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し又申すべきなり。世の中のみかど神の代七代をばさるものにて、神武天皇よりはじめ奉りて三十七代にあたり給ふ孝德天皇の御代よりこそはさまざまの大臣定まり給ふなれ。但しこの御時、大中臣の鎌子の連と申して內大臣になりはじめ給ふ。そのおとゞは常陸の國にて生れ給へりければ、三十九代にあたり給へる御門天智天皇と申す、その御門の御時にこそこの鎌足のおとゞの御姓、藤原と改まり給ひたれ。されば世の中の藤氏の初めは內大臣鎌足のおとゞをし奉れり、そのすゑずゑより多くの御門、后、大臣、公卿さまざまになりいで給へり。たゞしこの鎌足のおとゞをこの天智天皇いとかしこく時めかしおぼして、わが女御一人をこのおとゞに讓らしめ給ひつ。その女御、唯にもあらず孕み給へりければ御門の思さしめ給ひけるやう、この女御の孕める子、男ならば臣が子とせむ、女ならば朕が子とせむとおもほして、かのおとゞに仰せられけるやう、「男ならば大臣の子にせよ。女ならばわが子にせむ」と契らしめ給へりけるに、この御子男にて生れ給へりければ內大臣の御子とし給ふ。このおとゞはもとより男一人女一人をぞもち奉らせ給へりける。この御腹にさしつゞき女二人男二所生れ給ひぬ。その姬君は天智天皇の御皇子大友の皇子と申しゝが太政大臣の位にて、次にはやがて同じ年の內に御門となり給ひて天武天皇と申しける御門の御時の女御にて、二所ながらさし續きおはしけり。おとゞのもとの太郞君をば大中臣のおいみまろ〈つイ〉とて宰相までなり給へり。天智天皇の御子の孕まれ給へしは左大臣までなり給ひて藤原不比等のおとゞとておはしける。うせ給ひて後贈太政大臣になり給へり。鎌足のおとゞの三郞は宇