからず。この御歌は、ならのみかどの御歌とて、古今の春の下に入れ奉れり。もみぢの錦の御歌は、秋の下に、「よみ人しらず、ある人ならのみかどの御歌なり」となむ侍るも、少しのかはるしるしなきにもあらず。しかあるのみにあらず、もし同じみかどゝ申すはおぼつかなき所多く、もしあらぬ御時ならば、同じ御名にてまがはせ給ひぬべき上に、目錄どもにも、

  「はぎの露玉にぬかむととれはけぬよし見む人は枝ながら見よ」

といふ御歌も、よみ人しらず。ある人ならのみかどの御歌なりといふを加へて、三首おなじ御時なるやうに見ゆるは、目錄のあやまれるにやあらむ。おぼつかなき事、よく思ひ定めつべからむ人に尋ね申させ給ふべき事なるべし」」といふに、「「それは忽に定めえがたく侍るなり。又このついでに尋ね申さむ」」とて「「萬葉集は憶良が撰べるといふ人あるは、しか侍りけるにや」」と問へば、「「いかでか。さやうのことは、その時の人にも侍らず、その道にもあらぬ身は、こまかにきゝとゞむべきにも侍らず。しかは侍れど、憶良が類聚歌林などには、遙かなる人とみえてこそ、萬葉にはひきのせ侍るなれ。天平五年歌にも、筑前守憶良などいひて侍るなるは、遙かに先の人にこそ侍るなれ。大同にはあらずや侍りけむ」」などぞ〈如元〉申すめりしか。

     作物語のゆくへ

又ありし人の、「「誠にや、むかしの人の作り給へる源氏の物語に、さのみかたもなきことのなよび艷なるを、もしほ草かきあつめ給へるによりて、後の世のけぶりとのみ消え給ふこそ、えんにえならぬつまなれども、あぢきなくとぶらひ聞こえまほしく」」などいへば、返事には、「「誠に世の中にはかくのみ申し侍れど、ことわり知りたる人の侍りしは、やまとにももろこしにもふみつくり、人の心をゆか〈るイ〉し、暗き心を導くは常のことなり。妄語などいふべきにはあらず。わが身になきことをあり顏に、げにげにといひて、人にわろきみを思はせなどするこそ、そらごとなどはいひて、罪うることにてはあれ。これはあらましことなどやいふべからむ。綺語とも雜穢語などはいふとも、さまで深き罪にはあらずやあらむ。生きとしいける者の命を失ひ、あるとしある人の寶を奪ひとりなどする、深き罪あるも、奈落の底に沈むらめども、いかなる報いありなど聞こゆることもなきに、これは却りて怪しくもおぼゆべき事なるべし。人の心つけむことは功德とこそなるべけれ。なさけをかけ、艷ならむによりては、輪廻のごふとはなるとも、奈落に沈む程のことやは侍らむ。此の世のことだに知りがたくはべれど、もろこしに白樂天と申したる人は、なゝそぢの卷き物をつくりて、詞をいろへたとへをとりて、人の心を進め給ふなどきこえ給ふも、文珠の化身とこそは申すめれ。佛も譬喩經などいひてなき事を作り出だし給ひて說きおき給へるは、虛妄ならずとこそは侍るなれ。女の御身にて、さばかりのことは作り給へるは、たゞ人にはおはせぬやうもや侍らむ。妙音觀音など申すやんごとなきひじりたちの、女になり給ひて、法を說きてこそ人を導き給ふなれ」」といへば、供に具したるわらはの聞きていふやう、「「女になりて導きたまふことは、淨德夫人のみかどを導きて、佛のみもとにすゝめなどし給ひ、勝鬘夫人の親にふみかはして、佛をほめ奉りて、世の末までも傳へなどし給ふこそ、普門の示現などもおぼえめ。これはをとこ女のえんなることをげにげにとかきあつめて、人の心にしめさせむ、なさけをのみ盡さむことは、いかゞは、たふときみのりとも思ふべき」」といへば、「「誠に然はあれども、事ざまのなべてならぬ、めでたさの餘りに思ひつゞけ侍れば、物語などいひて、ひと卷ふた卷のふみにもあらず、六十帖などまで作り給へるふみの、少しあだにかたほなることもなくて、今も昔もめでもてあそび、みかどきさきよりはじめて、えならずかきもち給ひて、御寳物とし給ひなどするも世にたぐひなく、また罪ふかくおはすると世に申しあへるにつけても、なかなかあやしくおぼえてこそ申し侍れ。罪ふかきさまをもしめして、人に佛のみなをも唱へさせ、とぶらひ聞こえむ人の爲に、導き給ふはしとなりぬべく、なさけある心ばへをしらせて、うき世に沈づまむをも、よき道に引きいれて、世のはかなき事を見せて、あしき道を出だして佛の道にすゝむ方もなかるべきにあらず。其の有樣、思ひつゞけ侍るに、あるは別れをいたみて優婆塞の戒をたもち、あるは女のいさぎよき道を守りていさめごとに違はず、この世を過ぐしなどし給へるも、人の見ならふ心もあるべし。又みかどの覺えかぎりなくてえならぬ宿世おはすれども、夢まぼろしの如くにてかくれ給へるなど、世のはかなきことを見む人思ひしりぬべし。又みかどの位をすてゝ、おとうとに讓り給ひて、西山の麓に住み給ふなども、佛の道に入りたまふ、深きみのりにもかよふ御有樣なり。提婆品に說かれ給へる、昔のみかどの御有樣も思ひ出でられさせ給ふ。ひとへに、をとこ女のことのみやは侍る。おほかたは智惠をはなれては、間にまどへる心をひるがへす道なし。惑ひの深きによりて、うき世の海のそこひなきにはたゞよふわざなりとぞ、世親菩薩のつくり給へる文のはじめつ方にものたまはすなれば、ものゝ心を辨へ、悟りの道にむかひて、佛のみのりを廣むる種として、あらきことばもなよびたる詞も、第一義とかにもかへしいれむは佛の御志なるべし。かくは申せども、濁りにしまぬ法のみことならねば、露霜とむすびおき給へることの葉もおほく侍らむ。のりのあさ日によせて、たれもたれもなさけ多く、おはしまさむ人は、もてあそばせ給はむにつけても、心にしめておぼさむによりても、とぶらひ聞こえたまはむぞいとゞ深きちぎりなるべき」」などいひつゞけ侍るに、行く末も忘れてなほきかまほしく、なごり多く侍りしかども、日くれにしかばたち別れ侍りにきいかでか又あひ奉らむずる。「「來む世にうゑきのもとに佛となりて、これがやうにのり說きて、人々に聞かせ奉らばや」」など申しゝこそ唯人とも覺え侍らざりしか。その程と申しゝ所尋ねさせ侍りしかども、え又もあはでなむ。人をつけてたしかに見おかせでと、悔しくのみおぼえてこそすぎて侍れ。


今鏡

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