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「おい、諸君、これから浅草に行こうじゃないか」

「好いですねえ」

 床水と満谷は直ぐ調子を合せたが、余り気乗りがしないようだった。

 土井江南がやがて十二時になろうとする深夜に、何故突然浅草へ行こうなどと云い出したか、彼自身にも説明は出来なかった。彼は探偵小説家でありながら、夜の浅草などへは殆ど足を踏み入れた事がなかったのだった。最近に作家仲間の井戸川いどがわ蘭芳らんぽうが、深夜の浅草から素敵な題材を度々得ているので、彼も一度は探険してみたいと思っていたのだが、今酔った勢で飛出したのか、それとも、宵の中に床水から渡されたかなり這入っている筈の原稿料の袋が懐中にあったためか、とにかく、彼はこう云い出すと共にひどく乗気になったのだった。

「ねえ、行こうよ。何か面白い事があるかも知れないよ」

「土井さん、袋は大丈夫ですか」

 満谷がふと思い出したように云った。或は彼は土井の浅草熱を覚ますためにわざと云ったのかも知れなかった。土井は彼等に取っては先輩だし、それにしたたかに酔ってはいるし、夜更よふけに浅草にお伴をする事は、余り有難い事でなかったに違いない。

「だ、大丈夫だよ」

 土井は上衣のポケットを上から押えながら答えた。

 卓聞堂では原稿料を現金で渡す時には、丈夫な鳥の子の模造紙で造った長方形の袋に入れて、その上に原稿名と金額と受取人の氏名とが書いてあった。土井はいつも袋などはチラと見ただけで、破り棄てるのだったが、一度何かの拍子でつくづく眺めると、袋の上書には受領と云う欄があった。そこへ記名調印するようになっていた。これで見ると、袋には捺印して受取代りに先方へ返えママすものらしい。しかし、土井はいつもそんな請求を受けた事もなく、袋に印を捺して返した事はなかった。その事実に気がついた後にさえ、そんな事は一度も実行しなかった。

 宵に床水が袋を土井に渡す時に、真面目な顔をして云うのだった。

「近頃頻々とうちに盗難がありましてね、殊に袋に入れた原稿料がよく盗まれるのです。うちだけではない。寄稿家の手に渡ってから盗まれたのも大分あります。中には中味はとくに遣ってしまってあって、袋だけられたなんて滑稽なのもあります。とにかく、盛んに盗まれるのですよ。ですから、土井さん気をつけて下さいよ」

「そうですか」土井は例によって女性的な関西アクセントで「――ですよ。ですから――下さいよ」 と云う床水の好んで使う、型にはまった典型的の言葉を、心のうちで微笑して聞きながら、「気をつけましょう。られちゃ大変だ」

 とこう答えたのだったが、それを聞いていた満谷が今注意したのだった。

 が、土井には満谷の暗示も効力ききめがなかったらしく、一向浅草行を断念する気色はなかった。彼は急いで勘定をすませると、ヒョロヒョロと立上った。そうして無論ステッキは忘れて勢よくカフェ・コルネリアを飛出した。床水と土井のステッキを抱えた満谷が彼の後を追った。

 土井は危なかしい足取りで、銀座通りへ出て、疾走して来たタクシーを呼留めると、入口のここかしこに大きい身体をぶっつけながら、中に這入って、大声に呶鳴った。

「浅草!」

 床水と満谷はいずれも多少もつれた足取で、自動車の傍へ来ると満谷は素早くステッキを突き入れた。