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しなると申したれば、彼の後一條のみかど世をたもたせ給ふ事廿年おはしましゝかば、萬壽二年の後いまとかへりの春秋はのこり侍らむ。神武天皇より六十八代にあたらせ給へり。その御世より申し侍らむ」」とて、

     くもゐ

「「後一條のみかどゝは、前の一條の院の第二の皇子におはします。御母上東門院、中宮彰子と申しき。入道前の太政大臣道長のおとゞの第一の御むすめなり。このみかど寬弘五年長月の十日あまり、ひとひの日生れさせ給へり。同じ年の十月十六日にぞ親王の宣旨きこえさせ給ひし。同じ八年六月十三日東宮に立たせ給ふ。御年四つにおはしましき。一條の院位さらせ給ひて、御いとこの三條の院東宮におはしましゝにゆづり申させ給ひしかば、その御かはりの東宮に立たせ給へりき。かの三條の院位におはします事、五とせばかり過ぐさせ給ひて、長和五年むつきの廿九日に、位を此の帝に讓り申させ給ひき。御年九つにぞおはしましゝ。さて東宮には、かの三條の院の式部卿のみこを立て申させ給へりき。攝政は、やがて御おほぢの入道おとゞ、左大臣とて先のみかどの關白におはしましゝ、ひきつゞかせ給ひて次の年の三月に御子の宇治のおとゞ、右大將と聞こえさせ給ひしに、讓り申させ給ひにき。その日やがて內大臣にもならせたまふと聞こえさせたまひにき。その八月九日、東宮わが御心とのかせ給ひき。三條の院も卯月に御ぐしおろさせ給ふ。五月にかくれさせたまひぬるにも、世の中さうざうしくおぼしめすにや。御病ひなどきこえてかくさらせ給ひぬれば、みかどの御