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けられゆくに、いといみじき病をさへして、建仁三年九月十六日とし二十二にてかしらおろす。世の中のこりおほくなに事もあたらしかるべきほどなれば、さこそ口をしかりけめ。をさなき子の一萬といふにぞ世をばゆづりけれどうけひくものなし。入道はかのやまひつくろはむとてかまくらより伊豆の國へいでゆあびに越えたりけるほどに、かしこの修善寺といふ所にてつひにうたれぬ。一萬もやがてうしなはれけり。これは實朝と義時と、ひとつ心にてたばかりけるなるべし。さて今はひとへに實朝故大將の跡をうけつぎて、つかさくらゐとゞこほる事なくよろづ心のまゝなり。建保元年二月二十七日正二位せしは閑院の內裏つくれる賞とぞ聞き侍りし。おなじき六年權大納言になりて大將をかねたり。左馬頭をさへぞつけられける。その年やがて內大臣になりてもなほ大將もとのまゝなり。父にもやゝ立ちまさりていみじかりき。このおとゞは大方心ばへうるはしく、たけくもやさしくもよろづめやすければ、ことわりにも過ぎて、ものゝふのなびきしたがふさまも代々〈ちイ〉、にもこえたり。いかなる時にかありけむ。

  「山はさけ海はあせなむ世なりとも君に二ごゝろわがあらめやも」

とぞよみける。時政は建保三年にかくれにしかば義時ぞ跡を繼ぎける。故左衞門督の子にて公曉といふ大とこあり。親の討たれにしことをいかでかやすき心あらむ。いかならむ時にかとのみおもひわたるに、この內大臣また右大臣にあがりて大饗などめづらしくあづまにておこなふ。京より尊者をはじめ上達部殿上人おほくとぶらひいましけり。さて鎌倉にうつし