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はべりし。爲氏大納言撰ばれつる。このしはすにぞ奏せられける。續拾遺集と聞ゆ。「たましひあるさまにはいたく侍らざめれど、艷には見ゆる」と時の人々申し侍りけり。續古今のひきうつしおぼろげの事は立ちならび難くぞ侍るべき。かくて年もかはりぬ。その頃新陽明門院又唯ならずおはしますと聞えし。五月ばかり御けしきあれば珍らしうおぼす。ないない殿にてせさせ給へば天下の人々まゐりつどふ。前の度生れさせ給へる若宮はかくれさせ給ひにしを新院本意なしとおぼされけるに、又かくものし給へば、めでたう思ふさまなる御事もあらばと今よりおぼしかしづくに、いとかひがひしう若宮生れさせ給へればかぎりなくおぼさる。八月御子の御ありきぞめとて萬里小路殿に渡らせ給ふ。唐廂の御車に後嵯峨院の更衣腹の姬宮、聖護院の法親王のひとつの御腹とかや、御母代にてそひ奉り給ふ。又三條の內大臣公親の御むすめ內の上の御乳母なりしもめでたき御あえものとて御車にふたり乘りたまふ。女院は院のうへひとつ御車に菊のあじろのひさしに奉る。宮の御車にやりつゞけてよそほしくめでたき御事なり。その頃儉約行はるとかや聞えし程にて下簾垂みじかくなされ小金物拔かれける。物見車どものも召次よりて切りなどしけるをぞ「時しもやかゝるめでたき御事のをりふし」などつぶやく人もありけるとかや。この宮も親王の宣旨ありていとめでたく聞えしほどに、明くる年九月又かくれさせ給ひにしいと口をしかりし御事なり。弘安も四年になりぬ。夏頃後嵯峨院の姬宮かくれさせ給ひぬ。後の堀川院の御むすめにて神仙門院と聞えし女院の御腹なれば故院もいとおろかならずかしづき奉らせ給ひけり。御かたちも