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對境となるものは見て以て善しとせられたるもの、意志は惡しきものを惡しき者として求むることなし。簡單に云へば意志を決定するものは吾人の知性なり。知性と意志との關係はこれを神に於いて視るも、又彼れのかたちに似せて造られたる人間に於いて視るも同一也。神は其の知性を以て善と認むる所を意志す而して彼れに在りては其の自性是れ卽ち善にして至善と神性とは同一なるが故に彼れ自らが其の意志の對境なり。卽ち彼れの意志を決定する者は彼れ自らなれば彼れは自由自在なる者なり。人間の自由は其の知性によりて意志を決定する力に在り。此のトマスの說は一種の決定說と稱すべき者、而して是れは後にトマス派(ドミニカンの徒)と其の反對者なるスコートス派(フランシスカンの徒)との激しき爭論の主題となれる者なり。知性と意志との關係に就きてのトマスの說は啻に其の心理說上に於いてのみならず其の道德論上にも亦深大なる關係を有す。彼れ以爲へらく、善は其れ自身に(per se)善なり、善は本來それ自身に定まり居り他の制定によりて(ex institutione)成るものに非ずと。

《トマスの德論、其の主知的思想。》〔九〕トマスの德行を論ずるや希臘哲學に於ける倫理思想を取りて智、勇、節慾、