Page:Kokubun taikan 09 part2.djvu/209

提供:Wikisource
このページは校正済みです

 「我もまたこゝをせにせむうつの山分けて色ある蔦の下露」。

猶うちすぐる程に、ある木蔭に、石を高く積み上げて、めにたつさまなる塚あり。人に尋ぬれば「梶原が墓」となむ答ふ。道の傍の土になりけりと見ゆるにも、顯基中納言の口ずさみ給へりけむ、「年々に春の草のみ生ひたり」といへる詩思ひいでられて、これも亦ふるき塚となりなば、名だにも殘らじとあはれなり。羊太傅〈羊祜〉が跡にはあらねども、心ある旅人は、こゝにも淚をやおとすらむ。かの梶原は、將軍二代の恩に憍り、武勇三略の名を得たり。傍に人なくぞ見えける。いかなる事にかありけむ、かたへの憤ふかくして、忽に身をほろぼすべきになりにければ、ひとまとものびんとや思ひけむ、都の方へ馳せのぼりける程に、駿河國きかはといふ所にて、うたれにけりと聞きしが、さは爰にてありけるよと哀に思ひあはせらる。讚岐の法皇〈崇德〉配所へ赴かせ給ひて、かの志戶と云ふ所にて、隱れさせ御座しける御跡を、西行修行のついでにみまゐらせて、「よしや君昔の玉の床とてもかゝらむ後は何にかはせむ」とよめりけるなど承はるに、まして下ざまのものゝ事は、申すに及ばねども、さしあたりてみるには、いと哀におぼゆ。

 「哀にも空にうかれし玉鉾の道のべにしも名をとゞめけり」。

淸見が關も過ぎうくて、しばしやすらへば、沖の石、村々潮干にあらはれて、波に咽び、磯の鹽屋、所々風に誘はれて、煙たなびけり。東路の思ひ出ともなりぬべきわたりなり。むかし朱雀天皇の御時、將門と云ふもの、東にて謀反起したりけり、これを平げむ爲に、民部卿忠文を