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は乙に達することあり達せざることあり、これは考ふべからざること也。若し通常史家の解し來たれる所に從へば此の論は唯だ物體の運動の關係的なること、即ち一物の動くと云ふは唯だ他物に對してのみ言ふべきものなることを示すに過ぎざるべし、甲の動くと云ふは唯だ他物(例へば乙)に對してのみ言ふべきものなれば乙の靜止する時よりもそれが甲へ向かつて動く時には甲が早く乙に達すべきは當然のことなるべし、未だこれを以て運動(移處)と云ふことを破するには足らざる也。然れども若し此の論を以て同じき時間に通過し得る距離の或は短く或は長きこと、換言すれば運動に遲速あることを難する者とせば旣に揭げたる三ケ條の難動の論と相合して大に意味ある者となる也。そは若し空間は極めて小なる點を以て成り時間は極めて小なる瞬間を以て成るものならば極めて小なる時間には極めて小なる空間を通過する外なかるべし、即ち一瞬間に通過し得べきは一點に止まるべし、故に同じき時間に或は多く或は少なき空間を通過すと云ふことある可からざる也。

《有以外に虛空なし。》〔十〕ヅェーノーンは又物が虛空に存すといふことを非難せり。その要旨に曰はく、若し有といはるゝものが皆虛空の中に在り而して虛空がまた有るものなら