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々の郡の名をしるしさまざまの出でくる物どもの數を目錄をさせしめ給ひき。同七年十月維摩會を山階寺にうつし行ひ給ひき。この會はこゝの所にて行はれしに、その事中絕えて今年四十二年にぞなり侍りし。同八年九月三日位を御女の元正天皇の、氷高內親王と聞え給ひしにゆづり奉り給ひき。

     第四十五元正天皇〈天平廿年四月廿一日崩。年六十九。葬佐保山陵。〉

次の御門元正天皇と申しき。文武天皇の御姉。これも元明天皇の御腹におはします。元明天皇位を去り給ひし時聖武天皇を東宮と申しゝかば、位を繼ぎ給ふべかりしかども、その年ぞ御元服したまひて御年十四になり給ひしに、なほいまだいとけなくおはしますとて、この御門は御をばにて讓を得給ひしなり。和銅八年九月三日位に即き給ふ。御年三十六。世を知り給ふ事九年なり。年號かはりて靈龜と申しき。三年と申しゝ九月に御門美濃の國ふはの山のいでゆに行幸ありき。その湯をあみし人白髮かへりて黑くなりき。目暗かりしものたちまちにあきらかになり、痛き所を洗ひしかば即ちいえにき。かくて御門かへり給ひて十一月七日年號を養老とかへられにき。二年と申しゝに不比等律令を撰びて御門に奉り給ひき。同三年と申しゝ二月に百官を召して笏をもつ事ははじまり侍りしなり。同四年八月三日不比等うせ給ひにき。九月に大隅日向の國におほやけに隨ひ奉らぬものどもありしかば宇佐宮の禰宜宣旨をうけたまはりて、軍を起してこれらを討ち平げてき。その時に宇佐宮の詫宣したまひて「たゝかひの間多くの人をころせり。これによりて放生會をすべし」とのたまはせしか