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かりなりければ、內侍のとがにぞ聞く人申しける。大納言の御子は師能の辨とて、若狹守通宗のむすめのはらにおはしき。その兄弟に師敎師光などきこえたまふ、三井寺に證禪已講とて、よき智者おはしける、うせ給ひにけり。師光は小野の宮の大納言能實のうまごにて、小野の宮の侍從など申すにや。大納言の次の御弟も、師時の中納言と申しゝ、その母侍從宰相基平のむすめなり。それも詩などよく作り給ふなるべし。大藏卿匡房と申しゝ博士の申されけるは、この君は詩の心得てよく作り給ふとぞ、ほめきこえける。からの文ものし給へることは、兄には劣り給へりけれど、日記など量りなくかきつめ給ひて、此の世にさばかり多く記せる人なくぞ侍るなる。その文どもはうせ給ひてのち鳥羽の院めして、鳥羽の北殿におかせ給へりけるに、權大夫とかきつけられたる櫃ども、數しらずぞ侍りける。宗茂菅軒などいひしがくさうの上官なりし時は、此の君弟子におはして、車など貸し給へりければ、外記の車は上﨟次第にこそたつなるを、中將殿の車とて、牛飼一つに立てゝ、爭ひなどしける。歌よみにもおはして、兄の太納言も、この君も、堀河院の百首などよみ給へり。爲隆宰相は、大辨にて中納言にならむとしけるにも、宰相中將なれども大辨に劣らず、何事もつかへ除目の執筆などもすれば、うれへとゞめなどし給ひける。大方の物の上手にて、鳥羽の御堂の池堀り山造りなど、とりもちてさたし給ふとぞ聞こえ侍りし。ゆゝしくうへをぞ多くもち給へるとうけたまはりし。六七人と持ち給へりけるを、夜每に皆おはしわたしけるとかや。冬は炭などをもたせて火おこしたる、消えがたには出でつゝ、よもすがらありきたまひて朝いを午時な