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らざりき。御とし五十四までぞおはしましける。御母贈皇太后宮は承德二年十一月に內に參り給ひて、康和五年正月に、このみかど生みおきたてまつりて、かくれさせ給ひにしかば、きさき贈りたてまつりたまへり。

     春のしらべ

仁和寺の女院の御腹の一の御子は、位おりさせ給ひて、新院ときこえさせ給ひし。後に讃岐におはしましゝかば、讃岐のみかどゝこそ聞こえさせ給ふらめな。御母女院は中宮璋子と申しき。公實大納言の第三の御むすめなり。鳥羽の院の位におはしましゝ時、法皇の御むすめとて參り給へりき。此のみかど元永二年己亥五月十八日にうまれさせ給へり。保安四年正月廿八日に位に即かせ給ふ。大治四年御元服せさせ給へり。御とし十一。法性寺のおほきおとゞの御むすめ、女御に參り給ひて、中宮に立ち給ひし。皇嘉門院と申す御事なり。時の攝政の御女、きさきの宮におはします。白河の院、鳥羽の院おやおほぢとておはします。御母女院ならぶ人なくておはしましゝかば、御せうとの侍從中納言實隆、左衞門の督通季、右衞門の督實行、左兵衞の督實能など申して、帝の御をぢにて、直衣ゆるされて常に參り給ふ。その公達近衞のすけにて、あさ夕さぶらひ給ふ。みかどの御心ばへ絕えたる事をつぎ、古きあとを興さむとおもほしめせり。幼くおはしましけるより歌を好ませ給ひて、朝夕さぶらふ人々に、かくし題よませ、「紙燭の歌かなまりうちて響きのうちによめ」などさへ仰せられて、常は和歌の會ぞせさせ給ひける。さのみうちうちにやはとて、花の宴をせさせ給ひけるに、松に遙