起きよう起きようと努力していた時である。慌しく走って来る下駄の音が直ぐ窓下に近づいて、突然、窓硝子を激しく叩き出した。
「おい、上野さん、大変だ、真理屋さんが………」
「え? 大変だ? 首でもくくったのかい。」
外の叫び声に私はひどく泡を喰って飛起ると窓を開いた。Nという収容病室の附添夫が慌しげに佇っている。
「どうしたんです? 大変だって。」
「真理屋さんが煙突のてっぺんに上っているんだ、あれ、あれ……」
そう云って彼は機関場の方を指さして見せるのである。建並んでいる病棟の彼方、濛々と黒煙を噴上げている三十
しかし、私達が行った時には早や煙突の周囲は真黒な人垣であった。院長も多勢の事務員を従えて出動していた。私ははげしい苛責をおぼえた。病人の逸走を知らぬというのは明らかに附添夫の越度である。ましてこのような騒ぎを引起すまで知らぬというのは職務怠慢も甚だしい。
煙突の真下には消防手に依って一面に救助網が張られていた。医者は聴診器を持って駈け付けるし、看護婦は応急手当用の諸材料を運んで来る。火事場のような物々しい騒ぎ様である。
「おーい、早く下りて来いようー。」
「やあーい、真理屋ァ 危いからトットと下りて来いようー。」
「院長殿が心配しておられるぞう。お前一人のためにこんなに騒いでいるのが判らないのかアー。」
「こらあッ、落ちたら死んじまうぞうー。」
大勢の者がかわるがわる煙突を仰いで叫んだ。しかし、彼はなかなか下りて来そうにもなかった。片手きりで梯子にぶら下がってみたり、今にも飛下りそうな恰好に手足をさっと離したりする。そして、何事か叫んではげらげらと笑っている。
「誰か早く下ろしてやって下さい。あれあれ、危い、早く、早く、早く下ろしてやって下さい……」
女医の一人が聴診器を振りまわしながらおろおろ声で叫んでいる。
その時、消防手の一人が猿のように素早く梯子に飛付いてするすると上り始めた。観衆は一斉に鳴をひそめてその男を眺めていた。煙突のてっペんでも小手を翳して同じように上って来る男を眺めている風である。恰度、半ば頃まで上って行った時である。突然、頂上から真理屋さんの声が落ちて来た。
「やあーい、上って来ると、飛下りてしまうぞう――」
だが、消防手は構わずに上って行った。と、頂上の彼はいきなり煙突の内側へ飛込む身振りを示した。
「あつ〔ママ〕! 危い。」
観衆は一斉に叫んだ。
「おーい、上っちゃ駄目だ、下りて来い、下りて来いよう。」
上ってゆく消防手を押し留める声が続いて起った。この騒ぎが始まってから機関場は運転を停止していた