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 内の会話はドンドン進行して行った。やがて、コツコツと、グラスの触れ合うやうな音がしたが、(無論これは博士がフィルムに吹き込んで置いたのである) 突然、北田の叫ぶ声がした。

 ――奥さん、あ、あなたは、わ、私に毒をませましたね。うむ、苦しい。うぬ、淫帰! き、貴様は俺を殺そうと云うのだな。うむ。苦しい、うむ。……


 物凄い唸り声が跡絶とだえると、忽ち部屋の中はし—んとした。高木夫婦は余りの惧ろしさに、ひしと抱き合ったまま、ブルブル顫えていた。博士は計画中の最弱点であった声色の難関を突破して、立聴いている二人が北田の声である事を少しも疑っていないのを見ると、思わずニヤリとした。(獄中記に依る) 残る問題は妻を幽閉した部屋の扉を開ける事だった。

 博士は仕切の扉を開けるボタンを押した後、血相を変えたように見せかけて、部屋の内に飛込んだ。高木夫婦もむなくその後に続いた。部屋の中では取乱した姿の玉代夫人が、床の上に斃れている北田の死骸を抱き上げて、何やら訳の分らぬ事を口走っていた。

 玉代夫人は直ちに警察に同行された。ようやく気を落着けた彼女は極力否定して、夫の所為だと云い張ったが、無論取り上げられなかった。誰一人博士を疑う者はなかった。

 犯行の翌日、博士は只一人書斎で北叟ほくそみながら、証拠になるべき発声フィルムを焼き棄てていた。彼は非常に得意だった。と同時に余りに事が易々と行われて、爪の垢ほどの疑いをも彼に懸けるものがないので、反って張合ないほどだった。彼は世間の人間がことごとく馬鹿に見えた。自分がこうこう云う巧妙な手段でやった事だぞと云う事を、大きな声で云って見たい気持だった。

 所へ、一人の刑事が訪ねて来た。無論彼は博士を疑って来たのではなかった。玉代が却々なかなか頑強で容易に自白しないので、当時の状況をも一度委しく調べに来たのだった。博士は彼を例の革張の椅子に腰を掛けさせ、ともすれば浮わついて来る調子を努めて押えて、妻と北田の関係や昨日の出来事を、出来るだけ暗い顔をしながら、刑事に話して聞かせた。刑事は謹聴した。

「そう云う訳で、あれはとうとう北田を殺す気になったのでしようが――」

 井川はよどみなく述べ立てたが、この時に今まで謹聴していた刑事が、突然眼を丸くして、口を大きく開き、まるで幽霊でも見た人のように、博士の肩越しに、じっと何物かを見据えた。博上は驚いて振り向いたが、見ると隣室との境の扉がソロリソロリと生物のように、独りで開き始めていた!

 博士はハッと顔色を変えた。そうして矢庭やにわに開きかけている扉に飛びついて、夢中になって引き戻そうとした。が、それは無駄な努力だと分ると、彼は泣笑いのような渋面を作りながら叫んだ。

「畜生!ボタンを押した奴は誰だッ!」

 後で調べた所によると、室の外の壁に容易に分らないような場所に装置してあった隠し釦に触れたのは、玉代夫人の愛猫らしいと云う事だった。愛猫は別に何の考えもなく、壁に爪を立てたのだろうが、それが偶然釦に触れたのだった。かくして理学博士井川友一の巧妙極まる奸計を看破したのは一匹の猫であった。

(「文学時代」昭和四年七月号)