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非決定論にして、意志の絕對的自由(liberum arbitrium indifferentiae)を主張したる最好の例なり。

《神の意志、善、祝福、救濟等の問題に關するトマスとスコートスとの見解の差。》〔六〕スコートスは神に於いても意志を以て其の活動の樞軸をなすものとせり。先きにトマスは神の意志は其の智が見て以て善となす所に從ふと說きしがスコートスは之れに反對して以爲へらく、意志以外に神の意志を決定する者なし其の意志是れ即ち造化の究竟的原因にして其れ以外其の意志を定むる理由と謂ふべきものなし。物の存在あるは唯だ神のこれを意志せるがゆえなり。約言すれば意志の活動が實在の根原なり、知性の示す理由てふものは意志して後に生じ來たるものにして意志そのものの理由はあらず。

斯かる所見よりしてスコートスは道德上根本の點に於いてトマスと反對の位置に立てり。トマスに取りては善は本來善として存在するものまた神の知性と離れざるもの也。スコートス以爲へらく、事物の善と云はるゝは其れが神の意志し命令する所たればなり、神の意志を離れ其の命令を離れて物それ自身に善惡の差別なしと。即ち彼れは善の自性的存在(perscitas boni)を否み善惡の區別は理由を附