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問はず何等の目的かなきはなし。吾人の行爲の支離滅裂ならざるは或最高目的の之れを支配し其の連絡を附するものあればなり。然らば吾人の行爲を支配すべき究極の目的は何ぞや。曰はくオイダイモニア(εὐδαιμονία)即ち善福是れなり。倫理學はオイダイモニアの何たるを究むる學なり、其の目的畢竟善といふことの何たるを知るにあれど所謂善は吾人の實際の生活上達し得べきものを意味す。故にアリストテレースはプラトーンの謂へる如き純理哲學上の善は倫理學の關する所にあらずとなせり。

アリストテレースは吾人のオイダイモニアを人性の圓滿なる活動にありとせり。然らば吾人は如何なる活動を以て吾が職能となすべきか、曰はく合理的活動是れなり。如何とならば吾人の特質は理性にあれば也。合理的活動即ち理性に從へる作動これを德といふ。德に究理上のもの(διανοετικαί ἀρεταί)と性行上のもの(ἠθικαί ἀρεταί)とあり。前者は理性の働たらきが眞理の硏究に向かへるを謂ふ、凡そ吾人の心が事理に明らかなる是れ亦一種の德なり。後者は吾人の品性及び氣質即ちエートス(ἦθος)に關するものを謂ふ〈此のアリストテレースの用語よりして倫理學をエーティカと云ふこととなれり〉。前者は