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故に未だ倫理學と稱すべきものを見ざる也。要するに彼等の思索は終始物理的說明の立脚地を離れず未だ純然たる非物界を說くに至らざりし也。かるが故にソークラテース以前の希臘哲學を、或史家の爲したる如く主心派と主物派との二派に分かたむは非なり。其が全體の主眼は皐竟物界の硏究にあり。

然れども其の物理的思索を一括して唯物論といはむは妥當ならず。心と物との對峙の明らかに想念せらるゝに至りてこそ近世いふが如き唯物論は起こらめ。ミレートス學派もエレア學派もヘーラクライトスも純然たる唯物論の主唱者にあらず、愛憎といひ又ヌウスと云ふが如きものを說けるエムペドクレース又アナクサゴーラスも純然たる唯物論者にあらず。アトム論者に至りて始めて全く唯物論の面目を具へ來たれり。こは思ふにデーモクリトスの唯物的世界觀を大成したる時に當たつては旣に傍には主心的傾向發生して心と物との對峙のやう明らかに意識せらるゝに至りしが故ならむ。物界硏究時代の希臘哲學はアトム論者に至りて其の發達の頂上に達したる也。而してアトム論者に至るまでの希臘哲學は總べて物理的硏究を超越せざりしかども又其の決して純然たる唯物