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にして、世界と世界との間に住み自足して毫も他に求むる所なき者なり。此等の神々は吾人の世界に對して少しも心を用ゐることなく些も吾人に求むる所なければ吾人は彼等を恐れまた彼等に媚ぶる必要なし。吾人は須らく此等一切の迷信的恐懼を去るべし。

《知覺、想像、記憶及び意志の自由。》〔五〕知覺は外物の影像(εἴδωλα)が感官より入りて靈魂の原子に接し其處に運動を起こすことによりて生ず。想像も亦同じく外より影像の來たるによりて生起す。記憶は曾て起こりし靈魂原子の運動の再起するによりて生ず。意志は靈魂に起こされたる運動が身體に傳はる所に起る。此くの如くエピクーロスは凡べての心作用を全く物質の上より考へたるにも似ず固く意志の自由を主張せり(これは其の元子論に直下運動より隨意に左右にるゝ力の元子に具はれりと云へるに聯絡せしめて考ふるを得べし)。エピクーロスがデーモクリトスの世界觀を襲ひたるはそれが自家の人生觀を說くに適せるが故にして敢て究理上の方面に重きを置けるにあらず。是れ彼れが唯物的元子論を取りながら道德論上の必要よりして意志の力に重きを置き其の自由を生張したりし所以ならむ。