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類に至るまで真理、大真理と書きなぐるようになり、自分では胸と背に太文字で真理と大書した着物を着していた。そのうちに到頭真理の面までつくってしまった。真理の探求者は、斯くしてついに憐れな真理 (心理) 病患者になってしまったのである。彼を特別室に収容したのは静養室が満員のためであった。

 翌朝、彼が当箱を借りに来たので、どうするのかと私は訊いてみた。当箱をどうするとは自分ながらお可笑な質問であるが、相手が相手だけにそう訊ねてみたのだ。すると、彼は面の中で笑いながら手紙を書くのですと答えた。

「手紙? 君、自分で書けるのか。」

「え、書けますよ。」

「何処へ出すのだ。郷里かい? 僕が書いてやろうか。」

「いいですよ、附添さんに書いて貰っては申訳がないです。それに親書ですからね。私、カントの所へ出すのです。」

「え? カント。」私は思わずびっくりして訊ね返した。

「いけませんかね。それともショウペンファママエルにしましょうか……」

 そう云って四角な面を私に真面に向けて例のけらけら笑いをするのである。こいつ気の毒に大分よく狂っているなと私は少々憐れに思った。彼は昨日からずっと面を取らないのだ。同室者の言もあるので、私は昨夜試みに夜中に起きて、覗き窓からそっと彼の寝姿を覗いて見た。彼は室の中央に、荒木綿の布団を跳ねのけ、全身変色した不気味な体を投出すようにして睡ていたが、しかし、真理の面はしっかと顔に附けていた。その寝姿は何のことはない、首無しの変死人のような恰好に見えた。しかし、この面も、食事の時には取るのだろうと私は密かに思っていた。が、今朝になって、朝食中の彼を見たが、以前として彼の面には真理の文字が輝いているのだ。彼は面を附けたまま、くりぬいた口の中に食物を放り込んでいるのである。これには流石に私も呆れて、しばし啞然と見惚れていた。

 暫くして、彼は封筒を貼るのだからと云って糊を貰いに来た。さてはカント宛の手紙が書上ったんだなと思い、二時間ほどしてから、私は彼の室に行ってみた。そして、扉を開くなり、私は思わず眼を瞠り、ほうと嘆声を洩らさずにはいられなかった。室内の羽目板一面に、それは恰も碁盤の目のように整然と「真理」の文字が貼られてあるのだ。それは塵紙にひとつひとつ丹念に書いたものである。御当人は室の真ん中に端坐してそれらの文字に眺め入っていたが、私を見ると、よく来てくれました、さあお這入り下さいと頻りに招じ入れるのである。

「カントへの手紙はどうしたね?」と訊ねると、

「はははは……手紙ですか。止めました。お手紙するより、直接、カントさんに会ってお話した方がいいようですよ。」

 そう云って彼は嬉しそうに書き連ねた真理の文字に見入るのであった。

 その日は午後から院長の廻診があった。彼の室には真理の文字が更に何十枚か殖えていた。支給された塵紙全部をそれに充ててしまったのである。院長が大勢の医者や看護婦を従えて来た時にも、彼は手足を墨で真黒に染めながら、頻りに真理の浄書に余念もなかった。

「M・K……どんな男だったかね。」

 院長は彼の姿を見てから私に尋ねた。私はまだ顔を見ていない旨を答えた。どんな男なのか名前だけでは測りがたかった。それで愈々彼の真理の面を剝ぐことになった。が、いざ私が近づいて面に手を掛けようとすると、彼は急に獣のような奇声を上げ、怖しい力でそれを拒んだ。再度私が同じ行動を繰返すと、彼は片