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そり埋葬まいさうする段取だんどりになつてゐたらしい。ところが父󠄁ちゝの一げきけると、あに急󠄁きふ悲鳴ひめいげたので、隣家りんかひとけつけてた。この一けんがあつてから、父󠄁ちゝ押默おしだまつてくらおほくなり、一そうさけりやうしていつた。

 これにるゐした事件じけんは、これだけではなかつた。或時あるときあにくびいしむすびつけてやり、山中さんちうぬまとうじさせようとした。投身みなげはしたがにきれず、ほか兄達󠄁あにたちかねてぬまはひり、おぼれかけてゐるあにたすげたのださうである。或時あるときくびをくゝらうとし、或時あるときには鐵路てつろ飛込󠄁とびこんだがねとばされて目的もくてき達󠄁たつしなかつた。

 父󠄁ちゝ焦燥せうさう懊腦おうなう日每ひごとしてきた。わたしが十歲頃さいころ或日あるひあにとつぜん姿すがたをくらました。そのあにからの消󠄁息せうそくで、身延山みのぶさん療養所󠄁れうやうじよるのが判󠄁わかつた。わたしいへにかすかなひかりがさしそめたのは、それから四五ねんあいだであらうか。しかわたし發病はつびやうとなつた。父󠄁ちゝは十六さいわたしによくママつた。人間にんげんうまれて人並ひとなみ身體からだてず人並ひとなみ生活せいくわつ出來できないものは、きてゐても本當ほんたうつまらぬ、きてゐる資格しかくがない、なが生恥いきはぢさらすよりは、一思ひとおもひにんだはうがましだ。ぬには一ふんとはいらない、剃刀かみそり一寸ちよつと咽喉のどれば萬事ばんじ解決かいけつされる、おまへにやる勇氣ゆうきがなければ、父󠄁ちゝ咽喉のどつて手本てほんしめさう。さういふとき父󠄁ちゝは、しづかな口調くてうで、しげわたしみつめながらふのである。わたしはらそこまで胴震どうふるひするほどおそろしかつた。よるもゆつくり落着おちついててゐられなかつた。

 わたしにはなん希望󠄂きばうはりもなかつた。といつて自殺じさつをする程󠄁ほどつきつめない。わたし唯一ゆゐいつ救手すくひては、まち別居べつきよして映画えいぐわくわん音󠄁樂手おんがくしゆをしてゐたうへあにで、時々ときまちれてつては御馳走ごちせう食󠄁はせ、映画えいぐわせてくれた。ときにはやま連󠄁れてつてなぐさめてくれた。わたしわかれとなると、いつもきながら、はやうちかへつててとたのんだ。

 このやう日々ひゞ三月みつき半󠄁年はんとしつゞあひだに、身延みのぶからかうやま復生病院ふくせいびやうゐんうつつてゐたあにからたよりがあつて、病氣びやうきならすぐやうにとつてた。そのとしあきわたし父󠄁ちゝにつれられて復生病院ふくせいびやうゐん入院にふゐんしたのである。途󠄁中とちう父󠄁ちゝ決意けついし、わたし道伴󠄁みちづれにしようとしたが、おもあまつてあきらめた、とあと退院たいゐんして、はゝからかされたときわたしはひやりとした。御殿場ごてんば復生病院ふくせいびやうゐんあひだ道程󠄁みちのりがもつとながいか、私達󠄁わたしたちかうやまきが夜間やかんでゞもあつたら、どうであつたらう。

