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しなり。

     第卅五推古天皇〈三十六年崩。年七十三。葬磯長山田陵。〉

次の御門推古天皇と申しき。欽明天皇の御女。御母稻目大臣の女蘇我小姉君姬なり。壬子の年十二月八日位に即き給ふ。御年三十八。世をしろしめす事三十六年。位に即き給ひて明くる年の四月に御門「我が身は女人なり。心にものをさとらず。世の政事は聖德太子にし給へ」と申し給ひしかば、世の人よろこびをなしてき。太子はこの時に、太子には立ち給ひて世の政事をし給ひしなり。そのさきはたゞ皇子と申しゝかども、今かたり申す事なればさきざきも太子とは申し侍りつるなり。〈以下十三行放ち給ひき迄流布本無〉御年廿二になむなり給ひし。今年四天王寺をば難波荒陵には移し給ひしなり。もとはたまつくりの岸にたて給へりき。三年と申しゝ春、沉はこの國に始めて浪につきて來れりしなり。土佐國の南の海に、夜ごとに大に光る物ありき。その聲いかづちの如くにして、卅日を經て、四月に淡路の島の南の岸によりきたれり。大さ人の抱くほどにて、長さ八尺餘ばかりなむ侍りし。その香しき事譬へむかたなくめでたし。これを御門に奉りき。島人何ともしらず、多く薪になむしける。これを太子見給ひて、沉水香と申すものなり。この木を栴檀香といふ。南天竺の南の海の岸におひたり。この木のひやゝかなるによりて、夏になりぬれば、もろもろの虵まとひつけり。その時に人かの所へ行きむかひて、その木に矢をいたてゝ、冬になりて虵の穴にこもりて後、射たてし矢をしるしにてこれをとるなり。その實は鷄舌香、その花は丁子、その油は薰陸、久しくなりたるを沉水香とい