 復生病院ふくせいびやうゐんけるわたし生活せいくわつについては、わたしがドルワル・ド・レゼーから受洗じゆせんしたこと日常生活にちじやうせいくわつわたし生涯しやうがい消󠄁えぬ印象いんしやうあたへたことだけをしるしてかう。しかわたしは、斑紋󠄁はんもんのすつかりれたかほ是非ぜひたいといふ父󠄁母ふぼねがひで、一ねんらずで復生病院ふくせいびやうゐんらなければならなかつた。かほ斑紋󠄁はんもんさへ消󠄁えればもうらいはなほつたつもりでよろこんでゐる單純たんじゆん父󠄁母ふぼわたし內心ないしんさびしく人並ひとなみ勞働仕事らうどうしごと從事じうじすることになつた。それにわたしにとつてもつと苦痛くつうであつたのは、仕事しごとんでくたつかつてゐる身體からだ大楓子油だいふうしゆ注射ちうしやことであつた。日曜󠄁にちやう特別とくべつ差支さしつかへのないかぎり、きまつてたねばならぬことは、餘程よほどつよ意志いしちから必要󠄁ひつえうであつた。まして長屋住居ながやずまゐちひつぽけないへに、人眼ひとめ避󠄁けてやるのである。大楓子油だいふうしゆかしてゐる所󠄁ところへふいにきやくがあつたり注射ちうしやをしてゐる最中さいちう隣家りんかひとはひつてたりして、隨分ずゐぶんとあわてふためくこともあつた。また仕事しごと最中さいちうに、注射ちうしやのしこりがいたかつたり、ときには化󠄁膿くわのうしたりして、同僚どうれう達󠄁ものたちにもへんおもはれたことすくなくなかつた。それでも三ねんほどはどうやらつゞけたが、病氣びやうきべつかはりはなかつたし、それに自分じぶん一人ひとりだけがいたおもひをして注射ちうしやながきることいてた。敎會けうくわいにもかなくなつた。こんなつかれた氣持きもちわたし自棄やけにし、刹那的せつなてき享樂主義きようらくしゆぎしや仕立したてていつた。わたしさけみ、おんな遊󠄁あそことおぼえた。

 そして二三ねんばかり經過󠄁けいくわした。わたしかほにはまた斑紋󠄁はんもんいてた。わたしおそれてゐたきたるべきとき遂󠄂つひたのであつた。わたしひそかにけつしてゐた。復生病院ふくせいびやうゐんおもも、洗禮せんれい感激かんげきも、わたしなかからいつか消󠄁せ、うと自嘲じてうするこゝろがそれらにかはつてゐた。

 そのころいもうと發病はつびやうしたのであつた。またしても父󠄁ちゝ苦悶くもんはゝ悲嘆ひたんわたしはたゞさけもとめてちまたをさまよつた。そして徵兵検査ちようへいけんさんだはるだれにもだまつて自殺行じさつかうたのである。


 わたしいもうと現在げんざい療養所󠄁れうやうじよ落着おちついてはや八ねん近󠄁ちかい。しゆはいつ如何いかなる場合ばあひにも、いとふか罪人つみびとをもたまふことはない。しゆわたしうちにも人並ひとなみ孝心かうしんといふあたゝかいものをはぐくたまママた。

 わたしはかつて父󠄁ちゝ改宗かいしうすすめたことがある。復生病院ふくせいびやうゐんからかへつた當時たうじにもをりにふれては救靈きうれいのことを、基督キリストのこと、敎會けうくわいのことなどについて、わかりやすくいたが、うんあの耶蘇ヤソのことか、といつたきりだつたし、はゝまたわたしつてゐる十字架じかやメダイユをて、うちにはせんぞからのかみほとけまつつてあるのに、といふ始末しまつであつた。そのわたし自身じしん敎會けうくわいはなれてしまつた。

 こちらに來て、わたしもカトリツクに復歸ふくきしてみると、またいた父󠄁母ちゝはゝのことがになつてならない。めぐまれなかつた生涯しやうがいだけに、救靈きうれい方法はうはふ是非ぜひかうじてやらなければならぬとおもつた。わたしはまた父󠄁ちゝたいして長文󠄁ちやうぶん手紙でがみをかいた。父󠄁ちゝからはなん返󠄁信へんしんもなかつた。わたしかさねて手紙てがみいた。その父󠄁ちゝ胃癌ゐがんいま重湯おもゆめない。醫師いしすで餘命よめい幾何いくはくもないとせんしてゐる。かみ存在そんざいかんがへられず永世えいせいふものが我々われ約束やくそくされてゐないとしたら、わたし父󠄁ちゝおもふに忍󠄁しのママないであらう。わたししゆ御前󠄁みまへぬかづいていのるばかりである。それだけがわたしあたへられた唯一たゞひとつの道󠄁みちであり孝心かうしんである。


 かみ眞實しんじつにてましませば、汝等なんぢらちから以上いじやうこゝろみられることをゆるたまはず、かへつて、ふることさせんために、こゝろみととも勝󠄁つべき方法はうはふをもたまふべし。(コリント前󠄁・十ノ十三)


  三にんらいしや父󠄁ちゝれましてこゝろむなしくみたまひけむ

  ふたゝびはうままれることなしうつしつかへるときよつひにあらぬかも